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 森の暮らしでは手に入れることのできない、町の様々な雑貨や食料を背負って、ホルミスダスは森へ足を踏み入れる。
 魔物がすむと噂の流れる、森だった。近隣の村では魔物をおそれ、ほとんどの人間の近付くことがない。
 それでもなお警戒してたそがれどきを選んだのは、仮に噂をおそれない人間が周囲にいたとしても、もっとも見とがめにくい時間だからだ。
 指定した待ち合わせの場所に着いたころには、夜中になっていた。
 うっそうと闇に溶け込み、近付く彼を見止めた同僚は、久しいというより先に、まるで行商だなと言った。背に負った荷物の量を差したらしい。お互いさまだろうと言ってホルミスダスはすこし笑う。
 肩をすくめられた。
 同僚のグシュナサフは、腹に仔を入れた山羊を脇に抱えている。森へ運びこんで直ぐ乳が飲める臨月のものをえらんだとしても、ずいぶんと腹がふくれている気がして、彼は顔を寄せる。
「……おおきな腹だ」
「二匹、入っているかもしれん」
「双子」
「ああ」
「じゃあ、姫が喜ぶでしょう」
 そうだなと受けてグシュナサフが先に立つ。必要以上無駄口をほとんど叩かないのは相変わらずで、だから二人でいるとたいがいホルミスダスが一方的に話をしている。
 どういう訳か、あそこの飯がうまかったとか、どこそこの酒場の娘が可愛らしかっただとかそうした世間話を掛け合っているはずが、じきにふた月のあいだの状況を説明している態になる。
 どうせあとには報告として、ラルヴァンダードへ説明しなければならないのだから、ある程度こうやって頭の中を整理できることはわりと都合が良い。それを含めて彼は同僚を利用しているだけなのかもしれない。
 それを相手も承知している。
 一昼夜かけ、森の中を歩き通す。
 目的地までの目印は何も無い。けもの道の跡すら残されていない。住人は用心深いのだ。木々の切れ間に見える星と、脇を歩く相方が頼りだった。
 傭兵暮らしが長かったせいかもしくは生来のものか、グシュナサフは妙に方向感覚がよい。一度通った道は路地がどれほど入り組んでいようと忘れないし、山中に入ってもそれは変わらなかった。覚書を見てもすぐに迷うホルミスダスとは対極である。
 うらやましいとは言わない。くやしいからだ。言ったところで、お前は注意力が散漫だからなと返されるのがオチだとことも承知していた。
 ほとんど休憩をはさまず、速度を落とさないまま歩いて、いい加減足が太腿のつけ根から痛みはじめるころ、ふた月に一度通ううちに、すっかり馴染のものになってしまった塔の上部がようやく目にはいる。
 着いた、と深い息が漏れた。まずは座って一服したい。
 しかし崩れかけた塔の上部が目に入ってからが意外と距離があることを、今では彼は知っている。さすがに一日経つと話すこともなくなり、足元だけながめ黙々と歩いた、すると遠くから彼の名を呼ぶ声がする。
 空耳かとも思った。
 もう一度。今度はもうすこしはっきりと、おのれと、脇をゆく相方の名を呼ぶ幼い声がして、ホルミスダスは顔をあげた。
 喜色満面と言った風で、ちいさな体がこちらへ向かってかけてくる。ああそんなに走って転んでしまってはどうするのだと思いながら、全身をつかって必死な様子の彼女が実のところ可愛らしいので、男は口に出さない。
 そんなことを考える彼に走ったいきおいのままコロカントは飛びかかり、彼はその彼女のちいさな体をいきおいごと受け止めようとし、
「う、わ」
 受け止めかねて数歩たたらをふんで、結局引っくり返った。
 転げたホルミスダスに驚いて、こちらは彼を突き飛ばす形になってしまった彼女が、目を丸くして驚いている。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
 慌てて起こそうとしてくれているものの、荷を背負ったおとなを相手では子供の力でどうなるものでもない。やれやれと苦笑いしたホルミスダスの襟元あたりをぐいと掴んで、
「……鍛錬不足だ」
 呆れたような溜息とともにグシュナサフに引き上げられた。
 まったくたいした膂力であると思う。
 生返事をかえす。
「ごめんなさい、ホゥル、大丈夫ですか」
 膝のあたりの汚れを払い、心底すまなそうな顔になっているコロカントへ、大丈夫ですよとホルミスダスは笑って返した。
「姫のせいじゃあないです。荷物がちょっと重かったんで、足に来ました」
「本当に、なんともないですか。どこか痛めていませんか」
「大丈夫ですよ」
「姫」
 このとおり、とかえすホルミスダスの横で、山羊の綱を差しだしたグシュナサフが、この男はひとつひとつが大げさなので、と低く呟いた。
「いちいち取り合っていたらきりがないです。それに、こいつはもうすこし力をつけた方がいい」
「おい……」
 本職が違うだろうとふてくされると、今さらだとすぐに返された。
 そうかもしれない、しかし戦場においても笛だの太鼓だのを持ち、陣営を回っては鼓舞する役目のおのれと、両手斧だの両手剣だのを豪気にふり回し、一日馬に乗って戦場を駆け回っても尻の皮の一枚も剝かず、直に土の上でも鼾をかいて眠るような人種と、同列に並べるのがいただけないと思うホルミスダスである。
 渡された綱を受けとり、めえめえと主張する山羊の首筋に顔をうずめていたコロカントが顔を上げ、
「きょうはすごいですよ」
 言って嬉しそうに笑った。
「ご馳走なんです。二人がくるって聞いて、朝からレヴと用意したんですよ」
