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 思いちがいをされそうなむずかしい人だな、というのが、わたしがその人としゃべって思ったはじめての感想だった。
 もうずいぶん昔の話だから、きちんとしたことはおぼえていないけれど、たしか、まだわたしが初等部の三年生か四年生あたりだったと思う。そのころやっかいになっていた孤児院はフェルディナントルークスという名前で、ローマ市街地よりちょっとはなれた郊外にあった。
 いつからそうした場所で生活していたのか、実はよくおぼえていない。ものごころつく前に施設に連れてこられたからだっていうのももちろんあるけれど、わたしはときどきふっと記憶が途切れるときがあって、それでも最近はずいぶんましになったけれど、ひどいときには一時間おきに交替していたようなものだった
 交替。
 そう、わたしはたぶん、わたしの中のなにかと交替していた。
 なにとって聞かれるとうまく言えないのだけれど、たとえば記憶がなくなると言っても、べつに気絶していたりひっくり返っているわけじゃあなくて、普通にご飯を食べたりシャワーを浴びたり着替えたり、うまい具合にわたしは院の暮らしの動きを追っている。もちろん、そのあいだわたし自身の記憶はないので、わたしが確認できたことではないけれど、いちばん仲のいいハインケルが、どうもわたしの様子がおかしいと気付き、じっくり観察した結果ということになるから、たぶんそれであっていると思う。もうひとりいるのかも、というのがハインケルの率直な意見だった。
 よく判らないけど、由美江の中にもうひとりいるような気がする。
 もうひとりいる、と言われても、どうしていいものか判らないし、まあ記憶が飛んでいるときもたいしておかしな行動をしているわけでもないようだし、こうしてものを考えているわたしよりももっとずっとおとなしいみたい、とハインケルも言うので、別に交替してもいいことにした。深く考えるだけ無駄と思ったからだ。
 だから、わたしがこうした普通の家庭ではない場所にいたのは、気が付いたらいつのまにかいた、というのが正しいところだ。
 当時はいちばん院に収容されている子供の数が多いときで、わたしたちを含めて五十人近くがそこで生活していた。上は十四歳の中等部生から、下は初等部の六歳まで、それとほとんど顔を合わせることはなかったけれど、何人かは神学校へ進まず、寮にも行っていない通いの高等部生もいた気がする。
 五十人。
 連れてこられた男の子は、わたしやハインケルよりもほんのちょっと年上で、五年生か六年生だったと思う。
 きれいな顔だな、と思った。
 院に暮らしている子供の誰も、そんなものは持っていなかったけれど、散歩の途中に町で見かける、ショウウィンドウの中の陶器の人形みたいに、白くて、透明質で、かたい顔をしていた。
 だいたい院に連れてこられた子供は、年齢にかかわらず、いままでと違った環境に戸惑い、ひと月そこらは落ち着かなかったり、ホームシックになってめそめそしたりすることが当たり前なのに、その男の子はとても落ち着いていて、冷たくて、静かに座って本を読んでいるのが当たり前のような子供だった。一応ハインケルが先生たちから、その、エンリコ・マクスウェルと言う男の子は判らないことばかりだろうから、いろいろ教えてあげてください、なんて言われていたけれど、教える必要もないくらい、最初からその子供は院に馴染んでいて、そうしていつまでたっても異質で浮いていた。
 くるみを大きなたらいに浮かべて水を張り、ほとんど沈んでいる中でもたったひとつだけがふわと浮いてくるみたいに、きれいな顔をしていて目立つようでいて、みんなの中に交じっていたらまったく目立たなくて、なのにいつでもひとりだった。
 たぶん男の子本人は、自分がひとりだっていうことに気付いていなかったと思う。
 
 
 図書室がわたしの逃げ場で、だから苛められるとわたしはいつも本棚にかこまれて泣いた。
 それは別にわたしが本が好きだと言うことではなくて、ただ院の子供は外で遊ぶことは大好きだけれど、大人しく黙って読書をたしなむ、なんて子はほとんどいなくて、だからどれだけ泣いても誰にも見つからないし、いじめっ子も図書室までは追ってこないのだ。
 それにちょっとだけ、古びた紙のにおいも好きだった。
