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<<二十億光年の孤独>>


 その人とはじめて口をきいたのはいつだったのか、今になってはもう判りません。
 このあいだまで、わたしが玄関前で打ち水をし、その人にうっかりかけてしまい謝ったときがはじめてだったように思っていたのですが、そう言えばもっと前から挨拶だけはしていたような気がします。
 顔見知り程度ではあったかもしれません。
 たぶん、意識しはじめたのがそのときからと言うことで、でもいつから知っていたかだなんてどうでもいいような気がします。
 人がいるとは知らないで、うっかり柄杓に力をこめ水をまいてしまった私は、水がひたひたと染み入ってからようやくそこに誰かがいることに気が付いたのです。しまった、と思いました。なぜならその人が着ていたものは、近目に見るととても高価なものであることが分かったからです。
 このあたりでは見かけることがない、うつくしい刺繍のはいった上着を手に、ふと足をとめたというような風情のその人は、青ざめた私を目に入れてちいさく笑いました。困ったように笑う人だなと思いました。そこに水をかけられ汚されたという敵意はどこにも存在しなくて、だからわたしはすぐに素直にごめんなさいと謝ったのです。
 ああ、うん、とその人は頷きました。
 自分が水に濡れたことに、わたしが言うまで気づいていなかったような頷き方でした。だったらその人はわたしを見たときにどうして笑ったりなんかしたのでしょうか。もしかすると癖なのかもしれない。あらためて自分のからだを見おろし、水にぬれちりちりと縮けた襟飾りを見、それからその人は別に気にすることはないといいました。すぐに乾くからと。
 ごめんなさいと謝ったわたしは、結局謝る以外のことができませんでした。高価なそれを弁償しますとはとても言えなかったのです。
「気にすることはないよ」
 うん、とまた頷いてその人は言いました。
「なくなって困るものでもないしね」
 そういうものですかと答えたわたしは、けれど、許してもらえてよかったという安堵でいっぱいになって、そのときはまだその人が言った言葉の意味を、本当に理解できてはいなかったのです。


 そのひとが一体いつから向かいに住んでいたのか、わたしは知らないことに気が付きました。
 数年前までは、別の人間がその家には住んでいた。別の人間が出払うまえに、わたしのうちへ挨拶をしに来たことを覚えています。都をはなれて遠くの農村へ引っ越すんだ、だとかわたしの父親や母親と話をしていました。
 それからしばらくのあいだ、向かいの家はがらんとしたまま誰も住んでいる気配がなくて、だからわたしはもうずっと向かいの家は空き家だと思い込んでいたのです。
 その人と言葉を交わした晩、けれどよくよく考えてみれば、もう半年以上挨拶だけは交わしていたような気もしました。その人が仕事に出かけるであろう恰好をして戸口に立ち、鍵を閉めている姿をわたしは見ていたかもしれません。だとすると随分前に引っ越してきたということになります。でもそのわりには、道を挟んだ向かいの家には表札ひとつ出ていないのでした。
 不思議な人だと思いました。
 もしかするとひと目を忍ぶ、口には出せない身分の人なのかもしれないと思いました。なにか、密談のために向かいの家を借りて時々やって来るのかもしれません。どうしたって明らかにわたしと着ている服が違っていました。違う、と判ったのは、わたしがそう言う、わたしや父親や母親がふだん着ている服と違う服を着ている人たちを目にする機会が多かったからです。
 都の中心部に近いお屋敷のひとつに、わたしは通っていました。
 知り合いの口利きではじめたお勤めでした。
 お給金が良いということではじめたお勤めでしたが、そのお屋敷にはわたしたちなどとは身分のちがう人たちが住んでいました。雲の上を歩いているようにまるで現実感のないふわふわした人種と接し、働かなくても食べてゆける身分と言うものがあるのだと知りました。
 お屋敷はとても広くて、部屋もたくさんあって、そのうちのほとんどは普段使わないお部屋なのです。お屋敷の旦那さまにとってのお客さまが来たときに泊まる部屋だとか、お茶をご馳走するための部屋だとか、服を着替えるためだけの部屋、と言うものもありました。
 その部屋を掃除するのが、わたしや他の人間の役目でした。
 部屋のなかには様々なものがありました。凝った意匠の椅子や机や、壁掛けや扉の取っ手や、窓際の桟ひとつにさえ工夫されて模様が彫り込まれているのでした。
