*
肩を抱かれて愛しているとか、独特な声で耳元にささやかれる。
オレはとまどい、えーでもちょっと待ってくれだとか思う。
冗談きついだろ、って。
冗談と言うか、冗談よりも数倍悪いなにか、たとえば悪夢のなかでも、ここぞとばかりとっておきの悪夢みたいなもので、こんな状況にとまどわないほうがおかしいだろって思った。でも周りの誰もそれをおかしいって感じている風には見えなかった。
ことのはじめは、もうどこにでもあるような単純なはなしで、オレはいつものように毎日の仕事を一通りこなして、午後から時間が空いたのだった。そのまま皇宮内のお気に入りの場所で昼寝とシャレこんでもよかったんだけど、そういえば最近町に来た辻占のひとがいて、結構そのひとの言ったことがあたるとかで、洗濯場のおばさんたちや給仕の姉さんたちのあいだで話題になってた。占いもするし捜しものもぴたりと当てるんだ、とか。友達の知り合いの子が、旦那からもらった指輪をなくしちゃったとかで、相談に行っていわれた場所を捜してみたらそのとおり出てきたとか。いいひとがいて、どうにかそのひととうまいこといきたくて相談したら、みごと結ばれたとか。
オレは昔から、あんまり占いとか迷信とか信じるタチじゃあなかったけど、じゃあアタマっから否定するかって言うとそうでもないというか、でも言われたとおり行動するかっていうとそうでもないし、つまり自分に被害のない範囲だったら面白いし眺めているとか、そういう距離のとり方をしていた。
運勢とか、下働きのひと達の中でも信じるひとはわりかし本気で信じてる。それでうまくいくなら苦労はないよねって言いながら、今月の恋愛運勢のよい色は赤、とかいわれるとそのとおり赤い紐を身につけてたりする。なんかそういうのって見ていて可愛い。信じないと言っておきながら、一生懸命なあたりとか。
ああ、こういうところを男は見て女に惚れたりするのかなって、そんなことを思いながらオレは見ている。オレ自身はそうした風の可愛げにはまるで無縁なんで、紐なんて何色だって結べりゃいいとか思っているけれども。
だから、どっちかっていうとオレが辻占になにかを相談したいっていうよりは、その人気の占い師がいったいどんな顔してるんだろうかだとか、どのくらい迷える子羊がいて、何時間並んで待っているんだろうとか、そういう興味のほうが強かった。ちょっと冷やかしてくるか、って。長蛇の列でも見て、いやあ本当に人気なんだなって明日の朝の話題にでもできたらいいかとか、それくらいのかるい気持ちだった。
いつもと同じように皇宮の裏庭の抜け道を使う。
前に見つけてあった木戸の割れ目とか柵の隙間なんかは、警護の人間に上が言いつけたみたいできれいにふさがれてあったけど、どっちにしたって皇宮は広すぎて人の目の届かないところだって多い。これだけ広いならいっそ規模を小さくして、がちがちに警備したほうが効率がいいんじゃあないかってオレなんかは思うんだけど、実際そういうもんでもないらしい。
弛んだ部分があるほうがひずみがないのだよ、だとか前にあのひとが言っていた気がする。隙を作ったほうが結局のところ安全なんだって。
オレはそうした難しい設計とかわからないし、たぶん懸命に勉強したって理解できない部分のところのほうが多いんだろうけど、おかげでこうして新しく抜け道を作れるのだから、広すぎるっていうのも悪いことばっかりじゃあないのだと思う。
町へ出た。
市がたつわけでもない、祭りがあるわけでもない、朝と昼のかきいれどきの過ぎた大通りは時々荷物を山と積んだ荷車が横切るほかは静かで、オレはのんびりあちこちの店先をのぞきながら、教えてもらった辻占の通りへ向かった。
いくつかの角を曲がり、ちいさな橋の下をくぐり、細い路地を突き当たって、あれ、とオレは足を止めた。
あたりを見回す。
日中夜通し大盛況で、寄せる人の列が引きもきらず、しまいには並んだ人間相手に商売をする商魂たくましい人間も出てきたとか、そんな風にオレはおばさんや姉さんたちから聞いてきたんだけど、どうもオレの前にも後ろにもそんな話のタネになるような混雑はなくて、奥まった家と家の間にひそめるようにして机を構えた辻占らしい人間がひとりと、その占い師へ相談していた封の人間がひとり。もう相談は終わったらしくて、立ち上がり、何度か頷き頭を下げて、そいつもそそくさとオレの横を通ってどこかへ行ってしまった。
あとに残されたのはオレと、客のいなくなった辻占だけで、ええと、と思いながらオレは後ろを振り返る。
