*

 

 立ち尽くしている。
 全身から噎せかえるほどの血泥や漿水、確実に息の根をとめた相手のくされおちかけた膚のかけら、それらすべてをかけあわせぐちゃぐちゃとかき混ぜた反吐のにおい、たちのぼりまたばたばたとしたたらせて、男はたいして広くもない部屋の中央よりややずれた位置に凝している。
 困惑していたと言ったほうがいいのかもしれない。
 とにかく一点を強視している。穴の開くほど見つめたまますでに数十分経過していることに男は気付かない。ときの概念がないのだ。すくなくとも、現在ここにいる男に実感はなかった。
 立ち尽くしている。
 大きな男だった。
 巨体、と言って差し支えのない大きさなのに、うっそりず重く見えないのは、存外動作に俊敏なものが含まれているからなのかもしれない。的確に動く。迷いがない。
 その大きな男がわずかに身動くたび、息を吸い吐きするたび、からだのあちこちからゆらと陽炎のような臭気がただよい、それは室内の不穏な空気にまぎれて消えた。
 いちいちかぞえるのも面倒なほど縊り殺してきた、その帰りだ。
 ぐしゅ、と汚猥にみちた黒血が、はねあげられた頭部とともに一瞬噴き上げ、引力を思い出すと弧をえがいて地におち広がるのだ。浸食、じっと見つめているとみちみちと音をたて、砂粒のひとつひとつに黒とも朱とも言い難い色が、吸いあげられ膨張してゆくのがわかる。その変色した地を靴底で踏みつけ、かけらほどの容赦もなく男は鏖す。
 こときれた骸はなにも語らない。
 突き当たりに追いつめられ、恐怖にがちがちと歯の根を合わせることもできなくなり、助けてくれ死ぬのはごめんだたのむ見逃してくれと伏しおがんだ首筋にむけて、手にした獲物を黙って突きこんだ。襲う数重の光、眼窩から銃剣を生やしああああ、わめきがなる声、煩いなと眉をしかめ昏い笑みを浮かべてぶちと筋を千切る。千切りながらもひどく冷たく思考ははたらいて、きちんと肉の流れに沿って獲物をふるわなくては、そんなことを思っている。勢いをそがれ中途で行き詰るのがなにより面倒だった。
 次の動作に手間がかかるからだ。
 そうして一連のつとめを終え、生きているもの、すくなくとも意思をもち動いているものが男のほかになにもいなくなってから、男はようやく構えた両手を脇下へおろした。動くものがないことを見回さずとも感知している。それが男の生活の常であったからだ。
 こめかみの拍動がうるさい。耳にひびく。
 ひとの言葉をおのれから手放した男がふたたびひとに戻るには、しばらくの時間が必要だった。内腑にうごめく衝動をおさえこむにはたいそうな努力がいる。
 ここは男がひとに戻るためにしつらえられた部屋だ。
 つかわされた遠方から、秘跡をほどこされた聖書を使って転移する。座標軸を指定し重力値を変動させることで空間のゆがみを発生させるのだとか、いつだったか、転移のしくみについて長々と説明された気もするが、男にとってはどうでもいいことだった。しめされた場所へ出向き、もどる。それだけのことだ。
 だのにもどった部屋がいつもと違った。面食らい、すぐにその違和感の正体に気がつく。
 目の前に無防備に眠る人間がいた。
 人間、と見止めたのは、その寝ている生きもののからだがしずかに上下していたからだった。夜に魅入られたばけものは呼吸をしない。あれらは一度死んでいる。よく見知った顔にも思えたけれど、だとするとなおのことこの部屋に近寄るとは思えない。
 返り血がまなこのおもてにはりつきでもしたか、椅子に浅く腰掛け肢体をなげだす彼の顔はかすんではっきりとしない。部屋の灯りが強いのだ。男はまぶたをこすりながら踵をかえし、壁のスイッチへ手を伸ばすとばちと音をたてて室内灯が消えた。
 ああこれでよく見えるようになった。
 満足に笑んで男は思う。獣性の笑みだった。
 目の前の彼をしげしげとあらためて観察する。肩から流れ落ちる髪、白く削げた頬、同じように磁器質ののどもと、先ほど男は目の前の人間を生きていると思ったけれど、それにしてはばけもの以上に血の通うそぶりがない。つくりものめいて生気が希薄なのだ。唯一しずかに上下する胸だけが、それが生きものであることを伝える。