 わたしは、身分の高い人たちと言うものはそうしてきらびやかに飾られた家に住んでいるものなのだと思っていました。いまでも思っています。お屋敷の旦那さま一家も、旦那さまのご友人もお客さまも、その認識に当て嵌まる人たちでした。
 だからわたしは、あんな風に丁寧に織り込まれた服を着た人が、わたしの家や向かいの家に住むはずがないと思っていました。どう見ても不釣り合いです。
 わたしの父親はエスタッドという都で工房をひらいており、それなりの腕ではあったはずですが、家族七人を養うにはやっとの収入でした。周りの家も大差なかったと思います。
 だからわたしは十五になってすぐ働きに出たし、そうして家計を助けることはどの家でもやっていたと思います。
 そうでなければどこかへ嫁ぎ、口減らしをするのが最善の策でした。
 実際、わたしにもいくつか縁談が持ち込まれていました。父親や母親はわりと乗り気で、お前もそろそろいい年だからと、最近は顔を見るたびにそういう言葉を口にするようになりました。
 その両親をうまいぐあいにはぐらかして、わたしはお屋敷へ通っていました。
 結婚が嫌だった訳でも、持ち込まれた縁談が気に入らなかった訳でもありません。ただ、わたしにはお勤めをやめられない訳がありました。
 旦那さまと、男女の関係を持ったのです。
 何度か部屋へ連れ込まれ、口では言えないとてもたくさんのことをしたのです。
 辛い恋でした。
 正直に告白すると、わたしは旦那さまがはじめての男だったわけではありません。
 お屋敷勤めをしている数年のうちに、お屋敷に出入りする下人や旦那さまのご友人と何度かそうした関係になったことがありました。だから、旦那さまがはじめての異性だったから、わたしは執着した訳ではないのです。
 床の中でわたしの髪を撫ぜ、お前は可愛いといってくれた旦那さま、誰よりもお前がいとおしいといってくれた旦那さま、すべてがその場限りの嘘だったとしても、わたしは一向に構わないとさえ思っていました。
 構わないと自分は思うにちがいないと、思っていました。
 だのに、ある日いきなりわたしは部屋の清掃係を解雇され、お屋敷に住む人たちの一番目の届かない、調理場で食事を作る係になったのです。
 なにか不都合があってそうなったわけではないとわたしには判っていました。
 ただ旦那さまがわたしに飽き次の人間に食指を伸ばすことにした、それだけのことだったのです。
 ちょうど熱を上げていたご婦人が、ようやく靡いてくれたのかもしれません。わたしは旦那さまが次の遊びへ移るまでの、その場しのぎのつなぎに使われたに過ぎませんでした。
 それは別に特別なことではなくて、わたしの周りでもちょくちょく聞かれる男女のあいだの話でした。一緒に働いていた人間の中にも、旦那さまと関係を持った娘がいました。だから、旦那さまが本気でわたしを愛するだなんて、端からわたしは信じてはいなかったのです。
 けれどどういう訳か、調理場にまわされたわたしの胸にふつふつとわいてきたのは、昏く醜い執着でした。誰に、だとか、なにに、だとか特定のものに対しての執着ではないのです。ただ服についた塵をさっと払った、その程度と同じ扱いを受けたことが悔しかったのでしょうか。自分でもよく判りません。そうした扱いを受けることにとっくに慣れているはずでした。
 ですからわたしは傷を広げるために毎朝お屋敷へ向かい、一日の仕事をこなしながら傷口へ塩を塗りこみ、自分でもよく判らない感情に翻弄されて家に帰って来ては泣いていたのです。
 泣いている姿を家族に見せるわけにはいきませんでした。
 仕事が辛いのだろうと誤解されるに違いないのです。誤解されてしまったら、持ち込まれた縁談をさっさとまとめてしまうに決まっています。それではわたしはお屋敷へ通えなくなってしまいます。
 調理場の裏で、野菜の下ごしらえをする仕事は水は冷たくはあったけれど決してきつい仕事ではなかったし、お給金もよかった。仕事仲間は親切で、傷つく要素はどこにもないというのに、毎日血を流すような思いで芋を洗い、葱の皮をむきました。そうして帰って噎び泣きました。
 旦那さまをわたしは好きだったのでしょうか。よく判らないのです。
 意地だったのだと思います。
 なににたいしての意地だったのかまで、わたしには理解することができなかったけれど。
 泣く姿を家族に見せるわけにいかないわたしは、夜半を過ぎるとこっそり家を出て、人通りのない家の前で壁にもたれ、声を殺して泣きました。
 やめてしまえば良かったのです。
 お給金が良いとはいえ、醜い執着をかかえてまで続ける仕事ではないことはわかっていました。やめてしまえと何度も自分に言い聞かせた。でも、やめることが出来なくて、苦しくて、つらくて、形の見えない自分自身の執着に、押しつぶされそうになっていました。


