*

 

 気の合う親友だった。
 正直なところ、相手を男だとか女であるとか、そうした意識をまるでしていなかった。
 ラズと言った。
 皇宮に勤める騎士である。戦場を馳せ、いくつかの軍功を地味にたてたこともあったけれど、近年はもっぱら皇都警備にまわされている。本人の意思というよりは、上官である人間に気に入られているところが大きい。人好きのする性格なのだった。
 彼が任される区画、皇都エスタッドを統括する皇帝およびその皇帝を裏の面からささえる下働きのものどもの出入りする生活居住区、このあたりはいかめしいしつらえのされている表の執政区画とは異なって、どこかのんびりとした、気の抜けた、おだやかな空気が流れているのだった。聞いた話では使われている燭台に灯される蝋の成分まで変えてあるのだとか、はじめて耳にはさんだときは感心したというより芸の細かさにあきれた記憶がある。
 彼に教えた人間も、同じように知り得た瞬間莫迦じゃあないかといった感想をいだいたというから、一般の人間の感覚と言うものは所詮そうしたものかもしれなかった。
 その一般感覚とともに持ちあわせる親友と待ち合わせをしている。
 待ち合わせ相手もまた皇宮に勤める人間だった。けれどどちらも同じ居住区に勤める身とは言え、ラズは歩哨護衛が基本であり、片やエスタッド皇帝の身の回りの世話をする侍従の役割をしていたから、顔を合わせる機会もなかなかすくないもので、見かけたといっても遠目からちらと見止める、お互いに気が付いたらやあと手を上げあいさつを交わす、普段はその程度の距離だ。だからこうして久しぶりに互いの休みが重なり、町へくりだして酒肴のうまい店にでもと言いだしたのはどちらからだったか、相共に思い描いていたかもしれない。
 口に出さずとも通じ合う関係、というのはあるものだ。
 すくなくともラズはそう思っている。
 そうした関係を築ける人間にはなかなか巡りあえず、希少であるということも判っていた。
「ごめん、まった」
 ぼんやりと人の行き交う通りをながめながら、しばらく噴水の前でたたずんでいたラズのもとへ、待ち人がやってきたのは待ちあわせた刻限よりだいぶ後のことだ。
 チャトラと言う名の相手だ。ずいぶん急いだらしく、息切れ、額に汗が浮いていた。時間を守る彼女にしてはめずらしいことで、
「どうかしたのか?」
 そんなに待っていないと常套句をかえしながら、ラズは目の前の彼女のずれた首巻を腕を伸ばしなおしてやる。実際はかなりの時間待っていたけれど、往来を眺めていたので退屈しなかった。だから待たされた感は少ない。
 まるまるひとつぶん下にある彼女の頭は、今日もぴんぴんと癖毛があちこちへ跳ねていた。いや、とくにはなにも、そんな風にかえした彼女がにっと笑う。
「そんなことよか、さっさと店に行こうぜ。腹減った」
 宵の口過ぎて、飯処はどこも混雑している。彼女が目に付けていたといった店はなかでもえらく繁盛で、入り待ちの人間が外にまであふれていた。しまったな、と頭を掻くラズをどうしたのと彼女が振り仰ぐ。
「どうせ待っていたなら、予約しきゃあよかった」
「ああ――……でも、ふたりならもうすぐ、空きそうだよ」
 ほらと指差されて先を見ると、ちょうど勘定を済ました二人連れがほろ酔い気分、なにが愉快なことでもあったかげらげらと肩をたたき合いながらのれんをくぐり、しばらく待つうちにラズと彼女は席へ通された。
「ここ、魚料理がおすすめなんだって」
「へえ」
 所狭しと料理の並んだ隣近所の卓をながめ、壁へ無造作に貼りつけられた品書きと見比べ、注文を取りに来た給仕娘へ、あれとこれとそれと、と適当に頼むと、まずは運ばれたエールで互いに乾杯する。おつかれ、とどちらからともなく声がでて、それがおかしくてふふと笑った。
 今日は昼から休みで、たいして疲れたもなにもなかったのだけれど、癖と言うものは口を衝いてでるものだと思う。
「でも、よかったのか?」
 二、三口飲み下した目の前の親友が、眉尻を下げてラズへたずねる。
「――なにが?」
「アンタ、ようやく休みとれたんだろ。こないだお付き合いはじめた乾物屋の娘にかまってやらなくてよかったのか」
「ああ、」
