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 東の空がこころなしか白んできた気がする。
 馬の背に鞍を乗せ、腹帯を締め、数日分の食料と水を積んでラルヴァンダードは、いま一度振り返り、古びてはいるが頑丈な建物を眺めた。
 夜が明けるまで休んで行ったらどうだ。
 すすめてくれた主にありがたいと思いながら、首を振り、
「すぐに出る。数日姫を頼む」
 そうこたえた。
 ワールーンの森は深くて広い。付近の住人は迷いの森と称して中まで踏み込まない。
 地形に助けられている。だが仮に、ハブレストの手のものが近くに迫っているとしたら。
 そう思うと一刻もはやく動きたかった。なにしろすでに二日経っている。
 付近に間者がいるかもしれない状況で、コロカントをひとり住居に置いておくことはあまりに危険だった。家から出るな、閂をしてじっといろと言づければ、おそらく彼女はその通りにするだろうが、迷い込んだ人間ならともかく、仮に彼女を狙っているとすると、扉を打ち壊してでも侵入し、蹂躙してゆくだろう。隠すことも同じだ。火を放たれてしまえば、どちらにせよ出てゆくよりほかない。
 かといって猟犬の群れが彷徨している森中に、ひそませることはやはり恐ろしく、手ごろな洞窟木洞のたぐいもラルヴァンダードは知らなかった。
 思い至ったのは、病に罹ったかつての同僚のことだ。
 同僚のもとを訪れる人間はごくわずかで、その上彼の人がらはたしかだったし、彼の妻もコロカントに悪いようにはしないだろう。預けるのにこれより信頼できる場はない。
 おのれの領地のこの森で、人目を避け生活していることは知っていた。と、いうよりもコロカントを託された際、潜伏先を吟味したラルヴァンダードが、最終的に頼ったのがここだ。
 容易にハブレストの手も及ばない。
 出がけに眠る少女の顔をおさめてきた。ぐっすりとよく寝ていた。
 慣れない馬の揺れと寒さに、おさない体へずいぶんと無理をさせてしまった。なのにつらいだとかきついだとか、一言も口にしない。辛抱強い子供に育ててしまったなと思う。
 朝、目覚めて自分がいないことを知ったらさびしがるだろうか。思い、それからそれはないなと打ち消した。時々彼は見回りのために泊りがけることがあったし、そのあいだコロカントはじっと家で待っている。
 ひとりで留守番のできる彼女が、世話を焼いてくれる大人ふたりいるここで、心細く思う道理はどこにもない。
 よかった。安心して出かけられる。
 だのに、すこしはさびしがってくれるとよいだとかいう、我侭がわいてくるこころもちはどういうことだ。
 苦笑し頭を振った。
「……ハナ」
 背にまたがり、行こうかと老いた馬の首を叩いてやる。
「働かせづめですまんな」
 ぼやくと、気にするなと言うように力強く鼻を鳴らされた。
 

 女が教えてくれたような、森が朝に目覚めてゆく景色を見たいと思った。だったのにコロカントが目を覚ますと日はすでに高く昇り、階下からは朝食の支度の音が聞こえてくる。
 寝過ごした。
 あわてて飛び起き、枕元に畳んでおいた着替えにてばやく身を通す。寝床をととのえ、木靴を履いて、ぱたぱたと階段をつたい階下へ降りた。
 階段のかたちが我が家と同じものだったので、一瞬既視感がはしり、おかしなこころもちになる。
「おはようございます」
 階下には女がひとりだった。鉄なべの中身を杓子でかきまぜる中途で、コロカントの足音に気付いて振りむく。
「おはよう。まあ、そんなにいそいで。……まだ寝ていたって、ぜんぜん、よかったんですよ」
 なにしろ、昨日の今日なんだから。
 言われてもう平気ですとコロカントはこたえた。無理を押している訳ではなく、一晩ぐっすりと眠った体はとても軽かったのだ。
「あの、お手伝いします」
 火にかけられた鍋からはよいにおいが漂っていた。言った端から、ぐうと腹の虫が鳴る。聞きつけた女があらまあと言って笑った。快活な笑みだ。
「ありがとう。でも、これは手伝ってもらうまえに、ご飯を食べて腹ごしらえをしなくちゃあいけませんね。顔を洗っておいでなさい」
 そのあとで髪をくくってあげますから。
「はい」
 頷き、コロカントは扉を押して戸外へ出た。女に示されはしなかったけれど、家のつくりが同じなら、戸外の水まわりの設えも同じだろうと思ったのだ。
 戸口の前には彼女の住まいと同じ跳ね橋があって、しかし上げたままの彼女の家の橋とは違い、下ろされて固定されている。見なれたもののかたちがすこし違っているだけで、どうにも不思議な感じがする。
 裏手に回ると思った通り水場があった。四角い木おけに水が張られ、側には手拭いがかけられている。水面の端の方に薄い氷が張っていた。朝方冷えたのだろう。
 すこし離れた向こうでこの家の主が薪を割っていたので、おはようと声をかけるとおはようと返された。
 きょろきょろとコロカントはあたりを見回す。ラルヴァンダードが近くにいないかと思ったからなのだが、あいにく彼の姿は見えず、代わりに茶と白のぶちの大きな動物を見つけた。薪を割る男の側で、ゆったりと積みあげられた干し草を食んでいる。
 あれはいったい何だろう。
 水で顔をあらい、そそくさと拭いて、コロカントは男の邪魔にならないように、その大きな動物を驚かせないように、そろそろと近付いた。近寄り、動物を見上げ、はあ、と感嘆の息がでる。
