*
のんびりと草を食む牛の乳を搾りおえ、コロカントが立ち上がる。振り返るとすぐ後ろにギーと名乗った青年がいて、彼女の動作を見るともなしに眺めていた。振り返った彼女の顔を見て、なにかに気づいたように手を伸ばす。どうしたことかとおとなしく見ていると、袖口が彼女の頬の汚れをぬぐった。乳がはねていたものらしい。
それから青年は、泡立ち、たっぷりと揺れる乳缶を持ち上げる。運んでくれるようだった。中へ入るかと彼が視線で問う。
「はい。でも」
頷きかけ、しかしやはり思い直して、もうすこし外にいてもよいかとコロカントがたずねる。肩をすくめられた。好きにしろということらしい。
ギーを見つけてからもう五日経つ。当初かたく縛められていた青年の処遇は、ずいぶんと軽いものになった。
生まれてはじめて、コロカントは聞き分けなく丸一日駄々をこねたのだ。
こんなひどいことはない、お願いだから彼を解放してやって欲しいと延々言いつづけ、結んだ人間が黙って首を横に振ったので、根競べとばかり三階へ上がり、しばられた青年の横に座り込んで、だったら自分も一歩も動かずにここにいると啖呵を切った。
なにも食べません。お水もいりません。
いくら室内とは言え火のそばでもない限りひどく冷える。膝を抱え、身をかたく冷たくして小刻みに震える彼女へ、とうとう夜に男が降参した。
わかりました、と男は言った。
わかりましたから、頼むから、そんなことせんでください。
そうして男は約束どおり青年を柱から解放し、かわりに枷を手足の左右に繋げた。かなりの長さがあったので、日常のちいさな動作はできる、しかし走るだとかなにかを振りかぶるといった、大きな動作はできない鉄鎖だ。
実際、その枷にも難色を示しかけたコロカントへ、なだめたのは青年自身だった。
いいんだ、とギーは言った。
「俺はこれで充分だよ」
「でも」
つながれなれていると彼は言った。質先をたらい回されて、もっとずっとひどい環境だったこともある、このぐらいたいしたことはない。
彼が良いというのならいいのかもしれない。しかしやはりおかしいような気もする、おかしいと思う自分がどこか間違っているのだろうか。コロカントにはわからなかった。
せっかく開放されたンなら、姫の警護でもしろと男から八つ当たり気味に皮肉られ、口答えもせず青年は彼女のすこし後ろへついてまわる。
それもそうかと思ったものかも知れぬ。
ほとんど口を利かないので、考えていることはわからない。しかし退屈している風でもなく、かといって隙を突いて逃げ出そうとしている風でもなく、
やはり、わからない。
そんな感想しかコロカントには抱けなかった。
「参ったなァ。姫がなついちまった」
ふたりへ聞こえない室内で男が頭を抱えぼやいたそのとき、
「つくづくアンタは莫迦だね」
呆れた顔で男の妻が返したことも、彼女は知らない。
「姫がなついたんじゃあない。男の側がなついたのさ」
ギーへの警戒を強める男に反して、女は幾分か態度も言葉もやわらかだ。あれは悪いことをする目じゃないよ。そう言う。
「昏いのが、まぁちょっと気にかかるけどもね」
育ちってやつだろうかねェ。呟いた女が、そののち同じように自由の利かないコロカントを憐れんだとして、やはり彼女に知る由もなかった。
「――なにか、あったのか」
木柵に寄りかかり、森を眺める彼女へ青年が声をかけてきた。
彼の側から話を切りだすことは珍しい。ぼんやりと振り向いてコロカントはギーを見る。
「なにか、ですか」
「元気がない」
「そうですか」
ぱっぱと勢いよく前掛けのほこりを払い、いけませんねとコロカントは空元気笑ってみせる。
「なにもないです。なにも心配することなんて」
「本当に?」
「――」
二度問われて、彼女は口をつぐんでうつむいた。靴の先で土を蹴る。
「――わたし、ギーみたいに男のひとだったらよかった」
しばらくのちにちいさく言った。
「俺……?」
「もしわたしが男のひとだったら、レヴを探しにゆきたいのです」
言って彼女はまた森を見た。二、三日で戻ると言いおいて、ラルヴァンダードは出て行った。もう七日になる。
帰ってこない。
