*
しなやかな獣のすがただった。部屋へ招き入れ口づけをねだり誘う姿は奔放で、旺盛で、享楽的で、男を誘い手玉にとり弄ってはあざわらっていたのに、すくいあげ褥に横たえると、途端にそれまでの勢いは鳴りをひそめてじっとなった。おかしな顔をしている。本人はおおかた気づいていないだろう、押し倒された瞬間左右にちらと走らせた視線が動揺をふくんでいて、ああこれはほんとうになにもかもがはじめてなのだと男は思った。
衒う余裕はないらしい。
かきわけた髪をひと房手に取り口づけてみせると、それでもぎらぎらとしたまなこで挑むように男を射ていた彼が、ふと目をほそめた。嬌羞を含んでいた。そんな目をするのだな。お前が。くくと笑いがこみあげ、男が思わず喉奥で笑うと、きつい眼差しをますます鋭くしてなにがおかしい、と彼がちいさく吐き棄てる。
「いいや、」
おかしいことはなにもない。彼のからだの脇に四肢を着き、覆いかぶさり耳朶をなぶりながら男が吹きこむ。なにもないよ。
耳殻を這いその下に脈打つ血流を感じ舐めあげ、そのまま骨格に添って顎から喉、そうして鎖骨へ舌先でもってちょんちょんとそそのかすと、彼が男の体下で身を震わせたのが判った。けれどそのままおとなしくしていればいいものを起き上がろうともがく。どうしたのかと視線だけで見やり問うと、寝台脇の灯りへ手をのばし消灯しようと躍起になっているのだ。男は彼の腕をかるく押さえ、べつにいいだろうと低くささやいた。室内に灯りはそのひとつきりだったのだ。
彼に割り当てられている部屋は、ヴァチカンはサンピエトロ大聖堂建築当時そのまま、回廊でつながる修道院の一室であり、それだけでも彼と彼の肩書における職責の重要さを周囲にしめしているが、名だけ聞くと豪奢に思えるそれがまるで逆のつくりだった。むしろこれでひとが住めるのかと思えるほどに質素だ。男の住む孤児院の一室よりなお狭く、天井に走る太い梁と、厚い四方形の石で囲まれた部屋は牢獄と呼ぶにはすこしだけ不遜、なぜなら長年の敬虔が石壁に染み入っているような気もしたし、逆にそう呼んでしまっても差し支えのない気もした。口性の問題だ。咎めるものはおのれの良心よりほかない。
窓すらない部屋は、仮に腹の底から叫んだとして、隣室に届くかどうかさえあやしいほどに重厚で、勿論窓の有無には理由があった。修道僧が寝起きした以前は自室に戻った彼らの祈りを妨げるもののないように。いまとなっては防犯警備の問題として。侵入経路にガラス張りの窓ほど脆いものはないからだ。
死んでかまわない人間の部屋ほど窓がある。
ただし、いくら古いつくりとはいっても、さすがに内装部が当時そのままというわけにもゆかない。何度も改装、補修工事が行われて、いまは床下や壁の裏には配電線が走っていたし、男が見上げた彼の部屋の天井にも、シーリングコンセントにつなぐ予定だったろう白と黒の配線が絶縁処理をなされたまま、むき出しに飛びだしている。彼がこのままでいいと言ったのだろう。見栄えが悪いのだから、せめてひとつ、この際裸電球でもいい、つなげて下げるとまだすこしは格好がつくだろうにと男は思うのだが、この部屋の持ち主にとってどうでもよいことのようだった。どうせ寝るときは暗いのだからかまわない、たずねたためしはないが、たずねたとしてきっとそうかえってきそうな気がする。ひどく神経質でひとつのできごとに病的にこだわりを見せるかと思えば、周囲が唖然とする無神経さをときに発揮する。揺らぎのようなものだ。どちらが彼の本性とも知れなかったし、どちらともが彼の本性であるのだと男は思う。
大幅な揺らぎを持つものが近くにいて、波の危うさに気付いたら最後うっかり目が離せなくなる、そのうち目が離せないどころか手を差しのべてしまいたくなる、彼の下に就く多くの人間が彼のその揺らぎを知っていたし、男も飲みこまれたひとりだった。
どころかこんな近くにまで引き寄せられてしまった。
そうだ、と男はひとり語散た。
飲んだんじゃあない。飲まれたんだな。
鎖骨にすこし強く歯を立てる。
手を伸ばして消そうとしたランタンは、彼が郊外の蚤市でもふらりとのぞきに行って買いたたいてきたものか、あちらこちらくすみへこんだところがあり、古びていると言う以上のものでもなく、けれど天井灯やフロアライトをしつらえるつもりにはならなかった彼の気に入る一点があったのだろう。それが電気でなくキャンドルランタンであると言うのが彼らしいと男は思った。
手入れをしなければならないぶん、よけいに手間がかかる。いくら聖堂裏手の備品庫へゆけば蝋燭は積みあげられているとはいえ、それでもいちいち補填しなければならない。しかしその手間さゆえ、逆に彼はえらんだのかもしれないと男は思う。
負わなくてもいい荷をわざわざ増やして背負ってしまう。性なのだ。
火屋は黒く煤けて、あいまよりもれる光が横たわりシャツをはだけた彼の姿を照らすのだった。
別にいいだろう。もう一度男が吹きこむと、睨んでかえした彼が腕を払い、躍起になってランタンへ手を伸ばした。どうしても消したいようだった。なぜ、と男がつぶやく。
たったひとつの光源をうしなえば、なにも見えない暗がりの中で手さぐりになることは互いに判っている。それはそれで趣きがあると言えないこともないが、男はおぼろな明かりの中でじっくりとほどけてゆく彼の姿を目に入れたいと希っていたので、できることならそのままにしておきたかった。
わずか本気を出して男が彼をおさえこむと、しばらく男の下であがいた彼が力勝負にあきらめ、やがてシャツの前をあわせ、顔を精いっぱいにそむけ、うつぶせるようにしてやめろときつい声をだす。その声の鋭さよりも、一瞬みせた泣きだすように揺れた瞳のほうが男はより気にかかって、どうしたとすこし力をゆるめてみせると、すかさず彼が手をのばし、あ、と思う間に今度はまんまと灯りを吹き消してしまった。
たちまち互いの姿は鼻をつままれてもまるで判らぬ闇にしずむ。
この昏さで、と暗順応する間、男は思う。この昏さの中でお前はいつも眠りにつくのか。
「なあ、」
明かりを消して安心したのか、肩の力を抜いた彼にあらためて覆いかぶさって、男は含み笑いとともに囁く。
「お前、俺のからだの特質を忘れちゃあいまいか。」
「特質……、」
おうむ返してすぐにああしまったなと彼が舌打ちするのが判った。男のからだには何度となく体組織再生の施術がなされている。施術を進めてゆくうちに、ひとがすでに失ってしまった五感をも会得し戻した。夜行性の獣のように、光源のない暗闇の中でもある程度の判別が可能なのだということに、彼は思い当たったようだった。
「貴様には見えるんだな。」
「ああ、見える。」
くそ。厭な顔をしている。
「鮮明に見えるのか?」
ふと不安げな色をまじえて彼がたずねた。見えるとは言えさすがにこの闇の中で機微まではうかがえない。けれど声音に織り込まれたそれは寄る辺ない子供の泣き声と同じで、男は片眉を上げどうしたことだと低く問う。いまさら怯えるのか?なににたいして?
