約束を信じて、待ち続けたのは、いつの頃からだったろう。
 その約束が、終ぞ叶わぬことを知りながら、待ち続けているのはいつからだったろう。
 蜩の鳴く声を聞きながら、ハルは溜息をついた。
 彼女の属する屋形自慢の、黒塗りの木戸格子の窓の外は、鮮やかな夕空が広がっている。
 明日も暑くなりそうだ。
 一人ごち、汗ばむうなじをうっとおしそうにかき上げて、頬杖を付いた彼女の背後から、
 姐さん。
 控えめがちに声をかけてきたのは、幼い少女だ。芸名は未だ無い。桜太夫と名乗るハルの付き人である。総称して雛、と呼ばれる。
 身の回りの世話をする付き人以上に、雛は遊女と付かず離れずの関係を築く。
 技を盗むためである。
 とは言え、言葉通り物騒な意味での盗む、では無い。
 雛は、遊女の世話を焼き、世間話に付き合う代わりに、芸事を習い、一般常識を身に着け、寝所での男の悦ばせ方さえも学んでゆくのである。
 雛として芸技を盗んだ少女は、半玉と呼ばれる半遊女に昇格し、やがては一人前の遊女となる。
 一種の奉公関係である。
 師弟関係にも似ている。
 この屋形に、ハルに付く雛は都合三人。
 その中でも、彼女が特に目をかけている少女である。
 決して能弁な性格ではなかったが、情の細やかで利発なところが、ハルは気に入っていた。
 「……うん、」
 どこか鬱蒼とした視線を流し、ハルは控えた雛に目をやる。
 複雑な顔で、少女は胸元に何か抱えていた。
 「なあに」
 「姐さん。あの、これ。見番から来た……て。さっきトクさんが」
 見番とは、数多の屋形に属する遊女へ、料亭の手配や祭事の進行、総じて運営そのものを一つに纏め上げる総合窓口である。
 差し出したものは、”逢い状”だ。
 今宵の接客相手と場所の書かれた、見番からの通達書である。
 「妾に?」
 胡散臭そうに、それでも少女から封を受け取り、裏を眺めてハルはぎょっとした。
 「姐さん?」
 心配そうに首をかしげる雛に、愛想笑いの一つさえ満足に返すことが出来ないほど、不意打ちであった。
 封の裏には。
 「姐さん?」
 封の裏には、お世辞にも巧いとは言い難い稚拙な金釘文字で、名前が連ねてあった。
 ”ジェイムス”。
 異人の名である。
 昨晩の、青い目を思い浮かべた。
 「姐さん?」
 「……そういう、こと」
 雛の声も耳に入らず、ハルは低い声で呟く。その剣呑さは、雛の足が思わず二、三歩後退するほど。
 ――異人も倭人も結局、男は変わらないってことね。
 昨晩は、早々に帰された。
 玄関先で頭を下げたその時に、大柄なジェイムスの背後から、同僚らしい連れの男が、突き刺すような視線を投げて寄越したことをハルは知っている。
 拍子抜けするほどに何事も無かった。
 転げた三味すら、その用を成さず、ただただ無言で向かい合い、茶を啜って時を過ごしただけだ。
 帰りの籠に乗り込むと、気が抜けてハルは放心した。
 安心だったかもしれない。
 化かされた気分だった。
 その男から、二度目の呼び出しがかかる。今晩こそは、異人に組み伏されてしまうだろう。
 洋妾(らしゃめん)。
 異国の男は、長期の船旅に綿羊を乗せ歩くのだと云う。綿羊を女代わりに使うのだそうだ。
 聞いたハルは大笑した。異国のものは、それほどに欲が強いのかと哀れすら感じた。けだものだとも思った。
 そのけだものから、今晩の呼び出しがかかる。
 「……姐さん」
 「身体は許したって魂までは許せるかい?」
 案じた声の雛に向かって、もう一度。ハルは低く呟いた。
 哀、哀、哀。蜩の声が遠くなる。


 きっと、きっと迎えにゆくから。
 早春。氷柱が明けの空に光る。山肌は未だ、冬だった。
 見知らぬ大人に連れてゆかれる少女の背中へ、青年が叫ぶ。少女の背には、小さく括った風呂敷包みが一つだけ。
 それが彼女の持ち物全てである。
 うなじに落ちる後れ毛の、幼い少女である。
 振り返りかけた少女の腕を、見知らぬ大人が強引に引いた。
 ――歩くんだ。
 低く抑えたその声に怯え、少女は地面と己の足を見つめて、根雪を踏みしめ歩き出す。
 さく、さくと音が耳管に木霊した。
