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 壁にもたれながら立っていた。ここにいる理由はない、これといって見当たらない。だか強いて理由をつけるとするなら、通路の改修をたしか来月あたりから行うだとか事務局のほうから通達があった、だからその前に一度傷み具合を見ておく必要があると思えた。それだけの話だった。
 俺が立っていた場所は、饐えたにおいをはなつ地下から、ぬうと地上へむけて伸びた回廊で、埃くさい、土くさい、よどんだまま動かない空気、深く吸ってしまうとおのれの体まで、この嫌なにおいをはなってしまうように思う。気に入らない。俺は浅く呼気をくりかえす。どうしてこうまでよどんでいる。いっそ縦穴をぶち抜いて、なまぐさくて酸い、なんとも言えないにおいを、暢気な顔をして上を歩く連中の鼻先に、どうだこのざまはと香水よろしくまき散らしてやればいいのだ。目をむき、顔をしかめ、鼻をおおい、どうしたことだと慌てふためくさまは、きっとたいそう愉快だろう。だがここの空気を動かす人数はほんの僅かで、ぎらぎらとした目を光らせ出てゆくばかりだ。俺のように足を止めるものはいない。だからきっと誰も気づかない。鈍いのだ、許される鈍さがときに俺はいやになる。
 いやならここを通らねばいい。回廊を通らねばならぬ決まりはない。
 たとえばふっとそのあたりの裏口から出立していっても、誰も気に留めやしない。ヴァチカンはスキャンダルになれている。メディアに叩かれることになれきっている、いっこうに構わないのだ。ただ、人目を避けるという意味で、機関員はよく地下通路を利用する。とくに復路は最大限に利用している。なぜなら戻るやつらの全身は、バケツをひっくり返したようにしとどに濡れている。そうしてへばりついている。血と、肉と、それから臓腑や、臓腑におさめられた吐瀉。ぼたぼたと垂らして意気揚揚に凱旋する。薄汚い人間ども。それから薄汚い人間にもおとる化け物ども。
 始末書を書く苦労よりは、通路へ足を運ぶ手間をえらんだ。
 そうか、と俺は気がついた。ここに満ちているのはそれだ。まるでなってない連中の体は、体といううつわを消しても、ぶかっこうにうつし世に残っている。においになってしがみついている、だからこんなにいやなにおいなのだ。
 体のすみずみ、爪の先から毛細血管にいたるまで、できそこないのそいつらのにおいが染みつくこころもちがして、俺は頭を振る。いやだ。頭を振った拍子に抱えていた紙の束がずるとこぼれて、どさどさと床に散った。ああ畜生。俺は毒づき、舌打ちをし、しようもなく拾いはじめる。こんなことになるのだったら機関室から直接やってこないで、一度書庫にでも行くべきだった。へまをした。せめてクリップで止めるなり、封筒に入れておくなりすべきだった。せっかく揃えたページがまるで台無しだし、とりとめもないメモならともかく、書庫から持ち出した秘匿ファイルのたぐいは、面倒なまでに事務のチェックが入る。汚れただの、折れ曲がっただの、なんくせつけられるのは気に食わない。
 紙というやつは束ねると重い。えらく重い。重いくせにひとひらひとひらは、うまく風に乗せるとやけに軽くて、足元にも、すこし離れた場所にも、そうしてもっとずっと離れた場所にも、裏に表にばらばらになって、書類は散った。糞。腰をかがめて拾う。
 すくい上げては手に束ね、拾いあげては胸に抱えしていると、ミレェの穂をひろう農婦のような、そんなこころもちになった。むしゃくしゃささくれた頭がわずか冷える。あれはいい。暗い色調の農婦どもも、淡々とひろうように見えて実はあの頭巾の内側で辟易していたかだとか思うと小気味よかった。だが同じミレェなら、俺は晩鐘のほうがいい、色数がすくない分あちらこちらに目を奪われずともすむからいい、あの絵の前で他になにも考えずに一日ぼうとしていることができたなら、どんなにそれは有意義な時間となるだろうか。そんなことを思いながら拾いあげていた俺の耳に、回廊をこちらへやってくる足音があった。
 足音がやってくることはわかっていた。だから俺はいたくもないこんな場所で呼吸をして、あまつさえ落ち穂の農婦のまねごとをしている。
