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わたしはもしかすると、すこしほかの子たちと感覚が違うのかもしれない。ときどきそんな風に思う。
どうしてそんなことを思ったのかと言うと、たとえば、みんなが面白いって言った本がわたしにはあんまり面白く思えなかったりする。初等部の、同じ学年の子は、昼間でも夜でも、トイレに行くとき、ひとりで行くのはこわいから一緒に行こうって言うけれど、わたしはひとりでトイレに行くことがちっともこわくない。どっちかというと、友達を待っている時間、トイレに行って、帰ってこれてしまうから、待っているだけ無駄にしているんじゃあないのかなあだなんて思ったりもして、でもそう言う風に言うと仲間外れにされるかもしれないし、されるのは厭だから、ずっと黙っていた。
でも本当は、トイレに行くのを待っているときいつも、なんでわたしはこうして待っているのかなって思っていて、だからきっと、あんまり親切な子供じゃあないと思う。
先生も同じことだった。
フェルディナントルークス院には、わたしたちのお世話をしてくださる先生が何人もいらして、外から通ってくる先生もいれば、院に泊まり込みでわたしたちと同じように住んでいる先生もいる。毎日いる先生もいれば、ときどきしか来ない先生もいる。
そのなかでアンデルセン先生は、院の中にお部屋をひとつもっていらして、でも、ほとんどその部屋にいることはない。いつもきまって誰かが先生を呼んで、一緒に遊んでもらったり、ご本を読んでもらったり、学校から持ち帰った宿題のわからないところを教えてもらったりしていたから、院にいるときはだいたいわたしたちの誰かと一緒にいたし、そうでないときは、何日か、長いときはひと月、留守にしていらして、だから先生の部屋、と言っても、先生が夜寝るためだけにあるようなもので、その夜だって、下のほうの学年の子が、こわい夢を見て泣いて眠れなかったりすると、先生はその子が眠れるまで側についてくれたから、やっぱりわたしたちと一緒にいるようなものだった。
アンデルセン先生をみんなはやさしいって言う。
わたしは、アンデルセン先生のことは、わたしたちの面倒を見てくれるいいおとなだと思うし、きらいじゃあなかったけれど、じゃあとってもやさしいって思っているかと聞かれると、ちょっと困る部分があったりして、でもみんなはやさしいから好きだって言っていて、だからそんな風に好きって言い切れないわたしは、やっぱりどこか変なのかもしれなかった。
こわいって思っていたわけじゃあない。
先生は、叱るときはきちんと叱ったけれど、たとえば前のおうちにいた、機嫌が悪いときとかお酒を飲んだとき、いきなり暴れるおとうさんや、おとうさんじゃない別の男のひとを連れてきて、わたしを叩くおかあさんみたいじゃあなくって、叱るときには理由があったし、それも、頭っから怒鳴るようなことは決してしなかった。いけないことをしたとき、どうしてそんなことをしたのか聞いてくれて、それからどうしてしてはいけないのかも教えてくれて、だからわたしは、先生に叱られることがきらいじゃあなかった。きらいじゃないって言うとなんだか叱られるのが好き、みたいな感じだけど、叱られるのと褒められるのなら、もちろん褒められるほうがいいに決まってる。でも、叱られるときもきちんと判るように叱ってくれたから、たとえば反省のためにお昼を抜かれたとしても、先生のことをきらいになることはなかった。
だから、叱られるからこわいって思ってたんじゃない。
先生はだいたい誰にでもやさしかったし、悪いことしたとき以外はいつもにこにこしてわたしたちと一緒にいたから、やっぱりただのいいおとななのかもしれない。
でもわたしは、先生がほんとうは、誰にでもやさしいわけじゃないことを知っていた。
そのひとが来たのはたぶん偶然だったんだと思う。