 興奮したまなこがきらきらと光って、彼女の白目のすいこまれる青さに目眩のする思いだ。おさなごの目が青いというのは嘘や誇張では決してないのだなと妙なところで感心しながら、男は膝をつき、視線の高さを同じくする。
「それは楽しみだ」
 また背が伸びたように思った。
 この時分の子供のぐいぐいとのびる若木のような成長速度を思い、目まぐるしいものだと嘆息する。
「手紙で書いてあった時間より、ずいぶん遅かったでしょう。はやく食べないと、冷めてしまいます」
「すいません。……こいつが」
 言って彼はグシュナサフを指さしてみせる。
「思ったよりゆっくり歩くので」
「……よく言う」
 呆れた声で同僚が応えた。
「お前が待ち合わせの場所に来るのが、『いつものように大幅に』遅れたのが原因だろう」
「都合の悪いことは忘れる性質なんです」
「……」
 やってられんと肩をすくめ、グシュナサフがふたりへ背を向け先に歩き出した。冗談の通じないところも相変わらずだ。
「犬に襲われたんじゃないかって、レヴがギーと話していて」
「この通り」
 どこも大事ないですとホルミスダスはおのれの胸をたたく。おどけることに気がいっていたので、ラルヴァンダードが誰と話していたか、の部分を受けとり損ねていることに彼は気が付かない。
「野犬が出たのですか」
「はい。先月このあたりを」
「お怪我はありませんでしたか」
「はい。わたしは平気だったのですけれど、……レヴが」
「……親父さん、」
 かすかにくもった彼女の表情に、一瞬ひやりとするものを感じて私は慌てて立ち上る。
 見渡した。
「いまは、どこに」
「ホゥル」
 対処できる大人は彼一人だ。なにかおおごとな傷でも負って動けなくなったのではないかと、
「ちがうんです。もう、だいじはないんです」
「親父さん、」
「――ホゥル!」
 ちいさく引きとめる彼女の声を背にし、先を歩いていたはずの同僚も追い越して、ホルミスダスは小走りに進む。森がひらけ目の前にちいさな畑があらわれる、その畑の端のほうで怪我をした当のラルヴァンダード本人が立っており、息せき切らせたこちらを見た。怪訝な顔をしている。血相を変えた彼に、なにごとかと言った。
 無意識に彼の全身を見やり、目立った外傷はないようだと確認する。早とちりだった。
 ほっとした。
「野犬に襲われたと聞きました」
「ああ……、」
 聞いてラルヴァンダードの視線がホルミスダスの後方へと向けられる。コロカントの位置を確認しているのだった。山羊を連れてこちらへ向かう彼女を見止めて、なるほど彼女から聞いたかと、ラルヴァンダードが思考を繋ぎ合わせているのがわかる。ややして猟犬だと短く言葉が返ってきた。
「怪我は」
「……たいしたことはない。ただ、追いやるときに引っかけた傷が悪さをして熱を出した」
 もうどこもかわりないと応じる。
「熱を」
「失態だ」
 姫にずいぶん心配をかけさせてしまったと苦笑し、ラルヴァンダードは農具を肩に家に入ろうとする。極まりが悪かったのだと思う。
「そういえば、犬騒ぎであの男の世話になってな」
 言ってラルヴァンダードは、久しく聞いていなかった男の名を口にした。懐かしい名だとホルミスダスは思い、片眉を上げる。表向きは英退というかたちで隊を辞したものの、実際のところは患った病のおかげで、追いやられるような除隊だったと記憶している。
「お元気でしたか」
「……三年ぶりだったか。不自由なところはあったが、元気だった」
「ご夫人も、」
「……あいかわらず、尻に敷かれていたな」
「なるほど」
 聞いて思わずにやにやとする。話の男は、シビラ国内にいたときから、恐妻家であると仲間うちでは有名な話で、何かの折に家宅を訪れたときに、なるほどとホルミスダスも思ったものだ。決して愛想の悪い女ではない。「世間」という色眼鏡つきで見れば、亭主をうまく御しながらきりもりをするしっかりものの奥方、と名が付いたろうと思う。
「……ああいった女性がいいんじゃあないか」
 すこし後を付いて歩く形だったホルミスダスは、ラルヴァンダードから不意に話を振られて我にかえり、
「なんの話です」
 目をしばたたかせた。
「お前が妻を迎えるとしたら、ああした女性がよいと言う話だ」
「俺の、ですか」
 うへ、という声と苦笑いがいっぺんにでる。
「きっちりとはたらきものの女性であったら、グシュナサフが毎度待ち惚けを食らうこともなくなるのじゃあないか」
「……勘弁してくださいよ。つよい女性は嫌いじゃあないですよ?でも嫁にするなら別です。硝子細工のように繊細な自分は、尻に敷かれてつぶれてしまいます」
「繊細だとかいえた義理か、お前は」
「それに、自分が誰かひとりに決めたら、ほかの女の子が涙の嵐ですよ」
「……そのうち刺されるな」
 わりと真面目な顔でラルヴァンダードが呟く。その様子がおかしかったので、ホルミスダスは肩を揺らして笑った。
 先に家へ入った男に一言断りを入れて、荷物を戸口側へ置き、彼は裏手へと回る。なにしろ丸一日ほとんど歩きづめであったので、全身が汗と埃まみれだ。「臭う」時期ではないにしろ、さすがにそのまま室内へ入るのは気がひけた。体を清めようと思ったのだ。
 水槽に張られた水に手拭いをひたし、顔をあらい口を漱ぐ。
 首回りもついでに拭って髪をかきあげたところへ、後ろから誰かが近付く気配がする。おおかた同じように埃をながしにきた同僚か、もしくはコロカントだろうと振り向き、そのままホルミスダスは顔をこわばらせた。
 無意識に腰の獲物へ手が伸びている。
