*

 

 年に一度か二度、おのれというものが無性に鼻につき、どうしようもなく厭になって、いっそバルトロマイにいわれているように、皮剥ぎナイフでもっておのれの皮をあたま天辺から爪先にいたるまで、ぞろりと一枚剥いでしまいたい衝動に駆られることがある。普段はつとめて意識していない、意識しないようにしている、けれどなにかの拍子にそのいやらしい俺がぬっと顔をだし、にたにたと笑い、こちらを眺めてくるものだから、もうそうとでもなるとたとえば机の上のものを全部、一切合切床にぶちまけてインクの染みを絨毯に広げ、奇声でもあげながら書架に並ぶ本を手当たり次第にぬきだし、放り投げ叩きつけて、どうにかなってしまいたいように思う、どうにかなってしまうといいんじゃあないか、いやもう疾うにどうかしているのだ、けれど俺の手足は俺が思うようには動かず、結局ただ苛々と手元の書き損じの紙をくしゃくしゃと丸めるにとどまった。
 夜もふけて、局員はいなかった。俺だけだったのが幸いだと思う。
 仮に一人でもいてみろ。紙を丸める動作にもいちいち目をやってきちゃあ、どうしたんですかだの、機嫌がよろしくないようでだの、判っているなら言わなきゃいいのに、そうでなくたってこちらを物言いたげな目付きでうかがってきやがるものだから、苛立ちは倍増というもので、けれど今現在局室には俺しかいない。他は帰したのだ。
 先日から開始した、カトリック支部へなにかとちょっかいをだしてくる異教徒どもへの弾圧作戦が無事予定通りに収束し、いくつか派手にぶち壊した建物もあったにはあったけれど、それもみな人目の多い場所からずいぶんはなれた郊外の話で、だったらいくらでももみ消しようがあったし、すでに口止め工作は完璧に行われた。日程も大幅にずれ込むことはなく、各地へ差し向けた機関員も全員無事。作戦は大成功裡といっても決して間違っちゃあいないし、実際その通りだったのだろう。現に、内内にとはいえ、教皇台下から招聘の辞がくだったし、直にねぎらいのお言葉もいただいているのだから、ヴァチカン各課内における十三課の立ち位置は、ぐんと株を上げたということになる。
 実働する武装機関員が問題なく迅速に動くには、後方支援は欠かせない。目立つ動きをするわけじゃあないけれど、情報操作だの買収だのあちらこちら細かに繕わなければいけない部分はいくらでもあって、おおがかりな弾圧作戦の間じゅう、局室に詰める機関員がほとんど不眠不休の働きを強いられたのも俺は十二分に理解していたから、そういう意味でも終業とともにとっとと全員部屋から追い出した。
 だから、俺が腐っているのは、なにかしら機関員がへまをしただとか、他課のやつらがこちらへ首を突っ込んでいちいち面倒くさいだとか、そういう問題じゃあなかったのだ。
 厭だった。
 俺自身が心底厭だ。
 数日前から派遣した各地から帰投し、報告に訪れる機関員の顔はみなどことなく誇らしげで満足で、遣わせた俺もやつらの働きぶりに文句はなかった。誉めると調子に乗るやつらばかりだったから、ご苦労だった、休め、ほどにしか俺が言うことはなかったけれど、それでもやつらは神妙な顔をしながら目の奥は得意げで、決して気分を害することなかったのだ。
 そうして、帰還が遅れている中東勢がヴァチカンへ戻ったと聞いたのが、今日の午後のことだった。
 なんでも国際空港がテロ未遂により一部閉鎖されたとかで、多少現場は混乱したようではあったけれど、機関員が巻き込まれたわけでもなく、他からくらべて七日遅れの今日、なんとか人数分の座席を確保しそいつらは戻ってきた。
 中東勢が戻ってきましたと事務員から報告を受けて、俺は席を立つ。一番の激戦区域であったこと、にもかかわらず人的被害を最小限に抑え(この際物的被害は言及しない、)たこと、ついでに七日の足止めの不運をすこしからかってやるために、十三課の入り口まで出迎えてやっても妥当だと思ったからだった。後方支援のこちらは、実戦が終わったとしても隠蔽工作という名の事後処理が山のようにあるのだけれど、息抜きに席を立ってもよいように思えたからだった。
 局室をでて、薄暗く黴じみた通路を歩く。通路と言っても窓ひとつない、ここは地下に造られた秘匿機関だからだ。重くよどんだ空気をかきわけるようにして歩いているようなこころもちになる、けれど俺はその感触が決して嫌いじゃあなかった。季節に左右されずしんと湿気を伴い冷えた空気も悪くないと思っている。
 通路というよりはまるで配管か通気ダクトのように味気のない、色味のない、管を俺はまっすぐに歩き、何度か折れ曲がり、やがて出入り口に立つ十数人の中東勢と、そいつらを囲む機関員の様子が視界に飛び込んだ。
 負傷者はいたものの致命のものではなく全員生還、報告ではそう聞いていたものの、実際におのれの目に入れるまで俺はどうにも信じ切る気にもならず、だったので、あちこちに並び立つ中東勢の面面にぐるりと視線をながし、ひとりずつ見止めてまわった。
