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 こちらにはもういませんが。
 かえされて片眉を上げた。いるだろうと思っていた場所に姿が見当たらない。いるだろうとほかに考えもなしにここまで来たので、ではさてどこにいるのかと思い悩むとなると、案外やっかいなことになりそうだと思った。
 ヴァチカンの土の下にうごめく施設は広大で、あてもなくひとひとりをさがすのは骨が折れる。彼の上司が局室を空けることはよくあるが、居場所を告げずに姿を消してしまうことは稀だった。几帳面なわけではなくて、行き先を探しあぐねて騒がれることが嫌いなのだ。
 ああこんなところにいたんですか、探しましたよ。そんな風に親しげに声をかけられるのが一番に厭なのだ。眉をしかめて半眼になるさままで目に浮かぶ。探してほしいと誰が言ったか、そんな台詞が口に出さずとも貌にしっかりとあらわされていて、だから、よほど、内面に踏み込まれることが嫌いなのだと思った。
 であったからだいたい局室を出るときは、どこへ、どのくらい出かけてくるか言い置いてから部屋を出ることが多い。そのあいだは貴様らでなんとか処理しろ、どうしても処理できない分は戻ったら自分がやる、だから決して無用な連絡をしてくるな。時間には戻る、おいておけ。無言の命令だ。振り分けられた新人もひと月もすればよく判っている、外出のあいだに無粋なコールのひとつもしてみろ。局へ戻ってきたときの形相が半端ないものに変わっているからだ。
 そうして言った通り、精確に戻ってくることがほとんどだった。
 急を要する任務だからと、十三課の事務局から連絡が入り、男がおのれの棲家の孤児院を抜け出てヴァチカンに入ったのが先ほど昼過ぎ。時間がかかればかかっただけ機嫌の悪くなるようなことを、電話向こうの事務局員が暗にほのめかしていた。だからなるべく急ぎで出仕し、受付へゆけば詳細はマクスウェル特務局長じきじきに説明すると告げられて、しかし顔を出した局室に呼び出した上司の姿は見当たらず、中にいた局員のひとりが、医務局へゆきましたがと伝えてくる。
 どうも具合がよくないみたいで。風邪でもひいたんじゃあないですか、気分の悪そうな顔をして、休めばいいのに無理やり机にしがみついていましたけれどね。
「医務局。」
「たぶん薬を貰いに行ったのだと思いますが。」
 十五分で戻ってくると言ったけれど、まだ戻ってきてないです。たぶん、向こうで横になっているんじゃあないかな。
 乾燥気味な口調で言われてそうかと頷き、まったくここはなっていないなとしみじみ思う。十三課特務機関室。いつ来ても疲れている。草臥れている。誰もかれもが渇いて淡々と積み上げられた仕事をこなす、それは効率的な意味合いで言えばたいそう申し分ないのかもしれないが、男から見れば機械的でどうにもぞっとする行動だ。
 面倒ごとを増やしているのは男自身でもある。だから彼はなっていないなと思っても、口にすることはしない。禍は口より出ず。いと高き場所、彼自身が信仰する主はよく言ったものだと思う。
 十三課局室から医務局へ向かう。通いなれた廊下だった。壁土の罅割れや、染みのひとつひとつのかたちをおぼえてしまうほど数百回、あるいは数千回。
 そうして、いるだろうと信じ切っていた男にかえされたのが冒頭の言葉だったので、言われてたじろいだ。ぱちぱちと眼鏡の奥まじろんだ男へ、実は、と医務局員が声を潜めて耳打ちする。
「実は一服盛りました。」
「局長に?」
「はい。頭痛がするから痛み止めをと言われたのですがね。飲んだところで、どうせまたすぐに局室へ戻って無理を重ねるわけでしょう。」
「まあ、そうだろうな。」
 やすめと言われてやすむ真っ正直な性格の持ち主ではないことを、男も、医務局員もよく判っている。
 ですので、彼は続ける。
「抗ヒスタミン剤をほんの気持ち、大目に渡したわけで……来たときのあの様子じゃあ、もう立っていることも難しい状態になっていると思いますよ。」
「そんなに、」
 言われて男は眉根を寄せた。無理を押し通した姿を容易に想像できたからでもあった。