「見えると言ったらどうする、」
「――」
男が興味をおぼえてたずねると、からだの下でややためらう様子を見せ、しばらく考えていた彼がやがて腕を押しのけ寝台の上に体を起こす。今夜はやめるのかと男が口を開くより以前に、男の肩をぐいと押し、敷布へとおしつけ、先とは真逆の体勢に入れ替わった。
ひたとまなこの上に彼の片てのひらがあてがわれる。冷たいてのひらだった。なんだと男は言った。俺に見るなということか?
「そうだ。」
不安の色は彼の声にすでに見え隠れしていなかったし、羞恥とも別の問題なのだろう。だったらどうしてといぶかしむ気持ちがないわけでもなかったけれど、それより攻勢に転じた彼がいったいどんなそぶりを見せるのかそちらの方が男はより気になって、結局口を噤み動向をうかがうことにした。おとなしく瞼を閉じると、しばらくしてあてがわれたてのひらははずされる。
目を伏せたまま気配をさぐる。柄にもなくわくわくとした。彼がおのれのからだの上で思い煩い、懊れるさまを想像するだけで血脈の流れがはやくなりそうだと思った。
逡巡していたらしい彼が、やがて身を伏せ、男の口の端をかすめて頬に顎に鼻先に唇を落とす。考えつつ何度も行き来し、それからためらいがちに男の唇へ彼の唇が重なった。てのひらと同じように冷えている。片腕を上げ、彼の髪の中へ手を突っ込み、くしゃくしゃと掻きまわしながら、男はこたえた。角度を変える一瞬ふ、と漏れる彼の呼気を淫靡に思う。ぬめる相手の舌先を音をたてて吸い上げる。いやがって逃げるところを押さえつけ、甘噛みしてやると、彼が肩を震わせた。
気に食わない、と彼がちいさく呟く声がする。
「うん、?」
「貴様が手馴れているのが気に食わない。」
心底不満げな声に男の口の端が上がった。翻弄されることが気に入らないのだと判っている。後頭部にまわした腕を、徐々に彼の背骨に沿ってすべらせながら、動きのとまった彼の喉もとへ下からくらいつき、男は言った。
「それはたぶん、経験の差というものだろう。」
「経験……、」
血のにじまぬ程度に膚に歯を立て、どうした手が止まっているぞと揶揄すると、一瞬素に戻り次いでむきになった彼が、男の動きをなぞるように男のわき腹へ手を這わせ、ひらで撫で上げ、あらわにした胸板へ唇を落とす。男と違って彼はまったく視界のきかないはずで、文字通り手さぐりだ。胸襟をくつろげ、乳首におそるおそる舌をからませ、しゃぶる。貴様はほんとうに熱い、熱すぎて不愉快だ。腹が立つ。悪口を吐き棄て、不愉快ならば触れなければよいものを、触れる手も唇も離すことはない。腹を立てて唸る彼が、実に彼らしいと男は思った。
そっと瞼を開き彼をうかがった。きつく眉をしかめている。本気で厭なのだ。厭なのに、けれど行為をやめることも癪でしかたがないのだった。おかしいと思う。
男が笑いをこらえるあいだに、シャツのボタンをはずし終え、腹の筋肉をたどって臍のくぼみをつつき、それからスラックスの釦に手をかけ、かけあぐねて、彼の動きが止まった。せんごろより迷う気配の色が濃い。
「どうした?」
「――いや、」
ここまで来て、気のひけただのとがめただの言うつもりも言われるつもりも男にはなかったし、引きかえす一線は疾うに超えたと思っている。それでもよいと思えたから男はここにいるのだし、彼も男を部屋に入れたのだろう。
いぶかしんで視線を向けると、見られていることに気付いていない彼が、片手で口元を覆い、ひどく戸惑っている様子が見てとれた。
ああそうだったか、なにも知らないのだったら手順に悩んでもしかたがない。浅く合点し、起き上がり、彼の下穿きへ手をのばしかけた男の肩をぐいともう一度強く推して、貴様は動くなと強い口調で彼が言った。
「だが、」
「いい。私がやる。……だから勝手に目を開けず、瞑ってじっと転がっていろ。」
気付かれていた。内心おやと苦笑い、次いでどうあっても理由はともかく彼は見られたくないのだなと理解し、男はあらためて目を瞑る。まただと思った。ほんのわずかの合間、泣きだしそうな目をするのだ。なににたいして?
