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 実に数年来ぶりに連休がとれた。
 とれた、というよりは、勝手に転がり込んできたという言い方のほうが、きっといまの俺の状態を言いあらわすには、正しいと言えるように思う。なぜなら、別にこの連休は俺が意図的に仕組んだものでは決してなくて、むしろ上がってくる報告書に目を通し、判を押すたびに、おいどうしたと背筋を這いあがる薄ら寒いもの、なぜこんなにもうまいぐあいに物事が運びやがるといった、おどおどとし、ひどく不安定といった態、だいたいいつも、厄介ごとをみっつもよっつもかかえているのが常態で、だったから派遣した各機関員がことごとく任務を問題なくきれいに終了させた、だなんてことが、すでに異常事態なのだった。
 必要以上の負荷をかけ続けたゴム紐が、手ばなしたときに伸びきってもとに戻れないように、万事うまくおさまるというありえない事象に俺は目をむき、これは夢かと自問自答し、夢だとしたら悪夢と言うべきか否かとうち震え、そうしてそんな俺の不懼をあざ笑うかのように、機関員のどいつもこいつもの報告書すら、稀に見るよい出来をなして、いきなり、唐突に、ありえないことに、ぽっかりと二日間休みが降ってきた。
 手に入れた休暇に、俺は本気でうろたえたのだ。
 途方に暮れる、だなんてなまぬるいものではない。それで俺の恐怖にも似た動揺を表現し尽くせない、正直、どうしてこんなうまいこととんとん拍子に行ったのかさっぱり判らない、たとえば際限なくゼロであったとして、賽子をむっついちどきに振る、そうして出た目がみな同じである確率、数学上でいうなれば、たった四万六千五百五十六分の一。そんな確率にも似ているような気がした。
 だが、四万六千五百五十六回振ったところで、きっとその倍振ったところで、さらに十億倍振ったとしても、実際に出目がむっつ揃うなんてことはありはしないのだ、揃うというのはあくまでも確率の問題で、数字上の手妻とでもいうようなもので、むっつ振ってむっつ揃うほど、世間は甘くない。すくなくとも俺は信じない。そう思っていたので、甘くない世間とやらが不意に目をそむけ、そうして無理矢理に獲得させられた休暇というもの、それも四十八時間も。
 信仰心にどっぷりとつかり、しんから神の愛だとかいうものを信じて生きている人間だったなら、これはおぼしめしでゴザイマスとでもいうところなのだろうけれど、あいにく俺はそうした偶然は神の愛だとは思わない。俺は、死んだゆくすえの罰は信じているけれども、満面に降りそそがれる愛は信じない、偶然なんてない、すべて計算し尽くされた盤のうえでの出来事なのだ、だがそう考えると、俺が手にした休みもまた計算されたものであるべきで、間違いはないことになる。
 それこそ、四万六千五百五十六分の一。
 二日の自由をにぎらされた俺は、だから、手に入れた瞬間からもうどうして動くものやら見当もつかなかった。これが数時間のできごとであるなら、ありがたく頂戴し、自室に戻っていぎたなく眠ってやることもできたのだが、眠るには長すぎる、だらだらと過ごすには尻座りが悪すぎる、そうして、日ごろ出かけたいと願っていた場所へゆくにはあまりに短かった。
 手持無沙汰になり、俺が向かったのはどういうわけだかおのれが育った孤児院で、これは別に俺の意志がどうこうしたわけじゃあ決してない、ただなんとなく、足が向かったというだけだ。それ以外に理由はない。そうして孤児院を訪れたからと言って、やることは特になにもなかった。
 どうしたものかと溜息をついた。
 訪れたところで、俺を迎えいれる人間などいないことは判っていた。ここはただの施設でしかなかったし、俺はその施設の卒業生と言うだけで、親しい間がらの後輩もなし、アポイントメントがあったでもなし、なぜこんなところに足を運んでしまったのか、どうせ行くならもっとほかの有意義な場所、たとえば図書館であるとか博物館、美術館でも巡ってしまえばよかった、いっそオフィスに籠もってしまったって俺は別によかった、こんな風にしてぶらぶらとあてもなく、ここにやってくるよりは、数千倍ましだった。入口の柱の陰に立ち、俺はたちまち後悔する。