もともとなにか相談があってきたわけではなかったし、ただどんなものかと面白半分眺めに来ただけで、だからほかに客が来たら、そいつに譲ろうと思ったからだ。
でも振り向いたうしろからも誰かやってくる気配は無く、どうしたもんかなとオレはすこしためらった。
もしかして、教えてもらった通りを間違えたんだろうか。
大盛況の噂は別として、占い師なんて珍しいものじゃあない。ここいらだって、夜になるとあちらこちらの辻にどこからともなくやってきて、ぼうと、うす暗い灯心ひとつともして、通りがかる人間に声をかけている姿なんてのはよく見る光景で、だからここにいる辻占は教えてもらった占い師とは別の、あんまり人気のない、どこにでもいる占い師にオレはたまたまたどり着いてしまったんじゃあないかって、そんな風に思った。
教えてもらった占い師は、たとえばひとつ通りの向こうにいるとか。
きちんと道を教えてもらったつもりだったけど、聞き間違いでもあったのかもしれない。
だからオレは、一旦その突き当たりの路地をあとにして、その界隈をあっちへ行くでもなくこちらへ行くでもなくしばらくうろうろとし、その目的の辻占っていうのの人混みを探した。
もう一度覚え書きを見て、大通りから入り直してみたりもした。
だけど行き着く先は、あの誰も並んでなんかいない占い師の机のある路地で、結局オレはまた突き当たりのしんとした路地裏に戻されていたのだった。
帰るかと思った。
日が悪いって言うのはずいぶんおかしいけど、たまたま、ひとが途切れた瞬間と言うか、ウロとウロの間をオレはうまい具合に衝いてしまって、それでひとがいないのかもしれない。だから、また別の日別のときに来たらきっと、話の通りの大賑わいが見られるんだろうって思った。
まぁ散歩のつもりで出てきたわけだし、当初の目的ははたしたよなって、オレは自分に言い訳て、顔を上げる。その、帰ろうとしたオレの視線と、こっちを読んだようにひょいとあげた辻占の視線が、ばっちり、がっちり、合ってしまった。
あしまったって思った。
これ、完璧相手に飲まれる流れだ。
「――猫が一匹まぎれ込んだようだ」
オレと視線を合わせながら、でもどこか眠たいような声でそいつは言った。頭からショールを被って顔もほとんどヴェールで隠れてて、ぱっと見男なんだか女なんだかわからない。声も高いようで低くて、こういうあいまいな声質の人間って男女どっちにでもいるような気がした。
声を掛けられて、そのまま素無視で帰るってのも失礼な話だ。いやそうして帰っちゃったって、たぶんもう二度と会わないだろうし別によかったんだけど、その男女どっちかわからない相手にオレは興味が湧いて、とりあえず近付いてみることにした。
おそるおそる伺いながら近付くと、低く笑われる。しのび笑う感じが、ちょっとあのひとに似てると思った。
近付くと、座りなさいと向かいの席を示される。言われたとおりにオレが座ると、
「――さてさて」
手袋をはめた腕を顔の前で組んで、その辻占はこっちをじっと見つめた。そっちが見つめるんだったら、こっちもじろじろ見たってかまわないよねって、オレもほとんど覆われた顔のゆいいつ表に出された目許あたりを眺める。濡れたような黒い目をしていて、あと肌も浅黒いんだなと思った。まつげも黒い。
「あの、はじめようとしてるとこ悪いんだけど」
しばらくどうしようか考えたんだけど、やっぱり黙っているのもどうかと思ってオレは口を開いた。
「オレ別に困ったことがあってきたわけじゃあないんだよね」
持ち合わせもあんまりないし。
そこいらで買い食いできるほどには懐にあったけど、辻占なんてかかったこともないので、いったい相場がいくらなんだかさっぱりわからない。とんでもない金額いきなり言い出されたら、正直困る。
「なるほど」
冷やかしなのだね、といわれてまあねとオレは頷く。
「占いとかまじないとか、あんまり信用してないし」
「なるほど」
面白い猫だな。言って辻占は目を細めた。
そういやこいつ、オレのこと最初から猫って言ったなって思う。あのひとはともかく、オレのこと猫っていう人間ほかにあったことがない。
「では、お前にはこれを結んであげようか」
言ってそいつは脇へ置いてあった紙袋をごそごそと探り、中から一本紐を取り出して見せるようにオレの前で振った。
「紐、だよな」
「まじないの紐だ」
「あー……」
参ったな。オレは頭をかきながら悪いんだけど、ともう一度言った。
「さっきも言ったけど、オレ、まじないとか信じてないんだって。恋愛成就の紐の色がどうとか言われても、結ぶようなかわいらしい性格でもないしな」
