水底にしずむ。うろうろとした感覚がひどく心地よくて、いつまでもこの境にいてしまいたいと男は思った。
皮の感覚がうすい。
皮、というよりも四肢そのもの、はらわた、骨、血液を通すくだやすじといったひとつひとつがべつのものであることを放棄して、融けあい、まじり、それがたいそう気分いいのだ。
音も遠かった。
外界の音は薄寒天の膜を何枚もとおしたようにおぼろで、茫洋とたよりない。だから男はここが水の中だと思ったのだった。
そうして男が汚猥の羊水の中、どろどろととけて憩うていると、ひとすじ差しこめられたするどい刃のようなものがあって、いいやそれはやいばというよりは針、しかも硬く凍ったもろい氷の針のようなものだった。
そのもろさが呼ぶ。男はしぶしぶ意識を引き揚げた。ああ糞もったいないと言ったうらめしさが胸にうずまいて、そうしたことを考えてしまえる頭蓋や脳髄、胸骨を軸にした胴体というものがあらためて核をなし、せっかくひとつのものに溶けてしまえていたのに、べつべつのものにわかたれてしまったのだとすこし残念に思った。いつまでもあの場所にとどまっていたかったのに。そう思う。
浮きつつある意識の中に、おのれを呼ぶ声がする。これはいったい誰だったかなと男は思った。聞き馴染んだ声。耳殻に響く声。常に赫々たる揺らぎない声が、いまは語尾がふるえたよりないように聞こえる。どうしたことだと男は思った。どうしたことだ。そんなことでお前、どうするのだ。
アンデルセンとその声は言った。
おいばか寝るな。その声は言った。
呼びかけられている対象がおのれで、ここで男はすぐにもいらえてやればよいのだと判っていた、わかっていたけれどうまい具合にまぶたが上がらず、口を開くことすら億劫だ。
やはり、このまま、水底へ戻ってしまおうかと思う。
もう一度あのまどろみに浸ってしまいたかった。
おい。
おい。
煩わしく繰り返す呼びかけが不意に諦めたように途切れ黙り込み、それからじっとおのれのおもてへ視線が注いだのが判る。おずおずと伸ばされたてのひらが、まようように男の額へ這わされて、それから静かに撫ぜる動きになった。
てのひらは湿っている。
鉄さびのにおい。
粘つく液体は男の体からにじみ出るものだった。
「アンデルセン、」
また名を呼ばれる。うんといらえてやりたかったのに、声帯が引き裂けて動かない。ああそうだった、男はそうして思い出す。体が文字通り引き裂けて動かないのだ。
潜入したさきで化け物もろともひどい爆発に巻き込まれて、体が飛散したのだった。仮にもぐりこんだ人間が男ひとりであったなら、ここまで醜態をさらしていないとは思うが、残り数秒を刻むデジタルの数字を見つけた瞬間、隣にいたのは正真正銘生身の、しかもおのれの身を守るすべを持たない人間で、だから数字がゼロをさししめした次の間には、男は何もかもあきらめたのだ。庇ういとますらなかった。ただ見張った隣の人間のまなじり、男は彼を力任せに突き飛ばし、体を盾にし荷を抱える。きゅぶ、と奇妙にくぐもった音を聞いたのが最後だった。
これはずいぶん回復に時間がかかってしまうなと、やれやれと言った態。はらわたもろとももっていかれた。
思いだすと、おのれの体のあちらこちらからいまだにじくりと血液が垂れながれているのが判って、いったいどれほど自分は意識を失っていたのだろうと思う。
失態だな。
遂行する任務が最優先で、仲間のいのちは二の次だった。非情たれ。常に言い聞かせてきた言葉であったし、おのれはそうできているのだと思った。思っていた。
「アンデルセン、」
名を呼ばれる。
名を呼び、おのれの身を案じる余裕があるのだ、だったら彼は無事に違いないと思う。
またしばらく黙りこむ気配があって、男はうつらうつらとしながら四肢の回復を待つ。どうせまぶたは開かない。
すると額を撫ぜていた動きが止まり、疲れたかそれともいい加減に飽きたかとぼんやり思った男は、うかがうようにそうっと腹の上へ重みが加わったのを感じとる。男の体へ覆いかぶさるようにして、耳をあて、じっと心音をたどる動き。そこは腹だぞ、心臓はもうすこし上のほうだろうとまずおかしみを誘われ、それからおのれの腹の具合が、被膜はなんとか済ませたものの、ぐずぐずになった骨がまだ完全に形成されていないために、彼が胸の上へ頬を寄せることをよしたのだとおくれて理解した。呼気が肺から漏れていたからだ。
全身がしびれて痛みすらうまく感じとることができなかった。
