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「……あのねェ」
心底あきれた声がでた。そのあきれた声をいちばん最初に耳に拾いあげたのは、なさけないことに発した女自身だった。まったくなんて声がでるのだろう。女はおかしな感心の仕方をする。
「ちょっと」
目の前に寝乱れている男は、うん、だとかああ、だとか、半分以上うわ言で返してよこす。起きるつもりがない。起きて相手をするつもりがまるでない。まともに遣り合うのも面倒くさいと感じている風が見え透いて、むかむかとする。しかも、男のだらしない格好はどうだ。羽織っているのかいないのか、ずりおちた上着と脇から見える素肌、それともこれは脱いだと表現してよいものかどうか。いちおう臥所に転がり込む前に気を遣い、上着は脱いでやったとでもいうつもりか、とにかく一言でいうと、
「みぐるしい」
揺り起こすのも癪で、女は足で男を蹴った。
「……なんだ」
男が先よりは意識をこちらへ向けたのか、薄く目を開いて女を見やる。
「朝までせっせといそしんだんだ、寝かせてくれよ」
「あんた、ここがどこだかわかってるの」
言いぶりにかちんときて、女は聞こえないふりで寝ようとする男の上掛けを剥ぎ、目を剝いた。
「なんだ」
「寝るならよそにいきなさいよ」
「前金払っている」
「そう言う問題じゃないのよ」
剥いだ上掛けの色はどぎつく赤い。いつもいつも趣味が悪いと女は思っている。ここは彼女があてがわれた部屋ではあるけれど、この部屋に彼女の意思はない。すべて、経営者のしつらえたものだった。
女は遊女だ。春を売る。春を売る女の部屋で寝乱れる相手が男であり、となれば艶話のひとつでもとなるところだったが、現実はまるで違う。
「莫迦にしてんの。抱く気がないならとっとと出ていきな」
毎晩毎晩、名前も知らない多くの男に抱かれ、においの染みついた体であったとしても、商売である以上女にもプライドと言うものはある。いぎたなく寝こける男が、たとえば朝まで自分と精を出し「励んで」いたのならまだ話は判る。判るが、男が励んでいた相手は、女の知らない婦人であり、その屋敷から戻るやいなや、まるで自室のように男は女の商売部屋へああ疲れただとか言って寝転がり込み、寒いからくっつけよだの好き勝手なこと言い、高鼾をかいているのだった。
顔を知っている。名前も知っている。旅芸人か、商人か、詳しく聞いたことはないけれど、あちこち転々としているようだった。この町へ顔をだすと、かならず自分を訪ねてやってくる。馴染み、と称してもよいほどの仲にはなった。
抱かれたいのか、寝ぼけまなこで男が言った。欲求不満つのりつのったご婦人のおかげで、残念ながらもうなにも出んよ、腹を立てた女へぬうと腕を伸ばして、男が女を引き寄せる。
男のにおいにつつまれた。
「なによ」
「妬いているのか?」
「まさか」
は、と女は鼻で笑ってみせた。妬く?あたしが?
「うぬぼれるんじゃあないよ。あんたは連日訪れる客の中のひとりに過ぎないし、ほかと比べていいところって言やあ、金払いとしつっこすぎないところぐらいだ」
「そうかそうか、妬いているのか」
言って男が女を抱きしめる。肩口に顎が乗った。吐く息が酒臭い。いったいこの男、どれほど飲んだのだ。女は思った。
「ちょっと」
「お前だって昨日の夜、ほかの男を相手に頑張らされただろ」
ここで。この上で。
そうと知っていて、まだ湿り気の残る寝具へもぐりこんで寝ているのだから、図太いといおうか、無神経と言おうか、女はますますあきれた。
「一緒に寝ようぜ」
「ちょっと!」
いい加減頭にきて、脛を蹴り、腕から逃れようとして、男の力が意外に強いことに気がつく。こちらをからかって楽しんでいるのだ。わかってはいたが、その通りにふるまうのは業腹だった。
脛を蹴ってやったのに、男は痛がるそぶりも見せず、くっくと喉奥で笑って女を抱きしめたままでいる。本当にこのひと、なにものなのかしら。
妓館へ来るたびにことなる種類の楽器を荷物に抱えていたが、芸人には見えなかった。持ちあわせに困った風もないが、商人というには金に執着がない。言ってみればよいところの次男坊、けれどそれにしてはずいぶん世なれしているように感じたし、話にでてくるあちらこちらの婦人の名も、町ではそれなりに有名な家柄だった。
得体の知れない、というのが、女の男への評価だ。
無名の女とは寝ない主義なのだろうか。
それにしては自分のところへ顔を見せることが、矛盾している気がする。自分がとりたてて美人なわけでも、とりたてて若いわけでもないことを女は自覚していたし、たとえば世に言う、
「名器」
の持ち主と言うわけでもなかった。くされ縁、会うべくして会ったのだと、そう納得するしかないような気もしたし、それでよい気もする。
「ああ、わかった」
ぽんと思いあたって女は声をあげる。
「なにが?」
「あんた、おとこめかけ、ってやつね」
「はあ?」
なにを言っているんだ、そんな態で男がはじめてきちんと目を開き、女を真正面から見た。
「だってそうでしょう。毎日毎晩、とっかえひっかえ、浮名ながして」
言ってしまえばそれが正解なような気もしてくるのだから不思議なものだ。
聞いた男があきれたような溜息をつく。あきれ果てているのは女のほうだ。溜息をついたはずみで、男の伸びかけた前髪がふるえた。
「髪」
「え?」
「髪、伸ばしてるの」
以前に店に顔を出したときは、もっと短く刈り上げていた。それがすこし見ないうちに、目端にかかるようになっている。
「上げときなさいよ。目にはいると、悪くなるわよ」
それは女が売られる前、母親から言われた言葉だ。彼女を売るしかないほど、家族の生活は困窮していた。彼女はそれを理解していた。自分が売られることで、幼い弟妹たちがしばらくでも腹を満たすことができるならそれでもいいと思った。思った、それでも侘びしかった。売るほどの愛着しか自分は両親からいだかれていないのだ、そう思った。
目が悪くなるわよ。娘を人買いにわたす親でも、自分にそう言ってくれるほどの関心は持っていた、そう思いたかった。
男の額へ指をやって、伸びかけた前髪をかきあげる。男の赤色の毛は、ずいぶんやわらかい。細く、こしがなく、へたって、猫の背中を撫ぜているようだと思う。
「伸ばす気もなかったんだが……、伸びたな」
「それがいい」
女は頷いた。
「あんたじゃあ、伸ばしたって貧相になるだけだわ」
そうか。男は笑った。心底おもしろがっている笑いだった。
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最終更新:2012年11月10日 06:42