 大きい。
 体高としては、彼女の知る馬とそうたいして変わらないのだが、横幅が違う。太い。たとえば馬が布巾を絞ったかたちとするなら、この動物は空気をたくさん詰め込んだ毬のようだ。
 ああまるいのだなと思った。まるくて、だのに背のあたりは角ばっており、四角い。
 鼻の孔。鼻づらの上の黒い目は穏やかな色をしていた。近寄ったコロカントを興味深そうにこちらも見つめ、呼気を出す。ちいさなふたつの耳のあいだに、角が見えた。ハナほど首が長くなく、たてがみもないようだ。
「どうしました」
 口を開け、凝凝知らない動物を眺めるコロカントに気付いたらしい男が、薪を割る手をとめ、怪訝そうに彼女を見やった。
「これは……ウシ、ですか」
 後ろ脚のあいだに大人の親指ほどある乳首がよっつ。もうすこし細いものがふたつ。大きさは違えど、張った乳房のかんじが山羊のものと似ていたので、そう言えば乳搾りがどうとか昨晩女が言っていたことに思い当たり、コロカントはたずねる。
「そうです。牛です。姫君のところにも牛はおられましたかな」
「ウシはいないのです。でも、チチと名前をつけた山羊がいました。チチに、すこし似ている気がします」
 角のあるなしだとか。腹のまるい膨らみ具合だとか。言うとほう、と男が感心するような声を出す。
「山羊がおりますか」
「はい。仔を産んでお乳を出してくれました。でも仔が大きくなって、お乳があがってしまったので、ガシューが町へ持っていってしまったんです」
 次にくるときには腹に仔をつけて持ってきますと、グシュナサフは言った。山羊がまた仔を産めば、毎日あたためた乳が飲める。乾酪や醍醐をこしらえる仕事もできる。つくる際の撹拌する作業が彼女はとても楽しみで、グシュナサフが山羊を連れてもどってくるのを、首を長くして待っていた。
 そうですか。コロカントの言葉を受けて男がゆっくりと頷き、ややぎこちない動作で手斧を脇へ置いた。あたりに散った薪を拾いあげるようだ。
 左手から肩にかけて手巾をぐるぐるに巻いている。眺めているとどうも半身が不自由なようだった。
 その手では拾いにくいだろうと、あの、とコロカントは声を出した。
「家の中に運びます」
「……いえ、姫君にそんなことをさせるわけには」
「レヴが割った薪は、わたしが運ぶんです。レヴのように、いっぺんにたくさんは持てないですけど」
 彼女が何往復もしなければいけない量を、いちどきにラルヴァンダードは抱えることができる。そんなことを思い出した。力の差だろうか。腕の長さだろうか。そのうちもっと大きくなったら、同じような量をもてるようになるだろうか。
 薪を両腕に抱えはじめながら、どうして布を巻いているのですかとコロカントは男にたずねた。素朴な疑問だ。
「ぶつけたりしたんでしょうか」
「ああ……、これは、怪我じゃあねェんです」
 彼女の視線を感じた男が右のてのひらで左腕を撫ぜ、ちいさく苦笑する。
「病なんで。昔に発症しましてね。厄介なもんで、日にすこしずつ、不自由になってゆく」
「痛いですか」
 男はいったいいくつなのだろう。むかし、というものがどれほどの長さか彼女には判らなかったけれど、すくなくとも自分の知っている長さよりはずっと長いのだろうと思う。曖昧に頷いた。
 ひとつ寝るたびに、彼女の中でできることが増えてゆく。しかし彼はひとつ寝るたびに、いままでできたことが、できなくなってゆくのだ。
 ひととして、それはとても怖いことではないか。だがその怖さは、まだ彼女の知らないものだ。
 両腕一杯に薪を抱えたコロカントは、ではまたすぐきますと言い置いて、いそいで家の中へ駆けてゆく。振り向きもしなかったので、男がいやまったく実によい子になられた、とひとり語散たことを勿論知らない。
 十数年前、男は病に罹るとすぐにこの森へ退いた。半ば退き、半ば追い払われた。
 感染を嫌われて孤立したのだ。
 おかげで住まいを訪れるものは片手の指で収まる程度だ。退いたことを知ったほぼすべての人間が、関わりを懼れた。もともとあった迷いの森の名は、重ねて忌み嫌われた。
 病の名は癩という。


 体の芯まであたたまる朝食のあと、コロカントはさっそく腕まくりをし、まずは皿洗いから手伝いをはじめる。側に付き彼女の手際を褒めた女は、昨日はあまりにくたびれてよく観察もしなかったが、ふくよかな肢体を持っていてどこか不思議な感じがした。
 コロカントがおとなの女を見るのは、それがはじめてだったのだ。
 多少の上下はあれど、彼女の知るラルヴァンダードやこの家の主とそう体格差はないように思われる。胸まわりと腰まわりは、女の方が幅があるのではないか。大きく揺れる乳房が着込んだ服の上からでも見てとれて、抱きついたら気持ちが良さそうだ。 
 おとなの女と言うものはみなこうしたものなのかしらんと思い、自分もそのうち背が伸び、胸も腰も大きく張るのだろうかと考えた。皿を洗いながらおのれの体を見おろし、ちいさく、たよりなく、なにもない体にがっかりする。 
 おとぎばなしに出てくる王女は、みなおとなだった。おとなの彼女たちは、おとなの王子や騎士と恋をする。
「姫」
 おのれの体を見おろす彼女に気づいた女が、
「姫はゆっくり大きくなればいいんですよ」
 小麦をはかりながら言った。彼女の考えはとっくに見通されていたらしい。