 においが好きだから読もうと言う気には残念ながらならなかったけれど、埃と、黴くささと、紙の古いにおいにかこまれて、しんと落ち着いた空間は、いじめられてささくれだったわたしの心を落ち着かせてくれる、とてもよい空間だった。
 そのころわたしは、喋りかたがおかしいと言うので同級生からからかわれて泣いていた。たぶん、からかったあの子たちは、とくだんいじめているという感覚はなくて、それこそ水に浮かんだくるみじゃあないけれど、ちょっとめだったから、ちょっと珍しいから、そんな他愛もない理由だったのだろうと思う。でもわたしにとって、喋りかたがおかしいと言われることは恐怖でしかなくて、どうもわたしの日本語発音まじりの言葉は、イタリアの言葉を何語かうまく発音することができなくて、それであの子たちにからかわれる、ますますわたしは焦って、なんとか発音しようと躍起になるのだけれど、やっぱり発音できなくて、そのうち声を出すことがとても怖くなってしまった。声を出してからかわれたらどうしよう、きっと笑われるに決まっている。そんな風に思うと、どういうわけか今まで普通に発声できていた音のところまで、おかしな具合にどもるようになってしまって、いっそう口をきけなくなった。
 ハインケルはそれを判っていて気にするなって言ってくれたりもしたけれど、わたしはしゃべることが苦手だったし、わたしとちがってうまく発音できるハインケルがちょっとにくたらしく思えたりして、そうして他の子に莫迦にされればされるほど、どうしても駄目だった。
 からかわれてわたしが図書室へ逃げこむと、決まって窓際の日の当たるところにいるのがマクスウェルで、でもべそをかいたわたしを絶対に慰めようなんてしなかった。どころか、静かに本を読んでいるのに邪魔が入った、迷惑と言うよりはいっそ憎々しげな顔で、眉をひそめてこっちを見て、あからさまに溜息をついてみせたりする。でも態度ではそんな風にしめしても、出ていけだとか口で言われたことはなかったし、わたしもほかに逃げ場がなかったので、毎度いやな顔をされながらわたしは図書室へ飛び込んだ。
 わたしはそうしてマクスウェルをよく見ていたけれど、口をきいたことはなかった。
 ある日どういうわけか、からかいがエスカレェトして、女の子たちが図書室まで追いかけてきたことがあった。わたしはもうここまで来られてしまったらほかに行くところはないし、保健所の人間に袋小路に追い詰められた野良犬みたいに、もう頭が真っ白になってしまったのだけれど、いつものようにいやな顔をしてこちらを見、読んでいた本を閉じたマクスウェルが、うるさい、と追いかけてきた子たちに言った。
「ここは本を読むところだろ。ぎゃあぎゃあ騒がれたら迷惑なんだよ。」
 マクスウェルは普段でも、そうおしゃべりな方ではなかったけれど、すごく頭がよくて、勉強はもちろん、上級生でも口げんかじゃあ勝てないほどだったし、そうでなくても見た目がきれいだったから、同級生の女の子たちからはちょっといいよね、なんて本人がいないところで話もされていて、だからたぶん顔をしかめてそう言った彼を見て、みんな慌てたんだと思う。きゃあ、とかいいながらばたばた図書室から彼女たちは出て行って、急にしんと静かになって、部屋にのこっていたのは溜息をついたマクスウェルと、腰を抜かしたわたしだけだった。
 そのまま声もかけずにわたしを無視して、また読書に戻ろうとしたらしいけれど、結局うまくいかず、ああ、だとか言って髪をかきあげたマクスウェルが、そうしてびくびくするから足もとすくわれるんだよと、わたしに対してはじめて口をきいた。
「え、……え、え?」
「お前はたしかに発音がど下手で、聞けたもんじゃあないけど、きちんと並んだ字を書くだろ。」
「……じ、字?」
 わたしは、彼がはじめて素無視せず喋ったとか、一音一音がとてもきれいな発音をするひとだなとか、そうしたどうでもよいところに感動したりして、彼がなにを言ったのか理解したのはちょっと経ってからだった。
「字?わ、わ、わたしの、じ、字?」
「そう言ってるだろ。」
 マクスウェルに言われた通り、わたしは紙にアルファベットをならべてゆくのは、なんだかパズルのようでおもしろくて好きで、そうして発音だとかを気にしなくてもよかったからとても楽しくて、神父さまたちからは、何度か由美江はきちんとした字を書きますねと褒められたことはあったけれど、それは先生たちだから、どこか子供のいいところを見つけてほめてくれるのがお仕事だから、そう思っていて、だから彼がわたしの字のことを知っていることにびっくりした。
