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 終雪もあちこちに残すばかりとなった。
 森の長い冬の中で、息を潜めるようにして春の訪れをじっと待ち、しのんでいた生きものたちが動きだす。
 芽吹いたやわらかな萌え葉の枝に、尾のぴんと張った鳥が数羽、かたまりでやってきて、にぎやかにさえずりを交わしている。鳥の言葉を理解できるとも思わないが、うれしくてたまらないといったふうの彼らの弾囀を耳にするたびに、こちらまでなぜか妙に浮ついたこころもちにさせられるのだから、春というものは不思議なものだ。
 冬の間にがちがちに固まってしまった土へ鍬を入れ、ラルヴァンダードは畝間を掘り起こす。
 冬のあいだ何度も何度も、霜が降り、降りては溶け、溶けたものが凍り、その繰りかえしを行ううちにやわらかだった土はみっしりとひきしまり、鍬先を拒んで撥ねつけるものになる。剣を振るいなれ、力は人並みにあると思っていた彼だが、この春先の最初の畑起しが苦手でならない。
 なにしろここに来てすぐのころは、まったく鍬を土へ差し込むことができなかった。
 耕作人が畑を耕す光景は、荘園の主であった彼には馴染みのものであった。農具を振り上げ土へ振り下ろす。ただそれだけの作業だと高をくくっていたのに、まずもって振り上げるところから上手くいかない。腰がひける。
 振り下ろす軌道もひょひょろと頼りなく、開墾したての土はそうでなくとも硬い。石くれと木の根だらけのがさついたそこは手加減のない硬さで、見よう見真似でまあなんとかなるだろうという男の自信をきれいにへし折った。
 武器と言うものは鉄のかたまりだ。
 その重量のある鉄のかたまりを、戦場で常に手にした勢いも力もあるのだから、こうした農具のひとつ使いこなせないはずはない。農具の方がよほど軽いのだ。そう自身へ言い聞かせてみたところで、現実はつめたく、にがく、途方にくれた。
 いくら頭で考えても結局おかしな使い方になる。
 体で覚えるよりないのだとあきらめ、振り上げては振り下ろす、賽の河原のいしつみのごとき行為を繰り返し、繰り返し、繰り返すうちに三年が経った。
 最初のころよりはいくぶん上達したように思う。
 農夫の手になってきたな。本来騎士であることを思えばここは自戒すべきところなのかもしれない。だが剣胼胝にならぶつぶれた肉刺を眺めると悪い気はしなかった。
 奪うことよりも育てることのほうが好きな性格だったのかもしれない。

 その、随分と上達したはずの畑起しを半日ほど黙然と続けて、ふとラルヴァンダードは手を休めた。
 ともなった馬は、はなれた幅広の畷あたりでのんびりと草を食んでいる。
 足の太い彼女が役立つのはもうすこし先の工程で、まず固くしまった土を人間がどうにかしないと出番がないのだ。
 冬の曇天になれた目に春の空はしみるようにまぶしくて、顔をしかめる。
 男が顔を上げたのは、いい加減に背筋が凝り固まり痛みを覚えたからでもあるが、いまひとつ、
 ――なんだ。
 おかしな音が癇にさわったのだ。
 実際は「音」ではないのかもしれない。神経を逆なでする、慣れた感覚。剣呑な「なにか」。
 同じように反応をしめした馬が、鼻を鳴らし前足で土を掻いた。
「……ああ」
 これは、殺気だ。
 しかめ面のまま周囲を見渡し、ラルヴァンダードはすこし離れた向こうから、コロカントが走ってくるのを見止めた。
 森の中へ、山草をとりに出ていたはずだ。
 だが駆けかたがおかしい。
 いつもの、なにか楽しい発見をしたときのそれではない。まろびゆらいだ逼迫したものだ。
「レヴ……!」
 必死の形相のコロカントが短く叫び、同時に彼女の背後に群れになって疾駆する猟犬の姿を男は見た。獲物を狙う群れの呼気。
 ざっと頭から冷水を浴びせられたように血の気が引き、けれど長年の経験と言うものが判断力を失わせない。まだ距離はある、手にした農具を構え、ラルヴァンダードは彼女へ一瞬で差を詰めた。ほとんど無意識だ。
 腕を伸ばし、掴んだ体を引きよせる。
 彼女の体がどんとおのれにぶつかる感触でようやく実感する。まにあった。
 安堵する間もなく、たちまち数頭に彼は囲まれた。
「レヴ……」
 上着の袖をぎゅうとコロカントが握りしめる。
 熱い涎をまき散らし、散開した一頭一頭に油断なくみがまえながら、男は数を数えていた。八、いや九頭。
「姫」
 同時に口が動いている。
「はい」
「自分の後ろへ。……土に伏せて頭を低くして」
「はい」
「目をつむって。すぐ終わらせます」
「はい」
 淡々と落ち着いた男の指示に、震える声で返事をしコロカントは従った。あいまに土を蹴って飛びかかった一頭を、男は鍬の柄で掬い上げるように突き飛ばす。ぎゃん、と叫んでころがった犬は、しかし着地地点は土の上だったためすぐに起き上がった。極限まで興奮し、血に狂った群れに大人しく引く気はなさそうだ。