 知らない人間がそこに立っていた。若い男だった。背負子を背に、傍らに足の太い老馬をしたがえ、すこし離れた場所からこちらを見ている。
 馬を洗い場へ連れてきたところにかち合ったと言う風体。
 どうしたことだ、と呟きがホルミスダスの口から出ていた。
 おまえは、誰だ。
 若い男の脇に添う老馬は、ここで飼われているものに違いなかった。特徴的な白茶のまだら模様はなかなかない。だが、ここへ隠れ住んでいる人間はラルヴァンダードとコロカントの二名であるはずで、増えると言う話も聞いていない。目の前の男が、ここにこうして存在しているという自体、そもそもどこかおかしいのだ。
 ホルミスダスから殺気を向けられているいるはずの相手は、無表情のまま、鼻を鳴らした馬に一瞬目をくれ、その鼻づらを撫でた。それからまた静かにホルミスダスを見つめる。
 昏い目だと思う。
「――アンタが、俺を殺すのか」
 唇がわずかに動き、静かな声が囁いた。
 囁き程度のちいさな音であったはずなのに、内容が物騒だっただけにやけにおおきくホルミスダスの耳に届いて、おかげで彼は先制をうしなう。それがもし若い男による計算づくのものであったとしたら、たいしたものだ。呑まれている。内心冷や汗をかいた。
 そうして若い男の発した言葉の意味が、彼は気になり眉根を寄せる。アンタが、と彼は言った。まるではやく誰かに始末してほしかったようにも聞こえて、しかしその望みの相手に選ばれることはまっぴらだと思った。
「……ホルミスダス。退け」
 うしろから低く牽制の声が響いて、言われたホルミスダスと、若い男は同時にそちらへ目をやる。気配から誰かが近付いてくることはわかっていた。立っていたのはラルヴァンダードだ。
 親父さん、と説明を促すように呟くと、彼は大事ない、とよく判らない言葉でかえされる。
「姫の友人だ。よく働いてくれている」
「友人」
 経緯はおいおい話す。いぶかしんだ彼にラルヴァンダードは言った。ひけ。もう一度諭されて、不承不承頷きホルミスダスは構えを解く。
 構えを解いた彼を見止め、若い男がふたたび馬を促して水場へと近づく。無防備だった。たとえばホルミスダスがまだ邪心をいだいたままで、すれ違いざま抜身の一撃を放ったとして、若い男は避ける位置にない。
 気味が悪い気もした。
 さすがに真横に立つのは気がひけたので、ホルミスダスは水場をはなれ、ラルヴァンダードの側へ足を進めた。説明をもとめたかった意味合いもある。
「信用しても」
 構わないですね?重ねてたしかめた彼にああ、とラルヴァンダードはこたえた。心配ない。そう言う。アンタが、俺を殺すのか。さらと言い放った相手を、言われた通り信用してもよいものかどうか、迷うところだが、ラルヴァンダードがよいと言うのならばよいのだろう。
「中で姫が腹をすかせて待っている。彼のことはそのあとだ。……それより、もう二、三度顔を洗ってこい」
「――は、」
 言われた意味が判らなくてホルミスダスは首をひねる。土汚れでもついていたものかと顔を手のひらでこすると、そうじゃないと苦笑いされた。
 お前、そのままの顔を姫に見せるんじゃないぞ。
 念を押されて、おのれの顔が剣呑な殺気を浮かべたままであったことを、ようやくホルミスダスは自覚した。


 台所に設えられたテーブルの上には、コロカントの言った通り、「ご馳走」がいっぱいに並べられている。
 畑で採れた根菜の羹。干し肉を湯で煮戻しこりこりと歯ごたえのする実と味付けしたもの。木苺を糖蜜で煉ったもの。鶏卵を小麦で溶き焼いたもの。山羊の乾酪は普段より厚切りにされて火であぶられ、銘々の黒パンの上にナイフで削ぎ盛られている。
 荷物を部屋の隅へひとまず片付けながら腹の虫がぐうぐうとなり、椅子について葡萄酒が注がれるころには生唾がわいていた。
 ここしばらく、「まとも」な食事をしていなかったホルミスダスや同僚のグシュナサフは勿論のこと、普段はつつましい食事をしているだろうコロカントも食前の祈りが終わると、顔を輝かせながら馳走を頬張った。ほとんど口を利かず、一心に詰め込んでいるのが微笑ましいと思う。
 彼らが「外」からやって来ることが嬉しいのが半分、彼らがくることでうまいものを食べられることが嬉しいのが半分。きっとあるのだろうなと必死に食べる様子の彼女を見てホルミスダスはちらと思った。
 それにしても頬をふくらます態がまるで栗鼠だ。おかしみをおぼえて笑う。
 観察しながら同じようなスピードで馳走を腹におさめていった。無心で咀嚼し、器用に話を振り、ふと思いあたってぐるりと見回すと、若い男は食卓に着いていないのだった。
「……彼は?」
 訊いたホルミスダスの木椀にまた酒が満たされた。
「一緒に食えと勧めたんだがな。遠慮された。上にいる」
 ひとり、それほどがっつくこともなく、同じように卓を囲みながら給仕もこなしていたラルヴァンダードが、こちらは湯をすすりながらもうよいのかと言った。顎で天井をさし示され、二階にいるのだと言う。つられて何もない上を仰ぎ、
「はあ、結構腹いっぱいになってきました」
 ホルミスダスはこたえた。では、ここでの会話も、聞き耳を立てていれば聞こえてくるはずだ。
「姫がよく納得しましたね」
 彼女の友人であるとラルヴァンダードは言った。では生半あの若い男が遠慮しても、この子供であるならばいいえそれはいけませんと強引に席に着かせるのが筋ではないか。無垢な顔をして一緒に食べるほうがおいしいに決まっているのですと言い張り、相手の反語を封じてしまう。多少気まずさをともなったところで、結局同席させられてしまうのだ。
