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朝からコーヒーの一杯すら飲むひまもなく、右から左から目まぐるしく差しだされるファックスやらメールをプリントアウトした束に目をとおし、電話を四方へかけ、交渉し、即断し、必要な人数を割り出す。どうしてこんなことになってしまっているのかと言うと、中東にしつらえられていたカトリック支部のそれなりに大きな事務所のひとつが、ユダヤ教の糞雑巾どもに襲撃を受け、半壊しただとか言う報せがヴァチカンへもたらされたからだ。死傷者も出ているようだし、現在進行形で拉致されたまま、安否が判らない人間もいくらかいるという。
力には力を。
こうした事件は俺の所属する十三課が、先陣切って飛びこまなければならないのだけれど、最近相手が力不足の、小競り合い程度の、生ぬるい事件ばかり多発していて、あくびばかりで本気を出す機会のなかった機関員どもが、報せを伝え聞いた途端にわれがわれがと色めきだち、まずそいつらを一旦落ち着かせることに苦労した。こちらの顔を見て口を開くのは、ぜひ推薦してくれ派遣してくれとそればかりで、どいつもこいつも言うことが同じだ。俺はいい加減うんざりとして、そいつらをとっとと十三課局室周辺から締め出し、とにかく情報をと言った。初動をたがわぬためには情報が必要だった。
そうして半日、精確に事件の全容を把握し、人員の派遣、現地への連絡、糞ユダヤどもへの宣戦布告もふくめてひとまず指令をすませ、教皇やら各課への通達もすませて、俺はようやく顔を上げ、壁にかかっている色気もへったくれもない事務時計の針へ目をやり、とうに昼を過ぎていることにようやく思い至った。昼と言うには語弊がある、すでに軽く夕方と言ってもいい時間だった。
地下のもぐらもちの営巣にも似たこの十三課局室に窓はない、だったから外の様子はうかがうことができなかったけれど、もううす暗いのだろうなと思った。十二月に入り、日没時間が笑えるほど早い。けれど俺は、早々に日暮れる冬の午後が嫌いじゃあなかった、逆に底抜けに明るい夏の夜に毎年辟易としているほどだった。理由はない。強いて言うなら、いつまで経っても日が落ちず、往来に人も途切れないのがどうにも気のやすまぬこころもちになるから、そんなところだろうか。けれどこうしたものはちゃんとした理由なんて存在しないのだ。
ただ、俺は厭だった。それだけのことだった。
ひとまずの指示をすませたので、その反応が返るまでにわずかに時間があく、息抜きに食事をとりに出ても支障はないと思われた。何人か残る局員へ、すこし出てくると言い置いて俺は部屋を後にする、湿り気を帯びているのにからと乾いた空気のながれる廊下を歩き、階段をのぼり、人気のない裏手門から表へ出た。思った通り日が傾いて、空気がうすら寒くなりはじめている、けれどいくら寒いと言ってもやはり陽が出ているあいだというものはそれなりにあたたかいもので、まだ午後の傾きの残滓があちこちに漂っていた。そのままさっさと生活居住区をゆき過ぎ、一般開放されている、いわゆる観光客ののさばりはびこる表通りを目指す。
うす暗くなりはじめてはいても、ホテルへ戻るにはまだすこし早くもあるし、なにしろ観光客お目当ての美術館やら教会やらピエタやらの公開時間最中でもあったから、人もきらず、俺は縫うようにして適当に目についたカフェのカウンターへ歩み寄った。
煩わしくないのかと、以前このあたりで俺を見かけたらしい機関員からたずねられたことがある。各色、各国籍、各言語が飛び交い、うずまいて、張り切った添乗員の引率、ぞろぞろと連れ歩く学生ども、子供を肩車した親子や、それを呼び込む土産物屋の声、カップルが腕を組み、女が男の腕を胸に押し付けてこれ見よがしと歩く、かと思えば杖をつき腰のまがった老婆がひとり、無心に空き缶を目の前で振り、お恵みをとすがる、向こう側に見える橋のあたりでは、贋作とわりきった鞄だの靴だのをひろげ呼び込むやつらと、抜け目なく周囲へ向けられる警戒心、合間を縫って警官の巡回。それっ。きたぞっ。すかさず商売道具をまとめ逃げ散るそいつら、だらりだらりと歩む警官はもとより取り締まるほどの意欲はないのだった。