「きっと、心配することなんてないんです。レヴはいろんなことを知っているし、とても強いのです。このあいだも、犬の群れをあっという間にこらしめてました。ハナも一緒にいったのだし、本当になにもないと思うんです。おじさまもおばさまも、大丈夫って言います。すぐ帰って来るよって。だいじょうぶ、なにも心配することはないって。でも」
でも、そこまで言いかけた彼女の頭の上にためらいがちに手が置かれた。
いつの間にかぼうと滲んでいた視界を慌てて彼女はぬぐう。
「でも、約束より遅れるなんてこと」
不安でたまらなかった。いつもそばにいた人間がいないと言うことはこういうことだった。
彼がいるということが、空気よりもとっくに馴染んでいたということを、姿が見えなくなってはじめてコロカントは知った。
探しに行きたかった。自分がなんの役に立つとも思えなかったけれど、じっとしているよりも動いていたほうがずっとましだった。
だが、探しに行きたい気持ちよりもさらに強く、自分が行ける力のないことはなにより彼女が一番よく知っていた。
体の不自由な男に、探しに行ってくれと頼めた義理もない。
胸がふさがり息苦しい。気がすこしでも晴れるかと森を眺めてみても、ラルヴァンダードの姿がないそこは、ただの黒々とした異界にしか過ぎなかった。
大声で泣き喚きたかったけれど、泣くこともできなかった。泣くのはいい。けれど泣いて、泣き止んで、そうしてそれでも戻ってこなかったら。
喉の奥が閊えたように苦しい。
うつむいたきり黙ってしまったコロカントを持て余して、がりがりと青年が頭をかく。気のきいた言葉のひとつでもひねり出そうとして、うまく思いつかないらしい。
笑わないと。彼女は思った。
いつだって笑っていないと、誰かが心配する。
無理に微笑もうとして唇をゆがませ、おかしな泣き顔になったコロカントの耳へ、ふと馬の不安ないななきが聞こえた。
「――血のにおいがするのう」
言って老人は背けるようにして、体を窓際へ寄せた。九十を超えた枯れ木の腕が、窓枠へすがる。
直前まで対面していたホルミスダスが、苦い顔をして咳ばらいをした。血ですか。呟き、同じように窓の外の空を見る。
陰鬱なこの部屋の空気をあざわらうかのように、外気は澄み、ぬけるように空はあおい。
血、ですか。
もう一度呟いた。
ホルミスダスが訪れていたのは、旧シビラ、それにセイゼルとハブレスト三国にかけて影響力をもつ教団の管区大司教である。教団の名はラグリアと言う。
まだ新興勢力に過ぎないこの教団は、裾野の市民を取り込む一方で、国政に口出しのできる貴族とのかかわり合いも密にし、ゆるぎない地盤を固めはじめている。教主はもとより、ホルミスダスの目の前の老人も、セイゼル公の娘の一人を一族の系譜に加えた。シビラがハブレストによって陥落してのちは、セイゼルとの交わりの際になにかと口を利くことを頼むことが多い。
もちろん、頼む際には、
「浄財」
と名のついた、相応の袖の下が必要ではあったが。
今日ホルミスダスが管区大司教である老人を訪れていたのは、進退窮まりつつある現状を拓破するための一手だ。セイゼルと内通し、機をねらってハブレストへシビラ国としての独立の烽火を上げる。
それが不意を襲われ首を刎ねられたシビラ領主の遺志であり、各地へ散り息をひそめ再興を願う領主の下へついた人間の悲願である。
悲願であるとホルミスダスはおのれに偽りつづけている。
「ホルミスダス」
「――はい」
「儂が言っておる意味――そなたも、ほかの面々も、十二分承知しておるのじゃろ」
口を開きかけたホルミスダスを制して、老人が感情の読めない声色で淡々と呟く。年をとると億劫になっていかん。愚痴のように見えて抑制をまじえた言葉。それとも、
「乱をのぞむか」
また不意に声色を変えて老人が言った。視線がいつの間にかホルミスダスへ戻っている。彼の内部すべてを見透かすような、鋭い視線だった。
「――」
「ホルミスダス。姫は、いくつになられた」
「……数えで、ななつにございます」
「……ななつか」
溜息をついて老人は目を閉じた。視線がかくれ、ようやく雰囲気がゆるむ。いつの間にか体を固くし息を押し殺すようにして老人へ臨んでいたことに、ホルミスダスは気がついた。
嘆息する。