 気を利かせでもしたつもりか、壁際に一脚椅子が置いてあって、そこへ彼は座っているのだった。たった椅子一脚が部屋の家具のすべてだった。ほかには何もない。漆喰が壁に塗られているのがせいぜいで、床はうちはなしのコンクリート床のままだ。この部屋をあてがわれたときに、男がなにも要らないと断った。どうせおのれがこの部屋でくつろぐことはない。猛り狂ったままこの部屋にもどってきたおのれはたしかにのたうち回ろうが、それだけのことで、だから過分な装飾は必要ないと言った。
 寝息をこぼす人間へ、男はじり、と近づく。
 彼の長い髪が暗闇の中でも道しるべのように見えて、それが男の前でゆらゆらと誘っている。座して帰りのおそい男を待ち、そのまま連日の激務の疲れに眠ってしまったのかもしれない、けれど男にとって理由はどうとでもよいもので、おかしな焦燥感にさいなまれて男は彼を眺めおろす。
 手に入れてしまわなくてはいけないかもしれないな。そう思った。
 理由はない。ただ、いまここで手に入れてしまわなくては、機会は二度とないような気もする。
 椅子に腰かけ、だらしなく四肢をなげだす彼は男の気配に気づかない。くたびれきっている、油断しきっている、男と彼の関係性は、よわさを見せたほうが負けのルールだった、先にさらしたほうが負け。だったら男がこうして無防備に眠る彼をどうこうしようと問題はないはずだった。隙を見せるのが悪い。
 食い入るように眺めまわしていた男の視線が、やがて呼吸をくり返す彼の口元にひきよせられた。
 無意識だった。のぞきこむ。
 内耳よりさらに奥のおのれの鼓動がうるさいなと思った。
 食いたいな。
 文字通りの意味で男は目の前の彼の肉にかぶりつくおのれを想像し、がらにもなく興奮しわくわくとした。ぷつぷつとやわらかな膚を切りさき、白い皮下脂肪へ歯を立て、あたたかな肉、にじみ出る体液をすすりあげる。腹におさめてしまえば俺のものだ。誰にもとられることはない。
 腕をのばし胸ぐらをつかんで引き寄せようとして、おのれの袖口や手の甲や平に飛沫いた茶褐色の染みを目にし、男はほんのわずかためらった。このままの手でつかんでは、彼を汚してしまうような気がしたからだ。
 汚す、と思い、それから男はおのれのべっとりと返り血に濡れたからだと、相手を見比べた。拍動がややおさまり、男は彼の顔をたしかめる。誰だったか、名を知っているような気もする。名。思いつき男はそうして首をひねった。名とはなんだ、俺はいったいここでなにをしているのだ?
 ひとに戻るための一歩一歩、掛け金のひとつひとつ、ふと思い出した気がして男は嘆息し、しらず膝をつき身を乗りだしていたおのれのからだを引きかける。餌を食わせろ。内奥で獣が唸る。なだめすかし、抑えこみかけ、だというのにうん、と眠りのなかでちいさく呻いた彼が身じろいだ。
 身じろいだはずみ、投げ出したからだが、重心をうしない背もたれからずり落ちようとして、反射的に腕をのばした男の腕がささえる。すると力のはたらき具合で彼は仰け反るかたちになって、男の眼前に青白い喉もとがさらされた。
 ごくんと喉が鳴った。
 こめかみがうずく。目がくらむ。あわてて男は視線を逸らし、体勢をくずした彼のからだを、急いで椅子へ戻してしまおうとした。
「……アンデルセン、……?」
 ぼんやりとした声音で、まだ覚醒しきっていない腕の中の彼が、ゆるゆると瞼を開く。にじむ青。固まる男の名を呼んだ唇がうっすらと開いたままで、その隙間から濡れた舌の先が見えた。
「……戻ったか。……貴様に用事があってな、急ぎのものだったから、ここで待たせてもらった。」
 寝起きのかすれた声を押し出すたびに、舌先がちらちらと見え隠れする。
 食いたい。
「遅かったな。……存外手こずったのか?」
 凝視する男の前で、いぶかしんだ彼が眉をひそめた。……なんだ?貴様、聞いているか?