その日は学校がお休みの日で、朝のお祈りが終わったわたしたちは、何人かでおもて広場に出て遊んでいた。しばらくすると、一緒に遊んでいた子のひとりが、変なひとがいる、と言ってわたしのほうへやってきて、ひそひそ話をした。言われたほうを見ると、入り口の鉄門のあたり、ちょっと門に隠れるようにして、背の高い男のひとがひとり立っているのが見えた。
男のひとなのに髪の毛がすごく長くて、それがお日さまに当たってきらきらとてもきれいだ。
誰だろうってわたしが言うと、ひとさらいかも、だとかその子が言いので、まさかと言いながらわたしもちょっとこわくなった。でも、孤児院にいる子供をさらうおとななんていないから大丈夫ってすぐに思う。ひとさらいって言うのは、攫ったときに、みのしろきん、というたくさんのお金を、その攫った子供のおとうさんやおかあさんから子供と交換でもらうのだそうだから、攫ったって、1リラの得にもならないわたしたちをねらうひとさらいはいない。
そんな風に友達に言うと、でもひとさらいって言っても、攫って行って、そのまま子供をどこかに売っちゃうひとさらいもいるんだよって言われて、えーってなった。友達が生まれたのは南のほうだって聞いたことがある。あっちは院のあるローマなんかよりずっとマフィアがいて、悪いことをしていて、だからその子も院に来たはじめは、わたしたちにも、先生たちにも全然近づこうとしなかったけど、いまはいつも一緒に遊ぶ友達になった。一緒にトイレに行くルールとか、わたしにはよく判らないものもあるけど、でも仲がいいことに変わりはないと思う。
その子がそんな風に言うから、わたしもさっきよりもうすこし怖くなって、誰かおとなを呼んできたほうがいいかも、って言った。先生が来たら、きっと、ひとさらいも逃げていくにちがいないと思ったからだ。
それで、その子と、あと広場にいた何人かが、院の中に走っていって、すぐにおとなを連れてもどってきた。
連れてきたのはアンデルセン先生だった。
どうしたんです、とか言いながら先生はやってきて、門のところにいた男のひとを見る。そうして男のひとを見た先生の目がすっと細められて、見ていたわたしはなんだかどきっとした。
いつもみたいに先生は笑っていたけど、男のひとを見たそのときだけ、なんだかこわい顔をしたように思ったからだ。でもまわりのみんなは気付いていないみたいだった。
ゆっくり先生が近づいていくと、先生のことを見ていた男のひとは、ちょっと困った顔をする。なんて言ったらいいのか判らない、どうしよう、そんな顔で、だからわたしは先生がその人の名前を呼ぶ前に、その人が悪いひとじゃないってことが判った。ひとさらいはあんな風に困った顔をしないと思う。
マクスウェル司教、と先生は男のひとのことを呼んだ。司教さま?先生の周りにいた子が、先生と、司教さまと呼ばれた男のひとを見比べる。司教さまだったらこわくない。まだ相手の男のひとがなにも言っていないのに、先生の一言で、みんながほっとするのが判った。判ってて先生は言ったんだなってすこしはなれて見ていたわたしには判った。いまのは、男のひとに言ったっていうよりは、わたしたちに聞かせるためにアンデルセン先生が言ったって感じだった。
うん、と男のひとがしかたなさそうに先生の前に立つ。がりがりと頭を掻く司教さまに、なにかご用ですか。先生が静かな声で言った。その声にわたしはまたすこしどきっとして、いそいで司教さまを見た。やさしそうな言い方をしてるけど、すごくつめたい風に聞こえたし、そんな風な言い方を先生がしたところを見たことがない。
司教さまは、ちょっとびっくりしたような顔をして、それから、用がなければここに来ちゃあいけないのかと言った。なんだか傷ついているような声だった。わたしもいまの言い方はないなって思って、先生のほうを見たら、先生は顎に手をあてて考えるようにして、それから、もうすこししたら遠足に行くので、と今度はわたしたちに聞こえるように言った。みなさんのおこないがよいから、司教さまも来てくださいますよ。