「儂はもう九十を超えた。おのれがななつのころに何をしでかしていたものやら、まったく覚えがない……そうか、ななつか」
「――」
「……義、という言葉があろう」
「はい」
「忠義。仁義。正義。恩義。どれもよい言葉じゃな」
「はい」
「ひとのおこなう道すじ。ひとが、ひとであるためのしるべ。個が、個のためにおこなう為をそう呼ぶことを儂はとても尊いことだと思うが、その『義』に『国為』がつくと、すこおし意味合いが異なるように感じるようになった。これもまた年かの」
「――」
老人が目をひらく瞬間が恐ろしくなり、ホルミスダスは思わず視線を外しまた窓の外を見る。真っ直ぐに射抜かれてしまったら呑まれるように思った。
「子供を陣頭へかかげることを、大義というか」
「――」
「それを義と押し通すかたくななつよさを、そなたたちは持っているか」
「――」
「姫を筆頭に、そなたたちがハブレストより独立することをのぞむと言うことは、ハブレストとシビラの両国に、もう一度ひとさわぎを起こすということじゃ。……ハブレスト国がシビラへ侵攻して三年。統括する人間はいまだキナ臭いがな。下のものたちの生活は、ようやく落ち着こうとしておる」
「――」
「畑や住居が、明日にも焼かれ蹂躙される可能性を歓迎する人間は、そうはおるまい。奮起させるには力が必要じゃ。――大きな力がな。生半なものでは簡単に、ハブレストとの力の押しくらべに負けるぞ」
「――」
わかっていることだった。
そうしてわかっていることと、わかりたくないことの板挟みになっている男をホルミスダスは思いだす。迷いに揺らぐ瞳をする男だ。
つよさ。つよさとはなんだ。
ホルミスダスは内心吐き棄てる。
コロカントを修羅道へ叩き落とすことをつよさと言うのなら、自分は。
……自分は、いったいなんだと言うのだろう。
「――寄進を受けておるのでな。約は違えず、セイゼルとの交渉機会を設けよう」
血のにおいがする。老人が口にした意味が、とぼけたふりをしてくりかえす手前よりホルミスダスには判っていた。香るのは、戦場でも、赤錆びた剣でもない。
「努努忘れるな。義うすき行為は人心を動かさぬぞ」
老人の言葉に瞑目する。におうのは、おのれの血泥にまみれた体だ。
におい。
毛と肉の焦げるにおい。
蛋白質が焼け、鼻の奥を突き刺すにおい。
五感のほとんどが役にたたず、まるで転がった丸太のこころもちなのに、焦げたにおいが気付け薬のように脳幹を刺激し、おかげですこしだけラルヴァンダードは正気を取り戻した。
目は開かない。べっとりと糊で貼りつけられたようにひらく気配がない。どうしたことかと腕を上げ顔をこすろうとして、その両腕、どころか体を何者かにがっちり押さえられていることに気が付いた。
次いでひりつく痛みが襲いかかって呻き、身をよじる。
暴れさせるな莫迦。
誰かへの罵声。きちんと抑えていろ、指示した声に聞き覚えがある。
五感のほとんどが鈍化しているというのに、ますます力任せに押さえ込む指の一本一本の形や圧しつける膝の皿が判るような気がする。錯覚だろうか。
ふたたび激痛がはしり、ぎくんとラルヴァンダードは硬直する。歯を食いしばった。食いしばった端から、焦げる煙をまともに吸い込み、噎せ、喉を鳴らして空吐く。
噎せた彼の耳元で、もうちっとだから我慢しろと誰かが叱るように言った。
ここはどこだ。声もでない。
覚えのある誰かの声以外、つんぼになったように周囲の音もほとんど入らない、自分の置かれた状況が理解できずに男は混乱した。次いで床板の振動、押さえつけるてのひら、あとは肉を焼く臭いを感じとり、合点がいって不意に四肢を弛緩させる。
ああなんだ、と思った。
なんだ。ここは戦場か。
戦場と思ったどこに安心する要素があるのか、自覚のないままラルヴァンダードはふっと力を抜き、「誰か」に身を任せる。慌てたような「誰か」の指示が聞こえた気もしたが、音としてぼんやりと知覚しただけで、すでに言葉として理解できなかった。
きっと自分はなにか大きな怪我でも負ったのだ。そうして死んだ。死んだ体は地表に転がされ、焼かれる順番を待っている。
むくろならば、暴れてはならない。
おとなしく待たなければな。そう思う。