機嫌が悪くなければ。
俺はそうした光景をぼんやりとながめているのが存外いやじゃあない。なぜならそうした光景は、みな俺の目の前で繰り広げられていながら、俺とはまったく一切関係のない世界のできごとで、だから俺は光景の中にいるというよりは、一個の白黒のすり切れはじめた映画フィルムを、暗くあたたかな映画館の闇で見ているのと同じような感覚であったのだ。この目の前のできごとと俺のあいだに、一本の糸もわたっていない。それは奇妙な感覚で、おもしろくもあり、たとえば居住区でやすんでいるところを見とめられ、局員だか別の課の人間だか、とにかくヴァチカンに住むやつらの誰か、そいつらが今日はいい天気ですねだとかお世辞追従胡麻擦り近寄る、そうした煩わしさがないぶん、よほど外にひらかれたこちらの側のほうが俺には楽だった。
たしかにカソックを着ている俺を見ると、観光客どもは一瞬おやと関心をしめし、中にはこそこそと仲間うちで耳打ち、なにがいいのかきゃあきゃあと騒いでみせることもあったけれど、それはそれだけのことで、一線を踏み越え俺の側へこようとする人間はいなかったから、やはり俺にとってはこの場末の店、べたついたプラスティックのカフェチェアー、そこへ腰をおろしぬるいコーヒーとかさついたパニーノを頬張る時間と言うものは、わりと心地のよいものだったのだ。
朝からの目まぐるしさと、日暮れの物憂げさが相まって俺はなんとはなしに気がゆるみ、ぬるいコーヒーから立ちのぼるわずかな湯気にぼんやりとする、そういえばきちんとした仕事をこなすのは実に久方ぶりのような気がした。なにしろつい先だってまで俺は、まっとうと呼ばうにはずいぶん間のぬけた、ガキよりも数倍たちのわるい言ってみれば莫迦になっていたわけで、まあそれも俺は人間をやめたくてやめていたわけではないのだけれど、周りのやつらが被害をこうむったことはたしかで、無事に局の椅子に戻れたときには臨時で長を代行していたマクベ司祭が感激し、握手を求めてきたほどだった。つまりしばらくテロリストどもに拉致されたときに打たれた、薬でだめになっていたのだ。
ふた月ばかりゆめとうつつのあいだを行ったり来たりをくりかえし、目がさめたと思えばまた眠くなる、おぼえた端からふつふつと糸がほどけるように記憶がかすんでゆく、そうした状態から回復したはいいが、おかげで孤児院のガキどもの特定の数人にはどういうわけかえらくなつかれてしまったし、そのうえ頭が上がらないことになった。まあだめになっていた間、辛抱強く俺の面倒を見てくれていたのだから上がらないと言えばそうなのだけれど、俺は望んでそうなったわけではないのだから、考えてみれば理不尽な話だ。
そんなことを湯気を追いながら考え、頬杖をつく俺の後ろからよわく服の裾がひかれ、うるさいなと俺は振り払う。ガキの相手はまっぴらだったのだ。振り払い、それがぼんやりとした俺の幻覚ではなく、俺の背後に実際存在するちいさな手だということに唐突に気付いて、ぎくりとし、次いでうんざりとする。おおかた観光呆けの親が目を離した隙に、悪戯好きな落ちつきのない子供が、カソックを着た俺が物珍しいとかで寄りついてきたのだろうと思った。どこのどいつだ、とっとと連れて行け。
いらつく思いで振り向いた俺は、目の前に途方にくれたような顔をしたガキのすがるような目を受けてぎょっとなり、それから慌てて周囲を見回した。
身近にこいつの親でありそうな人間は見当たらなかった。
店の親父が面倒くさそうな顔でくわえ煙草、暗くなりはじめたおもての席を片付けはじめている他に誰もなく、だったら通りかと俺は席をたち左右を確認する、怪訝な顔で親父が俺をながめるので、こいつの親はどこだと俺は言った。
「子供?」
俺の後ろに隠れるようにするガキの体をぐいと前に押しやって、こいつだと俺は言ってやる。
「親父のじゃあ、」
「冗談、俺はこんなこましゃくれた顔のやつは知らない。」