 あいつが負傷したのか、こいつは無傷だな、そんな風にたしかめてそのうちに、図抜けて大柄な、周囲を幾重に囲まれてもぬうと目立つ「あれ」がその輪の中にいないことに気がついた。まっさきに気付いてしかるべきだった、いいや、そうじゃあない、気がつかなかったんじゃあない、気がついていたけれど知らないふりをしたのだ。
 俺は貴様を見るのがこわかった。
 こわいというと語弊があるのかもしれない、まるで俺が貴様にたいして恐怖をいだいているように聞こえるけれど、そうじゃあない、俺は貴様に、微塵たりとも恐れも怖れもいだいちゃあいなかった。ただ、貴様を目の前にして、俺はなんと言ったらいいのか、いったいどういう顔をして俺は貴様を見たらいいのか、そもそも俺は常の無表情さを保てるかどうかも自信がなかった。そういうたぐいのこわさだった。
 来週のあたまには弾圧作戦が始まるというその前々前日あたり、貴様が不意に俺の部屋へやってきて、俺はどういうわけか、貴様が俺のテリトリーに踏み込むことを咎めはしなかった。自分でもどうしてそんなことをしたのか判らない。厭だと思っていたのはほんとうで、だったら追い出してしまえばよかったのかもしれないけれど、なぜか追い出す気にもなれず、差し向いで酒を飲むはめになった。はめになった、というのもおかしいかもしれない。俺が酒を用意したのだから、きっと俺は飲みたい気分だったに違いないのだし、酒をしめして貴様が断らないだろうことも承知していた。だから、結局は納得ずくのことだ。
 そうして俺は貴様に触れた。貴様が俺に触れたんじゃあない、俺が貴様に触れたのだ。
 酔いのせいにはしない。
 たしかに俺はずいぶんと量を過ごしていたし、翌日ひどい頭痛と吐き気に襲われたことはみとめるけれど、だからといって前後不覚に酔い潰れたから、調子に乗った勢いで、そうしたつもりで貴様に触れようとしたわけでは決してなかった。
 ただ、目の前に、いつものように、なにごともなかったことにしようと逃げてゆく卑怯な貴様の背中が見えて、俺はかっとなったのだ。
 またひとりかと思った。
 またひとり置いてゆかれて、置き去りにされて、俺はこの胸のうちの言葉にすることもないまま融解したヘドロをかかえて、頭を掻き毟り、のたうち回るはめになるのだと思ったら、目の前が真っ黒になり次いで真っ赤になって、どうにも貴様が許せなくなって、だったらいっそ白黒はっきりつけてしまえばいいのじゃあないかと思ったのだ。つけてしまわないから、いつまでたっても曖昧模糊として知れないのだ。互いが互いを窺うような距離でもって計ってばかりいるから、苛立ってしようがないのだ。
 俺はいつまでもひとりぼっちだ。
 引き寄せ、叩きつけて唇を重ねた。どうにでもなれという思いだった。
 貴様がいったい俺にどんな願いをたくしていたのだろうかなんて俺は知らない。知らないし、知りたいとも思わなかった。知ったとして、それがなんだというのだろうと思った。俺はただどうしようもなく、まるで砂時計の中の砂のようにするすると手のうちからこぼれてゆく貴様をすくい留めようと必死になって、追いすがり咢の前に身を投じた。貴様はおそらく煽られる。判ったうえでの挑発だった。
 抱き寄せられ、有無を言わさず何度も口中を舐めまわされ、吸い上げられて、仕掛けたのは俺のがわだったのにすぐに主導権は貴様にうつってしまう。こうして他と混じあうということ自体はじめてのことで、驚きよりもとまどいが大きい。ひとの口内というのはぬめぬめとしており俺はいま臓器に口付けているのだなと思うと、どうにも気色が悪くて、だのに離せないのだ。おのればかりが翻弄されているようで悔しかった。
 俺は上下も判らなくなって、貴様の腕に、背に、しがみつく。
 爪を立てた。
 ここで力を緩めてしまったら、貴様はたちまちどこかへ行ってしまうような気がして、指が攣りそうなほど力を込め、そうしてそれをやめることができない。いやだ、ゆくな。俺を置いてどこかへゆくな。
 互いに呼吸を荒げ、てのひらで体のおもてをなぞる。着込んだ服の上からでも、貴様の鍛えられた固い肉の感触が感じとれて、俺は陶然として撫であげた。そうだ、俺はこの固く締まった肉がきらいじゃあない。押し当てた互いの腹のあいだでかちかちと音がして、見おろすと首から下げた十字がもつれ絡みあっているのだった。ああ、こんなに絡んでしまっては解くときに厄介だ、俺はそう思い、それからまたぼんやりと貴様の顔を見上げて、芯からぎくとなった。
 貴様は十字を見おろすこともなく、俺を見ていた。熱を帯びた獰猛な瞳孔の一点が、俺をうつしていた。穴の開くほど見つめるだとかいう言葉があったけれど、これでは穴だらけになってしまうと思う。見返すと、貴様の目玉の中の俺も同じように俺を見た。合わせ鏡だ。どこまでも交錯し、写し合いあって、連綿と続く虚像劇。あらためて貴様の胸ぐらにすがった俺へ、貴様が指をのばし頬のあたりをくすぐりながら、こわいかと聞いた。こわい?なにが?