腹の上に頭を乗せた彼が、胸腔にあたりに手をあて、それからちいさく呟きはじめる。耳をすませるまでもなく聞きなれた聖句。医療の心得のない、もとより器材も設えもない、だからこれはただの気休めにしか過ぎない、一瞬のちに廃屋になったこの建物に響く音、使徒行伝のどこか、暇つぶしにそらんじているものらしかったが、誰に聞かせるでもなくただ呟き漏れる声色、掠れるかどうかのぎりぎりの瀬戸際に立ちとどまる声、まるで揺籃歌のようだなと男は思う。赤子を寝かしつける歌、遠くは母の胸に抱かれ聞かされた覚えもあったかもしれないが、膨大な過去の記憶に埋もり隠れて今は知り得ない。おとこの立場上、いまは寝付けない、眠ることをおそれる幼子に歌ってやることのほうが多くて、だからこうしておのれにそっと注がれる音と言うものは、妙に面映ゆくて尻座りの悪いこころもちになった。
それでも体は寸とも動くことをゆるさないので、仕様もなくただ男が転がっていると、やがて聖書の最後の頁までたどり着いてしまった彼が、考えるそぶりを見せて、そうして口に乗せた言葉、
「……ごらん、冬は去り雨の季節は終わった。花は地に咲きいで小鳥の歌うときが来た。」
ひゅう、と男は呼気を押し出す。“山鳩の声が聞こえる”。
ソロモンの歌。揺籃歌にしてはずいぶんと情熱的やしないか。苦笑いする気持ちではいたが、口元は揺るがない。
「夜ごと臥所に慕うひとをもとめても、もとめても、あのひとは見つかりません。起きだして町をめぐり、通りや広場をめぐって、恋い慕うひとをもとめさまよう、」
もとめても、あのひとは見つかりません。
何もいらないと突っぱねた、出会いがしらのあのすさんだ目の色を思い出す。
なんと言う声音で呟くのだろうと思った。なんという言葉を。
不自由な体がうらめしかった。
しかし却ってそれが良かったのだとも思う。男が動かないと知っているから、男が目を覚ましていないと思っているから、彼は安心して囁いていられるのだ。これで男が目を開けたらどうなる、たちまち虚勢の牙を剥きだして、おのれのうちより離れてゆくにちがいない。
それでもどういうわけかこれ以上聞いてしまってはいけない気がして、男は身もがこうとする、動かない、金縛り中途の体と同じで、どこにも力が入らず、入る切っ先すら見つけられそうになかった。焦慮歯がゆい男の耳へ、ためらいがちに動かした彼の指先が、男の胸もとの十字をなぞる、わたしの、彼は言いかけて十字をなぞった指の腹で、そのまま男の顎をくすぐった。それから口をつぐみ逡巡した様子を見せてのちに、私をかばったりするな、ばか。聖句を切り上げた様子を見せたので、男はまたどうしてか心底ほっとして、そのほっとする身のうちの出所はなにかおのれに問うた。こたえはない。
頭を乗せていることにも飽きたのか、次いで彼が男から離れてゆく気配があった。ちがう、そうじゃあない。男の耳にもようやく外からの救出音が飛び込む。遅ればせながら助けがきたのだった。おおおいと呼び掛ける外からの声に、ここだと返すマクスウェルの声。早くしろ、私は無事だ、ただそこで莫迦でかいのが転がっている、どうにも動かせない様子だから、はやく医療班に見せたほうがいい。
ひらけた外壁の穴に呼びかけ、呼び戻し、どっと冷えた空気とともに救出員がなだれ込む。これはひどい。局長よくご無事で。煤け焼け焦げた室内を見回し、あきれ驚く多数の声、それから男を目にしたのだろう、これは無理だ、はやく担架を持ってこい。喧騒にかき消されて彼の音はもうすっかり男には聞こえなくなってしまった。
それでいい。
そろそろと大勢の手指で持ち上げられ、抱えおろされながら男はわずか呻く、痛みがここにきてぶり返してきた。神経系統がまともにはたらき始めたしるしだった。
呻きながら安堵している。続きを聞かなくてよかった。そう思った。しかし、どうにも逃げ場なく追い詰められ、あのまま聞かされてみたらどうなったかとも思った。
そのまま打たれた弛緩剤と全身麻酔に、意識に紗がかかり、まともにものを考えられなくなる、聞かされて自分はどうしたろうと思った。
わたしの恋い慕うひと。ソロモンの娘は歌う。
“わたしの恋い慕うひとが見つかりました。つかまえました、もうはなしません。”
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最終更新:2020年08月08日 23:20