今日遠足に行くことは前から決まっていたことで、先生たちの朝の打ち合わせが終わったら出発する予定になっていた。わたしたちの遠足に一緒に行くことを決められてしまった司教さまは、え、だとか、おい、だとか言って、いやそうにしていたけど、でもいやだとは言わない。ほんとうにいやだったら、おとななんだしさっさと帰るよねって思った。だからわたしは、司教さまが院にきたのは、アンデルセン先生に会いにきたんだって判った。
前に一度、アンデルセン先生とふたりきりになったことがある。先生のまわりには、いつも何人かいることが多くて、先生がひとりでいることのほうがめずらしかった。
でもそのときは、たぶん偶然だったんだと思うんだけど、わたしが広場で使った遊び用具を片付けに裏庭の用具倉庫のところに行くと、先生が裏庭にひとりでいらして、大きな体をいっしょうけんめい曲げて、花壇の草取りをしていた。
わたしはみんなほど、アンデルセン先生のことは好きじゃないけど、先生ひとりで草取りするのは結構難儀そうに見えて、でもすぐに手伝うのもなんだかいい子ぶっているみたいでいやだったから、遊具を片付けると先生の横にしゃがみ込んで、すこしの間、先生が草取りをしている様子をじっと眺めていた。先生はちらっとこっちを見たけど、とくになにも言わないで、だからわたしも黙ったまま先生の手元を見た。
しばらくしてから手伝いだす。そうすると先生はわたしのほうを見て、ありがとうって言った。深い声だった。
「先生。」
周りに誰もいなかったから、これがもし友達が一人でもいたら絶対にそんなこと言わなかったのだけど、そのとき誰もいなかったから、わたしは横で雑草を抜く先生にちいさな声で聞いた。
「あのね、」
「はい。」
「嘘をついちゃ、だめですか?」
「……嘘をついてはいけませんねえ。」
のんびり先生がこたえる。それからどうかしましたかってわたしに向かって言った。
わたしは、こたえようとして、でもうまい具合に言葉がまとまらなくて口ごもってしまう。だって、みんなが面白いって言う本を、ほんとうはわたしは面白く思っていないけど一緒になって面白いっていったり、べつにひとりでトイレに行けるけど、ひとりじゃこわいから一緒に行こうって言ったりわたしはしてて、だったらわたしは朝から晩まで嘘ばっかりだ。すごく悪い子供って言うことになる。
わたしは悪い子になることはいやだったけど、みんなから仲間はずれにされるのはもっといやだった。でも、だから嘘をついていい理由になんかならない。
「どんなことがあってもですか?」
だからわたしは泣きそうになりながら先生に訊いた。先生がはいと言ったら、わたしは先生のことをあまり好きじゃないと思っていることも、言わないといけなくなるのかなって思った。好きじゃないわけじゃないんだけど。でも、みんなみたいに大好き大好きってほどでもない。
そんなの、うまく言えるわけがないと思う。
先生はそんなわたしを見て、ちょっと考えるような顔になって、それから、
「嘘をついてはいけませんが、けれどそれは、思ったことをなんでもひとに言うこととはちがうと思いますよ。」
そう言った。
口から出るから嘘になる、だったら口を噤んでしまえばいいとも言った。
「一度口から出た言葉は、どうしたって元には戻らない。だから、ひとにものを告げるときには、よくよく考えてからのことにしなさいと、イエスさまもおっしゃられているんですよ。」
「わたしは、みんなが言っていることと別のことを考えていたりして、ちょっとおかしいんです。」
「……ほう、」
「みんなが好きなものがわたしは好きじゃなかったりします。いちばん、というのもよく判りません。先生は、」
わたしは先生の胸から下げられた十字架を見ながら、ふと、前から聞いてみたいなと思っていたことを聞いてみる気になった。
「先生はいちばん好きなひとはいますか。」
「――、」
わたしがそう言うと、先生はほんの一瞬、草を抜く手をとめた。なんと答えたらいいのか考えているようにも見えたし、わたしからそんなことを聞かれるとは思ってなくて、びっくりしただけのようにも見えた。
さあ、とすこし経って先生は言った。
「さあ。どうでしょう。」
