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 ひたひたひたと耳のすぐそばに水の浸食する音がして、うつらうつらとしていた俺の頭の半分がたがようやく覚醒する、覚めた瞬間いったいなんだと不快になった。
 雨漏りしているのだとしたら、はやいところ修繕しろよ。屋根板がだめになったらどうする。
 そんなことを思う。
 ひどい大雨のたびに老朽化のすすんだ建物のほとんどの部屋に雨がしたたり水たまりができ、それを避けるためにたらいだのバケツだのを部屋のあちらこちらに置いて、壁からしみ出るところへは丸めたマットを転がした。雨期になると当たり前の光景だった。ガキの行き来が激しい廊下は、丸めたマットレスさえすぐに誰かが蹴ったくらかして、中途半端に濡れふやけたそれは汚らしく廊下へ横たわる。
 フェルディナントルークスにいた時分の話だ。
 みすぼらしい廊下に泥水が滲み、ますますみすぼらしくなったようで、俺は眉をしかめてそいつを壁際へまた転がしなおすのだった。誰かに見つからないように細心の注意を払った。大人に目撃されるとえらいですねだとか気が利くだとか、腹の足しにもならない愛想をいわれたし、院に収容された上のクラスのやつらに見つかれば、いいこぶって可愛い気のないやつだとか大人に媚を売っているだとか、陰湿にいじめられるのがおちだからだ。 
 しかしずいぶん耳元に近すぎやしないか。
 そんな風に思う。
 これじゃあすぐに水がこちらに流れてきてしまう、そうしたらきっと耳殻をつたい中耳にいたって内耳へもぐりこみ、はては頭蓋のど真ん中へ、しのびいる泥水はずるずると溜まり続け、いずれ、ぱん!水風船。
 はじけた俺は頭蓋の破片をまき散らし脳漿を飛沫く。ぱたぱたと床に落ち、排水溝を目指す泥水に交じりあうのだと思った。
 浸食する水の音にかぶせて、さらさらとやさしい音がする。えらくやさしくてひどく冷たい、膚を撫でる指先。動きで舞い上がる小麦粉よりも軽い塵芥のような雪が、また固く凍りしめた地表に衝突するときの音だ。
 しかしそれにしてもスプリングのへたれたマットレスだな。背中がいたい。いくら設備費が足りないからと言って、ケチりすぎじゃあないか、捨て惜しむにも限度と言うものがある。
 他人の触れたマットレスのおもて、機関に組み込まれて以降もあてがわれた部屋の寝具にも家具にも俺の意思嗜好はないまま過ごした。集団で暮らした記憶のすくない人間は、よく他人のにおいかたちの染みついた部屋で過ごせるものだと顔をしかめるけれど、俺にとってはなにをいまさらと言う程度のことでしかなかった。そうした風に育つしかなかったのだ。
 こいつはもういらない、冷めた目とともにほうり投げられた孤児院であてがわれた部屋、強制的な数人との同室、入り込まれるプライバシィだとか言うやつの前には、マットレスのかたちだの寝具の柄だの、もはやどうでもいいことだった。
 進んだ神学校でも同じように寮住まいを強いられたし、そのころには他人からの興味好奇心を断つ方法も覚えて、イタリアはローマ、ヴァチカンの特務機関に配置されるころには、先日死んだ人間が寝ていたベッド、だとか言われて通され寝ることになっても、もはや動じることもなくなっていた。どういう具合に死んだのか、ささくれひとつぶんにも満たない関心でしかない。知る必要もない。過敏では生きていけなかった。
 そこまで考え、ああけれどいま俺が寝そべる寝床はローマ近郊の孤児院であるはずは決してない、なぜならいくら暖房設備が旧式だと言ったってここまで冷え切った部屋のはずがない、だいいちこんなに寒くしていたらガキどもはみんな風邪をひいてくたばってしまう、くたばるガキどもを目の前にして貴様が黙って見過ごせるはずはないから、唐突にそのことに気がついた。
 貴様だったら建物まるごと燃やしたって暖をとるだろうさ。そう思った。後先なんて考えない。仮に考えても黙って見過ごすことができるような器用さはきっと持ちあわせていないのだ。