「――願いながら結ぶと、どんな人間とでも恋に落ちると言われても?」
「めちゃくちゃあやしいだろ」
好きだと思ってる相手ならまだしも、どんな人間とでも、とか本当にありえないと思う。そんなんで落ちる恋があるって言うのなら、逆に見たいぐらいだ。
「信じない?」
「信じない」
「では、信じなくてよいから願ってごらん」
「えええ」
信じなくていいから願えとかどんな強要だよって思った。思わず笑ってしまう。そんなにお金に困っているんだろうかとか。ああそういや持ち合わせないんだったて思い出してオレが言うと、お代はいらないってそいつは言う。
「紐をお前の手首に結ぶだけだ」
「……いや、まあ、でも」
お代は結構、ためしに結んでみろといわれてオレはそれでもためらった。そんなオレを下からすくい上げるように怖いのか、と辻占は言う。
「怖くねェ」
むっとなってオレはこたえる。実のところちょっと気味悪いかもって思っていたけど、きっとそんなの見透かされていた。
でも怖くないって言った手前、引くに引けない状況で、腕を伸ばしてさあ結べって言うと、低く笑いながらお前は面白い猫だってまたそいつは言った。
「で、オレはどうすりゃいいの」
「目を閉じる――」
いってそいつはオレの瞼の上を押さえた。
皇宮へ戻る。
正直なんだか化かされたような気もしたし、ただからかわれただけなんじゃないかっても思った。でもまたあの路地裏に戻るのもそれはそれで大人気ないと思う。まぁ手首に結んだ紐なんてすぐ切れそうな細くて頼りないしろものだったし、もしかするとあいつは、オレが信じないっていったから腹を立てて、それでちょっと怖がらせて楽しんでいたのかも。
そう思って出て行ったときと同じように裏庭の抜け道をつたって中へ戻り、皇宮の居住区へ歩いていたオレを後ろから呼び止める声がした。声を聞いた瞬間ものすごくいやな気分になる。こんなところであうなんて最低最悪だ。絶対裏庭からオレが戻ってくるのを見咎めていて、嫌味たっぷりに説教でもするつもりなんだろうと思う。
でも聞こえない振りをして逃げたとしたら、あとからもっと本気の嫌がらせをされることもなんとなく予想がついたので、オレはしぶしぶ足を止めて振り向いた。どうせ頭ごなしに皮肉をあびせかけてくることはわかっていたので、せいいっぱい愛想のいい顔でこっちだって莫迦にしてやろうと思った。アンタの嫌がらせなんかちっともオレはきいてないよって。
振り向いたオレを、予想通り呼び止めた人物はつかつかと近付いていきなり、
「は、」
腕を上げられて、いきなり殴るとか最初から容赦ねぇな、今日はどんだけ機嫌悪いんだよってオレが覚悟して頭を庇った次の瞬間、
「は、」
力一杯ぎゅって抱きよせられて、なんかオレの喉からおかしな声が出てオレ自身びっくりした。
「はあ?」
えちょっと状況意味判らないんですけど。
オレが。今まで生きて接してきた人類の中で。たぶんこれ以上相性の悪い人間はいないんじゃあないかって思える相手に抱きしめられているとか、いったいどんな新手の嫌がらせなんだよって思う。
「ちょ、放せ、はなせって……おい、はなせって……離れろよ!」
なんていうかもう本当に嫌いかと聞かれたら大嫌いな部類に入る人間ではあったけど、こいつにだって建前と言うか体裁と言うか、皇宮で働いていていろんな人間が見ている手前って言うのもあるだろうから、最初はちいさな声で咎めたわけなんだけど、結局放さないので大声を張り上げることになった。
引き剥がす。
「なんだよアンタ!いったいどれだけオレに嫌がらせしたいんだよ」
こんな言いかたしたら次には一発ぐらい張り倒されるんだろうなあと思いながら、それでも腹が立ったので無理矢理相手から離れながらオレは怒鳴った。
「すまない」
だのに目の前のそいつは殊勝にオレに頭を下げる。
「すまない。姿が見えず心配だったのでつい」
「…………………………は?」
いやもう本当にオレは夢でも見ているんじゃないかって思う。夢だろうか。夢だったら悪夢だろうな。
こいつがオレに頭下げるとか、世界がひっくり返ったってありえないだろって思った。すまないって言うとか。オレにすまないって謝るくらいなら、絶対舌噛んで死ぬほうを選択すると思う。
いや、思ってた。
「は……いや……、……え?」
それからおずおずとそいつはオレに手を伸ばし、触れても良いだろうか、とかためらいがちに言った。
えっと目の前にいるの陰険イヤミのヒゲだよな?