 その晩も、いつものように家族が寝静まったことを確認してから、わたしは足音を殺して家を出たのです。秋口もずいぶん深くなっていて、切るような風でした。身を竦め、すこしでも風を避けられる場所を探しながら、でもそんな場所もないことをわたしは知っていました。家の前の細い路地は吹きさらしだったのです。
 壁にもたれかかり、さてようやく泣けるとわたしが息を吸ったところを読みすかしたかのように、唐突に、向かいの戸が開きました。
 その人がわたしを目的にしていたことはすぐにわかりました。だってその人は真っ直ぐにわたしを見ていたからです。外に出かけて偶然、わたしを見止めた訳でも物音に不審をいだいた訳でもなかった。そうして泣き出すタイミングをのがして、ひどくまぬけな顔をしていたに違いないわたしへ、困ったように笑いました。
「……なにか用」
 わたしは言いました。
「こんな夜更けになにか用」
 その問いはまぬけな表情以上にまぬけだったと思います。でもわたしは他にどう言葉をかけたらいいかわからなかった。
 困ったように笑ったその人は、そのまますこし思案するように人差し指を唇に当てていましたが、それから開いていた戸口をさらに開いて、中に入りなさいといいました。
「どうして」
「――風邪をひくんじゃあないかと思うんだ」
「……ほうっておいて」
「毎晩泣いているね」
 ほうっておいてと涙声で吐き棄てたわたしの言葉を聞こえなかったように、また唐突にその人は言いました。前触れもなくいきなり核心を突かれ、わたしはどう答えていいかわからなくなりました。
「うるさいのなら、余所に行くわよ」
「――いや」
 そうじゃなくて、その人は言ってまたすこし笑いました。
 ひどくさびしい、ちっとも楽しくなさそうな笑顔でした。笑うしかないから笑っているような、くたびれ色褪せたものだった。でもわたしはそれを見て、招かれた家へ入る気になりました。仕方なく笑う様子がわたしの中のどこかの部分に触れたからです。
 家の中に入り、わたしは呆気にとられました。泣きたい気持ちはどこかへいってしまいました。
 家の中には、何もありませんでした。
 比喩ではなくて本当に何もなかったのです。
 今その人がこの家から出てきたことが信じられないくらい、がらんとして、隅の隅まで寒々しくて、わたしは思わずその人がもうずいぶん前からいるのも忘れて、今しがた引っ越してきたのかと思いました。物がないといわれる他の誰の家だって、この家よりは物があると断言できます。敷物の一枚も、椅子一脚も、それどころか薪の一本もないのです。
 家の中と外の違いは、風を防ぐ壁があるかないか、それだけでした。
 いったいどう言うことなのかとわたしがふり返ると、その人は宙を見つめてぼんやりとしていました。とても遠い目でした。いったいどう言う素性の人間なのか、そこではじめてわたしは恐ろしくなりました。
 もしかすると、とんでもなく物騒なところへ踏み込んだのではないでしょうか。この辺りで聞いたことはないけれど、若い娘を狙って、言葉巧みに人気のない場所へ連れ込み、切り刻む嗜好の持ち主もいるのだと聞きます。目の前のこの人もそうかもしれない。この場所にいること自体が、あまりにも場違いです。
 そう考えてみると、身ぎれいな恰好をした人が、こんな区画にいることも納得できます。ここでわたしは殺されてしまうのかもしれません。場にそぐわないその人と符丁がはたはたと合って、わたしは腰が抜け、床にへたり込みました。
 へたりこんだ動きにその人は気が付いて、不意にこちらをじっと見ました。
 さびしい目だと思いました。
 明かりもない、月明かりだけに照らされたその人は昏くさびしい目をしていました。さっき困ったように微笑んだ、表情の滓のようなものがまだ唇の端に残っていました。
「泣きたかったんでしょう」
 さあ泣きなさいとその人は言いました。言われて、涙は引っ込んだはずなのに、なぜかじわりと目頭が熱くなっていることにわたしは気が付きました。
 それからしばらくの間、ぐずぐずとわたしは泣きました。考えてみればおかしな光景だったと思います。名前も知らないような相手の家に入って、泣きたいからわたしは泣いているのです。そうして慰めの言葉ひとつかけるでもなく、その人は壁にもたれてじっと宙を見つめていました。
 そのうちわたしは泣きながら、刺殺魔でもないのだとしたら、この人はどうしてわたしを招き入れたのだろうと思いました。
 別のことを考えていると涙は続かないのです。
 招き入れた相手のことが気になって、わたしはいつしか泣くのをやめて膝を抱えてじっとしていました。