肩をすくめられ、あんたも大変だねェだとか同情をしているようで、勝手に親父は俺にガキをおしつけやがった。たった一言で。
ふざけるなと言おうかとすら思った。
俺はただちょっとした息抜きに外へ出てきただけだったし、局へ戻れば連絡のひとつふたつ、俺の裁可が必要なものも返ってきていることと思う。だから俺はこんなところで子守りをしている暇はなかったし、
「おい、」
はなせというつもりで裾を引くと、逆にはなすまいとする力でぎゅうとそのちいさな拳の内に俺の裾は握りしめられ、二進も三進もいかなくなる、こうなると力任せに指を一本一本開くとか、突き飛ばすとか、脅すとか、とにかく暴力的な行動に出なければはなれまいと思える力で、しかしさすがに人目もあるここで、子供相手に乱暴をはたらくというのは、俺の聞こえはともかくヴァチカン的に考えてどうなのかだとか、そうした余計なところまで俺は考えた。考えてしまった。脇を通りすがる観光客が、あらあらだとかけったくそわるい暢気な声をあげ、お母さんとはぐれちゃったみたいねェ、でも神父さまがいるから大丈夫でしょうよだなんて、どうしようもなく安易な他人事話で過ぎてゆく。
俺はたしかにいまカソックを着ていて、誰が見ても一般観光客ではなく、聖職者と呼ばれるがわの人間であることを装いがしめしているわけだけれども、別に聖職者と呼ばれる人間の内面まで聖なるかとたずねられれば、俺は否とこたえるだろう。
すくなくとも俺はそうだ。
俺は迷子預かりの看板でもなければ、ひと探しの目印でもなくて、ただ十三課をまとめる押しピンの一本だったし、それ以外のなにものにもなる気はなかった。だから実際こうしてガキにすがられることは御免こうむりたい思いでいっぱいで、こんなことなら、多少話しかけられる弊害があるにしてもヴァチカン内部の居住区域にいればよかったかだとか、一瞬でそこまで後悔する。
まいった。
その一語に尽きた。
「……おい、」
しかたがないので俺は俺の隣の席へガキを座らせ、すると見ていた親父が心得顔でコークを差しだしてくる。気にいらない。
持ち合わせがないわけじゃあなかったが、誰がこいつの分まで払ってやるか、睨みつけてやるとおごりだよ、とにやにや返された。
「お前、親とはぐれたのか?」
子供はだんまりをきめこんだまま、うつむく。
「いつはぐれたんだ?」
首を横に振る。
「どこではぐれたんだ?」
横に振る。
「……お前の名前は。」
横に振る。
口もきけないのか、あきれて俺は苛々とため息をつき、それからボトルのキャップを外し、飲めと言った。
じろじろと眺めまわし、せいぜいがところ四つか五つだなと推し測る。性別男。四つか五つにしては、親と離ればなれになって泣きださないだけましと思うしかない。俺は自分に言い聞かせ、子供がボトルへ口を付けるのを横目で眺めながら、懐から携帯電話をとりだし、十三課のホットラインへつなげると、すこし遅れてもどると伝える、それから親父に電話帳を店の奥から持ってこさせ、ヴァチカン市内のインフォメーションセンターへ連絡をとってみた。
迷子の報せがいっているだろうと思ったからだ。
電話越し慇懃な声で応対した受付の人間は、そのような連絡は申し受けておりません、と丁寧でやわらかながらぴしゃりとした物言いでこたえ、終業時間間際の、あからさまに面倒臭いと言わんばかり、俺の電話をあちら側から切りやがった。余計にむっとなる。
しかしそうなると、自分の名前すら口を噤んでこたえないこのガキが、宿泊している観光ホテルの名前をおぼえているものかどうか、そもそもおぼえていたところで、似たような名前のホテルがローマ中にいったいいくつあると思っているのか、ちなみにこのガキがどうして観光客の迷子と俺が判断したのかと言うと深い理由はなく、小奇麗な身なりをしていたからに過ぎない。そうしてこのあたりの店の子供であるなら、親父が知っているだろうし、そうでなくてもこうまで不安げな顔を本人が見せないだろうと思う。
まいった。