 傷めつける程度で諦めてくれるとよかったのだが。
 いたしかたなしと男は両手で柄を握りなおし、あらためて群れと対峙した。
 喉元を狙って跳躍した二頭をしたたかに打ちのめし、頭蓋を割る。手加減できる状況ではなかった。ただの野犬の群れであったなら、おそらく今の男の強撃でひるむ様子を見せただろう。
 だが、これは猟犬だ。
 極限まで訓練された彼らはますます輪を狭め、うなりを上げる。残り七頭。多対一でもさほど不利には感じなかったが、足元にはコロカントがいる。群れはラルヴァンダードよりもむしろ彼女を積極的に狙っていた。
 隙を狙ってちいさな体へ躍りかかった一頭を打ち据える。がちがちと牙が空を噛み、音にこわばったコロカントがますます縮こまるのが判った。
 不意に、腰に下げた布袋の中身をラルヴァンダードは思いだし、思いだすと同時にすかさず紐をほどくと中身をあたりにぶちまけた。草木灰である。先日肥料のために焼きためたものだ。
 真正面から灰を叩きつけられ目つぶしされ、やっとひるんだ群れの二頭に、踏み込んで男は鍬を振るった。
 半数減ってようやくとまどいをみせ、それでも獰猛さを失わない残り五頭に、どうしたものかと男は迷う。そこに、どっ、どっと地響きとともに力強い黒い影が割って入った。
「ハナ」
 普段はおとなしい老いた馬が、唇をまくり歯をむきだして後ろ足立っていた。
 通常、馬がおびえたり驚いたりした末にも棹立ちと言う同じ行動をとるが、この場合ははっきりと威嚇である。ラルヴァンダードの鍬さばきにすらたけりくるっていた群れに、はじめて動揺が奔った。どう足掻いても勝てない膂力の差。人と獣よりも同じ四つ足同士対峙されてわかりやすかったに違いない。
 そうして一瞬怯めば、勝機は潰えてしまうのだ。腰のひけた方が負け。
 耳を伏せてじりじりと後ずさりやがて情けない声をあげながら、一頭、また一頭と群れは背をむけ茂みへ向かって駆け出した。
 踏みしだかれた土と残るむくろ。
 じんと耳鳴りがするほどに静かになる。
 にぎやかだったはずの森の和らいだ気配は、霧消していた。
 逃がすように長くゆっくりと呼吸を整えながら、まだ興奮冷めやらずあぶくを飛ばす馬に近付き、ラルヴァンダードは首を叩いてやる。
「ハナ」
 助かったよ。
 たてがみに手を差し入れ掻き回す、目を血走らせた彼女はいななき、乱暴に頭を擦りつけた。踏みとどまってこらえる。
 それから、
「姫」
 頭をかかえ土に伏せたコロカントの体の脇にラルヴァンダードは膝を着き、
「終わりましたよ」
 そっと指を伸ばし、体を固くしたままの彼女へ触れる。びくと肩がはねた。
「……けもの……」
「もう大丈夫です。ハナが追い払いました。もう何もいません」
 顔を伏せたままくぐもった声で呟き、彼女は動かない。大丈夫ですと男がくり返すうち、ようやっと顔をのぞかせたコロカントが、ちらとラルヴァンダードと馬を眺め、またばっと頭を抱えて身を縮こまらせる。
「姫」
 動かない。
「姫」
 呼びかけていらえがなく、ラルヴァンダードは弱って頭を掻いた。こう怯えてしまっていては無理に立たせることもできない。ふとおのれを見おろすと掻いた手のひらに打ち据えた犬の血泡が散っていて、
「――ああ」
 これを見たのだろうか。
 慌てて土を手にとり乱暴にこすり落とそうとして、それから汚れは手のひらにとどまらず、二の腕にも胴にも飛び散っていることに気が付いた。
 彼女からどう見えてしまったのだろうと思う。
 最初に触れた彼女の背中へ、自分の指のかたちに色がついていた。屈んだまま慌てて背をむける。汚した。自分が汚してしまった。
 苦味が胸に広がる。
 すみませんだとか、そんなつもりはなかっただとか、どうしようもない言い訳が口を衝いてでた。
「その、怖がらせるつもりは」
 なかったのだと言ってから、仮令おのれに怖がらせるつもりがなかったのだとしても、現に彼女は十分に怯えているじゃあないか。そんな声が囁いてそれ以上何も言えなくなる。
 くそ、と吐き棄て頭を掻きむしる。おのれが嫌になった。


 釦をひろったのだ。
 森のなかには、食用や薬用になる野草が群生しており、そのいくつかの場所をラルヴァンダードから教えてもらっていた。寒さが緩み、まだあちらこちらに雪が残っているとは言え、地面がやわらかくけぶってきている。
 このあいだコロカントがのぞいたときには、冷えた土をおしわけて野萱草の芽が顔をだしていた。あれから何日か経っている。すこしは伸びているのではないか、あれは炒めて食べるととてもおいしいからと、たしかめに行った足もとにきらきらと光を反射する「なにか」を見つけた。氷の反射よりももっと黄色い、人工的ななにか。
 指でつまんでひろいあげる。
 彼女の指にはあまるぐらいの大きさであったから、大人のものだろうと思う。まっさきにラルヴァンダードのものだと思った。
