すこし向こうから人波に逆行して歩いてやってくるあんたの姿を見つけた。
 見つけて、それからああおれははなんておろかだろうと思った。
 もうずいぶん長いあいだ見ていない顔だった。
 だのにざつぜんとしたおおぜいの顔のなかから、たったひとつをすぐに見分けてしまうおれの目が恨めしい。永久記憶と瞬間記憶、とか言うふたつの記憶のとどめかたがあるらしいが、おれの目はあんたの顔を永久記憶と認識しているようだ。
 ぼんやりと下のほうを向いて歩いていたあんたは、なにかのはずみでほんのすこし視線を上げた。おれが見つめていたからだなんて思いたくはなかった。視線に圧力なんてないと思うから。
 視線を上げておれを見つけたあんたは、ちょっとおどろいた顔をして、それからうろたえるようにしたのが判った。回れ右をしようかとか一瞬考えたことをおれは感じてしまったけど、この距離まで近づいておいて知らぬ素振りもない、回れ右なんていっそ大仰すぎる、そう思ってあんたがあきらめたことを知った。
 ゆらゆらと上体を揺らしてしかたなくあんたはおれのほうへやってきた。
 もう今さらだと思う。
 そう思っている頭の半分以上はでも、六年ぶりにみたあんたの姿でいっぱいになって他になにも考えられないことになっていた。
 そうしてあんたがぐうぜんを装いながら本当はおれに会いにきたことをおれは知っていた。
 だっておおぜいの人の中からあんたもおれだけをすぐに見つけてしまったからだ。
「――ちょっと。いい」
 あと数歩の位置なのに最終的に近付くことをあんたはしない。指でちょいちょいと手招きをしておれを呼び寄せる。おれはそっちへはいかないよ、きみがこいよと思っているのが判った。
 莫迦野郎。
 呼吸が苦しくなるほどどきどきとして喜んで近付いて行ってしまうおれ自身のからだをおれは呪いながら、でもあんたのもとへゆくことを止められなかった。
 最後の一歩をふみ込んでこないのはあんたの癖だ。
 おれとあんたが、まだお互いに表現できない不確かなもので結ばれていたときにそれでなんども衝突して、なんども言い合ったあんたの癖だ。
 足元を固めて自分だけは安全なところにいる、そうしておれのほうへ手を伸ばすあんたの悪い癖だ。
 おれはそんなあんたが不安でしかたがなかった。
 いつか見捨てられる日がくるんじゃないかと思っていた。
 そんなことは一度もなかったけれど、もし濁流にふたりが飲まれたとしたら、あんたはきっと自分が安全な土台に辿り着くまでおれに手を伸ばしはしないだろうと思っていた。いのちの危険がせまったら本能なんてそんなもので、でもそれはたとえ話だ。
 ふたりで生きてゆこう。
 あんたに言われた言葉におれは曖昧にうなずきながら、でもおそらくその未来はないなと思っていた。
 いっしょにいて、不安でしかたがないあんたとは生きてゆけない。
 でもおれはあんたが好きだった。不安だとかどうでもいいほどにあんたが好きだった。
 そうして結局うやむやになってどちらからだったか会わなくなった。
 嘘。
 あんたにさようならと言われることがこわいおれが一方的に関係を打ち切ったのだ。さようならといったのはおれ。もう会わないといったのはおれ。もう一度会おう、会って話をしよう、会って話をしてこじれこじれた関係の誤解を解こう、そんな風にあんたはいっしょうけんめい関係を改善しようとしてくれたけど、おれはがんとしてもう会わないといった。
 もう会わないと思った決意が崩れるのは怖かった。
 最後の最後でふみ込んでこないあんたはそうしてあきらめて、そっと茶色の封筒に鍵をしのばせて送ってきた。
 あんたに渡したモグハウスの合鍵だった。
 便箋一枚はいっていない、さびしい封筒だった。
 すてばちになって、錯乱して、必死になって、いやだどうあってもおれはきみと生きてゆきたいといわれたら、おれは一も二もなく頷いただろうにと封筒をながめながら思った。でもあんたがそうしてこないあんたであることをおれは知っていた訳で、だから卑怯なのはおれのほうだった。
 愛されたかったおれがすべてこわしたんだと思った。
 封筒を抱えて泣いた。
 そのあんたが目の前にいる。
 でもやっぱり最後の一歩はふみ込んでこない。踏み込むのはいつもおれだ。だから近付いてゆきながらおれはひどく暗い気持ちになるのをおさえられなかった。
「ひさしぶり」
 ためらいがちな笑いを浮かべておれを見たあんたは、でもやっぱりおれの好きだったあんただった。
「ひさしぶり」
「元気みたいだ」
「うん。元気」