 いいやとこたえると目を細める。笑っているのか、いぶかしんでいるのか、俺には判別できなかった。どちらともだったのかもしれない。
 頬をくすぐる指が顎をとらえ、一瞬のちに貴様がまた俺の下唇へ噛み付いてきた。歯列を開いてこたえる。体を這うてのひらが、いつのまにか上着をもぐり、シャツを剥ぎ、じかに素肌へ触れていた。
 熱いと思う。
 鬱陶しいほどに熱い。
 不愉快になって唸ると、貴様も同じ声色でこたえた。こうまで触れあっても互いに噛みあわない、反発し苛立つばかりの俺と貴様が不思議に思える。
 いつのまにか立ち位置が変わり、貴様が俺を壁に押し付ける態になる。逃げ場はない。背に感じとれるのは平坦な板壁だけだ。もとより俺に逃げる気はない。逃げようとしたのは貴様だ。そう思ってすこしおかしくなった。
 卑怯者のあたまへ手をのばし、より近くへ引きつけようとしたその動作のわずかな合間、計ったように無機質で不意気なコォルがけたたましく鳴りだして、俺は素でぎょっとなった。一瞬なんの音なのか、頭が理解できなかったからだ。
 見下ろすとそれは俺のシャツの胸ポケットから振動とともに喚きたてていて、ああ携帯電話が鳴っているのだと、ようやくそこまでは理解できたものの、どうして鳴り続けているのか、いったいこの音の意味は何だったのか、頭蓋に籠もった熱が認識の邪魔をする。ぼうと眺めていると、徐に貴様の指がポケットから携帯電話をつまみ出して、出ないのかと俺へ差し出し言った。出る。なにを?
「非常呼集じゃあないのか?」
「……ああ、」
 言われてなおも頭のはっきりしないまま、俺は携帯機器を受けとった。ぼんやりしていてもからだの記憶はたいしたもので、勝手に指がオフフックボタンを押し、片耳に機器をあてている。
 ああ、局長。おやすみのところ、申し訳ありません。
 急いた言いぶりだった。すまなさがわりと本気で同居する口調を聞き、ふとあてがった耳から電話をはなし画面を見ると、午後三時を指していた。緊急以外の用事で、この時間帯にかけてくるはずがない。いいよとおざなりな返事をかえしながらなにがあったとたずねると、例のカトリックへちょっかいをだしてくる組織、その一派が勇み足で教会支部を襲ったのだと声は言った。
 自分では、その、処理しかねたので、局長の判断を仰ぎたくて。
 声の言う。判ったよと俺は言った。承知した。そちらに向かう。
 申し訳ありませんと重ねて謝るそいつに、お前のせいじゃあないのだからと言い置き電話を切って、見上げると貴様が着衣の乱れをただし、ぶるりと頭をふって、どこか醒め他人行儀な様子で俺を眺めているのが判った。視線をたどると俺はまだぐちゃぐちゃに乱れたままで、貴様との対比に思わずため息が出る。置いてゆかれた気分だった。また貴様は俺を置いていったな。そう思う。
 行くのかとたずねられ、ああとこたえる。行かねばならなかった。ほつれた髪を束ねなおし、釦を嵌め、シャツの裾をパンツの中に入れて、貴様が差しだした上着を羽織るころには俺は普段の俺になって、いつの間にか外されていたロザリオがふたつ、絡みあっているさまをまるで鼓動のしなくなった頭で眺める。せんごろの貴様と同じ、どこか醒め他人行儀な目で俺は眺めているのだろうなと思った。
 時を置かずして、その夜明けから陽動作戦が開始され、急遽招集された実働部隊が各地へ散って、とうとう俺は貴様と個人的に言葉を交わす機会もなく、そのまま半月が過ぎた。あの夜以前と以降、なにか違いがあったとすれば、結局すぐにはほどけなかったらしい紐のもつれた十字がふたり分、部屋の机の上にほうられたままで、それすらも昨晩、実に十日以上ぶりに部屋にもどり、見つけたのだ。そこではじめて俺は半月のあいだ十字を体に添えていなかったことや、貴様が部屋に押し入ったことを思い出し、唐突にうろたえた。
 中東勢が戻ってくるという。
 あのとき俺は我武者羅で、貴様を足止めしようと必死だったけれど、こうして一度距離を置き冷めた頭で考えてみると、とんだお笑い草だった。身を購って貴様の関心を引いた?莫迦な、それではおのれの長く伸ばした髪で神の子の足をぬぐった、うすよごれた売女とまるで変わりがないじゃあないか。
「アンデルセン隊長。」
 すこしはなれた場所から声が聞こえて、とうとう来たかと俺はなんだか審判を前にした信徒のような態になり、すぐに追って声のした側へ目を向けた。おそるおそるだとか、悠長に構えている気持ちの余裕はなかった。貴様が声のしたところにいるか、いないか、まず俺にはそれこそが肝要だったのだ。
