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 すれ違った誰かの肩と勢いよくぶつかって、だがお互いに悪気はなかったのだからしようがないと思う。ああ申し訳ないとどちらからともなく声がでてすまなそうな顔をして見せるけれど、どちらも、ぶつかった相手の顔をろくろく見ちゃあいないのだった。
 知らない人間。知る必要もない人間。ただ町へくりだしお互いに肩のふれあった、おそらくもうこれ以上、生涯会うことのない他人。
 若干よろめいた俺を見て、横を歩いていた貴様が俺の腕をとり大丈夫ですかと声をかける。ああ、と頷いた。なんのことはない。そう言えば、相手がいま申し訳ないと謝った英語は、ずいぶんつたないものであったなとそんなどうでもいいことを思った。
 きっと別の国の人間なのだ。
 俺の知らない国、俺の知らない町から飛行機だの列車だの車だのバスだのに乗り、こうして町のいたるところにこれでもかと並べ尽くされた諸聖人と教会の最高権威を拝しに、遠路はるばるやってくるのだった。ヴァチカン。ご苦労なことだ。
 もう長いことこの町に住み、建物の並びに見なれ、見飽きた感のある俺は、スケジュールを調整して時間を空け、やりくりし、窮屈な思いで乗り物に揺られ、大枚はたいてやってくる観光客とやらに逆に感心する。よくああまでしてこようと思うものだ。それも、いくら世界の人口が多いからと言って、観光のできる有余のある人間なんてたかがしれているにちがいない、全人口の何割か、ほかは日々を暮すことに余念がなくてかつかつと喘いでいる、だのにひきもきらずこうして広場が人間で埋め尽くされるさまを見ると、ぜんたい、世界の人間の数ってやつはどれほどのものかねだとか思う。まだいやがる。まだきやがる。そんな思いだった。
 サンピエトロ広場を目指して押し合いへし合いする人間の頭。大晦日。日が暮れたとはいえ新年のミサまでまだ十数時間あるのに、待ちきれない風情でみななるべくひとのいるところ、なるべく混んでいるところ、無意識に目指して進むのだった。
 年がわりも近頃じゃあ部屋で静かにだなんて流行らず、寄ってたかってカウントダウンをし、花火を打ち上げ莫迦騒ぎすると言うから、こいつらもそれ目当てなのかもしれない。敬虔な信仰を抱えた人間なんて、きっとこのうごめく人間のひとにぎりにしか過ぎないのだ。
 そう思った。
 それから、いまふと思ったミサという言葉にすこし俺の心がささくれだち、おやと片眉を上げる羽目になる。
「……なあ、」
「はい?」
 隣をのんびりと歩く貴様に、俺は聞いておかなければいけない気がして、けれど俺はどういうわけか、その言葉を口にしてはいけないような気もしていた。新年のミサ。
 日付の変わった瞬間から、七大教会が一斉に荘厳な祈りをささげはじめる年に一度のそれは、ヴァチカンに在籍する司祭司教軒並み総さらいで駆り出されることが通例で、だから俺がこうしてあてもなくふらふらと通りを歩いていてよいはずはなかった。
 普段どこの部署に所属していようと、それが仮令俺が在しているような第十三課であっても司教の名に容赦なく仕事は割り当てられ、はい、あなたはここでこうして、とおしつけられることが多いから、なのに、こういう具合に貴様とふたりで連れ立って歩いているいとまがあることが、そもそもおかしいことだった。
 ここで俺はなにをしている?