 笑ったあんたの顔はどうにもくたびれた顔をしていて、もうずいぶん経っているものなとおれは思った。お互いに年を取ったのだ。お互いにもういい歳になっていて、おれがあんたを見てがっかりしたのと同じくらいあんたもおれを見てがっかりしたろうと思った。
「ちっともかわらないね」
 でもあんたはそんなふうに言った。お世辞だったのかもしれないけれど、おれはありがとうとこたえた。
「きみに、会いたくてね」
 急にそんなことを言う。驚いておれはあんたを見上げた。あいかわらずくたびれた笑顔をほほに張りつけてあんたはおれをじっと見ていた。
「付き合ってるんだってね」
 おれの背後を見てあんたは言った。おれの背後にはいまのおれの彼女が離れて立っていて、あんたはそれを知っているふうだった。
「ああ、うん」
「よかった」
 頬をまたすこしほころばせてあんたは笑った。ひどくやさしい、やさしいのにたよりない、どこかさびしい笑顔だった。
「きみに、会って言いたかった」
「うん」
 なにを言われるんだろうとおれは思った。いきなり罵声でも浴びせられるんだろうか。おれと別れたあとあんたはいろいろとだめになって、定時コンテンツLSをやめたり酒びたりになったと風の噂で聞いていた。その原因を作ったおれに、一方的に縁をきったおれに、呪詛のことばでも浴びせかけるんだろうかと思った。思いながらでも本質的にやさしいあんたはきっとそんなことをしないともおれは判っていた。
「ありがとう」
 いくつか言葉を出し渋って、結局最後にあんたはそんなことをおれに言った。
 ありがとう。
 ありがとうってどういうことだ。面食らって見返すと、あんたの薬指に銀色の指輪が嵌まっているのに急に気が付いた。
「ああ」
 左手をそっとうしろに隠すようにして、困ったように肩をすくめたあんたは、来月結婚するんだ、と言った。そうか、とおれは思った。そうか。やさしいあんたにふさわしいやさしい誰かを見つけたんだな。
「ありがとう」
 おめでとうというにはなんだか場違いな気がしたので、おれもあんたと同じように言った。それ以上の複雑な感情は湧いてこなかった。ただあんたと会えてよかったとおれは思った。
「うん」
 それから不意にあんたは腕を伸ばしておれを軽く抱きしめ、おれも同じように腕を伸ばしてあんたを抱きしめた。あたたかい感情だった。もう二度度会うことはないだろうと思った。約束は果たされたから。だからこうしてふれ合うのも最後で、だったら醜い感情なんて湧いてくるはずもないのだ。
「こまったな」
 耳元であんたが言った。本当に困ったような口ぶりだった。
「何もかも今までのをなしにして、またやりなおしたくなる」
「無理だよ」
 ふれた瞬間にやりなおしたくなったのはおれも同じだった。だけどたとえやりなおしたとしても同じように途中で行き詰って、不安に陥って、そうして最後の一歩でふみこえてこないあんたにいらついて、駄目になってしまう未来しかないことはよく判っていた。
「もういかなくちゃ」
 名残惜しそうにあんたが言って、からだを離した。未練たらたらなのはお互いさまだった。きっと今おれはものすごくものほしそうな目をしているのだろうと思った。
「しあわせになりなよ」
 おれは言った。未練たらしいおれからの、せめてもの送辞だと思った。
「きみもね」
「おれはもう充分しあわせ」
「そう」
 おれも、とはあんたは言わなかった。じゃあどうして来月結婚するのだろうと思った。幸せじゃあないのに結婚するのだろうか。でもそれは聞いてはいけないと思った。
「またね」
「うん。またね」
 もう会うこともないのにそんなふうにいって、お互いに背をむけて別々の方向へ歩き出した。心配そうにこちらを見ている恋人のもとへおれは戻った。戻りながら目の前がぼやけた。しあわせだといったはずなのにどうして涙が出るのだろうと思った。いまのおれを好きだといってくれる恋人に対してもひどい裏切りをしていると思う。だから本当は笑顔で駆け戻らなければいけないのだろう。
 だけど、と絶対に振り向いてはいけない黄泉平坂をもどる男神の気分で、おれは前に向かって歩きながら戻らない過去に後悔して泣いた。自分勝手に終わらせた結末を後悔して今さら涙が出た。
 だけど好きだった。あんたにたいして二度と口に出すことはないけれどでもやっぱり好きだったとおれは思った。
 不安でしかたがなかったけれど、本当に好きだった。


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よしくんにささげます。
最終更新:2012年08月10日 10:59