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 顔を見てはじめて、俺はもうずいぶんと長いあいだ貴様と面していなかったのだなと気がついた。おや、という程度の驚き。仕事がたてこんでいて忙しかったのもある、それとわりに直接は会わずとも、報告書であったりほかの人間からの噂の延長線上にあらわれたりで、実際会っていなくても必ずどこかで名前は聞いた。言ってみれば当たり前のことなのだけれど、特務局を管轄する人間同士、現場へ指示を飛ばす俺と、現場の中央責任者である貴様は、仕事をしていれば日々どこかに名は散らばる。
 それでもこうして顔を合わせるのはほんとうに久しぶりだった。今日より前に見かけたのはいつだと思い、ざっと反芻して、それが実にふた月ぶりだということに気がつく。
 だのにまず顔を見て俺が思うことと言えば、とくだんに懐かしいだとか、無沙汰していた感慨は一切なくて、鬱陶しいなと、あいかわらずでかい図体でのっそりと佇むさまが邪魔でしかたがないとそればかりで、まっさきに苛立つのだからどうしようもない。遅れてああ俺は何でこいつと待ち合わせをしたのだろうだとか言う後悔もついてきた。詮方ない。いっそ顔に出ないように取り繕うのがひと仕事だ。
 顔を上げ、近付いた俺を視界に入れた貴様に、行こうかと俺は言う。
 待ちあわせた時間より三十分ほど遅刻したことは知っていたけれど、待たせた、だとか遅れて悪いな、だとか謝るだの相手の機嫌うかがいだのする気は、毛頭なかった。これが俺の手違いであったら(たとえば時間を忘れていたとか)、それでもすこしは殊勝な風に見せないでもなかったけれど、どうしてどうして、出かける準備も整え、外套を羽織った俺を引きとめたのは十三課直通のホットラインで、それも教皇直々の指示を含んだものであったから、コールが聞こえないふりをするわけにもいかず、受話器をとってしまえばほかの手の空いている局員どもにおしつけるわけにもいかず、結局そのあとコール内容をまとめ、簡素な指示を出し、三時間後には戻るからと泣きを見せる局員どもを引きはがし、約束を取り付けて、足止めを食って三十分。
 短時間でよくまとめた、抜け出せることができたと逆に褒めてもらっていいくらいだと思った。
 待たされた貴様はとくに気分を悪くした様子もなく、遅れた俺を責めるでもなく、頷き、俺よりすこしうしろに離れてついてやってくる。
「あのな。」
 俺は言った。
「今日は護衛の仕事じゃあないんだ。そんな具合に斜めうしろに立たれたら、歩きにくくてかなわない。」
 視界に入ることはなくても、背丈があるだけで存在感と言うものは結構あたえるもので、それがたとえば、素行の悪い辺境の司祭を弾劾する場合であったり、治安の悪い南あたりの裏通りあたりを歩く場合であったりは、その無駄に大きい体は心強いものではあるけれど、こうしてただの買い物がてらに護衛気分で定位置におさまられては、気になってしようがない。
 横をさし示すと、片眉を上げ、しばらく考えた末に貴様は俺に並んだ。しばらくの間のところで、なにを考えていたのかはだいたい判っている。どうせ、俺の職務内容的にうすら昏いものが多いものだから、ヴァチカンのお膝元ローマの市内だとしても決して気を抜けるものではない、万が一と言うものがあったときに、判断が遅れてなにかあったらどうするのだとか、なんとか。
 もちろん用心するに越したことはないことに一理はあるけれど、そんなことを言っていては、それこそ俺はヴァチカンから一歩もひとりで出歩くことができなくなるわけで、就業中ならともかく、プライベェトな時間まで護衛を引き連れて、ここに名のある司教が歩いていますよと首看板、ちんどんよろしく宣伝して歩く趣味は俺にはなかった。
 横に立たれると視界に入る分、いっそう鬱陶しさが増して俺はしまったなと思う、そもそも貴様がやたらに縦にも横にも存在感があるせいで、並んで立つ俺が見比べられて華奢だのちいさいの評されることに俺は我慢がならない、貴様がず抜けてサイズの比率がおかしいせいで、人並みな俺が軽視されるのだから厭になる。だったらやっぱりすこし離してうしろからついて来させてやればよかったかもしれない、けれど俺が貴様の姿を見ていないのに貴様が俺を見ているという図もなんだか厭だった。落ち着きなくふらついて、迷子になる子供じゃああるまいし、そう思う。
「引きとめられたんじゃあないのか、」
 俺は言った。
「……はい、?」
「院。ガキどもに。どこに行くのかって。」
 ああ、といらえて貴様が薄く笑う。笑う端から白い息がコートの襟越し、宙にのぼった。
「連れて行ってくれと最初は強請られましたけれどもね。」
「だろうなあ。」