 俺を見おろす貴様は、まるで疑いもなく不思議な顔をしてこちらを見返している、だから俺は喉元まで出かかった言葉を無理に飲みこんで、なんでもないとうすく笑ってみせた。
 どうして俺はここにいるのだろう。
 
 
 日暮れどきからぐんぐんと気温が下がって、これは雪でも降るかなと思っていたら、ほんとうに白いものがちらつき始めて、予想していたにもかかわらずうんざりとなった。いくら着込んでも寒い。肩をすくめて歩いているうちに、どちらからともなく店に入ろうということになった。
 どこでもいい。
 この日ばかりは普段やる気を見せないカフエやバールも明け方まで明かりをつけていて、新年目当ての観光客に愛想をふりまく。適当に目についた看板、外気がなるべく遮断されていそうなしつらえの店、ドアを開けてすぐに階段を下るとそこは半地下になっていて、むうと人いきれ。普段だったら、そのにおいのなまなましさに苛立つところなのだけれど、凍えたいまはぬくもりが悪くない。もうここでもいいかと目で頷いて、俺が先立ちスツールへ腰掛けた。
 並んで座った貴様がわずかにこちらに体を寄せてきたので、外套の冷えたおもてをおしつけられる形になってむっとなる。胡乱な俺の視線に気づいたのか、貴様が俺を見返して、ああ、と身を引き、それで俺はすこし残念に思った。
 べつにいやというほどじゃあなかったんだぜ。
 けれど口に出すにははばかられる。それから俺は、外套を律儀に脱いだ貴様が注文とりにやってきた店員へ適当に頼むのを聞きながら、カウンターへ肘をついてぼんやりと店内にながれるかすれたラジオのDJの声と、あちらこちらから賑やかしく聞こえる笑い声に思考をあずけた。
 この雑音が俺は結構気に入っていた。とりとめのない音。
 教会で流れる音は無駄がない。建物の構造ひとつひとつ計算されていて、ここで打つとこうはねかえる、そんな風につくられている。その削ぎ落された無駄のなさも俺は嫌いじゃあなかったけれど、こうして無駄のあつまりでしかない音と音も、ときに気まぐれに聞きたくなるのだった。油粘土で無理に押し固めたような、ガキが作る意味の判らない造形物にも似たあやふやなもの、ごちゃごちゃとまじりあっているようで決して溶解しないひとつひとつの言葉。
 どうかしましたかと不意にたずねられて俺はうん、と貴様を見た。
「疲れましたか。」
 さっきからぼんやりしている、そう言って気遣わしげに貴様が俺の顔へ手を伸ばす。こんなところで。やめろ貴様、と俺はぎょっとなり、すると目を瞠った俺に気付いた貴様が肩を揺らして笑う。
「――大丈夫だ。」
 低く寄せられる囁き声。
「ここは暗くてほとんど見えない。」
 たしかに店内の灯りはずいぶん絞られていて、店員も客もどこかうすぼんやりと影かたちでしか認識することはない、言われて見回し一度はああそうかと納得しかけたものの、そういうことじゃあないだろうとふと気が付き俺は声をあげた。
「それに貴様、どうしてこんなところにいる。」
「――どうして?」
 眉を寄せてこいつどうかしたのかと俺をうかがうようなまなざし、どうかしたのかと聞きたいのはこちらのほうだった。
「だって、貴様。……院のガキどもは。」
「院?」
「メシ食って、寝かしつけて、大急ぎで講堂の飾り付けをして、」
 こいつのいる、そうして、俺がかつていた、フェルディナントルークス孤児院でも、派遣された教戒師どもが、手作りのつつましやかながら飾り付けをして新年を祝う。それはほんとうに手作りのつたない、たとえば紙の輪飾りであるとか、花飾りにしか過ぎないのだけれど、普段とはちがう、昨日とはちがう新しい一年に心が躍った。昨日も、今日も、なにひとつ変わりはないことを判っていながら、なにかよいことが起きる気がするわくわくとした気持ち、生まれかわったような、これからはすこしだけよい子になろうだとか言う半日と持たない決意のようなもの。
 今ごろ準備におおわらわのはずで、俺に付き合っている時間が貴様にあるはずはないのだった。
「どうして?」
 かさねて静かに貴様がたずねる。それで俺はいよいよ不気味に思って、こいつ頭でもいかれたんじゃあなかろうかとそんなことまで思った。寒さか、任務中にどこか打ったか、どちらかに違いない。
「――あなたが、」
 運ばれた湯気の立つコーヒーカップを両手で覆いながら、貴様が俺をじっと見る。
「あなたが、一緒にいたいと言ったからではないですか。」