 背後で、泣きながら少女の名を呼ぶ声がする。
 見送ってはいけないと、あれほど親にきつく戒められたのに。我が身を省みず、少女は思わず青年を案じた。
 後ほど折檻を受けるだろう。
 悲しみは無かった。
 少女の世界の周りの子等も、同じように年に幾人か、村を大人に連れられて出て行ったから。
 おまんまを、腹いっぱい食べられるんだよ。
 嬉しそうに告げた子等は、二度と村には戻ってこなかった。
 そうして見送る立場だった少女も、今年大人に連れてゆかれる。
 父は、煙管片手に無言だった。母は、囲炉裏に俯いていた。
 まだ物心の、付くか付かないかの弟だけが、正座した少女を無心な瞳で見上げ、
 ねぇちゃん。
 不思議そうに問う。
 ねぇちゃんどこいくの。
 さあ。
 少女は首をかしげる。
 何と答えて良いのか、判別の付くほど大人ではなかった。
 どころか、どこへ連れてゆかれるのかさえ、己が自身判っていなかった。
 柔らかい弟の、短な髪を撫でながら、だから少女はゆっくりと微笑んでみせた。
 おまんまを、腹いっぱい食べられるところだよ。
 少女の言葉に、父は、視線を逸らした。母は、項垂れ嗚咽を漏らした。
 そう。
 今ひとつ理解の及ばない弟が、やはり不思議そうな顔で、頷いただけであった。
 膝を揃えて背筋を伸ばした、少女は凛と座っている。
 黒い瞳にあるのは、その歳にして早々に諦観。
 悟り、だったかもしれない。
 暁の気配の空の下、白く息を吐きながら、少女はそうして村を出る。
 少女は十一。世界の全ては村だった。


 射殺す視線で、昨日と同じ襖を開ける。たん、と勢い張った音がした。開けたものの、頭を下げるは止めにする。下げる気分になれなかったからだ。
 馬鹿にしている。
 そうも思う。
 どうせ抱くなら、さっさと昨晩抱いてしまえばいいものを、何を勿体ぶると言うのだろう。
 腹も立てた。
 蘭人を相手にする女達は、日の本の国とは異なる髪を結うそうな。
 昔誰かがそう言った。だから今宵は洋妾結いに仕上げた。ハルにとっては初めてのことだ。
 皮肉と、挑戦も宿っている。
 ――どうせお前も男なんだろう。
 そう言いたかった。
 詰、と眦裂いて睨んだその先に、壁に寄りかかった青い目の男が、行儀も何もなく足を投げ出して座っていた。
 今宵は座敷は一人の様子である。ますますハルの疑惑が深まる。
 そんな険しい顔をしたハルを見止めて、だのに男は豪く笑うのだ。
 邪気の無い、子供のような顔で。
 彼女の視線はお構い無しだった。
 「ハル」
 彼女を指差し、実に嬉しそうに指を差す。
 ハル、ハル、と男は数度繰り返し、そうして今度は自身を指差して、ハルに尋ねる素振りを見せる。
 真っ直ぐな青が彼女に注がれ、
 完全に毒気を抜かれた。
 「……ジェイムス……」
 唖然としながらも、ハルが口の端に名前を乗せてやると、男はにこやかに頷き、そうして彼女を招き寄せた。
 向かいに座れと言いたいらしい。
 挑む気持ちも失せ果てて、素直にハルは進み出る。
 やはり、騙されている気分になった。
 男が何を考えているのか、さっぱり見当が付かないのが、今の彼女の本音である。
 指し示された膳の上を見て、とうとう彼女は、あんぐりと口を開けた。艶姿の最後の欠片も吹っ飛んで、素の表情が見え隠れする。
 膳の上に置かれたものは、いろは唄の一覧表であった。
 「……これは、」
 戸惑う彼女に、男は静かに口を開いた。
 「Ik ben diplomaat.(私は外交官です)Ik zou Japanner moeten bestuderen.(私は日本語を覚えたい)」
 じっと彼女を見つめる瞳は、意外に真摯だ。
 男の勉強意欲と誠意だけは、ハルにも理解が及んだので、呆気に取られながら同意して見せた。それは男にも伝わったらしい。
 「Kon u me Japanner onderwijzen?(日本語を教えてくれますか?)」
 しかし尋ねられた言葉を耳にして、ハルは思わず頭を抱えた。
 「……ハル?」
 黒塗りの戦艦に、乗り込んできた人間なのだ。異人だろうと何だろうと、一般人でないことはハルも承知している。