こわいのだろうか。
そうして、その揺らぐ彼に簡単に煽られるおのれをもてあます。
咳払いとともにベルトと釦がはずされ、前立てがひらかれて、彼の指が下着越しに男の性器へ触れる。無造作で思いきるような動きだった。
そのまま緩急をつけ扱きはじめて、情緒も風情もあったものじゃあないな。ますます苦笑を深く刻み、男はどうしたものかとしばらく相手をうかがう。功稚をもとめるつもりはない、現に単純な上下の動きで男の股間は膨らみを見せているのだった。しかしこのまま彼の動向を眺めていてもよいものか、そう男は悩む。
「マクスウェル。」
いやなら、言いかけた口の動きが中途で止まった。男をまたぎ、小刻みにからだを震わせる彼の様子が明らかにおかしいことに気付いたからだ。
今度こそ驚いて、男が彼のからだに手をやると、全身にびっしりと脂汗を浮き上がらせているのが判る。浅く短い呼吸を漏らしながら、後ろにまわした片手でもって彼はおのれの後肛に指を突きこみ、抜き差しをくりかえしているのだった。ちょっと待て、さすがに男は跳ね起きて、お前、とがめる口調で彼の腕を押さえる。
性急にもほどがある。
「邪魔を、するな。」
きれぎれに呻吟の合間から声を押し出し彼がつぶやく。まるで愉悦のない苦痛と焦慮ばかりのその声に、いっそう強く男は腕を引いた。
「ちょっと待て、」
「――別に、備えなしに挑んでいるわけじゃあない。やりようも識っている。オイルだって十分、」
「やめろ。無理強いをしたいわけじゃない。」
「無理じゃない。……いいから、転がってろと言ったろう。」
「やめろ。」
もうあと一本で貴様をいれてやる。言った彼の肩をつかみ、男はひどく強い声色で彼の名を呼んだ。
「やめろ。しないでいい。……これでは強姦となにも変わらん。」
「強姦でも……、私は一向にかまわない。」
「お前、」
言いように目をむいて男は彼の顔をとらえた。なんてことを言う。これで捨てばちな笑いでも浮かべていたなら、男は彼の頬にひと張りしたかもしれないのに、けれど乱暴な言葉に反して眺めたおもては不安で一層揺れていた。なにがお前をそこまで追い詰める。男は眉をひそめ、彼の顔に手をあてがうと、溜息をついた。
汗ばんだ額を脱いだシャツの裾でぬぐってやる。視界のきかない彼が、動揺をまじえた視線をうつろへ向けた。
男をさがしたのだと思う。
そのまま彼を引き寄せ、胸に抱きしめる。
「貴様、」
「今日はいい。」
暴れるかと思った彼は、存外おとなしく腕の中におさまり、どうせあきれているのだろう、低い声でつぶやいた。
「あきれる?俺が?……お前に?」
「てんで益体のない人間だと、そう――、」
「……ばかばかしい。」
放出しようのない憤りが声に出た。地面を這うように静かな瞋恚だった。
「お前はお前でしかない。他のなにものでもないし、他のなにものにもなれない。」
なににおののきうろたえるのか。問いただして口を割るとも思えなかったから、余計に身のいたならさに腹が立った。俺に言えないことなのか。俺にも言えないことなのか。
引き寄せられたまま、男の胸板に耳を押しあてていた彼は、
「――音がする。」
力ない声でぽつりとつぶやいたきり、口を噤んで朝を迎えるまでなにもしゃべらなくなった。男が髪を梳き、口づけを降らせてなだめても、体をこわばらせたまま固く冷たい彫像になる。
そのままいつしか男は先に寝入ってしまい、目がさめると腕の中にいたはずの彼の姿はなかった。先に起きだして手さぐりで身支度を整え、部屋を出て行ったようだった。
なあ。
火屋に覆われた蝋燭へ火を入れ、男は深く嘆息する。
お前は後悔しているのか?
ゆらゆらと炎が揺れる。
それからまるで会話のないままに二週間だった。
もとより愛想のいい相手でないことは札付きされる周知の事実で、常態のほとんどは不愉快そうに眉をひそめているか、そうでなければ威嚇の笑みを浮かべているどちらかだったので、世間話を楽しむたぐいでもない。気付いたはじめのころは気に留めないようにしていたものの、長引けばそうと言ってもいられなくなる。
避けられているのだと判っている。
だとするとおのれに手落ちでもあったか、そうでなくても腺病質な彼の気に障ることは容易であったから、自身気がつかない間に彼の気を損ねていたということは十二分にあり得た。
きっと男が気に入らないのだ。
気に入らないのならばそれでもいい。腹を立てても構わない。ただ、あのとき見せたぐらぐらにぶれる視線のたよりなさだけはいただけないと思う。
「――おい、」
ぱしんと甲高い音が室内にひびいて、ぎくと男が我にかえり顔を上げる。十数人を集めた打ち合わせの最中だったことを思い出す。
見ると苛立ちをまじえきつい眼差しを向けた彼が真っ直ぐに男を睨んでいて、聞いているのかねと皮肉したたる辛辣な口調で突き刺した。音は彼が両手を打ち鳴らしたのだ。
「目を開けたまま寝ているのかな。」
「――」
「それとも貴様にはまったくもって不必要な説明だったろうか。後方指示にしか過ぎない私から突入経路を聞かずとも、実戦で誰よりもうまく立ちまわってみせると?なあ――アンデルセン武装神父隊長?」
顎が引かれますます弓弦が引き絞られる。
すまない、男が口早につぶやくと、つぶやいた男と弄られる彼とを見比べる無神経な視線が交差した。なにかあったのか。他人事だからこその好奇心むき出し、アンデルセン神父がどうやら我らが局長の機嫌を損ねたらしいぜとの噂話にはもってこいだった。