 そのなまぬるさをやさしさ、だとか呼ぶのかどうか俺は知らない。
 たしかに言えることは、ここは院じゃあないということだった。
 目を開けることも億劫で、手足を投げ出しごろりと転がったままの俺の右わき腹から、じくじくと粘着質の液体が漏れてゆく気配がする。車と呼ぶにはいまはもうその形をずいぶんと変えていて、残骸とでも言った方がいいのかもしれない、その車の後部座席へ頬をつけ横向きに俺はころがっていて、ゆがんだ車枠から寒風とともに雪が吹きこんでくる。氷点下もいいところだった。
 ひたひたという音は、その厳寒に乾燥したシートの表皮に、俺のからだからしたたる体液がしみ込んでゆく音なのだった。
 車周りをごうごうと雪嵐が荒れ狂い、隙間風は笛のように鳴って、布地にしみいる音は俺の耳にどうしたって聞こえる前にかき消されてしまうはずなのに、なぜか俺ははっきりととらえてその一滴ずつしたたるさまを、ひとつ、ふたつと数えて暇をつぶしているのだ。
 実際とんでもなく暇なのだった。
 四肢はかじかみを越えていまはもう感覚もない。もしかすると凍傷とかいうやつになっているのかもしれない。あれも進みすぎるとぼろりと根っこの部分から手足が捥げるのだそうだけれど、捥げるのが先か、くたばるのが先かさて俺はどちらだろうなだなんて暢気なことを俺は思っていた。どちらにせよ、俺が俺自身でできる対処は限られているのだ。
 ひとつふたつと数えていたものがやがて千、万を超え、いい加減この益体もない行為をとめねばならぬけれど、さてとめたところで次に俺はどうして時間をつぶす。大問題だ。またうとうとと寝てしまえばそんな悩みもなく、どころかそのままくたばれそうな気もしたけれど、そもそもここでくたばる気が俺にあまりなかったのだからしようがない。悩んだ俺の意識に、外気をかき分けてたしかにこちらに近付く生きものの気配が飛び込んだ。
 たしかめるまでもないと思った。来るだろうと思っていたし、貴様以外ありえない。
 だから驚いたというよりは、ああやっと来やがったかといった具合で、凍りつきかけたまぶたを俺は無理矢理にひきはがし、うすく目を開ける。
 ふけば飛ぶような質感のない雪を、きさまが踏みしめ固めて、一歩一歩前進し視界に入った「もと」車へ、近付いてくるのが判った。
 姿も見えないのに、音は聞こえないのに、どういうわけか俺には感知できたのだった。
 これが以心伝心というやつかね、そんなことを俺は思い、まさか、貴様とどうしたって判りあえる気はしないし判りあいたいとも思っていない、すぐさま否定する。揺らぐ焦点を何度かまたたいて補正し、顔を上げたところに真っ白にくもった窓ガラスの向こう側にのっそりと人影がたどりついたのを見た。
 助手席ドアへ手をかけ、押したり引いたりしている音がする。しばらく試して、ゆがみまくったそこがどうあっても開きそうにないことを理解したか、がつ、と一度ノブを八つ当たり気味に叩く音がして、それから気配は後部へまわった。
 比較的損傷の軽微なバックウィンドウ(それだってほかが比べ物にならないほど大破しているだけで、ひん曲がっていることに変わりはないのだけれど、)へ手をかけ、外側へ力任せに貴様が引くと今度は開いて、するとどうと吹き荒れ狂った風が容赦なく吹きこむ。もうからだは充分冷え切っていたはずなのにそれでも寒く感じられ、身を縮め寒いからはやく閉めろと俺は貴様へむかって唸った。
 でかい図体を折りたたむようにして貴様が車内へむりやり入り込み、力任せにこじ開けたドアを開けた時と同じように叩きつけるように閉める。車がゆれた。唐突に風のやんだ車内はしん、と静まり返ったように感じられて、俺はのろのろと視線を動かし、朱に染まった運転席と、空っぽの助手席、それから俺のからだの上から下までを無表情に見やる貴様へ向かって、薄く笑う。
 まったくひどいありさまだよとぼやいてみせた。
「――吸血鬼ですか?」
「ああ。なりたてのやつが二匹と、なりそこないのやつが一匹。」