繰り返し俺は思い、仕方なくおい、と横のガキをうながすと、席を立つ。店のなかでこうして座っていてもなにも解決しないだろうし、閉店準備の親父はいい加減、こちらが邪魔になってきたようだった。
人通りの多い目につくところ。こいつの親はどうせ、こいつの姿が見えなくなって真っ青になって探しているだろうから、ではこちらがうろうろするよりも、ひとつ処にとどまっていた方が良いように思えた。とすると、寺院の前の広場だろうか。相変わらず黙りこくったまま右手にコークのボトルを持ち、左手に俺の裾をにぎったガキを横にしたがえて、俺はしかたなく広場へ向かって歩き出す。途中すれ違いくすくすと含み笑う観光客相手に、何度かぶち切れそうになった。
サンピエトロ寺院前の広場、有象無象の聖人たちがじっと黙ったまま、はるか頭上から広場へひしめく人間を二百八十の目玉で見おろし、その中心部に高々とそそり立つオベリスク、四方へのびる回廊、ひきもきらない人間ども。
オブジェの根元のあたりへ腰を下ろし、同じように脇へしゃがむ子供へ俺はもう一度目をやる。もしかするとこいつは、怯えやおそれのために口がきけないわけではなく、単純に俺の言っている言葉を理解できなかったのじゃあないかと、そこではじめて思い当たったからだ。それで俺は、イタリア語だけでなく、俺が知っている限りの国の言葉で話しかけてみたけれどやはりガキの反応はなくて、こいつはいよいよ唖か聾かと気が滅入った。さかしい顔で話しかけるガキはいっとう俺が嫌うものだったが、かと言って手持ち無沙汰、だんまりのまま寒空の下いつ来るともしれない迎えを待っているというのも、ずいぶんな話だった。
ふとみると、しゃがんだそいつは両腕を体にまわし、じっと寒さをこらえている。厚手で上物のキルト地の上着をガキは着てはいたけれど、それでもしんしんと足元から這いあがる寒さ。今日はわりと寒いよなあと俺は思い、自分のコートを脱いで横のそいつの体に被せた。柄にもないと自分でも思い、苦笑いが浮かんだ。
きょとんとした顔のそいつが俺を見上げ、それから被せた上着を体の前で合わせて、ちいさな声でグラツィエと言った。
それで俺は、こいつは口もきける、耳も聞こえている、どころか同じ国の言葉の人種なのだと気が付き、もうせんまったく状況は変わっていないのに妙にすくわれた、安心したようになって、急に気が楽になった。
どこから来た、と俺が聞くと、ぼそぼそといくつかの単語をそいつは並べた。子供の頭だろうから、きっと市だとか町の名だとかいう判断もなく、だからガキが言ったのは、俺が聞いたこともない地域だった。そこから来たのかと言うとうんと満足そうに頷く。
「お父さんと、お母さんとだな?」
「うん。それと、弟。」
「そうか、弟もいるのか。」
「うん。神さまを、見にきたの。」
「神さま、なあ、」
まったく手がかりにならない。
神だの天使だの聖人だのの像は、もう市内あちらこちら掃いて捨てるほど目についたし、そのどれを見に来てどのあたりで親を見失ったものか、やはり判らなかった。
俺が黙ると、ガキも同じように黙り込む。
とくに話すこともなかったので、ふたりで黙ったまま、薄暗いというよりはすっかりと暗くなった広場のオベリスク一辺に寄りかかり、動いたことはと言えば、俺がガキに腹は空いていないかと聞き、ガキが頷く、だったので俺は一旦その場を離れ、明かりをつるした屋台へ行って湯気の立つココアとパニーノをひとつ買ってまたガキのもとへ戻ったくらいのことだった。
すこしはなれただけのことで、どういうわけか泣きそうな顔になっていたそいつは、俺が戻るとたちまちほっとしたような目の色をし、そんなに俺を信用していいのか、たとえば俺がなにか悪心をおこして、お前をどこかへ連れ去ってしまったり、そうでなくともまったく人通りのないような場所まで連れて行って置き去りにしてしまったらどうするつもりだ、俺はいつでもそういう風にできるんだぜと、そんな言葉も出かけたが無駄に脅すのもどうかと思い、こらえた。
時計を見ると午後八時を回っていた。観光客の姿もちらほらと見られる程度まで減っている。すると俺はもう五時間近くも、ガキに付き合ってここで時間を費やしていたことになるのだ。