 言葉を交わしてもいないので、あの男がどれほど弁の立つものかは知らないが、すくなくともホルミスダスはコロカントをうまい具合に言いくるめる自信がない。
「死んじゃうんですって」
「は、」
 咀嚼していたものをごくと飲みこんでから、コロカントが不満げに口を尖らせた。ああ納得はしていないのだなと、その顔を見て彼は思う。
「……死んじゃう?」
「大勢の人と一緒にご飯を食べると死んじゃう病気なのだって、ギーがそう言うから」
 面と向かって真面目な顔で言われたのだろう。そうして、病気で死んでしまうのだと言い張られたら、それ以上無理強いはコロカントの性格上できまい。
 なるほどとホルミスダスは笑いを漏らした。今度不都合なことができたら、自分もそうして彼女に対抗しようと思う。
「姫の、ご友人だそうですね?」
「森の中で会ったんです。わたしと同じ、犬の群れに襲われて逃げたのだと、そう」
「猟犬というのは」
「……ハブレストの放ったものだな」
 聞いていたラルヴァンダードが静かに口をはさんだ。ハブレスト、呟いて一瞬眉間に皺をよせたホルミスダスを、脇に着き、だまって料理を平らげていたグシュナサフが肘で小突く。それで慌てて眉間を解し、彼は愛想笑いを浮かべた。

「そういえば、姫にお土産があるんですよ」
 ホルミスダスはまた唐突に話題を変える。
 あからさまな話題逸らしは、それでも場の空気をなごませる効果を持っており、ひとくち。酒を口に含み、彼はおもむろに立ちあがって背負ってきた背嚢へ近付いた。埃まみれたそれは、戸口近くに立てかけられてあって、近付く彼に興味をしめして、同じく戸口付近で飼い葉を食んでいた馬が、鼻を鳴らした。
「ハナ」
 元気だったかと鼻づらを撫でてやる。丁寧に毛梳きされ、つやつやと背が輝いていた。あの若い男がやったのだなとちらとホルミスダスは思う。
 しゃがみ込み、荷紐を解いた。
「おい。ホルミスダス。まだ食事中だ」
 グシュナサフが言った。行儀が悪いとたしなめられ、けれど彼は肩をすくめて無礼講ですよと言った。たまにはよいでしょうと。胃に流したすこしの酒も作用しているのだ。
「俺は食い終りました」
「お前の話じゃあない。姫がまだ食べている」
「いいんです。いつもはだめですけど、今日はいいんです」
「……どういう基準だ」
「俺が決めました」
 こちらは行儀よく椅子に着いたままの同僚へ大仰に頷いて返して、彼は荷駄をまさぐり、いちばんに渡したかった包みを見つけて引き出す。四角くて、平たくて、かたい包みがひとつ。
 取り出して振り返る。口は動かしながら視線をこちらへ向け、興味津々といった風のコロカントへ差し出してみせた。
「姫、誕生日おめでとうございます」
「まあ」
 差しだされた彼女の目がきらきらと輝いた。すぐ立ちあがらないところは、さすがの躾と言わざるを得ないが、彼女の興味が、目の前の料理からホルミスダスの差しだした包みへとうつっていることはあきらかだった。
 皿の上と彼が差しだした包みを見比べている。考えている。様子をながめ、ホルミスダスはこっそりほくそ笑んだ。
 大人気ないことは判っていた。
 教育上たいへんよろしくないことも承知している。
 黙って眺めているラルヴァンダードが面白く思わないことも、もちろん計算上のことだ。
 だのに浮つく彼女が見たかった。彼の完全なわがままである。
 そわそわとしながら、それでもコロカントは自分から席を立とうとはしない。食欲はとっくにふっとんでいるのだろうと思う、けれどきちんと食べきり皿を空にするまでは席を立たない、そう躾けられている彼女は食事を中断するすべを思いつかないようだった。
「……姫」
 やれやれといった調子で頬杖を突き、様子を眺めていたラルヴァンダードが仕方ないと言った調子で呟く。ひくんと肩がうごいてコロカントの背筋が伸びた。
「いいですよ。残りは明日食べましょうか」
「……でも」
「食事どころじゃなくなりましたでしょう」
「でも」
 男の顔をうかがった彼女の目が迷いに揺れている。
「お行儀、悪いです……よね?」
「良いも悪いも。邪魔したのはこの男です」
 今日はとくべつです、仕方ありませんと頷くラルヴァンダードを見て、彼女の顔がぱっと明るくなった。はいとこたえ、立ちあがりかけ、慌ててフォークをおいてごちそうさまでしたと手を合わせる。それからあらためて席を立ち、ホルミスダスの差しだした包みへ走り寄った。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。……ありがとうございます!」
 このくしゃくしゃに崩れた顔をはやく見たくて先走ったのだと言い訳したら、こわい教育係殿は、許してくれるだろうか。そんなことを彼は思う。
「……お前はあとで説教だ」
 うしろからホルミスダスへ声がかかった。見やる。こちらを牽制するようなグシュナサフの目がざまあみろと笑っている。
 だが本気で機嫌を損ねてはいるわけではない。食べ終わった食器を重ねはじめたラルヴァンダードの動作に、不機嫌さは見当たらなかった。叱られることもおりこみ済みで、それでもどこかで胸をなでおろしながら、床にしゃがみ-込み四角く平たい包みをひろげる彼女の脇へ、ホルミスダスも腰を下ろす。
「なんでしょう」
「開けてみてください」
 中身を知っているはずなのに、わくわくと結び目を解く彼女を眺めているうちになぜか贈った方も高揚してくるから不思議なものだ。わりとしっかりと結ばれたかた結びは、力任せではほどけない、じれったがりながらも辛抱強く子供は指でほぐし、やがて包みをひろげた彼女は歓声をあげた。