好きなひとはたくさんいますからね。あなたもそうです。ほかのみなさんもそうです。その中でいちばん好きなひとが誰かだなんて、考えたこともなかった。
そのとき、遊具を片付けに行って戻ってこないわたしを同学年の三人が探しに来て、それで先生を見つけてわっと寄ってきてしまったから、先生とのお話はそれきりになってしまって、なんだか残念なような、ほっとしたような不思議な気分だった。
でも先生はあのとき、嘘をついたんじゃあないかとわたしは思う。
アンデルセン先生は、神父さまだった。だから、一番好きなひとと聞かれたら、神さまって言うのが神父さまとしての正解のこたえなんじゃないかなって思う。でも先生は、どうでしょうと言った。好きなひとはたくさんいて、その中で誰がいちばんか、考えたことがないと言った。
考えたことがないと言ったから、かえってわたしは、先生は考えたことがあるんじゃないのかなと思った。口には出せないけれど、先生の中でいちばんがいるのじゃないかなとも思った。
でも、だったら、先生はわたしと同じで、寝ていても、起きていても、なにをしていても、嘘をつき続けているということになる。口には出せない。口から出てしまった言葉は元には戻らないから。
嘘をつくわたしはすごく悪い子だと思う。だから、嘘をつく先生も全然いいひとなんかじゃあなかった。
司教さまの横についてわたしは遠足に出た。
門のところに立っていたひとが、教会のなかでもたっとい、司教さまなのだと知って、みんなは警戒することをやめたけれど、でも院にいるほかのおとなたちのように司教さまはちっとも笑わなかったし、一緒に遊ぼうともしなかったし、下の学年の子が転んで泣くと、眉をしかめていやな顔をしたりしたから、なんとなく近づきにくい雰囲気になって、遠巻きに司教さまを見ることはしていたけど、みんなそれ以上近付く気はないようだった。
そうでなくても、司教さまみたいに髪の毛が長い人をあんまり見たことがない。男のひとが髪の毛を伸ばしているというだけでも、結構めずらしいのに、司教さまの髪は腰くらいまであって、余計につくりものみたいで、みんな近付きにくいみたいだった。さっきひとさらいかも、とわたしに言った友達なんかは、あのひと、お人形さんみたいにきれいだけど、ちょっとこわいよねと言った。わたしはその子が言う「こわい」というのがどこのことを言っているのかさっぱり判らなくて、でもこわくないとは言えずに、いつものように嘘をついてあやふやに笑ってみせた。
わたしは司教さまの髪の毛を見たときから、あれで三つ編みしたりリボンと一緒にむすんだら楽しいだろうなあってそれしかなくて、だから遠足で二列になって隣のこと手をつないで歩くとき、それとなく司教さまの横に行った。髪がさわりたかったから。
司教さまはわたしのことを見てしぶい顔になったけど、あっち行けとかそういうことは言わない。手をつないでくれなかったから、わたしは司教さまのシャツの裾を掴んだ。でも司教さまは溜息をついただけでなにも言わなかったし、車の通るほうも司教さまが歩いた。歩いている途中、道端に咲いていたちいさなたんぽぽをつんで司教さまに差しだすと、え、とか言いながら受け取ってくれて、その花をシャツの釦の穴に挿した。黄色でふわふわの釦が司教さまについたみたいで、とても似合っていた。
あかい花は毒があるからさわってはいけないと、司教さまが教えてくれた。悪いことをしてしまったと思う。
わたしは、川べりに咲いているばきばき折れる花を冠にしたら、そうしてそれを司教さまの頭にかぶせたらきれいなんじゃないかってそれぐらいのことしか思ってなかったけど、冠を壊してしまった司教さまはずいぶんそれを気にしているみたいで、わたしに何度もせっかく作ってくれたのに悪かったなと言った。
このひとはとても誤解されやすいけど、やさしいひとなんじゃないかって思った。
みんながやさしいって言うアンデルセン先生より、ずっと繊細で傷つきやすいひとかもしれない。もしかすると、そうして傷つくのがいやで、だからあんまり笑ったりしないんじゃないかって思った。笑いかたが判らないって顔でしかたなさそうに笑う。黙っているとつんとしていて冷たい感じを受けるのに、笑うとすこし自信がなさそうになることも気がついた。笑ってもいいんだよなって誰かに聞いているみたいだった。
