*
――もし一粒の麦死なずば。
貴様が唐突につぶやいた言葉に、俺はえ、となって思わず聞き返す、聞き返したはずみにしまった畜生と、にがくいやぁな思いが胸の底にひろがった。てのひらの上で容易に転がされるこころもち、ほらこういえばきっと聞き流すことはできないだろうと読まれている、読まれきっている、だからこそ俺は思わずえ、と一語が口を衝いてでたけれど、それをみとめるのはどうにも癪だ。
してやったりの顔をしているのだろう。だから俺は貴様を見ない。
俺はいま怒り心頭発している、貴様がのうのうとしたツラで持ち込んだ始末書の山、いったい貴様は俺をなんだと思っているんだ、憤りでいっぱいで他のものごとが頭に入る余裕はないのだ、ないはずだった。そうでなくたって、たとえば、先月フランスに向かわせた機関員からの報告が異様に遅れて事務局からつつき上げられている、それから法務局から問い合わせだ、半月前に起こした市街地での異教徒とのささいないざこざ、ほんとうに取るに足らないちっぽけなものだったにもかかわらず、人家のあるところで手榴弾を四、五発ぶちかますことは非常によろしくない、一度事情聴取乞うだのなんだの。ケツの穴が狭いにもほどがある。聞きたいのならせめて先方からやってくるのが筋だろうに、はねつけてやると上層部へ話を通しやがった。
数人の枢機卿に召喚されて、困るんだよ君、だとかなんとか、うらっつらじゃあいったいどんな顔をしているのだかしれやしない。ねぶるような奴らの視線も不快そのものでしかなかった。同業実に相惜しいね、なんて、なんの因果か夕食会とやらにまで連れ出されて、去りぎわ耳元へ囁かれた時分には、いっそ眉間に問答無用で鉛玉を叩きこんでしまいたいほどだった。どうして衝動をおさえられたものか、自分でもよく判らない。ワインをそれなりに流し込んでいたので、照準が定まらなかっただけかもしれない。飲みたくて飲んだわけじゃあなかった。飲まされた。いや、もう飲むよりほか発散のしようがなかったから、俺は飲んだのだ。そうに決まっている。
それから射撃訓練場の不始末。それから武装神父新人候補の面接。それから今年度経費計上書類の作成。それから復活祭のミサの準備。担当持ち回りに十三課までくわえるなと言いたい。それから、それから、それから。
そこへきて、明後日ヴァチカンに在籍する司教として、俺本人にロシアまで出張ってくれときたもんだ。自室へ何日戻っていない?鞄へ荷物を詰めるどころか、飛行機の手配もまだだった。
自分で手配する暇もなし、だが頼めそうな事務員は出払っている。限界だ。三日寝ていない。ぎりぎりのところでどうにか増産体制をくりかえし、高速回転させていた機械のドラムがいい加減に熱を持ち、へたれて悲鳴を上げるように、正直神経が焼き切れそうだった。目の奥が痛い。がつがつと頭全体に響きやがる。薬を飲もうと部屋をあたためようと、景気づけに酸いコーヒーを飲んでみても、付け焼刃な処方はどれも利きやしなかった。
もう文字をみたくない。寝たい。なにも考えずに一時間でいいから休みたい。ぶっ倒れそうな俺の前へ貴様が差しだした報告書と、報告書の倍はありそうな始末書を、受け取るだけは受け取ってやった俺の心の広さをいっそ神にでも褒めてもらいたい。畜生。
震える手で受け取り、それでも優先的に目を通してやったのは、貴様を向かわせた地球の裏側のテロリストの粛清が、思った以上に長引いたからだ。テロリストどもはたいした人数ではなかった、新興宗教団体とやらも塵のようにちいさなものだった、だがあらためて引き抜いてみれば、芋づる式にずるずるとおもてに顔をだしたカトリックとの癒着。再度うずめてしまうには見過ごせない瑕疵。
ここで死んだら殉職、階級特進ものだとおのれに言い聞かせながら、手の空いた特派員をかたはしから投入し、ことこまかに指示をだし、ようやく団円、銃剣の帰投。これで誰にも褒めてもらえないのだから反吐が出る、褒めろとまでは言わずともせめてねぎらいのひとつ、あってもいいんじゃあないか、倍の厚さの始末書を見て、俺は不意にしんから泣きそうになった。ああもうどうしてくれよう。