このにおいは、人間が焼ける煙の放つにおいだ。送り火のゆらゆらと揺らめく赤。
ひとつ戦があるたびに犠牲は必ず影法師のようについてきて、躯がごろごろ排出された。命を落とした人間の、体ごと全部を国で待つ家族のもとへもちかえることは不可能で、そうして命の消えた肉が崩れゆくのははやい。
かたちを留めるには体の一部を塩漬けにするか、それとも焼いて骨にしてしまうか。
手っ取り早かったのは後者で、であったから戦闘がひと段落すると、転がった屍を積み上げては油を撒き、火をつけ、敵も味方も、黙って友人や親や兄弟であったものの体を焼いた。そのすこし離れた場所では、炊事班がとりあえず今日と明日、生きのこった人間が食うための飯を炊きはじめる。
炊爨の煙と荼毘の煙がいちどきに上がるさまは、はたから眺めるとどこかぞっとする光景で、だが戦場ではそれが日常のものだった。要は慣れだ。慣れねば生きてゆけなかった。衝動するのは最初だけだ。見知った顔があることないことに一喜一憂することにもやがて倦み、そのうちなんの感慨も湧かなくなる。
揺さぶられるような感情は、なんどとなく戦場を駆け巡るうちにすりへり鈍らと化し、喜怒哀楽の上下の波幅のひどくうすい人間へと書きかえられてゆくからだ。
叱るような声がする。
聞き覚えのある「誰か」かとも思ったが、どうも女のようだ。
女。女であるなら、妻か。
しかし記憶にある妻は、一度たりとも声を荒げたことのない女だった。
女か。再考して、それから女に叱られるという事象自体が、実に何十年ぶりのことではなかったろうかと思いめぐらせた。
幼いころ乳母に叱られた記憶以来かもしれない。
食事の時間を過ぎても家に戻らなかった、勝手に馬を駆り領地の外へ出た、乳兄弟ととっくみあいの喧嘩をした、勉強を投げ出して遊びに出かけた。そうした、誰もが叱られたであろう記憶の残滓。あとでかならず叱られると判っていながら、それでもその場の勢いというものはあるのだ。利かん気の強い子供だったのだろうと思う。怒りに顔を青ざめさせた乳母を前にうなだれ、長い小言に毎度後悔しながら、それでも遊び仲間と同じようなことをくりかえした。
だが、それもずいぶん昔の話、さすがに分別の付き長じて、以降叱られた覚えはない。
いまさら乳母に叱られる年でもなかったような気もするが。
思えば十代の頃にむかえた妻はおとなしい女だった。育ちの良さもあったろうけれど、もともと感情をむき出す人間ではなかったのだと思う。
おとなしい女であることをいいことに、営みや領地というものをほとんど省みず、ラルヴァンダードは戦場に召集されるまま馳せ参じ、「家」と言うものにおよそ居ついた記憶がない。最低の夫だったと今は思う。
だが、それは彼が特別めだった性格をしていたわけでもない。
小国であったシビラにおいて、武器をとり戦える男はそうした生活を半ば強制されていたのだ。シビラに剣をささげることは今日を生き延びることと同義だった。
そうして皮肉にも、生き延びるために戦場で、たくさんの男が命を落とした。
大陸全土が乱れていた時代。競り勝てなければ生きてはゆけなかった。
一年のほとんどを戦に明け暮れてすごし、しばらくぶりに帰った屋敷で顔を合わせた妻は、ほうっておかれた不平を漏らすこともなくただ頭を下げ、ごくろうさまでしたと言った。無感動に淡々とした声だった。
とくべつな交流はなかったけれど、やがて腹に子が出来た。
孕んだと告げられたときも、だから男はそうか、という言葉以外たいした感慨が湧かなかった。大事にするとよいとは言った。無事に子を産めるとよいとも思った。だがそれは、ひとがひとをいとおしむと言う感情であったろうか。
男はたとえば愛馬が子を成した報告と同程度以上の関心を、妻に持つことができなかったのだ。
よくない育ちをしている。
ひと月後ふたたび参じた戦場に領地から連絡が届き、さすがにほうっておくこともできず、戦が小休止状態であったことも加点して、ラルヴァンダードは妻の顔を見るために領地へ戻った。
すまないがすこし留守にすると言い置いた彼に、おう行ってこいと同年代の友人が手を振って笑った。ここは俺に任せろ、お前は行ってかみさんを安心させてやれ。
