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殷殷とひびく聖堂への聖句。主よ憐れめ、憐れめとつづける声、まるで合唱、毎度聞くたびにそう思う、ああでもこれは歌ではないのだ、歌としてはいけないのだった。あくまでも透徹とした祈りだ。
そんな風に教わった。
しかし毎度思うことには、教区の人間には実に黒色が多い。その黒色が光源の少ない教会の中でうごめくものだから、ますます顔もおぼろでいったい誰がどれやら、ときに判らなくていっしょくたになる。だったがそれでもいいのかもしれない、なにしろ俺たちに「個」は必要ないのだ。そんな風にも思う。もちろん、ひとつひとつの体は個の集合体でしかないのだろうけれど、個である集合体の人間の体がひしめいて、群れという集合体となる。個と、たかりの連綿と続くくりかえしばかりだ。そこに個々の意思はない。あってはならなかった。
だがこうして黒づくめの人間どもが、棺をかこんで弔うさまはどうだ。個はない、あってはならないと形義状はいいながら、くたばるとご丁寧にもひとつ、ひとつ、身のたけにあった棺をこしらえては、中に詰める。みっしりと詰める。どんな間隙も許さずといった固い意思の代わりに、すかすかの空間には白い花を詰めた。
死人のきっちりと被服された以外のところ。たとえば顔であるとか組まされた手であるとか、そうしたほんのすこしばかり見える皮膚の部分、その黄味を帯びた青白さとあいまって、詰められた白い花はしなびているようにしか見えない。
ああそうか、と唐突に気がついた。
俺は、死んだ人間というものがどうにも汚らしくていやなのだ。
清拭し化粧を施し一張羅を着せられて、生きている間中死にものぐるいに獲得した勲章であるとか、賞状であるとか、その他もろもろ、ほまれ高いもの、棺をかこんで死に顔をのぞきこんでゆく参列者に、いかにこの死んだ人間が立派であったかを誇示する最後の通過儀礼、涙を流す用意はいいか、その手にハンカチは握られているか。
うちからとっくに腐りはじめているのにな。
そう思うとなんだかおかしくなった。
どうせだったら屠殺のすんだ牛馬のように、穴でも掘ってそこに次々とむくろを投げ入れてゆくのがただしいのだ、だったらきっと死んでも、死んでからも、死んだあとも、個が個として区別されない、二、三日でどろどろととろけはじめて誰がどれやら判らなくなる。さびしくないだろう?
できれば俺はそんな風がいい。
おごそかにも忌ま忌ましい悲しみのコーラスが堂内に響いて、聞いていてなんだかむかむかと胸焼けがした。
振り仰いで深呼吸する。ここの天井は高い。とんでもなく高い。だというのに、あらがいきれない強い力でぎゅうぎゅうと、上から押しつぶされているように感じられるときがある。祈りだ、この祈りの声がいやなのだ、祈りの声が俺にまとわり押しつぶす。
目を閉じた。
こうしたとき、俺は、内にも外にも骨格をもたないぶよぶよとした芋虫のように思えてしまう、ほんのすこし上から、やわらかな皮よりも強い力をくわえるだけで、ぶちんとはじけてしまうこの体。
憐れめと呟き十字を切りながら、俺はそこではじめて棺の中の死人の顔を見た。
見覚えはある、たしかに何度か言葉も交わしたはずだった、機関の中の一員だったはずだ、だが個を必要としない群れの中でこいつの名前が何と言うのか俺は知らない。知らなかったし、知りたいとも思わなかった。だから、死んでいるこいつは言ってみれば通りすがりの人間と同じことで、見知っているかどうかは、実はあまり関係がないのかもしれない。報告書で上がる名前は記号と同じ意味だ、だったら俺の知らない人間が、俺の知らないところでひとり死んだ、それだけのことだった。
俺はどうしてここにいるのだろうと思う。
ひとりくたばった祝いに参列するほど暇は持て余していないのだし、そういえばこの間下の方から上がってきた報告書の認可のサインをしたのだったかどうか、そればかりが妙に気になる。たしかサインしたと思う、サインをして処理済みの引き出しに突っ込んだはずだった、だが一昨日、局事務員がなにか物言いたげに俺の顔を見なかっただろうか、あれはもしかして未処理のままの書類に早く目を通してくれという意味合いではなかっただろうか、だとすると俺はサインをしていなかったことになる。朝課をほうりだしてまで最近は仕事に追われているというのに、怠慢と評価されることは気に入らなかった。
そう思うと、いっときもはやく引き出しの中をたしかめないと治まらないこころもちになった。俺は死人への祈りをおざなりに済ませると、いまだに続く大連祷の輪から離れ、足早に広間を去る、輪からはずれる俺をだれもとがめない、なぜならここはひどくうすら暗くて誰も俺だと気付かないからだ、黒色をまとった俺は顔の判らない集合体と同化し、俺という個に意味を持たないからだ。