 あっけらかんとした、驚きを隠さない喜びの声。
 ふたりで選んだ誕生日祝いの包みは、植物のこまかな図とその特徴を書きしるしたもので、いわゆる図鑑だ。彼女が自力で読むにはまだずいぶんと難しい語句も混じっていたけれど、教え聞かせてやれる人間は近くにいる。手習いには少々堅苦しいけれど、差し引いてもよい品だった。
 なにより、以前から彼女が森の植生をもっと知りたいと口にしていたのだ。
「すごい……!すごいです」
 興奮に頬を染めてコロカントは顔を上げ、ホルミスダスとグシュナサフを交互にながめて、ありがとうございますとまた言った。そうして適当なページをひろげてのぞきこみ、まあと歓声を上げる。
「これ!今日食べた木の実ですね」
「ああ、そうですね」
「こっちは、」
「こっちは亜種ですね。葉の形が違うでしょう。もうすこし南方の国に生ります」
「南方の……」
 先ほどの食事どきに見せた真剣さと同じまなこで、わあだとかひゃあといちいち大喜びしながら、しばらく必死になって彼女は図鑑に食いつき、それから不意に顔を上げ、
「本当にありがとうございます」
 とても嬉しい。言ってホルミスダスへ飛びついてきた。今度はきちんと抱きとめる。
「姫に喜んでもらえてよかったです」
 飛びつかれて彼もにこにこと笑った。選んだ甲斐があるというものだ。これが、誰の原案で、実際ホルミスダスがなにを選びかけていたかはともかくとして。
「これで毎日勉強します」
 ほんとうにうれしい。ありがとうと百篇いっても足りませんね。
 いまだ興奮冷めやらぬ態で彼女がそう言って、それからかるく彼の頬に触れる素振りを見せた。ちゅとちいさなついばむ音が耳元でひびいて、次いで、あ、と我に返った声になる。
「どうしました」
 怪訝な顔で彼はコロカントを見た。
「こうこと、しちゃいけないんでした……」
「いけない?」
 どういうことだと首をひねるとはい、と至極真面目な顔をしてコロカントが頷く。
「簡単に、口づけをするのはよくないのだそうです」
「簡単に」
「えっと……。ものがたりでは、王子様がお姫さまに口づけをすると、よくない魔法がとけますね」
「ああ、はい……とけますね」
 それがなんだと言うのだろう。いぶかしむままホルミスダスはあいまいに頷いた。
「とくべつなときにするから、魔法の力は有効なんです。普段から口づけをすることになれてしまうと、魔法のちからが薄れてしまうと、ラルヴァンダードに教えてもらいました」
「ふむ」
「ハナとか、チチとか、タマゴにはいいんです。でも、ひとにするのはよくよく大事なときでないとだめだって、そう」
「なるほど」
 ちらとホルミスダスは教育係殿を省みる。なんとも言えない渋い顔をしてな顔でこちらを見ていた。聞くな。目が言っている。彼女はもしかするとこの持ち前の無垢さで、なにがしかラルヴァンダードを面食らわせることをしたのかもしれない。もう少し根ほり聞いてみたい気もしたが、あとが怖いのでやめておくことにした。
 しかし、だからと言ってなかなかないコロカントとの交流の機会をむべに減らすこともないと、ふと彼は悪戯心をおこす。
「大丈夫です」
 彼女に触れうる数少ない機会を逃してなるものかと思い、大真面目な顔をしてホルミスダスはきっぱり頷いてみせた。
「キスは大丈夫です」
「……大丈夫なのですか」
「キスと口づけは別ものなので」
「まあ。そうなのですか」
 はい、と真面目に頷くと、感心した顔でコロカントがぱちぱちとまじろいだ。
「そうです。別です」
「別ですか。別なら、効果は薄れませんね」
「薄れません。こちらの頬にもどうぞ」
「はい」
 じゃあ安心ですね。ほっとしたように笑って、コロカントは先とは逆の男の頬にちゅ、とかるく音だけの口づけをし、それからグシュナサフのもとへも駆けていった。眉尻を下げて、一瞬困った風だったグシュナサフは、結局期待に見上げている視線に負けて、身を屈める。
「……ホルミスダス」
「うわは」
 先とはちがう、ゆらと地を這う声をラルヴァンダードからかけられ、彼はおどけて振り返る。心なしか怒気も混じっているような気がした。
「はい」
「説教のほかに、折檻も追加だ」
「親父さん、顔がこわいですよ」
 ああ。視線が剣呑だ。
 これはもしかすると絞られてしまうなと思いつつ、反省と言う二文字はいまのところホルミスダスの辞書にはない。戻ってきたコロカントのからだを再びだきしめ、無礼講ですよ。言って彼はくつくつと笑って見せた。


「ギーに、読んでもらいます」
 さっそく勉強の構えを見せ、張り切ったコロカントが、図鑑をかかえて二階へ上ってゆく。それを何とはなしに目で追いながら、ホルミスダスは背嚢から残りの行商道具をひとつひとつ取りだし、皿の片付けられた台所の卓の上へ、置いていった。
 人里はなれて生活するラルヴァンダードとコロカントが、いくら自給自足を基本とはしていても、生活必需品といったものはどうしても必要となってくるわけで、
「塩と……、こっちが頼まれていた帆布と針と糸ですね。それと懇意にしている食料店の親父さんが珍しく手に入ったのだと言って、蜂蜜をふた瓶」
「ありがたい」
「……娘」
 いつの間にか席を離れ、ぼそ、とかかえてきた山羊の縄目痕をこすりなだめてやっていたグシュナサフが呟いて、ホルミスダスは軽くそちらを睨んでやった。
「お前、俺の手妻のネタを全部バラす気か」
 確かに彼の言う通り、懇意にしているのも品物を横流してくれたのも主人ではなく、その娘であるのだけれど、
「泣かせるなよ」
