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どん、とわりと間近に落雷があり、地響きごと轟音があたりまんべんなくゆき渡った。結構な勢いで足元が揺れた。次いでちかちかと等間隔で設置された電球が数度まじろぎ、あきらめたようにふっと影を落とす。
地方都市の駅だ。
雨をよける人間であふれた待合室から押し出される態になった二人連れの男が、ホームに立ち並び、空を見上げて立っている。ひとりはひょろとした細身長身、ひとりはさらにその上をゆく縦幅のある大きな男だった。
これは架線にでも落ちたかな、つぶやいた声にうわかぶせてすぐにもう一度閃光が走り、細身が目をすがめる。大盤振る舞いだな。声がわずかに楽しそうだった。
子供が雷鳴に恐怖し、ぎゃあと火の点いたように泣きはじめるのが聞こえたかと思うと、せまい待合室のなかで白い目でも向けられたものか、母親が恐縮し、子供をかかえてホームへやってきた。
たちまち雷と雨音に負けじとホームへ広がるおびえた子供の泣き声に、ちらと細身が目をやる。なにかと腺病気質のある人間だからなと大柄な男がふと思い、細身を見やると、案に相違してとくだん眉をひそめているわけでもなく、すまなそうにこちらへ目を向ける母親に口の端をあげてかるく目を伏せ、いらえる余裕があった。
おやと大柄が片眉を上げたのへ、意図を読んでいたらしい細身がなんだと言った。
「迷惑がると思ったか?」
思った。大柄が素直にこたえると、失礼なやつだなとそちらへはきちんと憤慨して見せ、状況も理解せずに白い目を向ける連中とはちがうよと鼻で笑った。
雨音で母親にまで声は聞こえていない。
飛沫にかこまれて外界と遮断されているような気分になった。
「よりちいさなものが泣くのはしようのないことだ。生物学的にも説明がつくだろう、」
「……説明?」
「講義垂れる気はないけどな。簡単に言えば、脳のある部分に本人が寛容できる以上の一定のストレスが溜まると、自己防衛で泣くように人間はできている。泣かねば狂う。」
だから、経験したことのないおそろしい光を見、音を聞いて、子供が泣くのはしかたのないことだ、そう細身が言った。耳障りには違いないがな。つけくわえた言葉を聞いて大柄がちいさく笑う。
「……なんだ、」
「まるで平気なのかと思うとそうでもない。」
「まあ、そうだな。」
「そうしてあなたはおのれを納得させて、ストレスのたまらぬよう自己防衛しているわけだ。」
「まあ、そうだな。」
肩をすくめて細身がこたえる。その彼を見、それから唐突に、最近泣くことがあったかと大柄がたずねた。
「……は?」
顔をしかめて細身が胡乱な視線を大柄に流し、どうして私が泣く必要があると言う。
「最後に泣いたのはいつです。」
「最後?」
かさねていやな顔を細身はして見せて、そんなのおぼえているほどこっちは暇じゃあないよとぶっきらぼうにこたえた。
「ガキの時分は雷に怯えて泣いたかもしれないが。」
「院にいたころは?」
「さあ。どうだったろう。他のやつらは泣いていたよな。」
せせら笑いをうかべた細身に気付いて、だとすると彼はきっと泣くことをよしたのだろうなと大柄は思った。泣かなかったわけじゃあない。泣けなかった。他の人間が弱みを見せる状況で、彼が同じように行動するとは思えない。
ひとりで膝をかかえることもできず、虚勢を張り衆目の中で胸を反らして立っていたか。
「ああ、でも泣きはしなかったが、泣こうと思ったことは度々あるぞ。」
「ほう。」
「貴様や、他の面々が、問題ごとやら始末書やらをかかえてこちらへ丸投げしてきたときな。」
「痛切に肝に銘じます。」
皮肉に苦笑でかえして男はわずかに頭を下げた。後方支援の夫夫が日夜激務に追われていることを知っているからだ。
「――だが、泣けるということは幸福なことなのかもしれないな。」
雨にかぶせてちいさく呟く声がしたので、大柄が声のがわへ目を向けると、見るともなしに彼が子供をあやす母親をながめていた。
涙を流した記憶がないよと彼の言う。
「あくびをしただとか、痛い思いをしただとかの生理的なものはにじむわけだから、機能を失くしたわけじゃあない、そうだろう?」
ひどく堪えているわけでもないんだが。不思議そうに首をひねっているので、彼自身うまく思い当たる節がないのだろうと大柄は思う。思い当たらないほど、彼は長いあいだ泣いていないのだ。
貴様はついせんだって泣いていたな、不意にからかう口調で細身が言った。ふた月ほど前のできごとを言葉の端から思い出したのだろう。大柄もああと短くいらえ、閃光のはしった空へ目をやった。
絶対的なふたりだけの孤独だった。脇で鼓動を重ねる相手が、いつ呼吸することを手ばなすか、戦々恐々としながら男は同じように息を吸い、吐いた。
ほかに訪れることのない黒い闇のなかで。目を開け、また閉じてもなにも見えぬほど真っ白な闇のなかで。
「ひとのために泣ける貴様もきっとしあわせな人間なのだろうよ。」
私は泣けない。自嘲をうかべて細身がつぶやく。泣き方を忘れてしまった。
「どうしてだろうな。捨てたつもりもないんだが。」
生きるためにあきらめることがたくさんありすぎたと言った。飛沫で濡れ、すこし冷えたかちいさく身震いした細身へ、では場所を提供しようかと男が言う。
「は?」
「あきらめなくてもよい、あなたが素をさらせる場所。……いい具合に雷も鳴っている。」
「……まったく、莫迦だな。」
逃げ込むには絶好の機会だろうと両手をひろげてみせた大柄へ、片眉を上げぎらぎらと苛立ちにまなこを光らせて、死んでも飛びこんでやるものかと彼が悪態をついた。そこに飛びこむくらいなら舌を噛んで死んでやる。
「飛び込み放題ですよ。いまなら貸切りだ。」
「御免こうむる。」
おどけた大柄へむけて、本気で厭がる顔になって細身が吐き棄てた。
「……それに、その腕のあいだは、貴様が院へ戻ればいくらでも必要としているやつらがいるじゃあないか。」
私は。
やや小ぶりの様子を見せはじめた雨だれの中、ホームの端の方へ足を進めてゆきながら、肩越しにかすかに漏らした嘆息。聞かせたくなかったのか、そもそも聞かせるつもりもなかったのか、けれど耳をそばだてていた男には彼の声が聞こえてしまったのだ。
私だけの場所でないのなら、そんなものはいらない。
「――ほら、」
空を顎でさししめしてくるりと細身が大柄を向き、電車がきたぞと言った。苛立ちをおさめた、普段通りの皮肉を交えたよく通る声だった。
「雨雲がガキどものいる方へ流れている。怯えて大勢が泣いているだろうさ。……はやく帰って、抱きしめてやれよ。」
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