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<<scapegoat>>


 落ち合う予定の場所に、相手がやってこなかった。
 いつものことだ。
 あきらめがついている。
 それも、きっちり、毎回だったから慣れも加わった。
 たしかに腹は立つ。しかしこの場合立たせてもそれをぶつける相手がいないのだ。とくべつ気が長いだとか人に言われたおぼえもないので、ただ辛抱強いのかもしれない。
 名を、グシュナサフと言った。
 旧シビラ国の騎士の肩書を持つ男だ。
 一応は。
 一応は、と述べたのは、彼が、自身を騎士だと自覚したことがあまりないからである。
 凝った所作が身に着いているとも思えない。なりゆきで剣をささげた感が、彼自身ぬぐえないのだ。
 勿論、剣をささげるに値したシビラ領主だった。忠も誓った。ただ、たとえば今待ち合わせをしている相手のように、調子よい素振りができない。世辞が言えない。言葉よりも行動が肝要と思っている節がある。
 不器用なのだ。
 であったから、出世株からは程遠かった。シビラがそのまま存続したとして、たいした役職にも就かずに終わっただろう。
 地味な男だった。
 目立たない。もともと傭兵上がりで、周囲から注目されたためしがない。やっかみも含めてほとんどの人間が、彼に興味を持たなかった。影が薄いというよりは、群れにまぎれる、
「性質」
 だったのだろうとしか言いようがない。

 そのグシュナサフが待ち合わせているのは男だった。
 ホルミスダスと言う名の男だ。
 まるで陽極と陰極のように正反対に位置する人間だと、グシュナサフは思う。
 目立つ。
 こちらも、たとえば華美な恰好をしているとか、とりわけ見目よいなりであるとか、そうした「見た目」で目立つわけではないのに取り巻きの中心にいることが多かった。いつの間にか馴染んでいる。まぎれこんでいる。
 これもきっと性質だったのだろう。
 出会ったきっかけがわりと不穏なものであった気もするが、ホルミスダスに言わせると「運命」だとかいうものらしい。
「俺とあんたは運命で結ばれているんです」
 酒の席の上だとは言え、しかも相当できあがっていたとは言え、
「やめてくれ」
 本気で嫌がった。
 言い寄ってきたのが女であったなら、グシュナサフにしても悪い気はしなかっただろうが、あいにく相手は自分と同年代の男だった。その手の趣味もない。
 彼の、諜報だとか防諜、調略、宣伝能力に関してはグシュナサフは一目置いていたものの、自分にない能力を認めているというただそれだけで、ほかに感慨をもたない。
 ぶっちゃけ鳥肌が立った。
 嫌がるグシュナサフを承知のうえでちょっかいをかけてくるのだから、鬱陶しいことこの上ない。
 最終的に酔いも手伝って、殴り合いになったような気もする。
 どちらにしろ、ずいぶん昔の話だ。
 その、対極の性格の人間と、腐れ縁ながら十数年も交友があるということは、結局はホルミスダスがいうところの、
「運命」
 だったのかもしれない。
 本人はおおいに不服だったろう。

 待ち合わせの場所は、馬宿だった。
 街道筋にはおおよその距離ごとに馬宿が点在している。昼間はそこそこ往来も多い。これは、どの国でも決まっておこなわれている、経済政策の一環だ。
 経済の興隆に必要なのは、流通である。南でとれたものが北にながれ、東のものが西へゆく。よどみがちな地方地方の空気を、物資をながすことで横穴を開けてやる。
「国の豊かさ」
 とはなにも、国庫の金銭を増やすだとか、宝物庫をいくつ所持するだとかに限らない。地方に住んでいる人間に活気があふれ、月市がたち、文化がまじりあうことで、おのれの土地に愛着を覚える。誇りを持つ。どこそこのワインに敵うワインは古今東西さがしてもみつからない、というようないわゆる、
「ブランド」
 ができあがる。
 必要なのは作り上げる土着の人間と、それを各地へ流す行商の人間だ。
 前者はわりと簡単に奨励できる。数代かけて開墾した土地を認可し、そこで作り上げた交易品がある程度の品質水準に達したところを、大公であるとか、国王公認の印を与えてやればよい。