オレはオレ自身に思わず確認する。見間違えなんてしないとは思うけど、もしかしてオレの目だか頭でもおかしくなって、誰か別の人間がヒゲに見えているんじゃないかって思ったからだ。
でも何度目を擦って見直してもそれは補佐官セヴィニアで、確認するうちになんだかオレは絶望的な気分におちいった。
左手首にまいた紐をちらと見て勘弁してくれよって思う。こういう展開望んでないんだけど。
確かにオレは、あの辻占のところで誰とでも恋に落ちるだとかいう紐を手首に巻かれて、誰でもいいから頭に思い浮かべろって言われたから、思わずセヴィニアを思い浮かべたのだった。
仲がよくなる率がありえないって言う意味じゃ、たぶんこいつ以上にありえない存在なんていなかったからだ。
側にいるだけでお互いに腹が立つしいらいらするし、実行に移す気はないらしいけどたまに殺気も感じる。ていうかたぶん皇帝の存在がなかったら、オレはきっとこいつに始末されているんだろうと思うことが時々ある。これはもう理解したら友好的になれるとかそういった問題じゃなくて、磁石のおなじ極と極が決してくっつきあえないように、そういう星の下に生まれたとしか思えないウマのあわなさだった。
だから、思い浮かべろと言われたときにほらやっぱり効き目なんてないだろって莫迦にするつもりで、というかもう本当に軽い気持ちで誰でもよくてこいつにしたんだけど、だったら別の誰でもいいからこいつ以外の誰かにすりゃ良かったって思った。とにかくセヴィニアとだなんてありえない。
目の前のそいつはオレがそうして色々と考えている間、所在なさげにおとなしく突っ立っていた。そういうところもどうなのって思う。らしくない、とかそういう次元の問題じゃあない。というか、この状態にいつからなっているんだろうか。周りの人間が驚いたりしなかったんだろうかって。
「ああー……まぁとりあえずどっか部屋いこうぜ、部屋」
回廊で突っ立っていて誰かに見られたら、なんだか大騒ぎになるんじゃないだろうか。そうでなくたって下働きの人間は噂好きなんだぜって。
言ってみたけど、でもオレ側の部屋ってあのひとがいつ帰ってくるかもわからないわけで、戻ってきて、こいつがこういう状態で、あのひとがなに言うかわかったもんじゃないと思った。そもそも補佐官って言う立場だとしても、用事もないのに簡単に私室に入るって出来るものでもないらしい。
だから、部屋に行くっていって結局オレは、三補佐それぞれに割り当てられてる執務室に行くことになった。
これはこれで居心地が悪い。
そもそもオレがいつもウロついてる区画は、皇宮の中でも裏手のほうの皇帝の生活区域に限られていて、だから残り半分の表側、執政区域にはほとんど足を踏み入れたことがないのだった。
だいたいの部屋の配置がわかる程度にしか知らない。
別にあのひとからくるなって言われたわけではないし、たぶんウロついたとしてもあのひとはなにも言わないだろうなって思う。でもなんか、そこはオレが入っちゃいけない区域と言うか、神聖とか言うつもりはなくてただ、自分の守備範囲じゃないとオレは思っていた。
表側は、あのひとのテリトリーだって。
だからこうしてセヴィニアにつれてこられてとりあえずそいつの部屋に入ったとしても、まるで知らない場所に連れ込まれたのとほとんど一緒で、気が滅入ってくる。
というかこいつとふたりきりとか、それだけでわりとオレが舌噛んで死にたい。
暗い顔をして立ち尽くしていたオレに、ここへ座りなさいといってセヴィニアがカウチを指した。突っ立ったままいるのもな。とりあえず言われたとおりにそこへ座り、オレはため息を吐く。
「……あのさ」
「うむ」
すこし離れた椅子にそいつ自身は腰掛けて、言いかけたオレをじっと見た。
「ちょっと確認したいんだけど、アンタこの状況についてなにも疑問を抱かないわけ?」
「――この状況と言うのは、どの状況をさしているのかね」
「いやもうまるごと全部だろ……説明できねェよ」
「ふむ」
一度セヴィニアは席を立ち、廊下の扉を開けて外にいた侍従になにかを命ずると、扉を閉め、今度はオレの座っているカウチの側へと近付いてくる。
