アットウィキロゴ

 *

 

「たとえばのはなしだ。」
 言って、机に向かいびっしりと文字の書きしるされた紙束と鼻先突き合わせていた男が、引き離すように手元のそれから目をうつし、ああと伸びをして首をまわした。
 くたびれたらしい。
 うん、とすこし離れた場所でソファに浅く座り、机にいた男から手渡された書類へ目を通していたもう片方の男が、なんだと机の男へかえした。ひどく大柄な男だった。
「どうでもいい手慰み話なのだがな、先週だったか、新聞に、ローマ近郊の凍死人の数が例年の倍を超えただとか言う記事があってな。」
 貴様読んだか、机の男が言う。大柄な男はいいやと肩をすくめ、外出先で新聞に目を通すいとますらなかったとこたえた。
「……南の。」
「そうだろうさ。おやさしい我がイタリアは、大陸からの戦争貧民、避難民を受け入れることに異を唱えないが、結局やつらが入国できたところでまともな働き口がないことからは目を逸らしている。入れるだけ入れて始末に難儀して腐らせる。ガキが得意になってあつめるブルーベリーだな。」
「ふん。」
 それで?大柄な男が目で問う。おのれに関わりのない人間が何人も死んだニュースで、この目の前の机の男が、胸を痛める性格の持ち主ではないことはとうに承知している仕草だった。
 おのれに関わりのある人間が死んだところで眉をひそめて、そうして終いなのだ。
「実に見え透いた情報操作だと感心してなあ。」
「見え透いた、」
「それ以外にあるか?凍死、という言葉を用いて、今年の寒さは例年になく厳しいと謳っちゃあいるが、結局のところ寒さではなく飢えて死ぬ、のだろ?凍えて死ぬんじゃあない。仕事に付けなくて食うものがなくてやつらは餓死するんだ。」
「――」
「首相以下閣僚の無能をつつくとなにかと都合が悪い。だがそれなりな人数がおっ死んでいる以上、記事にしないわけにもいかない。寒さにかこつけて、大衆意識を操作するわけだろう?あからさまな煽動だな。」
 言いながら机の男の口角がにいとあがっている。いつもこうだ。皮肉と侮蔑、彼をかたどるほぼすべての材質。
 面した大柄ながわは、そうか、と軽くうなずきながら、机の皮肉にたいしたいらえをかえさない。慣れているのだった。
 入室して出された、最初から湯気のないマグカップをぐいと掴んで、一気に中を飲みほし、遅れて大柄はおかしな顔をした。
「お前、」
「あ?」
「いつのだ?」
 なにが、と同じように片眉を上げた机の男が、大柄のしめしたマグカップに気が付いて一瞬無表情になる。それを見て大柄がおいと低く呟いた。表情を消したわけが、笑いをこらえ逃がす所作を誤魔化すためのものだと判っているからだ。
「怒るなよ。毒にはならんだろ。」
 こたえながら机の男の目が笑っている。いつのだ、と重ねてたずねると、二日前のやつだったかなとこたえられ、大柄はあきれた顔になった。古いものをだされて憤慨したのではなく、その間机の男が自室にすら戻っていないことを理解したからだった。
 理解はする、けれど口にしない。体をいたわれと言ったところで、相手の材質の皮肉と侮蔑に武装された辛辣な言葉が山ほど戻ってくることを知っている。
 もしくは諦観。
 溜息をつき、渡された書類へ目を戻す。
 一方で机の男がどこか上の空で頬杖を突き、ペンを片手に弄んでいることにも気づいていた。
「たとえばのはなしだ。」
 しばらく互いに口をつぐみ沈黙が流れて、それから机の男が不意に思いついたように口を開く。本題に入るまでが実に長い。促すとへそを曲げて口にしないことが多いので、大柄は辛抱づよく口をはさまないことにしていた。
 くるくると黒インクのペンがまわる。
「飢えて死ぬというのは、つまり、栄養が体に行き届かなくなって、衰弱して死んでゆくのだよな?」
「……そうだろうな。」
「人間の生命活動に於ける重要な部位と言うのは、つきつめれば、頭か、心臓か、そういうことになると思うんだが、先に止まるのはどちらのがわで、しぶとく最後まで動き続けるのはどちらのがわなのだろうな?」
「それは、」