仮にこのままこいつの親が探しに来なかった場合どういった対処をとるか、さすがにもうそろそろ俺は局室へ戻らないとまずいだろうと思えたし、その場合入場資格を持たないこいつは、ヴァチカンの居住区画へは立ち入れない。それは仮令俺が付き添っていても入れない、そう言う決まりなのだ。
警察に連絡した方がいいだろうか。しかし自国のことと言ってはなんだけれど、この国の警察は実にやる気がない、迷子のガキを連れて行ったところで保護してくれるのかどうかすら怪しい、下手をすると連れ帰ってくれと断られる可能性すらある。その場合どうしたものか、誰かほかの機関員をここにやって、こいつの親が迎えに来るまで待たせるか、だとか俺はそこまでぼんやりと考えた。
そのとき、一転、横にしゃがみ込んでいたガキが、ぱっと、被っていた上着を打ち払って立ちあがる、どうしたことだと思わず俺が呆気にとられ眺めると、爛々と目を輝かせてそいつは広場の一角を見ていた、つられて俺も視線を追うけれど、暗闇に溶けて何も見えない。明らかに今までの、うつろいまどう、たよりなくおぼつかない目ではない、知っている顔を見止めた目付き、そうか、おとなには見えない子供特有の視力があるのだな。そんな風に俺は感心した。
ガキがわあ、と唐突に顔をくしゃくしゃにして両手を広げ駆けだす、こらえこらえた不安、恐怖、一気にほとばしった安堵、わんわんと大声で泣きながらガキは走る、そうして自分の子供の姿に気が付いたのか、闇の向こう側からそいつの名前をなんども金切り声で叫びながら走り寄る人間の気配がある。
俺は脇へ落ちた上着を手に取り、何気なくその様子を目に入れる、そいつが飛びつく女が母親だろう、そうして背にそいつよりも小さな体を背負っている男が、父親と弟だ。
母親が崩れるように両膝を着き、胸に子供を抱きしめる、胸へ飛び込み泣きじゃくる子供と同じようにわあわあと泣く母親、そうして腕をひろげて双方を抱きしめる父親と、意味が判らずぽかんとする背の上の弟。
ああ、と俺は息を吐く。白い呼気が空へ上った。
お前には帰る場所があったな。
眺めていた俺の胸に不意に斜めに差し込むするどい針、その刺傷はずくとうずき、どうしたものだと俺はうろたえた。悪いものでも食べたのか、それとも朝からの忙しさのせいか、上着を子供に被せて自分は冷えきったからなのかもしれない。
慌ててオベリスクから離れ、円柱の影に隠れるようにして広場を後にする、とてもじゃあないが、感謝される筋合いではないと思ったし、見つかると色々と面倒臭いことになりそうだった、それに仮に感謝されたところでどうかえしていいものか判らなかった。通りいっぺん、主があなたたちをお守りくださったのだ、日頃の行いが良かったからにちがいない、そうして笑ってエイメンと言ってやればよかったのだろうけれど、そのとき俺は笑えるたしかな自信がなかった。
あのガキには帰る場所があった。
不安で胸をいっぱいにして、しゃがみ込んでひたすら黙りこくり、じっと待つあいつには迎えに来る人間がいた。よいことじゃあないか、あのまま待ち惚けて迎えが来なかったらいったいどうなっていたと思う、だが俺はどうだ、俺が同じように広場で誰か待ったとして、迎えに来る人間などいるものか、いやそう言うことじゃあないのだ、俺は大人で、ひとりで行動できるのだから、なによりあいつは迷子だったけれど俺はここに住んでいて迷子になっているわけじゃあない、俺はただ息抜きに軽食をとりに出ただけのことだ、ちがう、俺はそういうことを言いたいわけじゃない、そうだ俺は途方にも暮れていないし、置き去りにされたわけでもない、目下カトリック支部の奪還作戦に注力すべきで、それ以外に頭を働かせることはないのだ、だからいま俺が抱えているような、どうしようもない憤怒、吐きだし口のないどろどろとした溶岩、そうしたことで頭がいっぱいになりぐるぐるとまわる俺はどうにかしていた、俺の背後で天使さまと俺を探すガキの声がする。天使さま?いぶかしげな声で父親が子供へ言った、天使さまってなんのことだい。