 見ると、壁際に図体のでかい貴様がうっそりと立ち、その前に呼びとめたらしい声の女性と言葉を交わしているのが見えた。別の課の人間だったなと思う。三課だったか、七課だったか、ごくたまに朝課で見かける程度の、見知っているけれどそれ以上親しくもない、名前すらもあやふやなヴァチカン在住の一員だ。彼女はわりと小柄で、たいして貴様は莫迦でかかったので、見上げるというよりは仰ぎ見ると言った風で、懸命に彼女が首をのけぞらせ、貴様に話しかけているのが判った。
 天井画を仰ぐときもああなるよな。
 思って俺はにやにやと笑おうとして、それからおかしな具合に頬が強張っていることに気がつく。次いで愕然とした思いに叩き落とされた。
 俺はまるで笑えていなかった。なぜなら、どういうわけか、顔をそれとなく知っているだけの女、ただそれだけの間がらで、事務的に何度か報告を受けたことはあるかもしれないけれど個人的な会話をしたこともない女、その彼女が貴様の前に立ち、貴様と話す、貴様がわずかに身を折り彼女へ向けて頷き、受けこたえる、なにかおかしなことでも言ったのか、貴様が髭面をほころばせ、彼女も同じように笑う、それを目にした瞬間、俺の丁度胃と心臓との間のあたり、おそらく空洞でしかなくなにも臓器のない部分、そのあたりがぎゅうと絞られたようになって、痛いのか、苦しいのか、俺自身にもよく判らない奇妙な感触、むず痒いとも違う、これはなんだと混乱する。
 もしかすると不整脈だとか、そうしたたぐいじゃあないか。もうずっとろくに寝ていなかったから。
 思う端からそうじゃあないと別の俺が言う。そうじゃあない。
 ゆるくまとめた髪が、彼女が頷くたびに揺れる。細い肩、頼りなさ気に傾げられる首、決して取り立てて華のある女性というわけじゃあない、どちらかといえば絵画に塗りたくられた美しさ、俺は生きてきたうえで、誓って女というものに魅力を感じたこともなかったけれど、芸術家に模された女性像は美しいと正直に思う、それに近いような感覚だった。
 そうして俺は、どういうわけかそのひとまじろぎのあいだに、「似合う」、という言葉を心底理解したような気持になって、ああ似合うというのは文字通り「似」て「合」うものなのだなと、たとえば貴様と彼女は体のつくりも裏も表も性別すら、一見して同じところのない、背反このうえない個と個のものに思えるけれど、こうして離れたところから斜め見るとどうだ、そいつらは実に似合いの容を成しているのだ。
 理屈じゃあない。それは実に自然なかたちだった。
 神にその身をささげた貴様はきっと、そのまま個を貫くのだろうとは思う。貴様の信仰心を俺はこれっぽっちも疑わない。
 けれど、たとえばそれは捧げられたという規定があるだけで、貴様は総じて男だったし、仮にカトリックを知り得ていなければ、得度するきっかけがなければ、貴様はたぶん平凡な男のままで、平凡な女性と知り合い、平凡な子をつくり、平凡な家庭を成して、平凡に死んでゆくのだろうと思った。院のガキらと向き合う貴様を見るたびに俺はそう思うのだ。
 年老いて息を引き取り、白い花にうずもれて眠る貴様の姿。信仰と引き換えに失った平穏な死。
 どちらがより幸せであったろうかだなんて俺は言わないけれど。
 反して、俺はどうだろうと思う。
 思い巡らすまでもない。俺はおそらく、仮令カトリックを知り得なくても一生涯個のままで、他を知らず、肉を知らず、餓え飢えて死んでゆくのだと思った。そうした生まれ、いかにあがいても、おのれの努力だけではどうにもならぬ流れというものがある。
 気がつくと俺は通用口を離れ、局室へむかって足早に通路を戻っていた。
 誰もいない局室は出たときと同じようにがらんとしていて、俺は後ろ手に戸を閉め、机に戻ると乱暴に腰を下ろし、頭をかかえる。
 俺自身が厭でたまらなかった。
 似合う、と呟いた。
 貴様と彼女はほんとうに似合っていたな。男と女、和合というのはそうしたものかと思った。
 男である俺と、男である貴様はどうだ。似通うところがまったくないのはあの彼女と同じ、けれどいつでも反発し、遠ざけ合って、ちぐはぐなんてものじゃあない、人間共にいて、合う、合わないの心地良さがあるとしたら、確実に合わないがわのもの同士、だったら俺はなんだって貴様を部屋に招きいれ、あんな真似をしたのか今となってはさっぱり判らなかった。
 俺はなにも生さぬ人間だ。