 うっそりと近づいてくる貴様、顔をあげ姿を見止めなくても俺には判る、片手に着替えと必要最低限の身の回りの品をいれた革鞄、色は黒い、黒はなにしろ一番汚れが目立たないからとそう言っていた貴様の声が蘇る。それに同じ黒のカソック。それに外套。
 いつもと変わらない貴様の姿かたち。
 次の任務地が、ヴァチカンとまるで正反対に位置する国だということも、俺は知っている。なにしろ俺が、俺自身が、この懸案を圧倒的かつ速やかに解決するために、貴様を投入することを許可した人間だったからだ。襲われた聖堂。ステンドグラスはご丁寧に一枚、一枚、打ち砕かれ、あらわになった教壇の上に馘られた司祭の頭蓋、こちらへむけてポォズ。はい、お客様、笑顔で。切りとられた映像が郵送されるサーヴィス付きだった。
 雑魚だ。自己顕示欲の強い百にも満たない雑魚の群れだ。
 新興宗教テロリストどもに、十三課きっての切り札を投入するのもいかがなものかと意見もあったが、そもそも人員がない。動けるものはみな別の場所へ出払い、基本的にやつらは仕事をやりおえたと判断するまで連絡してこないのが常だったから、そもそも任務地変更の指示もできない。残った手持ち札は孤児院で偽善の笑みで完璧に固めながら、おのれの出番はいまかいまかと爪をとぎ燻っていたそいつだけで、だからそいつを使うのは必然でもあったのだ。使い勝手の悪いジョーカー。持っている分には有利でも最後まで持ちつづけると負けになる。そう言うものなのだ、そういうルールなのだ、だからこのあたりで一度場に出してゲームを読みなおす必要があった。
 近づいてきた貴様が俺の手前で足を止めた。足を止め黙っている、俺が顔をあげ声をかけるのを見越している、見ているくせに口を噤んでうかがっている。腹立たしかったのでむきになって俺は拾いつづけた。声などかけるか。こちらから発してなどやるものか。俺は、こうして、書庫から借りだした文書を拾いまとめるのに忙しいのだ。
 ややして貴様が長い息を吐き、身をかがめるのが判った。
 俺と同じように貴様も紙を拾いあげる、大きな背をかがめて意外に器用な手つきで貴様も農婦になって落ち穂を拾う、莫迦だな、貴様のような大女がいるものか。おのれの口元がゆるむのが判る。おかしかった。
 にやにやしはじめた俺を怪訝な目でちらと貴様がうかがうのが手に取るように判る、いい気分だ、実に愉快だった。だから俺は顔をあげ貴様を見てやった。
 反逆者ユダの名を冠した俺たちの機関の聖堂騎士。武装神父。
 俺が思った通りの恰好で、俺が思った通りの鞄をもって、もう片手に拾いあげた書類、俺の方へと差し出す。なにかご用ですか、次に貴様はきっとそう言うだろうと思った。
「なにかご用ですか。」
 ああやっぱりな、貴様が思った通りの言葉を発し、俺は俺の予想が当たったことに半分満足して愉快になり、予想通りの言葉に、ここで待っていてやった俺に対してその言い草はなんだと、もう半分はひどく不愉快になった。顔をしかめて別に、と返す。別に貴様に用があって、こんなところにいたわけじゃあ決してなかった。
 貴様に用事なんてない、俺は単に貴様の鞄が見たかったから、ふとした好奇心だとか言うやつでそれ以外の理由はない、貴様の鞄は着替えを詰めこんでぱんぱんに膨らみ、留め具が躍起になって押さえつけている。それだけの荷物をもって貴様は出かけるのだな。どれだけゆくのだ。ひと月か。ふた月か。それとももっと長いのか。
「――機関長?」
 変更点でもあるかと俺は聞かれて肩をそびやかす。そうして、そんなものあるわけがないだろうと吐き棄てた。俺の計画も、指示も、いつでも完璧だったろう、間違ったことがあったか。
「では、なぜ、」
「俺がここにいるとまずい理由でもあるか?」
 逆に俺は貴様に聞いた。
「それとも、久方の出がけに、俺がいちゃあ縁起が悪いとでも貴様がいうタマか。ゼロか、百か、我々十三課にあるのはそれだけの話だし、そもそも貴様に、情緒もへったくれも必要ないのは俺がよく知っている。かくあれかし、だ。晴れの任務だ、始末書の一枚減らす努力でもしながら、せいぜい気張ってやってこい。」
「然り、然り。」
 否、否とつづけながら貴様が笑った、素直ではないとそんなことを言う。
「殊勝に見送りにでも来てくれたかと期待したが。」
「莫迦な。」
 何故。俺が。そんなことをしなけりゃならない?
