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 はー、とボクは溜息だか嘆息だかよくわからない息を長々と肺からしぼりながら、どすんと暖炉前のソファに腰かけた。
 くたびれた。
 今日の仕事はとくにくたびれた。
 空気が朝からむしむしジトジト体にまとわりついてうっとうしかったし、問題ある上司がいつもの二割増しでダダこねてたっていうのもある。
 なんだかもうシャワー浴びるのもだるくて、このまま寝ちゃいたい気分だ。
 でも、一日まじめーに仕事したおかげで、しっかり汗かいて体中ベタベタだ。眠いからってこのまま寝たとしても、途中でベタベタが気になって寝付けないってことはわかっていて、結局シャワーすることになるんだから、だったら早くはいっちゃえよって頭の片隅では思う。思うんだけど、でも面倒くさくて立ちあがりたくないって言うか。
 そうしてもっと気鬱なのは、明日から「これやってきてね」って教会事務局からまわされた仕事で、その仕事内容が憂鬱すぎて、いや憂鬱って言うより不安って言うか、とにかく、
「イヤだなあ……。ボクちゃんとお母さんになれるかなあ……」
 思わずぼんやり呟いたら、横で寝転がっていたシラスがなんかものすごい勢いで起き上がった。がばって音がしそうだと思う。けどいきなり起き上がるとかびっくりする。なにか緊急事態おこったんじゃないかって思うしやめてほしいです。
 でもそんなことおかまいなしにヤツはボクの肩を掴んでおい、だとか言った。
 えっとつかむ力つよくて痛いんですけど。
「な、なによ?」
 じろじろと眺めまわされたので、ボクはちょっと体をひいてシラスを見た。というかボクだから別にいいと思うけど、ひとのことをそんな風にじろじろ見まわすのってあんまりお行儀よくないと思います。
「おま、ちょ、キミ、今なんて」
「――は?」
「誰が、何になれるって言ったんだ!!!」
 怒鳴るとか。なんなんですか。
「なにって。……え?ボクが、お母さんになれるかなって話で」
「なりたいのか?」
「いや、なりたいって言うかもうなっちゃったって言うか、なんていうかいつもの事後承諾パターンだよ?」
「だれの!」
 えーと。なんでボクが怒鳴られてるのか、意味が判らない。
 でも、むっとするとか、腹を立てるっていうのは、正直、気力にみちみちた状態じゃあないとできないことで、仕事から帰ってきてくたびれたボクは、いま怒ることとか面倒くさいんです。
「え、誰って……、そんなの判らないよ」
 だって教会の事務局が決めたことですし。
 事務局から大雑把に説明されたところによると、あしたから一週間、教会系列の救済院で親のいない子供の一人を預かって家で面倒見てねっていうことらしかった。年に二度ほど、そう言うホームステイが実施されてるんだ。
 こういうの、ホームステイっていうのかわからないけど。
 いわゆる、院の集団生活しかしたことがなくて、普通の家庭を知らない子供たちに体験させるって言うのが建前らしいけど、どっちかというと司祭および司祭見習いの修行(修行って言うのもちょっとヘンか、)って言う気がする。どれだけ親身になれるか、とかそう言うの。
 ボクはこれまで、ホームステイ先の対象には入っていなかったんだけど、こないだ正式に「教会のちょっとしたお手伝い」ではなくて、「司祭見習い」になりたいですって申請して認可されて、それで今回対象に含まれたようだった。
 まぁ自分で言うのもなんだけど、うちの上司から回された仕事って「ちょっとしたお手伝い」の域を越えているような気はするけど、それって突っ込んだら負けなんだろうな。
 どっちにしろ、まだ詳しい内容までは聞かされてないし、それは明日サンジェット教会へ出勤したら判ることだと思う。
 けど、よく考えたらウチって、「普通の」家庭の枠からとてつもなく外れているんじゃないかって今になって気がついた。こんな特殊な環境の家で預かっちゃっていいんだろうか。
 とりあえずシラスが魔物だっていうことは隠さないといけないと思う。
 言いふらされて困るってよりは、預かる子供がいくつの子かわからないけどたとえば一週間預かって、でもって救済院に帰ったときに同じ院の子に話したりして、