「私が?」
 顔をしかめて俺は貴様を見返した。俺がいつそんなみっともないことを口走った?覚えがない。貴様と一緒にだとか、冗談にもほどがある。
「ああ、もう忘れている。」
 おかしそうに呟いてそれからあらためて貴様が俺へ手を伸ばした。またかと俺は思う。いい加減にしろとその手を払いのけてもよかったのだけれど、手袋をはめていない貴様の指がめずらしかったから、一本一本が太く骨ばった指、短い爪、がさついた皮。指の腹で貴様が俺の頬を撫ぜて、俺はどういうわけかひどく安心するのだ。
「ずっと忙しかったでしょう。」
 貴様が言った。ああ、と俺は頷く。
「忙しかったな。貴様を、南米に送りだしてから、目の回るせわしなさだった。」
 南米。ちくりと俺の心臓あたりがいたんだ。そういえば、貴様は嬉々として出かけて行ったんだったな。
 動揺を知られたくなくて、俺は薄く目を閉じる。
「それに、このところの寒波だ。事務員どもが次々風邪をひいてぶっ倒れやがった。這ってでも来いと言ってやりたいところだったが、あいにく腹に来るやつだ。局内が反吐まみれになるのも困るので休ませたが、一人減り、二人減り、ぼろぼろ欠けていってまったく仕事になりやしない。」
 言うとくつくつと貴様が喉を震わせた。こんなに笑うやつだったかな。
 俺は目を開いて貴様の顔のあたりを眺める。店内の灯りがおぼろげで、貴様が俺を見ていること以上の表情はうかがえなかった。
「いいのか?」
「え?」
「ここで、こうしてて、貴様の日常業務に支障はないのか?」
 聞きながら、けれどいま貴様が、では、だとかいって席を立っていったとしたら、俺は意味もなくがっかりするのだろうなと思った。
 俺の言葉を受けた貴様はけぶるような声をたてて笑って、頬へ伸ばしていた指を、肩に鬱陶しく流れた髪へからませる。そうして黙ってしばらく髪をくるくると指にからめてはほどき、ほどいてはまたからめ、くりかえしてから、いいんだと短くこたえた。おもくてやさしい声だった。
「いまは、いいんだ。」
「……そうか。」
 俺はそれ以上言及しなくてもいい気がして口をつぐむ。不思議な気持ちになった。どうして貴様にこんな風に撫で繰り回されて、俺は腹のひとつも立てずにただされるがままになっているのだろうと思う。
 俺は貴様の手がこわかった。こわいはずだった。
 差しのべられる手、万人に向けられるいつくしみ、そんな安くてちっぽけなものは俺は要らない。だから無視した。見ないふりをして、ふり払って爪を立てて、もういいだろうと諭されそれでもなお納得いかなくてもがき続けた。俺がほしいものはそんなものじゃあなかった。
 だのにいまこうして、貴様が俺に触れる、横から腕を伸ばし、ひとすじひとすじ辿るように俺を撫ぜる。そうして俺は貴様のその動きを不快だとは思っていない。
 ずっとこうされてみたかったのだろうか。判らなくなった。
 
 
 貴様が俺の隣に並んで歩く。
 思えばもうずいぶんと長い付き合いの間柄であるはずなのに、こうして並んで歩くこと自体実にめずらしい。数えてみても片手の指におさまるんじゃないかと思うほどの回数で、そうして俺はいつも貴様とふたりになるとぎこちないばかりだった。
 なにを話していいか、手始めにそれから迷った。話題なんて思いつかない。そもそも書類と、壁と、責務にかこまれて、他にこれといった話題のない日々、口を開いてもこぼれるのは愚痴であるとか嫌味ばかりで、俺は貴様の耳に、やくたいないマイナスばかりの言葉を入れるのは、どういうわけか気がひけた。だいいち、おもしろくないだろうと思う。
 あれが厭だった、これにむかついた、そんなことばかり聞かされて何が楽しいものか。
 けれど、では、といっておもしろおかしい話を思いつくはずもなく、逆に貴様が言葉少なに探しあてた話題はすべて皮肉でかえし、かえすたびに俺は俺自身の心ない言葉にぐさぐさと穿たれる思いだった。
 嫌気も差す。なんというすさんだ人間。
 三つ子の魂百まで、そんな言葉があるけれど、結局氏も育ちも同等のものなのだ。氏が欠けてもいけない。育ちが欠けてもいけない。そうして双方揃っているから、心根のくさった人間になる。まるで邪心のない、芯から楽しいといった笑顔を浮かべる他人を見るたびに、そそけだつのだ。
 こいつとおのれのこころもちというやつは、まるで此岸を彼岸ほどに離れているのじゃあないかといった思いが俺の中に去来するのだ。