いびつにふくれた腹をかかえ、ひどく痩せた妻は、やはり余計なことはなにも言わず、どうして戻ってきたのかも問わず、屋敷の入り口で眉をひそめた男へ対して、ごくろうさまでしたといつもと同じように頭を下げただけだった。
おつとめ、ごくろうさまにございます。
危険であることは素人目にも明らかだった。
流すにも流せぬ。おかしなところに子は引っ掛かり、母体ごといのちを縮めていたのだ。
そうして、大事ないかとおざなりな言葉しかかけてやることのできなかった自分へ、大丈夫ですと、おち窪んだ眼窩をぎらぎら光らせて妻はこたえた。
産みます。かならず後継ぎを産んでごらんにいれます。
そこにはじめて妻の執情を見たような気がする。
戦場とはまったく異種のしずかなる狂気、鬼気迫ったせ苦しさに、逃げるように男はいつのまにか戦端のひらかれていた古巣へ戻った。
戻ってみると友人の姿はなかった。
崩れかけた隊を立て直すために殿に残った同僚は、壮絶な撤退戦のなか落命していた。
呆然自失となる間もなく、追いかけるように子はやはりいけなかったと報せが届いた。そうか。男は頷いた。そうか。やはりいけなかったのか。
まみえることのなかった子と、ふくれた腹、目をぎらつかせた妻、そうして最期を看取ることもできなかった友を思い、彼はすこしだけ泣いた。
じきに、肥立ちのよくなかった妻の訃報が届いた。ハブレストと交戦している最中の、幕営の中に飛び込んだ報せだった。
最後は失礼ながら、まるで木乃伊のようでございました。
使者は頭を垂れ、神妙な顔をする。
ご心中、お察し申し上げます。
そうか。男は言った。
頷いたきり今度は涙も出なかった。
激化する戦況に追われ、ただ息を吸って吐いて、剣と盾を構え馬もろとも突撃する日々だったのだ。刻限ごとに交替し、泥の上に寝、蹴り起こされてはまた血のりでかたまった指を無理やりひらく日々だったのだ。
記憶は摩耗し、正直、報告を受けても妻の顔をよく思い出すことができなかった。
うっすらと、ただすまなかったなと思った。
後添えをとすすめる周囲の声に首を振り、爾来がむしゃらに戦を渡り歩いた。シビラの宮中でも名の上がるほどには武功も上げた。高名な騎士だと賞讃されるたびに、鼻で笑うものがある。莫迦な。頭の片隅で声は言った。こんな人非人をもちあげてどうする。
声は妻だろうか。男は思った。湿った土のしたで或いは溶けきれず恨み言を吐いているか。
恨んでいるとよいなと思う。
――どこかで泣き声がする。
焼けた鏝をあてるたびに傷病人の体が跳ね、無意識に逃れようと身をよじる。押さえつけていろと命じられた青年は、存外強い人間の反射の力に顔をゆがめ、力をこめて四肢をおさえこんだ。
傷口の膿んだ男の片腕は、ひとまわり腫れて袖口をまくりあげることができず、小刀で切り裂いた。まったくひどい傷口だった。具合は大したものではない、すこし深めに獣の牙だか爪だかで切り裂かれた程度だったのだが、軽度とみてろくに治療を施していなかったのだろう、裂かれた皮膚は膿み、赤さを通り越してだいだい色に変色し、腐臭を放っていた。
毒素が体にまわったのだ。傷口をあらためた男が言った。
そのまま男が押さえつける青年にいいか、と言う。お前はこいつを力の限り抑えていろ。手を抜くな。ものすごい力で押し返されるからな。全力でやれ。
そうして脇に立つ女へ湯を沸かすように命じ、暖炉前の横たえられた体を見おろしひとつ溜息をつく。
運びこんだのは青年だ。
怯えたいななきを上げ、森から姿を現した大柄な馬の背には、男がひとり襤褸切れのようになって引っかかっていた。乗馬できていたと言うことは、完全に意識がない訳でもないのだろうが、呼びかけには応じない。
側にいた小さな体が強張り、ちいさく悲鳴を上げる。
名を呼び駆け寄った。知り合いか。青年もあとに続き、ぐらりとかしいだ体をなんとか受けとめようとする。受けとめきれず尻餅をついた。
体は熱かった。
すぐに屋内の夫婦に状況を伝え、不自由な体の家の主人に代わって青年が家の中まで傷病人の男を運びこむ。
意識のない大人の体はとんでもなく重い。重い、重いと話に聞いてはいたが、実際背負うまでこれほど重いものだとは思わなかった。砂袋でも担いでいた方がまだましだ。