 グシュナサフだけでなく、彼の発言を聞いたラルヴァンダードからもあきれた視線を向けられてしまった。泣かせませんよ、とホルミスダスは憤慨してかえす。
「自分は、ご婦人方に平等に優しいことで有名なんです」
「……どうだか」
「お前、ちょっと黙ってろ」
 普段こちらの話しかけにはほとんど応じないくせに、こうしてちくちくと突けるところでは的確に突いてくる同僚はいい性格をしていると、ホルミスダスは思う。
 割と本気で腹を立て、釘を刺しながら、
「あと、これはいつものですね」
 言って彼はインクだの羊皮紙だのをならべたあとに、湿気防止に油紙を巻いた布袋をふた包み手渡した。ああ、と頷いてラルヴァンダードは受け取る。ぷんとたちのぼる空煎りした数種の香草のにおい。朝晩食後に茶代わりに彼が煮出して飲んでいるものだ。
「あとは、」
 必需品ではないけれど、町でしか手に入らない嗜好物。酒だの煙草だの、コロカントには飴玉だのと言った、言ってみれば贅沢品だ。なければないで諦めもするが、あると生活が豊かになるとホルミスダスは思っている。「無駄」は時に必要だ。物資量ではなく、気持ちの問題で。
 それも頷いて受けとって、いつもすまないなとラルヴァンダードは頭を下げた。殊勝な仕草にホルミスダスは眉を上げる。
「なに言ってるんですか。これが俺の役目でしょう。頭なんて下げんでください」
「潤沢に資金のない中で、目立たず、これだけ揃えるのは至難だったろう」
 執念深いハブレスト国の監視の目は、旧シビラにもセイゼルにも、ハブレスト本国にもいまだに巡らされていた。なかでも、旧シビラに属したとされる人間への追及は厳しい。すこしでも不審と思われたら、公安警備隊がうむを言わさず引き立ててゆく。
 帰ってこられる確率は低い。
 巻き込まれることをおそれ、密告にはしるものもいる。
「自分はもともと戦場よりも諜報です」
「しかし」
「それこそ、ご婦人方の興を買って褒美をいただくのが得意なんです」
 シビラは小さな国だった。肩書きは楽士でも兵士として駆り出された経験もあったので、ホルミスダスとしても剣のひとつも持てないと言うわけでは、なかったけれど、
「笛を吹いたり歌を歌ったり、とばりで甘い言葉をささやく方が、自分にはよほど性に合っているんですよ」
 月単位で屋敷を空ける夫。顧みられることのない婦人たち。どこも突けば大小それなりに不満は持っていて、その不満のはち切れそうな場所を嗅ぎつけて、ホルミスダスは近付く。寝所での彼女たちは尻も口も軽かった。
 あるいは自分の漏らす情報を彼が知りたがっている、理解した上で両腕をひろげて招き入れた女もいたのかもしれない。
 お互いに欠けあったところ、必要なものを等価交換しただけの話、つまびらかにするのは野暮と言うものだ。
「それよりも、現状報告ですが」
「……ああ」
 ホルミスダスの声色に、にわかにラルヴァンダードの顔が引き締まり、手にしていた土産を脇へ置いた。席へ戻り、椅子の背にからだを預けていたグシュナサフもぐいと前に乗りだす。
 ふた月に一度の定例報告は、生活雑貨を運び入れるという物資的な意味もあったけれど、本題は姫を匿うラルヴァンダードへの詳細な現状通達だった。簡単な文書を飛ばすこともできるが、書面上では伝えきれないことがらもあるし、なにより他の人間の目に触れたときがこわい。暗号密書のたぐいも限界がある。
 隠れ住まいを暴かれる危険性を考慮してそれでも、直に伝えることがいっとう安全だった。
 ちらと上を見上げ、コロカントと若い男がおりてこないことを確認すると、
「いくつある」
 抑えた声でラルヴァンダードはたずねた。
「悪い報せと、」
「良い報せもあるのか」
「……いえ。悪い報せと、悪い報せと、もっと悪い報せがあります」
「頭が痛くなる話だな……」
 額をおさえ、ラルヴァンダードが長々と溜息をついた。予想していなかった訳ではないのだろうが、予想することと、実際報告されることはまるで別の話である。
「で」
「はい。ひとつめですが、非戦主義、再興一派の中核であらせられたアヌ侯が、なくなられました」
「……亡くなられた……?」
 報せに、信じられないと言った顔になり、ラルヴァンダードはホルミスダスを見る。視線を受けた赤毛の男はゆるく頷いた。
「はい」
「どういうことだ。急に過ぎる」
「自分もそう思います。病と発表されていましたが、どうでしょうね」
 十ほど上の侯爵の顔を思い浮かべ、ホルミスダスの声も苦いものになった。ここへ来るあいだグシュナサフと話ながら、やはり同じようにきな臭いとは思っていたのだ。
「亡くなる前に、お会いすることは」
「――できませんでした。病人を興奮させてはならないとの理由で」
 横合いからグシュナサフが呟くと、むう、ラルヴァンダードが唸った。
 そもそも自身でいくさ狂いと発するほど気性の荒い、よく鍛えられた体をしている軍人だった。雨に濡れて風邪ひとつひいたことがないと言うのが自慢話で、ここにいる三人の男はみな酒の席で、あるいは戦場で、それを聞かされたことがあるはずだ。
「最後にお会いしたのは」
「半年前です」
「……そのころ体をおかしくしたと言う話は」
「なかったです。少なくとも自分は聞いていない」
 グシュナサフが顎を撫ぜながら呟く。 
 コロカントの暮らしぶりを何かと心配して聞きだしてきた、なにか入用のものはないかと、不自由はないかと、健やかに成長されているかと、たずねていたとグシュナサフは続ける。
 失った実子を彼女に重ねているように見えたと、
