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 なにもかも、おのれの思い通りにことはひとつも進まないのだと俺は不意に気がついた。不意といっても、それは稲妻が脳天に落ちてきただとか、足もとから震撼するほどの恐ろしいほどの喪失感などではべつだんになくて、むしろ床に落ちたペンを気軽に拾いあげるような、ひょいとした風のさりげなさ、袖についた埃屑におやと気がつき手で払うような、そんな日常に埋もれた些細なものでしかなかった。ちっぽけで貧相で、そうして途方もなくあとに引き続くおのれの無力を鼻にかけるようにせせら笑い、そいつは転がり落ちてきたのだ。
 あとにはぽかんとした空洞だけが残った。
 どうしたわけか、偶然とでも言ったらいいものか、それとも廻りあわせすら、たとえば神だとかいうやつに仕組まれていたものか、俺が以前よりほしくてほしくてたまらなかった気のするものが、ある日気まぐれに手の中に落ちてきて、それがまるで心がまえのされていないときにだったから、俺は慌てふためきうろたえるばかりになった。ほしくてたまらなかったはずなのに実際に手のうちにおさめしげしげと眺めてみると、それはたいそう扱いにくくて、奔放で、まるで俺の思い通りになるしろものじゃあなかった。
 貴様のことだぜ。俺は内心ひとり語散る。
 そもそも手のうちにおさめたと俺はひとときでも思ったけれど、あれはおさめたということになるのか、だいたい俺も、貴様も、互いにやりきれない気持ちばかりが脹らんでたたらを踏み、結局一歩も前に進めず、勝手にがんじがらめになっていたようなもので、思い上がりもいいところだったのかもしれない。
 最初から不釣り合いなものだったのだ。俺は俺に言い聞かせる。しようのない、ほしくてたまらないものなんて端から俺にはなかったし、手に入っただとか言うのもただ夢想、勘違いしただけにすぎないのだ、だから怒涛のように一連が過ぎ去ったあとの俺のうつろなこころもちというものは、たとえば祭りの翌日のような、おおがかりな作戦がすべて片付いたあとのような、はじまる手前までは滅多矢鱈に忙しく、こうまでひどい思いをするならいっそなくなってしまえばいいのにと呪い恨みながらこなすそれも、終わってみるとなんとなく手持ち無沙汰で、やることを失いどうしてよいものやら途方にくれると言った風な、そんな一過性の思いちがいに過ぎないのだった。次にやるべきことがあればすぐに薄れる。それは判っていた。
 けれどその一方で、ぽかんとした空洞をすこしはなれたところからぼんやりと眺め、ああこれがさびしいということなんだなあとおかしな具合に納得しているおのれがあった。
 さびしい。
 貴様がいた、昨夜はいたはずの敷布のあたりへ手を伸ばして、ぬくもりをさぐってみる。当然まる一日経った綿生地の上になにも残るものはなく、ひたりと冷たい感触だけが俺のてのひらに伝わった。そのままさわっているとなぜだか布地に体温まるごと奪われてしまいそうな気がして、俺は急いで手を放す。
 それから、貴様が忘れていった外套を手に取り、袖を通す。帰るときも冷えたろうに、置いてゆくのもたいがいだなと思った。袖を通すと貴様のにおいがふわと立ちのぼって、抱きしめられているような気分になる。益体もないことをしているのは承知していた。なのに、丁寧に皺のひとつひとつを指でなぞるうちにどういうわけか視界がぶれた。視界はぼやけて熱をもち、何度かぱちぱちまたたくとまっすぐ真下に転がり落ちて、外套の袖に転々と黒いしみを成した。そうして俺はいま泣いているのだなと思った。
 これがさびしいということか。
 ほしかったはずのものを手にした瞬間から、俺はもうそいつをなくすことばかり考え懼れて、どうしたらなくさずにすむ、どうしたら消えずにいる、日夜戦々恐々とそればかりになり、柄にもなくおたおたとし、尻座りを悪くし、とにかくもう落ち着かないばかりで、手に入れてうれしいだとか満足だとかいう心境とはまるで対極にあった。