 コロカントの知る限りこのあたりに住んでいる人間は、彼女と彼女の従者しかいない。時折やってくるホルミスダスか、グシュナサフのものかともちらと思ったが、彼らがここを訪れてから何回か雪が降っていた。雪の下に埋もれたことがあるならすこしは埃まみれているはずで、こうまで反射しないのではないか。
 しかし、ラルヴァンダードのものにしてはずいぶん意匠の凝らされた細工物で、簡素な身なりの彼がこんなものを身に着けるかしらと彼女は首をかしげたのだ。するとやはり洒落た身なりをするホルミスダスのものかもしれない。
 日に透かしてみる。
 おもてに鷹の紋様が彫られており、中心に嵌められた赤い色の石が、ちょうど目の部分に配置されていた。とてもきれいだと思う。
 それから、こんなにきれいなものはきっと宝物に違いない、だったら失くして持ち主は困っているのではないだろうかと思い当たり、野萱草のことをすっかり忘れて、コロカントは釦を見せるために、畑起こしをするラルヴァンダードのもとへ戻ろうとしたのだ。
 来た道を引きかえす彼女の耳に、遠吠えが聞こえた。
 ずいぶんと近い。
 森に暮らしていれば、森の生き物の鳴声は当然耳にする。犬科のそれももちろん彼女は聞き覚えのあるものだ。夜間、互いの位置を確認するために遠遠と響くそれは、どこか哀切をともなって聞こえた。
 だが今聞こえてきた声は、響きわたる距離を経ずして彼女に届いたのだ。こんなに近くで聞いたことはなかった。
 木々は鬱蒼と茂っていて、遠くまで見渡せない。すこし怖い。
 不安になり、足をはやめた彼女の背後で、がさがさと落ち葉や下生えを踏み移動するいくつもの音がする。
 半泣きになって肩越しに振り向いたが、姿は見えなかった。移動中の獣の群れの行き先とたまたま交差してしまったものだろうか。だが確実に音は彼女へ近付いてくる。
 ――狙われている。
 針を差し込まれたようにぞっと冷たい事実を確信する、足はすでに小走りをやめて土を蹴っていた。
 そんなに奥まった場所まで来ていないはずなのに、木々の切れ目がなかなか見えない。張りだした根が縄手のように行き先を邪魔する、足をとられ、つんのめり、それでも必死に駆けた。泣きたかったし喚きたかったけれど、死に物狂いのときに声は出ないのだ。息を吐くことも忘れて引き攣るように彼女は走った。
 拓けた場所にでる。鍬の手をとめてこちらを見やるラルヴァンダードの姿が見えた。あそこまで。あとちょっと。
 背後の呼気が急激にせばまる。熱く、荒い、真っ直ぐにおのれの首筋を狙う複数の視線に頭が真っ白になった、どうしている、自分はきちんと走れているだろうか、前に進んでいるのだろうか、足がしびれて動いているのかすら判らない、ただ絞り出すようにひとこと自分の口が男を呼んだ気がした。
 腕を掴まれ引き寄せられる。男の体に勢いよく衝突してようやくコロカントは止まった。止まることができた。思考は依然真っ白なままだ。
 ……伏せて。頭を低くして。目をつむって。
 落ち着いた静かな声に無感動に従う。いったい自分がどうなっているのか、男がどうするつもりなのか、そもそも襲ってきた獣が何なのか、それすらコロカントには判っていなかったのだ。
 視界を塞ぐと聴覚だけが過敏になった。馬のいななき、獣のうなり声、男の吐く息、ごきりと骨の砕ける鈍い音、ああどうしてあれが鈍く聞こえるか、なぜなら固い骨はぶよぶよとした肉と皮に包まれているからだ、だからあんなふうにくぐもった音になるのだ、姫。誰かの声がする。姫。終わりました。もう大丈夫です。
 そこではじめて顔を上げ、彼女は男と、男のうしろに転がる獣の死骸を見た。
 だらりと舌を口から垂らし泡を吹いて目をむいた生き物。あれはなんだろう。彼は無事だったろうか。
 見かけた男の体に赤い色が広がっていた。どうしよう。仰天してコロカントはまた頭をかかえる。怪我をしたのかもしれない。あんなたくさんの獣にかこまれて無事で済むはずがない、どうしよう。
 生きものが死ぬ、という事象を彼女は理解していたし、体のつくりがどういうものかもだいたい判っている。血も肉も怖いことはない。ここは森の中だ。
 見回りの途中にラルヴァンダードが、罠にかかった小動物を下げて戻ってくることが偶にあった。食べるためにも皮を剥ぐためにも、まずは放血をする。首の太い脈に刃をあて横にひき、そのまま足を縛って逆さに吊る。獲物の体から綺麗に血は抜けたところで捌くのだ。
 血液はだいたい滴り落ちているから、捌く途中でひどいことにはならない。
 臓腑をより分け、食べられるものは塩に漬ける。または香草と一緒に鍋に放り込む。白身の部分は一度融かしてあとで蝋に固めた。
 骨は砕いて畑に埋めた。よい肥料になる。
 皮は剥ぎ、肉と脂を削いで川の水で何度ももみ洗う。汚れや脂がおちると、男が丁寧になめし、敷物や寝床の上掛けになった。
 それが日常の暮らしで、だから、コロカントは群れのむくろを目にしたからおそれた訳では決してないのだ。ただ、ラルヴァンダードがどうかしてしまうことは怖いと思った。