悪寒が走る。逃げたいって思った。
「こうしているのなら――お前は満足するか?」
言っていきなりオレを持ち上げると先に自分がカウチに座り、それからオレを膝の上に乗せる。今度こそそこでオレの思考は真っ白になって固まった。人間って、苦手なものに近付きすぎて限界を超えると本気で脳みそが考えをやめるんだなと、オレははじめて理解した。
……したくなかったんだけど。
さっきオレは世界がひっくり返ったってありえない、とかそういう表現を頭に思ったわけだけど、もうここまで来ると世界がひっくり返るなんて言い方じゃなまぬるすぎてどうしようもねェなと思った。そんなどころの騒ぎじゃない。ひっくり返った衝撃を軽くオレの頭は超えている。
「……あのさあ」
たっぷり二百数える以上オレは固まってから、それからようやく少しずつ頭が動いて、
「なんでこんなことになってるのかとか、本当になにもアンタ思ってないの?」
聞いた。
信じたくもないけど、もしこの結んだ紐のまじないの力が本当に働いたのだとして、でも意識とか記憶って言うのは書き換えられるようなものじゃないと思ったからだ。つまり、酒だの薬だのをのまされた状態に近いというのか、頭は拒否しているんだけど身体が命令されたとおりに動いてしまって、とかそういう一種催眠みたいな状態になっているんじゃないかとオレは思っていた。
聞いて、でもこたえを聞く前に扉が叩かれる。入れと背後のセヴィニアが言って、静かに内側に扉が開かれた。そうして先だって言いつけられたらしい侍従がワゴンを押して入ってきた。軽いつまみと、あと茶とか酒とかが上に乗っている。
でもまず他の人間が部屋に入ってきてオレが思ったのは、とにかくこの体勢を見られるのはものすごくまずいだろってことだけだった。ここでなにも言わなくたって、奥に引っ込んだら絶対仲間内で見たことを言い合うに決まっている。オレがセヴィニアの膝の上にいたとか、格好の噂の的だ。
急いで立ち上がろうとしたけど、セヴィニアはオレを放す気はないらしく、がっちりと腰の辺りを押さえ込まれていて、だから侍従が入ってきたときオレはあいかわらずセヴィニアの膝の上にいた。
終わったって思った。
なんかもういろいろと。
でも入ってきたそいつは、オレとセヴィニアのことをちらと見るでもなく、顔色を変えることもなくて、自然な、見慣れた光景ですって顔で言いつけられたものを卓の上において、また部屋を出て行った。演技って言うには白々過ぎて、あれはたぶん素だろうなって思う。
でも、そうしたら記憶とかどうなっているんだろう。
かたんと扉がしまって部屋は静かになる。
「……あのさ」
またたっぷりオレは沈黙してから、噂になったとしてアンタは一体どうするんだって聞いてみた。なんか、神経質なこいつの自尊心だったら、一日で駄目になるんじゃないだろうか。
「噂?」
だけど聞いたオレをいぶかしげな顔でセヴィニアは見て、
「噂とは」
逆にたずねられた。
「え、だってオレがあんたと仲がいいとか、ありえないよね」
「――チャトラ」
溜息をつかれながらオレはセヴィニアに名前を呼ばれる。オレ、こいつに名前呼ばれたのなんか初めてじゃないかって思う。
「何が気に入らない」
「え?」
「さっきから、何が気に入らなくて臍を曲げている」
「いや、オレなにも曲げてないけど……」
曲げるもなにも、仰天しすぎてぶったおれそうなんだけどな。
「このところ、仕事が忙しくてお前にあまりかまってやれなかったせいか?」
「は?」
「さびしい思いをさせてしまって居ることは判っている――だが」
いってセヴィニアは後ろからオレを抱きしめて判ってくれぬか、だとか呟いた。
……わかりたくねェ。
こいつに抱きつかれても、まったくオレは嬉しくもなんともなかったんだけど、でももしこれがあのひとだったらなって思ったら、なんかちょっと悲しくなってしまった。悲しいっていうのとも違うかもしれないけど、でもあのひとは絶対こんなこといわないだろうってオレは知っているから。