 自分から招き入れた理由を尋ねることはすこし怖かったのです。
 泣きやんだわたしへようやくその人は視線を移して、もういいのかいと言いました。
「あの、」
「外は寒くて風邪をひくから、これからは毎晩ここで泣くといい」
「あの、」
「――鍵は開いているから」
 施錠しないなんて無用心もいいところだと思いました。わたしが悪心を起こしたらどうするつもりだったのでしょうか。でも、すぐにそんなことは必要ないのだと気が付きました。何しろこの家には盗るものが何もなかったからです。
 そうして、それ以上その人はなにも言いませんでした。
 どうも妙な気持ちです。でもそれでいいような気もしました。わたしはその人に礼を言い、おやすみなさいと挨拶し、寒々とした家をあとにして自分の寝床にまるくなって眠りました。
 その人の家の中を見たあとだったので、ずいぶん自分の家には物があると思いました。


 次の夜から、家族が寝静まるとわたしは家を抜け出し、向かいの家に入っては気が済むまでべしょべしょと泣くという、なんともおかしな毎日を過ごすことになりました。泣き場所を探していたわたしには好都合です。
 最初の数日はよく知らないひとの家へ上がりこむことにすこしだけ気が引けましたが、あまりにも殺風景なその人の家は、居心地が悪すぎるために逆に居心地がよく、そのうちわたしは遠慮せずにひとり満足するまで泣くことができるようになりました。
 それにしてもおかしな人です。わたしがどうして毎晩泣いているのか、訳を問われたこともありません。あいかわらず慰めの言葉もありません。ただぼんやり、わたしが泣いていようがいまいが、壁のほうを見つめて放心している態で、いったい招き入れたその人がどう言った素性の人間なのかわたしは興味が湧きました。
 でももしかすると、そういうことを聞かれることが嫌で、ここにいるのかもしれない。わたしが聞いたら、いなくなってしまうかもしれません。そう思うと、この妙な雰囲気の場所を失くすことが惜しいような気持になって、わたしはその人が、どこで、どうしたことをしている人間なのか聞くことができなかったのです。


 ある晩でした。
 いつものように泣き疲れたわたしが壁にもたれていると、不意に戸口の辺りが騒がしくなって、乱暴に扉がひらき、どかどかと数人の人間が部屋に侵入してきました。そのころにはもうすっかり、わたしはその人のひと間しかない家が気に入って、半分、自分の居場所であるかのように錯覚していたので、知らない人間がなだれ込んだことに驚いたし、不愉快に思いました。
 なんて礼儀を知らない人間たちだろう。そう思いました。でも、口に出すのははばかられました。侵入してきた人間は威圧する側の雰囲気を持っていて、わたしが文句の一つも言えそうな身分ではないことは明らかでした。
 えらいひとなんだ、直感的にわたしは思いました。この侵入者はえらい人たちです。
 窓際に立って、何も見るところのない外をながめていたその人が、むっとしたように振り返るのが判りました。その人が困ったように笑う以外の表情を浮かべるのを、わたしははじめて見た。
「なんですか」
 その人は言いました。
「セヴィニア公。こんな夜更けに、どうしました」
「――ノイエ公」
 低い声でえらい人が応えました。わたしは片側のえらい人が言った言葉で、この家の主人の名前をそこでようやく知りました。ノイエ、とわたしは心の中でくりかえしました。どこかで聞いたような気もします。でも特に珍しい名前でもないので、別の誰かで聞き知っていただけかもしれません。
「礼を失したは後程謝罪する。今は――そう、東方の戦役に於いて」
「……待ってください」
 ちら、とその人はわたしのほうを見て、それからセヴィニア公、と呼ばれたえらい人を制しました。
「道中に伺います。向かいましょう」
「そうしてくれると助かる。――まったく、陛下もとんだ時にご不在だったものだ」
「公」
 もう一度、その人はセヴィニア公を制しました。
 わたしに聞かせたくない話だったのでしょうか。でも聞いたところで理解できるものではないような気がします。もしかすると、どうしようもなく静かだったここの雰囲気を壊したくなかっただけかもしれません。
 ああ、と頷いてセヴィニア公と呼ばれたえらい人はぐるりと向きを変え、それから家の内部へ目を走らせて一瞬眉をひそめました。舌打ちも聞こえたような気もします。公はここに住んでいるのか、とたずねた声がすでに疑問を失っていました。
 それにはいともいいえとも答えず、その人はわたしをもう一度見て、ごめんね、といきなり謝りました。意味が判りません。
「あなたはゆっくりしていっていいから」
「ごめんねって、どういう」