 言われて一瞬自分の頬が苦みばしるのが判る。そのことがあったから、本日こうして親友を食事に誘ったといってもいい。
「あれな。ふられた」
「は?」
 言うと猫のように丸い目をますます丸く見開いて、ええ、だのわあ、だの言葉にならない呻きを彼女が漏らす。
「だってアンタ、アンタにしちゃあ結構うまいこと言ってたじゃん。こないだはじめてのお泊りだって」
「お泊る前に、ひと騒動おこった」
「はあ?なんで」
「三股かかってた」
 言うとまじかよ、と彼女は目を剝き、信じられねえよなあとラズもぼやいてエールを呷る。
「言われた時間よりすこし早めに行ったんだよ。驚かせようと思って」
「うん」
「ガラにもなく、市場で花束買っちゃってさあ」
「うん」
「戸を叩いたら中から出てきたの、彼女じゃあなくて別の男だった」
 まず頭が真っ白になった。白痴のようにえ、だのあ、だの細切れな言葉しか呟けず、驚きが先に立つばかりで、怒りは湧いて出てこなかった。こちらが驚いたのと同じ量相手の男も驚いて、奥にいた娘を呼ばわり、これはいったいどうしたことだと怒鳴った。どうしたもこうしたもない。青ざめて出てきた娘の顔を見てふたりの男は理解したのだ。
 ああやっぱり、だとか妙なあきらめだけはぐるぐると意識の中を回っていたものの、
「二股ならさあ」
「あ?」
「二股なら、普通、どっちかが本命でどっちかが間男だったりするだろ?」
「うん、まあ、……そうだな」
「三股ってのァ、どうなんだろなあ、間男三本なのかなあ」
 肩をすくめ、どうでもいい愚痴をこぼし、ラズは運ばれてきた料理に手を付けはじめる。酒を含みながらちらちらと向かいの彼女がこちらをうかがうので、平気だよと彼は笑って言ってやった。
「別にもう落ち込んでない」
 朝まで痛飲する儀式は疾うにすませてある。
 地獄も既にみた。
「あ、そう」
「半年で四人に振られて、もうなんというか、悟りの道が目の前に見えはじめた気がする、俺」
 最初は菓子屋の娘。それからパン屋の娘。次に酒場の給仕の娘。四人目が、乾物屋の看板娘だった。指折りしめしてやると、向かいの親友が困ったような怒ったような複雑な顔をする。
 そうして、だからさあ、杯を舐めながら親友が言った。
「もうちょっと堅実なところ狙ったらいいだろって」
「……堅実って、なんだよ?」
「そういう、なんつうか、その、見栄えのする、男の目に留まる、店の子じゃあなくってさ。アンタの同僚ならもう結婚してるヤツだっているんだろ?その嫁さんに誰か紹介してもらうとかさ。皇宮の下働きの姉さんたちのなかだって、いいひとたくさんいるんだぜ」
「でもなあ」
 下働き、そういう風に言われて、まずラズは数人の顔を思い浮かべる。洗濯女だの、厨房の魚菜場ではたらく女だの、居住区画には女性の手が入ることが多い。どっしりとした体格の、もう何人も子を育て上げた母親もいれば、どこかの屋敷へ女中奉公よりは身元のしっかりしている分安心だとまだ青くさい、娘というよりは少女と言える年齢の女も働きに上がっている。
「俺の好みじゃあないんだよなあ」
「アンタ、面食いすぎるんだって」
「そうか?」
「自覚ないんだろ」
「じゃあ、お前、俺と付き合うか?」
「え?オレ?」
 冗談交じりで鼻先へ指を突きだしてやると、きょとんとした顔になったチャトラが首をひねった。
「堅実な相手」
 本人はかなりの無自覚であるけれど、見た目もそれなりに整ってあるとラズは思う。たしかにひとの群れの中にいてはなやかに目立つ相手ではない。どちらかというと、地味な、くすんだ、使いこんだ剣の刃の色に似ている気がした。馴染んだ色。けれどしげしげと眺めると味があり、これもまた悪くはないな、そんな風に思わせる色。
 脇の籠に積まれたパンを手に取り、冗談、言ってチャトラは笑った。
「ラズのこと、オレそう言う目で見たことない」
「俺もないわ」
 チャトラは女でラズは男だ。知り合ってからもうそれなりに時間が経っていたけれど、いまだに互いを異性として意識したことがない。意図的に避けているというよりは、自然にウマがあい、意気投合したのが先で、連れ立って出かけるだけで楽しかった、だからそれ以上の、男と女の関係に進もうとする発想がまるでわいて出てこなかった。