「いそいで大きくなる必要なんて、ないんです」
「でも」
 こたえてコロカントは顔をしかめる。彼女はとにかく、はやく大きくなりたいのだ。
 はやく大きくなれば、ラルヴァンダードや、グシュナサフやホルミスダスの手伝いをすることができる。むずかしい話は理解できないけれど、彼らがシビラ再起のために動いていることは判っていた。
 そうしてなるべく、その話題を自分に聞かせたくないと言うことも。
 姫。言い聞かせるように、今度は大麦をはかりながら女は言う。
「おとなになるとね、おとなはみんな、ああもっと子供でいられたらよかったのにって、どこかできっと思うんですよ。だから、姫は子供のうちに、たくさん、子供しかできないことをするといいんです」
「子供しかできないこと……ですか」
「そう。思い切り遊んで、思い切り食べて、こうして」
 言って女は木量りを手ばなし、腕をひろげるとぎゅうとコロカントを抱きしめた。女の体からは優しいよいにおいがした。乳房があたってやわらかい。今までおとなの男に抱きしめられた感触とまたずいぶんと違う。どきどきする。
「たくさん抱きしめられて。わがままも言って、おとなを困らせるといいんです」
「わがまま」
 そう言えばラルヴァンダードにも同じようなことを言われた覚えがある。それを言うと、でしょう、と女が大きく頷いた。
「姫は、ラルヴァンダードをもっと困らせてやるといいですよ」
「わたし……、大きくなったら、レヴのお嫁さんになりたいって言ったんです」
「あら、まあ」
「でもそれはきっと無理なんです。とてもよわった顔をしたもの」
 困らせることはもう言わない。男の顔を見てコロカントは思ったのだ。うつむいた自分の顔が悲しそうになったのかもしれない。あんの唐変木。耳もとに女のぼやきが聞こえてえ、と彼女は顔を上げる。
「……とうへ……?」
 いったいどう言う意味だろう。首をひねると女が笑って、何でもないんですよと急いで手を振った。
「さあ。皿洗いを終えたら、乳搾りしましょうか」
「はい」
 最後の皿を水切り籠に上げ、コロカントは女に頷いた。
 とうへんぼく。どういう意味なのだろう。後でこっそりラルヴァンダードに聞こうと思う。


 その唐変木。
 馬をはしらせ、あたりに気を張りながら、一旦おのれの住まい近くまで戻っていた。まず釦の落とし主の行き先を、突きとめたいと思ったのだ。
 コロカントに教えたおぼえのある野萱草の群生地、古い槐の木をたどり、ラルヴァンダードはじっと地面に目を凝らす。
 とりたてて動いた覚えもなかったけれど、じわりと汗が染みだし額をぬぐった。
 よく見ると、土のおもてに足跡が見てとれる。これは通常の人間には判らないが、野山になじんでくるといつの間にか
「見える」
 ようになっているものだ。要は神経が研ぎ澄まされ、目が地面のうねりに敏感になるのだろう。自然にできた土ずれと、動くものがつけた土ずれは完全に別のものである。
 熊撃ちや虎撃ちが、獲物のあとを見失わずに山林を追ってゆけるのも、この「跡」を見る目が養われているからだ。元来生きものの持つ特性を、取り戻すのかもしれぬ。
 熟練したものになれば、地面にのこされた跡を見るだけで、追うものの身長や体重、からだの癖、年齢、雌雄の区別すら見分けられるようになる。これはもう訓練ではどうにもならないもので、長年の「勘」とでもいうべきものだろう。よい目を持つと言われる猟師は、みなこの「勘」を持ちあわせている。
 だがさすがにその域にまでラルヴァンダードは到達していない。
 彼にできるのは、土の上にのこされた跡を見失わずに辿ってゆくことだ。
 跡はふたつあった。ひとつは来た道を引きかえすように、しかも戻るときは幅が広い。歩幅が乱れている。これはコロカントのものだと彼は判断した。獣の群れの気配を感じ、駆けだしたもの。
 もうひとつを慎重にラルヴァンダードは辿った。
 足跡の主は、苔を踏み、羊歯を折り、湿った地面に足を滑らせないようにわりと小幅に歩いている。
 野山を歩きなれた人間の足跡だ。
「……これは案外まずいかもしれんな」
 口の中で呟き、いっそうあたりに気を配りながら馬の口をとり先に進んだ。四半時ほど無心にあとを追う。
 知らない人間の「しるし」は、彼が来た方角――つまり彼の同僚の住まいの方角へと進んでいるようだった。まずいぞ、と思う。ほほを汗が伝い、わずらわしくてラルヴァンダードが乱暴に拭った。拍子にくん、と手綱に抵抗を感じ、ふり返ると馬が足をとめている。
「ハナ?」
 神経質に耳を動かし、馬があたりをさぐっている。何かいるのかもしれない。
 息をひそめ、じっとラルヴァンダードも耳をすませた。しかし彼の耳はなにも聞き取れない。ただおのれの緊張した脈音が、うるさいくらいにこめかみに響いた。また彼は汗をぬぐった。じんと静かだ。
 しばらく様子をうかがうそぶりを見せていた馬は、慎重に歩き出し、やがて半里ほどすすむと茂みに隠された大きなかたまりを見つけ、前唇をまくりあげ威嚇した。
 人間の体だった。
 隠れたと言うよりは隠されたと言った風のそれは、赤黒く汚れ、こと切れている。
「……これは」
 肩のあたりから胸もとにかけて、汚れはいっそうにひどかった。しゃがみ込んで体を検める。見知った顔ではなかったので、ラルヴァンダードをたずねてきたと言うわけでもなさそうだ。