「……亡くなられた夫人のご親戚から養子を迎えられておられます。この方が一切を取り仕切っており、アヌ候の葬儀は内内に済ませたと」
 あとを接いでホルミスダスが言った。
「かたちとしておかしいものではないな」
「はい。なにしろ、血のつながりはないとは言え、『ご子息』であられるわけですからね……、生前侯爵と親交の深かった方のなかには、密葬に疑念をいだいたものもあるようです。しかし、父は生前から簡素な葬儀を望んでいた、死に顔を人にさらすは恥と遺言した、と公表されてはそれ以上突き込むわけにもゆかず」
「跡取り殿との接触は」
「はい。ここを出立したのちに、グシュナサフが会う段取りになっています。こちらに来る前に、是非とも先に面会をすませたかったのですが」
 言葉をきったホルミスダスが視線をながし、
「喪に服しているのであとにしてくれ、と」
 ぼそ、と彼のあとをグシュナサフが補足する。
「屋敷には顔を隠した人物が複数出入りしているようで」
「……早急に、ご子息殿の意向を確認する必要があるな」
 それは十中八、九、よい意向ではないのだろうけれど。
 ラルヴァンダードの呟きに、判りましたと二人は頷いて次に、と話を進める。
「マルゴイ管区大司教にお会いしました。お会いして、セイゼルとの会談の場を設える約束をしてくださいました。……しかし、約束してくださったのはよいのですが、その後床に伏せ、起きあがることができないそうで」
 失礼ながらそう長くはありますまい。潜めた声でホルミスダスは言う。
「あのとおりご高齢にあらせられますので」
「九十……」
「九十三と伺いました」
「会談の件は……、」
「わかりません。もう一度たしかめる必要がありそうです。が、こちらはアヌ候と違って『ほんとうに』伏せていらっしゃるので」
『ほんとうに』、の部分に皮肉が混じったのは仕方がない。面談がかなうかどうかは五分五分と言ったところだろう。
 ふたたび唸って考え込んでしまったラルヴァンダードへ、
「他に」
 追い打ちをかけホルミスダスは言った。
「セイゼルとハブレストの友好条約が現実のものとなりそうです」
「……」
 告げた瞬間、告げられたラルヴァンダードではなく、脇で聞いていた同僚から、奥歯を噛みしめる音が聞こえた気がした。ぎり。空耳かもしれない。空耳だったほうがよいと彼は思う。
 ハブレストに侵攻された旧シビラにたいして、セイゼル国が同情を示しているというのは以前何度か述べた通りで、けれどそれはあくまでもセイゼル公の個人的感傷と、ハブレストへの示威行為によるところが大きい。事が起こった直後ならともかく、侵攻から三年が経過してしまった。なにもかも燃えたシビラの残党と、興隆めざましいハブレストの、どちらと親交を深めたほうがセイゼルにとって「得」であるかは考えるまでもないことだ。
 大陸に在するのは三国ばかりではない。その三国を取り囲む無数の国がある。
 僅かでも、気を抜いた側が足もとをすくわれる時代だ。
 ここ数年のあいだ、たいした乱がおきなかったのは、周囲各国が互いにせめぎ合い、三国へちょっかいをだすいとまがなかったと言うこと、そうしてセイゼルとハブレスト両間が休戦協定以上のものにならなかったのは、シビラ陥落の際、ハブレストの一方的な条約破棄によるものであったこと。セイゼルはこれを警戒して、いままでハブレストとの条約締結をしぶってきた。友好条約とやらを結んだ「ついで」に、油断した寝首をかかれてはたまらない、というのが本音のところだ。
 生き残りたければ奪え。ハブレストはそれを実であらわしている。
 しかし、ハブレストとセイゼル両国間の友好条約締結は、シビラの生きのこりにとって悪報以外のなにものでもない。最後通牒にひとしいものだ。
「義」が必要であると、老人は言った。人を動かすにはおおきな義が必要だと。
 セイゼルはおそらく簡単にシビラを切り捨てることができる。
 国単位の後ろ盾は強い。背後につく強固な支援はそれだけ人心を呼ぶ。シビラ再興に他国の支援は欠かせなかった。あてがなくなるということは、シビラに恩のある旧臣の一致すら危うい。
 すでにアヌ候は亡い。
 気心知れたここにいる人間はいい。だが、残りのシビラのものどもが、仮に二国どちらかに「付く」と決断したときに、悪心をいだかないと言いきれるか。
 売名するために、一番効果的な手土産とはなにか。
「引き払うよりほか、ないな」
 ぼつとラルヴァンダードが呟いた。苦い声だった。――どこに。思わずホルミスダスの喉から声が漏れる。
 ここを引き払ってどこに行こうと言うのか。そもそも森、もう森にしか逃げ隠れる場所がなかったから、ここへきたのではなかったか。
 ハブレストは勘ぐっている。いまだシビラの遺児がどこかに生きのびているのではないかと疑っている。目が光る国内に、子供を隠し通せる場所はない。
「それでも三年、もったのだ」
 言い聞かせるようにラルヴァンダードが言った。頷くよりなくて、ホルミスダスは同意する。じっとおのれの掌を見つめるラルヴァンダードは、言葉をなによりおのれに言い聞かせているように、見えてならなかった。


 事細を確認しているうちに、いつものように深更を過ぎた。
 そろそろ寝るかといわれて頷いたものの、すぐに横になる気にはなれない。胸のあたりがひどく重たい。ここでホルミスダスはいつものように、とるにたらない軽口のひとつでもたたいて場をなごませればよかったのだが、彼もさすがにそんな気分にはなれない。
 ――あいにく品切れだよ。
 こころの中で呟く。