 認可されたからには下手なものは製造できない。品質管理に重点を置く。するとますますブランドの名のある交易品に信用が集まる。
 需要と供給が比例してくるのだ。
 肝要なのは、もう一方の行商だった。
 産物をかかえ、別の地方へ赴く。赴いた地方で物々交換、あるいは貨幣でやりとりをして、また別の土地へゆく。
 流通は陸路が主力である。山窩のたぐいにとって、商い品を山と積んだ荷馬車は、馳走でしかない。
 狙われた。
 なかには独自に自衛団を雇い、道中の安全をはかるものもいたが、それはほんの一握りの豪商にしかすぎず、大半は命からがら身ひとつで次の部落まで逃げ延びるのが精いっぱいだ。こちらは放置しておけば流通根幹の衰退にもかかわることだったから、街道筋の領主は躍起になって対策を講じた。
 そのひとつが馬宿だ。
 街道をあらため、一定の距離に拠点を作り、行き来する人間が逃げこみやすい場所を提供する。衛兵を置く。
 勿論、馬宿の元来の意味は、
「馬を乗り継ぐことのできる場」
 であったから、伝馬も用意する。緊急時における早駆け用の軍馬を配る宿もあった。なかには、鍛冶や大工をそなえたちょっとした山塞もどきの馬宿もあったらしい。
 街道全ての安全を「面」で保障することができなくても、馬宿へさえ駆けこめば衛兵が何とかしてくれるといった、「点」の存在を作ったのだ。苦肉の策ともいえる。
 グシュナサフが滞在している馬宿は、せいぜい伝馬を数頭あそばせているだけの、小さな宿だった。食堂を兼ねた酒場と、寝室が四つほど。経営者の親父と、その連れと、年老いたどちらかの父親。年老いた彼はいつも食堂の片隅でぶつぶつと呟き、酒瓶を呷っている。
 グシュナサフが馬宿に逗留してもう三日ばかりになる。そろそろ相手が来てもよいはずだった。暇をつぶすときのいつもの癖で、腰に佩いた数本の短剣を手入れしながら、不意にがなり声の聞こえた宿の裏口へと、彼は目を向けた。
 片眉を上げる。
 帳場のすこし向こうに、両手を肩口に上げ、抵抗のないことを示した親父と、真っ青になって彼にしがみつく女将の姿があった。
 やめてくれ、と親父が哀願する声が聞こえる。
「馬を持ってかれたら、食い上げるしかねェ」
 だまれ、と賊が応える。
「――とっとと有り金かき集めろって言ってんだろうが!」
 がなり声はどうやら彼らの発したものらしい。
 そうして、おざなりの覆面を被った数人がぞろと戸口から姿を現した。手に思い思いの獲物をにぎっている。グシュナサフが見たところ、刃こぼれをしているものや赤錆の浮いているものが大半で、ああなってないなと場違いに彼は思った。
 なまくら刀で人を脅すとは本当になっていない。
 なっていないから、こんな場末の馬宿しか襲うことができないのだ。
 侵入してきた数人の男は、狭い食堂に目を走らせ、壁際に座る老人とその横にいたグシュナサフをすぐに見つけた。
「片方は――なんだ、ジジィか」
 ずかずかと近付き濁った眼をした老人を刀の柄で殴りつけると、
「おい」
 向きを変え、血走った目をグシュナサフへ寄越した。逗留客と見てとったのだろう。
 赤錆の刃を突きつけ、命が惜しければじっとしているんだなと下卑た笑いを投げかけた。
「まぁじっとしてたって命の保証はしねェがね」
 昏倒した老人に気付いた女将が、悲鳴を上げながら思わず駆け寄りかけ、刺激された賊のひとりが無造作に片手斧を振りかぶる。
 笑っていた。
「――やめてくれぇッ」
 女房の頭蓋が叩き割られることに恐怖し、叫んだ親父は剣に牽制されて動けない。ああ、と絶望の呼吸が吐きだされる刹那、グシュナサフは立ちあがり、腰掛けていた椅子を掴むと、振りかぶった賊めがけて力任せに投げつけた。
「な、」
 だしぬけのことで反応できなかったのだろう。
 顔面に思い切りよく投げつけられた椅子を食らい、引っくり返った賊は、床に頭を打ちつけそのまま白目をむいて失神した。
 だらりと舌がはみ出ている。
「……てめェ……、」
 空気に飲まれ、呆気にとられて束の間我を忘れた残りの男たちは、ひと呼吸おいてから自分たちがどうしてこの場に佇んでいるのか思いだし、殺気ばしった視線をグシュナサフへ向けた。