歩きなれた回廊を進む。十三課機関の施設はすべて地下にあったから、階段をいくつも下ることになる。施設へは許可された人間しか行き来することはなかったので、下るうちにすれ違う人間もいなくなり、俺は胸のうちに溜めてあった陰鬱な呼気を長々と吐きだした。
溜まっていたのは死臭だった。
嗅ぎなれたにおい。はじめて嗅いだのは、母からだった。
いつからそうだったのか、それとも端からそうだったのか、俺には判らない。急に住んでいた屋敷が騒がしくなり、母が病院に運ばれそのまま数か月たち、もの言わぬ人間になって帰ってきた。俺はあまりに幼かったので母がいなくなった意味も、帰ってきた意味も判ることはなかった。ただ、ひとりで部屋にいたところを無理やり腕を引かれ寝室へ引きずられて、おかあさんだよ、お前のおかあさんだよ、さあおかあさんにお別れを言いなさいと枕元に立たされて、のぞきたくもない死に顔をぼうとながめる羽目になった。
どうだ、うつくしい死に顔だろう、お前のおかあさんはうつくしいひとだったのだ、かわいそうに、この子はもう母親というものを失ってしまったけれど。
異臭のする女のちかくでそんな声がする、だがそのとき俺のなかにあったのは、純粋な嫌悪でしかなかった。どこがうつくしいものか。そもそもうつくしいとはなんだ、歯をむきだし骨と皮を残した顔を無理やり見せられて、俺はどうしたらよかったのだ、周囲のおとなどもの期待に添って涙を流し、むくろに取りすがってやればよかったのかもしれないが、やりたくもない道化を強要されるのは、まっぴらだった。
眠っているようだろうと誰かが言った。
お前のおかあさんはお星さまになったのだ。
遠い、遠いところへ行ってしまったのだ。
莫迦じゃあないのかと思った。この人間はそのどれでもない。この人間は死んでいる。
だが冗談じゃあないと嫌悪をいだいた一方で、死んだ女のむくろがえらくきれいに見えて、うらやましくなったことも俺は覚えている。せいせいとした顔をしている、そうかこの女は何もかもから解放されたのだ。そう思った。しがらみだとか世間だとか、いいやそれだけじゃあない、たとえばこうして臭いだとか気味が悪いだとか、ものごとというやつを考える脳髄からもとうとう解放されてしまったのだ。女にのこったのは、「がわ」だけだ。あとはついえたのだ。どこかへ「行った」のでも「召された」のでもなくただ生命活動を停止し思考することを放棄して、この女は自由になったのだった。
ひとではなくなったのだ。
さあおかあさんへ渡してあげなさい。にぎらされた白い百合が黄ばんで見えた。
顔をあげる。いつの間にか地下の通路で足をとめ、ぞっとするほど馴染んだ部屋のドアノブを掴んでいた。
ドアを開き中へ入る、四方の壁にしつらえた書架が天井にまで届いていびつにしなり、いまにも一斉に中央めがけて崩れ落ちてきそうだ。おさめられている 一冊一冊がやたらと分厚いものであるから、打ち所が悪ければ俺は死ぬなとそう思い、いやそうでなくとも書架とそこにおさめられた書籍の重さで十分に圧死できるか、だがたとえば広間の天井からの無意識の重圧に押しつぶされて死ぬよりは、みっともなく本に埋もれてぐちゃぐちゃになり死ぬ方が幾分かましかとも思った。
主よ、憐みたまえ。
口の中で呟きながら俺は執務机の引き出しへ手をかける、どこだったろう、たしかこのあたりに放り込んだと思うのだが、そうして身を屈めてさぐっているところへ、乾いた扉をかるく数度叩く音がする。なんだったろう、俺は今機関員の葬儀に出席している最中で、この部屋にいるつもりじゃあないのだから、だからなんだといらえを返して新しく厄介ごとを増やされたくはなかった。黙っていれば入ってこないか、そうして引き出しを数段さぐるうちから、何度も、何度もこつこつと叩かれ、いるんだろう、そこにいるんだろうと問い詰められ続けている気がしてしまいにはああなんだと、ぜんたい面倒くさくなり、俺は思わず声をあげる。
相手の声はない、ただ静かに扉がひらかれ、ぬうと体積の多いものが侵入したのが気配でわかった。俺は顔をあげない。俺は今絶賛探し物をしている最中で、忙しくてしようがないのだ、たいして広くもない部屋のなかの空気が、大柄な男に押し寄せられその分量を減らしたとして、それをわずらわしく思う暇はないのだった。
入室したやつは言葉を発しない、俺が忙しいことを酌み、おのれの用件はうっちゃって、俺が俺の用事をすませるまで待っているわけではなく、俺が手をとめおのれの方を向くまで辛抱づよく待つつもりなのだ。俺が手をとめることをこいつは判っているのだ。むかむかとする、棺の前で感じた胸焼けが蘇る、ようやくすこしは気分がよくなったかと思ったのにぶりかえす、貴様だ、貴様のせいだった。
「どうされたのかと思いまして。」