 フェルディナントルークス孤児院へ派遣されている教誨師の面々の中でも、いっとう抜けてこいつはガキどもに人気があった。むかしからそうだ。おそらく、元来のおだやかな、静かな物言い、叱ることはあってもそれはあくまでも諭す言い含みで、決して激さない、そうしたところが好かれる要因のひとつではあるのだろうけれど、そうした細かい部分はどうでもよくて、単に図体がでかいからだけじゃあないかという気もする。大人になった今ですら貴様が大きいと感じるのだ、まだ体の成っていない子供からしてみれば、それは目の前にひと山あるようなもので、ずいぶん登りがいがありそうだ、しかもまとわりすがりついても笑って許してくれるのだから、動くアスレチックと変わらない。飛びつき、跳ねまわり、こいつの周囲はいつでもガキどもであふれかえっている。
 俺はそうした光景をえらくたくさん見たことはあったけれど、実際自分が動く遊具で遊んだかというと、さっぱり記憶にない。あまり思いだせないけれどたぶん、ばかばかしいとそんな風に思っていた。
 親身なふりをして結局どいつもこいつも他人じゃあないか。
 そう思う。
 院へ放り込まれた子供は必死になって疑似餌に食いつくけれども、それは所詮擬似でしかないのだった。家族のようなもの。親のようなもの。兄弟のようなもの。その結びつきがどれほどのものか俺は知らない。
「マクスウェルとね、」
 不意に貴様の口から俺の名前が出て、俺はどういうわけかぎくりとして貴様へ顔を向ける。
「え?」
「聞こえていませんでしたか。マクスウェルと待ち合わせているのだと言ったら、わりにあっさり解放してくれたんですよ。」
「どういうわけだ。」
「さあ、なにか子供らのなかで線引きがあるんじゃあないですか。おとなには判り得ない判断基準、独特の価値観で彼らは動いていますからね。」
「そういうもんか、」
「あなたも。」
 あなたもそうだったでしょう。聞かれて俺は肩をすくめる。どうだか、とこたえた。
「忘れた。昔の話だ。」
 肩をすくめたついでに首元のマフラーを引き上げ鼻をうずめる。ひどく寒かった。流し読んだ朝刊の天気欄には、最低気温本日五度、そう記されていたけれど、体感でみて五度もない。重く低くたれ下がった雲、寒気をまとめて呼びこんでくる風、雪でも降るんじゃあないか。そんな風に思う。
 俺が身を強張らせる横で、普段と見た目のほとんど変わらない貴様は、首にマフラーもなく、ウールとは言えたいしてあたたかくもないコート羽織った一枚で、けろりと平気な顔をしているのだった。再生儀礼を受けると、寒暖の感覚も鈍るものなのだろうか。それとも単にこいつが鈍いだけなのだろうか。
 そんな俺を見やって、寒そうですねと見たまんまの感想を口にするのだから、いっそ黙っていればいいのに脛でも蹴りたくなった。寒がっている俺がおかしいみたいじゃあないか。歩きながらすれ違う相手の着こなしを見れば、こちらが正常で薄着の貴様が異常だということは誰の目にも明らかで、それに俺だって着膨れるほど着込んでいるわけじゃあない、馴染んだカソックの上から厚手のコートとマフラーをつけている程度で、それで相手から俺がずいぶんと寒がるように評されるのは気にくわない。
「寒いのが正常なんだ。」
 流せばよかったのに、どうしてかむきになって俺は言う。
「私は人間だからな。」
 言うと聞いた貴様がほんのわずか反応する、表情を動かし、困ったような、俺を扱いかねるような、そんな顔になった。ちらと眺めてああしまったと俺はまた思う、べつに貴様を人間あつかいしていないってことじゃあない、貶めるつもりはなかった、ただどういうわけか俺の口が勝手に悪態をついただけで、本意じゃあなかった、そういう風に言い訳ようとしたのだけれど、こわばった口はうまく動かない。俺は咳払いし、
「菓子でいいよな?」
 そうして代わりに別の言葉でごまかした。
 そもそも仕事の合間に貴様を呼びだして待ち合わせたのは、どうしたって気がかりな用事を済ませないではいられなかったからだ、そうでなかったらこうしてふたり、十二月の飾り付けににぎわうローマの町中を歩くなんて、益体もないことを俺はしない。
 どういうことかと言うと、すこし前まで、俺はフェルディナントルークス院の世話に個人的な理由でなっていて、それはべつだん俺が希望したわけではなかったのだけれど、糞テロリストどもに盛られた薬で、思考回路をやられておかしくなった俺を押し込めておけるところが、結局ヴァチカン周囲でそこしかなかったということなのだと思う。ホスピスでは聞こえが悪かった、癲狂院ではメディアにすっぱ抜かれるおそれがあった、けれど普通の病棟に入れておくには俺は四肢の自由がききすぎて抜け出すかもしれなかった、監視の目がいきとどいて騒ぎにならず、万一復調できるとしたら問題なくまた職場に戻れるような場所。