無神経なわけじゃない。たぶん基準からいったら、あのひとは普通のひとよりずっと繊細で傷つきやすい神経を持っているんじゃないかとは思う。思うんだけど、ただその細やかな線がものすごくぶっ飛んだところにあって、だから人並みな気の利かせ方とか、気の使い方っていうことがあのひとはできない。しない、んじゃなくてできないのだった。
発想としてきっと選択肢の中にないんだ。
育ちなんだろうなって思う。
だから、例えば寒いところで待ってたら相手も寒いだろうなとか、こういうことをしたら相手は喜ぶんじゃないかとか、そうした発想がそもそもない。
自分が忙しくて、あまり部屋に戻らないで、そのまま過労でぶっ倒れて医務室から戻らなくたって、オレがどう思って部屋で待っているかとか、きっとあの人は一生わからない。
わかってほしいなんてオレは思ってない。
思ってないと、思ってた。
「――セヴィニア卿の私生活?」
「うん」
次の日、オレは三補佐官のなかでも一番話しやすいアウグスタのおっさんの部屋を訪れていた。ちなみに昨日は、結局セヴィニアの執務室で寝た。まともに考えると頭が噴火しそうだ。
自分も残ると言い張ったセヴィニアに、アンタは家に帰れとオレは言った。屋敷あるんだろって。
言うとあいつは若干複雑な顔をしてたけど、ひとりで考えたいことがあるんだってオレがいったら、あまりそれ以上突っ込まずオレを部屋において屋敷へ戻っていった。何を思って残していったのかは知らない。部屋を出る際に、また抱きしめられたり、額にキスされたりいろいろ気が違いそうになった出来事は省く。
「そんなの知ってどうする」
「どうもしないけど。知らないなって思って」
「そうさなぁ」
言っておっさんは複雑な顔をした。ちなみにおっさんふくめて皇宮内で、ヒゲがオレのことを好きだって言う状況はなにもおかしいことじゃないらしくて、ひとりで疑問視してるオレの方がよほどおかしい目で見られている。昨日の部屋のこともまったく噂にすらなってなかった。オレ膝の上に乗っていたよね、って逆に聞いたら、惚気かって返されたくらいだ。
惚気じゃねェよ。
「町に屋敷あったよね」
「あるぞ」
「結婚してるんだよね?」
「奥方がおられる」
「あ、そう」
「お前、そんなことも知らないのか」
「まあ……」
知らないのかって呆れたようにいわれても、昨日たまたまこんな状況に陥っちゃったから仕方なく情報を集めてまわっているわけで、そうでなかったら一生知らない間柄だったんじゃないかと思う。
「体の弱い方でな」
「奥さん?」
「そう」
「側室を迎えたらどうかとずいぶん周りにもすすめられたらしいが。おのれの家はおのれの代で潰すと言い切って、補佐の任についてからは跡継ぎも作らずに、今まで勤め上げてこられたな」
「……へえ」
あの鹿爪らしい顔で、奥さんのことを大事に思ってきたりしたんだろうか。
オレはちょっとだけ、見直してもいい気分になった。
「最近は……そうだな。お前にご執心のようだが」
「あー……まあ、それはね……うん。まあ、問題あるけど問題ない」
大いに問題ある気もしたけど、まじないが解ければどうってことはないと思った。ふうんと相槌を打つと、ほどほどにしておけよとかおっさんから釘を刺される。
「……ほどほどって」
「遊ぶなとは言わぬが、火遊びは火傷せぬ程度にな」
……火傷どころか焼死しそうだよ、オレは。
けど、昨日はとにかく起こった事態の収拾が頭でつかなくて、ただただはぁ?の連続だったけど、一晩寝てちょっと頭が冷えたら、せっかくの機会だし、皇宮の中がどうなっているのかまじないが解ける前にいろいろ観察してみてもいいかって思っているのだった。
順応力ってすげェ。
「もうひとつ聞いてもいいかな」
「なんだ」
「オレって、皇帝と、今現在どういう扱いになってるの」
「――陛下?」
聞くとアウグスタのおっさんは、一瞬素で首をひねる。それから、お前と陛下の関係とはなんだ、と不思議そうな顔で聞いた。
「いや、あの……、オレが皇帝の身支度手伝っているとか」
「お前の仕事だな」
「うん、まあ、そうなんだけど。いや、なんていうか手伝う以外の時間と言うか」
「手伝い以外の時間」
説明に困る説明をさせないでほしいと思う。