あのね、天使さまがいたの。ずっと天使さまが一緒にいてくれたんだよ。
がんぜない声、声が何度も俺を探して広場を呼ばう、俺はけれどもうそこから離れて建物の影に入っていたから、そいつは俺を見つけられない。そうして足早に歩きながら、聞いたかいと俺は俺に言った。
聞いたかい?この俺が天使だとさ。
おかしかった。くつくつと喉奥で笑いながら俺は居住区画へ戻り、それから礼拝堂の中庭あたりで足を止めた。ここならだれも来ない。
このまま、こんなひどくぐちゃぐちゃのまま、局室へ帰る気分にはなれなかった。
側にあったベンチへ腰を下ろし顔を覆う、頭痛がした。やはり冷えたのだ。寒さのせいだ。だったら早く室内へ戻って暖をとればいい、ここで裁可する俺が倒れては本末転倒な話じゃあないか。
判っていた。判っていたけれど、足が動かなかった。
そのまま体をこわばらせ、身を固くしてじっと息をひそめる、もともとここはたいして人が来ないし、そうでなくともこの寒くて暗いのに出てくる人間はいるとは思えない。だのにじっとする俺の耳に、しっかりとした足取りで、こちらへ向かって歩いてくる音が入って、俺はのろのろと視線を上げ、音のするほうへ眼球を動かした。
俺は子供じゃあない、だからいくら闇へ目を凝らしても、歩いてやってくる「なにか」がまったく判らないのだった。
しかしやがてぬうと図体のでかいそいつが姿を現す、月も雲に隠れてあいにく今日は星明りだけだったけれど、暗順応した俺の目玉は近付いたそいつの輪郭を捕らえた。
舌打ちしたい気分だ。どうしてここに、と思う。
一番見られたくない場所で、見られたくない人間に、よりにもよって弱味をにぎられるのは厭だった。
おそらくは、事態の大きさを見た事務局員の誰かが、独断でこいつを召喚したのだ、それはこの場合間違った判断ではなかったし、俺もことによっちゃあこいつを派遣せねばなるまいなと思っていたから、都合よかった、しかしこうしてめちゃくちゃな気分に陥っているところに居合わせるだなんて最悪もいいところだと思った。
ふてくされ、一語も発してやるものかと心に決めた俺から数歩離れて、そいつは立ち止まり、じっと様子をうかがっている、そう言う仕草まで余計癇に障るのだ。どうしたことだと推し量りかねている具合が手に取るように知れて、俺は苛々と足を組み替えた。
座れよ、と結局俺から言葉を発する。隣に座られることも気にくわなかったけれど、黙ったまま目の前で立ち尽くされている方が、俺はずっと厭だったのだ。
たいして長くもないベンチのぎりぎり端に俺は尻を移動させ、むかって逆の端に貴様は黙って座る。ひと一人分程度の隙間ができたにもかかわらず、息苦しくて俺は喘いだ。
貴様を置き去りにして、中へ戻ってしまおうか、と思う。
けれど立ちあがるのも億劫で、結局俺はまた顔をおさえたまま、貴様もぼうと座りほうけて、互いに黙りこくって時間だけが過ぎ、しんしんと痺れるほどに冷えた。
寒かった。どうしようもなく寒くて、俺は体を両腕で抱える。
畜生もっとあたたかい恰好をしてくるべきだったなと思う。顔をしかめたところに、頭上からいきなりばさと大きな広がりが降ってきて、俺はおどろいて頭を覆い、顔を上げた。
着古された貴様のコート。
デザインもセンスもない、支給されただけのそれ、貴様のにおいが染みついたそれ、どうせなら上物のキルト地だったらよかったのに、かぶせられたのはまるでなっていない固いウールの広がりだった。
ごわごわとして、垢埃じみて、とうてい俺の趣味じゃあない、だのに被せられたそれは、ぬくもりを伴って妙にあたたかいのだ。
腕を伸ばしてみた。ひと一人分の距離は遠くて、わりと懸命に伸ばさなければ俺の腕は貴様に届かなかった。
俺は腕を伸ばし、貴様の服の裾をにぎる、体の前でコートを合わせ、鼻先まで埋めて、それからしかたなくグラツィエと貴様に呟いた。
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最終更新:2020年08月08日 23:17