 孤児院の手前はちいさな広場になっていて、そこで収容されたガキどもが十人ほど、にぎやかしく遊んでいた。俺がいたころと何ら変わりのない光景、親に見放され行くべき場所をなくした子供、やつらが大人になるまでの期間養育する場所、派遣された教誨師、かりそめのあたたかさ。
 よるべのないガキが、ゆいいつすがることをゆるされたてのひら。
 それはおそらくなにかと混同しやすい、勘違いしやすい、決して与えられるべきものではないところに急に転がり込んでくるもの、手に入れられまいと思っていたものが降って湧いてくるように思えてしまうもの、今の俺の休みとよく似ている、ああそうかと俺は気が付く、だから俺はこんなところに迷い込んだのか。
 来るべくしてきた場所だった、それだけだった。
 カソックは堅苦しい。執務中でもないのだし、部屋にいったん戻って適当にソファの背に放り投げていたパンツとシャツをひっかけてきたものの、どうにもすうすうと落ち着かない。なんだとおかしみがわいた。体はとっくに、烏めいた黒に侵食し尽くされてしまっている。
たいした用事どころか、そもそもここへ来るつもりはなかったのだから、いっそ着替えてきたこともばかばかしい、転がり落ちてきた、これは本意ではないと口では言っておきながら、俺はたまさかの休みを実際のところ心待ちにしていたのではないか、休みがとれたら必ずこうしてやろうと柄にもなく浮かれ、わくわくとし、そうして本当に手の中へおちてくるとどうしたもんだと思案に縛られ動けなくなる、そんな生活を、俺はこの孤児院を出てからずっとくり返し、くり返し、なぞっていただけなのだった。
 まるで誕生日のケェキを前にしたガキだ。そう思う。
 入口の門扉から広場を眺めるともなしに眺めていた俺は、たぶん、ひどく目だったのだと思う。そうでなくとも外界との交流を極端にきらう、いびつな部分をかかえた子供の警戒心とでもいうもの、威嚇まるだしの視線を数人が投げかけ、別の数人が建物の中に駆け込んで行った。知らない人間がいる。知らない人間が僕を品定めをする。あいつらのそれは、人間を見る目付きなんかじゃあない。あれは犬猫を拾いあげるときと同じ傲慢な目だ、拾ってやる、この俺さまがそこから貴様をえらび拾いあげてやるのだ、どうだ。
 先生、僕はいやだ。行くのはいやだ。ここにいたい。口にしてはならない願いだった。
 選別されたガキは、俺は、そうして家庭だとか言うものへ連れて行かれる、何度も何度も連れて行かれる、ほら、ここが君の部屋だよ、今日から君はこの家のこどもになったんだ、わたしのことはおとうさんと呼びなさい、いいね。
 肩に手を置かれやさしげな風情で、ぎりぎりと知らない人間に押さえつけられた俺の体は動けない、逃げ出せない、なぜなら俺はあの施設からも見放されてここへ連れてこられたからだ、絶望的な孤独、さびしさ、ちがう、拾われた、受けだされた、そうしてすぐに手に負えなくなって、俺は施設へ戻される。
 この子供はだめだ、言うことをことごとく聞きやがらない。こいつはおかしい。
 くり返されたやりとり。くり返される雑言。別のをくれよ。その度にこの子はよい子なのです、ほんとうは心やさしい子なのです、取り繕う大人同士の対応。うわべの言葉。
 ほんとうとはなんだ。
 不審者の報せをうけて、数人のガキどもに手を引かれ、広場へ駆りだされた姿がある、裏手のほうから先生こっちですとうながされ、いぶかしみながらやってきた図体のでかい姿がある、そいつが門扉のあたりに立つ俺をみとめて、眉をひそめ、目をすがめ、それから俺だと気が付いておやと肩の力を抜いたのが判った。
 マクスウェル司教?