笑うことになれてないのかなって思う。
友達はみんな、やっぱり近寄りにくいし悪いひとじゃないけどこわいよねって遠足のあとも言ってたけど、みんなは司教さまのどこを見てそういうことを言っているのか、わたしには判らなくて困った。わたしには司教さまがやさしいひとにしか見えなかったから。
司教さまはいつもしている仕事が四日間休みなんだと言っていて、それでひまだから院にきたのだと言った。わたしが一緒に寝ようというと、びっくりした顔をして無理だろって言う。ガキのベッドじゃ俺ははみ出るからって言ったけど、一緒に寝るのがいやだとかなに考えているんだとか、そんな風には言わない。
不思議なひとだと思った。
先生に会いにきたなら、もっと先生とお話しするとか、そうじゃなくても近くに行って先生がしてることの手伝いとかすればいいのに、司教さまは全然そうしない。先生もなんだか司教さまには冷たくて、あんまり話しかけないし、話しかけてもどこかよそよそしかった。必要なことだけを言う。
先生はもしかすると、司教さまがあんまり好きじゃないのかも。
そんな風に思う。
司教さまはすごくふしぎな食べ方をするひとだった。
お夕飯を一緒に食堂でいただいたのだけど、席の関係でわたしの向かいに座ることになって、わたしの顔を見た司教さまはまたこいつかっていう感じでいやああな顔をしていたけど、わたしは司教さまを見ながらごはんも食べれるなんて嬉しくってにこにこだった。
釦穴に挿していたたんぽぽはもう萎れて(そうでなくたってたんぽぽはすぐに萎れてしまう)、司教さまは花をはずしてしまっていたけど、われながらうまくできた、と思った三つ編みはそのままにしてあって、ほどくとわたしが泣いたり怒ったりするかもしれないと思って、そのままにしてあるのかなと思った。
毒のあるお花で残念だったけど、赤い花の冠は司教さまにとても似合っていた。今度は毒のないお花でつくって、プレゼントしようと思う。
いつものキャベツとジャガイモの塩茹でスープとパンのお夕飯だったけど、向かいに座った司教さまが食べる様子に見とれてしまって、うっかりスープをこぼすところだった。こぼしたら、食べ物を粗末にしたと言って先生に叱られるにちがいないから、ちょっとひやっとする。
院で一緒にお夕飯をいただく先生たちは、わたしたちの席のあいだに入って一緒に食べることが多かったけど、そのだれも、司教さまみたいな食べ方をしているひとっていない。マルコ先生も、ルチオ先生も、もちろんアンデルセン先生も、大きな口を開けて出されたものはなんでもぱくぱく食べて、好き嫌いなんてないって顔をいつもしている。とくに、アンデルセン先生の近くの席になると、こっちまでたくさん食べたくなるような、おいしそうに食べる食べ方をする。アンデルセン先生のことはみんなほど大好きじゃないと思っているけど、先生の食べ方は好きだった。たぶん、先生が、食べることが好きだからおいしそうに見えるんだなって思う。
なのに、司教さまは、アンデルセン先生とさかさまだった。好きなのか好きじゃないのかよく判らない。おいしいのかそうでないのか、まずいっていうわけじゃあなさそうなんだけど、おなかが空いてなさそうな顔で、ちいさく分けてゆっくりと噛んで食べる。でも、じゃあその食べ方があまりきれいに見えないのかというとそういうわけでもなくて、ひとつひとつの司教さまのしぐさが、すっ、すっ、としていて気持ちよく見えるのだった。
スプーンやフォークの持ち方も、たぶん学校でテーブルマナーの先生に教えられた持ち方とはちがう。でもそれでお行儀悪く見えるかって言うと、そんなことはなくて、マナーを守るということと、お行儀よく見えることは別のことなんだなって思った。
パンなんか、最初に手元にある分、全部ちいさく千切ってしまっている。それをスープにちょんちょんと浸して食べていて、マナーの先生が見たら教科書に載ってなさすぎて倒れてしまいそうだ。なのにとてもきれいだった。