出歯亀の視線に気づいた彼がふんと面白くなさそうな鼻息を漏らす。ここでこれ以上ことを荒立てるのを控えることにしたのだろう、黒板へ目を移し、なにごともなかったように話を進めはじめる。見比べる中には、興味よりも心配をまじえた瞳もいくつかはあって、彼が議題に戻ったことをさいわい、だいじょうぶですか。ちらとさぐる視線に、ちいさく頷いて男はこたえた。
大丈夫。なにをもって問題なしと為すのか、男にもさっぱり判らなかったのだけれど。
やがて会議が終了し、やれやれと召集された面面が三々五々、思い思いに立ちあがり雑談をはじめてすぐに、書類をまとめ男は彼の姿を探す。話しかける内容はまとまっていなかったけれど、作戦の確認、なんでもいい、口実さえあればあとはなんでもよかった。用もないのに男が十三課を訪れるということはそれだけで悪目立ちする。いまなら彼を呼びとめても不自然には見えない。
だのにいつの間にか姿を消しているのだ。さっさと局室に戻ったらしい。のんびりと黒板の文字を消す参加者をのあいまより彼の姿のないことを再度たしかめて、男は席を立つ。廊下へ足早に歩きだしたうしろから、アンデルセン神父、控えめに呼びとめる声があり、男は足をとめた。
ふり返ると細身の男が、思案気な顔で男へ視線をよこしている。彼にとがめられた折も、探る色をまじえていたひとりだった。古くは男の教え子だ。
どうした、と男が教え子に近寄りたずねると、おせっかいだとは思うんですが、言い置いて教え子が首をひねる。
「局長、もう先週からずっとあんな感じなんです。」
「先週。」
「苛ついているっていう意味じゃあなくてですね、なんていうんですか、必要以上に周りに誰も寄せ付けないと言うか。」
「……ああ、」
「昔っから、ああして避けているとき、親切心だして近付いたって手ひどくはねつけられるだけでしょう?自分もずいぶん痛い思いをしました。……でもほら、自分、護衛も兼ねているんで、要されたら責に就くわけなんですけれど、」
「――」
「徹底してますよ。本気で必要事項以外こっちと話をかわす気がないんですから。」
「――」
見た目もあれなんで、余計自動人形かと思います。おどけをまじえて揶揄してみせて、それから、でも、と教え子が眉根を寄せて声をおさえた。
「院にいたとき、あのひとと一番近しい間がらだったと自負しているんで、ちょっと気になるんですよ。」
気になる。なにを。男が目で問うと、苦い笑みを浮かべて教え子が肩をすくめた。
「ああいう風にして、ほかを寄せ付けないとき、高確率でトラブルに巻き込まれてるに違いないんです。何度同じパターンだったか判りゃしないです。バレバレなんですよ。でも絶対、とくにまわりの大人には、あのひと報せようって気がないんですから。」
そうして、先生は大人です。教え子がとんと男の肩をつついて言った。
「あのひとにとってはいつまで経っても、あなたはあのひとの先をゆく大人なんだと思います。だからきっと、なにがあっても、あのひとは弱味を口にしない。」
そうか、男はこたえた。それから教え子の顔を見やり、どうしてそれを俺に言うのだとたずねた。
「いやあ、どうしてですかね。でも、このところ、局長の身辺すこしキナ臭いのはたしかですよ。自分も立ち入ったことが知れる立場じゃあないんで、それ以上は判らないですけど、テロリストや異教徒どもじゃあないですね。あっちは最近すこぶるおとなしいわけで、だから今回のあぶり出しをこちらから仕掛けるわけでしょう。護衛しててもたいしたやつは襲ってこない。だから、いのちを狙われているとかそう言うんじゃあないんです。どちらかというと、その、言いたかないですが、ヴァチカン内のですね、覇権争いとか、権力争いとか、もしかしてそうしたたぐいなのかなと、」
だとするとなおのこと男に挟める口はない。男は戦闘においてまれな働きをするものの、位階は指定教区の一介の司祭でしかないからだ。政治は俺には判らんな、言い置きそれでも男は踵をかえすと部屋を辞していった彼のあとを追うために、廊下を大股に歩いた。
彼の姿はすぐに見つかった。
疾うに局室へ至ってしまっただろうと思っていた男の予測は軽く裏切られて、実にゆっくりとした動きで彼は通路を進んでいた。その背を追ううちにおやと男は内心いぶかしみ目をすがめる。左の足をわずかにかばい引きずっている動きに見えたからだった。
「局長、」
声をかけるより前にとっくに男の接近には気づいていたのだろう、背をむけたまま、しようのないという風に彼は長々と嘆息して見せ、それからなんだ、とようやくふり向き男の目を見据えた。敵対を前面に押し出す彼特有の威嚇の眼差しだった。
「いましがたのミスをわざわざ謝りに来るほど、貴様が殊勝な性格にも思えんが。」
先制を切られて男が言葉に詰まる。相手の話のとっかかりを封じてゆくのが彼の得意とするところで、封じながら嘲っている。どうだ、図星だろう。
「ミスは働きでもってかえせ。保身のとりつくろいの言葉は私は聞く耳を持たんぞ。」
「そうではなくて、」
ではなんだ。ますます鋭くした眼差しで数呼吸じっと男を眺めていた彼が、やがてふと片眉を上げ、打ちあわせに漏れがあった、そうだろう?勝手に解釈をすすめ、だったら話は食堂で聞く、言って通路を局室とは別の方向へ進みはじめた。
「局長。」
「なんだ。そう言えば昼がまだだったのを思い出した。鍋の底に残りでもあるといいのだが。」