 向けようとした。
 向けた先には彼はいない。
「がッ」
 背後から強襲するグシュナサフに気付いたと同時に、打ちすえられている。獲物は殴り倒された老人が呷っていた酒瓶だった。
 したたかに打ちすえられ、たちまち先に痛めつけた老人の横に、三人が同輩となってぶっ倒れる。
「な……」
 目の前の光景を理解できたのが先か、反射的な生存本能が先か、親父をおさえていたふたりが、わあと奇声をあげ、反転して戸口へ駆け出した。
「わああああッ」
 うち片方が、もんどりうって倒れる。グシュナサフがすかさず投げた火箸がふくらはぎを貫いたのだ。必死になってもう一人にしがみつき、腰にしがみつかれた片側が、死に物狂いになって仲間の手を引きはがす。
 そのまま、戸口をくぐって悶絶した。
 戸口で屈んだ首筋へ、容赦ない手刀が入っていたからである。
「おま……お、おまえ」
 腰の抜けた親父が、昏倒した老人とそれにすがる女房に這いずり近寄って、まだ訳も判らないままとりあえずの無事を確認し、泣きだしはじめた。
 引き攣る甲高い泣き声。
「――おそい」
 その泣き声を背に聞きながら、戸口へ向かってグシュナサフは言った。
 ぼつ、と投げかけた彼の言葉が消える手前で、戸口からホルミスダスがひょいと顔をのぞかせる。
 短く刈り込んだ赤毛が揺れた。
「何日待たせるつもりだ」
「事情がたてこんでね」
 やれやれと首を回し、彼へ近付いてきたホルミスダスの体から、むうと酒と女のにおいが漂う。近くで見ると随分とくたびれた顔をしている。
 グシュナサフは眉をひそめた。
「すこしは慎め」
「……あのな。好きでやっている訳じゃあないってことぐらい、」
「――判っている。今度はどこの奥方だ」
 ホルミスダスの主な役割は諜報活動だ。
 人好きのされる彼の性質を生かす。警戒される前に重役へ近付き、意図的に、もしくは秘密裏に物事を推し進める手はずを整える。
 口利きされるのに手っ取り早いのは、女を利用することだった。
「旦那に近付けたはいいが、そのあと放してくれなくてね」
 寝室に閉じ込められて困ったよとボヤきながら、床に転がった老人の手当てを行っている。殴りつけられ、瘤はできていたものの、ほかに外傷はなさそうだ。大丈夫、すぐに気が付きますよとホルミスダスは馬宿の夫婦に向かってほほ笑んだ。涙でぐしゃぐしゃに崩れたふたりの顔に、ようやく安堵が広がる。
 脇でグシュナサフは賊を後ろ手に縛りあげた。
「また必要以上に優しくしたんだろう」
 言葉巧みに人の心の隙につけ入るのがうまい男だ。
「女性には優しくが、俺の信条なんです」
「――程度の問題だ」
 あきれた声がでた。
 愛想、だとかいう言葉を母親の胎に忘れてきたグシュナサフにしてみれば、どんな人間にもひとまず優しく接するホルミスダスは異次元の生き物である。
 到底自分にはできまい。
「……しかし、物騒なものだな」
 縄で縛りあげた賊を宿の表に転がし、溜息をつく。昼間からこうした輩が徘徊するとは、このあたりの警備はどうなっているのだろう。
「ここより半日ほど先に、大きな馬宿がありましてね」
 首をふったグシュナサフにホルミスダスが応える。
「衛兵は、そちらの宿へ立ち寄ることが多いんです」
「このあたりも、一応は街道筋だろう」
「人気取りには人目が多い方が何かと便利なんですよ。……まぁ、ここいらの警備がザルなおかげで、俺とあんたが待ち合わせに利用できるわけだ……しかし」
 旧シビラの領地とは言え、他国とのくにざかいも近い。賊の引き取りに訪れるだろう自警団の、目につくことは避けたかった。
 場所を変えるかと呟いたグシュナサフに、あの、とおずおずと後ろからかかる声がある。
 振り向くと宿の親父が、ふたりの会話を聞いていた。青ざめた様子は相変わらずだったが、それでも我を取りもどしたようだ。
「なにか……?」
「あの、あんたら、自警団の目についちゃならない事情がありなさるかね」
「……それが、なにか」
「いやね。脅してるわけじゃあないんだ。もしなんだったら、地下を使ってもらえれば」
「――地下?」