 選ばれたのが孤児院で、ちょうどそのころ貴様は留守にしていて院に居ついてはいなかったのだけれど、おかげでガキどもに妙になつかれ、いくつか借りもつくった。俺は、こちらの都合をまるで見ないふりでおのれの欲求だけを押し付けてくる子供と言う部類がどうにも苦手であるけれど、駄目になっていたあいだ世話になったことはたしかで、借りを作ったまま返さずにそのまま放置しておくのは尻座りが悪い。かといって、やあどうもとにたにたひとの善い笑顔を浮かべて一人一人に握手して回る、そうした柄じゃあないことは判っていたし、そんなことをするくらいだったら、厳寒のテヴェレ川に素っ裸になって飛び込んだほうがましだと思った。死んでもいやだ。
 けれどちょうど暦は十二月、年に一度の、たいして日ごろ関係のない人間が、たいした用もないのに、雰囲気に浮かれて贈り物を渡すにはいい機会で、だから俺は、世話になった口実でクリスマスのプレゼントを院のガキどもに送りつけ、それで清算してしまうつもりだった。貸し借りゼロ。ついでに感謝されるおまけもついてくるだろうから、悪い取引じゃあない。
 貴様と待ち合わせしたのは、べつに子どもの好みがどうのと俺が殊勝にうかがいを立てるためでは決してなくて、単にかさばる荷物を持たせる相手に丁度良かったから、その一言に尽きた。それに貴様に言づけておけば、うまい具合に脚色したやさしく親切な俺、の長口上とともにガキどもに包みを渡してくれるだろう、そうした算段も含む。
 菓子でいいよな?俺はもう一度聞いた。確認というよりは、俺はそうすることに決めたからという事後承諾のつもりだった。
 一応ほかにも候補をいくつか考えないでもなかったけれど、おもちゃだとかいったものだと、全員に、まんべんなく、平等によろこばれるものを考えだせる思考の柔らかさを俺は持ちあわせていない。孤児院の子供は「特別」の言葉に餓えている。俺は実際その中にいたから、あいつらがどのぐらいかつえた具合にあるのか、とてもよく判った。
 なんでもいい、たったボタン一つでも、ひとと違ったものがいい、誰も持っていない自分だけがいい、だから男女別だとか、年齢別にものを買い与えるとなるとこれはとても気を使うことで、いちいちあれは良いだのこれは駄目だの、院に勤める教誨師へ確認をとることはまっぴらだった。面倒くささ極まりない。
 洋服だの防寒着も、それぞれのサイズをいちいち調べるのは骨が折れたし、色だの、かたちだの、そこまで気を配る細やかさは億劫だったから、そうするとそれなりに安価で、量があり、年齢性別に関係なくひとしく行き渡らせることができる、そうして口に入れてしまえば何も残らない。あとくされなくて結構だと思った。
 いいのじゃあないですか、そんな風に貴様は言った。喜ぶと思います。
 そうかと俺は頷く、頷きながらメトロの階段を下る、改札を通り、A線に揺られて五分、それからB線に乗り換えて、ショッピングストリートの近くの駅を目指す。貴様はだまってついてきた。
 安価と言う点で言えば、ここまで遠出せずに最寄りのスーパーで済ませてしまうこともできたけれど、さすがにそれはどうかと思った。沽券的な意味合いで。
 それで俺はショッピングストリートの、適当に見繕ってあった店に入り、横に立つ貴様にかごを持たせた。はいった店の暖気でほっとする。歩いてくる間にすっかり体はこわばっていた。振り仰ぐと、貴様の眼鏡が白く曇っていてすこしおかしい。
 それから、棚に並ぶチョコレェトだの、クラッカーだの、色とりどりな棒キャンディ、ちいさな砂糖菓子。かたはしから目についた商品をかごに放り込んで、二十三だったな、と貴様にたずねた。現在院に放り込まれているガキどもの人数だ。忘れるような数字ではなかったけれど、あれからしばらく経っている、ひとりなりふたりなり増えたりしていたら、買いに来るだけで二度手間だと思った。
「はい、?」
「数。ガキの数。判れよ。……二十三人でよかったのだな、『先生』?」
 数の単位で察しろと俺は思うのだけれども、どうにもこの男は、勘が良いのか鈍いのか、いまひとつ判らない。ぽんぽんとかごに菓子をほうりこみながらたしかめると、ああそうですとかえされた。
「わかった。きっかり二十三だな。」
 二十三。庇護する腕をうしない確実に途方にくれている子供の数。
 もっとも、親がいたところで、そいつがかならずあたたかみのある家庭ってわけじゃあない、だったら孤児院へ入れられてからあとの方がずっとましな生活もあるように思う。
 すくなくても、俺は。
「マクスウェル、」