 どうしよう、どうしようと頭の中で同じ言葉を反復する。たしかめれば早い話だ。なのに体が動かない。
 そのうち、くそ、と男が吐き棄てる声がした。そうして静かになる。たしかめることも怖かったけれど、なにも聞こえないことはもっと怖い。そうっと顔を上げるとこちらに背をむけ、うなだれたラルヴァンダードの姿が目に入った。
 やっぱり……、怪我をしたのかも。
 恐怖にかられる。
 たまらなくなってやにわ勢いよく立ちあがり、コロカントは男のわき腹のあたりにしがみつく。頭を押し付けると乾いた煙草のにおいがした。
「……姫?」
 戸惑った男の声がする。顔をうずめていると、ややあって、ためらいがちに彼女の頭を撫ぜる手があった。
 姫、と吹きこまれる。
「お怪我はないですか」
「……ないです」
「そうですか」
 ほっと肩の力を抜く気配があった。そうしてラルヴァンダードは黙って彼女の頭を撫ぜている。なにを考えているのだろう。見上げると見下ろしていた男の視線とかち合った。
「姫?」
「あの、……釦」
 言ってコロカントは握りしめたままだった、左の指をひらいた。あまりにかたく握りしめすぎて、指先が攣ったようになっていた。
「釦?」
「拾ったんです」
「これは、」
 言って男の瞳にさっとおかしな色が混じる。剣呑や、驚愕や、不審。ひとときのことだったので、彼女が息をのんだ次の瞬間にはその色は掻き消えていたのだけれど。
「レヴ?」
「……どこで拾いました」
「前に、レヴが教えてくれた、野萱草の生えている場所の近くです」
「古い槐の木からすこし奥のところですか?」
「はい」
「……そうですか……」
 コロカントが頷くと、ラルヴァンダードは顎に手をあてじっと考えこむ様子を見せた。男が黙っているので、相手のてのひらに彼女は釦を落とす。なにか気がかりなことでもあったのだろうか。それとも、いつ着けていたかだとか思い起こしているのかもしれない。
 じっと観察していると、彼女の眼差しに男はすぐに気が付いて、てのひらの上の釦を無造作に上着の隠しにしまい、それから
「ありがとうございます。失くして、困っていたところです」
 微笑んだ。
 それはずいぶんぎこちない笑みではあったのだけれど、コロカントは気付かない。
「さて」
 思いついたように立ち上って、男は土の上に放り出していた蔓籠と鍬を拾いあげ、
「姫はまだ野掛けをしたことはありませんでしたね」
 言った。
「……のがけ、ですか……?」
「はい。ここからすこし離れたところに、懇意にしているものたちの住まいがありましてね。そこまで行って、帰ってくるんです。今日は天気の具合も持ちそうですし、ちょうどよろしいでしょう」
「今から?」
「はい。今から、弁当を包んで」
「お弁当。いいですね」
 弁当と聞いて反応する。
 陽気のよい日に畑の畦や森の木陰に敷布をひろげ、その上で食事をとったことが何度もある。たとえば朝食べたものと同じものでも、外でとる特別感は妙で、好きなままごと遊びにも似ている気がした。どこかおもしろおかしく、つくりものの、くすぐったい行為。
「ハナに乗っていきましょう。ハナは走るとはやいですよ」
「ハナに」
 コロカントは、畑を耕す馬の背に乗ったことはあっても、駆けた馬に乗ったことはまだない。走る馬はどんなだろう。ラルヴァンダードと自分、ふたりも乗せて重くないだろうか。すごい。わくわくとしてきた。
 判りました、と頷いて男が差しだした蔓籠を受けとった。弁当を籠につめるのが彼女の仕事だ。レヴは、とたずねると、こいつらを始末してゆきますと後ろをしめして男はこたえた。
 動かない犬のむくろのことである。
「野晒してゆくわけにもいきません。埋めます」
「はい」
 ひとまず頷いて、家へ戻る。
 動物の毛皮は貴重なものだ。そうして襲ってきた獣の体は大きかった。
 転がっている三、四頭から剥製すれば、立派な敷物になるだろうに、どうしていつものように使わないのだろう。聞いてみたい気がしたが、男がおのれの体を壁にして、むくろをなるべく自分に見せないようにしていることにも、彼女は気が付いていた。無残に打ち殺したそれらを見せたくないようだ。
 だったら素直に男の指示に従った方がよいと思う。
 籠をかかえて家に戻るコロカントは、だから男に渡した釦が男のものではないこと、戻る彼女を確認しながら彼が隠しを上から無意識に抑えたこと、そうして非常に昏い目になったことを知らない。
 鷹の目に赤い貴石はハブレスト国の紋章だ。


 薪の爆ぜる音と言うものはどうしてこうも眠気を誘うのだろう。
 それとも、一日の疲れがいちどきにでてくるこの時間、ねらって自分が暖炉の前に居座っているのかもしれない。
 そうしてどうして眠くなるのか、だとか毎晩答えもでない哲学的なことを、男はぼんやり考える。
 暇なのだ。
 このところ寒さがゆるんだ。もちろんまだ十分しばれるが、夜明けに目覚め、自分の布団のちょうど呼気があたり湿る部分に薄い氷が張っているだとか、そうした底冷えのする寒さはもうない。