マナーの先生が言っていた「ゆうが」とかいうのって、こういうことなのかなと思う。
なんだか鳥みたい。
それで、もし司教さまが鳥だったら、図鑑で見たことのある、白鳥だとか、鶴だとか、孔雀だとか、とにかく首が長い鳥だろうなって思った。
寝る前にわたしたちが遊んで騒いでいたら、司教さまがアンデルセン先生の部屋に入っていくのが見えた。それを見ていたので、わたしはてっきり司教さまは先生のお部屋に一晩お泊りになったんだって思っていて、だから朝起きて先生の部屋に行くと、司教さまはいなくてがっかりした。
着替えてらした先生が、みなさんが寝ている夜のうちに院から出て行ったのですよとわたしに言った。いつまた来ますかと聞いたけど、もう来ないというようなことを言う。用事ができたのですかと聞いたけど、先生はあいまいにほほ笑んだだけでなにも言わなかった。でもわたしは、昨日司教さまと歩いているときに、行くところもほかに思い付かないから、四日間院にいる、みたいなことを司教さまとお話ししていて、だからどこかに行ってしまうことはないんじゃないかなって思ったりもして、でも先生に聞くのはいけない気がして黙って廊下をもどった。
先生をちょっとこわいなと思うのは、こういうときだ。
そのまま、まだ朝のお祈りの時間に早いのは知っていたけど、もう一度部屋にもどる気もしなかったから、誰もいないだろうと思いながら食堂へ行った。
食堂へ行くと、司教さまがひとりでぽつんと椅子に腰かけてぼんやりしていて、そんなところに誰かがいるとわたしは思わなかったから、だいぶびっくりして声がでてしまった。声を聞いてゆっくり顔を上げた司教さまはわたしを見て、ああ、だとかちいさく口をゆがめて、なんだ、チビかと言った。
なんだかとても疲れているようなお声だった。司教さまのそばへゆこうとして何歩かすすむと、いやなにおいがしてぎょっとなった。嗅ぎなれたにおいだった。
おうちにいたころ、おとうさんやおかあさんがよくお酒を飲んで、すごくたくさん飲んで、そういうときと同じにおいだった。お酒を飲むと、おとうさんやおかあさんは、わたしやお兄ちゃんに乱暴をした。わたしが叩かれそうになると、わたしをかばってお兄ちゃんは倍叩かれた。そうして結局わたしも叩かれた。死ね、死ね、と言って叩かれて、からだはいつも痣だらけだった。だからわたしは、お酒のにおいがどうしたって大嫌いで、司教さまはたぶんそうじゃない、べつにわたしに手をあげたりお腹を蹴ったりしない、そう思ったけど体がすくんで動けなくなってしまった。
「――なんという体たらくだ、」
急に後ろから声が聞こえてわたしは二度びっくりして、飛びあがった。振り向いたけど、振り向く前から声が誰のものかなんて判っていた。こんなに深い声をだす先生は、院にはアンデルセン先生しかいない。
ふり返るとやっぱり先生で、先生は固まっているわたしを見て、近付いてくるとぽんぽんとわたしの肩を叩いてだいじょうぶですよと言った。だいじょうぶと言われて、わたしは先生が全部知っているんだって判った。直接先生に院に来るまでのことを話したことはないけど、お兄ちゃんから聞いたのか、それともこの院に保護したお役所のひとから聞いたのか、どちらにしても先生は、わたしがお酒のにおいが嫌いだってことを知っているんだなと思った。
「……それは、終わりには蛇のように噛み、まむしのように毒を分泌する、」
先生を下から睨んでいた司教さまが、にやにやしながらそうこたえる。さっきまでとてもくたびれているみたいに見えたのに、いまは頑張って背筋を伸ばして先生を睨んでいる。なんでそんなに頑張るんだろうって思う。だって先生に会いにきたんでしょうって。
自棄になっているような声だった。
判っているなら、先生が言った。
「判っているならなぜ過ごす。」
ああ判っているさと司教さまが言った。