 ガキどもにくれてやるプレゼントの吟味をするつもりもなかったので、適当な量をそろえるとレジカウンターへかかえてもってゆく、さすがに二十三人それぞれに一種類ずつの量ともなると三かごほどになって、貴様がふたつ、俺がひとつ、かかえて進んだ。十二月の商戦真っ只中のレジカウンターは存外混んでいて、清算はともかく、ひとつひとつのラッピングを頼むと、一時間ほどかかると忙しいなかで弱った顔をされた。一時間、ここからまた戻る時間を含めると、局員どもへ言い置いてきた時間をすこし過ぎることになるなとちらと思ったけれど、素のままかかえて、ちまちまと部屋でラッピングする趣味も暇も俺にはなかったので、時間をつぶして待つことにする。菓子の山をあずけて、さてどこを冷やかして歩こうかと思い巡らせた俺へ、そうして貴様が声をかける。
「うん?」
「時間があるなら、勧められたバールがあるのですが。」
「バール。」
「なんでも、最近オープンしたばかりなのに、人気ということですよ。」
「……へえ、」
 貴様の口からそうした台詞がでてくるとは思わなくて、顔に出すことはなかったけれど、俺は結構驚いた。なにしろ貴様が道の端あたりに腰かけて、屋台で買ったパニーノだのピッツァだのに食いついている姿は容易に想像ができたけれど、洒落た流行の店にゆく、という図がどうにも似合わないと思ったからだ。考えてみただけで笑ってしまう。調べたのかとたずねると、院へ顔を出す業者との世間話で知ったと言った。
「ためしにヴァチカンのシスターに名前を挙げてみたらですね、知っていましたよ。彼女たち。」
「へえ、」
「女性に人気のバールだということですよ。」
「へえ。」
 ではずいぶん小洒落た店なのだろうな。
 そうした店に男二人で入ることに抵抗がないわけではなかったけれど、好奇心が三分の一、貴様がそうした情報を仕入れていたという関心が三分の一、それと、どうせだったら安くてぬるい屋台のそれよりもうまいコーヒーが飲みたくなったのが三分の一。
 街路樹に施されたクリスマスの飾り付けをながめながら、俺は先導する貴様の横について道沿いに立ち並ぶウィンドウガラスの中をのぞき込み、それからしばらく歩いているうちに、赤と桃色の立て看板が目に入って俺は顔を上げる。貴様はそこで足を止めていた。
 え、と声が漏れた。
 いや、ちょっとまて。ここに入るのか。
 たしかに、女性に人気の店だと聞いたときから、ある程度可愛らしい見た目をしているのだろうなとは思っていたし、この際相手が貴様でもそれはいいかと納得もしたけれど、それにしても店構えの目立ったつくりがカントリーカラー調の、しかも色彩が白と赤と桃色。形も色もよく整えられていて、メイン三つの配色にしても、趣味の悪さやけばけばしさを感じさせないつくりになってはいたけれど、それでも、こぢんまりとした、細い木枠組みの木戸をあけるには、だいぶん俺と貴様では場違いに過ぎて、
「おい、」
 待て、俺が制止するより先に、わりに早い身のこなしでためらいもなく、貴様は店の中に入ってしまった。
 えええとした思いで、もう一度表のつくりを見回す。ほうけて眺める俺の脇を、女性二人連れが談笑しながら入店してゆき、店の前でうろたえ、躊躇しているこちらが逆にみっともないぐらいで、しかたないと観念した。貴様が入店する前に呼び止めることができなかったことが、最大のミスだ。
 気恥ずかしい思いで店に入った。
 いらっしゃいませと女性店員の声、それからほど良く温められた室内、新築の木造とコーヒーの香り。外観よりもよほど内装は落ち着いていて、すこし救われた気持ちになる、俺は顔を上げ、先にはいった貴様が座席へ案内され、ちんまりと座っている姿を目に入れ、店内と貴様のアンバランスさに思わず笑いを誘われた。笑うしかなかったというのも結構ある、なにせ俺も浮いていると自覚はあるけれど、貴様はそれ以上だ。
 店内の装丁は女性客をターゲットにしているだけあり瀟洒で、すべてにおいて細くたよりない。猫足、三本の丸椅子は、貴様が座るとひどく不恰好で、窮屈で、同じように猫足で配置されているちいさな丸テーブルをはさんで、貴様と向かいあわせになるのだと気付いた途端、俺はうんざりとなる。冗談じゃあないと思い、けれど冗談ではなく貴様はえらく真面目な顔で座っているのだった。
 いやしかし、その椅子の耐重量は大丈夫か、頻繁に訪れるだろう女性客と貴様では重さがふたまわり強ちがうと思うのだ。
 毒食わば皿まで、という言葉がある。この場合俺はやはり食わないといけないのだよな、なぜならいらっしゃいませと迎えた店員が、なかなか動こうとしない俺を見て、どうしたもんだと思案しているのが判るから、俺はどうにも貴様とテーブルをはさむことに我慢がならないけれど、ここで店の人間に迷惑をかけるのもどうかと思う。それで仕方なく進み、向かいの席へどかと乱暴に座った。
「ご注文はいかがなさいます、」
「……カプチーノ。ふたつ。」
 品書きを見るまでもなく俺はこたえる。
 べつにあたたまるなら、そうして時間が潰せるならなんだって構わなかった。貴様の口をはさむ隙をあたえず、俺はぶっきらぼうな口調でそう言って頬杖を突く、突きながらふと、かしこまりましたとこたえた彼女がいまだに横に佇んでいることに気付いて、なんだと視線を向けた。
