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突き刺せ、と俺は言った。ゆるがぬ信仰心とやらが貴様のでかい図体のすべてを形作っているものなのだとしたら、それは赤子の手をひねるよりも簡単なことだろうと俺は言った。みごとその胸に突き立ててみせろ。
ヴァチカン第三課のとっておきは、祝福印をとかれて今俺にある。けがれのない綿花がみっしりと敷きつめられた箱におさまり、おおぎょうに何重にも、何重にも、何重にも聖布でくるまれて、まるでロシアの小箱人形だ。めくってもめくっても、中からいくらでも代わりの一回りちいさながわがあらわれて、芯の部分に辿りつく前に厭になってしまう。それでいいのだとずっと思っていた。辿りつく前に厭になってしまうから、だから芯の部分を見ないでも済むのだった。そうして代わりに安心を得た。めくりきれば誤魔化せない。隠しとおせない。なにがなんでも目の前の非現実的な現実を、直視せざるを得なくなる。
それはいやだった。
だから俺は見えないことに安心して、とっておきを使わなくてもおさまる事態に安心して、そうしてのうのうとここまでやってきてしまったのだった。
そうだ、俺はそうして自分の直視すべき現実から、ずっと目をそむけて生きてきたのだ、そむけて生きてきたのだと言うことに、愚かにも今、たった今気付いたばかりなのだ。
直視した現実はあまりに非現実で、正直なところ、自分は夢でも見ているのじゃあないかと思うほどだった。色がない。音がない。においも、あたたかさもない。砂嚢の代わりにざらざらとした灰色の粒を脳髄に詰めこまれたように、俺は自分が莫迦になったのではないかと思った。
なにもかんじない。
だのに俺の意思に反して俺の口は、勝手にこころにもない言葉を、次から次へと、まるで機関銃のように吐きだしては止まらないのだ。自分がいったい今何を命じているものか、俺にはさっぱり判らなかった。どうしたことだというとまどいとすこしの恐れ、それに今この瞬間とはまったく関係のない、たとえば先だって訪れた博物館で見た戦闘機の尾翼のかたち、だとかそんなどうしようもないものが、俺の脳裏をよぎってゆくのだ。
なに、使い方は拍子ぬけるほど簡単なんだ、ただこれを、貴様の心臓に突き刺せばいい。それでしまいだ。それでなにもかも片付く。
新しく買った電化製品についてくる保証書、説明書、ああいった誰も読まないくせにただ無駄にぶ厚い冊子と何も変わることがない俺の言葉の塵の山、商品取り扱い説明からはじまって保証内容を話し終え、あとは目の前で黙って俺の言葉が終わるのを待っている貴様の了承の声を聞いたらそれで仕舞い。執務机の使いこまれた木目の模様を眺め、無意識にそれを撫ぜながら最後の言葉を吐きだして、俺の口は発することをやめた。俺の意識は唐突に俺の中へ戻る。
唐突に戻されて俺はうろたえる。どうすることが今いちばん不自然に見えないのか判らなくなって混乱する。
とりつくろえない俺の前で、貴様が静かにかくあれかしと呟き、頭をさげた。
わかったというしるし。そうすることでひとつ、壁の裏や地中の中で地盤をおさえる螺子のひとつになれるというのならばそうすることがただしいのであろうと了承したしるし。そうして貴様が頭をさげた瞬間から、俺はひとでなしになったことを自覚した。血も涙もなく手札を使い捨てつづける管理の中の一員。
たとえばはじめはとるに足らない、いつのまにか胸もとにあった一本の万年筆。にぎりが悪い、紙面が毛羽だつ、インクが漏れる、とても使えたもんじゃあない粗悪品が、それでも使い勝手のよい代わりがないものだから、文句を言いながら使い続ける、五年、十年、そのうち手に馴染み、癖もあるしとても良品と言えるものではないにしても、辛抱してここまで使ったのだ、使い続けたのだ、使い続けてやったのだ、そこに愛着とまで強いものはなくとも、ささやかな未練のようなものは存在するのじゃあないだろうか。頭をさげた貴様を見ながら俺はそんなことを思う、だが俺の口は動かない、せんごろ莫迦みたいに次々と漏れたどうでもいい言葉が、今は口を衝いてでない、神妙な顔をして黙りこくる、しかしこの場合黙っていることは別に悪い対応じゃあない、だったらそれでも良いのではないかと思った。
間違いでないのなら。