「災いに遭っているのはだれか。不安を抱いているのはだれか。口論をしているのはだれか。心配をしているのはだれか。理由もなく傷を負っているのはだれか。目の鈍くなっているのはだれか。テモテ?いいや、私と、貴様だろう、」
「お前だけだ。」
切り捨てる声で先生が言った。はっとするほど聞いたことのない声だった。見上げると、先生が司教さまを真っ直ぐ見ている。どきどきした。こわい顔だと思う。
でも、厳しいというのとはちょっと違う気がする。叱るとき、先生は厳しいお顔をしたけど、いまはそうじゃなくて、どちらかというと意地悪な顔をしているようにも見えた。先生は笑っていたのに、意地悪に見えるってよく判らない。そうしてしばらく見ていたら、それが男子が、意地悪をしてくるときの顔に似ていると思って、おとなでもそんな顔をするんだろうかと思った。
先生が司教さまに意地悪をするとか、よく判らないし、やっぱりお酒を飲みすぎた司教さまに、ただ怒っているだけなのかもしれない。
アンデルセン先生を睨んでいた司教さまがやれやれ、と大げさに肩をすくめて椅子にもたれる。その動きでまたぷうんとお酒のにおいがして、わ、と思ったわたしの頭の上でぶざまな、とにがい声がした。
「朝まで飲んだ顔だ、」
「朝まで飲んださ。最後には舌がしびれて酒の味がまるで判らなくなった。もっと飲ませろと粘ったんだが、あいにくもう閉店ですよと追い出されてな。こんな朝っぱらから開いているバールもない。今更ホテルに行くのもばかばかしい。だからここへ戻ってきてやった、」
「子供が見ている。」
「見せてやればいいだろう?世の中、聖人君子ばかりじゃあないってな。」
「悪いおとなの見本にしますか?とんでもない、とても見せられたもんじゃない。」
出てゆきなさい、先生が言うと、司教さまがなにがおかしかったのかいきなり大きな声でげらげらと笑いだした。すごく大きな声で笑っているのに、ちっとも楽しそうじゃない笑いだった。笑っているのに、泣いているように見える。胸がぎゅっとした。
悪いおとな、笑いすぎて目の端に涙をためながら司教さまは先生に言う。
「おのれの胸に手をあててよくよく問いただしてみろよ。なにがよくてなにが悪いのか。神の御名にかけて、おのれがやましい気持ちを抱いていないと誓えるかどうか。貴様は清いか?一片も悪心をいだくことなくおのれのおこないをさらけ出すことができるか?いいか、かならず、かならず、だぜ?頭のてっぺんから足の先まで清い人間がこの世にいると思うか?貴様は本気で、姦通していない女が生物学をまるで無視して身籠ることが可能だと考えているのか?死んだ人間が生き返ることが可能だと思うか?私は無理だ、私はまるで清くない、妬んだり嫉んだり恨んだりやっかんだりする。いいことを偶に思うときもあるがたいがいはよくないことを考えている。この胸を開くとどろどろと蒸れ腐れただれた感情ばかりだ。そうして平気な顔を繕って毎日恐々と生きている。貴様は?貴様はどうなんだ?」
「――」
ところどころ舌をもつれさせながら司教さまは言った。もつれたのがお酒が過ぎたのが原因なのか、笑ったまま話しているのが原因なのか、わたしには判らなかった。ただすごくかなしい顔をしているように見えた。
司教さまの問いに先生はこたえなかった。こたえずに、わたしから離れると、壁際に立てかけてあったモップの脇、水が半分ほど入ったまま置いておかれたバケツをもちあげて、いきなり中身を司教さまに向かってぶちまけた。ためらいもない動作で、見ているわたしの方がびっくりしてしまう。
頭から水をかぶった司教さまが急に笑うのをやめたので、食堂の中はいきなりしんとなって、どこかの部屋で遊んでいる声が聞こえてきた。
ぽたぽたと司教さまの髪の毛から水がしたたる音がする。
「失せろ、サタン」
先生が言った。
水をかけられてちょっとまじめな顔になり、どこか先生をさぐるように見ていた司教さまは、数呼吸するとまたくっくと笑って、失せてやるよと言って立ちあがった。
「失せてやるさ。……おきれいな貴様は、そうしていつまでも虚像にしがみついているがいい。だが足元を決して見るなよ。堅牢な土台のないことに気付いたが最後、奈落へまっさかさまに落ちるぜ。」