「――怖がらせるつもりは、なかったんだ」
「……怖がってなんか」
 ない、とわたしが言い切るよりも早く、背をうながされ、その人は家を出てゆきました。どかどかとぶしつけにやってきた訪問者たちは、そうしてあらわれたときと同様にあっという間に姿を消して、残されたのはわたしだけになりました。なんだか化かされた気分です。
 置いてゆかれたわたしにわかったことはと言えば、この家の主は最初に思った通り、かなりの身分の人間であるらしいということと、その人がノイエと言う名前であるということだけでした。
 わたし一人が残った部屋はやけにがらんとしていて、なんだか怖いくらいです。その家に生きているものはわたし以外にいなかった。慌ててわたしは自分の家へ戻りました。
 そうしてそれから、わたしがある日入り込むまで、あの孤独にノイエはひとりきりでいたのだと、わたしは思いました。ひとりで、あのなにもない家に。
 それは言葉では言い表せないほどとてつもなく儚く、絶望のようにわたしには思えたのです。


 ゆっくりしていってもいいと言われていても、数日はさすがに行きづらくて、わたしはお屋敷に通い、傷つきながら、泣く場所も持てずに茫洋とした日を過ごしました。やっぱりやめてしまおうか。心のどこかでわたしがわたしに囁きました。でも、それはできない相談でした。
 一週間ほどたってから、ようやくわたしはまた向かいの家へ入り込む勇気がもてて、そうして真夜中を過ぎたころにそっと扉を開いたのです。
 何もない家の中は真っ暗で、かりにこの家の主が帰っていてもいなくても、同じようにがらんとしていて寒々しいはずです。でもわたしは、家の中にその人がいることに気が付きました。闇の一角にたしかに気配があった。
 それは冷え切った一個の人の肉の塊でした。
 どうしようか一瞬迷ったのですが、結局わたしはその人の傍らにしゃがみ込みました。しゃがみ込んだわたしの耳に、吐きだしたその人の呼気が聞こえました。安堵だったのか嘆息だったのか判りません。でもどちらでもいいと思いました。本当にわたしが邪魔なのだとしたら、この人はわたしをこの家から閉め出すことだってできるはずだからです。扉が開いているのは、わたしが家にいてもいいという合図のはずでした。
「もう来ないかと思った」
 おずおずとその人が囁きました。空気を震わすことすら恐れているような声でした。
「うん」
「別の場所を見つけたのかなとも思っていた」
「そんな場所はないわ」
 泣きたいような毎日の執着は相変わらずでした。でもわたしは、今日は泣かなくてもよいような気がしていました。
 今日はあなたといる、というとちいさく息を吸いこんだその人がわたしのほうを見たのが判りました。驚いたのだと思います。
「僕は――ああ、うん、もしかすると、あなたにそう言う期待をして招き入れたと思われていたのかな」
「そうじゃない」
 そうじゃないとわたしは繰りかえしました。殺されるかもしれないと一番最初の晩にちらっと思ったけれど、それ以外にその人に対して不審を抱いたことはありません。だってあまりにもその人はさびしそうで、だのにひとりで完結しているのでした。他の誰も求めている風ではなかった。
「わたしがあなたといたいからいるの」
「――あまり長くいると風邪をひくよ……」
「じゃああなたが温めて」
 言うともう一度驚いてその人がわたしを見たのが判りました。自分でもそんな言葉が出てくるとは思わなかった。なぜならわたしは特別その人に対して男女の感情をおぼえたことはなかったからです。
 ゆっくり伸ばしたその人の手が、わたしを引きよせました。そうして肩を抱いたまま、しばらくその人は黙っていました。
「どういうことかって考えてる?」
「いや」
「わたしが誰にでもこういうことをする女だと思ってる?」
「いや」
 そうじゃなくて、とその人は煩わしそうに言います。多分言葉をうまくつかみ損ねていたのだと思います。
「あなたを抱いたところで、涙は止まらないんだってことを判っていて、あなたはそう言うことを僕に言うのかい」
「やってみないと判らないじゃない」
「……判るよ」
 ぼそ、と低い声でその人は言いました。知っているような口ぶりでした。だとするとノイエは傷口をうめるために、誰かを抱いたことがあるというのでしょうか。
「お互い、駄目なんだ」
 また唐突にノイエは言いました。なにが駄目だというのかわたしには判りません。
「欲しくて、どうしても欲しくて、欲しいものしか見えていなくて、そうして手に入らないからこうやって膝をかかえて駄々をこねているんだ。あなたが泣きやむために必要なものはあなた自身が決めることで、それは僕じゃない」
「この場所も、もしかしてそうなの」