「あのう……、ただいま、カプチーノをご注文のお客様に、ラテアートを無料でお付けしておりまして、」
「は?アート?」
 コーヒーを飲むのとアートだとか言いだした関連性が判らなくて、俺が眉根を寄せて彼女を睨むと、店員はおどおどと視線をさまよわせる。そこへぼそりと、ミルクの泡の上に絵を書くのだそうですよと向かいの貴様が言った。
「絵?泡の上に?」
 想像がつかない。
「そうなんです、それでご希望のイラストがございましたら……、」
「ない。」
 腹に入ればたいした違いはないだろうにと思う。食事を目で楽しむ、それはたしかに一理あるけれど、たかだかコーヒー一杯に俺はそこまで求めないし、女子供ならともかく、イラストと言われてすぐに希望の絵が浮かぶわけでもない。しかしたとえばイコンなぞと注文したとして、描けるものなのだろうか。ふと思った。
「なんでもいい。」
 こんなことならラテにしておけばよかったと後悔する。やり取りが面倒だ。手を振ると彼女が、ではこちらで適宜なものを書かせていただきますと言って頭を下げ、オーダーを伝えに厨房へ向かった。
「……なんだよ。」
 じっとこちらへ視線を寄越す向かいの貴様に気付いて、テーブルへもたれたまま俺は呟いた。ようやく腰を下ろしたことで、あたたかい空気も相まって急に眠気が襲ってくる。午後に三時間空けるために、昨日は結局徹夜になった。決められた時間内、ひとひとりが必死になって頑張ったところでこなせる仕事量と言うのはたいして変わらず、せいぜい、普通にこなして報告書十枚、死に物狂いで十二枚。その程度の違いでしかない。だったから、無理矢理にでも隙間を開けようとすると、所謂、
「時間外」
 に頑張らないとどうしようもなくなる。たかだかガキどもへ渡すクリスマスプレゼントごときのために徹夜する。自分のひとの善さに涙が出る思いだ。
「顔色が良くないな。」
 半目で睨んだ俺へそんな風に貴様が言った。
「きちんと睡眠をとっていないのだろう。」
「忙しくてな。」
 眉間のあいだを揉みこんで俺はぞんざいにこたえる。おのれのひとの善さに涙が出る思いであっても、この時間のために眠っていないと言うつもりはない。恩着せがましくすることが云々、そうした話ではなくて、単に寝ていないと言えば貴様が色々とうるさいだろうから、そういう警戒からだった。
 からだを壊すだの、自分の立場を思えだの、そう言われてしまえば、だったら始末書の一枚でも減らす努力をしろと俺は返さざるを得ないし、けれどこの静かな店の空気のなかで騒ぐことをしたくはないと思う。
 お待たせしました。うとうととして待っているとやがて、店員が注文したカップをふたつ捧げて席へやってくる。俺は頬杖を解き、わずか背を伸ばし、その背を伸ばした動作のまま、テーブルの上に置かれたカプチーノの表面を目にして、思わずのけぞりそうになった。
 声をこらえたことが幸いだ。
 ほう、これは上手ですね。
 ラテアートとやらを同じように眺めて、貴様がおだやかな顔で微笑んだ。
「ありがとうございます。」
「とてもよく描けている。」
 俺は鬱陶しく落ちてくる前髪をかきあげる。
 店員が運んできたカプチーノふたつ、泡の表面には大きなハートマークと、そのハートの中にひとつは「LOVE」、もうひとつは「HAPPY」、そんな具合でアルファベッドが並んでいた。器用なものですねえ。まるで気にしていない貴様が感心してつぶやく。
 大の男が小さなテーブルへ背を丸めて向かいあわせ、場違いな文字のカプチーノをすする。想像して一気に憂鬱になった。頭が痛い。
 ごゆっくりどうぞと言い残して店員は去ってゆく、泡のデザインについて俺はたしかになんでもいいと言ったのだし、だから注文を受けたほうでもおそらく飲む人間の都合がどうとか考えることもなく、なんとはなしにこの形を描いたのだろう、ちらとはなれた席の女性客のカップをながめると、花やら猫やら、クリスマスツリーやらずいぶん凝ったデザインのものまでなされていたから、ハートはつまりいちばん簡単で、しかも問題なくだれでも喜ぶデザインでしかないのだ、それにいちいち難癖つけていたのでは、俺は狭量と言うことになってしまうし、腹におさめてしまえばなにも変わらないと思ったのは俺自身のはずだった、だったらハートマークのひとつやふたつごときで、頭痛をかかえるのも俺がおかしいのかもしれない。わかっている。コーヒー一杯にぎりぎりと歯噛みする俺がおかしいのだ。
 覚悟を決めて俺はマグに口を付ける。あまりに大げさな気もするけれど、実際俺はそんな気分だった。