不問にしてくれるようだった。そもそも漏れがあったと言うのもただの口実にしかすぎず、ただ彼は男をそのまま局室へ連れてゆくのが厭だったのだろうと思う。
午後もだいぶんまわった食堂は人もまばらで、数本並んだ長卓に幾人か、コーヒーを片手に雑談に興じるグループがひとつあるだけで、ほかは閑散としたものだった。厨房の中の人間に声をかけ、あまりものを盛った二人分の中皿を前にして、男と彼は雑談のグループから離れて腰を下ろす。十三課の局長と武装神父の隊長の姿に、グループからは一瞬好奇の視線を向けられもしたけれど、やがて彼らは雑談へ戻っていった。
昼がまだだったと言うわりに、皿に手をつけず、手元の書類へ目を通しはじめる彼へ、こちらは祈りをすませるとスプーンでかきこむ男が食わないのかとたずねる。
「ああ、うん、」
頼んでみたけれどたいして腹は空いていなかった。ちいさく笑って彼が男へおのれの皿を押しやり、食えるのならばこれも食えと言う。受けとる男に目を細め、
「貴様はよく食うな。図体がでかいから食欲が旺盛なのか、それとも再生機能に莫大なエネルギーを使うのか、どちらなのだろうな。」
彼がまた笑った。
男が答えあぐね、結局黙って咀嚼していると、さっきの、言って彼が向かいで頬杖をついた。
「うん、?」
「会議中。どうせ、院のガキどものことでも考えていたのだろ。腹の具合がおかしいとか熱を出したとか。」
「ああ――、」
お前のことだったのだが。言いかけてしかしどう言葉をえらんだとしても、あの夜のことを言いだしたとして、彼の機嫌を今よりそこねることは想像するだに難くなく、弱って男はあいまいに笑ってみせた。せっかくこうして逃げずに目の前に腰を下ろしているものを、わざわざ怒らせ立ち去らせるのは愚かだと思う。それからおかしい、の言葉にふと男は目をあげて、局長と彼を静かに呼んだ。
「ん?」
「具合といえば、足をどうかしたんですか。痛みがあるような歩きぶりだった。」
「ああ、これな。」
聞かれて一瞬怪訝な顔になった彼が、長椅子に腰かけぶらぶらと足を振って見せ、もうたいしたことはないんだといらえる。
「今週のあたまに、ちょっと、階段で踏み外してくじいてな。」
「足を。」
「そう。数段よろけただけでなにもなかったんだが、わりとしっかりひねったらしくて……でももう腫れもない。痛みもほとんどひいた。」
「そう、」
ならば別に心配することもないが。頷いた男の前で冷めたコーヒーに口をつけた男がぐいと飲みほし、まずい顔になった。その顔に影が差す。男の肩越し、彼の正面になにかが立ったのだ。見えていたらしい彼が、大げさにまるでいまようやく気がついたといった態で顔を上げ、おやこれはこれはと驚きの表情とともに立ちあがるのが判った。
「枢機卿猊下、なぜまたこんなところに。」
「なに、偶々なのだよ。教皇聖下にお目通りがかなって、向かう途中に君の姿を見かけてね。」
光栄です、手を取りこうべを垂れ、老人にはめられた指輪へ口付ける彼の姿を横目で眺め、同じように立ちあがりけれど男は食事中であったので、体を折るにとどまる。見ると雑談のグループも席をたち慇懃に老人へ向けてこうべを垂れていた。
まったくたいそうな歓待ぶりだな。お大尽気分でいやがる。いくつか言葉を交わし、やがて付き従った数人と去っていった体躯を目で追いながら、彼がちいさく吐き棄てる。従ったうちのひとりふたりは、十二と一に分けられた各課の長の姿もあった。
口からどうして雑言がでるのか。不審に思い男が見やった彼はいつも通りにすでに涼しい顔で、結局それ以上立ち入ったことを聞けず、煙に巻かれたようになって男はヴァチカンを辞したのだ。
局長になにかあったのですか。
教え子から直接男の寝泊りするフェルディナントルークス院へ、電話があったのは翌日の夜半過ぎだ。なにか、言われてまったく覚えのない男は、逆に電話の向こうへなにかあったのだなと聞きかえす。
「なにがあった。」
「局長ですか?判りません。表立ったことはなにもありません。今朝に、風邪をひいたようなので、一日寝て過ごすと、その連絡っきり、」
「……あれが?」
電話越しの教え子の声に男ははっきりと眉間にしわを刻む。風邪?あれが?点滴を打ち、薬を飲み、医者にもまわりにも休めと勧められ、まっすぐ歩けない状態でなお頑なに休息を拒否し机にかじりつく仕事に狂った彼が?
「伝染性なら困る、だが寝ていればなおる、部屋には来るなと言われてそうかと納得できますか。」
納得はできない、でも部屋に行ったところでいれてもらえないことも判っているんです、教え子の泣きついた先が男だった。
ありえないな。それから二言三言かわし男は受話器を置いた。ありえない。
高確率でトラブルに巻き込まれているにちがいないんです。電話相手の昨日の言葉がよみがえる。そうだろう。お前はどこか挙動がおかしかった。声をかけても局室へ戻らず人目のつく食堂を選んで、なるべく俺と差し向いの状況になることを避ける意図が垣間見えた。プライヴェエトを穿りかえすことをお前は好まなかったから、俺はお前が話す気になるまで待とうとまったく悠長な気分でいたが、これなら無理矢理にでも聞きだしたほうがましだったな。
外套を手に取り男は院を出た。地下鉄の最終は過ぎており、バスもない。仕方なく大通りに出てタクシーを拾った。