「そんなにひどいのか。」
「あの顔色で、ひどいと思っていないのは本人だけじゃあないですか。」
 やすめばいいのに、そんな言葉を、特務局室でも聞いた。まったく無茶をする。虚勢を張るのが癖になっているのだと思った。課に就任する前、もうせん子供のときから。
「このあいだの、再生儀礼後の体の調子はどうです。」
 顔を出したついでとばかりに聞かれてああ、と男は頷いた。悪くない、そうかえす。
「そうですか。いやあ、二日かかる施術を半日でやれと言われたのでね。ずいぶん無茶苦茶なことをしました。術後の経過が気になってね。」
「そのこと、局長には、」
「言いませんよ。藪蛇つついてどうするんです、」
 かぶりをふって局員がこたえる。余計な火の粉をかぶるのはごめんですよと付け加えて釘を刺された。
 そうして、医務局にいないのならばほかを当たるしかないと、背をむけた男の後ろからああ、と思いついたような彼の声が追いかける。
「資料室か、第二倉庫室、もしくは医局準備用具室じゃあないですか。」
 言われて肩越しに振り返る。なにを言われたのかが一瞬判らなかったからだ。気のない顔で男をながめていた医局員が、男の視線の意味に気付いて、局長の、そう言った。
「探しているわけでしょう。局長。たぶん、そのあたりじゃあないかと思うんですが。」
「言い置いて行ったのか?」
「いいえ。」
 だいたい判るんです。言って彼がおかしな角度に顔をゆがめた。それが彼なりの笑いであることに男が気がついたのは、数呼吸後のことだ。ちいさく驚きがはしる。はじめてみた。彼でも笑うのか、そうした純粋な驚きだった。
「ここはずいぶん広いですけれどね、ひとがまったく来ない場所となると、そうそうないわけです。いまは冬ですから、外はあり得ないでしょう。そうすると、候補は絞られてくると言うわけで。」
「――」
「傷ついた獣ですね。自分の弱ったすがたを人に見られることを好まない、」
 仮眠室なんて論外ですよ、言われてなにとはなしにぎくりとなった。まっさきにそこを当たろうと男は思っていたからだ。次いで自嘲がにじむ。自分よりよほど医局員のほうが、上司の性格を理解している。触れ得た時間の長さは、親しさとは関係がない。それこそ上司が虚勢を張ることをおぼえた昔から、男は彼と接してきたわけだけれど、近付くことすら否定されつづけた。嫌われているのだと思う。男が傍へ寄ろうとすると、睨みつけ、体を固くし、表情まで強張らせて辛辣な言葉をつらつらと述べて見せた。口にするたびに彼自身が傷付いたような目をするのが判るから、男も必要以上に彼に近付かないようになった。無用な会話も避けた。交わすのはほとんど任務上の最小限に限られて、しかし彼自身が安定するなら、男はそれで別にかまわないと思っていたのだった、だというのに、急に腕を伸ばしてすがるようなしぐさをする。判らない。
 獣か、言われた言葉を頭の中でくり返して、そうして男は、だったら彼はきっと猫科の生き物だなと思う。愛玩動物のたぐいじゃあない。もっとずっと体の大きな、たとえば豹や山猫のようなうつくしい毛皮を持った気まぐれな生きもの。目の色以上にこころもちは千変万化して、とてもじゃないがついてゆけそうにない。
 それでいて、ひどく単純なもののようにも思えた。
 いないと断言されはしたものの、一応一番手近だったので仮眠室を覗きこみ、並んだ数台のうちに姿がないことを確認する、言われた通りにいなかったので、やはりおのれはなにも判っちゃあいないのだと言う思いとともに、わずか気落ちした。
 それから資料室へおもむきしんと冷えた室内に人気のないことをたしかめ、第二倉庫室へ、器材の置かれた棚のあいだも見てまわったけれどやはり姿は見当たらなかった。ではと向かった医局準備用具室は、男は今日まで知らない部屋のひとつだった。勿論部屋の前を通り過ぎたことは何度となくあったけれど、かかわりのない部屋にかけられたプレートをいちいち確認して回るほど酔狂ではなかったので。準備室は医務局とは正反対の方向に位置されていて、これだけ離れていては、医局員の面々は使い勝手が悪いだろうにとどうでもよいことを思った。