「そいつらは、」
「なりたて二匹は、車がガードレール下へ転がる勢いで轢き潰した。なりそこないはそれでもしぶとく生きてやがったから撃ち殺したよ。」
「局長が?」
「運転手はフロントガラスに突っ込んで即死だ。ボディガードは落下している中途の車からほうりだされてな。しばらくはそのあたりで呻いていたが、声が聞こえないところを見ると、死んだのだろうな。」
 ほかに人員がいるか?皮肉を込めて俺が口角を上げると、貴様が一瞬口を噤み、それからもう一度俺のからだを眺めて、具合はどうなんですと低い声でたずねた。
「……どうって、」
「わき腹。」
「ああ。」
「――自分で撃った?」
「ああ。」
 いらえると貴様が眉をひそめ、とんでもなく間違いをおかした、もしくはひどく頭の悪い人間を見るような、侮蔑の視線を俺に向けた。しかたないだろう。俺は苛々してこたえる。
「傷口をこじ開ける必要があった。だが、貴様と違って、私は都合よく刃物を持ち歩いていないからな。聖別された銀の獲物なんて、銃身に込められた弾丸ぐらいしかなかったんだ。」
「それで、撃った。」
「ほかに方法があるか?」
 止血しようと手を伸ばす貴様の腕を払い、いい、と俺は首をふった。感覚が疾うにないのに、腕が持ち上がったことが素直に面白いと思う。
 襲撃は突然だった。
 もっとも、 予定通りに組まれた襲撃なんてものは、あるはずがないのも判っていたけれど、それでもまるで前兆と言うものは感じられなかったので、それだけは見事だったと思う。
 イタリアで起きたボヤさわぎに、なぜだかスイスくんだりまで呼び出され、しぶしぶ出向いて用事を済ませた。もしかすると、その移動すら仕組まれたものだったのかもしれないと思う。
 俺は、なにかと邪魔な存在だろうから。おのれですらそう思うのだ。誰の、だなんて特定もできない。あちらこちらに敵が多すぎて、数えるだけ無駄なことだった。
 くにざかいの峠道、ちょうど走らせていたデイムラーが、突如の爆音にきりもみ、運転手が前部ウィンドウに頭から突っ込んで、赤い飛沫と化した。なんだと思う暇もなかった。後部座席で書類に目を通していた俺は、勢いで座席下に転がり落ちる。車外に投げ出されなかっただけましと言えたし、そのあとの崖下へのダイブを思えば、投げ出された方がましとも言えた。
 どちらにせよ、最悪だったことに変わりはない。
 ブレーキを踏める人間が真っ先に絶命した車がいったいどうなるかというと、もう考えるまでもなく判りきったことで、走っていたスピードのままガードレールへ突っ込み、勢いを殺しきれずにそのまま鉄骨をひん曲げて転がり落ちる。弾みのついたボールのようだった。二転三転するうちに車体が一方がふくれ、一方がへこみ、瞬時に皹が入り真っ白に変色したガラスが、それでも砕け堕ちずに窓枠にしがみついていることが不思議だった。
 ゆがみ開いた助手席のドア外へガードのからだが吸いこまれるように消えて、甲高い恐怖の悲鳴があとに残った。
 数十メートル転がり落ちた車体は、落ちたときと同じように不意に物理運動をやめて、いまはもう頭部のない運転手の胴体が、ハンドル上に乗りあげてけたたましくクラクションが鳴り続けた。
 ぐらぐらと揺れる頭をもちあげ、状況確認をする前に、うるさいからはやくその不愉快な音を何とかしろという文句がまず浮かんで、それから俺はうめきながらようやく体を起こす。即死した運転手のからだに手をかけると、きたない朱を引きずりながらずるずると死体は倒れ、ふっと車内に静けさが戻った。
 おのれの四肢をたしかめ、首を回し腹に手をあて、おそらく明日には全身ひどい軋痛に悲鳴を上げることだろうけれど、いまのところ目立った外傷もないようだと溜息をつく。ついた俺の耳に、鉄屑同然になったこちらへ雪を蹴立ててやってくる気配、すかさずガンホルダーから護身用のS&W M-36を引き抜いた。それと同時あたりに、飴細工のように捩じれた車体を軽々とこじ開け、俺の腕を掴み車外へ引きずり下ろしたやつがいる。無遠慮な力に思わず顔をゆがめた。どうあっても人のではありえない強い力だった。