 どうしたって女じゃあない、種をばら蒔くことはできても、掴み取りひとつひとつ土に植え、実らせ育てるがわの人間じゃない。刈りとりへし折ることはできても、慈愛をもって接するだなんて逆立ちしたってできそうにない。
 貴様が他のなにかと並び立つということを考えたこともなかった。今日までそうだったし、これからもそうして続いていくのだと思っていた。だのに貴様とあの小柄な女性が向かい合って立っているのを見たとき、もうどうしようもなくすとんとおのれの腹に落ちるものがあって、それは感情の枠を超えた納得というものでしかなかった。
「一粒の麦、」
 以前に貴様が呟いたことがあったな。
「一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。 死なば多くの実を結ぶべし。」
 貴様は実を結ぶ麦だと俺は言った。そうして俺は、腐りおち実を結ばぬ麦だと思った。実にあのときから、一切なにも変わっちゃあいない。そのまま、俺はいつまでたっても腐りおち実を結ばぬ麦だった。
 むしゃくしゃした気分のまま、俺は机に伏す。部屋に戻るのは厭だった。部屋に戻って、万が一貴様がたずねてきたら、俺はどうしたらいい。気が違うのじゃあないかと思う。
 苛々しながら目を閉じる。やるせなさを抱えたまま、とてもじゃあないが仮眠も糞もないと思っていたのに、いつのまにか寝入ってしまった。
 どうせここには誰も来ない。貴様も帰還の手続きを済ませてあとは、まっしぐらに孤児院へ戻ったろう。実る麦はそうするものだ。
 そうして実際、局室へは誰もたずねてこなかった。

 
 
 翌日からの事後処理は覚悟していた以上に相当に目まぐるしいものになった。
 各派遣勢からの報告書が山となって夫夫の事務机に束となって積み上げられ、多少の校正がされたあと、最終的に俺のところに裁可がまわってくる。惨状は前々から想像できたはずなのに、うずたかく積み上げられた書類を見るだけでうんざりする。まるでバビロンの塔だ。
 神の鉄槌がくだり塔が崩れて、俺も埋もれて死んでしまえば楽なのに。
 横目で眺めながら鼻で笑う。ペン軸を握ったままの指がその形に固まってしまって、うまい具合に開かなかった。
 すこし休まれてはどうです、手のひらをこすっていると、脇で声がして顔を上げるとくたびれきった顔をした局員が、愛想程度に笑いながら、こちらにカップを差しだしているのだった。いかがですとたずねられ、もらおうかと頷いて、俺はカップへ手を伸ばす。伸ばしながら、俺も似たようにくたびれた顔をしているのだろうなと思った。
「局長、」
 そのまま去るかと思ったそいつは、若干ためらいを見せながら、それでも気にかかることがあったのだろう、何度か口を開閉し悩んだ末にあのう、と声をおさえて俺へ言った。
「うん、」
「自分が言えた義理じゃあないですけれど。きちんと食事をとられていますか。休まれていますか。」
「……それはいったい、どういう、」
「ひどい顔をなされておいでです。幽鬼のように青い。無理をされてるんじゃあないかと心配なんです。」
「私が?」
 言われてつるりとおのれの面を撫ぜた。食事なと呟く。一昨日はたしか夜半過ぎに食堂へゆき、残りものをあたためて食べたのじゃあなかったか、昨日はよくおぼえていない、今日はそう言えば朝から忙しさにかまけてコーヒーで済ませていたな。
 けれどこれまでもこうして忙しいことはいくらでもあった。その度にどうにかこなしてきたし、いままでこなせてきたことが今回に限ってこなせぬはずはない。そう思う。まあ大丈夫だろ、言いかけた視界が妙にぶれて、おやと思う間もなく目の前の局員に肩を支えられのぞきこまれていた。局長、局長と揺さぶられ、何度も呼ばれて、煩いなと思う。
 連呼しなくても聞こえている。
「やはりすこし休まれてください。」
「そんな――、」
 そんな暇はないだろうと言いかけた声が、かすれて出なくなっていることに気がついた。視界がちらちら明滅する。赤と黒。いったいどういうわけだ。
 仮眠室へ運びますと耳元でがなられ、冗談じゃあないと咳払いしこたえた。誰が入ってくるかも判らない開け放しの部屋で、横になれるか。
「とにかく、」
「……判った、とりあえず医務局へ行って薬でももらってくる。」
 根本的な解決になっちゃあいない気もしたけれど、それで目の前のおせっかいは一応口を噤んだし、口に出してみて、医務局室へゆくのが妥当のようにも思えた。実のところわりと限界ではあったのだ。