 しらべながら、むうと唸る。
 はじめラルヴァンダードは、釦の落とし主がこの人間なのだとあたりをつけていた。どうして追われているのか、何故ハブレストのしるしをもっているのか、経緯かは判らないが、何かの理由があって森へ入り、猟犬に追われ、からくも逃げ延びたものの、ここで力尽きたのではないかと思っていた。
 しかし胸もとの傷痕は明らかに刺傷で、これは細い剣のあとだ。なかにはいくつか深いものもあり、原因は失血死。とすると、突いた人間が他にまだいると言うことになる。
 さらにさぐると、小指ほどの木笛が転がり出た。犬笛だ。
 む、とまた唸った。
 犬の嗅覚はすざまじい。数里はなれていても簡単に嗅ぎ分けることができるはずで、現に彼の馬はそのにおいを感じ取ったのだ。馬にできて犬にできぬ道理がない。だが、これだけ出血していると言うのに、群れの足跡は付近になかった。
 群れは、この人間を標的にしていない。
 すると考えられることはふたつ。この人間は猟犬の群れを放った側だと言うこと。この人間へ斬りつけ、ここから移動したものがいると言うこと。
 むくろは茂みに隠れたのではない。別の人間が隠していったのだ。
 顔をあげたラルヴァンダードへ、草を食んでいた馬がさししめすように前脚で地を掻き、鼻を鳴らす。
 湿った土にまぎれて、よほどよく見ない限りまぎれてしまう跡。ここで一度剣を振るい、血のりをはらった跡。
 この足跡はまた別のものだ。かたちが違うし、なにより歩き方が不恰好でよたよたと進んだ風である。
 追われているのはこの人間か。
 急に息苦しくなった気がしてラルヴァンダードは襟元をゆるめる。はずみでぐらりと地面が揺れ、蹈鞴を踏んだ。
 

 静けさの中に羽音をひびかせて数羽烏がよぎり、見張り塔の周りで鳴き交わす。コロカントが手にした手桶の芋の皮やら、卵の殻のにおいでも嗅ぎつけてきたのだろうか。畑に豆をまいた際、なんども穿やられたおぼえのある彼女は、あまり烏によい感情をもたない。たしかに羽は濡れたように真っ黒で、つやつやとしとてもきれいだ。幅広のくちばしもどこか愛嬌があるし、鳴き交わす声も例えば鶸のさえずりとは違って、どこか会話をしているようにも聞こえる。
 けれどやはり豆を穿りかえすのはいただけない。
 いくら撒いても撒いた端から食べられ、追ってもすぐに戻ってくる。日がな一日追っていたコロカントはとうとう癇癪をおこしたが、腹を立てても相手は涼しい顔である。結局ラルヴァンダードが朝まだ日の登る手前、烏がいない時間を狙ってこっそり畑に豆を撒き、ようやく人間が豆にありつくことができた。
 手桶の中身を大きく掘った穴に捨て、上から土をかぶせる。こうしたところで自分の姿が見えなくなれば、きっと烏は舞い降りてくるのだろうがそれでもむき出しにしておくわけにはいかない。
 家の中では、女とふたりで型をつくった焼き菓子がもうすぐ焼ける頃合いだ。
 焼けたらお茶にしましょうねと女に言われ、それなら焼ける手前のすこしの時間で、とコロカントはこうして家の裏手にやって来ていたのだった。
 女は人好きのする風貌にたがわずたいそう親切で、自分はずっと子供がほしかったのだと言った。ほしかったけれどできなかったのだと。
「姫のようにかわいい子ができればいいのに、ってずっと思ってたんですよ」
 それに夫と二人の暮らしで、訪れるものも月に一度がせいぜいなのだと。だからこうしてコロカントがいることが、嬉しくてしょうがないのだとそう言った。
 おかあさん。
 コロカントに両親の記憶はない。気づいたときからずっとラルヴァンダードとふたり暮らしで、そこへグシュナサフとホルミスダスがふた月に一度やってくるだけの暮らしだった。気づいたときよりそうだったから、退屈だともさびしいだとも思わなかったけれど、彼らが買い与えてくれた絵本の中には、両親と暮らす子供の話もいくつかあった。たいして自分の境遇と変わりはなかったように思う。一軒家で、家畜を飼い、薪を積んで冬を迎えた。
 ただ、絵本の中の子供には「おとうさん」と「おかあさん」というものがいて、それはコロカントの知らない人間だった。ラルヴァンダードにたずねると、おとなの男と女のことだと言う。おとなの男女を夫婦と言って、夫婦で暮らすうちに子を授かり、産み、育て、家族になるのだと言った。
 だとするとラルヴァンダードは「おとうさん」のようなものだろう。聞いて彼女は思った。グシュナサフやホルミスダスも同じだ。ただし自分には三人のおとなの男とは別に、本当の「おとうさん」がいて、その父は母親とともにシビラ陥落の際に亡くなっている。だから三人のおとなの男たちは、父のようで決して父ではない。
「おかあさん」はもうすこし難しかった。彼女の暮らしにおとなの女がいない。ここにきて、はじめて女に触れ、ああおとなの女と言うものは、やさしくて甘いよいにおいがして、抱きしめてもらうとどこかくすぐったくて嬉しいものなのだなと思った。
 顔も知らない母を思う。
 彼女を産んだ母も、やわらかな存在だったろうかと。
 それにしても、とコロカントは木の上を見上げ、息を吐いた。よく鳴く烏どもだ。はやく家に入れと彼女に喚いているのだろうか。離れてくれないと漁ることができないから。