奇声をあげてこめかみに銃弾をおのれ自身でブチ込んでしまえばいっそ楽にもなろうというもの、しかし信奉する俺の神は、自死を決してみとめない。
代わりにこめかみにこぶしをあて、目眩のする視界をこらえて始末書に目を通す、黙って通す、口なんざきいてやるものか、思った端から貴様が呟いた一節。
え、といらえた俺の口。
なにもかもうらめしかった。
痛む目をつぶり、それから開いて俺は貴様を机のこちらから見上げる、もうせんからかうばかりの顔かとも思ったが、意外に神妙な顔で貴様は俺を見ていた。なんだ。肩すかしになる。
「休んではどうか。」
「休めるものならとうに休んでいるこの莫迦。」
眉をひそめるような貴様の表情、俺はこいつがひどく苦手なのだ。俺が苦手だということを貴様は判っている、きっと判って計算づくでそんな表情を浮かべる、浮かべて俺を見る。困った顔、怒りかねた顔。
孤児院時代によく目にした。
俺はそのときから変わらない、貴様がその顔をつくるたびに俺は笑う、笑ってみせる。頬をゆがめ口の端をあげて、
「麦がどうした?」
俺は言った。
「え?」
「え、じゃあない。貴様がそう言ったんだ。」
「……ああ、」
なんとなく口にしたまでだ、他意はない。つづける貴様にそんなはずはあるかと俺は無性に苛々として、始末書を指ではじいた。他意なく一節のくだりが出てくるか。そういうものか。そういうものかもしれない。
「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。 死なば多くの実を結ぶべし。」
なんとなく口にしたのならそうなのだろう、だから俺も貴様のこころもちのように、始末書からふと目を逸らし、うっすらと埃の膜をはったコーヒーのおもてをながめながら、続きを呟く。麦は芽をだす。麦は根を張る。麦は実る。
だがすべての麦にそれが許されているわけじゃあない、実るものもあれば腐りはてるものもある、それが摂理だとか言うのだと、孤児院にほうりだす前の晩、醜悪な面がまえで父は言った。残念なことに、おまえは腐りつるのだよ。おまえの肉と、おまえの血と、そのほかおまえをなす全てのものが腐りおちてけがらわしいのだよ。だから、もう、おまえをここに置いておくわけにはいかないのだ。
「貴様は発芽するのだろうな。」
「え?」
いい加減ぶれる視界に目を開けたままでいることがつらくなって、俺は目を閉じ瞼を揉む。言ってやると、いぶかしんだ声をあげられた、それで俺はなんだかすっとする。ああそうだ、こうして貴様が俺の前に立つことそのものが、実に数月ぶりのことではなかったか。俺はそれをのぞんでいたか?莫迦な。
「花の種でもあるだろう。植えても、芽をだすやつと、ださない不良のものと。」
「ああ、」
合点がいったのか貴様がすこし息を吐く。笑ったのかもしれなかった。視界を伏せた俺はよく判らない、判らなくてもいいように思う、貴様を目に入れたまじろぎの間からわけも判らぬ焦れが生じるから、
「わたしは芽をだす方の麦ですか。過大な評価痛み入りますね。」
「……芽をだす、と言っただけだ。実を結ぶとは言っていない。」
ふてくされて俺は言った、だが言いながら貴様は芽をだすだけにとどまらない、きちん日に向かって一心に伸び、やがて穂を垂れる、内実そう思っていた、なぜなら貴様はいくつもいくつもいくつもの、まどいうろたえるたましいとやらを救済した、そうして今でもしつくして回っているじゃあないか。
孤児院の貴様の評価はどうだ。ひきとられたガキどもが、貴様に向ける懸命さはどうだ。憧憬、限りなく純粋な尊敬、僕はなりたい、先生、アンデルセン先生。
先生のようにやさしく、あたたかな人間になれたら、僕を愛してくれますか。