 けれど、見た目はともかく、しっかりとスチームされたミルクとエスプレッソの配合は上品に仕上がっていたし香りもとてもよくて、救われた気になる。何口かすすって、それから冗談でなく頭痛のしはじめたこめかみに手をあて、俺は溜息をついた。これはもしかすると段々にひどくなるなと言う痛みの仕方で、だったら早めに薬局を見つけて薬で抑えてしまった方がいいかもしれない。今晩も遅くなりそうだった。
 黙って香りを楽しむ風で、貴様があいかわらずこちらをながめていたので、サンタクロースは貴様がやれよと俺は言った。
「白い袋でも担ぎますか。」
「いいんじゃあないか、絵面になると思うぞ。」
 ラッピングされた菓子袋がどっさり入った袋をかかえて貴様が院の玄関へ入る、白いつけひげや真っ赤な装いをこらさなくたって、貴様を見つけたガキどもならすぐに歓声をあげて取り囲むだろうと思った。やさしいアンデルセン先生。
「貴様で十分だ。サンタクロースを信じているガキなんていないだろ。」
「信じていませんか。」
「信じないだろう。ガキは無知だが莫迦じゃあない。」
「なるほど……、」
「子供向けの本にだってわりとあからさまに書いてあったりするぞ?サンタクロースの正体は両親だっただの、親切な隣人だっただの。雪深い奥地に住む白いひげの爺ィが、トナカイに引かせたそりで空を飛んでやってくるだなんて真っ正直に信じているガキのほうが、いまどき珍しいんじゃあないか。」
 ふたつみっつの無知蒙昧な時期ならともかく、フェルディナントルークスにいる初等部以上のガキどもは集団生活を営んでいるせいか他と比べても耳年増だったし、大人びて、計算高い。どうした展開へ持っていったらおとなの関心が自分へ向けられるか、たとえば何か物事をはじめる際にも、リスクの一番少ない方法を真っ先に考えたりする、賢しいと言うよりは悪知恵がはたらくとこういう場合は言うのだと思う。
 私は最初から信じていなかったよ。
 言ってやると、片眉を上げてふむと唸り貴様は俺を見た。
「最初から?」
「最初から。というより、おやさしいサンタクロースとやらの存在を知ったのが、爺ィはほんとうはいないのですよと、諭して書かれた本だったな。」
「……院で?」
「いや。図書館だったか。本屋だったかな。院へ行くよりもっとずっと前だ。」
 そんな本が孤児院の図書室にあるのだったらいけない、そう考えたろう貴様に首をふって俺は言う。おかしかった。手に取るように思考が判るやつだと思った。
「そのころから本が好きだったのですね。」
 言った貴様に、そうじゃあないと俺は返し、窓の外を眺めちらつきはじめた綿雪を目にする。
「時間をつぶすには丁度良かったんだ。」
「時間をつぶす……、」
「ああ。」
 意味が判らないと首をひねる貴様に、
「妾だった母親が死んで、父方の屋敷に引き取られたろ。朝まだ暗いうち、六時過ぎだったかなあ、起きるとメシもそうそうに、下働きのやつらにおもてへ出されるんだよ。」
「――」
 俺は言った。
「暗くなるまで帰ってくるなと言われるのだよな。顔を合わせると旦那さまや奥さまのご気分が悪くなるから、とばっちりが自分たちにも及ぶから、そんな風に言われてな。最初は意味が判らなくて裏口あたりをうろついていたら、バケツで水をかけられた。」
 笑ってしまうだろう。俺は言った。犬猫を追い払うのと同じなんだぜ。
「夏はともかく、冬場はな。じっとしていたって寒いだけだが、行き先なんてないわけだろう?駅の構内だの、公園だの、スーパーだの。うろついてみて、結局時間が潰せて、あたたかくて、居ついてもあまりいやな顔をされない場所に、図書館や本屋が便利だと言うことに気がついた。」
 それでも子供ひとり毎日通えばおかしな顔をされる。坊や、おうちはどこだい。迷子なの。なにかあったの、帰れないの。関わり合いになるのは面倒だった。迷惑な親切心をだされて屋敷に連絡されたが最後、ひどい折檻が待っている。だから日を変え、曜日を変え、図書館や本屋をいくつもピックアップして、目立たない程度に順繰りにまわった。
「……『サンタクロースは、よい子にしていた子供にプレゼントを持ってきてくれるのでした』。」
 じゃあ自分はきっと極悪なのだろう。はじめて知ったサンタクロースと言う名前、そうしてそいつが十二月の決まった日になると、子供にプレゼントをばらまくということ。ページを繰りながら俺は思った。なぜなら俺のところにそんなやつは一度も来たためしがない。
 貴様の灰緑色の目玉が黙って俺を見る。俺は口の端が無意識に歪むのを感じた。嘲りだった。
「あたたかくて居心地はよかったんだけどな、あそこ、四時半だか五時には閉まるだろ。本屋だってせいぜい六時だ。部屋に入れてもらえるのが、屋敷の人間が全員自室に引き上げたあとだったから、八時か、九時過ぎまでまだかなり時間があって、」
 寒いな。俺は曇天を見上げる。
 雪が舞っていた。