 まだ物言いたげなそいつを押しのけ、俺は椅子から立ちあがり、三十分ほど留守にすると言い置いて部屋を出た。出たまでは良かった。人気のない長い通路が、歩いてゆくうちに曲がり揺らぎ、上下の間隔がおぼろになる。頭のなかに固まりかけの寒天が詰めこまれ、それが振動するたびにぶれるのだ。足がもつれた。
 どうにも気分が悪い。胃のあたりがむかつきおかしな具合で、気をゆるめると酸吐いてしまいそうだった。
 壁にもたれて深呼吸をくり返す。耳鳴りがする。膝が笑い、立っていることができなくなって、ずるずると俺は腰を下ろし、すこしはましになるかとカソックの釦をゆるめた。便所までたどり着けそうにもない。顎に伝う汗をぬぐって、そこで俺ははじめて、おのれが全身にびっしりと脂汗をかいていることに気がついた。畜生と毒づく。
 これはちょっとよろしくないな。
 深く息を吸っていたはずが、いつのまにか浅い反復しかできなくなり、息苦しくて俺は首をのけぞらせて天井を仰ぐ。肩から上の血液が一斉に音をたてて引いてゆくのが自分でも判って、ああこれは貧血だろうなと思った。
 貧血だったら、しばらく、こうして動かずにいればそのうちに回復する。何度も経験があったし、今さら取り立てて騒ぐほどのことでもなかった。額に手をあて、無理矢理ひとつ大きなため息をついたところに、局長、と遠くから俺を呼ぶ声がした。
 くそ、と俺は歯噛みする。こんなところで、虚勢を張る余裕もない気分の悪いときに、最悪のタイミングで、よりによってどうして貴様がやってくるんだと呪いたい気持ちだった。
「局長、」
 声はみるみる近付いて、貴様がやってくる。返事の声は出せなかった。発声したらそのまま吐くと思った。
 俺を見おろし息を飲んだのは一瞬で、へたる俺の前に同じように膝を着き、どうしましたと言うのと同時にいきなり俺の顔に手をあて、瞼をひっくり返したり、額に手をあて熱をたしかめるそぶりを見せる。口をきくのもこちらは難儀でならないのに、まるでわざといじくられているようで、それでもすこしは黙って貴様のしたいようにさせていたのだけれど、やはり我慢ならなくなってのろのろと重い腕をもちあげて、貴様の手を払った。
 目眩がする。
 放っておいてくれ。すこししたらよくなる。
「……しかし、」
 言いかけ、逡巡するような間があって、それから不意に貴様は失礼とつぶやき俺のからだごと横抱きにすくいあげる。え、と思ういとまもあればこそ、それは実に素早い動きだったし、なにより俺はたいそう気分が悪くてもう暴れるどころじゃあなかったから、いっそ好きにしろと投げやりな気持ちになった。どうせ暴れたところで貴様の莫迦力に勝てないことは判っていたし、だから俺が今どんな格好で運ばれているのかだとか、どこに運ばれているのか、戻ると言い置いた局室は、積みあげられた仕事はだとか、もうどうでもよい気がした。
 目を閉じ体を預けた。もたれた貴様の肩口に鼻をうずめる。
 人目がすくないのが幸いだと思った。
 しばらく揺らされ体をおろされた先は、医務局室ではなく自室の寝台で、こんなところに連れてくるなと言いかけた文句は、おろされた寝床の感触に嘆息へ変わり、掻き消えてうやむやになる。思った以上に俺の体は休息をもとめていたようで、頬に触れる敷布の感触が心地良かった。靴を脱がされ、上着の袖を抜かれ、顔と首筋の汗をぬぐわれて、そのまま十分弱、横になっているとだいぶん眩暈も胃のむかつきも落ち着いて、ほっと肩の力が抜けた。知らずにこわばっていたらしかった。
 貴様が俺をのぞきこんだままだということは承知している。ようやく相手をする余裕もわずかながら湧き、目を開けてこちらをじっと見る貴様を見かえしてやると、気分はと聞かれたので最悪だとこたえた。
「……そうですか。」
 聞いた貴様がおかしそうに笑う。
 心底おかしそうな素振りなのでなんだと眉をひそめて睨んでやった。
「悪態がつけるようなら大丈夫でしょう。さっきはほんとうに死にそうな顔色でした。」
 まったくどいつもこいつも、他人事だと思って、死にそうだの、幽鬼だの勝手なことを言いやがる。まだ口をきくのは億劫で、ふてくされて俺は目を瞑る。すると貴様が手をのばし、額に流れた髪をかきあげた。
 ざらついた指の腹を感じ、ああこいつはいま素手なのだなと思う。手袋はどうした。どこかへ置き忘れたか。指で髪をかきあげ、そのままするすると梳かれて、俺の口から溜息が漏れる。まあ許してやるかという気になった。