 貯蔵庫でもあったろうか。それにしては下りてゆく姿を、逗留中に見かけたことはないのだが。
 グシュナサフがたずねると、はい、と親父は頷き、客室のひとつにふたりを促した。寝具だけが置かれた簡素な客室は、三人が入ると息苦しいほどにせまい。
「……ここにね」
 言って親父は寝具を持ち上げ、木枠を脇へずらし、床の敷物を捲りあげた。グシュナサフとホルミスダスは黙って顔を見合わせる。敷物の下には木戸が隠されていた。
「これは……」
「へい。こうしてね、自警団にバレちゃあまずい品物を隠しているわけで」
 数段の踏み台の下には客室よりもよほど広い空間が広がり、その半面に酒樽がずらりと並べられていたのだ。
 どの地域でも酒を造るときには、役人への届け出が必要である。酒税と称してがっぽりと金を巻き上げられるからである。
「あいつらはね。知れば、かならず、見逃してやるから半分差しだせって言ってくるんで」
 つまり地下に並ぶ酒樽は、密造酒と言うことだ。
「自警団がやって来ている間、隠れていれば見つかりゃせんでしょう。連中、上の部屋は検めるかもしれないが、ここに気付くはずもねェ」
「……どうして、俺たちにこれを」
 助けてもらった恩と言うことだろうか。そこまで律儀な人間にも見えないが。内心グシュナサフが首をひねると、へい、ともう一度親父が頷いた。
「そこのお連れさんも仰っておいででしたがね。最近近くに大きな宿ができて、みなそっちへゆく。まぁ便利だからしょうがないんだが、こっちゃあお客ごっそり奪われて、商売あがったりだ」
 だから、とにたにたと親父がもみ手した。
「せめてお二方だけでも、しっかり捕まえておかないと、へぇ。俺が女房にどやされるんで」
 沈黙料金は割増し請求しませんよと言いきる親父に一瞬目を見張り、それから理解したホルミスダスが隣でふきだし、笑いはじめた。
「聞いたか、ガシュー」
「――その名で呼ぶな」
 商魂たくましい親父と、調子のよい同僚に顔をしかめてむっつりとグシュナサフはこたえた。

                   *

「聞いてください、レヴ」
 大発見をしたのだと両手で大事そうに何かちいさな塊を抱えて、コロカントが部屋へ飛び込んできたとき、ラルヴァンダードは本国からの報告に目を通している最中だった。
 一瞬険しい視線のまま戸口へ目をやり、はっと少女の足をとめた動作に。自身の余裕のなさに気がつく。
 無理に笑って見せた。
「どうしました」
「……タマゴ、が」
「卵?」
「その……」
「ああ」
 鼻にかけた眼鏡を外してテーブルへ乗せ、眉間を揉みほぐしながら鶏の方でしたかと男は言った。
 言って、いまだ固まっている彼女へこちらへおいでなさいと手招いてやる。
 外部との交流を極力避けている彼と少女の暮らしは、つまり自給自足である。
 森では木の実と薪を拾う。凍りつくまでは川へ糸を垂らして魚を釣り上げる。最小限にしかけた罠をあらためては小動物の皮を剥ぎ身を食う。鳥を撃つ。
 ただしそれらはひどく不安定な供給であり、ある程度持久のきくラルヴァンダードはともかく成長期のコロカントには不十分だ。
 十分とはとても言えなくとも、せめて腹を空かせて寝ることのないように、あたたかな設えで暮らせるように、それが男の願いでもある。
 だったから、建物の周りを開墾し、果菜の種を蒔き、やぎと雌鶏を飼った。
 つやつやと光る茶色い羽根の鶏に、少女はタマゴと名前を付けた。
 卵を産むからタマゴです、と割と安直につけたらしいが、得意気な顔をされたので男はそれでよしとした。
 雌鶏は一日おきに卵をひとつ産む。
 少女が覗き込んだ時にたまたま産卵する気になっていたらしいタマゴは、そのまま彼女の目の前でもりもりと羽を膨らませいきんで見せ、すぼめた彼女の手の平の上に落としたのだと言った。
「爪で叩いてみてください」
「――爪?」
「音です」
「音……ですか」
「はやく」
 差し出された卵は、まだあたたかいというよりは雌鶏の体内の温度そのままに熱かった。はやく、とふたたび促され、体内から転げたての卵から雛が生まれると主は思っているのだろうかと思い、そもそも雄鶏のいない状況でこの卵は無精卵でしかないのだがと思い、内心首をかしげながら男は彼女に言われるままに指先で表面を弾く。