 寒さがゆるむとどうにも体と言おうか、気までゆるんでくるようで、それでも日常決められた仕事はきちんとこなしているものの、こうしてやることがすべて終わり、暖炉の前に座り込むともういけない。あくびばかりでる。
 その夜何度目かのあくびを漏らし、うん、と腕を上にあげ伸びたところを女が見とがめた。
 男の妻である。
 ひと冬ほとんどを部屋のなかにいたせいで脂焼けした目をしばたたかせ、いかにも億劫そうに糸巻き棒を男へ突きだしあんた、と彼女は言った。
「あんた、寝る前に、薪」
「……ああ」
 昼間、夜間の薪がないから補充しておくように、彼女から言い付けられていたのだ。宵の口あたりまでは頭の片隅にあったのだが、いつの間にかどこかへ飛んで行ってしまったらしい。
「忘れたんだろう」
「忘れてねェさ」
 しっかり忘れていた訳だが、言われると否定したくなる。それにとにかく面倒くさい。なかなか腰が上がらなかった。
 ゆるんだ、ゆるんだと連呼しても、日が落ちた外気は肌に突き刺すようだ。逆に心身がゆるんだ分、無性に寒さがしみる。出たくない。しかし薪を補充しておかねば、明晩彼らは寒さに寝ていられなくなる。そうすると女房に、あくる日しこたまどやされるだろう。
 それは嫌だった。しかし出たくない。
 なさねばならぬ行動と、なしたくないこころもちのはざまで、男がうだうだと悩みかけたところに、不意にどん、と戸口が鳴らされ、完全にゆるみきっていた彼はぎょっとして飛び上がった。
 鳴るはずのない扉だった。
 どうして。だれが。なにをしに。こんな時間に。
 同じように飛びあがった妻が、男にしがみつきあんた、と呟く。声に恐怖が滲んでいた。
「……誰だ」
 手近にあった太めの薪を持ち、腰を落として身構え、そろそろと扉へ近付き誰何の声をあげる。こんな夜にすまない、俺だ。聞いた覚えのある声がした。低い男の声だった。
 いぶかしみ、薪を油断なく構えたまま覗き戸から外を見ようとした男は、莫迦、脇から妻にせっつかれ、たちまち不機嫌になって横をねめつける。
「なんだ、お前」
「あんた判らないのかい」
「判らないって、何が」
「あんた本当に莫迦だね」
 睨みにまったく屈しなかった彼女は、彼を押しのけ、閂を外し、おい、と男が止める間もあらばこそ、手を伸ばしたときにはとっくに扉は大きく外へ開かれていたのだった。
 たちまち寒気が吹きこみ、正面からまともに浴びた男は肩をすくめ、身を縮ませる。
 細かな雪を連れ込みながら、ぬう、とまろうどが戸口をくぐり入り、それとともにおやまあ、だとかよくいらっしゃいました、だとか愛想のまじった声を妻が上げる。
「ラ」
「夜半にすまない」
「……ラルヴァンダード」
 外套の頭巾をはずし、おもてをあらわにし、客がまず謝った。見知った顔に名が口を衝いてでる。よくきた、と驚きながら知らず男の手が相手の手を握っていた。
「どうしたってんだ。本当に久しぶりじゃねェか。なにかあったのか」
「――頼まれてほしいことができてな」
「頼み」
「まあ」
 妻が驚いた声をあげた。さきほどの愛想まじりのそれとは違い、今度は心底驚いた声だ。
「あんた、あの、まさか、」
 彼女の目は一点に、ラルヴァンダードの外套の中に隠れていた、ちいさな体に釘付けになっている。
「――ああ」
 彼女の視線を受けてラルヴァンダードが屈みこみ、肩に手を置く。好奇心と緊張どちらもにじませた娘の耳に、姫、と囁いた。
「自分の知人です」
「はい。あの……、コロカントと言います」
 まなこをきらめかせ、頬を真っ赤にしてそれでも臆することなく彼女は名乗り、男と妻それぞれの顔をまっすぐに見つめて頭を下げた。
「はじめまして。どうぞ、よろしく」


「なにがあった」
 くたびれた様子のコロカントを妻が引き取り、体をあたためさせ、それから寝床へと連れて行った。あたたかい空気に安心したのだろう、娘は目をこすりながらおとなしくあとに従う。
 住まいから、馬で二日かかったとラルヴァンダードは言った。おおよそ十里。平坦な道ならば一日で踏破できようが、ここは森の中だ。道がない。ねじくれのたくった木の根に足をとられ、容易にはすすめない。大人の足で昼夜歩いたとしても、五、六日はかかる。
 それもずいぶん無茶をしたものだ。寒さと野宿に、大人はともかく子供をともなうとは、
「……近くに、これが」
 とりあえず、煙管をすすめた男に、ラルヴァンダードが隠しをまさぐり何か取り出すと、あいだの卓の上に置いた。釦だ。
 おもてに掘られた鷹の紋章を見て、男は眉をひそめる。
「……これは」
「ここ数日のあいだに落ちたものらしい。姫が見つけた。見つけてからすぐに、野放しの犬の群れが襲ってきた。犬ども、これを……釦の持ち主を探していたらしい。自分より、このにおいの付いた姫を、執拗に襲おうとしていたからな」
「犬」