 ドアノブに手をかけ、ああ、となにか確信のようなものを男は胸にきざす。いるなと思った。まだ開けてもなかったし、中から物音ひとつ聞こえたわけではないけれど、どういうわけかひとが息づく気配のようなものがあって、探している人物が中にひそんでいるのだと手ごたえを感じる。ノックするかどうか逡巡したものの、結局そっとドアノブをまわす。仮に薬が効いて眠っていたならノックの音が聞こえるかどうかあやしいものであったし、聞こえたところで起こしてしまうことは避けたかった。この部屋の出入り口は、男がたたずむ廊下へのひとつだけだ。袋小路に手負いの獣を追い詰めるとどうなるか、できるかぎり避けたい。
 そろそろと開けたつもりであったのに、古びた蝶番は大きく軋んで、けれど響いた開閉音にも中からの牽制の声は聞こえず、男は室内へ踏み込む。準備用具室と言うだけあってか、もともとあまり出入りの少ない場所であるのか、マクスウェルがこの場所を選んだのであればおそらく後者なのだろうが、室内はあまり整頓されておらず、そこかしこに積まれた木箱や段ボール箱は、貼られた郵送タグすらはがされていないものもあった。
 紙箱の中には、力任せに手で破いたのだろうなと思える口のひらき方も相当数あった、箱から顔を見せる薬剤や器材の印字された表示は、ほとんど男の見知っている言葉でかかれていたが、中にはまるで暗号にしか見えない、おそらくは東洋の文字で書かれたものもいくつかまじっていて、一瞬ここがヴァチカンでありながらヴァチカンではないような、不思議な空気を発しているのだ。
 無造作に積みあげられた態がまるでジェンガのようで、男はその積み木を崩すことがないよう、背を丸め身を縮こまらせ、足音もひそめるようにしてそろそろと進んだ。
 ふと男の目端に見なれた金糸が映る。
 こんなところにいた。見つけたと言うよりは、呆れが先に立った。
 箱と箱のあいだ、窮屈でしようがないようなひどくせまい隙間に、スプリングの飛びだした廃材同然のソファがあって、そこへ膝をかかえ顔をうずめる探していた姿がある。寒かったのか、器材の緩衝材にでも使われていたらしいぼろぼろに穴の開いた毛布を頭からかぶって、ほとんど保温機能はないだろうにと溜め息が出た。悪化させるために籠もっているようなものだ。朦朧とした意識でこの部屋までたどり着き、隠れるだけの場所を探すのが精いっぱいで、糸が切れるように眠ってしまったのだろう。だったらヴァチカン内にある彼自身の部屋に戻るのも同じようなものなのに、むきになって居座る理由が男には判らない。
 かがんでのぞきこむと、うすく開いた唇から不規則な寝息が漏れていた。熱でもあるものか顔が赤い。いつもの癖でひょいと手を伸ばし、男はマクスウェルの額にあてた。あててのちにしまったなと気が付く。
 これは孤児院の子供らにやる仕草で、体に染みついたものであったから今自然に男は手を伸ばしたけれど、接触を極端に忌避するマクスウェルへ向けてよい行為ではなかった。いま目を覚ましてはおおごとだ。たちまち歯をむきだし正眼に構え、容赦辛辣な罵詈がそそぐにきまっている。
 だから本当は、すぐにでも傍らを離れ、彼ひとりをそのままにしておくのが状況的に一番まともなことなのだ。居場所は確認した。体を丸めて眠る姿勢は首の筋を寝違えてしまいそうだが、それは男のあずかり知らぬところで、数時間して目を覚ます上司はなにもなかった態で機関室へ戻るのだろう。冷えて固まった室内の空気に、彼の具合が悪化するか今よりすこしはましになるかは七分三分と言ったところではあるけれど、それも上司自身の問題だ。ひとりの大人である。体調管理もできずしてなにが一人前だと思った。
 であったのに、男は思った以上に熱い、あてがった額から手を放せなくなったのだ。あてがった瞬間ほんのわずかてのひらに安心したと言う様、ほころんだ表情に見えたから、うすく開いた唇がたしかにちいさく笑んだように見えたからだった。
 ぬくもりに餓えているのか。おまえが?