 年に一度の生誕祭。白ひげの爺ィは知らなかったけれど神の子が生まれた日を言祝ぐまつりがあることは知っていたから、だから町中の飾り付けはみな神の子にささげられたものだとばかり思っていた。
 そうじゃなかった。
 これは敬虔な信仰心に支えられた飾り付けではなくて、親がガキどもへ、恋人が互いに、友人がそれとなく、なにがしか日ごろの感謝や愛情をこめて交歓する日だったのだ。
 色とりどりのマフラーを首に巻いた子供たちが、足早に駆けてゆく。今日はご馳走だ、それだけで心底うれしいのだ。
 町にあふれるイルミネーション。
 玄関口に下げられた柊のリース。
 甘いキャンディ。
 家族で囲んだ蝋燭の光。
 祈りの言葉と笑い声。
 どうしてあの時、俺はただ諾々と従ってみじめな思いを抱えていたのだろう。
 暗くなった大通りをあてもなくぶらついて心底冷えた。吐く息すら白くなることをやめて、だのに体だけは莫迦みたいに震えるのだ。くやしかった。ねたましかった。そうして、うらやましかった。
 おもむろに小石を拾いあげ、通りに面した窓ガラスのひとつひとつへ、ご丁寧に叩きつけ皹を入れ割ってやりながら俺は逃げた。たちまち背後であがった悲鳴と怒号、捕まったらきっととんでもなくおそろしいことになるのは判っていたから、無我夢中で俺は逃げた。路地に入り、すれ違う人間を突き飛ばし、犬に吠えかけられ、あわや飛びだしたT字路に突っ込んでいた車にぶつかりそうになりながら、俺は逃げた。
 どうしてあの時、誰も捕まえてくれなかったんだろう。
 息をせき切らせ、逃げ込んだ修道院の裏庭、ここなら見つからない。ここならだれも来ない。顔を上げ俺の目に入るのは、羽の捥がれた天使像だ。おもてにあればそれなりに手入れされ見様よくなっているだろうに、裏庭にあるばかりに放置され、もとの白い色は汚くくすんで茶色の筋がいくつもいくつも全身を伝っている。
 ご同輩。そんな言葉が俺の頭には浮かんでいた。汚らしさでは俺も同じだ。
「屋敷が静まって、それからようやく中に入れてな。ひとりで食べる大広間の夕飯は、一度は経験してみるといい。あまりのがらんどうさに笑える、」
 ひとり分の食事がとり置かれて、誰もいない広間の長大なテーブルにぽつんと置かれている、冷えている、ひどく冷え切ってまずいことこの上なかった。
「昼は?」
「は?」
 不意に口をさしはさまれて俺はまじろぎ、昼、とくりかえした。
「起きてすぐ、朝食もそこそこにおもてへ出されたわけでしょう。昼食はどうしたんです。」
「あるわけないだろ。」
 莫迦だなあ。あきれた笑いがこみあげて、俺はしかたなく笑った。
「一食でも二食でも、それなりに生きていけるものだぞ。」
 だから孤児院へ放り込まれて俺が真っ先に驚いたのは、三食かならずきちんと用意されていると言う、当たり前のそのことだった。なにもしなくても出てくる。頭を下げることも、床に這いつくばることもしなくていい。たとえそれが貧相な、塩辛いだけのスープとパンだったとしてもよほど俺にはご馳走だった。
 ああそれで、合点がいったように貴様が浅くうなずく。
「前々から、食に関心が薄いと思っていたんです。」
「私が?」
「そう。」
 貴様の中でどういった風に理論が展開されて、帰結したのか俺にはさっぱり判らなくて、は、と頭をかしげた。
「今日もどうせろくに食べていないでしょう。」
「……今日、な。」
 言われてはじめて思いかえす、そういえばコーヒーや紅茶と言った液体ではなくかたちのある固形物を最後に口にしたのは、昨日の午後、局員のどいつだったかが持ち込んだクラッカーだったかもしれない。
 俺の様子を見てやれやれとためいきを吐いた貴様がつと立ちあがり、そのままカウンターへ向かうと、中にいた店員と二言三言言葉を交わし、そうしてサラミとチーズをはさんだパニーノの包みを片手に戻ってくる。話をしているうちに小腹が減ったのかなと思ったこちらの目の前にそれを差しだし、食べなさいと俺に言った。
「腹にいれていないから余計に寒いんです。」
 思わず受け取った俺の向かいに座りなおして、貴様が肩をすくめる、まるでガキ扱いされているようですこしむっとした。いらない、腹は減っていない、そう言って突き返そうとした俺の先手を取って、特別ですよと貴様が言う。
「え、」
「もうすぐ生誕祭だ。付けひげも赤い洋服も、そもそもサンタクロースでもないが。」
 制されて俺は突き返す口実をうしなう、これが仕事に殺されそうな俺に対してのプレゼントであると言うなら、ずいぶんと安上がりに済ませてくれたものだ。皮肉のひとつも言って返してやろうかと思ったけれど、うまい文句が見つからなかったし、こんなものでもないよりはましか、おかしな納得をさせられたおかげで、悪口の切っ先は丸まってしまった。