「その……なんだ。一緒にメシ食ったりとかさ」
「お前が?陛下と?」
だけど、おっさんは心底怪訝な顔をして、どうしてお前が陛下と食事をせねばならないんだ、と聞いた。
その顔はひどく真面目だった。
だからオレは、おっさんが決してオレをからかうためにそう言ったわけじゃなくて、本気で不審に思っているんだってことを理解する。
ああ、まいったな。
心の中のどこか別にいるオレがそういう。
これは結構キツいかもしれない。
今さら信じないわけには行かなくなっていた。まじないの効果は、オレとセヴィニア補佐官が仲が良くなっているだけじゃなかった。オレと皇帝の間にあったことは、まるでなかったことにされていた。
オレが、あのひとを好きでいることなんて、皇宮の誰も知らないことになってしまっている。
オレしか知らない。
誰も知らない記憶なんて、それは思い違いと同じなんじゃないだろうか。
オレだけしか知らない思い出は、記憶と呼ぶのだろうか。
元気がないなと横で言われてうん、とオレは頷く。まじないの解けていないセヴィニアは相変わらず気持ちが悪いほどやさしくて、オレはなんだかその状態に慣れてしまっているのだった。
「心配事でもあるのか」
「いや……そういうんじゃないんだ」
「どこか具合でも悪いか」
「そういうんでもない」
気を使ってくれているところ悪いんだけど、オレはどうしても笑うことが出来なくて、ぼんやりとクッションを抱えて長椅子に座っている。横で同じように憂い顔のセヴィニア補佐官が、指をオレの顔にそわせて前髪を払った。
払われてオレは顔を上げる。そうすると意外に横に座っていた相手の顔が間近にあって、オレは思わず身体を引いてしまった。強引に顎を引き寄せられて、そのまま口付けられる。すぐに唇は放されて、それから、
「いやか」
静かな声で聞かれる。その声にうん、とオレは思わず頷いていた。
「――」
「ごめんな。……アンタが悪いわけじゃない」
オレは急いで涙をぬぐう。ごめんな。心の中でもう一度謝った。こいつはなんだか一生懸命だ。オレのことが心底苦手だってことも忘れさせられて、オレの機嫌をとろうと必死になっている。でもこんなに気を使われているのに、オレがいちいち考えることはあのひとだったらどうするんだろうってことばっかりで、目の前のセヴィニアのことじゃなかった。
無理矢理捻じ曲げられている記憶がかわいそうだと思う。セヴィニアのやさしい言葉は、彼が大事だと思うひとにむけて放たれるべきで、それはオレじゃない。
これはオレが聞いちゃいけない言葉だ。
ごめんな。
また謝って、それからオレは最後に一度だけ、セヴィニアの手を取って甲に口付けた。
アンタのこと嫌いだけど、悪いやつじゃなかった。
「チャトラ」
「ごめん。すぐに戻す」
言ってオレは走り出す。さすがに部屋の中でまじないを切る度胸はオレにはなかった。死ねると思った。いろんな意味で。
後ろから呼び止める声がしたけど、足を止めずに走る。中庭を突っ切って、いくつも回廊を渡って、ひと気のないちいさな庭のに東屋に出た。ここは皇帝の居住区だ。用事のある人間か、ここに住んでいる人間しか出入りを許されていない。
東屋をぐるりと囲む円柱の一つにもたれて、オレはあらためて左手首の紐を眺めた。なんの変哲もない、どこにでもある地味な結び紐。
もったいないことをしたなあ。
今さらながらオレは思う。
どうせだったら、ノイエさんとか、アウグスタのおっさんとか、せめてラズとか、もうちょっと、オレが普段から気に入ってるひと相手に願ってみればよかった。そうしたら、ここまでおかしな罪悪感を感じないでいたかもしれないのにな。
でもそんなこと思ってみても、実際願ったらきっと誰でも同じなんだろうって理解していた。
愛しているって言ってほしい相手なんて、ほんとうはひとりだけなんだ。
思ってオレは懐からちいさな折りたたみナイフを出して、紐を切る。紐が切れるまでがまじないの期限だよってあの辻占は言った。細くて頼りない紐は、でも今日明日すぐに切れそうな風でもない。だったらオレが自分で切って戻してしまったらいいんだって思う。