 のべた腕を叩き落とすのは常に彼の側だ。男はだから腕を差しのべることを諦めた。なのに無意識にこんな顔をする、してよいはずがない、そう思う。
 熱のある浅い眠りは、いまにも途切れてしまうやもしれず、それをおそれて男はあてがった手のひらを下へずらし、彼のまぶたを蔽う。こうしてしまえば見えはしまい。見えなければ良いのだと言うおかしな安心感があった。
 まるで観察者効果だなと思い、苦笑した。観察者効果。見えてしまうからそこにある事象が決定されるのだ、それは観察者がいるからこそ起きうる決定なのだった、だとしたら観察者自身が観察することをしなければまだよどみのまま、男はこうしてまぶたの上に手をあてているけれど、てのひらをあてがっているものが男か、もしくは別の人間か、それはマクスウェルが観察しなければ良いのだと言う論理。破綻している。やぶれかぶれのとんでもない言い訳で、ほんとうのところはただ単に男が温みを発する彼から手を放したくなかったから、それだけのことだったのかもしれなかった。
 あてがう男の前で、うんとちいさく呻いて、彼がいっそうに身を縮めた。寒いのだ。
 男は一度手をはなし、外套を脱ぐ。ついでに上着も脱いで、二枚重ねるとそれで眠るマクスウェルの体を包むようにしてやった。襤褸毛布よりはましだと思った。それで、男自身はシャツ一枚の姿になったけれど、どうにか、この彼のまどろみが覚めるまでのすこしのあいだは耐えられるように思う。
 箱の積み重ねられたソファはひと一人分の隙間しかなかったので、男は彼の前へ膝を着き、再び懲りずにまぶたを蔽う。それから、空いているもう片方の手で、うねりもつれた髪を指で梳くようにして上から下へ撫ぜた。目を覚ますあやうさは十分承知していたけれど、それでも良いと思う。触れたかったのだ。
 撫ぜるうちに、しかめられたままの眉根に気が付いて、男は次にそこへ手を伸ばし、親指の腹で数度眉間を撫ぜてやった。深く刻まれた縦皺。威嚇するときにひとは鬼の形相になるという。そうして彼は、常に鬼であり続けなければならなかった。そうした状況に彼自身が持ち込んだ。男はまだいい、差向かわされた戦場でどんなにたけりくるおうとも、たち還る場所がある、戻る棲家がある。男はひとでいられた。
 だが、おまえは?
 心を鬼にして、そういう言葉がある。常態ではでき得ない判決を下すきびしいこころもち、ひとの心のままでは為しえないから鬼になる、だったら、つねに心が鬼であった場合、それはひとといえるのだろうか?
 おまえはひとか、それとも。
 ――くだらない。
 苦笑し男は思いをうちはらった。どうにもおかしな感傷がほとびるのは、弱ったマクスウェルの姿を見ているからかもしれない。
 丹念に撫でてやると、やがて刻まれた眉間のしわがゆるんで、すると彼の面ざしはずいぶんあどけないものになることに男は気がついた。かくれんぼうした子供。額に浮かんだ汗が伝ったか、彼の目端に滴がとどまってまるで泣いているように見える。泣くな。男がひたすらに念じる言葉がふと浮かんだ。鬼が泣くな。
 ぬぐってやろうとするより前につうと頬にこぼれたそれ、見てはいけないもの、あってはならなかったもののように思えて、男は思わず舌を伸ばし、伝った滴をちいさく舐めた。

 

 

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最終更新:2020年08月08日 23:19