「だから、」
 彼は言った。
 だから、びくびくしてるのを見ると腹が立つんだよ。
「あいつらの誰よりきちんとした字を書くことができるのに、言い返しもせず、いじめられて、逃げて、泣いて結局負けるだなんて、ただの弱虫のすることだ。」
 わたしは、そんな風に考えたこともなかったけれど、ただの弱虫と言われて、それはすこしいただけないなと思ったので、じゃあどうすればいいと聞いた。彼ならば方法を知っていると思ったからだ。
「見返せよ。自分の得意なところを伸ばして奴らを莫迦にし返せばいい。」
 簡単だろ。彼は言った。不得意なところをなおせって言ってるんじゃあない。得意な部分を、誰にも追いつけないほどもっと上手になってやればいいだけだ。
 わたしは本当に、だいぶびっくりしてしまって、苛々と話すマクスウェルの口元あたりを眺めながら、さっきも思ったけれど、なんてきれいな言葉を話すひとなんだろうとやっぱり別のことを思っていた。自分の国の言葉だけじゃあない。英語も、フランス語も話せるだとか誰かが言っていた。ラテン語のむずかしい言葉でかかれた本を読んでいることも知っている。いいお屋敷の生まれだって誰かが言っていたけれど、そうかもしれない。こんな風に話せたら、絶対にいじめられないと思い、おい聞いてんのか、と目の前に指を突きだされて、わたしは慌てて頷いた。
「見返せ。」
 彼は言った。でもどこか、わたしに言っているというより、自分に言い聞かせているみたいだった。
 
 
 喧嘩の原因は、半分はわたしにもあるようなものだった。
 また別の日、わたしが院の表広場のフェンス沿いに生えている黄色のちいさくてぽやぽやした花を摘んでいたのだった。この花はすぐ萎れてしまいやすいけれど、上手に水を吸わせてやればとても長持ちする。たくさん摘んで、大好きな先生にわたしはプレゼントしようと思ったのだった。
 プレゼントしたら、きっと笑ってありがとうと言ってくれる。
 わたしは、孤児院に勤める先生たちはみんな大好きだったけれど、なかでもアンデルセン先生はとても大きくてあたたかくて、いっとうに好きだった。
 なにをしているんだ、そんな風に声をかけられて、わたしは顔を上げる。フェンスに沿って花を摘み摘み歩いているうちに、ぐるりと広場を一周して、裏庭の方へきていたらしかった。ここは図書室ではないのに、こんなところにいるなんて珍しいなと思って、わたしが声をかけてきたマクスウェルをぽかんと見ると、返事をしないわたしにすぐに苛々して、彼はちいさく舌打ちをした。
「花?」
 口元をゆがめながらそんなことを言うので、わたしはようやく我にかえり頷く。
「そ、そう。お、お花をせ、せ、先生にプレゼントし、し、しようって思って、」
 言って、片手で持つには少し太くなった黄色の花束を彼に見せるとふうん、と頷いた彼が、貸せ、と自分のポケットをさぐりながら言った。言って彼がズボンのポケットから出してみせたものは、青い幅広の紐で、たしかに青い色の紐で花束の根元を結んだら、プレゼントはずっと素敵になりそうに思えた。わたしが花をプレゼントすると聞いただけで、見た目にまで考えが及ぶなんて、やっぱり彼は頭がいいのだなとわたしが感心をしてぼんやりしていると、動きの遅いわたしに苛立ったのか、貸せ、ともう一度言ってマクスウェルがわたしの手から花をもぎ取った。
「マクスウェル!」
 丁度そのとき、裏庭へ回ってきたハインケルが、わたしと彼を見て、こわいような声を出した。振り向いた彼に、なにをしていたんだ、由美江に花を返せ、とハインケルは言う。ああそうか、たまたまハインケルはマクスウェルがわたしから花をとったところを見てしまって、だから彼がわたしをいじめようとして、花をうばっていると勘違いしたのだった。たぶんハインケルは、わたしが女の子たちから喋られないことでからかわれ泣いていることを知っていて、だからわたしがいじめられると言うことにひどく過敏になっていたのだ。
 ちがうよ、とわたしは言おうとした。マクスウェルは違う。
 けれど、言うまでにいつものどもる癖が出て、ひと呼吸遅れる、遅れるあいだに、ハインケルの敵意にたちまち反応したマクスウェルが、鼻でせせら笑った。
「僕が、なにをしていたって?」
「……お前、」