「猟犬の群れだ。それとなく野犬に見えるように仕立てていたが、首の周りの毛が短い。首輪をはずした跡だ。それに、あの動き――、野生のものではありえない」
「猟犬を放したか」
 苦い思いが広がる。よく訓練された猟犬を、群れで野放しにする。とんでもない話だった。
 猟犬と言うものは名の通り、猟を行うときに人間の勢子の代わりに、獲物を茂みからおいたてる役割をになう。逃げるものを追う性質というものは、元来獣がもっているものでもある。追いたて、食らう場合はそれでいい。しかし狩りをする場合、主体は犬ではなく人間にあった。獲物を食っては困るのだ。
 主である人間の言うことを聞くように、長年かけて訓練する必要がある。
「手間」がかかる。
 手間をかけるということは、それだけ時間と金がかかるということで、犬として優秀なものは貴種として高額で取引された。一種の金持ちの道楽である。
 たつきを得るために山に入る猟師とは根本的にちがうのだ。
 道楽であったから、犬の性格も多分に変質させられて、温厚なものよりは凶暴なもの、小さなものよりは大きなものがより好まれた。
 闘犬の一種だったともいえる。
 そうした人為的に狂気を研ぎ澄まされた犬を、野に放つ。
 それは、主以外の人間を獲物としてみなす群れが放たれたということである。
「……物騒な話だ」
 くわばらくわばらと呟き、火皿をラルヴァンダードの方へ押しやって、それから男は先日訪れていた鳥撃ちと交わした言葉を思い出す。鳥撃ちの年老いた男は、この住まいを訪れる数少ない一人だ。
「半月ほど前に、旗が出ていたとか言っていたな」
「――旗か」
 猟師と異なり、貴族たちの狩猟はいわゆるひとつの、
「競技」
 だ。
 手まわりの人間と猟犬を引き連れて森へ踏み入る。先に述べたように、興奮の極度にある猟犬は、仮令止める主が近くにいたとしても危険だ。動くものはみな獲物として追い立てる。命を落とす。
 であったので、狩猟の際、地元の人間が森に入り込まないように告知する赤い旗が、各鐘楼などに掲げられた。たいがい掲げた一両日が、狩猟区出入り禁止の日となる。
 だが、とラルヴァンダードが煙管を火皿に近付けながら、
「半月も前の話なのだろう?」
 言った。
 一線を退いたとはいえ、ラルヴァンダードは所領地を有した騎士だ。その多くを戦場で過ごしてきたとはいえ、
「貴族」
 だとかいう分類に名をつらねている。男も同じだ。部下をともなって狩猟を行うこともあったし、行う際の事情についても知っている。
 人員を動かすと言うことは、金がかかると言うことだ。
 親睦目的の遊びに、一日二日ならまだしも半月もの日数をかけたためしを聞いたことがない。仮令それが狩猟に見せかけた軍事演習だったとしても、
「それに、わざわざ首輪を外す」
「……ああ。はずした奴らは、犬に襲わせてしかも事故に見せかけたいのだ」
 ふうむ。唸って男は眉間を揉んだ。
「――その『落し物』の持ち主はまだ森にいると踏んだんだな?」
「犬を下げていないと言うことはそう言うことだろう。くわえて情報も欲しい。数日留守にしたいが、群れがいつまた戻ってくるかもしれん。姫をひとりにしてはおけない」
「わかった。……ところで、ここへは、どうして来た」
 ふたり屈むようにぼそぼそと言葉をまじえていたのだが、それまで以上に声をひそめ、男はたずねた。同じようにラルヴァンダードも男の背後、コロカントが上がっていった螺旋階段を気にするような素振りを見せる。
「野掛けと言ってでてきた。あの方は何もご存じない。その紋様が、ハブレストのものであることも知らない」
「……わかった」
 ひとつ頷いて男は煙を吐く。
「まあ、ほうっておいても、姫君の世話ははあれが焼くだろう」
 くるむように娘の肩をかかえて寝床へ案内した妻を思い出す。
「大きくなられたなァ」
 三年。しみじみと思い返すように目を細め、男は言った。
 シビラが滅亡して三年。
 ラルヴァンダードがコロカントを連れて、森へ棲んで三年。
 またたきひとつ分の短さにも感じたし、そうでないような気もした。
 うむ、と向かいのラルヴァンダードが頷く。
「世間から離れて暮らしていると、時間の流れというものから取り残されたように、最初は感じたものだが……気が付くと、姫が日に日に成長されている。言葉を覚える。背が伸びる。高いところに届くようになる。おひとりでできることが増える。俺の時間の比じゃない。目まぐるしいようで、だがそれが、俺のときをはかる基準になっている」
「よいお子になられた」
「……そうだろうか」
「ああ」
 男がゆっくりと頷いてやると、向かいのラルヴァンダードが髪をかきあげ、ほほの内側がむずがゆいような、無理に苦味を押しつぶしたような、そんな顔をした。
「ゆるんでいるぞ」
 くつくつと低く笑い、男が背もたれに背を預ける。彼の、こんな顔を見たことがない。こんな顔もできるのだ。内心驚いた。
 肩を並べて戦っていたときの、かわいた、無感動な瞳を思う。