「オレ、たまに自分が男だったらよかったのにって思うことがあるよ」
 二杯目のエールを注文しながら、彼女が笑う。どうして、といぶかしんでラズが眉を寄せると、煩わしいことあんまりなくなるだろうと言われてしまった。
「煩わしい、なあ」
「同じ男だったら、もっと、判りあえることもあるのかなって思ったりする」
「そういうもんかな」
 現状で何も不自由を感じていなかった彼は、目をすがめてかえす。
「たとえば?」
「美人は三日で飽きるとかさ」
「飽きるかな」
「飽きるって世間じゃあいうだろ」
「飽きるかな」
「飽きないよなあ」
 ああやっぱり、だとかしみじみ呟いて彼女は二杯目のエールに口を付けた。
「だってオレ思うんだけど、皇帝ってさ、わりときれいな顔しているだろ」
「……わりとっていうか、えらい綺麗だろうが」
 同じように二杯目に口を付け、ラズは仰け反りおおぎょうに溜息をついてみせた。
 あまり間近に立ったことはないし、近付いたところで面と向かって相手の顔を見られる立場になかったから、ラズはエスタッド皇帝の顔を警護していながら実際はおぼろげにしか判らない。しかし、そのおぼろな中にも同じ男とは思えない、凄みや艶やかさのようなものは感じとれていたから、
「女には見えないのにな。でも男かって言われると、男ってああいう風にいつまでたっても綺麗にいられるものだろうかと思う。普通もっと、こう、オッサン染みてくるというか、脂浮いてくるっていうかさ。ヒマなときに鼻毛一本ずつ抜いて机の上に並べるとか、絶対やりそうにないもんな」
 そう言うとそうだろうと大まじめに頷かれてしまった。
「オレ、あのひとと会ってからもう結構長い付き合いになるけど、眺めてる分にゃいまだに飽きないし、三日で飽きるのってあれ、嘘だと思う」
「ブスのひがみだろ」
 ラズが言うとおかしかったのか、口に含んだ酒を彼女は吹きだしかけ、それから目端に涙をためるほどに腹をかかえて笑った。
 
 
 したたかに酔い、互いに肩を組んで外にでると寒月は中天にかかり、吐く息は白かった。結局あのあとラズのご破算四人目記念の乾杯になった。ずいぶん愚痴をこぼした気もする。酔いが半分、寒さが半分で、互いに身をすり合わせるようにして来た道を戻る。町の中央寄りにある宿営舎へラズは戻るつもりではあったけれど、先にチャトラを皇宮へ送るつもりだった。相手を女だと特別認識したことはないにしても、ひとりで帰すわけにはいかない。真っ直ぐにゆけば半刻余りのたいしたことのない距離だ。
 真っ直ぐ歩ければ、の話だが。
 遠くで鐘楼の鐘が鳴っている。飯処の建ちならぶ繁華区画を抜け市場の通りへゆくと、人通りもまばらになり静けさが漂っていた。このあたりの繁忙は毎暁から昼までで、それをすぎるとすべて店じまいし、商い人は明日の準備だ。夕暮れ前にはいなくなる。あとは買い物帰りの婦人が立ち話に花を咲かせたり、子供がかくれんぼうや鬼ごっこに興じる広場になる。
 夜もふければ酔客以外に通るものもない。
 鼻歌交じりに隣を歩いていたチャトラが不意に段差に躓き、同じように足元がおぼつかなかったラズもつられてたたらを踏み、ぐしゃと無様に崩れた。弾みで上に圧し掛かり、痛い痛いと彼女が笑いながら喚く。彼自身そう大柄な方ではなかったけれど、より小柄なチャトラにしてみれば、結構な重さだったのだろう。すまんと手をつき起き上がろうとしたラズのその腕をおさえて、
「なあ」
 低い声でふとチャトラが呟いた。
「あ?」
「キスしようか」
「……は?」
 なにを言ってやがる、こいつはまたずいぶん悪い酔い方をしたものだ、そういう思いであきれて彼が見下ろすと、見上げた彼女の目は真っ直ぐにこちらを向き、笑っていなかった。
「……冗談」
 酒場で彼女が呟いたのと同じ台詞をかえし、なぜか強張ったほほを歪ませてラズは無理に笑う。
「お前のこと、俺そう言う目で見たことない」
「だよなあ」
 呟いた瞬間と同じようにまた唐突に彼女の眼元がゆるみ、だよなあ、だよなあと繰り返し立ちあがる。ゆらゆらと揺れる体を先と同じようにまた互いに組ませながら歩き出す、けれど、頭ひとつ下にある彼女の口元からどういうわけかラズは目が離せなくなった。