 手桶を抱えなおし、仕方なく家へ戻ろうとした。喚声に追われるようにしたがうことはまったく面白くないが、いつまでも突っ立っていてもしようがない。
 戻ろうとしたコロカントは、ふと木立の中に違和感を感じて振りかえる。なんだろう。なにが気にかかったのだろう。烏か。いや違う。もっと下の方、うっそうと茂る下生えの中になにかがいる。
 たちまち体が強張る。またあの獣の群れだったら。
 いそいで家の中へ駆けこめばよかったのだけれど、背をむけることは怖かった。あの首の産毛がすべて逆立つようなぞっとする獣の喘ぎ、真っ直ぐに自分を狙った息遣い、ラルヴァンダードへ辿りつくまでの永遠のようなときの長さ。
 ごくりを唾を飲みこみ、目を凝らした。群れの声は聞こえない。茂みが動く気配はない。
 ……気のせいだろうか。
 しかしなおも辛抱強く眺めていると、下草の茂みがかすかに動くことに気がついた。
 呼吸をしているものがある。
 飛びだしてこないところを見ると、群れと恐怖したのは自分の勘違いで、なにか小さな動物、だとえば冬眠から覚めた野兎だとか鼠だとか、そうしたものが息をひそめているのかもしれない。
 でもそれにしては、ずいぶん、揺れがおおきな。
 怖さよりも興味が勝って、ゆっくりと土を踏みコロカントは木立へ近付き、
「あ」
 短く息を吸う。
 人間がひとり、長く細く呼吸しながら倒れていた。
 意識があるものと見え、足をとめたコロカントへ顔を上げて、ぎらと睨みつける。うすよごれた顔の中で眼光だけが鋭い。
「近――くんじゃねェ」
 罅割れた唇から声を押し出し、それは彼女へ威嚇する。
「殺すぞ……!」
 片手に握りしめたままの剣が、鈍い色で光る。

 そこでたぶんコロカントは、金切声でもあげられればよかったのだ。しかし、

「あの、」
 呆気にとられたのは、まじろぎひとつぶんだけだった。
 殺すぞ、と脅した相手が不意にぐうと喉を鳴らし、背を丸めて咳き込みはじめた。乾いたうわすべりの咳だった。苦しそうだ、と思った。水を飲めばすこしはましかも。
 いそいでコロカントは踵を返し、水場で手桶を丁寧に洗うと、そこへ水をくみ上げ倒れた見知らぬ人間の側へ駆け戻った。水、と言って差しだす。ひったくるように手桶を奪われ、目を見張った彼女の前で水はたちまち空になる。
「――もっと?」
 一気に飲むなんて。どれだけ渇いていたのだろう。驚きながらたずねると、男が口をぬぐい、無言でうなずいた。ふたたび彼女は駆け、手桶に水をくみ、戻る。差し出すと、起きあがっていた男は今度はゆっくりと時間をかけ、手桶を干した。唇をはなし、長々と息を継ぐ。
 息を継ぐ男の様子を、近くからコロカントは眺める。若いのだと思った。ちょうど少年期から青年期へ移りかわる頃合いにその人間はいたのだが、コロカントに詳しいことは判らない。ただ、自分よりも年上で、ラルヴァンダードよりも下。
 そういう風に判断した。
「ん、」
 手桶を突き返すその頬が、痩せていると言うよりはこけていて、これだけ渇いているのだとしたら、ひょっとしてろくに食べ物も口にしていないのではないかと、コロカントは気がついた。
「あの。ごはん、いりますか」
 おずおずと彼女がたずねると、一瞬いぶかしむように目をすがめ、彼は彼女をじっと見る。いらえはなかったが、きっと入り用だろうなとコロカントは勝手に解釈した。
 しかしいりますか、と聞いたもののずいぶん餓えているようであったし、彼が満腹になるまでいったい何往復しなければならないだろうか。そのことに気付く。動けるならば青年が家の中に入った方が、運ぶ手間のない分ずっと手っ取り早い気がする。
「家のな、」
 家の中まで歩けますか。
 たずねかけた彼女の後ろから、鋭く低い牽制の声があがった。獣の唸りかと思った。驚いて彼女は振りむく。
 建物の壁に添って、ひどくおそろしい顔をした男が、不自由な左半身を庇いながら剣を構えている。おそらく彼女の帰りが遅いので、様子をうかがいに来たのだろう。つい先だって、のどかな顔で牛の世話をしていた男を思い、ぜんたい、なにか悪いものでも取り憑いたのだろうかとまずコロカントは思った。
 それほどの変貌だった。
 同じ人間が、ここまでやさしい顔とおそろしい顔を浮かべわけられるものなのか。
 ひゅっと息をのんだ彼女の後ろで、青年が身動く。見ると、同じようにおそろしい顔になった彼は、おもむろに腕を伸ばし彼女の体を引き寄せる。抵抗する間もなかった。引きずられ、胸元に抱きとめられて、
「――うごくな」
 喉元に刃。
「剣を棄てろ」
「てめェ……」
 男に言い放つ。
 言われた男はびっこを引きつつ、剣を手ばなすことは躊躇ったようだ。間をはかっているようにも見えた。そのまま、青年を刺激しない距離にまでにじり寄る。
 距離が狭まるごとに緊張感がいや増した。息苦しいほどだ。
「その子に、何かしてみろ。ブッ殺すぞ」
「剣を、棄てろ」
 ドスの効いた男の声には応じず、無感情に青年はくり返す。抱きとめられていたコロカントは、彼が必死に震える声をおさえこんでいるのが判った。それは怯えのための震えではない。飢えて力が入らないのだ。
 ……ああ。
 震えに気付いた瞬間たまらなくなって、彼女は青年の腕へ手を差し伸べた。伸べたはずみで体がすこし前に動いて、彼女の喉元へ鉄がこすれる。柔肌はすぐに破れてしまう。傷ついてしまう。ぎょっとした青年が刃をずいぶんおろすそぶりを見せた。