しばらくして頭をあげた貴様を、やはり俺は莫迦みたいに黙って眺めている、口が開いていることに気が付いて慌てて閉じた。さまになっていない。それから、頭をあげても貴様は俺を見ないのだなとふと思った。視線は床からすこし上、ちょうど机の木目のあたりにうつろい、俺を直視しない。直視しない貴様が不意に腕を伸ばしこちらへ差し出した。
俺は一瞬、貴様の意図が読めなくてぎょっとなり、それからすぐに貴様の腕が俺へむけてではなく、俺が、無造作に差しだした木箱を包んだ布包みへ向けられているものであることに気が付いて、つい腕をひっこめそうになった。そうしたら貴様は、もしかすると視線を上げて俺を見るかもしれないと思ったからだ。けれど引こうとした腕は、金縛りにあったように俺の意志では動かない、動かせない、もし俺が悪心を起こして無理やりに体を引いたとして貴様が驚いて顔をあげる、そうして真正面から見据えられたら、俺はぜんたいどうした顔をしたらいいのだ。
みられることはいやだった。
俺よりよほど一回り大きいてのひらで受け取る貴様は、黙ったまま発しない、先に一語発してからもう貴様はなにも言わない、貴様より一足先にひとでなしになった俺を哀れんでいるのかとも思ったが、とても聞けなかった。
受けとる際に、おそらく貴様の意図ではなく偶発的に、貴様の指が俺の指に触れた。触れたというにはおこがましいほど、かすめた、そう言った感覚に近い、かすかな、ほんのかすかなぬくもり。驚いて俺は手を放す、放してからすぐにしまったと悔いた。だがしっかりと貴様の手に渡されきった木箱はゆらともせず、千万の命よりもはるかに貴重な聖遺物は無事だった。取り落とすこともなく、けたたましい音をたてて床に転がることもなく、だから本当は俺は安心したらよかったのだ。だというのに、貴様の手にしっかりと握られたそれを見て、俺はひどくめちゃくちゃになって、あられもなく奇声をあげ、喚きたくなった。どうしてなのかは知らない。
かくあれかしと、受け取った貴様がもう一度呟いた。牽制を含んだ貴様の響きが、まるで俺を丸ごと否定しているように聞こえて、俺は足もとがいきなり崩れ、地球とか言う球体の芯の部分に延々と落下してゆくこころもちになった。
なるほどそうかと、俺は唐突に理解する。貴様もたったいま、ひとでなしの仲間入りを無事に果たしたのだなと。めでたいことじゃないか。たいそう立派な、めでたいことだった。
祝杯を、いや俺が今からやらかそうとしていることを考えると、祝砲という方がただしいかもしれない、派手に打ち上げて届いた空にはいっせいに吹雪が散る。アリルイヤ。いと高きところにおわす国の使者から大音声、ひとが、ひとであることをやめてはじめて到達した境涯。聞こえたか、貴様には聞こえたろうか。俺には今はっきり聞こえた、たしかに聞こえた気がする。
俺の口は莫迦みたいに動かない。
ああ、いやだと思った。いやだ。いやだいやだいやだいやだ。俺は貴様をそんな高みに押し上げたくはなかった。俺が、俺だけが高い場所にいて、上の方から貴様に向かって進むべき方向をさししめす、貴様は黙って従う、それだけでよかったし、いままでも、これからも、そうして、五年、十年、使い続けた道具は道具のままでこの先二十年、さらに三十年。そうして過ぎてゆくことが当然であると思っていたし、そうなるものだと思っていた。俺はいやだ。貴様が勝手にひとでなしになり、俺の手の届かないずっと先へ行ってしまうのがいやだ。愛着じゃない、そんなものは俺にはない、だが馴染んだものに対するほんのちっぽけな未練まで捨て置かれて、貴様がさっさと先にゆくのはいやだ。
しくじるなよ。
ようやく動いた俺の口がそんなことを言った。つづけて聖句を唱え、貴様をここから送りだす、化け物の群れの中へ解き放つ、打ち抜かれた銃弾は戻らない。二度と戻らない。頭の中がぐるぐるとする、二度と戻らないことを知っていて今から俺は貴様を手ばなす、なによりも強い貴様はきっと化け物の群れを射抜く、射抜き、討ちはてて、だったら俺は何を心待ちにして、ここで、この場所で待っていたらよかったのだろう。
もう一度貴様の目が見たかった。けれど見てしまったら、虚勢は瓦解する。いっさいが消えてなくなる。瞼を閉じた。瞼の裏の黒がすべてだと思った。
こころおきなく死ね。俺は言った。
心の臓腑が張り裂けそうだと思った。
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