 おもてむきの名で俺は呼ばれた。その呼びかけは俺を呼んだというよりも、実際はあたりに散らばる子供たちへ言い聞かせるためのもの、この大人はとくだんまずい奴じゃあないというしるしの、免罪符の一声だった。司教さま?聞いた子供が言葉をうけて俺をみる、いくつものまなこが俺に注がれる、俺は黙ってガキどもの視線に耐えた。眉をしかめて耐えた。見定める、いつかのやつらと一緒のもの、いや違う、なぜならその目に先ごろ浮かんだ異種へさしむける色は、もう見当たらない。
 俺という人間そのものの細胞ひとつ、数呼吸前となにも変わっていないのに、ただ司教という名目が付いただけで向けられる許容、このひとは僕らと同じ側の人間なんだという安心、気をつけろ、その心の揺るぎはいつか決定的にお前らの足元からなにもかも掬うぜ。
「どうしました、なぜ、ここに。」
 穏やかに笑んだ目の奥に一か所だけ、狂猛な黒点がある。赤白色の恒星の中に浮かんだ汚らしいしみと同じで、両脇に子供をしたがえ、肩を抱き、憂いをどこかにまじえたような顔色でありながら、物騒なあざとさをチラつかせ、任務の話かと問いかける牙がある。
 否と俺は言った。
「なにもなかったんだが。」
 俺がどうしてここに来たのか、説明のつく言葉はなにひとつ探し当てることができなくて、俺は肩をすくめ、なにもなかったからこそここへ来たと言った。
「なるほど、」
 判ったような判っていないような、どちらでもいいのかもしれない、あいまいにほほ笑み、鷹揚に頷きながら、丁度いいところにきてくれましたと貴様は言った。
「いまから、みんなですこしはなれた土手まで遠足するのですよ。マクスウェル司教も共に来ていただけるとは、きっとみなさんの行いがよかったのでしょうね。」
 後半の言葉は俺へ向けたものではなく、まとわりついた子供らへのものだった。ほんとう?疑うことを知らない瞳が俺を見る。ああやめてくれ。まじろぎひとつ分、俺は目をつぶって、もの知らぬガキどもの視線から逃れた。そういう視線は俺ではなく、傍らの、無駄にでかい貴様が受けるべきもので、俺が慣れているものは蔑みの、戦慄きの、ひるみすさんだ色のないものだ。墓石のように色のないものだ。
 有無を言わさずそのまま連行させられた、それはまさに連行という言葉がふさわしいものだった。逃げる猶予は俺になかった。選択肢すら用意されていなかった。とまどい、たじろぐ俺の両脇にも有色のまなこをしたガキが無心にひっついて、手を握り髪を引き、体をかがめた拍子に背後から飛びつく。無償で愛されるものと思っている、こいつらはまだ、ひとつほしいものを手に入れるためには、その十倍のほしいものを切り捨てねばならぬ現実を知らない。そういうものだ、俺がここにいたときもこんなに愚かな目をしていたろうか。
 だが悪い気分じゃあなかった。
 手に入れた時間の消費の仕方を俺は知らなかったから、だから俺は施設を訪れたのかもしれないとさえ思った。顔を見せれば必ず仕事を押し付けられる。電球を変えろ。幕張りを手伝え。壁に空いた穴をふさげ。花壇へ植える球根を買ってきてくれ。泣いた子供を寝かしつけろ。
 俺はそんなことをするためにきたわけじゃあない、けれども「そんなこと」をおしつけられて、両腕に抱え、抱え切れなくてどうしようも身動きできなくなることを心のどこかで望んでいる、そうして安心感を得るために利用しただけかもしれなかった。
 脇を歩くまだ俺の腰ほどの背丈の子供は、せんごろから嬉しそうにおれのシャツの裾を握って離さない、道端に咲いた野花をつみ取り司教さまにあげる、そう言って差しだしたのも彼女だった。
 なんとも対応しがたい、仏頂面の、愛想のかけらほどもない、俺のゆがむだけの笑いを見てなお、司教さまはとてもきれいねと言ってのける肝胆。いっそ彼女にくらべてみれば、俺はできそこないの苗一束よりさらに脆弱と言えるのではないか、だとしたら、俺が爾来身に着けてきた強さとは、いったいなんだ。