本当に芯に骨があるのかと疑いたくなるほどに、体はぐにゃぐにゃと崩れ、折れ曲がり、結局うまく背負いきれずに、ほとんどを引きずる形になったのだ。
運び入れた傷病人の上着をはがし、片腕を露出させて、そのだいだい色に腫れあがりぱんぱんに膨らんだ皮膚へ男は小刀をあて、引いた。ぶつといやな音がして、沈んだ黒緑色の体液がふき出す。血と言うには黒い。毒素にやられた体の膿だ。男が言う。
勢いがなくなるとまた皮膚を切り開き、両手で何度も根元からしぼりあげて、さんざん出尽させたあと炎に突っ込んであった鏝を手に取り、傷口を焼くぞと男は言った。
「抑えていろ」
「……わかった」
頷き、満身の力をこめて四肢へ乗り上げたはずなのに、傷病人がもがいた瞬間青年は跳ね飛ばされ、なにをしていると男に怒鳴られた。
「莫迦野郎。きちんと押さえていろ」
「すまない」
いそいで体をおさえこみにかかる。力の強さに唸る。
意識をわずかとりもどしたのか、噎せ、かるく吐きかけた傷病人へ、もうちっとだ我慢しろと男がはげます。
声に安心したらしい、それとも激痛が限界を超えたのか、押さえつけた傷病人の喉奥からく、く、と笛の音のような音が漏れ、次いでぐたと弛緩する。
「……おい!」
男が怒鳴り、慌てて首の下へ折り曲げた枕を当てがって気道を確保した。死んでしまうのかと低く呟く青年へいいやと男は首を振り、
「気絶しただけだ」
まったく心臓が縮まるぜ。
おどけ口を叩いた男の額は脂汗がびっしり浮いて見えた。
「……よくないのか」
死んでしまうのかと先に聞いておきながら、二度その言葉を口にするとさすがに怒鳴られそうな気がして、青年が遠回しにたずねるとどうかなと男は渋い顔をした。
「これ以上手当はできねェ。あとは発熱させて、汗をかかせて、毒素を体から出してやるぐらいのもんなんだが……まあ、頑丈が取り柄のこいつだから心配はないと思うが」
言いながら残りの傷口を白熱した鏝を押し付け焼いてゆく。この焦げるにおいと言うもの、たとえば食用の肉を焼く場合とほとんど変わりがないように思えるのに、何故こうも不快に感じるのだろうか。そんなことを青年は思う。
「あと、手を貸すことはあるか」
「……いや」
「そうか」
小器用に包帯を巻きつけはじめる男を見おろし、青年は肩をすくめる。手を貸すだとか、まったくらしくないことをしたものだと思った。他人がどうなろうと関係ない、それがおのれの信条だったはずなのに。
退散しようかと顔をあげたそのまま、目を剝き、彼は戸口を凝視した。なんで、おまえ、驚きが口の端から漏れたのか、同じように振り向いた男がぎょっと体を揺らしたのが判る。
「姫……!」
瞬間状況を把握した男がおい、と青年へ向かってがなる。
「……お前さっさと彼女をどこかに連れていけ」
これは子供に見せてはならないものだったのに。
無言で頷いて、いそいで青年は戸口にしがみつき真っ青になったコロカントへ近寄る。運び入れた男に気をとられて、誰も、彼女に気を回す余裕がなかったのだ。
舌打ちし、腕をとると言葉もなく彼女は青年を見上げてきた。唇まで血の気がひいて青い。
促しても頭を振りそこを動こうとしないので、すこし乱暴に引き立て、とりあえず上階へと向かった。外にでることを考えないでもなかったが、たしかに音も気配もない代わりに、日の落ちた外気はひどく冷える。階段を上がるころには最初の抵抗は失せ、彼女はおとなしく青年に腕を引かれる態になった。
二階の寝室へ連れてゆき、寝床へ腰掛けさせる。黙りこくったまま彼女は従った。
「……腹減ってないか」
「――」
首を振る。
「水でも飲むか」
また横に振った。
「……」
気落ちした溜め息しか出ない。きっとほんとうは、彼女に安心させてやれる言葉をかけてやるのがよいのだ。よいのだとは判っている。大丈夫だ、とか、心配ない、とか。
しかし膝を抱えたまま小さく震え一言も発しない彼女に、青年は安請け合いの言葉をかけることがどうしてもできなかった。
発熱していた。
あまりにも熱かった。腫れあがった皮膚は腐臭を放っていた。手当の一部始終を見てしまった子供に、心配ないとどの口が言えるか?