 いまだけなら。
 何度もくり返して梳かれて、しかも珍しいことに貴様が減らず口を一切叩かないので、俺もむきになって口をきかずにいた。こちらから開いてやるのは、なんだかだんまりの押し合いへし合いに負けのような気がしたので。
 そのうち撫ぜる単調な動きが眠気を誘い、そうでなくても俺はこのところろくに横になって休んでいなかったから、うとうとと眠りに吸いこまれかける。境界をゆらゆらとし、もうあと一足であちらがわへゆくというときに、ちいさく貴様が俺の名を呼んだような気がした。
「……うん、」
 夢うつつで呟くと、てのひらでもって瞼を蔽われ、見ていたのだろうとつぶやかれる。
 見ていた。俺が?なにを。
「我々が帰還した日、」
「貴様が――、」
「我々が帰還した日、通用口のあたりでたむろっていたとき、あなたもあの場へ来たでしょう?」
「――」
 ぎくりとして俺は肩をすくめる。わずかな動きではあったけれど、きっと俺を注視している貴様には判ってしまったにちがいないと思った。
「あの場へやって来て、けれど我々に慰労の言葉をかけるでもなく立ち去って行った。声をかけるまでもないと判断したというなら、そもそもあの場へ足を運ばなかったはずです。あなたは無駄を好む人間じゃあない。……では、なぜです?」
「――」
 言えるかと俺は思った。唇を噛む。言えるか莫迦。どうやったって説明のできない俺の中の泥濘と化した部分。
「それは、」
 つと体をかがめる気配があって、貴様が俺の耳元へ口を近づける。
「俺が、女と、話すさまを見たからだ、……違うか?」
 気づいていないと思ったか。嘲笑とともに耳管へ吹きこまれ、とうとう我慢ならなくなって俺は跳ね起きようとし、抑えられたまぶたと胸の上の貴様のてのひらふたつだけでおのれの体がびくともしないことに呆然となった。力が入らない。
「悋いたか。」
 貴様が言った。
「……だったら、」
 だったらなんだというんだ、こらえられなくなって俺は頬をゆがめ、顔をそむけようとした。だのに胸の上からいつの間にか移した手で、そむけようとした俺の頬を抑え、ぐいと貴様のがわへ向きやって、次いで悪口雑言ののしりかけた俺の口を、同じ口唇でもって無理やりに塞ぐ。驚きひゅ、と息を吸う隙間すらすぐにふさがれて、たちまち襲う息苦しさに呻きをあげた。
 やめろ、と貴様のからだを押す。俺にかまうな。
「お前と同じ字だった、」
 何度か押しのけると、くつくつと喉奥で笑って唇を離した貴様が言った。不意を衝かれてえ、と俺は聞きかえす。
「なんの、」
「私が彼女と交わしていた話の中身のことですよ。」
「――え、」
「局長宛ての手紙が一通、どういうわけか彼女に誤配されたので、渡してくれと彼女から頼まれたんです。」
 もっとも、彼女の字の発音はすこし異なるようですが。
 ようやく瞼の上から手を除けられて、目を開けると、得たりと笑いを浮かべた貴様が俺の様子をのぞきこんで面白がっているのが判った。下種めと俺は顔をしかめ吐き棄てる。
「その下種に悋いているのがお前だろう。」
 こちらに覆いかぶさるようにして見下ろす余裕綽々とした風に、俄然俺は沸騰して、拳を固め力任せに貴様の頬に殴りかかった。目の奥を窺い、当たり前のように動きを読んでいた貴様、だから必ず空を撃つか、そうでなくては片手で受けとめられるだろうと思った俺の拳は、きれいに貴様の左頬に打ちあたって、おかしな話だけれど逆に俺はおどろくはめになる。打たれた当人は多少目をほそめたものの、にやと笑みをうかべたまま、まるで痛いそぶりを見せないのだ。
 かえって硬直した腕をとられ、すこしは元気が出てきたなだとかますます腹の立つことを言う。ガキ扱いするなと罵った。
「子供扱い?」
 それは無理ですねえ。ふ、と貴様は呼気だけでかすかに笑って、握ったままの俺の拳に口付ける。
「とても子供にはこんなことはできない、」
 言われてこちらがかっと頭に血をのぼらせる前に、貴様はさっさと俺の上から体を退いて、次いで部屋を見回し、机の上にほうりだしたままのもつれあったロザリオに目をとめああ、と嘆息しながら手に取り眺める。
「胸元のあたりが気抜けたようでいけませんでした。普段あるものが、あるべき場所にないというものはやはり尻座りが悪くていけない。」
「ではとっとと持って帰れ。」