 そんなことも思った。
 土手に着くとしばらく自由行動になる、あまり遠くまで行ってはいけませんよ、水辺に近付かないように、小さな子の面倒を見てあげてくださいね、貴様の諸注意を神妙に拝聴していたガキどもは、解散、の一言にてんでばらばらに、まるで糸のぶち切れた真珠玉のように四方八方へ散ってゆき、俺はようやく解放され腰を下ろす。長く息が漏れた。
 子供は苦手だ。
 おのれの力が大人に及ばないことを十二分に理解していて、逆手にとって脅しをかける。それを甘えと呼べるほど俺は人間ができちゃあいない、やつらに常日頃慕われている貴様には、おそらく縁のない悩みというやつで、
「だから、貴様は近付くんじゃない。」
 貴様が動くと、連鎖的にガキどもが集ってくる。それでは気を抜くひまがない。せっかくの息抜きにこんなところにまで連れてこられて、俺の休暇とやらはどうなっている、まあここにまで付いてきたのは、俺の自業もあるようなものだからいいとしたって、貴様のかかえるガキどもの好意までおしつけられて平気な顔をしていられるほど、こちらは強心臓でもないのだ。
 睨みつけてやったのに、面の皮の厚い貴様はどこ吹く風で、それが俺を苛立たせる。どうせ近くによって、俺が面白くない顔をすることを貴様は承知しているのだから、それならいっそどこまでも離れていればいいのに、
「ほかに行くところがなかったのですか。」
「悪かったな。」
 余計に腹の立つことを言う。俺としたところで、別にこんな遠足にまで付き合う義理はどこにもないはずであるのだし、だったからたとえば今ひょいと立ちあがり、さっさとやつらを後にして、トラムでヴァチカンへ戻って行ってもいいはずだった。なにしろ時間はある。時間だけはある。
「先生、苛めちゃかわいそうよ。」
 いつの間にか近付き、どこから聞いていたのか、すこし離れたところに先に俺にまとわりついていたガキが立っていて、こいつまたきやがったという俺の辟易した視線と、おやと取り繕った貴様の視線とを同時に受けて、しれっとした顔でいるのだ、まったくたいした度胸だ、これで子供は無垢であるだの純粋であるだのと、巷で表現されているのだから、どこに目をつけていやがると言いたくもなる。
 彼女は手に花冠をさげており、土手のあちらこちらにぼうぼうと伸びたそれらを、つみ取り輪に仕立てたようだった。知らない花ではなかった、もとより俺は花遊びに興味はなかったので摘み取ることはなかったが、この時分になると見かけることの多い花だった、たしかばきばきと、小気味よいほどすぐ茎が折れてしまうので、花冠づくりにはまったくむかないと、同卒のものが言っていた気もする。だとすると彼女は、実に子供特有の辛抱強さと丹念さでもって、花冠を仕上げたことになる、それを俺に差し出すので、俺は困って彼女を見返した。
「司教さまに似合うわ。とても似合う。」
 言っておずおずと彼女は手を伸ばす。そこで俺はようやく、先から彼女がさわってみたかったのは俺のシャツの裾などではなくて、放っておいたら伸びた、適当に束ねてながした、俺の頭だったのだということに気がついた。きれいだ、と誰かに言われたような気もする。誰に言われたかだなんておぼえているほど暇じゃあない。
 差し伸べられた腕をはねのけてもよかったが、それではあまりに大人気ないし、彼女は一方的とは言え、好意を俺に向けていることなのだし、ガキとは言え女性には礼儀正しくあれということは判っていたし、なにより邪険にすると近くにいる貴様が一言二言何か口をはさんできそうだったので、俺は黙って彼女の指を受け入れた。
 貴様は黙って眺めている。
 しゃがみ込んだまま頭をすこし傾けると、花冠が俺の頭に収まる。大きめに作ったらしいそれは、乗るというよりは、ずれて額あたりで髪にからまりなんとかとどまった風だった。