正直、ほしかったものを手に入れて素直に喜べる人間は、まだ失うことを知らないか、失っても気づかない愚かものかのどちらかだと思う。
俺はそれまで、ほしいものを手に入れたことはなくても、失うこわさは知っていたし、むしろ失いっぱなしのどうしようもない人生だった気もしたから、唐突にほしかったものが手に入ったという実感がまず湧かなかったし、とにかく持て余した、その一語に尽きた。
必死だった。
まずもって、俺が男で、貴様も男であることから問題だった。俺は、貴様を部屋に入れたときから、もうとっくに神がどうのとか道徳がどうのとかいうつもりもなかったから、ヴァチカン司教という名においてそれはたいそうよろしくないことではあったのだろうけれど、俺にとってはどうでもいいことだった。口に出したら貴様がどういう顔をするか想像はできたのでそれは言わない。けれど、倫理という点において俺はまったく臆さずにいたし、仮に説く人間が側にいたとして莫迦なことをと鼻でせせら笑ったろうと思う。
必死だった。芯の芯から、我武者羅で没我になり目を血走らせてもがきあがいている人間に、教科書そのままの説法を滔々と論じたところで、まったく意味がないことは判るだろうと言いたかった。俺は貴様をつなぎとめることに心底血まなこで、つなぎとめるためならなにをしても構わないとさえ思った。地を這い泥水を啜れと命じられたならその通りにしたかもしれないほどの懸命さだった。生まれてはじめて、それまで俺は俺自身の身体四躯造形に関してまるで気に留めたこともなくて、巷の言う、生まれかわったら何某になりたいだとかそんなことを考えたこともなかったし、考えるだけ無駄だと思っていた。けれど実に染み入るように、俺は俺が仮に女であったならと強く思いさえした。
俺は消えてしまいたかった。
俺は男で、貴様も男で、もちろん同性同士の関係というものを俺は知らなかったわけじゃあない。もともと興味はなかったし、なるべく触れずに過ごしてきたものの、この年まで生きていれば、また一度でも集団生活に放り込まれた人間であれば、やれあちらの教会で司祭が男児に手を出しただの、こなたの枢機卿が若い燕を囲っているだの、否応なく耳に入ってくるもので、だったからやりかただの手順だの、知らなくてもいいような下世話なことまで一式頭の中に入っていたことはたしかだった。
けれどそれは俺にとってまるで対岸の火事の話で、まさかおのれに降りかかるとは思っていなかったし、そもそも男である俺のからだのどこに、そうした同性をいざなう素性があるとすら思っていなかった。この職に就いたのち、上の連中から下卑た言葉を投げられたことも一度や二度では済まなかったけれど、それらはすべていやがらせのたぐいなのだと理解している。
俺は愛、だとか名のついたものを決して信ずる気持にはなれないし、一生俺とは無縁のものだろうと言う自覚はあるけれども、たとえばこれが男女の合意のかたち、澄ました顔をし日々数枚の布地を着込んで通勤電車に揺られる人間ですら、いきものという型枠から外れることはできないのだから、雄が雌に発情するということは種の保存という観点から見ればおそらく自然なことであろうと思う。
またたとえば俺が、紅顔かんばせの少年だったとしたなら(判りたくもないけれど)、あるいは貴様が夢中になる要素のひとつもあったと言えなくもないのかもしれない。
けれど俺は何の変哲もなく男で、それなりに上背もあり、どこからどう見ても女ではない、ヴァチカンにいる身幅のあるシスターとくらべたところで女にはなり得ない、髭も生えるし声がわりも終わっている、まるで特異のない本当にただの男でしかなかった。勢いで貴様に口づけ、部屋の鍵を開けておけと言われたときには俺はわりに捨てばちな気持ちになっていたし、そのまま流れでどうにでもなるような気もしていたけれど、しばらく経ってひとりで思い返してみるに、どうしたって無茶をしたというただならぬ絶望感に突き落とされ、しばらく動くことすらできないありさまになった。