溜息をついて横に座る。
同じように押し黙ると、階下の音が嫌でも耳に入った。人間の焦げた煙が、二階に吹き溜まっているように感じ、立ちあがって木戸をあける。外気がいきおいよく吹きこんで、頬をうった。瞼を閉じ青年は深呼吸する。
どちらも言葉を発することなく時間が流れた。
夕闇が落ち、室内の輪郭が明かりなしには何も見えなくなってからも、うずくまり体を固くしたままの子供をもてあまし、青年はまた深く息を吐く。
階下からそっと、女がうかがいを立てるようにやって来て、夕飯ができたと言った。振り向き少女がいるはずの暗がりのあたりに、食うかとたずねるがいらえはない。眠ってしまったわけではないのだろうが、いい加減どうしようもなくなって、青年は一度下へ向かった。
暖炉前、温めるように毛布を体に巻きつけられて、運び込んだ男が眠っている。
ちらとそちらを眺め、食卓につき椀の中身をかっ込むこの家の主を眺め、それから所在なさ気にこちらを見る女へ青年は目をやった。
「あの子は」
黙ってギーは首を振る。困ったねと女が溜息をつき、それからあんたはたべていくかねと聞かれたので、それも首を振ってかえした。
代わりに温めたスープをマグにふたり分と燭台を受けとって、青年は階上へ戻る。
「……おい」
明かりに照らされたコロカントはまんじりともせず相変わらず膝を抱えていた。その彼女の横に青年は腰を下ろし、湯気の立つマグを差しだす。首を振ろうとしたので、いいから持てと無理矢理おしつけた。
「食え。あたたまる」
「――」
「食える気分じゃなくても口に無理矢理入れて飲みこめ。飲みこんでしまえば、なんとかなる」
すくなくとも自分はそうして生きてきた。
「――」
子供はマグを両手で抱えたままうつむき動かない。
「食わないなら無理にでも食わせるぞ」
半ば脅すと、はじめて彼女は固い表情のまま顔をあげ、レヴが、とちいさく言った。
「レヴがこのまま目を覚まさないで」
「――」
「このまま目を覚まさないで、死んじゃうかもしれない」
「――おい、」
「ギー。どうしましょう。わたし、ひとりになってしまう」
どうしましょう。口にしてあらためて悲しくなったのか、言ったはしから彼女の瞳にみるみる涙が盛り上がり、ひきつけを起こしたようにしゃくりあげ、とうとう泣き出す。今まで驚きのあまり泣くこともできなかったのだ。
「なに言ってるんだお前。ひとりじゃないだろう」
だが俺がいると言えた義理もない。
マグを両手で支えていたので、瞼に手をあてることもできないで手放しで声をあげる彼女と、まいったと天井を見上げた青年の耳に、おいと焦った主の声が飛び込んできた。
ラルヴァンダード。お前。
耳ざとく聞きつけしゃっくりとともに息をのみ、たまらずぱっと下へ駆け出したコロカントを留めそこねておい、と慌てて青年もその後を追った。
泣き声がした。おびえてまよった声だった。
どうしたのだ、と思う。
何を泣いている。
怖いことでもあったのか。
なによりだいじな相手の泣いている声。
夢を見たのかもしれない。おそろしい夢を見た、そう言ってべそをかきながら彼の寝床へもぐりこんでくることが月に一度はあったから。
冷たくなってちいさく震える体を上掛けをあげて迎えいれてやる。迎えいれてやろうとして、体がうまく動かせないことにラルヴァンダードは気がついた。
動かない。なぜだ。なにがあった?ころがされる体。鼻奥を突き刺すにおい。ああ、躯――そうか、自分は戦場で果てたのだった、果てて焼かれる順を待っている。
だが声が。
どうしよう、と声が泣いた。
お化けも、くらやみも怖くない。でもひとりぼっちはいやです。どうしよう。ひとりになってしまう。
彼女が、怖い夢を見ている。
熱を出したのだ。だからこんなに熱い。ああそうだ、熱を出すとあなたはかならず駄々をこねるのだったな。
一晩中枕元についていたことを思い出す。