 言いかけて一度区切り、空になったマグを手のひらの中で転がしながら思案して、やがて大柄は心臓ではないかと呟いた。
「なぜ。」
「脳死という言葉がある。脳は死んでも、臓腑は生き続ける。」
「だが、臓腑の機能を統括するのは頭だ。」
 とん、と弄んでいたサインペンの柄で机の男がおのれの額を軽く叩き、ここが止まれば人間は人間としての意義を失うから、そう言った。
「血液を送り出すのは心臓だろう。」
 大柄がまたしばらく考えをめぐらせて、口を開く。意味のない会話を交わして益体もなく終わる。上司の暇つぶしにつきあってやる気になったのだった。
「……赤血球に付加して酸素が頭に送られる。酸素の供給が止まれば、脳は壊死する。」
「だが、首を捥いで数時間、すくなくとも数十分は酸素の供給がなくとも、脳は生きているという実験結果もあるだろ。」
「……心臓もしばらくは動きつづける、」
「胴体から取り出してつながった管を取り払ってしまえば、、数分と持たないのじゃあないか。」
 だからやっぱり頭のように思う、大柄の反応を予想していたような机の男の反応の速さに、大柄は苦笑し、なんだこたえは出ているじゃあないかと言った。
「……こたえ?」
「お前が最後まで守りたいのは、きっと頭なのだろうよ。」
「私が?」
「お前は頭がいい。ひとのそれよりよく回る。頭を使って生きながらえてきたお前が、一番にのこしておきたいものは、たぶんお前の思考なのだ。」
「――、」
 大柄に告げられ、衝かれた様子の相手は、何度か口を開閉し、やがてそういうものかな、と呟いた。彼にしてはたいそうめずらしい険の消えた静かな声だった。
「私は、私であることを最後まで残しておきたいのか。」
「どうかは知らん。俺がそう思ったというだけの話だ。」
「――」
 言われてじっと考える風に机の男はひととき黙り込み、それから貴様はどうなんだ、言って大柄の男をちらと眺めた。
「俺?」
「貴様の戦いぶりを見ると、どうも頭よりまず胴体を守ることが多いな?」
「……ああ、」
 指摘されて大柄は頷く。
「神経系統は頭が管理している。だからもちろん頭も肝要だが、胸部を損なっては出血がひどい。出血が多いと体がうまく動かぬ。ダメージが大きい。部分で言えば、頭の再生と、胸の再生では、出血を伴うぶん、胸のほうがより守らねばならぬ箇所なのだ。」
 言いながら大柄は考える仕草をし、終えてすぐにだがそうかもしれないなと机の男へむけて言った。
「俺は心臓を守るのだろうよ。」
「さっきから貴様はそう言っているじゃあないか。なにがそうかもしれないのかがさっぱりだ。」
「ここには、」
 大柄な男は胸に手をあて、
「こころがあるからな。」
 真っ直ぐに視線を向けると、その視線を受け、一瞬きょとんと面食らい素の顔になった机の男が慌てて視線をはずし、莫迦か、と気を逸らすようにぶっきらぼうに呟いた。
「穿りかえしてもなにもない。こころだとか言うものはまやかしだ。」
「そう思うか。」
「当たり前だ。」
「では、調べてみるか?」
「はあ?」
 どうやって、いぶかしんで眉根を寄せた机の男は、けれど視線を合わさずじまいで、常より険しい顔をしている。それが動揺を隠すためのものだということを、大柄は知っているのだった。
 おもむろにソファから立ちあがり、机のがわへと数歩歩み寄ると、さすがに動きに目を瞠った相手が、わずかに身構え睨む仕草になった。大柄が近付くたびにこうした反応を彼はする。
 ずいぶんときらわれたものだな。大柄は苦笑した。
「そんなにこころとやらが大切なものか、」
 牽制するように机が言葉を発し、そっぽを向く。ああ、と大柄はそれ以上近付くことを諦めて、肩をすくめこたえた。
「ここにはお前がいるからな。」
 言われて今度こそ言葉を失った彼は、硬直したっぷり数分黙り込んだ後、やがて顔をそむけたまま机にあったコーヒーの残りへ手を伸ばし、一気に飲み干すとまずい、そういって顔をしかめた。

 

 

----------------------------------------------------
>next

最終更新:2020年08月08日 23:28