「――」
司教さまを行かせてはいけない。わたしはなぜか強くそう思って、だって、こんなに泣きそうな顔をしている、強がっているひとを放っておいていいはずがないと思った。とめてほしいんだと思う。昨日わたしたちが寝てから、先生と司教さまになにがあったのか知らないし、どうして喧嘩しているのか判らなかったけど、ほんとうにやさしいひとだったら手を伸ばして引きとめようとすると思う。泣いているひとを放っておいていいはずがないし、先生は院にいるわたしたちにそうして手を差しのべてきた。
だから司教さまのこともとめると思ったのに、でも先生はとめようとしなかった。ふん、と鼻で笑ってかえして、椅子に掛けてあったテーブルクロスの一枚を司教さまに放り投げ、拭いてから出てゆけと言った。
「風邪をひかれても困る。」
「……」
司教さまは黙ったままわたしの横を通って、通り過ぎるときにちょっとだけわたしのほうを見て、手を伸ばしてぐしゃぐしゃとわたしの頭を乱暴に撫ぜた。司教さまはずぶ濡れだったから、撫ぜられたわたしの頭もちょっと濡れる。
わたしはなにか言って司教さまを呼び止めたかったけど、なんといっていいか判らなかったし、だから結局黙って背中を見送ってしまった。
食堂の戸口を背をかがめ通りながら、ふと足を止めて、嘘だよ、と司教さまはこちらを見ないでちいさな声で吐き棄てた。
「なにもおぼえていない。私の勘違いだ。昨日はなにもなかった。」
それはわたしじゃなくて先生にむけて言った言葉で、言われた先生がふ、と動いたように思えたから、きっと意味が判っていたんだと思う。でもやっぱり黙ったまま、司教さまを呼びとめなかったし、だからわたしもなにも言えなかった。
嘘、と司教さまは言ったけど、それはなににたいしてだったのかなって思う。口から出るから嘘になる、だから口を噤んでいなさいと言ったのは先生だったけど、司教さまが言ったのはそういう意味だったのかな。だったら先生は、司教さまが嘘をつくのを見ていて、でも見ないふりをしたってことになる。
それゆえわたしは。
うしろからアンデルセン先生がちいさく呟く声が聞こえた気がして、え、となってわたしはふり返る。びちゃびちゃに濡れてしまった床を固く絞った雑巾で拭きながら、先生がわたしを見て驚かせてしまったでしょうと言った。驚いたのはたしかにそうだし、司教さまが急に笑い出したり、先生が水をひっくり返したり、びっくりすることだらけだったのだけど、でもふしぎにあんまりショックはなくて、それよりもいま先生が誰にも聞こえないほどちいさく言った言葉のほうが、よっぽどわたしにとってはショックだった。
ショック、というのともちょっと違うのかもしれない、でも、さっきの司教さまが笑うのを見て、心臓がぎゅっとなる感じとよく似ている。
それゆえわたしは泣く。わたしの目よ、わたしの目よ。
たしかなことはよく判らないけど、先生はこう言ったはずだった。たぶん、聖書かなにかの一節なのかなって思う。でもそんなことはどうでもよくて、聞いた瞬間わたしが思ったことは、先生も泣きたいときがあるのかなということと、ああ、いま先生は嘘つきなんだなということだった。
言いたい言葉を絶対におもてに出さないで、嘘ばかりついている。すくなくとも、司教さまにたいしてはそうなんだと思った。
そうしてわたしは、嘘つき、という言葉から前にわたしが先生に聞いた、先生がいちばん好きなひと、というのを連想して、あのとき先生が言わなかった先生がいちばんに好きなひとって、もしかすると司教さまのことかもしれないと思って、そうしたら昨日からの先生らしくない意地悪な言い方とか、いままで見たことない態度とかが、ぜんぶすとんと腑に落ちるような気がした。
嘘をついて、いちばん好きなひとを傷つける。それって全然やさしいひとなんかじゃあないって思った。
先生は笑いながら嘘をつく。
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最終更新:2013年01月19日 11:50