 寒くはありませんか。
 男の妻にたずねられた。はいとコロカントはこたえ、ほほや肩やわき腹にあたる寝床のやわらかさに、ほっと全身の力を抜いた。ぎしぎしと軋む体に、この感触は心地いい。
 野掛け、そう言ってラルヴァンダードと馬に乗った。
 二日分の弁当を籠につめ、水と防寒具を鞍にくくって出かけたそれは、たしかに彼女が今まで体験したこともない、わくわくするような出来事ばかりだった。
 馬の背から見える景色がまずちがう。
 のんびりと馬鍬を引く馬の背に、せがんで乗せてもらったこともあったが、速歩のなんとはやいことか。歩いたものとまるで違う。自分がどんなに必死になって走ったとしても、絶対にかなわない。
 馬と言うものは、とてもはやいものなのだ。感動した。
 それに、思ったよりも激しい前後上下の揺れは、馬の背とは思えない。ラルヴァンダードに拵えてもらった鞦韆(しゅうせん)のようだ。
 こわいですかとたずねられて首を振った。落ちる怖さは感じなかった。同じように馬にまたがり、背後からしっかりと支えていてくれる腕がある。
「すごいですね」
 老いた馬は、いちどきに長距離は走れない。走りつづけると言ってもひと鞍に一度は休憩をとる。
 ひと鞍の目安は今でいう四十五分から一時間という注釈もつける。
 コロカントやラルヴァンダードが生きたこの時代、「分」や「秒」といった、こまかに時を計るものさしは存在しなかった。日が昇ったか陰ったか。虫が鳴いているか。鶏がさわいだか。
 そうしたもので推し量っていた。
 それでもまったくものさしがないというのも、たとえば人と待ち合わせる時に困るので、一日の太陽の傾きをおおまかに十二室に分け、その一刻みを、
「ひと時」
 と言う。二時間単位で時間が進む。
 おおよそで生きていたともいえる。のびのびとした時代でもあった。
 その何度目かの休憩のときに、馬へ水を飲ませていたラルヴァンダードへ、コロカントは言ったのだ。
「なにがですか」
「わたしはハナのことが好きです。ハナも、わたしのことが好きだと思っていました」
「ハナは姫のことが大好きですよ」
「はい。でも、ハナはレヴのことが、もっともっと好きなんだって判ったんです」
 手綱を引く。腹を蹴る。首を叩く。
 そんなわずかな動作で、馬は実に従順に彼の意思に添った。
 勿論、彼の乗馬技術がずば抜けていたと言うこともあるだろう。だが人間の意思だけでは決してない、馬が人間を乗せてうれしいといった感覚、はずむ足取り、そうしたものを背に揺られながらコロカントは感じ取っていたのだった。
 ああ、たまらないのだなと思った。
 うれしくてたまらない。
 言って、それから彼女は手に提げていた籠を男へ差し出した。受け取り、包みをひらきながら申し訳ないですと男が言う。
「なにが申し訳ないのですか」
「湯があればよかったのですが」
「そんなこと」
 しょうがないです、わたしは大丈夫ですと彼女はこたえる。最初の休憩のときに、たいそうなさけない顔をして、じつは火口箱を忘れてきてしまったのですと男が言った。だから焚き火を熾すことはできないと。
 忘れてしまったのならしょうがない、言って彼女は納得する。
 籠に入れてきた弁当は、パンだとか乾酪だとか燻製肉で、火がなくとも傷まない、すぐに食べられるものになっていた。だからだいじょうぶと。
 ほんとうのところ、ラルヴァンダードが火口箱を忘れたといったのは口実である。彼の荷物を深く探れば、奥底にそれはあったろう。
 焚き火で恐れることは、煙と炎だ。遠目からも目立つ。狼煙を、
「烽火」
 とあらわすことがあるのもそのためである。伝達法にも重宝され、速度はひとが書を運ぶよりもずっと早い。
 夜間、煙が目立つ心配はない。しかし逆に炎のあかりは、おどろくほど遠くから確認することができた。木々が重なり、混み生えた森のなかであったとしても、どこによその人間がひそんでいるかわからない今、場所を報せることを男はおそれたのだった。
 しかし必要不可欠でないにしろ、早春、日の傾きはじめたあたりからぐんぐんと気温は下がり、たちまち手足は凍え、しびれた。強張ったほほはうまくろれつが回らない。
 暗くなる前に簡単な夕食をすませ、枝張りのよい木に先にラルヴァンダードが登り、彼女を引き上げた。ここで夜を明かすと言う。土の上は霜が降りるからと。
 歯の根が合わないコロカントを、ラルヴァンダードがおのれの外套の前に招きいれ、太い幹へ背を預けた。
「馬に揺られてくたびれたでしょう。すこしでも寝た方がいい。……寝心地はだいぶん、固いですが」
 抱きかかえられ、彼の体温に添ってようやく体の震えがおさまったコロカントは、外套から首だけ出して男を見上げた。うすぼんやりと輪郭が見える。
「はい。でも、枝から落ちてしまうかも」
「落ちません。自分が支えております」
「レヴが」
 それなら大丈夫。彼女は納得しかけ、それから、
