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男はベッドに横たわっていた。
もう保たない。軍医が言う。
部屋に入った女の手には小刀、感触が今はねばりつき重い。
男の名前を、口の端で呟いていた。音はない。ただ彼女が呟いたこころもちになっただけだ。
うつつを足の裏で確かめるように踏みだす。床に小さくみしり、軋みがしみる。かぶるように予期せぬ涙、拭う拳が細かく震えていた。
唇がゆがむ。
甘いと。
自嘲である。なさけなさに怒りがにじみ、立ちくらんだ。そのくらんだ視線の見おろした先に痩せた寝顔がある。
静かな寝息をはいている。吐息は熱かった。
「――こら」
唐突に呼ばれ、女の肩がひくんと動いた。
「泣いているのか」
やさしい声だった。相手を気遣うおだやかな声だった。泣くな。言葉に慌てて頬を拭った。拭った拍子に左手の酒瓶がたぽ、とちいさく飛沫をゆらして跳ねた。
「酒を」
飲もうと思って。照れ隠しにぐいと差し出した。ちかくの家から強奪するようにして持ってきた酒だった。
「酒か」
いいな。笑って寝台上の男は手を伸ばす。なけなしの寝台。足のひとつが折れ不恰好にかしいでいる。たたずむ女へ伸ばされた腕が、途中でぱたりと力尽きたように落ちた。
かすかに男が笑った。どうしたことだとおのれを哀れむような静かな笑いだった。つられて女も小さく笑った。投げ捨てられたように動かない腕に触れて、いとおしむように持ち上げ、
「今夜は、満月だから」
自分でもよく判らないまま慰めるように呟いた。
「そうか」
目を細めて男が答える。その瞳の中に迷いにゆれる彼女がうつっている。
「明るいだろうな」
あざけりの残滓を残したまま、男がじっと女を見つめた。熱でうるんだ瞳が、自分を見ている。気づいて女は落ち着かなくなった。逸らした視線が泳ぎ、男の腹部のよごれた布の上で立ち止まる。くすんだ渋茶がにじむ布、包帯代わりの当て布。
血が。
「貴様がわたしをかばって」
止まらない。
「かばったりなんかするからこんなことになるのだ大莫迦もの」
みなれたはずだった。かぎなれたはずだった。臓物と鉄のにおい。戦場に身を置くと決めたときに、そのほかすべては振り切ったはずだった。おのれの身はひとふりの剣だと。
鞘をもたぬ血に飢えたにびいろ。
たたかいとはかくあるものだと酒に酔ってとうとうと演説ぶったのは誰か。おのれをおのれで面倒見切れなくなったとき、それは命を落とすときということだ。
そうだな。
声なく男が笑った。仕方ないさ。
「勝手に体が動いちまった」
女の死角から繰り出された穂先に気づいたのは男だった。いつでも男は彼女を見ていたから。
止めるには間に合わない。
切っ先の前にためらい無く身を投げ出した。
押し殺そうとして失敗し喉奥から漏れでた苦鳴、振り向いた女の瞳にうつったものはただ視界を凄絶なまでに染める一色の赤、そして、
ああもう危なっかしくて見ちゃあいられねェ。
あのときと同じ音にならない声が聞こえた気がして
「莫迦もの」
顔を歪めて吐き棄てると、男は笑った。まるで裏のない、心底うれしいといった顔をするのだ。そうして苦労して伸ばした腕が、今度は女のからだに辿りついた。指の腹で彼女の腕をなぜる。
「酒を」
飲ませてくれるんだろう?