 ふと思いついてわたしは言いました。軽い思いつきだったのに図星だったようです。そうだよ、とその人はまた昏い声になりました。
「願でもかけたつもりなの」
「そんなこと考えたこともないよ」
「嘘」
 嘘じゃない、とその人は言いました。馬鹿馬鹿しい。わたしは急に思いました。願をかけて叶う願いなら、もうとっくに叶っていたっていいはずです。こんな何もない家にひとり、何をするわけでもなく立ち尽くすだけのどこに希いなんてものがあるというのでしょう。
「なくなって困るものは僕にはたった一つしかない」
 だからそれ以外のものはなにも欲しくない。その人は言います。そう言えば最初に水をかけたときにも、同じようなことを言っていたことを思い出しました。なくなって困るものではないから。そんな風にいっていたはずです。
でもそれに関していえば私だって同じことです。苛々としながらわたしは聞いていました。
「手に入ると思っているの?」
 答えが欲しくてわたしはたずねます。この人が欲しいものは人間に違いないと聞く前から判っていました。だって他のものだったらどこかしら似ているものが必ずあるはずです。なければ作ればいい。でも人間相手ではそれはできないと思いました。
「入らないだろう――ね」
 しばらく黙ったあとにその人はやっと答えました。そうしてあなたが言った通りかもしれないと、先ほどよりは少しやさしい声で言いました。
「でもどこかで期待していたのかもしれないな。……こうして、欲しいもの以外のものは何も持たずに、身軽でさえいれば、もしかしたらいつかこの手に落ちてくるかもしれないと――そう」
 身軽にもほどがありすぎると思います。この家には茶碗ひとつ置かれていないのです。そもそも、お湯を沸かす薬缶も薪もないのです。この人はこの家で、お茶を飲むことも眠ることもしない。
 それは家と呼べるのでしょうか。
 この間やってきたセヴィニアと呼ばれたえらい人が、眉をひそめた気持ちがわたしには判る気がしました。
「――ものごころついたときから何ひとつ自由になるものはなかった。欲しいものが手に入らないだなんてもうずっと前に思い知っていたはずだったのにね――」
 だけど惹かれたんだよと、その人は憧れを声に滲ませて言いました。宙を見る時に、いつだってその人の目に、憧れが滲んでいることにわたしはいつしか気づいていました。この人はここではないどこかを見ている。
 手に入らないことは判っていたけれど、手を伸ばさずにはいられなかったのでしょう。
 そうして手を伸ばして、伸ばした指先がかく虚空に愕然とするのです。
 簡単に諦められたらどんなに楽だったかわかりません。わたしはその感覚を知っていました。諦められぬからこその執着です。
「いっそ、相手が死んでしまえばいいのにと思うこともあるよ」
 不意にその人はぎょっとするような言葉を口にしました。死ぬだとか不穏です。でもこうして肩を抱かれ、頭の上で声が聞こえていると不思議と不穏な言葉に聞こえないのです。なにより思っていても、この人は行動に移すことはないような気がしました。
 移してしまえれば楽だったのだと思います。
「死んでしまえば諦めもつく。だってどうやったってもう手に入らないでしょう。生きていないもの。生きているから、限りなく零に近い確率であったってもしかしたら、手に入るかもしれないから、いつまでも期待しているんだ」
 そうしてもう何年もいるのだと言います。ここに来る前も、どこかで似たような居場所を作って膝を抱えていたのでしょうか。
 ノイエがわたしを家に招き入れた理由が、ようやく判った気がしました。それは、外が寒かったからでも、わたしが風邪をひくからでもなくて、ただ自分と同じような孤独を抱えた人間を、見捨てることができなかったのだと思います。
 同類がいるのだと安心したかったのです。
 そうして、同類でありながら、わたしよりもずっと深い孤独を抱えているその人を、わたしはかなしいと思いました。わたしがお屋敷へ通っているのは、もうただの意地でしかないけれど、ノイエはまだ熱情を捨てきれていないのです。何もいらないと嘯きながら、どうしたって手に入らないらしい一つのものを渇望している。
「……もし手に入ったら、嬉しいね」
 そんなことは決してないのだろうなと思いながら、わたしはその人に言っていました。慰めたつもりはありません。ただ単純に、それほどまで欲しいものがもし手に入ったら、と思ったのです。でも自分ならおそろしくなって、きっと気が狂う。手に入らないものが手に入ってしまって、そうしたら失うこわさを、ずっと抱えて生きていかなければならないのです。相手が生きている限り、手に入る可能性は限りなく零に近くても、零じゃない。だったら離れてゆく可能性だって零ではないはずです。