「……でも、そうしたらレヴが寝られません」
 言った。
「寝ないでも自分は平気です」
「眠くなりませんか」
 寝ない。男の答えを聞いて仰天した。日が沈み、夕飯をとり寝ることが日課の彼女は、
「夜通し起きている」
 ことができない。目をつむると、すぐに寝てしまう。寝てしまうといつのまにか朝になった。
 朝がくると「あくる日」だ。
「……戦場では一日二日、寝ないことがザラにあるのですよ」
 だから平気です。コロカントの背中をおだやかに叩き、おやすみなさいと男は言った。戦場とはどうしたものかとたずねた以前、自分には見せたくない場所なのだと、男はそう言ったことがあった。人と人とが殺し合う凄惨な場所であるからと。
 眠らないで殺し合う。それはひどく異常なことのようにコロカントには思えた。
 口には出さない。頷き、ラルヴァンダードの胸にもたれる。
 男の体はあたたかかった。
 そんなことを思う。
 縫いつなげた毛の上掛けを重いほどコロカントの上に乗せ、寒くないですかと女がもう一度問うた。
「はい」
 ぼんやりと彼女の動きを目で追っていたコロカントは頷く。
「野宿じゃあ、ほとんど寝られなかったでしょう。……こんなちいさい子供を寒空に連れ出すなんて、ほんとうに、男ってもんは何を考えているのだか」
「でも、楽しかったです」
 おおきな枕に頭をしずめ、コロカントはにっこりと笑う。
「楽しい」
「はい。あのお家から、はじめて遠出しました。走るハナに乗ったのもはじめてです。泊りがけで、こうして他の人の家に来ることも」
 はじめてです。言うと女が不意にじっとコロカントを見つめ、なんとも言えない顔をした。悲しみのようにも見えた。
 どうして悲しい顔に見えたのか、コロカントには判らない。
 じっと見つめていると女は顔をしかめ、本当にね。乱暴に鼻を鳴らす。
「じゃあ、明日はもっとはじめてのことをたくさんしましょうね」
「はじめてのこと、ですか」
「そう。姫はお菓子を焼いたことはありますか。いっしょにお菓子を焼くんです。あまくておいしい、ほっぺた落っこちそうなお菓子。それから牛の乳を搾って。洗濯も掃除も手伝ってもらわなきゃいけませんね」
「洗濯も、乳搾りも得意です」
 うれしくなってコロカントは言った。これなら自分も役立てそうだ。ウシというものがどういったものか判らなかったが、乳を搾ると言う言葉から、山羊のようなものかと思う。
「いつも、干すのはわたしの仕事なんですよ」
「まあまあ」
 それは頼もしいです。女が微笑んで、そっと枕元の蝋燭をひとつ残して吹き消した。おだやかな暗さが部屋に広がる。
「眠れそうですか」
「……はい。ここは、わたしのお家とちょっと似ていますね」
 星明りしか光源のない闇の中で、ここに辿りついた瞬間、一瞬彼女は我が家に戻ってきたのだろうかと錯覚した。姿かたちがとてもよく似ていたのだった。
 ぐるりと囲んだ堀。石造りの筒状の三階建て。扉のかたちや、内部の壁に添うように張られた階段。
 ちがったのは、そこに知らない大人の男女が住んでいたと言うこと、食卓のかたち、椅子の数、そうしてコロカントとラルヴァンダードの住まいでは崩れている三階部が、階段の先に続いていると言うこと。
 三階はどうなっているのだろう。たしかラルヴァンダードから、もともと見張り塔として使われていたと教えてもらったことがある。見張り塔。その役割がどういったものか、説明されても彼女には判らなかったけれど、
「明日、起きたら屋上に行ってごらんなさい」
「屋上ですか」
「できれば、お日さまが昇る時分にね。朝もやと霜で青く沈んだ森が、昇ってくる太陽に照らされて、たちまち橙色に色づくんですよ。一声に小鳥が鳴きだすんです。そりゃあもう、見事なもんですよ」
「まあ」
 ぜひ見たいです。目を輝かせてこたえると、じゃあ今夜はもう寝ませんと、女がまた笑っておやすみなさいと彼女の額に口付ける。
 襟元をとんとんと叩かれ、それから下へ降りていく態の女へ、あの、と何層もの上掛けから首を伸ばしてコロカントはちいさな声で問うた。
「あの、……レヴは」
「なにやらうちのひととむずかしい話をしてるようですよ。終わるまで待っていたら、朝になってしまいます」
「そうですね」
 家にやってくるホルミスダスやグシュナサフとも、夜明け近くまで話し込んでいることがよくあった。だからそうしたたぐいの話なのだろう。
 おやすみなさい。言ってあらためて枕に埋もれる。
 同じ藁布団のはずなのに、家のものと感触もにおいもちがう。「よそ」に泊まりに来ているのだなと思った。そうして目を閉じ、すぐにコロカントは寝息をたてはじめる。


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(20120910)
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最終更新:2012年09月14日 20:27