 片腕は掴まれていたので、添え手なしにおそろしく膂力を持つらしい相手へ、右手に構えたチーフスの銃口を差し向ける。無遠慮な力にこたえるべく、弾倉に込めた五発、こちらも遠慮なしにぶち込んでやった。ある程度の距離を開けた相手に片手命中させるほど、俺は拳銃に精通していないけれど、目の前の、俺の腕を掴む、一歩とはなれていない相手へ向けるぶんにはなんら支障はなかった。
 黒い血反吐を噴き、劈めいた金切声をあげて、人ではなくなっているものがもんどりうって雪上に転がる。手を放された俺も勢い、同じように投げ出されて、尻餅をつきながらポーチをさぐり、次弾を込めようとしたところにだらだらと反吐とよだれの交えた液体を口からしたたらせた相手が、ぎいぎいと唸りながら顔を上げ俺を見据えた。
 祝福儀礼を受け、聖別してあるはずの銀の弾丸五発もろにくらってなお動く気力があるらしい。ばけものめ、俺は吐き捨て、それからその言葉がこれほどぴたりと合う相手と状況も、なかなかないのではないかと思った。
 ばけものめ。
 それでもだいぶんダメージがあったのか、そいつはしばらくうずくまった姿勢でからだを震わせており、その間に俺は空薬莢を放りだし、寒さでたちまちかじかみはじめた指先で取り落とすことのないように苦心しながら、一発一発装填していった。
 徐にそいつが呻くことをやめ、ずると立ちあがる。立ちあがった動きと、次いで飛びかかる動きは見事に一瞬で、弾倉を銃身へ戻し終わる前に俺はそいつに圧し掛かられ、褐色に変色した乱杭歯、俺の首もろとも食いちぎろうとむきだされた。無意識に腕が伸び、めでたし、聖寵、充ち満てるマリア、俺は呟きながら胸に下げた十字を掴みそいつの顔面へ押し当てる。
 熱を帯びていない、どころかひどく冷え切っているはずの十字は、相手の膚に触れるとじゅうと音をたて煙を上げて、苦痛の叫びをあげるそいつが一瞬ひるんだ。瞬間俺は銃口をそいつのこめかみに押し当て、追い打ちの洗礼を叩き込む。
 銀の祝福。五発。
 途中三つを超えるあたりから相手のひどく長く伸びた舌がだらり口外へはみだし、口から血泡が噴き出たけれど容赦なく俺は全弾ぶち込み、それから、力の抜けたそいつの臭うからだを引きはがそうとした。
 すると唐突に白目ばかりになっていたそいつの目がぐるんと回転して俺に焦点を絞り、くたばりぞこないの最後の力で、俺の右わき腹へ牙を突きたて、その力もそこで仕舞いだったのだろう、とうとうこときれた。
 相手の喉奥から細い笛の音のような呼気が漏れて、人ではないもの、ばけものに成り下がり、死んで腐敗しかけた肉体を引きずるこんなやつでも、断末魔の時分には息を漏らすのかと不思議に思った。
「――それで?」
 貴様が静かな口調で問う。
 車体の屋根へ粉雪が積もっては風に煽られてゆき、その度にさらさらと音をたてる。更紗をこすりあわせたようなひどく高音の、聞いていて飽きのこない摩擦音。俺はゆっくりと目を閉じ座席にもたれる。
「牙を抜いて、それから雪で傷口をぬぐってたしかめた。……相手の死ぬ間際のことだったから、おそらくこちらの体液を吸い、代わりにあちらの精髄を注ぐ間はなかったとは思うんだが……、正直なところ五分五分なんじゃあないか。」
 ぼつぼつと歯形に開いたわき腹の傷痕を撫ぜ、それから俺はしかたなしにポーチをさぐった。入っていたのは残り二発で、当然のことだと思う、そもそもキナ臭い交渉の際に護身用の銃を身に着けることはあったけれど、俺が撃つ、という事態にまで発展することは稀だったし、俺のところまで敵がくるとしたらそれは警備の大問題だ。穴だらけにもほどがある。護衛されるのが当たり前で、そうして俺は護衛する側の人間じゃあない。
 残り二発を込め、それから俺は両の手袋をはずすと口にくわえて奥歯で噛みしめた。弾数はない。失敗はできないし、仮に一度しくじった場合、おのれに二度ぶち込む勇気が俺に持てるかどうか確信が持てなかったから、慎重に銃口を裂傷のいっとうひどい箇所にあて、それから普段は人差し指で引く引き金へ親指をかけた。