 きん、と高く澄んだ音がした。
「ね」
「ほう……」
 感心した声が素で漏れる。
 きん、きん、と澄んだ音は、しかし彼の手の中で卵の温度がたちまち冷めてゆくのと同時にちん、ちん、と透明度を落として、すぐにかちかちと聞きなれた殻の擦過音へと変わった。
「生まれたばかりの卵は、音がちがうんです」
「……自分も初めて知りました」
「レヴも知らなかったのなら、すごい発見ですね」
 頬を寄せ、息をひそめて音をたどっていたコロカントが、嬉しそうな顔をして男を見上げてくる。そうですねと返しかけた男は、その間近さにひととき気を呑まれた。
 肌理細やかと言う言葉は、本当にその通り細やかなのだなと感嘆する思い。外から駆けてきた頬は、室内との温度差で桜桃色に色づいている。
 知らず伸ばした己の無骨な指との格差に目を奪われ、這わせた頬は見た目そのままにすべらかだった。
「……レヴ?」
 真っ直ぐに見つめてくる、その黒。
 自分と同じ色のはずなのに、どうしてこんなにもガラス玉のように澄んでいるのか、ああきっとこのまなこには、まだ醜いなにものもうつっていないから。そうか、だからこんなにきれいなのか。
 まじまじとのぞきこみ、それからはたとラルヴァンダードは我に返って、慌てて彼女から顔を背けた。
 気恥ずかしかったからではなく、彼女の瞳の美しさが純真だとすると、にごらせてしまう醜いもののひとつは己自身であると意識したからだ。
「レヴ?」
 この手はあまりに血にまみれている。
 距離を取り、視線を避けて卵を手にして立ちあがった。
 置いておかないと割れてしまいます。
 告げた声はまるきり言い訳のようにも聞こえた。だれに対して、だったのかはわからないけれど。
 それから暖炉の脇へ目を走らせ、
「ああ」
 まったく心の籠もらない声音で、
「明日までの薪にはすこし物足りないですね」
 言って、男はまるでコロカントから逃げるようにして戸口から急ぎ足に出ていきかけた。見咎めたのか、少女が声を発する。
「レヴ」
「……」
「レヴ」
「……申し訳ない。裏で薪を割ってまいります」
 慇懃な口調はそのままで、けれど決して目を合わせずに、ラルヴァンダードは後ろ手に扉を閉め、それから閉めた扉にもたれかけてながながと息をはいた。
 気を取り直して裏庭へ向かう。雪をかき分け、薪割り台の上の積もった白も払った。
 今日は曇り空ではあったが雪はまだ降りはじめていない。
 手近に積んだ大ぶりの枝のひとつを無造作につかみとり、ラルヴァンダードはまず長さを切り揃えるようにしてがつがつと鉈を振りおろした。
 振りおろす際にやたらと手元がぼやけて見え、ああそういえば眼鏡をおいてきてしまったなとちらと頭の隅で思ったものの、すでに始めてしまう気になっていたので戻ることはやめておく。細工をするわけでもなし、おおかたな動きは体が覚えている。多少長さがずれたところで支障はないと判断したからだ。
 凍徹した冷気に白茶けた氷と木端屑がぱちぱちと散って、鉈を振りおろすたびに彼は目にはいること嫌って顔をしかめた。
 空気が重い。気圧の変化によるものだと感じた。
 明日はどうも天気がよくないようだ。
 吹雪く中で薪を割ることはずいぶんな重労働であるから、二、三日分すこし多めに割っておいた方がいいかもしれないなと思い、だとするとひと仕事になるなと本腰を入れて割り始めることにした。
 適当な長さに切り揃えた枝を、今度は暖炉へくべやすいようにその上長持ちするように縦に割り揃える。
 霜の降りるまでに十分乾燥させつみあげ、菰で雪避けしてある枯れ木は、断割する際に多少表面に雪が付着したところで用途に支障はない。そもそも雪は積もっていても、空気がやたらと乾燥しているのだ。
 左手で台の上へ置き、腰を入れて手斧で振りおろす。
 ぱん、と耳触りのよい音が鳴りひびき、両断された薪が左右へ倒れる。左手で新しい薪をつかむ。両手で斧を握り、振り下ろす。その単調な作業に無心になる。