 そこからのことはよくおぼえていない、わたしがわたしの中のなにかと交替したのか、それともただ目の前でたちまちふたりが言い合いになり、取っ組み合いの喧嘩になってしまったのを見ておろおろしていただけなのか、なぜならマクスウェルには悪気はなかったわけだし、でもとがめたハインケルもきっと悪さをしたくてそう言ったわけじゃあなくて、わたしはなんと言ってふたりを止めたらいいのか、本気になって上になり下になるふたりの剣幕はすごいもので、とてもじゃあないけれど近くに寄れない、おそろしかった、長い時間そうしていたような気もするけれど、実際はとても短い時間だったと思う。
 騒ぎに気付いた神父さまがかけつけて、厳しい声でやめなさいと二人を叱り付けた。普段は出さないようなすごく大きな声だった。
「理由はあとで聞きます。ふたりとも部屋に戻って各々反省していなさい。」
 そうしてまだ噛み付きそうな顔をしているハインケルをアンデルセン先生はおさえ、体の土を払って肩で息をするマクスウェルに向かって言った。
 はいはい、と肩をすくめ、それからこれ見よがしにマクスウェルは、地面に落ちてばらばらになってしまった黄色の花束を踏んだ。
「――マクスウェル。」
 厳しい声を先生は出したけれど、もうわたしのこともハインケルのことも、見ようとしないで彼は部屋へ戻ってゆく、ようやく落ち着いたハインケルを放し、あなたも部屋へ戻りなさいと静かに言いさとす先生と、ハインケルを見比べて、わたしはどうしよう、どうしようとそれだけで頭がいっぱいになってしまった。
 ふたりが戻ると、やれやれと言った調子で先生は息を吐き、困った子たちですねぇと誰に言うともなしに言う、それから大きな手でわたしの頭を撫でた。
 きっと誰も悪くなかった。なのにわたしは、うまい具合に先生に告げることができなかったのだ。
 
 
 なにも言えないまま夜になった。
 喧嘩をした二人は反省のため、ということで夕飯を抜かれ、それぞれ部屋で静かにしているらしかった。たぶん先生が、ひとりずつ言い分を聞きに行ったと思う。
 けれどわたしは、ハインケルはともかく、マクスウェルはきっと、アンデルセン先生になにも言わないんじゃあないか、と思っていた。
 孤児院でわたしたちの世話をしてくれる先生たちは何人もいたけれど、その誰に話しかけられてもマクスウェルは厭そうな顔をした。中でもいちばんにアンデルセン先生がいやみたいだった。
 大きな手、ごつごつとしてふしくれているけれど、あたたかくて力強い先生の手、その大きな手で先生はわたしたちの頭を撫でてくれる。よく、キリストさまは細いひとに書かれたり彫られたりしていることが多いけれど、もしかすると、こんな風に大きくてあったかいひとだったのじゃあないかとか、だからお弟子さまがついて行ったり、おおくのひとたちが縋ってしまったんじゃないかとか、そんなことも思っていた。わたしはなんの用事がなくても先生の側に行ってしまったし、側にいるだけでうれしい気分になった。だから、どうしてこんなにやさしい先生のことをいっとうにきらうのか、さっぱり理解できなかった。
 でもとにかく側に寄られるのもいやみたいで、先生が側に近寄ると変に緊張して、顔を強張らせて、うつむいてぐっと口を結んでいたりして、なんだかわたしは、拾ってきて毛を逆立てた猫みたいだなとそんな風に思っていた。なにがそんなにいやだったんだろう。
 先生もそれとなく判っていて、普段はいやがるマクスウェルに無理矢理近寄ったりはせず、一定の距離を置いているのだけれど、喧嘩の話を聞くのだったら別だと思った。あのゆっくりした話しぶりで、どうしたのですかと辛抱づよく聞くに違いないと思った。
 消灯時間を過ぎて、本当はいけないことなんだけれど寝静まった部屋を抜け出して、わたしはハインケルとマクスウェルに会いに行った。会ってどうしようか、そこまでの考えはなにも無かったけれど、とにかく部屋でじっとして、そのまま寝られるように思えなかったからだ。
 最初にハインケルの部屋へ向かう。中をうかがうと、ハインケルも、同じ部屋の男の子三人も、ベッドに入って眠っていたので、起こすのも悪いと思ったし、起こしたところでとくに話すことも思いつかなかったから、彼は明日でいいことにした。それから、マクスウェルの部屋に行くと、四つあるうちベッドが埋まっていたのは三つだった。
 彼の姿はなかった。