ぷつ、と思ったよりあっけなく切れて、掴み損ねた切れ端が床に落ちる。
「あ――れ」
だのに拾おうとしてかがんだ床の上には、どんなに目を凝らしても糸くず一本落ちていないのだった。風が吹いたわけでもない。オレは一歩も動いていない。どこに行ってしまったんだろう。
しばらく捜して、どこにもないのであきらめる。最初から胡散臭い厄介なまじないだった。だからもう見つけないほうがいいって意味なのかもしれない。
「――猫」
いきなり呼ばれてオレは驚いて飛び上がる。誰もいないと思っていた場所に、誰かがいて、それが今一番会ってみたいけど会いにくい相手だとか、これもまじないの効果なんだろうかって思った。
だとしたらずいぶんな嫌がらせだ。
心構えも出来ていない状態でオレはおそるおそる振り返る。
振り返った柱の影に、お供の一人も付けないで皇帝が一人立っている。これ、絶対お忍びってやつだよね。
「アンタ、何でオレがここにいるって判ったんだ」
思わずオレは聞いていた。聞くと、皇帝が目を細めてオレを見た。
「わたしが来たわけではなくて――お前が飛び込んできたのだろう?」
「ずっと、いた?」
「いたね」
「うわー……」
だとするとオレは皇帝が見てる前でひとりで紐を切ったり、切れ端を捜したりしてたわけだった。別に悪いことをしてたわけじゃないけど、できれば一言声をかけてほしいと思う。ちょっと恥ずかしい。
「アンタ、こんなところで何してたの」
「――別に」
言って皇帝は目を逸らす。なんだかえらく不機嫌に見えてあれって思った。
「なあ……アンタ、機嫌悪い?」
「悪い」
もう一度、別に、とか返されることを予想していたのにものすごくはっきりと肯定されて、面食らう。悪いのか。
「それ、オレは関係してる?」
「――大いに」
大いに、の「に」の部分にやけに力を入れて皇帝は大きく頷いた。そうしてこっちを見た薄茶の目の色が、いつもよりいっそう薄い色に見えてオレはなんだか逃げ出したくなった。わりと本気で怒っているんじゃないか。
「昨日の夜、お前は部屋に戻ってこなかった」
見るというよりは睨むといったほうが正しい気がしてくる。まずいなって変に身体が硬くなった。
これ、本当に怒ってる。
「皇宮内の空気が変ったね?」
「――」
「誰に聞いても要領を得ない。お前がわたしの許へ戻ることはおかしなことになっている。――どころか、お前は三補佐のひとりからご執心の状態になっていて、それを誰も疑問に思わない」
「――」
聞いているうちにオレは自分の口がぽかんを開くのを感じた。
皇宮内のひとり残らず、まじないにかかったもんだとばかりオレは思っていた。オレがヒゲと仲良くしていても、それはなにもおかしいことではなくて、どころか、オレが皇帝のことを好きだったって過去がなかったことにされていた。でも、
「アンタ……まじないにかからなかったんだな……」
「――まじない?」
言うと、片眉を上げて皇帝がオレを真正面から睨む。
本当だったらオレはそこで縮こまって怯えて、みっともなくごめんなさいって謝ったらよかったんだろうと思う。でも睨まれて怖いはずのオレが考えたことは、このひとはオレのことをずっと忘れないで待っていてくれたんだってことだった。
一晩中、部屋で待っててくれたんだろうか。
部屋で待っていられなくなって、ここに涼みに来たんだろうか。なんだか胸がいっぱいになってしまった。
抱きつく。
抱きついたアンタの身体は、いつものとおり練り香水のいいにおいがした。
「――有耶無耶にしようとしても、」
「うん。怒っていいよ。殴ってもいい」
まだ怒ったままの声にこたえて、でも何をしてもいいから放さないでねってオレは思う。思って皇帝の肩口に顔をぐりぐりと押し付けた。
だいすきって勢いで言ってみる。オレ、アンタのことが自分で思っているよりずっと好きだったって。
聞いた皇帝が、苛立ったため息を数度吐き、それから仕方ないって風にオレの身体に手を回して抱きしめた。
(20120927)
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最終更新:2012年12月04日 11:14