「莫迦、この、――!」
 どこの人間が喉元に剣を突きつけられた状態で動くと言うのだ。死にたいのか、睨めつける視線に物怖じもせず、コロカントは彼の片袖の金釦へふれた。
「わたし、森のなかで釦をひろいました」
 彼女が拾ったものと同じ、細かな細工の鷹の紋様。鷹の目にはめられた赤い石。
「レヴのものだと思っていたんですけど。……持ち主は、あなたなんですね」
「なんの――話――」
 毒気を抜かれたような顔になり、青年が彼女を見おろす。彼女の肩をにぎった指から力が抜け、語尾がゆれた。
「……お願いです、おなかが空いているのでしょう。ひどいことはいやです」
 噎せるほど水に渇き、餓えた青年が虚勢を張ることが、彼女はかなしいと思った。
 機を失い、彼女にのまれたかたちの男と青年は、互いに視線を見交わす。数瞬、相手がどう出るかとさぐり、おのれの身のふり方を逡巡したのだろう。
 先に剣を手ばなしたのは青年が先だ。あきらめと空ろさのまじった仕草だった。
 実際コロカントが動いた瞬間に、駆け引きはほとんど決まっていたのだ。
 仮に青年の方に本気で脅すつもりがあったのなら、喉元に刃がこすれたからと言って引く必要はない。引いたと言うことは、彼が本気で彼女を傷つけるつもりはないと言うことで、傷つけるつもりのない脅しは脅しとしては使えない。
「いいさ」
 青年は言った。投げやりな口調だった。
「いいさ。好きにしな」
 男も剣をようやくおろす。下ろし、青年を定める目付きになった。


 殺すなら、とっとと殺せ。
 見張り塔らしき建物の内部へ追いやられ、三階の柱に枷られた青年は、傍らへしゃがみ念入りに結ぶ男へ向かって短く言った。
「それが情けってものだろ」
「……殺すなと泣いて頼まれたんでな。今は殺さん」
「今は――か」
 失笑がもれた。最後には殺すか。ではどちらにしても同じことだ。
「ハブレストの人間か」
「……さァ」
「ハブレスト生粋の人間ではないな。見た目は北部の生まれに見えるが。どうして森へ入った」
「……さァ」
 こたえる気もない。
 嘲うと、やれやれと男が肩をすくめた。埒が明かんな、とぼやく。そのまま興味を失ったように足を引きずり階下へと消えた。最初から彼が素直に吐くとも思っていなかったようだ。
 ゆっくりと足音が下り、青年はつながれた柱へもたれる。つながれてしまってはどうしようもできないし、もともとどうするつもりも彼にはあまりなかったのだ。
 それに、つながれることには慣れている。
 頬をゆがめてうつむいた。階下からは菓子の焼けるひどく甘いよいにおいがして、正直ぶっ倒れそうだと思う。気が狂いそうなほど腹が減っていた。
 だがどうせ食えないのだ。いずれ殺す人間を食わせてやってどうする。食わせて力を揮われるよりも、餓え飢えさせ転がしていた方が管理もきっと楽だ。仮に途中で餓死したとしても、それはそれで手を下す手間が省けるだけだろう。
 瞠目し視覚を塞いだ。どうせなら嗅覚も遮断できればよいと思った。じわじわと真綿で絞めるような痛苦から、すこしでも解放されると良いのに。そう思う。
 そのまましばらく気を飛ばしていたようだ。半月ぶりにあたたかい空気に触れ体がゆるんだのかもしれない。それとも、なるようになれと腹をくくったせいか。
 気が付くと建物の中はしんと静まり返っており、壁に刻まれた細い明り取りの向こうは真っ暗だった。ここの住人はどうやら眠ったらしい。
 暗闇の中で息を吸い、吐く。気を失っているあいだはありがたいことに飢餓の苦痛から解放されたが、目覚めた瞬間またきりきりと胃が痛みだして青年は顔を歪めた。
 ここ二、三日はとにかく水がほしくてさまよった。最初の頃は溶けきっていない雪のかたまりがあったので、それを口に入れてしのいでいたが、日が経つにつれ根雪を目にしなくなった。雨でも降るか、うまい具合に川へあたればよかったが、そのどちらもない。朦朧と歩き続け、もう一歩も進めぬと倒れる。半日ばかり転がって、気が付くと子供が近寄っていた。
 住居の近くまで偶然にも辿りついていたと気が付いたのは、彼女から二杯目の水を受けとり飲み終えたあとだ。
 そんなことにも気づく余裕がないほど切羽詰まっていた。なさけない。自嘲する。
 ふと、仰のいた耳が足音をひろいあげた。
 ちいさな足音だ。
 あの少女のものだろう。しかし、剣を突きつけられても物怖じもせず、まったく変わった子供だと思う。夫婦らしい男女のあいだの子かとも思ったが、それにしては言葉使いや態度がうやうやしく、ぎこちない。上位は彼女にあった。
 妙だな、と思った。
 このあたりに住んでいるものなのだろうか。
 そんなことを思ううちに、足音は三階までやってくる。鬱陶しいと思ったがわずかに興味も湧く。こんな時間に、いったい何をしに来たのだろうと思ったのだ。
 小さな蝋燭皿を片手に、もう片手にふくらんだ袋を持ち、彼女が何度かこちらをうかがうそぶりを見せている。寝ているものかと案じたようだ。
 頭を巡らせ、片目を開けて青年が見ると、彼女はほっとした風になって、それからまた足音を殺しそうっと近付く。
 口を開きかけた彼へしいい、と指を唇に立てて見せ、階下をしめした。声をたてると下のおとなが起きるから。そう言いたいのだろう。彼は口を噤む。
 噤んだ彼の前に、ふくらんだ袋を彼女が差しだした。