挑むように顔をあげできるかぎり睨みつけてやった貴様は、視線を受けてのうのうとそんなことをのたまった。部屋のあかりが反射して、貴様の鼻にかけた硝子が光る、だから貴様がどんな目をして俺を見ているものか、俺にはさっぱり判らなかった。そもそも俺は大して視力がよい訳でもないから、たとえば貴様のそのやくたいもない眼鏡があってもなくても、この机の距離からでは貴様の顔はほとんど見えないのだけれど、それでも隠されることには腹が立つ、見えないことが癪に障るのだ。だったら俺のほうこそ眼鏡をかけてしまえば良いのかもしれないが、俺はいま引き出しを漁っているところで、そもそも貴様にあわせて眼鏡をかけるだとか、かけないだとか、貴様がどんな顔をしていようと俺には関係のない話だし、どうだって構わなかった、それに目のつくあたりに眼鏡は見当たらない。
苛々とため息をついた俺の方へ、貴様は数歩近づいて、俺はそのせいでどうしてかはっとなったのだった。なにかに気付いたわけではないし、なにかに驚いたわけでもないのだけれど、ただ貴様が空気をかき分けて俺の方へ進む、その空気の膜が一瞬見えたような気がして、かき分けたそれが左右に霧消してゆくのがうつくしかった。だがそんなものは目にうつるはずもないもので、だとすると俺は埃を眺めていただけなのかもしれない、気が狂ったように掃除をしてもしてもしても、どこからともなく塵あくたは湧いてきやがって、いつのまにかもうもうと部屋を舞い、薄く積もって層をつくるのだ。
ただそれだけのことで、だから別段貴様が気にかける必要はなかったのだと思うのに、はっとなった俺に目ざとく気が付いて、貴様は中央で足をとめた。戸口からは離れ、机からも遠い、不恰好に間のぬけたその位置で、貴様はたたずんでいる、ついせんごろ俺も同じようにその位置を通り、書架が倒れたらどうする、だとかそんなことを考えたものだったなとか思い出して、だが貴様ならたぶんこの膨大な本の山に埋もれても、けろりとした顔をして這い出てくるだろうとそんな風に思う。いやそもそも貴様は死なない、死ぬことをゆるされていない、だからまだあの棺の中のしなびた白い花は必要ない。
俺は黙って立ちあがる、サインをしたかどうか判らない書類は今やどうでもよくなっていた。息苦しかったので、別の部屋に行こうと思う。しかしどうして俺が俺の部屋から追われるように立ち去らなければならないのか、そうして居場所を探してあちらこちらをうろうろしなければならないのか、理不尽な気もしたが、貴様に今すぐ出てゆけと命ずるよりもはるかに俺が動いた方が楽だった。
立ちあがりかけた拍子にへまをして、机の金具のささくれたところにひっかかる。くんと頭がひかれてなんだと見やったら、邪魔な髪がそのささくれにうまい具合にまとわりついて俺を引きとめていたのだった。むっとなって引っ張ると、ぶちぶちと音をたてて邪魔なそれが切れる、ずいぶん伸びてしまった、近頃じゃあすこし身動くたびにこれが邪魔をしてかなわない、それに濡らすたびに乾かす手間が、ひとつどころではなく三つも、四つもかかるのだ。
「ああ、」
貴様は呟いた。かりそめに痛ましいような顔をして、たかだか数本引き千切れただけのそれをおおごとのようにとらえて、見ているこちらが痛いですよといった。
「すこし切ればよいのに。」
言われて俺は、そこでとうとうはっとなる、先の驚きとも呼べない、ちいさな感心のような機微とはまるで違う、今度は完全に虚をつかれた驚愕だった。
「そうだな、それがいいかもしれない。」
言いながら俺は、俺の顔が歪むのを自覚する、口角があがり笑っているのだ、よかった、俺はまだ笑えている。そうしてむなしくなった。どうしていつまでも切らずに邪魔なだけのこれを延々と伸ばしてみたりしたのかと、俺は不意に我に返ったのだ。そうじゃあない。貴様がある日思いついたように、きれいなものだと呟いたからでは決してない、未練がましく後ろに引きずり続け、たった一度貴様がそんな風に褒めたとも言えぬ、ただ見たままの感想を口にしたことがらに心を動かしたからでは俺は決してない、だが、だとしたら俺はみじめな思いをいま抱えるわけにはいかないのだ、切りにゆくいとますら惜しんでおのれの責をこなしていたからで、それ以外の理由があるはずもなかった。
そのはっとなった俺に貴様は今度は気付かない、先だってのあのちいさな俺の変化を敏感に察し足をとめた貴様なのに、今度はどうしたものだといぶかしんで俺を眺めている、何でもないと俺は言う。ただすこし疲れただけなのだからと。
貴様が頷き、死んだ機関員の名前を口にする、俺はその名に聞き覚えがある気がしたが、それが祈りの中に含まれていたからなのか、報告書に記されていたからなのか判らない。どちらでもよかったし、今やどうでもよかった。
人間がひとり死んだ。個になって死んだ。ただそれだけのことだった。
(*Kyrie Eleison :主よ、憐れめよ)
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