 横になったまま、俺は言った。今度は顔をそむけることができたので、貴様の顔は見ずに言えた。また俺ひとり空振りし、気持ちだけ置いてゆかれたようで、けれどそれをみとめることは、俺が貴様に、なにがしかの期待をしていたということにつながってしまうから、躍起になって否定するのに俺は必死だった。
「解けなくてどうしようもなくなっていたところだ。いっそ放ってしまおうかとも思っていたものだ。いつまでもそんなものが部屋のなかにあるから、俺のほうこそ落ち着かなくてまるでだめだ。それを持って、早いところガキどものいる院へ帰れ。」
 ほんとうは解く気にもならなかったものだった。女々しいと自分でも思った。けれど、紐の絡みあったロザリオをふたつに分けてしまう気に俺はどうしてもなれなくて、そうでなくても貴様はヴァチカンから離れた場所へ出向いてしまっていて、ここにいない。眼前の敵をすべて滅し尽くすまで、貴様は獲物に夢中になるし、呼んでも、決して聞こえない。解いてしまうとどうしてだか貴様が二度とここには戻ってこないようで、人間離れした回復力を持つ貴様が、たとえば任務中に死ぬだなんてことは万にひとつもおこらないことなのだけれど、それを俺は知っているけれど、それでも厭だった。
 そうだ。だから厭だ。俺はひとりで、真にひとりだけだったのならそれでも直立していられるのに、貴様がいると、すべての調子を狂わされる。基礎の土台から掘りかえし、ぐずぐずにされ、左右に振られて、いい加減倒れるというところで急にぱっと手をはなし姿を消すのだ。
 あとには俺だけが残る。もうひとりでは立てない。途方にくれる俺だけが、
「あまり挑発しないでください。」
 やれやれと言った風に貴様が笑い、背後で溜息をつく。
「ひどい顔色で強がられてもどうしようもないんです。無理矢理圧し掛かるにはこころが痛む。」
「――どの口が、」
 どの口が言う。言い返してやろうと貴様のがわへ向きなおった俺の顔の前へ、ほどけてふたつに分かれた十字がほら、と制するようにしめされて、俺は言葉を失った。ああ、ひとつとひとつに分かれてしまったな。
 すうすうと胸のあたりが寒かった。
 黙り込んだ俺へ手をのばし、首の後ろで十字の紐を結んで、それから当たり前のように貴様は俺の頭を鷲掴んで、撫ぜた。
「またそんな顔をする。」
 含み笑う貴様の声に、俺は顔をゆがめ片手でおのれの顔を撫ぜ、知らんと言った。そんなというのは、いったいどんな顔だ。ここには鏡がない。おのれがどんな顔をしているかだなんて知り得ようはずがない。
「今日はこのまま休んだほうがいい。局室へは私が連絡しておきます。」
「……勝手にしろ。」
 叩きつけたはずの俺の声は、妙にかすれてまるで弱く、俺は慌てて咳払いする。こんなはずじゃあなかった。こんな風に、寄る辺ないガキのように貴様にすがるつもりはもうせん俺にはなかった。
 見おろした貴様が首をかしげ、計りかねたようにちいさく笑って、再度俺と同じ視線の高さになるよう膝を着く。まったく困ったひとだ、呟きとともに顎をとられ、せんごろとは真逆のやわらかな動きで、貴様が俺に唇を重ねた。何度も食まれ、啄ばまれて、俺はもう手持ちのカードをすべてかなぐり捨てて貴様にこたえる。寒いわけでもないのに体がふるえて、抑えこむために毛布をきつく握りしめた。
 やりかたなんて知らない。
 だからきっと、傍から眺めたら、こたえようとする俺はずいぶんと無様で、懸命で、滑稽に見えたことだろうと思う。
 明後日の夜時間が取れるから。
 貴様が熱い呼気とともに俺の頭蓋に言葉を吹きこむ。
 部屋に入れてくれ。そうして朝まで口に出せないほど猥らなことをしよう。
 聞きもらすことのないように、俺は必死になって貴様の首にすがる。目茶苦茶になった頭の脇で、判った、と無意識に口がいらえている。
 判った。鍵は開けておく。
「カソックとロザリオは脱いでおけ。気が変わられると困る。」
 悪怖れるようすのまったく見えない、獰猛な獣の呟きで、いいなと貴様が何度も俺に言葉を吹きこんで、その都度俺は判ったとうわ言のように呟き、貴様の頭を引き寄せ口づけをねだっては、喘ぎ息を継ぐ。
 貴様をつなぎとめることがそのときの俺のすべてだった。腐れ落ちた麦だとしても、ひと呼吸のあいだ、邯鄲の夢をみてもよいのじゃあないかと願ったのだ。

 

 

---------------------------------------------------------------------
 > next

最終更新:2013年02月10日 14:06