ヴァチカンまで、行き先を告げるとラジオから流れる競輪の情報に耳を傾けていた脂くさい運転手はぎろりと男を睨み、苛立たしげに舌打ちしながらも、男の胸に下げた十字を目にしたらしく、黙ってハンドルを回してアクセルを踏んだ。軽く手を組み祈るような姿勢になって男は目を閉じる。早朝から院の仕事が待っていた。抜け出すいとまははっきり言ってなかった。行って、戻ってぎりぎりのところで、今夜は眠れないままに暁を迎えることになりそうだ。
サンピエトロ広場よりすこし手前で男は呼び起され、金を払い礼を言って降車すると、爆音をあげてタクシーは走り去っていった。よほど夜間の遠出が厭だったのだろう。
頭上に立ち並ぶ聖人と、その聖人に突き刺さる避雷針を見上げながら、男は彼の携帯電話の番号を押す。数度のコォルのあとにどうした、と常とほとんど変わらない声で彼が応じた。この夜中に、驚きもしなければ寝入った声でもないところが彼らしいと思う。
俺だ、と男は言った。
「俺だ。いまサンピエトロの広場にいる。」
「……はあ?」
「十分ほどでそちらに着く。着いたらもう一度コォルするから、戸をあけてくれ。」
「……ちょっと待て、」
不意にせわしなさをにじませる口調になって、彼がちょっと待てとくり返す。
「いま?いまどこにいると言ったんだ貴様は?こんな時間にいったいなんだっていうんだ?院にいたんじゃあなかったのか?」
「タクシーを拾ってここまで来た。詳しくは後程話す。」
「待て。」
はっきり戸惑いと狼狽をにじませて、彼がそれは困るんだと口早につぶやく。
「困る。なにが。」
「いま明日までの仕事にかかりきりでとても忙しい。貴様に構っている時間がない。」
「風邪で寝込んでいたんじゃあなかったのか?」
言うと電話の向こうで彼が詰まった。端から言いわけであることを男は承知している。部屋にいるんだろう。静かに威圧すると、しばらく逡巡したあとにそうだ、とくたびれた口調で彼がぼつんとこたえた。
「部屋に入れろ、いいな。」
「……私が仮にいやだと言ったらどうする、」
「戸をうち鳴らし大声をあげてお前の様子がおかしいとさんざんに騒ぎひとを集めたのちに、力づくで蝶番を叩き壊す。」
「――」
無音がしばらくながれ、それから判ったと溜息とともに彼が呆れてかえす。すこし笑ったようだった。
「こんな夜分に、鳴物入りされちゃあたまらんからな。」
外部から居住区への直接の通行許可を男は持っていなかったので、一旦聖堂を抜け、十三課を通り、回廊を歩いて中庭からヴァチカンに起居する各個人に割り当てられた区画へ足を踏み入れる。警備室でのんびりを煙草をふかしていた職員が二名、ちらと男を見やったが、彼から連絡でも入ってあったのだろう、とがめられることもなく男は通路を進んだ。
最低限の光源にしぼられた通路はかげかたちもおぼろで、しんと静まり返っている。一室一室の中では夫夫が眠りについていることだろう。いくつもの扉の前を通り、彼の部屋の前で足を止めたとき、おい、とひそやかにだが鋭い調子で男に投げられた声があった。
見ると、通路の向こうからぎこちなく足を引きずり近付く長身の影がある。彼だ。次第に近づく姿へ、どこへ出ていたのかといぶかしむ顔で男が迎えると、片手に携えた蝋燭の数本を彼が振ってみせた。
「ちょうど切らしていて、急に来ると言うから慌ててとりに行った。来るなら来るともっと早く言えよ莫迦。」
鍵を差し込み自室の扉を開け、あの夜と同じ、ほの暗い通路よりもなお暗い部屋のなかへ彼は入ってゆく。続いて男も背をかがめ、戸口を抜けると後ろ手に扉を閉める。暗闇になれているらしい彼はすいすいと寝台脇へ進み、手さぐりのまま器用に蝋を立て、燐寸を擦ると芯に火をともした。つんと硫黄の白い煙が宙に流れる。
慣れたものだな、感心して男がつぶやくと、配置をおぼえれば簡単なことだろうと彼は肩をすくめ、逆に不思議な目をして男を見返す。
「見えない、見えないと言うが、じゃあめくらの人間が暮らしてゆけないかというとそう言うものでもないだろう。彼らは努力をして、ひとりで生活できるようになる。記憶力の問題だ。」
「いつから切らしてたんです。」
「え?」
椅子を男へむけて顎でしゃくり、自分は寝台へ腰掛けて、橙色のあかりの中一瞬きょとんとなった彼が、聞かれていつだったかなと首をひねった。
「私が二週間前部屋に来たときは、たしかに灯りはついていた。」
「……じゃあそのあとだろう。一週間か、十日か、」
「足。」
「え?」
座らず立ち尽くしたままの男へいぶかしんだ目をむけて、彼が机に立ててあった水の瓶を栓を抜きながら男へ寄越す。酒もコーヒーもあいにくないが、差しだしたそれへいらんと首を振って、男はずいと彼へ近付いた。
「右足を痛めているようですが、どうしました?」
「ああ……貴様、昨日も同じことを聞いたな。なにを勘ぐっているのか知らんが、階段で踏み外しただけだと――、」
「踏み外して挫いたのは左でしょう?私が言っているのは右足だ。」
「――」
言うと彼が一瞬押し黙り、思案する顔になって、ぶつけたんだと素っ気ない口調でこたえた。
「ぶつけた?どこに?」
「……うるさいな。どこでもいいだろう。」
眉間に皺をよせ、険悪な顔になる。そうだ。お前はそうして突き放す。踏みこまれるのを拒むときの彼の癖だということを男は知っている。
「貴様はなんだ?俺の管理人にでもなったつもりか?」
「話を逸らすな。どこにぶつけたんです。」
「局室の私の机の脚だ。」
「今朝から局室へ顔を出していないのにですか?」
「――」
さらにせまり、彼を真下に見下ろして男は低く尋ねた。昨日の夜に訂正するか?