 うん、とその人はちいさく頷いて、ぎゅっとわたしの肩口をにぎりました。つかまれたところからぬくもりは伝わってきたけれど、その人にはわたしのことをそれ以上、どうこうするつもりもないようでした。
 わたしはその人の鎖骨あたりに頭を寄せて、目を閉じました。
 孤独がひしひしとうつるような気がしました。


 あくる日、わたしがお屋敷へ勤めに出かけるいつもの時間に家を出ると、向かいの家の前に訪問者が立っていました。色の浅黒い男のひとでした。
 呼び鈴を鳴らそうと何度か紐を引っ張り、そうして紐が中途で切れていることにようやく気が付いて、男のひとは舌打ちしながら少し乱暴に戸をたたきました。あんなことをしなくたって鍵は開いているのです。言ってあげた方がいいのかもしれない。迷っているうちに男のひとは取っ手に手をかけいきおいよく開き、それから中に向かって何かを喚きました。
 やるせない、怒りの声でした。
 お屋敷に行くはずだったわたしも、思わず駆け寄り中を覗いてしまうほど、男のひとの威嚇の声は鋭かったのです。
 のぞくと部屋の真ん中でなんだかくたくたになって、その人が仰向けに倒れていました。なんだか普通じゃないというのが傍から見ても判りました。怖くなってわたしは戸口をはなれ、お屋敷へ急ぎました。
 誰かに言うべきかもしれないと思ったけれど、男のひとがいます。余計なことはしない方がいいような気がしました。
 どうして死にかけていたんだろうと歩きながらわたしは思いました。そうしてどうして死にかけているとわたしは判ったんだろう。でもあの人はいつ死んでもおかしくないような虚ろな雰囲気でした。周りに血は流れていた様子はなかったので、きっとお酒でも呷ったのだと思います。わたしが自分の家に戻ったあと、お酒を呷ったその人の姿がわたしには見えるような気がしました。
 火の気のない場所で深酒をして、昏睡してしまえば、どうなることかその人にはだいたいわかっていたはずです。
 でも、なぜその人がお酒を呷ったのか、理由が判るような気がしました。
 ノイエはひとりでした。ずっとひとりぼっちだった。そのことに気付いているふりをしながら、でも本当のところ絶対的に孤独だということが判っていなかったのです。
 だから何もない家のなかでぽつんとひとり床にへたり込んでいても、あの人は平気だったのです。
 そこへ転がり込んだのがわたしでした。ひとりだった空間にわたしが入り込んで、それから毎晩泣いた後に出てゆく。
 ノイエがセヴィニア公とやらと一緒に出て行った夜をわたしは思いだしていました。何もない家の中は変わらないのに、喪失感だけが充満してゆくようなのです。あの時それが怖くて、わたしはいそいで自分の家に戻りました。わたしには、戻る家があったからです。戻る家には父親も母親も、兄弟たちも寝ていました。でも、あの人には戻る家なんてなかった。
 戻るはずの家はここで、そうしてあの人はひとりぼっちでした。
 あの人は、昨晩、自分がひとりだということに、いきなり気付いたのだと思います。そうしてその孤独に耐えることが出来なくなった。なんでもいい、なにか慰めになるようなものが家の中にあったら、あるいは別だったのかもしれません。でもあの家には何もありませんでした。
 怒り狂った男のひとの声をわたしは思いだし、その日一日仕事をして家に戻ると、不貞腐れた朝の男のひとが、向かいの家に折りよく入りかけていたところでした。
「あの」
 とわたしは言いました。この家の人がどうなってしまったのか一日気が気でなかった。怖くて逃げてしまったけれど、結果を知らないのは余計に恐ろしいことでした。
 ああ?と語尾を上げながら男のひとは振り向きました。不機嫌そうな声だったけれど、それはわたしに向けられたものではなかったので、わたしはそうおどおどせずに話をすることができたと思います。
「その、この家のひとは」
「……アンタ、ノイエの知り合いか何か?」
「その、向かいの家に住んでいるので」
「ああ……。朝ちょいと騒ぎ起こしちまったものな。悪かった。ノイエの莫迦なら中で寝てるよ」
 がりがりと頭を掻きながら男のひとは言いました。
 寝ているということは生きているということでしょう。状態がさほど悪くなかったのか、呼んだお医者の腕が良かったのか、どちらにせよその人は助かったということです。
 会っていくか、と聞かれわたしは戸惑いました。もう三月ほど毎晩この家に入り込んでいたけれど、知り合いと言うほどに親しい間柄ではないと思えたからです。なにしろ名前すらつい最近まで知らなかったほどでした。ノイエはいまだにわたしの名前を知らないでしょう。