 女と意識したことはなかった。所属する隊の男連中と同じ感覚で、莫迦を言ったり無茶をしたりしながら笑いあう、そんな関係が楽しかったから、それ以上をのぞまなかったし、それ以上があると考えたこともなかった。
 だのに冷えたのかぺろと舐めた唇が妙に気になってしかたない。キスしようか。たしかにここで彼と彼女が抱きしめあっていたところで、年恰好、なにもおかしいことはないのだ。連れ立って出かけるたびに、店の人間からは可愛い彼女さんだね、言ってからかわれる。いちいち否定するほどまめな性格ではなかったので、あいまいに笑って誤魔化した。
 けれど他の人間からは、つねにそう見えていたということだ。
「それに、俺、お前に手を出したら死ぬ気がする。言葉通りの意味で」
 若干本気交じりでラズは言った。彼女へ目をかける最大の人間は、エスタッド皇帝そのひとで、皇帝がチャトラを猫と呼び、部屋へ戻ると片時も離さないような熱心ぶり、執着ぶりは遠目からでも実際よく判っていたから、
「俺まだ命が惜しいし」
「うん」
「お前だってあの方のこと」
「うん」
 そうだよ、言って彼女は笑う。にいと口角が上がる唇。
「キスしようか」
 もう一度チャトラが呟いた。矛盾している。そう思い、それで良いような気がした。頭の中がどくどくとなり、目眩む、ぐいと引き寄せた肩がひどく細くて、そこで初めてラズは、目の前の彼女が、その通り「彼女」であるのだと、決して莫迦騒ぎをする宿営舎の騎士仲間とはちがう、彼女は女であるのだと自覚した。
 頬に手をあてるとこちらをふわとした瞳で見上げていたチャトラの目が細められる。瞳に月が映っていた。吸い寄せられるようにして顔を寄せる。酔っているのだ、だったら酔っている勢いで唇を重ねてしまっても、何らおかしいことはない、なぜならお互いに冷静な判断ができないのは当たり前のことだ。別に嫌いじゃあなかった、むしろ好ましい相手だった、ただ今まで「そう言う目」で見ようとしたことがなかっただけで、実際どうかとたずねられたら、ラズは可とこたえたと思う。
 彼の袖をにぎっていた彼女の手がぎゅうと縮こまる、震えすがってくる動きに、目の前の彼女のこと以外何も考えられなくなってしまう、なあ、とラズがたしかめるように囁くと、うかがっていたチャトラの瞳がとうとう閉じられる。
 睫毛の先に光がこぼれる。
「やめた」
 触れるか触れないか寸でのところで彼は興味をなくし、つとからだを反す。やめた。きつく目をつぶり俺は莫迦かと舌打ちする。ぱんとみずから両頬を張った音に、瞑られていたチャトラの瞼がゆっくりと開き、ぼうとこちらを見た。
 どうして。
 猫の瞳が問うていた。
「オレ、魅力ない?」
「そういうんじゃあない」
 乱暴に彼女の腕を掴み、おのれの首にまわさせて、ラズはまた皇宮を目指して歩きはじめる。
「さっさと帰らないと風邪ひいちまうぞ」
「オレじゃだめ?」
「うるさい。おら、歩け」
 むきになって右、左と足を交互に前に出し下を向いて歩くラズに、オレじゃだめ、ともう一度チャトラがたずねた。
「だめもなにも、いいに決まってんだろ」
「じゃあ」
「お前、どうした」
 ぶっきらぼうにたずねる。あえて顔は見なかった。揺れる彼女の面差しを見てどうしたらよいのか判らなかったし、自分は真っ赤になっているにちがいなかった。
「どうって」
「お前今日おかしい」
 やけにはしゃいでいた。ちょっとしたことで面白がって目を見張り、大いに笑った。大丈夫かと心配するほどよく飲み、食い、饒舌になった口はノリがよく、たいそう喋った。
 けれど最初の、待ち合わせの場所に駆けてきたとき、彼女の瞼がすこし腫れていたことにラズは気付いていた。気づかないふりをして見過ごしたけれど、時間に遅れてきたことも含めてなにかあったのだろうなと思う。
「悪いな」
「……なに、が」
「俺の愚痴ばっかり付き合わせた」
「別に、オレは」
「陛下となにがあった」
「――」
 言ってやると口を噤む。ああやっぱりそうか。苦いような、微笑ましいような、あいまいな気分になってラズはちいさく笑う。
「来る前になにかあったんだろ。じゃなけりゃ、お前は遅れてこない」