なぜなら俺は男だった。俺は、どういうわけか、貴様とからだを重ねる妄念をするとき、俺が貴様を組み伏せる場景というものはあまり考えがおよばなくて、組み伏せられるのは常に俺のがわだった。それをおかしいことだとすら思わなかった。追い詰められ、逃げ場もなく横転し、猥らに腰をこすりあわせながら貴様の腕のなかで俺は去勢され、雌になる夢をみた。覚めてみるとそれは実に虚しい、ただ孤閨のわびしさをいっそう募らせるばかりの懸想でしかなかったのだけれど、だから別に男である俺が、男である貴様に圧し掛かられることにまず抗いをおぼえるだとか、そういうことでもなかったのだ。
手慣れた素振りの貴様は、以前に性交渉を経験していたのだろう。けれどおそらくそれは平々凡々たる異性とのまじわりであって、同性である男、しかも成人しきった、可愛いげのかけらもない男との行為ははじめてでだったにちがいないと思う。うまく説明できないけれど、俺は貴様から「そうしたたぐいの」気配を感じたことは院時代から今にいたるまで一度もなかったし、その俺の推測通り、たぶん貴様はごくごく普通の一般感覚の持ち主に違いない。
唇を重ね舐めあい、抱きよせて互いの膚を弄りもした、もちろん俺は貴様とその先へ進むのだなと思っていたけれど、そこで俺ははじめて俺が男であることを意識した。
そうして俺はひたすらにこわかった。
つまり、正直に言うと、俺は、男である俺をあらためて見止めた貴様が途端に興醒めし、失望することがほんとうにこわかったのだ。
灯りは消してしまいたかった。視覚をつぶし感覚はすべて触感だけのものにしてしまいたかった。だったのに貴様は俺の上になり、当然のようにシャツを剥ぎ下肢へ手を伸ばそうとするものだから俺はたいそう慌てた。
予想が現実に変わる瞬間を見ることは厭だった。
それで俺はどうにか灯りを消し、これでひとまず大丈夫と思えば貴様は闇夜でも目が利くと言う。そういえばこいつは再生者としてもうひとではない生き物になっていたのだ、今さらながらに俺は気付いて、貴様とからだを入れ替える。見られ続けることはどうしても耐えられなかった。
目を閉じろ。見るな。言うと貴様はわりと素直に言葉に応じて俺はほっとする。シャツのボタンを外し、素肌に触れると貴様のにおいが直にまとわりついて、俺はひとり興奮し悶えた。頭の中がどろどろと溶けてゆき、ああこれがほしかった、俺はどうしたってこれがほしくてたまらなかったのだと芯からそう思った。
ずっとこうしたかった。
こうして貴様と膚を合わせ、つながり、継ぎ目のないひとつのものに俺はなってしまいたかった。たまらないというのは、今まさにおのれのこうした状態のことなのだなと俺は合点する。そうして闇目の利く貴様が俺を見て落胆することがあらためてこわくなった。
勃たせていろ、頼むから萎えることなく俺が受け入れきってしまうまで固くしていろ。枕元へ転がしてあったオイルの瓶を手に取り、蓋をまわして手早く広げる。オリィブ独特の香りがつんと宙にひろがった。
いつ誰に見られているかしれない、そうでなくともどの戸口から噂が立つかも判らない俺の立ち位置で、悪目立ちする薬局に入ることはできなかった。ローマ郊外へ下っても同じことだったろう。かといってそれこそ出入りするすべて内検される郵便宅配を使うわけにもいかず、結局悩んだのちにスーパーマーケットの売り場に落ち着いた。食用であることにはこの際目を瞑る。
てのひらに広げたオイルは思ったよりもするすると指のあいだを滑り落ち、俺はこぼれきる前に馴染ませてしまおうと、おのれの後ろへ指をやる。