「やーい、お前のホームステイ先おっばけやっしきー!」
 
 とかいじめられたらかわいそうだし。
 まぁ、普通に生活してたら魔法を使う場面なんてのもないだろうし、こっちからバラさなければ気が付かれないんじゃないか、とは思うんだけどそれって甘い考えですか。
 だとか、そんなことを思っているボクの前で、こわい顔をしたシラスが、
「相手の名前も知らないのか」
 って言った。
「今時、教会の人間は無理矢理そんなことさせるのか?」
「はあ?無理矢理って……仕事に無理矢理も何もないと思うけど」
 意味判らん。
 まあシラスが言ってることがわからないとかよくある話で、いちいち気にしてても仕方ないって言うのもある。
「本当に名前も知らないのか?」
「え、だって、名前って言われても相手見たことないし……子供は、男の子だって言われたけど」
「性別も判ってるのか!」
「はああ?」
 うわあっておかしな声あげて頭抱えるとかもう、本当にさっきからなんなんですか。
 あれか。あんまりにヒマなもんだから、わざと怒らせるようなことしてボクにかまってほしいとか、つまりそういうことなんだろうか。
 そうだとしたら新手のかまってちゃん方法ですねって思う。だいたいわれ関せず、を貫いてるけど、たまには嫌がらせのように思える方法でわざとボクにからんできたりしますよね。おこらせて楽しむ的な。クラスの気になる子にちょっかいかける的な。ちょっと違うか。
 でも、そう思うと、これもヤツにとっては遊びのひとつなのかも。
 だけどボクは、もうさっさと寝ちゃいたい気分であって、今現在まったくかまいたい欲求がないのです。
「あのさ。詳しい話は明日するから、ボクもう今日は寝ようと思う」
「駄目だ。もっとちゃんと説明しろよ」
「はあああ――――?」
 ボクはくたびれてて、頭にくるのも面倒くさくて、沸騰点がえらく高くなっていたはずだった。でもいい加減かまってちゃん攻撃がうざったくなってきて、とうとうむかっ腹がたつ。
 あのさぁ、とボクは言った。
「説明って、だからボクもよく判らないって言ってるだろ」
「判らないってどういうことだよ!」
「なんでそこで怒鳴るんだよ!」
 えちょっと本当に何を言ってるのか判らないです。
 いい加減にしろよって思って怒鳴ったシラスの顔を見る。なんかもう面倒くさくて泣きたくなってきた。場合によったらこぶしで解決しようかとも思った。怒らせて楽しむとか趣味悪いよって。
 でも、そう思って見たシラスは、真面目な顔をしてこっちを見ていた。ここ最近見たことないほどすごく真面目な顔をしていたから、その顔を見てボクは一瞬怒りが引っ込んで、代わりにちょっとだけ冷静になる。これ、からかっている感じじゃないよね。
 それから、もしかして最初の会話から思い返してみる。あれ、って。もしかしてえらいカンちがいしてるんじゃないか?
「あのさ――じゃあ、説明する。でもその前に一発殴らせてね」
 ああ、なんでキミがそんなにまじまじとボクの下っ腹あたりを眺めているのか、ようやく意味が判りました。ダイエットは明日からがボクのモットーだけど、ぶっちゃけそんな風に勘違いするとか、カン違いにしたってとても失礼です。
「は?オレが殴られるわけ?」
 きょとんとなったシラスのほっぺたに、ボクはぺち、と手をあててやった。
「中に人などいない!」
「は……、――え、え?」
「あのねえ。……ボクが今日帰り際に教会から言われた仕事は、救済院の子供を明日から預かってお母さん役を一週間するって話なんだけど、どっかの誰かさんはものっそい勘違いしてやがられますよね」
「――え、……あ、」
 あらためて言われて自分の勘違いに気が付いたらしいシラスが、いや、だとかその、だとかいきなり弁解しはじめる。でも、やっべ的な表情顔にでちゃっているので、今更ですよって思った。
「体重かわってないんだけどボク太ったかな……」
 このところ、仕事が忙しいのと、暑いのとで割に痩せたような気がしてたんだけどハタから見ると逆なんだろうか。だったら来週、ミヨちゃんと約束している海に遊びに行く前に、何としてもダイエット敢行しないといけないかもしれないって思う。誰が見てるわけじゃあないんだけど、ボンッキュッバァーンなミヨちゃんの横で、ボンッでもキュッでもないのに、下半身ポッコリなボクとか正直欝になりそうです。
「よしいいこと思い付いたカン違いしていたそこの失礼なシラスくん、まぁちょっと床に正座でもしたまえ」
「……な、なんだよ」
 なんだよって言いながら腰がひけてるし、ソファから降りて床にいっちゃってるあたりが現在の優越関係を表しているとボクは思う。
「失礼な勘違いをしたバツとして、ちょっとキミにお願いがあります」
「お願いって」
「ボクのことちょっと食べない?」
「――はあ?」
 生気って言うのがどれだけ体重に関係してくるのか本当のところよく判らないけど、ナメクジに塩かけるみたいなもんで、中身吸われたらちょっとはひっこむんじゃないだろうかってボクは思ったのだった。
 ひっこむんじゃなくてしぼむって言う可能性もなくはない、んだけども。
 床の上に正座したシラスは、言われたことが理解できなかったみたいで金色の目をまん丸にしてボクを見ている。なにも難しいことを言った訳じゃないんだし、そんな素っ頓狂な顔をしないでほしいと思う。ああでも、ボクは仕事帰りなわけだし、せめてお風呂入ってからのほうがよかったかなって言ったあとにちらと思った。汗くさいのと、石鹸の匂いがするのとでは、どっちかおいしいかって思えばよく判らないけど、食べられる方としては断然後者だ。
 でもここまで言っておいて、あ、でもやっぱり今のナシ、シャワー浴びてくるから待っててね、だとか言うのもなんといいますか、居間で、こう、ナイフとフォークかまえた魔物が待ち構えている前に、わざわざ自分からそう言うシチュエーションに持っていくって言うのも、新婚さんならいざ知らずボクとシラスのあいだではなんだかおかしい気もした。
 そんなことを思ったボクの前で、お食べよと言われたシラスは、喜んで喰いついてくるかと思いきや、驚きは鳴りをひそめたものの、今度はまいったなと言った顔をして床の上にいた。コイツが困る顔を見せるのは割と珍しい。
「シラス」
「あー、」
「食べないの?」
「――いや、食べろって……その、――うん」
 ごにょごにょと口の中で呟いて自己解決したらしい彼は、急に立ち上がり、ボクのほうに寄りもしないで玄関口に向かって歩き、ドアノブに手をかけた。
 月夜の散歩とやらに出かけるらしかった。
 ドアを開けながらちょっとこちらのほうを見て、あのなー、とぼやく声をだす。
「……なによ?」
「――他の男にはそんな誘いかけるなよな?」
「ぇあ?」
 まったく、だとか言いながら扉を閉められる。
 残されたのはクエスチョンマークしか浮かばないボクだけだった。




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最終更新:2012年10月16日 21:49