「――」
口を噤みしばらく彼はうつむいて、それから、だったらなんだと刺々しい言葉で吐き棄てた。
だが覇気がない。
「私が足を痛めていようといまいと、それがなんだと、」
「見せなさい。」
有無を言わさぬ口調で男が圧す。とうとうあからさまに彼が狼狽えるのが判る。
「見せろって、貴様、」
「見せなさい。――見せろ。」
「――」
なおしぶる彼の寝台横へ男は膝を着き、いやがる彼の太腿へ手をのばし上からかるく押す。怒りの目は返されるがそれ以外の感情はない。ここは違う。暴れる体を押さえつけ、徐々に膝にうつし、ふくらはぎと脛をおさえ、足首と腱をたどってまったく彼が痛みに顔をしかめないことをたしかめた。挫いたことすら詭弁だ。
ここも違う。靴を脱がせ、くるぶしを過ぎて、もういいだろうと彼が呟いたと同時に足の甲へ触れた。
ひくんと肩が揺れる。見逃すはずもない。
靴下を剥ぎとり、しかし予想に反して青白い甲には傷ひとつない。爪先もどこも痛めていないようだった。いい加減に放せと怒気をまじえた彼の声に、男は最後に足の裏を見て、
「……お前、」
唖然とした声がでる。
足裏にはまんべんなくびっしりと、十字に切り刻まれた痕があり、じくじくと体液をにじませ赤黒く腫れているのだった。いくつも。いくつもいくつも。自然についた傷痕ではどうしたってありえない。思い当たって左の足もかえすと、こちらはほとんど傷口のふさがった、しかし同じように切り裂かれた痕がはっきりと見てとれ、これはいったいどういうことだと押し殺した声が男の喉から漏れだした。
これではろくに歩けまい。
腕をつかむ。つかんだ瞬間に彼が顔をしかめるさまがはっきりと判り、男はカフスの下に隠した彼の手首をあらわにした。膚に染みこんだ青黒い指のかたち。握りこまれ動きを封じられたのだと男は即座に理解する。
「どういうことだ。誰にやられた。」
「騒ぐな莫迦。」
激昂しかける男をいさめ、下からすくいあげる彼の視線は平静だった。
「たいしたことはない。ちょっとした……、そう、ちょっとした事故みたいなものだ。」
「これが?」
栓を抜かれた瓶を手に取り、彼に向かって男が突きだす。水はどうだ。
「誤魔化せると思うか。昨日の時点でおかしいと思っていた。口中もだろう。殴られたのか。」
「落ち着け、アンデルセン。」
「落ち着け?どういうことだ?お前が黙ってやられる口か?こたえろ、マクスウェル、いったい誰にやられた。ここは孤児院じゃあない。お前の挙動が気に入らないのは院の上級生ではありえない。では誰だ?誰がお前を、」
「アンデルセン!」
肩をつかみどんと壁に叩きつけた男の名を彼が一語、ひどく強い調子で発した。叱責に近い。叫んだと言ってもよいほどの声音だった。凍った刃だ。鋭く刺しこまれ、男の一部が瞬時に冷え、我を取りもどす。彼の肩を掴んだ指から力が抜け、両脇にだらりと腕が垂れる。
力づくで押さえ込む、これでは彼をおさえこんだ人間と変わらない。
「――すまない。」
つぶやいた男の声がそのまま床に落ちる。あきれた目で男を見やり、溜息をついた彼が、まったくこの莫迦力、言って肩口をさすり、
「貴様な、様子を見に来て痣を増やしてどうする。」
苦笑した。
そのまま沈黙が部屋を這う。十分、二十分、机の上のちいさな時計の秒針の音だけが響いた。
押し黙る男に、やれやれといった態で彼は指を唇に押し当て軽く考えていたが、
「……聞きたいことがあるのならひとつずつ尋ねろ。」
こたえられる範囲でこたえてやる。そう言った。
しかし聞いてもよいと間口を広げられると逆に強く押せないもので、そうでなくても男は一瞬彼の勢いに呑まれていたから、なにから問うかと言いよどみ、やがて、
「名を呼んでもいいか。」
「……は?」
さて貴様はなにから聞く、そうした風で眺め、かまえていた相手へ向けて男がたずねると、さすがにその問いは想定していなかっただろう彼が、目を見張り、それからおかしそうに口をゆがめた。
「呼べばいいだろう。好きなだけ呼べ。」
「マクスウェル。」
「うん、」
「マクスウェル。」
「なんだ。」
にやにやとする彼へ呼びかけるうちに、どういうわけかたまらなくなって、男は腕をのばし、せんだって力任せに掴んだ肩口を再び掴むと、彼のからだを抱き寄せた。抗いもなく笑い、腕の中からおのれをさぐるように見上げる彼をそのまま抱きしめる。くつくつと呼気とともに笑いが漏れて、抱きしめてもいいかとは聞かぬのだなと彼が揶揄した。
「抱きしめてもいいか。」
「もうそうしているだろう。」
からかわれて男が鸚鵡返すと、まなこをきらめかせて彼がまた口の端をあげた。彼の腕が同じように男の背にまわされて、貴様は熱いなとぼやかれる。腕の中のからだは冷えて、だのにシャツ越しの一部が熱を持っているように思い、男は見下ろす。
「腹も殴られたのか。」
「……すこしな。」
無骨に太い指でシャツのボタンをひとつひとつ外す男の動きを目で追い、けれど彼はじっとしたままに動かない。観念したとは別の理由で、男の動きを面白がっているのだった。
くつろげた彼の腹を眺めおろし、てのひらをあてがい、痕のないことにいぶかしんでどこだ、と男がつぶやく。
「このあたりだな。」
鳩尾のあたりをかるく抑え、痕はないぞと男の考えを疾うに読んでいたらしい彼が笑いを含んでいらえた。
「やつらは痕を残すことを好まない。」
「足は。」
「足は、まあ、見えないからな。」
「口もか。」
「そうだ。傍からは気付かれない。」
苦笑の皺を深くする彼へ、殴られたのかと男が静かに聞いた。
「そうだ。こう、内側に十字を鎖ごと詰めこんでな。頬肉がひどいことになった。」
「歯は。」
「やつらは決してことを荒立てたいわけじゃあない。手加減は心得ているさ。痣を残しもしない。無事だよ。腫れもほとんどなかった。……ただ、飲み食いがあそこまで苦痛になるとは思わなかったが。」
ようやく塞がってきたがわりと参った、酒どころかコーヒーも紅茶も飲めないんだぜ。つぶやき顎をさする彼へ、おもてを険しくして誰が、と男はたずねた。
「誰がやった。」
「――それは言えない。」
彼が首を振る。
「マクスウェル。」
「なんだ。言っただろう。ちょっとした事故のようなものだ。これは私の問題で、貴様には一切かかわりのないことだ。」
別にいのちを狙われているわけじゃあない。ただのいやがらせだよ。肩をすくめた彼へ、誰だ。言え。男が詰め寄った。