 わたしはどきどきしてしまって、マクスウェルがなにか悪いようになって、どこかにいっちゃったんじゃあないかとも思ったけれど、規則をなにより守る彼が、黙って院を抜け出すことはないことに気がついた。それに、抜け出したところで、わたしも彼も、院に住む他の誰も、行くあてなんてないのだった。
 だからきっと院のどこかにいると思って、ずいぶん寒くて手もかじかんでいたし鼻水も出てきたけれど、ひと部屋ひと部屋、丹念に彼の姿をさがして歩いた。
 きっといるだろうと思った図書室にも彼の姿はなくて、そんなに広くない院の中全部の部屋を見て回ってしまって、途方にくれたときに、非常口の扉の鍵が開いていることに気付いて、わたしはそっと、軋む扉を鳴らさないように注意しながら外にでた。
 外はいっそう寒くて、もう身震いしたって耐えられないほどに寒くて、けれどここにマクスウェルが出て行ったんだと思ったら、やっぱり引き返すことはできなくて、両腕で自分の体をかかえながら、わたしは彼を探した。煌々と月が照っていて、月のまわりに虹色に輝く光があったりして、きっとこんなときじゃあなかったらもっときれいだと眺めることができたのに、残念に思いながら裏庭にまわると、せまい裏庭の花壇の中に、マクスウェルが立っていた。ちょうど建物の影に隠れて、彼がどんな顔をしているのか見えなかったけれど、わたしは見えなくてよかったと思う。見えてしまったら、なんて言っていいのかますます判らなくなってしまうに違いなかった。
 彼の足元の花壇の土も、花も、めちゃくちゃに踏みしだかれてひどいことになっている。彼が踏んだに違いない。けれどわたしは、その花壇の花は、アンデルセン先生とマルコ先生に頼まれて、いっしょにマクスウェルが手伝って植えたことを知っていた。とても迷惑そうな、どうして僕がこんなことを、僕は本を読みたいわけで、手伝いたいわけじゃあない、そんな顔で手伝っていて、けれど先生たち二人よりひと株ひと株丁寧に植えてあって、わたしは見ていておかしかった。手を抜けない完璧主義の彼を見たような気がしたからだ。
 そうして、今日の午後に図書室ではなくてこの花壇にいたのも、いくらか生えてあった雑草を、彼が気にして抜きに来ていたんだと言うことに、わたしは気が付いていた。別に先生の誰かに言い付けられたんじゃあない、けれど彼の性格上、一度手を付けたものを放っておくことができなかったんだと思う。
 そのマクスウェルがうつむいて、花を全部ひどいことにして、黙って立っている。
 こういうとき、たぶん彼は誰も近くに来てほしくなんてなくて、だからわたしはどうしようかとすこし迷った。けれどどうしてもわたしは近付きたかったので彼の隣に行き、とっくにぐちゃぐちゃの花や葉を見おろし、それから丁寧にひとつひとつ彼の靴跡の上から踏みなおす。わたしの靴のあとは彼よりもちいさいので、土に二重に穴ができた。
 マクスウェルが息をのむのが判った。なにをしているんだ、怒った声を出して、ぐいとわたしの肩を掴む。
「お前、自分がなにをしているのか、判って、」
「わかってる。」
 どういうわけかそのときわたしは、まったくどもることももつれることもなく、すらすらと話すことができた。月が青くてきれいだったから、ちょっと現実のものとは思えないほど澄んでいて強い光だったから、魔法でもあったのかもしれない。
「莫迦、お前、」
「いい。わたしもいっしょに怒られる。」
 花を植えた花壇をめちゃくちゃにするなんて、してはいけないことだった。明日の朝になって、先生に知られることになったらきっと、ひどく怒られるのは目にみえている。今日のこともあったし、ふたりして懲罰室に一日かも知れない。アンデルセン先生は、子供が悪いと言うことを知らないで間違ったことをしても、決して怒ったりしなかったけれど、それがよくないことと知っているのにしたときはかなしい顔になって、それからきちんと怒った。
「由美江!」
「うるさいな。わたしが踏みたいの。わたしはふたりのことを見ていたのに黙ってた。あのときわたしが違うって言えばよかったのに、黙って見ているだけだったから。」
 肩の力を掴むマクスウェルの力が強くなったので、わたしは振り払ってきっぱり言ってやった。べつに同情とかそう言うのじゃあなかった。ただ、先生がたまに話してくださる聖書の中でも、罪と罰、という言葉は何度も出てきて、わたしは罰を受けないといけない、と強く思ったのだ。