 食いたい。
 激烈にこみあげたそれを、なんと呼ぶのか男には判らない。
 逃さぬように彼の胸ぐらを鷲づかみ、そのままふさぐというよりは噛みつく勢いで唇を重ねていた。ひゅっと驚き息をのんだはずみ、まなじりを裂きまなこを見開いた彼が、瞬間呆気にとられた態になり、次いで行為の意味を知るやいなや、反転、熾烈な怒りたぎらせ男の腕のなかでめちゃくちゃに暴れ出す。胸板を殴りつけ、引き寄せた膝でもって男の腹部へ蹴りこもうとし、けれど、がり、と男の齧った舌先の痛みと熱さに、思わず身を竦めたのがいけなかった。
 愚かな。男は嗤う。
 あらがうのならば徹底的にあらがわなければ意味がないのだ。
 たちまちじわと滲み口中いっぱいにひろがるなまぐささに、彼は顔をゆがめ、それでもなお逃れようと身をよじる。
 しかたがないので、男は暴れる彼の両手首をまとめ上げ、そのまま彼のからだごとむき出しのコンクリート床に縫いつけた。彼が数度頭をうち振ると結び紐がほどけ、金糸が蜘蛛の巣のように四方へ流れてゆく。怒りのあまり意味にならない言葉で罵る彼の口もとを、男はもう一方のてのひらで覆うと、覆ったてのひらの勢いで、むき出しの床に頭を打ち付けた彼は一瞬動きをとめ、喉奥で呻いた。
 やめろ。
 言葉に出せずとも、きつく睨みあげてくるまなざしが喚いている。だが彼のそれは男の狂性をあおる効果以上のものにはならなかった。男は唸りでいらえる。やめろ?どうして?彼がのぞんで咢の前に飛びこんできたのだろう?
 刈られるばけものと同じことだ。
 そぐわないなら、近付かなければいい。ここは彼の部屋、たけりくるった彼のあなぐらだった。
 跳ねる肢体を膝頭で押さえつけ、喉もとにかじりつく。ぱっと血潮のにおいが散った。
 膚がやぶけたなと思う。
 強くかじりついてあなを穿ちそうして終わらせてしまう気は男になかったので、一旦口をゆるめて彼の頸を見おろした。じわじわと滲む朱に眩暈がした。この朱は、先だって目にした、そうしておのれが頭から浴びている化け物どものそれとたいした違いはないはずだというのに、なぜこうも鮮やかに目に刺さる。まるで眼窩に刃を突きたてられたようだ。ああそうか、これはまだばけもの刈りの真っ最中で、俺は刈られるがわなのだ。
 厚ぼったく感じる舌を伸ばし、垂れた朱を舐めあげる。冷たい膚だった。
 舐めあげた膚からたちのぼる彼のにおい、彼のうすい体臭と乳香のまじりあったにおい。鼻づらを生えぎわにうずめて男は陶然とする。しばらく堪能し、生えぎわから耳朶へ、耳朶から顎下へ、顎下から筋をつたって何度も噛みつき歯痕を残しながら、やがてきっちり上まで釦のかかったシャツへ至った。
 両腕はどちらもふさがり使えなかったので、丸釦に歯を立て男はぐいと引き千切る。意外にしっかりと縫い付けられたそれは、反動で一度彼のからだをもちあげ、再度床へ取りこぼした。男の力へ知らずゆるみが生じ、彼は頭を左右に振って、手のひらのいましめから逃れる。
 放された手のひらを男はむきだされた彼の胸板へあてがった。血濡れた手袋越しにつたわる吸いつくようなうすい地肌。うっとりとし、それから、おのれの手のひらのたどったとおりに赤茶の汚れがずっずと後を引くことに気がついて、一気に不愉快になる。
 この汚れは要らない。
 からだを伏せ、汚れへ舌を這わせた。せんごろの彼の朱と似た鉄さびのまずさ、けれど先と違って吐き気をもよおすのはどうしたわけだと思う。これは彼自身の朱じゃあない。舐めとり続けていると、ほんとうに胸糞が悪くなってきたので、男は彼の胸板に片耳を押し当て息を吐く。
 やめろと怒りに震えた声に口角をあげた。
 彼の声は良い。高くもなく低くもない耳にほど良く流れ入る音。なにを言っているか判らなかったので、男は顔を上げ、あらためて彼の顔をのぞきこんだ。むきあった彼の瞳におそれが差しこむ。とまどいを感じているというのに、ぐっとこらえて睨みあげてくるその仕草がたまらない。
 食いたい。