 時間を守るどころか、先に待ち合わせ場所に来ているのはチャトラだった。聞くと四半時足らず前にはきているのだという。待たせるのはいつも自分で、待ちわびた彼女が自分の姿を見止め、ぱっと顔を輝かせる、それが互いのいつもだった。
 仮令直前まで忙しくしていても時間より早く来る彼女が、朝から休みをとれたと言っていた彼女が、どうして遅れるかと、
「喧嘩でもしたのか」
「してない」
 うってかえった言葉に続けて彼は苦笑する。ほら、鎌が当たった。
「喧嘩にもなってない。オレが一方的に言って、終わり」
「ふうん」
「――あのひと、ここ二、三日体の具合あんまりよくなくて。発作とかはないみたいなんだけど、目が」
「ああ、」
 エスタッド皇は時折視界が切れるのだと、ラズはチャトラから聞いたことがある。内臓疾患のどの部分が悪さをしているのか、そもそもどこもかしこも傷んだ体なのだから仕方がないのだけれど、
「前はね。見えないって言っても、半日くらいで、こんなに長く続いたことなかった」
「――うん」
「ほとんど見えないんだから大人しく寝てりゃあいいのに、平気だって言って、起きあがろうとして、でも目は見えないし、全然ひとりじゃ動けないんだ」
「うん」
「怒ったんだよ、オレ。ぶつけたり、ひっくり返ったってあぶないし、オレもう出かけるところだったから、大人しくしてろって言ったら、あのひと、オレに浮気して来いって真顔で言うんだ」
「――」
「オレ最初、嫌味か、からかわれているのかって思ったんだけど、あのひと本気でそう言ってた。自分はじきにいなくなるから、次の相手を探しておくにはよいねって」
「――」
「オレ、莫迦いうなって怒鳴って、じきにいなくなるとか、なに考えているんだって言ったんだけど、あのひと全然ふざけた様子じゃあなくて、自分はお前をひとりにするから、そう言った。ずっと一緒にいてやれないから、だから」
 ぐうと呻いていきなりチャトラがこぶしをまぶたに当てる。莫迦じゃないの。莫迦じゃないの。笑おうとした先から、声が湿りくぐもった。ラズは静かに彼女を見おろす。
 ずっと、
「一緒にいてやれないとか、どれだけ上から目線なんだって話だろ?笑っちゃうだろ?なにさまなんだよってオレ言おうかと思ったんだけど、でも言えなくて、なんでそんなに優しい顔しているのか判らなくてぐちゃぐちゃになって」
 ずっと一緒にいたかった。
「……泣くなよ」
 慰め方を知らなかったので、結局どうにも慰めになっていない言葉しかラズの口を衝いてでてこない。これが女に好かれるかどうかの際なのかもしれないなと、そんな風にも思った。
「泣いてない」
 泣き声でチャトラがかえす。
「泣くなって」
「泣いてないって言ってるだろ」
 泣くな、泣いていない、そればかりをくり返して皇宮へ歩く。ほかに言葉を知らない。それでも幾分かは慰めになったようで、鼻をすすり、やがて皇宮につくころには、足元のあやしい彼女はさっぱりした顔になっていた。
 裏門の衛兵に挨拶し、ラズもそこで自分の寝床へ戻ることにする。行きかけたチャトラがふり向いて、
「自棄酒」
 言った。
「うん、?」
「付き合わせちゃってごめん」
「愚痴はお互いさまだろ」
「……そっか」
 おかしそうに笑う。まだすこしたよりない笑顔の気もしたけれど、先だって見せた揺らぎ崩れる顔より相当ましだとラズは思った。
「ちゃんと寝ろよ。明日は仕事なんだろ」
「それもお互いさま」
「そうか」
 かえされて彼も笑った。それから思い付いて彼は言う。
「今度」
「え?」
「今度また、飲みなおしに行こうぜ。うまい店で。おもしろおかしく」
「うん。いいね」
「愚痴は一切なしの方向で。五人目の成功話に、乾杯したりして、いい酒飲んで、食って、歌って」
「うん」
「それで、しこたま酔ったら、勢いと雰囲気に押されて情熱的なキスしよう」
 冗談めいて肩をすくめると、篝火に照らされたチャトラが一瞬不思議な笑みを浮かべ、
「いいよ」
 目をすがめる。こちらを推し量ろうとする表情にぞくぞくとした。

 

 

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最終更新:2012年12月04日 11:03