 はじめはぼんやりとして暖炉の熾火を見つめていたけれど、どこかぱっとしない空気に嫌気がさしてホルミスダスは表へ出た。
 ぐっと冷え込んだ夜気が、すこし進んだだけで全身をつつむ。
 よだかが時折どこか遠くのほうからきょ、ききょ、きょきょ、と鳴き交わす以外に音はなく、おそろしく静かだ。
 しばらく闇の中で呼吸をくりかえす。ゆるゆると吸い、またゆっくりと鼻から吐きだした。もうすぐ季節は初夏になるとはいえ、森闇は気温が下がる。すずしいと言うよりは寒い。だが、室内に戻るのは気がひけて、こうしてぐずぐずと暗がりにとけこんでいるのだった。
 夜が明ければまたすぐに発つ。
 すこしでも横になり休んでおいた方が、のちの行程が楽になることは判っていたけれど、どうにも眠気が訪れない。体はじゅうぶん疲れていてまぶたは重い。だのに目を閉じても安らぎはおとずれそうになかった。
 まいった。
 がりがりと頭を掻く。
 これでは、復路が思いやられる。
 いっそ寝酒でも何杯か呷れば眠ってしまえるかもしれない、しかしここでは酒精のたぐいは貴重品だった。せっかく二日かけて運びこんだものを、運びこんだ自分が消費しては本末転倒だと思う。
 どうしたものかな。
 すうと何十何度目かの呼吸で冷えた空気を吸いこみ、それからようよう後方に立った気配へ、
「なにか用か」
 言った。先頃から黙って同僚が立っていることはわかっていた。自分の用事ならば、足をとめずに、さっさとすませて中へ入ってしまうだろう。近付きこちらをうかがう様子は、おそらく何か言いたいことでもあるのだ。
 そう思っても、おのれのほうから口を開くことがとにかく億劫だった。気が乗らないので二割増しで面倒臭い。
「……いや」
 これと言って用はないんだが。のそのそと足音を立ててグシュナサフが背後から近づく。
 不器用に見えて、こうした細やかなところにグシュナサフは気がゆく。土と枯れ葉の湿った上で音のたつ必要はないのに、視界の効かない後ろから近寄るただそれだけのために、わざわざ乱暴に歩いて見せる。
 片割れが背をむけているため、距離を測りやすいようにしている動作としか思えない。
 ただ、これはグシュナサフが気を遣ってそうしているものでもなくて、無意識の上の行動のようだった。指摘すると驚いたあとむっとなるので、ホルミスダスはあえて口にはのぼらせない。
「親父さんは?」
「もう休んだ」
「そうか」
 隣に立った同僚に、ただ黙っているのもどうにも気がひけて愛想ついでに一言かけた。短くいらえが返って来て、頷くとまた二人黙り込む。
 明かりひとつない闇は深い。じっと瞼を開けてその闇を見つめていると、まるで目を閉じているような錯覚に陥ることがよくある。はたして今自分は目を開けて闇を見ているのか、それともこれは瞼の裏の黒か。
 しばらく黙りこんでいると、ふかい、と隣でグシュナサフがぼつりと呟いた。
「ああ」
「闇が、深すぎる」
「ああ」
 アヌ候がなくなったいま、シビラ国旧臣の中でいちばん大きく蠢動している波、前シビラ国主の一粒種のコロカントをハブレストへ差し出し、あわよくばおのれがのしあがる隙間を狙う流れ。
「このところ、なにに仕えているのか判らなくなるときがある」
 隣の男にホルミスダスは言った。たとえば自分の立場からすると敬うべき人間が、子供を差しだせと命じたとして、それにしたがうことがはたしてひとの道か。しかし私心にまどい世相の流れに目をつぶったとして、それが正しいとされるのか。
「剣にかけて誓ったものは、どうしたもので、誰に対してだったのだろうな」
 俺はなんだかわからなくなりつつあるよ。漏らしたのは弱音だ。
「ホルミスダス」
「なんだ」
 めずらしくグシュナサフがまともに彼を呼ぶ。日頃おい、だとかなぁ、だとかそうした呼びかけて済まされることが多かったので、思わず軽く目を見張ってしまった。
「……お前は、犬か。狼か」
「――俺は、」
 双方あやうく、限りなく近いものだ。俺は、と言いかけたまま考え込み、結局ホルミスダスはどちらとも返せない。
 忠犬たれとおのれに言い聞かせて生きてきた。決して他者を奪い押さえ込むような、牙裂する狼にはなるまいと。
 だがなにを基準にそのふたつは分かつか。
 大きな流れにがんぜない子供を差しだせと言われて、拒めば彼らは狼と為されるだろう。けれど差しだしたものが、かならず不幸になると承知のうえで、差しだしたとしてそれは犬と言えるのか。
 それもまた狼ではないか。
 血のにおいがするのう。呟かれた言葉。おのれのどの部分をさし示してあの老人は言ったか。
「やる」
 また唐突に声がして、片手になにか握らされる。
 なんだ、と軽くたしかめて、それが色紙に包まれた飴玉であることにホルミスダスは気がついた。
「……俺は子供ですか」
 情けない声がでる。同僚なりに慰めてくれたのかもしれないが、あんまりだと思った。
「べそかいてりゃ同じようなものだ」
「かいてませんて」
 まったく、言いながら包みをはがす。握らされたそれを口の中へ放り入れると、焦がした砂糖の香りが口の中に広がって知らず肩の力が抜けた。
「先に寝るぞ」
 言ってグシュナサフはホルミスダスへ背をむける。愚痴をきかせたような気もするが、さて愚痴をこぼしたかったのはどちらのほうであったのかな。俺であったか。お前だったのか。
 呟きながら、わずか遅れてホルミスダスも同僚のあとへ続いた。

 

 

(20121024)

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最終更新:2012年10月26日 08:42