 戸惑ったわたしを遠慮しているとうけとったのか、男のひとはまぁ顔見せていってくれよと言って、家の中に押し込みました。どういう顔をして入ったらよいかわからなかったのに、無理矢理押し込まれた形になって、おずおずとわたしは目を上げました。
「……やぁ」
 薄く目をひらいたその人は、寝台に横たわりこちらを眺めていました。寝台と言うものがいつの間にかこの家に運びこまれていたのです。あの男のひとが用意したに違いないと思いました。そうして暖炉には薪が入り、ぱちぱちと火花を散らしかけられた薬缶からは蒸気が漏れていました。
 家が、家らしくなったことにすっかり驚いて、わたしはあたりを見回しました。
「今夜は入れてあげられないかもしれないな」
 不意にその人が口を開いてそんなことを言いました。ダインが部屋に陣取るだろうから。そう言うのです。ダインと言うのはきっとあの男のひとのことだと思いました。
「うん、でももういい」
 わたしは枕元に近付き、やるせなさそうにこちらを見上げるその人の目をじっと見つめました。そういえば明るい場所でこうして見つめ合うというのも、はじめてのことでした。
「今日お屋敷をやめてきたから」
「……そう」
 神妙な顔をしてその人は口を閉じました。お屋敷をやめてきた、という言葉をじっくり吟味しているようにも見えました。
 どうしてわたしが泣いているのか、そう言えば結局一度もわたしはこの人に説明したことがないような気がします。でも説明しなくてもノイエは判っていたのかもしれません。なぜならわたしとこのひとは同類だから。
「……今まで」
 そこまで口にしてから、わたしは今までありがとうと言うべきか、ごめんなさいと言うべきか迷って口ごもり、そのどちらかを選び取る前に、ばんと開け放たれた扉の音に驚いて振り返りました。
 ふり返った戸口には、息を切らし、肩をいからせて、小柄な男の子が寝台の上をノイエを睨みつけているのです。ぴんぴんとあちこちにはねた頭が、まるでたんぽぽの花のようだとふと思いました。
 男の子、そう思ってからわたしは、男の子の恰好をしているけれど実はそれが女であることに気が付きました。年はわたしと同じくらいだと思います。どうして気が付いたのか、説明できません。女の直感、だとか陳腐なものではないことは確かです。
「この――……この、おおばか野郎」
 ぎりぎりと噛みしめた歯のあいだから言葉を搾りだして、それから彼女は大またに近付き、握った拳で一発、ノイエの頬を殴りつけました。がつん、だとか鈍い音がしたので、容赦なく殴ったのでしょう。結構痛かったと思います。
 殴られたその人は顔をしかめ、でもとても嬉しそうに微笑んで、ごめんね、と言いました。かすれた声だった。もともと、すこしかすれた声を出す人だったけれど、いまの一言はほとんど囁きのようなものでした。
 一発殴って気が収まったのか、飛び込んできた少年のような彼女は、今度はその人の頬へ手を伸ばしました。伸ばされたてのひらに顔をすり寄せて、その人はそっと目を閉じる。
 見てはいけない気がしました。
 彼女が、どうしたって手の中に落ちてこないたったひとつ欲しいものだ。わたしは確信していました。一人ぼっちだと気付いたその人が、急に死にたくなるくらい、どうしても欲しくて、でも手に入らないもの。
 こんな形で目の前にぶらさげられたって、結局手に入らないなら同じことです。でもそんなことは関係ないくらい、その人は落ち着いていて、穏やかで、そうして幸せそうでした。
 見ていてつらくなるものなのに本人が幸せそうな場合、それは幸せと呼べるのでしょうか。
 背をむけた私はそのままその人の家を出ました。家の外ではダインと言う人が壁にもたれて空を見上げていて、つられるようにわたしも空をながめました。
 星が光っています。星の放つ光は冬空に寒く映えて、でもどこか孤独そうでした。寄り添いたいのにお互いに寄り添える距離ではないのです。
 あの人みたいなものかもしれない。なんとはなしにわたしは思っていました。
 一生、絶対的な孤独を抱えてあの人は生きてゆくのでしょうか。わたしは思いました。
 幸せと勘違いしていたものが幸せではないと気が付いたときに、あの人はいったいなにを選んでしまうのでしょうか。
 泣きやむために必要なものは、それぞれが見つけてゆくしかないのです。
 あの人は必要なものを見つけることができるのでしょうか。でもそれはわたしではないことだけは確かでした。



(20100810)
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最終更新:2012年08月10日 09:19