 そうして親指へ力を込める瞬間に俺が思ったことはと言えば、逆手の銃と言うものは持ちづらくてかなわんなということと、まったく、次は(次と言うものがもしあればの話、だが)銀のナイフを持ち歩くことにしようという、わりと悠長なことだけだった。
「弾丸は?」
「……貫通した。ついでに傷口も焼いていってくれたので、出血もあらかた抑えられたな。」
 噛みしめた奥歯から血の味がして、手袋を吐き捨てる。都合よく神の御名の書かれていないまっさらなものでよかったと思った。
 それから俺はがくがくふるえる体を引きずって車内へ戻る。焼け付くようにわき腹が熱いと感じたけれど、痛みはなかった。瞬間の痛覚の感知レヴェルをふり切ると、脳が感覚を遮断して痛みを感じなくなるというが、それならそれでそのときの俺にはたいそうありがたいものだった。呻くよりずっといい。
 ただ、からだへのダメージは相当あったようで、うまい具合に膝が立たず、座席へ這いあがるのに苦労した。這いあがり、叩きつける雪風に辟易して、なんとかこじ開けられたドアを閉めなおす。どうと座席に倒れこみ、まとわりつく髪に舌打ちした。ほつれたそれは、風に煽られ目に入るやら口に入るやら、どうにもひっつめ後ろで括っておかないと邪魔なことこの上ない。だったらいっそばっさりと切ってしまえばそれで済む話なのだけれど、俺はどういうわけか切りたくないのだった。
 理由は知らない。考えたくもなかった。
 ついと手を伸ばし、俺が気付いて払う前に貴様が今度は俺の顎をとり、太い親指を口へ突っ込んで口を開けと言う。手袋ははずされていた。言われて思わずそのまま開くと、しげしげと口内をのぞきこんだ貴様が、まだ人間だなと言った。
 失礼な奴だと思った。すくなくとも成人した人間にする行為じゃあない。いつまで俺のことを孤児院にいた時分とおなじガキ扱いするんだ、俺は貴様の上司だぞ。突っ込む前に聞けと思う。けれど口を開いて罵る元気は俺にはなくて、ただ閉じていた目を開け睨みあげるにとどめた。その俺のまぶたにも触れて、青いなと貴様がつぶやく。ひとではないものになると、目の色が変わるから、そう言ったのだろうなと思った。
 見ていると、次に背負ってきたらしいナップサックの口を開け、水筒をとりだしてこちらへ差し出す。いらない、と首をふると吐いてもいいから飲めとぐいと押しつけられた。腕の感覚がないばかりか、そもそもくたばりかけている人間に押しつけるのはどういうわけだと、さすがにうんざりとして水筒の蓋を見おろす。飲まんのかと低い声でたずねられた。
「……いや、飲まないというか、」
「飲まんのなら、マウス・トゥ・マウスを敢行してでも飲ませますよ。」
「飲むよ。」
 あわてて水筒へ手をかける。きっと半分がた冗談交じりの脅しだろうと思ったけれど、舐めてかかって実行されたらどうにもならないと思った。
 けれどてのひら全体を使ってなんとか蓋をまわし開けようとしても、強張った指ではうまい具合にいかなくて、俺が四苦八苦しているとひょいと横から水筒を取り上げられて、蓋を開け再度差しだされる。
 水筒の中身は水だった。度数の高いアルコールが雪山じゃあ定石だろうに、そう思った俺の目の前にブランデーを小瓶をしめして貴様が左右に振ってみせる。水が終わったら、次はこれを飲めということらしかった。
 口をつけた俺を見止めてから、貴様はまたナップサックの中をさぐり、ガーゼと包帯を取り出すと、飲み終えたら腹へ巻くぞと俺に告げた。また手当てしようとして払われることを警戒したようだ。
「いい。」
 俺はだから首をふってこたえる。
「貴様、あんまり私に触れるな。」
 そうも言ってやる。聞いて、どういう意味だといぶかしんで片眉を上げた貴様へ、そんなことも判らないかと俺はがっかりとし、盛大に溜息をついてみせた。