吐き気がする。
「俺は――、」
俺は腐るだろう。なにせもとよりそうなのだから仕方ない、ひえた土の中でひとつぶ、たちまち外皮は土の中でうごめく微生物によって分解される。中身がとけだす、俺は土と同化する、俺が、俺というううつわを失って、いっさいものを思わなくなる、そうしてたぶん芽をだす他のやつらの養分となる、あこがれ、のどから手がでるほど苦しいあこがれ、俺に決して許されていない権利を当たり前の顔をして持つものどもへの、
「ああ、渇えている。」
貴様がぼそりと声をもらし、それからがつがつと数歩近づいて、やぶからぼうに俺の頭へ手を置いた。せせら笑いながら眉間を揉んでいた俺はそのまま固まる、そうじゃない、不測の事態と言うやつでとっさに対応できなかっただけだ、貴様の撫でくる力が莫迦みたいに強いから、有無言えないことになっているだけで、本来ならとうに払っているはずのものだ、俺は要らない。やさしさもあたたかさも必要ない、それは芽をだし実る麦にこそ注がれてしかるべきものだった。
だがあてがわれたてのひらは、手袋を介しているのにあたたかい。解消のなかったひどい痛みがやわらぐようで俺は動けない。吸い出されているかのように悪い気分じゃあなかった。何度か俺の頭を撫でた無骨な指が、頭蓋からうなじへすっと滑って、俺はからだを強張らせる、ぜんたいどうするのだと言葉が口を衝く前に、貴様の指が俺のロザリオの紐をほどいた。いいやこれは俺のものじゃあない、かたちも重さも変わりはないけれど、これは貴様が数か月前出立するときに俺が貴様から奪ったものだ、奪い取ってやった戦利品だ。
返してもらうぞと貴様がちいさく言った。なんだこれがほしかっただけか。俺のものじゃあろくに祈りも捧げられずにいたか。くつくつと笑いそうになった俺へ、代わりに貴様が身に着けていたはずのロザリオがかけられる、もどされる、無理矢理指に握らされて、どうだと言われた。てんで意味が判らない。
ほうと見上げた俺へ、きちんと身に着けていたぞ、貴様は言った。壊さず、傷つけず、汚れもつけず、まったくたいへんな苦労だった、一番にそれが肩が凝った、ここしばらく、つねに体のいっとう奥へ、懐ふかくにしまいこんだぞ、どうだ、俺の心臓の音が染みついているだろう。得たりと笑って貴様は言った。
俺は言葉を失い、莫迦のようになって貴様を見た。ぽかんとなって貴様を見た。なにをかえす、この場合どうしたら俺の威厳、いや威厳なんてものは端からないのか、だが俺はどうやってこいつを見返してやることができる、真っ白になってうまく案が浮かばない。なぜなら俺はとてもくたびれていて、皮肉を言う気力もないほどなのだった。
「常に汝とともにあり、」
言って貴様がおおぎょうに腰をかがめ退出する、俺がぐうの音も出ないうちにさっさと逃げ出す腹づもりなのだ、長じて居座って小言を食らうのはまっぴらなのだ、そうしてまた偽善で本気の笑みを浮かべて、なにごともなかった顔をして、貴様はあそこへ帰るんだろう。ガキどもが待つあの孤児院へ。ただいまと微笑む貴様の周りをわらわらと子供らがかこむ、おかえりなさいどこへ行ってたの、うれしそうに笑う顔。顔。顔。
実を結ぶ麦。
貴様を引きとめる声は俺の喉から出なかった。
汝とともにあり。閉まった扉から目をはなし、握らされた十字を俺は見る、どうにもぬくもりがしみつき腹立たしい、まったく厄介なことになっただとか思いながら、俺はじっと見る。
常にともにあるもの。貴様だ、貴様が言ったんだ。それは我らの神だろう、そんなことは判っている。だから、ゆいいつ絶対的であるはずの我らのそれ、それ以外のなにかであればよいと俺が思うはずはどうしたってありえないはずだった。
(*Frumentum floccidum :落つんとする小麦)
>next
------------------------------------------------