 帰還したこの部屋は彼のあなぐら、彼の巣だ。ここではどれほどに彼が咆え狂っても誰もとがめない、誰も近寄らない。一種の治外法権である。パンドラの扉。彼もそれを知っていた。知っているはずだった。つとめを終えた男の高ぶりは、つとめを為している最中以上だ。その部屋へ迂闊に入り込み、無用心に四肢をさらしたのはおのれであったなら害は被らないという彼の過信だったのか、それともただの日常の慣れだったのか。男には判らない。猛獣をいれた檻を手にしたとして、手に入れた当初はそれでも距離を置き、警戒し、動作に気を使ったものだけれど、次第に爪牙をもちいつでも喰いちぎる強さと力を持っているのだということを忘れそうになる。
 あるいは彼も油断したのかもしれない。
 おのれならば大丈夫という、どこにたよることもない妙な自信、男がわれを忘れても、男の上司である彼を見分けるだろうという安易な危機管理、叫んでみるか?男は嗤った。助けをもとめろ。ここには誰も来ない。なにが行われても誰も気にしない。
 神すらここではありえない。
 男の巨躯の下敷きになり、腕をまとめ上げられおさえこまれて虚勢を張るおろかな生きもの。
 片羽を捥がれた虫だな。そう思った。片羽をなくして、まるで壊れたコンパスのようにおかしな円をえがき同じところをぐるぐるとまわる。もう助かりはしないくせに、もう行く末は判りきっているくせに、無様にもがき、あらがってみせる。
 喰いしばった相手の頬を撫ぜる。血濡れた手袋は疾うに脱ぎ捨てた。
 この青はいい。
 まぶたを撫ぜ、舐める。指の腹で彼のまぶたをひらいて、眼球に直接舌を這わせた。緊張にこわばり、細く短く息をつぐ彼に男は満足する。がりりと前歯で削り取ってもよかったけれど、やめることにした。きっと濁ってしまう。屠畜するたび、光をうしなった水晶体がたちまち濁り、どす黒さに覆われてゆくことを男は経験上知っていた。
 この青は最後まで残しておこうと思う。
 眼球を刺激され、生理的な涙をぼろぼろとこぼしながらやめろ、やめろと壊れたレコードのように同じ言葉を彼がくり返す。やめろ。どういう意味だったかな。滴った涙を掬い上げながら男は首をかしげた。
 刺し貫く勢いの青。
 さらした胸もとに目を移す。彼の双方のわき腹に醜くうがたれた痕をみとめ、男は目をすがめ、見比べた。左は茶褐色に乾いている。成長する過程で何度か引き攣れたか、ねじれのたくってはいたけれど、ずいぶん古いもののように思えた。舐める。丁寧に舐めしゃぶると、白磁の膚が粟立った。それからゆっくりと右へ目を落とすと、こちらはまだ日も新しく、薄皮はかぶっていたものの完全に閉じきってはいない、最近あけたのだな。そんな風に男は思う。深いもののようだった。そうして男はこの傷痕を知っている。……知っている?するとこの獲物はなんだ。
 舌先でつつくように刺激すると、彼がますます身をすくませた。痛みがあるのだ。からかうように何度もふちを舐めあげ、指でなぞる。このままぐいと力任せにおのれの指を突き刺し、穿りかえしたら、彼はどんな風に絶叫するだろうか。
 食いたい。やってしまおうか。鼓膜を震わせる彼の声は、きっとなによりおのれの脳髄をとろかせてやまないだろう。
 血が上り赤い視界のなかで男が思案したとき、おさえこんだ彼の両腕がびくりとふるえて弛緩した。加減を誤ったかもしれない。あるいは骨が外れでもしたか。気づいた男がわずか力をゆるめてやると、そろそろといましめのあいだから彼は腕を引き抜き、そのうちひとつを男の頬へあてた。
 彼がおののきあらがうことを諦めたのは判っていた。それが正しい選択だと昏い笑みがこぼれる。諦めろ。食われてしまえ。
 お前の声は聞こえない。
 ゆっくりと撫でさする彼の吸いつく手のひらに深々と息を吐き、男は思わず目を閉じる。その隙こそが彼の画したものだった。油断だった。迂闊だった。荒い呼気に充たされた室内にかつ、と硬い音が響く。無機物と無機物がこすれ合うそれは、男も聞き馴染んだものだった。
 爪牙をもつものはなにも男に限らない。忘れたか?彼がふるえる吐息でもって囁いた。よわさをさらけ出したがわが負けるのだったな。
 最後に笑うのはどちらだ?
「頭を冷やせ、」
 括と目をむいた男に突きつけられた黒い頭身、銃把をにぎるもう一方の手、祈るかと彼が言った。
「貴様の祈りはとどかない。」
 せせら笑い、容赦なく引かれた引き金を最後に、男の視界は血飛沫き即座に暗転し、そうしてなにも知覚できない闇へ落ちた。

 


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最終更新:2013年01月29日 10:38