「貴様がくるのは判っていた。……というか、貴様以外来ようがないことも判っていた。ひ弱なただの人間のからだじゃあ、山には入れない。」
「……たしかにひどい白魔です。」
 ゆっくり大きく首肯して、貴様がつぶやく。
「私ですら何度か凍えかけた、」
「だろうな。」
 おかしくなって俺はすこし口元をもちあげた。笑いごとでは決してないのだけれど、でかい図体をした貴様が、吹き付ける雪に達磨のようになって顔をしかめ一歩一歩踏みしめる、踏み固められた一対の足跡はすぐにかき消され、おのれがいったいどちらの側から来たのか、どちらへ向かっているのか判らなくなる、
「局長の乗った送迎車が消えた地点のだいたいの座標は判っておったのですがね、まずこの風ではヘリは飛ばない。峠の中途までは車で向かえても、山中となると話は別だ。」
「中途?」
 言葉に引っかかり、俺は何口か口をつけた水筒をかえしながらたずねた。水分が体にしみこむようで、わりとおのれが渇いていたのだなと気付かされる。
「すぐ上まで来たのじゃあないのか、」
「中腹で道路は破壊され、寸断されていましたよ。おそらく襲撃した手合いの仕業でしょう。」
「偶然じゃあ、なかったってことか。」
「ヴァチカン高位司教を乗せた車が峠をたまたま通りがかったところへ、運良く出くわす?ありえないことです。」
 貴様がやれやれと首をふり、酒の小瓶をかえした俺へ手を伸ばし、今度こそ手当てしようとしはじめたので、だからいいと言っているだろうと俺は苛々としてやはり貴様の手を払った。
「……マクスウェル、」
 とがめる声を発した貴様の目を、正面から見返してやりながら、俺はほんとうに判ってないなと吐き棄てる。
「触れるなと言っているだろう。」
「ふざけている場合では、」
「ふざけちゃあいない。駄々をこねているわけでもない。貴様判ってて私に触れようとしているのだったら、相当の莫迦だぞ。」
 それは、指摘してやると貴様が顔を曇らせる。曇った顔を目にして、ああ本当に甘いやつだと腹立たしかった。
「噛まれたと言ったろう。」
 俺は言った。
「変異するか、しないか、五分五分だとも言ったろ。私がばけものに成り下がった場合、始末するのはここへ寄越された貴様だ。」
「――」
「十三課に配置された新人へ、なにを教導してきた。貴様が一番よく知っているだろう。」
「――」
 隠蔽された十三課でしか使えないような、とち狂った性格の持ち主、そんなやつらばかりがヴァチカンの地下に位置する俺の特務局へ送られてきて、まず最初に実践をためすのだった。使えるか、使えないか、そこで篩にかけた。
 まだばけものに変異していないうちの生きもの、ときには人のかたちをしたもの、それのうごめく部屋へ押し込み、ひとつひとつ手にした獲物で絶命させてやるのだった。躊躇は許されない。憐れみは必要なかった。どうせ、両日中にひとでなくなるものたちだった。
 中には見知った顔もある。任務中にしくじった機関員の成れの果てだ。
 身をすくませた新人、場の空気にのまれた新人は、そこでばけものの仲間入りを果たすから、使えないやつの後始末も行えて一石三鳥だったのだ。ヴァチカンは頭のおかしな人間を、十三課へおしつけて残りはきれいな群れになる。おしつけられた十三課は、使えるものと使えないものとに選別することができる。屠畜もついでに行える。
「最速。触れるな、交わすな。」
 部屋へ押し込める際に新人へ言い聞かせる、絶対の掟だった。
 変異途中の人間は、まだ話の通じることがある。助けてくれ、頼むから逃がしてくれと伏し拝まれることがある。一瞬でもためらってしまったら、そいつはもう使えない。
 情をおぼえた人間は、情を消すことができなくなる。
 かなしい性だった。
 知った顔、話の通じる相手、こわいと泣くからだを抱き寄せてしまえば、からだはまだあたたかいのだ。
 あきらめたような顔の貴様が、手を引くのへ、一撃でやれと俺は言った。
「痛いのは嫌いだ。真っ直ぐに討て。」
「――お前が変異したらそうしよう。」