 唐突にこちらへ伸ばされかけた腕に、俺は必要以上に驚いて飛びのいた。なにかと思った、どうしたことだ、なにをされることかと思った、ぎょっとなった俺の前に所在なさ気に揺れる紙の束。貴様が拾い上げた麦の穂。ああ、そう言えば俺がぶちまけたのだった。
「貴様のでかい図体がないと思うだけで、しばらくせいせいとする。」
 受け取りながら俺は言った。鼻に皴が寄る、おかしな顔をしている自覚はあった。だがこの場合、笑ってやればよいのか、まともに嫌がらせの顔をしてよいものか判らなかった。どうせしばらく見ないのだ、できれば貴様をいっとう不快にして立ち去りたいものだがと俺は思う。
 はあ、とたよりない声で貴様がこたえた。このやっかいな上司をどうしたものかと思案しているのが判る、だから俺はロザリオを寄越せといった。
「え?」
「貴様のロザリオを寄越せと言っているんだ。戻るまで没収させろ。」
「……意味が、さっぱり判らないが、」
「はやく。」
 歯をむき出して威嚇してやると、やれやれといった調子で貴様がうなじに手をかけ、胸元へぶらさげていた十字の紐をほどき、俺へと差し出す。たいして文句もなく貴様が従ったことに、俺は一挙に気分がよくなって、代わりに俺の十字を貸し出してやろうといった。
「なければ祈ることもできないだろうが。」
 壊すな。汚すな。傷をつけるな。どれを違えても罰則ものだからな。言って俺も十字を外し、いぶかしむ貴様のてのひらに握らせようと差しだす、すると貴様が不意に身をかがめ、つけてはくれないのかと言った。
「え?」
 聞き返すのはこちらの番だった。
 だがすぐに貴様の意図を読む、駄々をこねる俺への当てこすりか、思えてむっとなった。どうして俺が貴様にロザリオをあててやらねばならないのかと、だが面白そうにこちらをうかがう貴様の気配によかろうというこころもちがむくむくと湧き起こる、俺にできないと思っているんだろう、貴様はそうして俺を不快にさせて楽しんでいるんだろう、だとしたらそれは失敗に終わったぞと莫迦にしてやるつもりで、俺は十字を貴様の首にかけた。
 身をかがめてもなお大柄な貴様の首は俺の上にあって、まったく、なにを食ったらこうも成長するのかと俺は思う。再生者だからこそ大きいのか、骨格からして違うのか、それともこれは生まれつきだとか言うやつだろうか。
 首の後ろで固結んでやる俺の耳元に、不意になまあたたかななにかが一瞬触れたような気配があって、俺はぎくりとして貴様を見る、貴様の目を真正面からまともに見る。今のはなんだ、何をしやがった。睨んだ貴様は飄とした顔で、おやどうかしましたかと言った。
「……なんでもない。なにもない!」
 かっとおのれの頬に血がのぼるのが判る。本気で殴り掛かりたいとも思えたが、殴りかかって勝てる相手ではないことも知っていた。こいつは俺をからかっておかしがっていた、この先何十日、慌てふためいた俺を思い出してはほくそ笑むんだろう、世界地図の裏側から、俺のみっともない態をなんどもなんども繰り返して悦に入るんだろう。
「ほかに、なにか?」
「……とっとといけ!」
 片手で顔を覆って俺は怒鳴る。怒鳴り散らす。せっかく拾った紙の束が、水泡に帰してすべてまた足もとやら、柱の影やら、壁際まで滑り飛んでいったけれど、そんなことはもうどうでもよかった。
 よい子には土産を買ってくるからな。背中越しにそいつは言った。だめだ、これはもう殺ろう、しんから思えて俺はすざまじい目付きで貴様を見る、見ようとする、だが既に冷たい金属音をひびかせて、地上への出口がゆっくりと閉じる、軋みながら閉じる、貴様の背中はもうそこにない。畜生。残ったのは使い込まれてくすんだ色、忌ま忌ましい貴様の胸に先ごろまでかけられていたロザリオひとつのみだった。

 

 (*Rosarium :ロザリオ)

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最終更新:2020年08月08日 23:12