目で問われた。男のまっすぐな視線に女はうろたえる。
「ああ」
男は何もかも理解しているのだ。
「ああ。そうだな」
おのれのからだがもう長くは保たないことも。女がだらりと垂らした右腕に握られた小刀の意味も。酒の理由も。迷いさえ、たぶん、
「――月が見てェな」
男が呟いた。
木立の影を黒々と際立たせ月がのぼっていた。
明るいと男が笑った。先だってから男は笑ってばかりだ。なにが楽しいと女がたずねるとだってアンタがいるだろうと真顔で返された。煽てられたのだろうか。判らなかった。
「うまい」
高くついただろうと最後の一滴まできれいに舐めて、男が言った。
「くすねてきた」
「あとが怖ェなァ」
あと。あとというものがあるのだろうか。女は昏い気持ちで思う。
酒と引き換えに気休めの銅貨を床に置いた。家の隅に寄せ集まった住人のすくいあげるように恨んだ視線を忘れない。厄介なことになると思った。判っていた。それでもよいと思えた。
流し込むと焼け付くような度の高い酒精は、しかし男の頬をまったく染めてはくれないのだ。
底抜けに笑って見せたかった。男もそれをのぞんでいるだろう。そうしてなにか気のきいた冗談でも言えるとよい。だが喉に何か塊がつかえたように、言葉が出ない。頭の中はずっと真っ白いままだ。
微笑みのひとつも浮かべられない自分が切なかった。
月にはえる男の顔は、闇を透かすように白い。
言葉を捜すように女は男へ視線を投げた。その視線に答えるように、あのまっすぐな瞳。たまらず彼女はすぐに目をそらし、伏せる。
煌煌と月光は降り注ぎ、女はその光の静かな圧力で地に伏してしまいそうだった。伏してしまいたいと思った。夜空に浮かんだ月虹は あまりに現実離れしている。
夢だと思いたい。夢だったらいい。これは悪い夢だろう?だが。
言い聞かせるようにうつむく。その耳に、表情と同じ、男の静かな声が響いた。
「なァ」
「――」
「すまないが、そろそろ」
楽にしてはもらえないだろうか。
月が沈む前に。
男の言葉に女の体がゆれた。
判っている、そんなことは判っている。でもわたしは判りたくないのだよ。
「実はまだ迷っている」
自嘲した。
貴様がいなくなることに耐えられそうにないから。
「甘ェな」
「甘いだろう」
そこではじめて男が皮肉気な笑いを口に浮かべた。いつものみなれた表情だった。みなれた顔にほっとする。
「貴様の方が甘い」
そうだな。
女のなじる口調に、男は笑った。皮肉気だというのに、よこしまさのまるでない奇妙な笑顔に、女は握り締めていた小刀を返し、刃を見る。
判っている、そんなことは判っている。でも、わたしは。
動けないのだということを。助かる見込みがないのだということを。昇る朝日をもう見ることができないのだということを。
長引けば長引くほどに苦痛が伴う。おのれが助からないことは男が一番知っている。それを長引かせたのは女のわがままだ。いってくれるな。たのむ、わたしをおいてどこへ、
「――なァよ」
男の顔が月よりも青白いのは、体内の血液が不足しているからだ、それは酒精が入ってももう決して変わらない。
ためらうな。
男の目がおだやかに言った。
座っているのも辛いのだと。
包帯ににじむ赤は、もう色のないほどに薄い。それでも男は静かに笑っている。
ああ、女はあえいだ。どうして、どうしてこんな。
泣き叫びたかったけれど、声は出なかった。
小刀を握った手のひらが汗ですべる。二度、三度と太腿ににじむそれをなすりつけ持ちなおす。
「どうせなら背中のそれがいいなァ」
男が言った。
「大は小を兼ねるって言うだろ」
「――く、そ」
食いしばった奥歯のあいだから女は呻いた。その彼女のおぼろぼやけた視界の向こうで、男があいかわらず笑っていた。
月が照っていた。
つもるような月の光だと思った。
小刀をほうりだし、背中に負った大剣を抜きさる。馴染んだ柄。女はそれを無造作に振り上げ、差し出した男の首筋に今度はためらいなく叩きつけるように、
愛しているよ。
うつむいた男の唇が小さく動いて、
――ああ。
動きを視界に捉えながら最後まで振り切った。
(20120920:Re)
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最終更新:2012年09月20日 22:28