 肯かれ、どういうわけか俺は不意にふっと気持ちが軽くなって、こんな状況だというのに微笑みまた背もたれに顔を伏せた。貴様の銃剣であったなら、俺が仕留めたばけもののように何度も何度も撃たれ、反吐を吐きそれでも息絶えることができず、もがき暴れることもないだろうと思った。
 だが、と貴様が思案した風に言う。
「救助がくるのは、早くとも一夜明けて明日。それも天気次第だ。」
「短時間でうまくまとめたものじゃないか。」
「それまでお前のからだが保つとは思えん、」
「じゃあ、五分と、五分と、五分だな。」
 十を超えてしまうか。くつくつと笑いが漏れて、ああ俺はまだ笑うことができるのだと思った。最後の笑いかもしれないな。だったらずいぶん貴重なものだと思う。
 そうして貴様が黙り込んだので、俺も座席へ頬を押し付け、すべる雪、うなる風、ひとひとり増えた分あたたかくなったように感じられる車内(それでもきっと氷点下なのだけれど)、じとじとと相変わらず血液の垂れしたたるわき腹、そうして貴様の呼吸音を数えながら、ずいぶん気を飛ばしたように思う。
 ふと我にかえり、目を開けた視線の先で貴様がじっとおのれの掌を見つめたまま、彫像のように動かないのに気付いた。窓の外はすでに闇に覆われていたけれど、それも袋の中に入っていたのだろう、ちいさなカンテラが車内にひとつ置かれていて、その明かりにぼんやりと照らされ、凍った貴様が見えるのだ。
 俺より先に凍死されては困るんだが。
 軽く咳払いを試してみると、聞きつけた貴様が軋む音が聞こえるようなぎこちない身振りで俺を見る。寒くて体が強張ったのか、言いかけてそうじゃあない、貴様は俺がもしかすると変異したと思っているのだ、俺の姿を目に入れて、俺が人でなくなっていることをたしかめるのがこわいのだ、気付いてふふと息とともに笑いが漏れた。
 こわごわ俺を見た貴様にどうだ、と俺はたずねた。どうだ。ばけものになったか。
「……ひどい顔をしている。」
 貴様がこたえる。
「死人の顔色よりなお白い。これでは早晩逝く。」
「そうか。」
 こたえてまたしばらく静寂が横たわる。ちり、とカンテラの炎が揺れたタイミングで、俺はなあと口を開いた。
「うん、」
「……噛まれてみてつくづく思ったが、我々にとってこれはもはや弾劾だな。変異のしかたでそいつの罪が周囲に知れ渡る。」
「というのは、」
「神学校を出て一般教区へ入り、まず神への誓いをたてさせられるときに、おのれの身の純潔、清廉潔白を滔々と説くだろ、」
「……ああ、」
「澄ました顔をして私の身はこうこう、こうして清いと宣誓したところで、噛まれてグールにでもなってみろ。そいつの成してきたことすべておじゃん、一切合切台無しだ。」
「お前は――、」
 お前はどちらになるのだ。問うた声が若干控え目に聞こえて、俺はおかしくて笑う。
「期待に添えず残念だが、私は吸血鬼になるだろうよ。」
「――」
「思考も記憶も、なにもかもついえたほうが、貴様にとっては楽だったろうが。」
 言うと貴様が口を噤む。それからなにを思ったか、不意に俺のからだへ腕を回し、ぐいと引き寄せ抱きしめた。は、と俺の口から息が漏れて、冷えきった車内でそれは白く丸い湯気となって宙にかき消える。
「貴様、」
 貴様、莫迦か?言おうとして俺は口を開けた。触れるなと言っただろうと思った、触れてしまったらもうその相手を手にかけることができなくなるから、淘汰するときにもっとも肝要なことは、瞬時に相手を見切ることだ。これはだめだ、もう使えない。
 その矢先に、なんてことを。
 肩にあてたてのひらが熱い。有無を言わせぬ強い力で貴様が俺のわき腹へ手をのばし、まるで言うことを聞かないガキのようなしぐさでかぶりをふった。
「おい、」
 抱きしめられた力が強くて、あてがわれた手のひらが熱くて不快で、文句のひとつでも投げつけてやろうとした俺は、間近で貴様の顔を見上げて思わずぽかんとし、そうして悪態は掻き消えてあとにはおどろきだけが残る。
「貴様……、」