「ごはん」
 ちいさく彼女が囁いた。
 差しだし、受け取らない彼に不審をいだいたようだ。腕を伸ばさないわけがあるのかと子供は青年の背後へ回り、彼が柱に括りつけられていることに気が付いたらしい。は、とちいさく息をのむのが判った。
「……どうして」
 呟くと無防備に近寄り膝を着き、縄目へ爪を立てる。無理だ、解けるはずがない。おとなの男の力で何重にもがっちりと結んでいったのだ。
「――おい」
 しばらく黙っていたものの、かりかりと結び目を掻き格闘する彼女へ、いい加減面倒くさくなって青年は口をひらく。腹に力が入らなかったので、抑えなくてもかすれ声になった。
「あまり寄るな」
「なぜ?」
「なぜって」
 顔をしかめた。自分を質に取ろうとした人間に、なぜとくる。ここまで根幹的な質問をされるとは思わなかった。
「……あのな。俺がもし、えらく悪意を持った人間だったらどうするんだ」
 柱へ手首を括りつけられているとは言え、足は自由なのだ。絡め取ろうとする意志があれば、ちいさな子供ひとりぐらいどうとでもなる。そう言った。
「縊り殺されるかもしれないんだぜ」
「でも」
「わかったら、離れろ」
「……でも」
 薄暗い明かりに照らされて、彼女の口が歪む。ず、ずと鼻をすする音が聞こえ、嫌な予感を覚えながら青年は子供を見おろした。
「でも、こんなのってないです」
 ぼろぼろと涙をこぼして声を殺して泣いている。ああ畜生と青年は心の中で罵った。しばられているのはこっちで、泣きたいのもこっちのほうだ。そう思う。それからここにつながれるときに泣いて頼まれた、と言った男の顔を思い出した。こうして泣かれたわけである。
「おい。……おい!」
 ひそめた声で叱る。面倒だから泣くな。青年は言った。
「メシ持ってきてくれたんだろう」
「……はい」
「泣くな。メシがまずくなる」
 叱ると、飛びあがった彼女は慌ててひとつしゃくりあげ、ぐっと涙をこらえる態になった。ごしごしと頬と瞼をぬぐう。そうしておもむろに袋の口を開け、中身を取り出した。
 隠れて持ってきたのだろうから、火の気は使えない。パンとすこしの野菜と干し肉。
「はい」
 器用にナイフを使って子供がパンを切り、野菜と肉を上に乗せてはさみ、そのあとどうするのかとみていた彼の口元へ差し出した。
 彼が後ろ手に縛られているので食べさせてくれるらしい。
 どことなく気恥ずかしい気もしたが、考えてみればそうするよりほかなかったし、においが鼻に届いたときから頭の中は満ちることに必死だった。大口を開け、噛み切り、咀嚼する。舌鼓、という言葉があるが、なるほどこれは勝手に体が打ってしまうものらしい。なるべく、音もなく静かに食べようと考えていたのは最初のひとくちふたくちで、あとは必死にむさぼるように青年は食った。
 がつがつと食い、水を差しだされそれも飲み干す。
 気付くとすべて平らげて、袋をのぞきこんでいた少女に、もっといるでしょうかと聞かれた。
「……いや、いい。じゅうぶんだ」
 首を振り、そこではじめてありがとうと彼は口にする。
「腹の足しにならないようなものばっかり食っていた。助かった」
「どんなものを食べていたのでしょう」
「あたりに落ちていた木の実とか……あとは木苺だの」
 それでもないよりはましだったのだ。おかげで半月生き延びることができた。
 ひとごこちついて溜息を吐く。二度すくわれたなと思った。思い、袋をたたむ少女を見る。下で寝ている人間を起こさないように抜け出してきたらしいが、いったいどういう意図があるのだろうかと思う。それとも、男に、親切にして聞き出すようにと言い含められでもしたか。
 名前も聞いていなかったな。気づいた。
「――ギーだ」
「え、」
「俺はギーと言う。お前は?」
 仮に彼女が、なにかしら男から言い付けられていたのだとしても、それでもいいと思えた。空腹の苦痛から解放されたのだ。
 それに、漏らして分の悪い情報など何もない。
 彼が名乗ると、すこし驚いた顔をした子供は、コロカントとこたえた。そうか。よい名だな。言うと素直に嬉しそうな顔になる。
 そのまま帰るかと思われた彼女は、すこし迷ったのちにもう一度ギーの向かいに座り、
「――ギー。すこし、お話ししてもいいですか」
 抑えた声で言った。
「なんだ」
「あなたはハブレストの人間に違いないと、おじさまは言っていました」
 ハブレスト。国の名を出されて、青年は一瞬身構えた。やはり男の差し金か、そんな風にも思ったのだ。しかし続けてたずねられたことは、まるで肩すかしの、拍子抜けする問いだった。
「ハブレストとは、どんな国ですか。お花は咲いていますか。お祭りがあったり、村や町がたくさんあるのでしょうか」
「ハブレストに行ったことはないか」
「ないです」
 コロカントが首を振る。
 ああでも。それもしようのないことかもしれないなと、聞いたのちに彼は思った。国交の正常な時代なら行き来もあるだろうが、三年前にハブレストがシビラ国へ攻め入ってからあとハブレスト国の周辺は、どこもかしこも一触即発の状態だ。シビラの残党どもはまだ水面下で再興を企てていると言うし、それでなくても国ざかいのあちらこちらできな臭い。ひとつの国が離反したかと思えば、もうひとつの国がすり寄ってくる。
 子供が旅のできる時代では確かにない。
 ……子供?