「司教さまはきれいね。イエスさまと似ているのだわ。」
 唐突に神の子の名をだされて、俺は面食らう、まったくおそれ多いことだ、どのあたりが彼女の中のイエス像と俺が重なり合ったのか判らないが、聞いた貴様は面白い気分じゃああるまい、そう思った。ちらと眺めると穏やかながらも無表情で、だがちっともなにを考えているのだかしれない。不機嫌になったわけではないようだったが、だからと言って上機嫌ではありえない。
「神父さま。」
「はい。」
「神父さまは、どう思います?」
「似ているかもしれませんね。」
 貴様は低く呟いた。同意と言うには程遠い、上澄みの頷き。聞いた俺の心臓がぎくとおかしな跳ねかたをする。でしょう、やっぱりそうだ。言って彼女はまた駆け出す、ああそんな風に下り坂の土手を走っては、つんのめって転ぶだろうにと、俺はいつの間にか彼女にのまれ、はらはらとし、身を乗りだして眺める、それから隣の貴様のじっとした視線になんだと気が付いて見やったけれど、貴様はなにも言わず俺を眺め、不意に腕をこちらにやった。
 ガキの腕と違って貴様の腕は長く太く、存在感が異様だったから、そうしてガキと違って貴様の意図がなにも読めなかったから、俺はぎょっとなり身を引きかけて腕を掴まれ、後ろに下がる訳にもいかなくなり、結局おかしな尻餅をついたまま、貴様がいきなり花冠を払い落とすさまを、呆気にとられてながめていた。
 せっかく彼女がかけてくれたそれを、おしつけがましい好意であるには違いないとしても、きっと悪気はない、俺に気に入られたい一心でつくっただろう花冠を、無造作に貴様が払いのけ、思わぬ動きに怒りも湧かない。
「赤は殉教。」
 なにをするといいかけた俺を制して、貴様が言った。
「これは毒の花だ。」
 え、となって俺は貴様を見る。貴様の目の色は、秋の陽に反射したガラスに隠されうかがえない。なにを考えているのか判らない、毒の花だ。死人の花だ。言われてもそれが頭に染み入るまでにずいぶんの時間を要した気がした。それから不意に、貴様がいま払い落とした動きを子供は見なかったか、とくにあの彼女はきっとえらく悲しむだろうから目に入れなければいいが、そんな風に俺は思い、慌ててあたりを眺める。
 幸いなことに彼女は花摘みに夢中で気付かなかったようだった、それからひょいと、毒性のものであるならば、俺ではなくいっとう先に彼女へ告げるべきだろうと俺は思いあたる、子供の皮膚はやわらかい、うすい、俺は彼女へ告げるために立ちあがる。
 拍子にばらばらと花冠の輪がほどけて土手の上に散った。血痕。
 それにしてはずいぶんと朱に近いな。
「白い花が良い。」
 ガキのもとへゆきだした俺の背後から貴様の声がする、白い色はなんだ、貴様が色味について詳しいことを俺はついぞ知らずにいたぞ、そう鼻で笑い、言ってやった。
「貞潔だ。いっとう似合う。」
「莫迦か。」
 俺は言った。呆れて言った。なにを考えているのか相変わらず判らない男だと思った。それから不意におかしくなり、げらげらと笑って坂をくだる。
 俺はたぶんここに来たかった。仕事では決して見せない、貴様のそのとぼけた善人面を拝んでみたかったのだった。だから躍起になって休みを無理やりもぎ取った。半年も前からの苦労がようやく実り、俺は休暇を手にしてここにいる。
「明日まで居座るぞ。」
 俺は言った。
「ほかに行く当てもない。」
 俺は水面に渡る風を見る。後ろからのいらえはない。
「白い花冠をつくれよ、先生。」
 あざけるとやれやれと貴様の溜息が聞こえた。しようのない子供だ。その言い草を、いまは許してやろうと思った。

 

(pelagia corona & albus corona :殉教と貞潔)

 

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最終更新:2020年08月08日 23:13