 俺は生涯あんな風に笑えそうにない。
 どう取り繕ってみせたら、あんな具合に莫迦げた笑いを浮かべられるものなのだろうかと思い、鏡をのぞいたことがある。ためしに口の端をあげて満面の笑みをつくってみると、頬がゆがみ目がほそまって威嚇の顔が牙を剥いて嗤った。
 ばかばかしかった。
 黙り込んだ俺をのぞきこむようにして、貴様が俺の拳を包んでにぎり、冷えていると言ってそのまま外套のポケットへ誘導した。さすがに往来でこれはないだろうと俺は貴様のポケットへ突っ込まされた拳を抜こうとするのだけれど、体温の沁みたそこはひどくあたたかくて、ただ拳を引き抜くだけなのに躊躇する、まよう俺を見透かした貴様が大丈夫だと俺に言った。
 人気がないのが幸いだったが、なにが大丈夫なものか。
 貴様は店でもそんな風に言ったな。
 むっとなった俺の手を同じようにポケットへ突っ込んだ貴様の手が握る。しみいるぬくもり、貴様が大丈夫だと言うのなら、そうなのかもしれない。
 だったらいいか。俺は深く考えることをやめて貴様に気持ちすこしだけ寄り添った。別に寄りたかったわけじゃあないけれど、手を掴まれているものだからしようがなく近付くよりほかなかったのだった。
 冬の町を歩く。
 どこへ向かって歩いているのか判らなかった。
 先ごろはたいして疑うこともなく流してしまったけれど、やはり俺と貴様がこうしてこの日に歩いていること自体おかしい気がして、なあ、と俺は再三、貴様に疑問の声を投げかける。
「新年の式典、私にも出席がおしつけられていたと思う。」
 貴様はここにいても別にかまわないのだと言っていた、では俺はどうだったろう。
「私はここで、なにをしている?」
「――マクスウェル。」
 心底いぶかしむ顔をして貴様が俺を見る。どうしたのですかと俺にたずねた。
「さっきから、どうしたんです。」
「どうしたって、貴様、」
 ちがう、そもそも貴様がこうして俺といることがおかしいのだ。
 貴様と俺のあいだに渡る距離、それはこんなに近いものじゃあなかったはずだった。いびつにひかれた三十八度線。荊の境界を踏み越えてはいけない。踏み越えてはきっと、取り返しのつかないことになるから。
「貴様、変だと思わないのか。」
 俺は言った。
「――どこが?」
「どこがって。……私に対して優しいところがまずありえないだろう。」
「――あなたがそう望んだでしょう。」
「私が?」
 それも忘れてしまいましたか。声に憂いをまじえて貴様は溜息をついた。聞いて俺はああしまったのかもしれないと思う。貴様ががっかりするのだったら、聞かなかった方が幾分ましだったのじゃあないかと、そんなように思った。
「――やさしくしてほしかった。」
 ずっと。貴様が静かに口を開く。
「やさしくして、そうして一緒にいてほしいと願った。だから俺はこうしてここにいる。変なのはお前のほうだ。望んだことがその通りになっているのに、なぜ、なぜと先からそればかりだ。」
 言って貴様が先へ進む。俺も同じようについて行こうとしたのだけれど、どういうわけか足がすくんでその場にとどまり、だったから拳もポケットからずると抜け落ちて外気に冷やされ、たちまちかじかんだ。
 進んだ貴様が困ったように振り返って俺を見る。どうしたらいいのか扱い兼ねているその表情は、孤児院時代に貴様が俺を見るときによく浮かべていたものと同じだった。
 マクスウェルとよく響く低い声が俺を呼ぶ。あわれみを含んだ視線、とっくに日は落ち街頭の灯りも届かないのに、どうして俺は貴様が困った顔をしているのが判るのだろうかと思う。気配というやつだろうか。
「マクスウェル。」
 貴様が俺を呼ぶ。
「マクスウェル?」
 
 
 目を開くとみなれた機関室のなかだった。誰もいない。滞った仕事を片付けようとしてひとり残っていたのだけれど、どうやらいつのまにか寝入ってしまったようだった。机に俯せていたせいで貼りついた書類を顔から引きはがし、俺はにじんだ文字に眉を寄せる。
 うっかり涎でも垂らしたかと口をぬぐうと、口の端でなく頬が濡れていることに気がついてぎくりとした。
 涙。
 俺が泣いていた?なににたいして?さっぱり意味が判らない。夢は阿頼耶識のあらわれだと言うけれど、とんでもない話だと思った。俺の知らないところで、勝手に俺の無意識を決定づけるなと思う。
 あなたが望んだのでしょう?