 驚いて彼が口を噤む。たぶん、わたしがあらがうなんて思っていなかったんだろうなとちらとそっちを見やると、困ったような、怒ったような顔でこちらを見ていて、もう一度莫迦が、と言った。
 そう。莫迦だ。こんなところで花壇を荒らしたところでなんの解決にもなっていない。どころかますます手の掛かるようなことをしている。マクスウェルの靴跡をなぞるように踏んでゆくわたしは莫迦だったし、喧嘩の誤解を言い訳せずに、ただ黙りこくって先生をよわらせて、消灯時間を過ぎてから部屋を抜け出し花を全部だめにしたマクスウェルも相当莫迦だった。莫迦な子供ふたりで、そのうちおかしくてかなしくて、けらけら笑いながら花壇を荒らした。月にいぶりだされた小鬼みたいに、泣きべそかいて笑って、足を踏み鳴らし空に吼えた。
 
 
「で?」
 で、という。
 目の前にびっしりと訂正箇所が赤ペンで書きこまれた書類を突き返しながら、マクスウェルが苛々とため息をついた。
「月が明るかったから任務に失敗したとか始末書に書くことか。理由にもならん。この莫迦。」
「ご、ご、ご、ごめんなさい」
 おどおどとしてわたしは受け取り、訂正するよりいっそ最初から書き直した方が早そうな、始末書のやりなおしを命じられて、がっくり肩を落としながら机へと戻る。機関室の一室で、普段はほかに事務局員もいたりするけれど、夜中近いこの時間はわたしと局長の二人しかいない。
 このあいだ任せられたノルウェー北部の小さな町の野良吸血鬼退治、ハインケルといつものように向かって、吸血鬼自体はうまいこと消せたのだけれど、そのあと町の人間に見つかって、警備隊が応援に駆けつける大騒ぎになってしまった。とてもたくさん。そのあともあちらこちらからぶすぶす煙が上がって、局長は当局を黙らせるのにだいぶ苦労したようだ。判っているので口答えしない。口答えしたって、説教がおそろしく百倍になってかえってくるだけなので決してしない。
 額に青筋を立てるマクスウェルは、苛立ちながら、それでも筆の遅いわたしに辛抱づよく付き合って、事務局に詰めている。この間の任務事後失敗についても、小言は山ほど聞かされたけれど、それ以上のことはなかった。
 かわらないなと思う。むずかしくて、思いちがいされやすいままの院にいたころの少年、そうしておかしな部分で辛抱強さをみせるところや、間違ったことをしても必要以上に罰さないところは、きっと誰かに似たのだ。
 しかしお前は相変わらずきちんとした字を書くな。
 うんうん唸りながら始末書を捲るわたしを見やって局長が言った。
 彼は院を卒業し、神学校へ進み、えらくなってわたしたちの上司に収まった。口うるさくて神経質な上司だけれど、極々まれに見せるやさしさの欠片のようなもののせいで、局員の誰からも見放されずに今の地位にいる。
 きちんとした字を書く、だとか、わたし以上にきちんとした字を書く相手から褒められても、まるで褒められた気にならない。けれど彼なりにこれでも部下を気遣っていることになるのかもしれない。不器用なひとだった。
 喋られないことをからかっていた女の子たちは、それぞれどこかの家庭の養女になったり修道院に入ったりしたし、わたしはヴァチカンの人斬り包丁になった。わたしや、ハインケルや、アンデルセン神父までしたがえて十三課の局長におさまる彼は、もっとずっとえらくなってゆくと思う。けれど、頭がいいのも、きれいな言葉を話すのも、本の虫なのも、アンデルセン神父が苦手なのも相変わらずで、だとするとそんなに成長していないのかもしれないし、そう思うわたしのほうがそのままなのかもしれない。
 わたしは今のままがひどく心地がいいから、こうして時々任務があって失敗して怒られたり、成功して褒められたりしながら、時々ははめをはずしてみたり、散歩に行ってショウウィンドウのビスクドォルをながめたり、孤児院へ顔を出して先生の手伝いをしたりできるのがいい。
 天にまします我らの父よ、だからもうすこしこのままでいさせてください。局長が、莫迦がと何遍も言いながら機関員を説教する、今の状態のままで、どうかいさせてください。

 

(Eli,Eli,lema,sabacthani :キリストの死に際した最後の言葉。「汝われを見捨てたまいしや」)

 

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最終更新:2020年08月08日 23:16