 思い当たってギーはあらためて目の前の少女を見直した。数え七つほどのちいさな子供。彼が旧シビラの領地へ送られてから今まで、この年頃の子供を目にしたことは一度もない。
 子供が、こんなところに住んでいるものなのだろうか。つい先だっての疑問がかたちを変えてもどってくる。
 三年前、陥落したシビラの国中の七つ手前のはみな、粛清の名のもとに惨殺されたのではなかったか。
 待てよ、と思った。
 森へ入るときに、付近の住人はこの森をおそれて、まるで踏みこまないのだと聞きはしなかったか。同じような高低、同じような植生に、一度迷うとでられない。だから獲物は手つかずで、狩猟にはうってつけだと、ただし周辺から狩りだした勢子は腰がひけてしまってまったく役立たずだと、
「……お前……、ひょっとして、シビラの生きのこり……か?」
 しまったなと思うより先に、疑問が思わず口を衝いてでた。弾みだ。
「ずっとここにいたのか?」
「――」
 コロカントはこたえない。肯定も否定もせず、ただすこし困った顔をした。明かりに照らされ、不思議な目の色合いをして、じっと彼の視線を受ける。黒スグリの目にゆらゆらと蝋燭の火がともる。
「いや、そんなことどうでもいいんだ」
 いそいで彼は打ち消した。彼女がこたえられる質問でもないことに気付く。次いで、ここに住んでいるのかだとか、誰と住んでいるのかだとかたずねようとして、そのどれもが相手の不惑を高めてしまうだけのものにすぎないと気がついた。
「悪い。そんなつもりじゃなかった」
 すくなくとも彼は、水と食糧をあたえてくれた彼女を困らせるつもりはなかったのだ。だったから、
「ハブレストには、村も町もたくさんあるぜ」
 自分のことを話すのならば、彼女は困った顔にはならないだろう。親切にしてくれた彼女を、先のような明るい表情にしたいと思った。ギーは口を開く。
「花もたくさん咲いてるし、祭りもある。……ただ、俺には出歩く自由がなくて――、ほとんど目にする機会はなかった」
「……自由」
「俺はハブレストに差しだされた人質なんでね」
「ひと、じち」
 くりかえしてコロカントが首をかしげる。子供には難しい話だろうなと思いながら、ギーは肩をすくめた。
「生国は北のほうでね。寒いだけのちっぽけで貧しい国だった。差し出すものが他にないから、親父はガキだけたくさんつくって、あちこちの国へだしたのさ。俺はその二十三番目で……下にもまだ、できたかもしれないが」
「二十三……」
 指を折って数えていた彼女が、さらに首をかしげる。数が判らなくなったらしい。
「十は判るか?」
「はい」
「じゃあ十が二つと、それにあと三つだ」
「いっぱい」
「……そうだな、いっぱいだ」
 思わずおかしくなってギーは微笑んだ。
 ハブレスト貴族何某、の所領地へ軟禁され、狩猟に同伴させられた。気が付くと森の奥へ置き去りにされ、猟犬の群れは彼を狙って徘徊した。
 差しだされたおのれの命の重みは、おそらく片手の砂金にも劣る。
 その自分がここでこうして笑っている。悪い夢でも見ているのではないかと思った。
 それともよい夢だろうか。
「生まれた場所はハブレストとは違う場所で、ギーはそこからハブレストにやってきた、ということですね」
「そうだな」
「いっぱい、兄弟がいて」
「そうだ」
「帰りたいでしょう」
「……ハブレストへ?」
「ギーが生まれたところへ」
 誰が戻りたいと言うか、そうして皮肉に頬をゆがめかけたところで、彼女のまっすぐな問いにのまれ、そのまま青年は無表情になる。
「今更……帰っても」
 ものごころつく前から質に出され、親の顔さえ知らない。二十二の兄弟どもが、どの国へ出され、生死さえ判らない。
「むずかしいことはわかりませんが」
 のまれた彼の瞳をじっと見返して、コロカントが考える風で言葉をえらぶ。
「もしわたしが、ここから別の場所へ連れて行かれて、周りがみんな知らないひとだったら。……帰りたいって思います」
 どうかな。
 残り少ない蝋燭のあかりがゆると震えて、影が揺れる。ようやく青年は少女から目を離した。
「どうかな。――もうよく判らないが」



(20120914)
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最終更新:2012年10月16日 13:44