 ……あんなものが、願いだと言うのか。
 手もとの書類に目を落とし、苛々としながら記入しようとして、暖房のない室内はえらく冷えて、ペンを握りかけた指がうまく曲がらないことに気がついた。
 溜息をつく。
 ついてそのままなんとはなしに視線が流れて、俺は机の上の電話の上で目を止めた。
 貴様がどうしたって慣らしてこないコールを、俺はみじめな思いで待っている。俺のほうからはかからない。かけられない、ではなくて、かからなかった。コールしてみたところで、無感動な音声が聞こえてくるばかりだ。おかけになった番号におつなぎできません。電波の届かないところに、もしくは電源がはいっておりません。だから俺は待つしかなくて、もうひと月と半になる。
 一度も鳴らない。
 十三課の機関員が連絡のつかない未開の地へゆくことはわりと多いもので、気苦労するだけ無駄なことだった。だから俺は任務を終えたという連絡を夫夫から受け取り、次の指示を出す。いままでもそうしてきたし、貴様が向かった南米が特別でもなかった、だのに王立国境騎士の名を出した途端にまっしぐらに向かっていってしまった貴様、こちらの説明もそこそこに部屋を退去していった貴様、ぎらぎらと熱狂歓喜に打ち震えるまなこ、食いしばられた奥歯。
 きっと俺の声の半分以上貴様の耳には届いていなかった。
 愚かだな。
 黒光りする電話のおもてを一瞥し、俺は呟く。
 差しのべられていたと思っていた腕は、その実最初からのべられてはいなかった。ただ形だけこちらへ向けられていたように思っただけだ。
 ひねてねじくれたガキがひとり、言うことを聞きそうもなく膝を抱えていたから、かたちばかり貴様はいつくしみを向けてみせただけで、ほんとうのところはすこし遠くに見えるぶちのめすべき化け物どもに、なぎ倒すべき異教徒どもに、こころを奪われまっすぐに奴らを睨めつけている。灯台下暗し、だったら安易に足元に転がったガキの一人や二人打ち捨ててさっさと先へ進めばよいのに、ああそうか、貴様はやさしいのではなくて単に欲が深いのだ。唐突に気がついた。あちらも、こちらも、手に入れたくて仕方がないのだ。ひとつでは満足しない。
 寒かった。
 おのれの肩を抱きまた机に伏せながら、どうせ眠ってしまうなら部屋に戻って布団を被った方が百倍もいいことは判っていて、ここにいるのだと思う。電話があるから。
 腕枕に顔を寄せて、けれど俺は貴様がきっと電話をかけてこないことも知っていた。胸ポケットにもたせた、携帯電話のかたちすら認識していないかもしれないとさえ思った。貴様の関心は真ん前の、俺ではないべつのなにかに向いていて、そこにちらとも俺がつけ入るすきはない。歓喜に打ち震えた貴様は刃となって血烽火を上げ頂に旗を突き刺すだろう。交差した金と銀の鍵。
 夢にいた貴様は気味が悪いほどにやさしかったな。
 目を閉じ俺はうつらうつらとあの夢のなかへ戻ろうとする。俺の無意識の願い?結構なことだ、別にそれでも構わないと思った。
 どうせ電話は鳴らないから、貴様は指の先ほどもここを思い出すことはないから、だったら夢にいた貴様が俺を見つめて俺を呼ぶ、夢のなかへ戻ってしまえばよいと思う。どうせどちらも存在しえない存在なのだ。
 貴様の緑灰色の目の中にうつったまぬけな顔をした俺。笑いもせず、愛想のひとつふりまくこともできないおどおどとした俺をじっと見て、貴様はおだやかな笑みを浮かべてみせた。そうだった、俺は一度でいいからああした風に、貴様のなにもかもを注がれてみたかった。
 なにひとつ横槍を入れない冬の町並み。もうすぐ年が明ける。地下のここに届くはずもない花火のぽんぽんと打ちあがる音が聞こえた気がした。カウントダウンの歓声、響く鐘の音、なにがめでたいわけでもないのに一斉に言祝ぎ交わされるまじないの言葉。おめでとう。よい年でありますように。
 すうと夢が近付く。たぶん次に目が覚めたとき俺は風邪をひいているけれど、どうでもいいことだった。俺は貴様とあてもなくひたすら町を歩こうと思う。貴様と肩を並べて、すこし寒くなったら店に入ってあたたかいコーヒーを啜り、パニーノに食いついて、話すことはとくにないけれど俺は貴様がやさしい、それだけで十分だと思う。
 マクスウェル。貴様が俺を呼ぶ。俺は貴様のごわごわした外套に身を寄せてポケットに拳を突っ込み指をからめる。指の腹で爪のおもてを撫ぜて、くすぐったさにくつくつと笑いあう。
 マクスウェル。今度はなぜ、だとかどうして、だとか無粋な問いをせずただ貴様と一緒にいられるといいと思った。俺は貴様が俺を呼ぶときのすこし喉奥にひっかかったような呼び方がきらいじゃあない。夢の中の貴様ならきっと何度でも俺を呼ぶだろう。
 まぶたの裏が熱くなってまた頬になにかが流れた。なまぬるいなにか。くそ、くそと悪態をつきながら俺はひとりで肩を抱え眠る。

 


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最終更新:2020年08月08日 23:28