 居心地も悪くなり、パニーノを食いだす俺の向かいで暢気にマグをかたむけ、貴様はぼうと店の音楽に耳を傾けている。だから俺もそれ以上話すこともなく、黙って手の中のそれを食いきることに専念した。
 小一時間ほど過ごし体もあたたまったところで店を出て、先ほどラッピングを頼んでいた菓子屋に顔を出し、荷物を受け取って駅へ向かう。もちろん大きな紙袋ふたつは貴様に持たせた。そうでないとここまで連れだってやってきた意味がない。
 言われた通り腹が空いていたからなのか、それともあの俺と貴様には場違いなバールでしっかりとあたたまったおかげか、雪もちらついているし、風も吹いているし、日も落ちたと言うのに、体の芯はあたたかでいつのまにか頭痛も薄れて楽になっていた。あんなバゲットすこしで薬代も上がったと思えば、やはりずいぶん安上がりな処方薬だと思う。
 行きはともかく、帰りは運悪く通勤ラッシュアワー真っ最中で、俺はホームに滑り込んだ車内をながめただけでげんなりとしたけれど、大きな図体の上に大きな紙袋を抱えた貴様が周りから鬱陶しがられ、白い目を向けられてなるべく身を縮こまらせているのを見てなんとはなしに胸がすいた気になる、ざまあみろといった態。手伝おうか、ひとつ持とうかなんて決して言ってやるものかと思った。
 来たときと同じように乗り換えて、メトロA線、降りる駅まで次と言うときに、急ブレーキでも切ったものか、列車がひどくぐらりと揺れた。俺はたたらを踏み、しかもちょうど俺の後ろに小柄な婆ァがいたものだから、彼女だけは押しつぶすとあとあと面倒だと言う考えが一瞬走って、無理な体勢で堪えようとする、だのに前の客が俺の足をすくい、こらえきれずとうとう不恰好にひっくり返りそうになった。
 あ、と思った俺の腰をぐいと引き寄せた力強い腕があって、引かれた勢いでそいつの胸板にぶつかる。引き寄せたのが誰かなんて顔を上げなくても判っていた。大柄な体。無駄に高い体温。こんな、ほつれた跡をひとつひとつ丁寧に繕ったコートを着ている人間が、メトロに数人と乗っていてたまるかという思いだった。
紙袋はどうした、落としでもしたら承知しないからなと、文句を言うつもりで俺が貴様のもう片方の腕を見ると、そちらのほうの手で器用にふたつかかえて、おかげで貴様の顔はかくれてうまく見えない。
見えなかったけれど、それでいいと思う。胸元へおしつけられたおのれの頬、押し合いへし合いする車内で、隣人と密着することはまるで日常の光景で何の意味合いもなかった、それでも自分がいまどんな顔をしているのかだなんて俺は知りたくもなかったし、貴様の顔が見えたらどんな顔をしていいか判らなくなると思った。
一駅の長さがやたらと長く感じられて俺は苛々としはじめる、ずくずくとうずくこめかみの鼓動がうるさい。おかしい、頭痛はとっくにおさまったはずだったのにな。思ったあたりでようやく車内にアナウンスが流れたので、俺は無理矢理貴様から離れて背をむけ、同じように降りようとする人の波に圧され、もみくちゃになりながらホームへ辿りついた。深い嘆息が漏れる。
ぐちゃぐちゃになった髪をまとめなおしながらひとの流れから外れて立ち、貴様を探していると、いつの間にか脇に平気な顔をして貴様が立っているのだった。
「大丈夫か、」
 俺は言った。貴様でなく、貴様のかかえた袋の中身が。
 これ以上連れ立って歩くつもりは俺にはなかったし、俺はこのままヴァチカンの地下へ戻り仕事をこなす。貴様はここからバスに乗り換えて院に向かい、ガキどもの世話をする。またなというには駅はとても都合がいい場所だ。
 言われた貴様が律儀に袋の口を開け、中に詰められた個別の包装の崩れていないことを確認する姿を最後に、俺はさっさと踵を返し改札へ向かって歩き出す。どうせ任務が入ったら、厭でも面を突き合わせることになるのだ。大仰なあいさつは要らないと思った。
 中をのぞきこんでいたらしい貴様がおや、とちいさく呟く声が俺の耳に届く、まったく低くてよく響く声だ。
「マクスウェル、」
 背をむけた俺にたいして非難するでもなく、ただ単調に俺の名を貴様が呼んだので、何だと言って俺は足を止め、肩越しにふり返ってやる。
「どうかしたのか?」
「数が違う。包みがひとつ多い。二十三じゃあない。二十四入っている。」
「……ぅん、」
 そうかと俺はこたえた。数はたしかめて買ったのだ。間違えるはずはなかった。
「じゃあ、ひとつは貴様にやるよ。」
 俺は言う、言いながら気のない声がうまく出せたろうかと思う。思いながら背を丸め、ポケットに両手を突っ込んでにやにや笑いながら、俺は階段を上り駅をあとにした。
 どういうわけか胸のあたりがあたたかいように思った。
 

 

 

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最終更新:2020年08月08日 23:19