 しばらく黙々としつらえては振りおろす動作を繰り返し、いい加減両脇にこまぎれた薪が山になったところでラルヴァンダードはいったん手をとめた。
 鼻から十分に熱された呼気が真っ白な煙となって空へ立ちのぼる。
 それを見やるともなしに眺めながら、額に浮いた汗をぬぐい男はおおきく息を吐いた。胸にうずまいた黒い恐れを吐きだす勢いの嘆息だった。
 くそ、と吐き棄てる。

 本国から鳩が運んできた文書は、次第に切迫する隣国セイゼルとの関係と、ハブレストの動向について単直にしるされていた。
 セイゼル国はたしかに現段階では旧シビラ国に同情的である、しかしその同情心はあくまでシビラとハブレスト両国を天秤にかけた際、片方に傾いたというだけのことで、感情では国は動かない。セイゼルの統治者はそれを知っている。
 セイゼルがシビラへ向ける関心も長くは保つまい、いや下手をすると手のひらを返すこともあり得る、というのがラルヴァンダードやその他潜伏しつつ各状況を見定める人間どもの共通の認識ではあったのだが、ホルミスダスのしたためた文書にはいっそう深刻な状況が述べられていた。
 セイゼルの一派が、内々にハブレストと国交を持ち始めたという情報だ。
 旧シビラに従事しいまなお復権をねがうものどもも、このまま、身を潜めたまま終わるつもりは毛頭ない。機をうかがってハブレストに一矢報いシビラの遺児であるコロカントを起て、必ずやシビラを再興してみせると意気込み、しかし意気込みだけでは物事と言うものはすすまないことも判っている。
 シビラが陥落して三年。
 その三年を長いと思うか、短いと思うかはたずさわる人間によって大小異はあろうが、かきちらされた同勢力と連絡を取り合い、今一度盛り立てて決起するにはまだしばらくの時間が必要だった。
 勢いと機運は別のものである。
 いくつもの戦場を経験しまたラルヴァンダード自身、小さいながらも荘園を持った身として、機をうかがう重要性はよく判っていた。
 しかし、時がない。
 焦りが勝る。
 このままではセイゼルからも切り捨てられ、ハブレストに泡を吹かせることもなく、歯噛みするだけで結局自分は何もできなかったのだという絶望。いや。己はまだよい、ひとで言うならあと数年で数え五十になる。ひと通りの憂き世を見聞きし生き渡ってきた、しかし己が主であるあのいとけない少女はまだ人の営みの何たるかを知らない。
 しかもその生は常に奪われる危地と抱き合わせなのだ。
 あのすきとおるほどやわらかな頬をした旗印、ハブレストどころか他のどの国の人間の目に触れてもあやうい主、守ると誓って一体己は何を守ってきたと言えるか。
 絶たせたくはないと本気で思った、黒スグリの目玉でなんの疑いもなくのぞきこんでくるそのあどけなさを長らえさせたいと思った。
 しかし己の腕一つの裁量でどこまでできようか。
「――レヴ」
 往きつく先のない堂々巡りに顔をしかめた男へ、不意に水を差したのは背後からかけられた控え目な少女の声だった。
 接近されたことに全く気がつかなかった、弾かれるように振り向いた彼の目に、困ったようにこちらを眺めて頭をかしげるコロカントがいる。
 森の獣の気配と似ているのだなと思った。
「姫」
「レヴ。眼鏡を忘れていましたでしょう」
 どうぞと差し出され、動揺を隠せないまま受け取る。
「随分割りましたね」
「はい」
「部屋のなかに運びますね」
「はい」
 雪上に散らされた薪を彼女は小さな指で丁寧にひろい、それを何をするともなしに男は呆と眺めた。眺めている前で少女は一束胸の前に抱え、そういえば熱いお茶が入りましたと去りぎわに告げる。
「はい」
「無理しないでくださいね」
 気遣う声をかけられ、しかし他に言葉はない。言いたいこともあろうにと男は彼女のこちらを振り向かない背中を見送り、苦笑いをした。
 苦笑いながらだがこの心持ちは、いったいどうしたものだとひどく狼狽える。
 術も当てもない。
 だのに見送る背中を何があっても守ってやりたいと男は希う。



(20120817:Re)
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最終更新:2012年08月17日 21:58