 戦要員か、船乗りか、そうでなければ医師学者の類か。もちろん、日の本の閉鎖した外交を、緩和させる役人であるかも知れないということも、想像してはいた。
 してはいたものの、己の相手は飽くまでも”男”であり、商売であり、
 まさかこの場で、寺子屋紛いの師を求められるとは、想像だにしていなかった。
 そもそも男は、着飾った自分の姿を見て、なんとも思っていないのだろうか。
 ふと、ハルは気になった。
 江戸のものなら誰でも判る、商売女特有の婀娜。
 もしかすると、異人には通じないのかもしれない。
 組み敷かれることは恐れているくせに、男にその意思が無いなら無いで、複雑に遊女の意地が刺激される。
 厄介なのだ。
 「ハル?」
 「えーと。その。どうして妾に頼む訳?」
 であるから、聞いてみる気になった。
 聞かれた男は、あまりに不意な質問だったのか、怪訝な顔になり、
 「Omdat u een geisha bent.(だってあなたは芸者だから)」
 そう言い切る。
 「……そりゃ、芸者、だけど」
 「Ik hoorde dat geisha heel wat dingen kende.(芸者はたくさんの知識を身に着けているのでしょう?)」
 国交間で、どうも間違った認識がやり取りされていたようだった。母国以外の言葉でやり取りしているのだから、当然といえば当然、なのだが。
 口ごもったハルを、男は実に不可解な表情で眺めている。
 座って尚、頭上にある顔を見上げて、彼女は瞬間真面目に考えた。
 どう考えても、男は彼女を、外交官に遣わされた日本語の教師、程度にしか思っていないようだった。
 「じゃあ、……じゃあ、アンタは、言葉が習いたくてここに来たわけ?」
 しばしの間無言で考えて、己の顔を指差しながら尋ねる。
 我が意を得たり、と男が頷くのを見て、ハルは再度頭を抱えた。
 道理で昨晩、早々に帰してくれるはずである。
 男にとっての昨晩は、師との顔見世程度でしかなかったのだと言うのだ。
 取り乱して刃を振り掲げ、大騒ぎしたのは自分である。
 御国のためだと聞かされて、死まで覚悟して挑んだ自分の二日間は、一体なんだったのだろう。
 一瞬、虚しさが込み上げたハルだった。次いで弾けたように笑い出す。
 そうだ。まるで馬鹿馬鹿しい。
 仰々しく出張った、特使の鹿爪らしい顔を思い出して、笑いが止まらなくなった。
 笑う度に、胸に蟠った黒い不安が解けて消えてゆくようだった。
 腹を抱えて転げる彼女を、不思議そうに眺める男へ、目尻の涙を拭いながらようやくハルは頷いて見せる。
 「いいよ。アンタに言葉を教えてあげる」
 ぱっと晴れるその表情を目にして、込み上げる笑いの発作に肩を小さく揺らしながら、
 「でもね。妾の本職も耳にしておくれな。アンタが言葉を覚えたいなら、これが判るまで勉強に励むんだね」
 そう言って傍らの三味線を引き寄せ、布覆いを解いた。
 「shamisenn」
 「そう。三味線。覚えてたんだ」
 昨日、男が指差したものの名前の一つが、これだった。
 弦を弾いて音を正すと、ハルは視線を上げる。
 彼女の言葉を、理解できた訳ではないのだろうが、仕草で彼女が何をするのか、男にも大方の予想は付いたらしい。
 神妙な顔で見返してくる。
 子供のように真剣だった。
 「浄瑠璃って言うんだよ」
 前置いて、ハルは撥を当てると、朗々と謳いあげた。
 声が鼻へ抜ける独特の歌声である。
 ――主を思うてたもるもの、わしが心を推量しや、何の因果 にこのように、いとしいものかさりとては、傾城に誠なしとは、わけ知らぬ、野暮の口からいきすぎの、 たとえこの身は淡雪と、共に消ゆるもいとわぬが、この世の名残に 今一度、逢いたい見たいとしゃくり上げ、狂気の如く心も乱れ、 涙の雨に雪とけて、前後正体なかりけり……
 男と女が、手を取り合って駆け落ちる様子を、歌った唄である。
 恋に狂う、女の唄である。
 歌いながらちらと見やると、真剣な顔で聞き入る男と目が合った。
 抜けるようにやはり、青。
 この男も、恋をするのだろうか。
 ふと、疑問が生じた。


最終更新:2007年03月25日 00:37