「いのちに別条がないということは、ヴァチカン内部なのだろう。派閥か。食堂に似つかわしくない人間が姿を現したのもその一環か。」
「言わない。貴様を巻きこむ気はない。」
薄く笑いを浮かべたまま彼は首を振る。それがこたえだ。男は撓められた弦にあてがわれた銃剣で、彼は特務機関をまとめる鋲だった。それだけの関係でしかなかった。
聞きだすことを諦めて、男が長く息を吐くと、なんだと彼が怪訝な顔になった。しつこく重ねられると警戒していたところをあっさりと退かれ、意外に思ったようだ。
「あともうふたつだけ聞かせてほしい。ほかに傷を負ったところは?」
「ない。口と、腹と、足だけだ。」
「ほんとうに?」
「嘘は言わない。」
「ではこの間、お前が寝台の上で、執拗に灯りを消したがっていたのはなぜだ?」
「――」
虚を衝かれ、彼が失語する。はっと息を吸い、みるみる笑いがこわばり固いおもてに変化してゆくのを男はじっとながめた。
「傷を隠すためかとも思ったが、受けたのはあの夜のあとだな?だとするとほかに理由があるはずだ。あの夜お前は様子がおかしかった。機会を逃して聞けずにいたが、ずっと気になっていた。」
「――」
つと視線を逸らし、彼がランタンの揺れる炎を眺める。なんとこたえたものか頭の中で高速に考えを思い巡らせているのが判った。笑い飛ばそうと考え、誤魔化そうと考え、その迷いがおもてにあらわれる。そうしてたっぷりと沈黙ののちに、それはこたえなければならないかと、実に奇妙な静けさでもってたずねた。言えないとは言わないのだな。男は思う。
こたえてほしいと男は敢えていらえなかった。代わりに彼の頭を引き寄せ、あの夜と同じように彼の片耳を胸に押し当てる。
しばらく耳を澄ませ、男の鼓動を聞いていたらしい彼が、これでは眠ってしまうよと言った。ひどくかすれた声だった。お前はとても熱いから。
肩を抱き、男も押し黙る。眠ってしまうならそれで構わない気がした。お前はきっと満足に寝てもいないのだろう?聞いてはないが、きっとそうなのだ。痛みをこらえ、灯りを切らし、闇の中まんじりともせず、時間にだけは正確で毎朝局室の机に就く。食を制限され、走り逃げられぬように足裏を切りさくのはたいそうな効率だ。うつわが弱れば必ず精神もともなって衰弱してゆく。引き離せるものでなく、生物としてそれはしかたのないことだった。
「――私は男だから、」
だんまりを決め込み眠るのだろうと思っていた腕の中の彼が、空気を震わすことすらおそれる囁きで不意に口を開き告げた。男だから?それはそうだろう、お前は決して女ではない。
意味が判らず不審に思って男が見下ろすと、それだけだと彼が言う。
「それだけ、」
「それだけだ。話は終わりだ。……貴様、院に戻らずといいのか?いい加減往来にタクシーも流れなくなる頃合いだろう。」
はやく帰れよ、追い返す口調のわりに、彼はまったく動かない。男の胸に耳を押し当てたままで、目を閉じ、体を曲げ足を折っている。胎児だな。思うと余計に転がしてみたくなって、男は寝台へ背後から倒れた。うわ、さすがに目を開けあわてた彼を胸に抱えて、あわてた様子がおかしくて声を立てて笑う。
「貴様、なに考えて、」
「心配されなくとも帰るさ、お前を寝かしつけてから帰る。」
「……あのな。私はガキじゃない。貴様にあやされなくたってひとりで眠れる。」
「俺が、そうしたいんだ。」
狭い寝台の上で彼と向かいあわせ、
「それはいやか?」
頬を押さえてのぞきこむ目付きになって男はつぶやく。その顔の間近さに、顎を引くようにして視線を逸らした彼が、しらん、とぶっきらぼうにこたえた。照れている。
「こちらを見ろ。」
「……なんだよ。」
落ち着かない態で、それでも挑まれると決して後には引けない。性分だ。むきになって彼が向けたまなこをまっすぐとらえる。青いなとそれだけを思った。身づくろいをする際に見なれた男自身の目の色とは異なる、凍徹とした青。
親指の腹で撫ぜるとかすかに細めた。
「口は、」
「え?」
「口中は昨日も殴られたのか?」
「……いや。昨日は腹と足だ。」
そうか。目尻を何度も往復した親指を、そのまま静かに下に伝い這わせ、男は彼の唇をなぞる。ろくに栄養を取っていないからか、水分が足りないのか、それとも単に寒さのせいか、押さえたそこはかさつき罅割れていて、彼のからだのどの傷ついた部位よりも痛々しく見えた。頬も削げている。
そのままおのれの唇を重ねる。皮肉も言わず、目を閉じもせず、彼は静かに男を受け入れた。至近距離にぼやけた視界で相手の目の色だけが鮮明だ。男の世界はすべて青だった。転じて彼には緑があふれているにちがいないと思った。
何度か啄ばみ、食み合って、やがて唇を離した男が見下ろすと、同じようにじっと男を見つめていた彼が、もう一度、今度は彼のがわから男を引き寄せ唇を重ねた。わずかに触れる短いものだった。
そうして見つめたままの彼の眼差しが不意に力を失い、ぐらとぶれた。そのまま浮き沈みはまなこのおもてにおよび、ふちいっぱいに揺蕩って、やがて彼がまたたいたかすかな動きに耐えきれず眦より溢れ、頬を走って敷布に跳ねて吸われる。男が見たなかでいっとう静かな飛散だった。ために、その水滴の意味よりも透明さに思わず目をうばれた男は、数呼吸のあいだ彼を伝ったしたたりがいったいなにを為すのか気付かず、阿呆のようにぽかんと眺め、これはどうしたわけだろうかとかなり遅れて思ったのだ。
それでも男は気がつかなかった。腕のうちで彼は口角を一心に上げ、うすく笑んでいるように見えた。黙って手を伸ばし、男のこわい髪のあいだに指を差し込み幾度も撫でて、彼は安らぎ笑っていた。笑っていた、だのに彼は泣いていたのだった。
アンデルセン、口を開き実におだやかな声で彼が男を名を呼んだ。まるで険のない、柔和でうっとりと聞き惚れる彼の素の声だった。応と男はかえす。
「もう帰れ。そうして、二度とここには来るな。」
優しい言いぶりだった。優しい、有無を言わせぬ強い口調だった。
驚いて男が目を瞠る。凝視した彼の頬にもうひと筋水滴が伝って、
――ああ。
男ははじめてそこで、それが涙だということに気付いたのだ。
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最終更新:2013年02月20日 11:26