なにかが、自分を連れて行ってしまうのだとあなたは言う。
湯気のようにむこうが透けて見える巨人が、ゆらゆらと近づいてくる、捕まってはだめだ、あれに捕まってしまったらどこかに連れてゆかれてしまう、けれど逃げようとしても足はもどかしいほど前に進まず、やがて巨人の腕がながく伸びて迫るのだと。
どくどくと何かが打つ音。
これは脈なのだろうかこめかみを打つ脈の音ちがうこれは太鼓だ。ああそうか、ここは原住生物のすむ森のなかだ。だから彼らが太鼓を打っている。巨人は彼らのもとへ自分を連れてゆくつもりなのだ。
いやだ。連れてゆかれるのはいやだ。
逃げる速度よりも巨人の腕が伸びる速度の方がまさる、ずるっずるっと音をたて筋を伸ばし、骨がとろけ、したたりあなたを飲みこもうと迫る。
たすけてください。
悲鳴を上げる彼女の額をぬぐい、どうしましたとラルヴァンダードは言った。
夢を、
言ってしゃくりあげた彼女へ腕を伸ばし、そっと頭を撫ぜる。大丈夫。夢ですよ。
もうちっとばかり、寝るといいです。
なだめるように彼は言う。
朝まで眠れば今よりずっとよくなっていますから。
――でも。
目を閉じるとまぶたの裏に巨人がいる。寝るのはこわい、瞼を閉じてまたどこかへ連れてゆかれるのはこわい、なぜなら夢は自分を引き摺りこんで、
……大丈夫。
ラルヴァンダードは言った。言い聞かせる、穏やかな声だった。
大丈夫。自分がここにいます。
巨人はあなたを連れてゆかないから。連れてゆかれないように自分が見張っているから。なにも怖いことはないです。自分が朝までここで見張っていますから。
そう言ってやらねばならないと思った。また泣いている。なにがあったのだろう。
軋む体を反転させてなんとかうつ伏せになる。金縛りを力任せに解くような、無駄な力が要った。腕を突き半身を起して、ぐらぐらと視界のぶれる目を開いた。どこだ。どこで泣いている。
姫、としわがれた声がでた。
「おい。寝てろ。ラルヴァンダード」
慌てて端から無理に押さえつけようとする腕に、よしてくれと思った。焼くのはよしてくれ、俺はまだ躯じゃあない。それにお前は誰だ?ここは自分と彼女が二人だけで住まう場所だったはずなのだ。なぜここにいる?
「……姫」
階段を転がるように駆け下り、驚きと怯えに顔を強張らせる彼女の姿。視界の端にかかる。ああ、いたな。うっすらと笑って男は手を差し伸べた。よく見えないからもうすこし近づいてくれると良いと思う。
腕を差し伸べる、たったそれだけの動作にひどく汗をかく。腕が鉛のようだ。感覚が遠い。だがとにかく彼女を抱きしめて安心させてやらなくては。
いつの間にかおさえこまれ、無理矢理寝かしなおされていた。天井がまわる。吐き気がこみ上げて男は瞼を伏せた。レヴ。間近にやって来ていたコロカントの声に、またわずか正気を取りもどす。ひやと涼しい声。痛みが治まるように思った。
冷えたてのひらが、差し伸べていたはずの手をひろいあげて握る。泣いている。怯えて主が泣いている。
……泣くな。
満身の力をこめてもう一度腕を持ち上げ、彼女の頬にあてた。今度はうまく行ったようだ。ぐしゃぐしゃに涙で崩れた頬をあてた親指の腹でなぜ、大丈夫、と浮かされた声で男は呟いた。
どこにもゆきません。自分はあなたとともにおります。
あてがわれた手をすがるように両手で挟んで、はい、と彼女はまたぼろぼろと泣いた。泣くな。何度も彼女を呼んでやる。
「……はい」
同じように何度も律儀に頷くコロカントに、ひとがひとをいとおしむと言う感情がいったいどう言うものであるか、ラルヴァンダードはすこしだけ理解したように思った。
(20121016)
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最終更新:2012年10月24日 13:03