 うまく動かない腕をもちあげて、俺は貴様の頬へ指をあてる。それが精いっぱいで力を失った腕はそのままがくんと下へ落ちかけたけれど、片手を添えた貴様の手が俺の拳を覆った。
 伸ばした貴様の頬は、滂沱たるしたたり一面に広げて、それがいまは手袋のない俺のてのひらにねっとりと染み入り、ざらざらとした無精ひげの感触とともにそこに生きている人間の息遣いがあった。ああ、貴様は人間なのだな。理屈抜きに俺は思う。日頃俺は貴様に人でないだとかばけものじみているだとか言って、ぐさぐさと貴様を突き刺し傷つけ、そうして困ったようなどうしようもない表情を貴様が浮かべるとき、快感にも似た愉悦が背筋の真ん中のあたりを抜けぞくとするのだけれど、いまはただ貴様がどうしようもなくかなしいと思った。
「……貴様でも、泣くんだな……、」
 それが俺の素直な感想だった。貴様でも泣くのか。
 銃剣を両手にげらげらと笑いを上げ、たけり、狂いながらばけものどもを馘る貴様、そうでなければ貼りつけたやさしさの皮を被って、「いい先生」を演じる貴様、どちらかでしかないと俺は思っていたし、それ以外の貴様の感情のおもてを考えたこともなかった。そうじゃあない、考えないように俺はしていたのだった。
 目を合わせてはならない。
 触れるな、交えるな。それはきっと貴様ではなく俺にふさわしい言葉だったのだ。
 しようもない、瞬間に俺はあきらめ、精いっぱい力をこめて貴様の胸ぐらを掴み、おのれのがわへ引き寄せて、声もなく泣く貴様の頭を抱きしめようとした。だのにもう片腕は持ちあがらない。
「私はまだここにいるだろうが……。」
 俺は言う。あとどれだけ側にいてやれるか、正直おのれのからだの消耗と衰弱がえらくよくないことには気づいていたけれど、最後の呼気、まじろぎのひとつまでここに留まっていようと思う。
「ああ、でも、死ぬのは厭だな。」
 貴様がぼたぼたと泣いているというのに俺はどういうわけか嬉しくなって、うちからこぼれる笑みを消すことができずに息を漏らして笑った。
「泣いている貴様を残して死ぬのは、たいそう心残りだ。」
 まさしく文字通り「化けて」出そうだ、けれどもし俺が成り果てたとしたら、きちんと貴様がとどめを刺してくれるのだろう?
 うっとりするほどに素敵じゃあないか、けれど俺はそう思いながら、やさしい貴様はきっともう俺を殺せないのだろうなとも思った。触れてしまったので。
 銃剣を枕元に並べておけ。俺は言った。
 貴様はあたたかいな。俺は言った。
 貴様のからだはあたたかい。まなこからしたたる涙も、喰いしばる唇から押し出される呼気も、押しつけられた胸もと、寄せた頬、撫ぜる動きの手指、ぬくもりのない部位がまるでないのじゃあないかと思わせる熱量だった。
 貴様から転がり落ちた滴がぱたぱたと俺の顔に降り注いで、俺の頬を涙の粒が滑り落ちる。まるで俺が泣いているように思えて鬱陶しかった。
「アンデルセン、」
 貴様を呼ぶ。俺はこわいから、ひとりで死ぬのがたいそうこわかったから、こうして貴様が傍らについているだけでひどく安心してしまうのだ、俺が死ぬかもしれないとおそれ、涙を流す人間がいる、それが知れただけでどういうわけかわくわくとしてしかたがないのだ。小刻みにふるえるからだを貴様にすこしだけ寄せて、あたためろよと俺は言った。
 死ぬのは厭だな。貴様の存在が茫洋とわからなくなる意識にしずむのは厭だな。
 ぎゅうと力の込められた腕を感じ、俺はくつくつと喉を鳴らす、心臓が鼓動を止めてしまっても、しばらく脳髄は息をしているのだそうだ、だったら最後まで、俺が力をうしない息絶え目を見開きなにも感じとれなくなっても、俺のからだからぬくもりが失せるまで、貴様がこうして俺を抱き寄せ側にいるといいと思う。
 だからはやく夜が明けて、清冽な光に照らされた貴様を見れるといいのにと思った。
 

 

 

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最終更新:2013年02月20日 11:29