ためしたことはなかったけれどやりようは判っていたわけで、けれど実際おのれの後孔へ指を差し入れるという行為は違和感と不快感しか伴わず、俺は鳥肌を立てながらとにかく奥へ奥へと指を進めた。
くちゃと粘着質な音がした。
ぬめりに助けられて中指が入り込むのにそう時間はかからなくて、これならいけるのじゃあないか、思いながら俺は貴様のベルトを外し、熱を帯びた股間を扱いた。弾力のあるそこはおそらくここへ来る前にシャワーでも浴びてきたのだろう、洗濯石鹸のにおいだけがする。
院で使われている、褐色不透明の廃油を用いた石鹸をふと思い出し、その愛想のなさ、無骨さ、使い勝手の悪さ、莫迦でかさがどことなく貴様に似ているなと思い、そのにおいが貴様から香るということがおかしかった。
そんなどうでもいいことを考える俺の別の部分で、次第に焦る俺がいる。二本目が入らない。
一本はわりとどうにでもなったのに、中指に添えて二本同時に突き挿そうとしても、縁がそれを拒んだ。当たり前かもしれない、そもそも排出する器官に無理矢理逆行しようとしているのだから、からだが反するのは道理で、俺はオイルを継ぎ足し力任せにねじ込む。一瞬苦痛にからだが硬直した。切り裂く傷みとも違う、打ちつけるものとも違う、疼痛でも鈍痛でもない生理的に内臓が入りこむものを拒否する痛みはただ嫌悪感の一言で、目の前が赤だの緑だのに明滅し、どっと汗がにじんだ。
それでもなお奥へと指を差し入れる俺の姿、酸吐き、こみあげる生唾を口の脇から犬のようにしたたらせて、あさましい、きたならしい、一個の男でしかない肉、排泄器官をひろげてなんとか貴様を飲みこもうとする俺、たのむ目を開けてくれるな、早いところ貴様を俺のうちへおさめてしまえばいい、内腑の熱と女のうちの熱は同じ臓物でたいした違いはないはずなのだから、じりじりと二本の指でもって内奥をひろげ俺は思う。俺はそのときその瞬間だけは、まったく女になってしまいたかった。
乳房もなければやわらかな腰もなく、なよやかさすらない、ただ固く筋張ったばかりの俺に貴様がどうしたって煽られるとは思えなくて、そのうえこうした使用用途のことなる使い方でもって貴様を迎えいれようとしている俺、不恰好に足をくずし片手を差し込み汗みずくになっている俺、もうすこしだから堪えてくれ、俺は願う。堪えてほしい相手が貴様なのか、それともいうことを聞かないおのれのからだにたいしてなのか、俺の中ではもうあやふやで意味をなさず、舌を突きだし浅い呼吸をくり返しながら、たのむと俺は意味もなく呟いていた。
やめろ、と強い調子で腕をふり払われたのはそのすぐあとだ。
無理強いをしたいわけじゃないと咎められ、無理でもいいとこたえた。そもそも受け入れるという行為そのものが端から無理を伴っているわけで、この際無理でも道理もないだろうにと俺は言いたかった。
強姦と変わらないと留められ、強姦でもいいだろうと俺は言った。驚く貴様が判る。だが犯すのは貴様じゃあない。俺は思う。自惚れるな。俺が貴様を犯すんだ。
殴られるかと思ったけれどそのまま引き寄せられ、胸に押し当てられて、今日はもういいと諌める声がする。諌めた先が、俺か、貴様自身か、どちらだったのか判らない。しかしみっともない俺の姿を見て貴様が欲情するとも思えなかったから、諌めた先はやはり俺だったのだろう。あてがった耳から貴様の規則的な鼓動が聞こえて、ああこいつ生きていやがると当たり前の感想を俺はいだいた。
胎児のときの記憶というやつは、意識の表層に上がらなくても深底にきざまれているのだとか、そんなような話をどこかで読んだことがある。俺のなかにある産みの母親というものの顔は、いつだって寝台に横たわり青白く固まった顔だった。死に顔だった。さあお母さんにお別れを言いなさいと言われた言葉が記憶の最初で、目の前の死人がおのれの母親と呼ばれるものなのだということを、俺はそこで理解した。理解はした、したけれども理解することと思慕があることはまるで別の話で、正直俺は腐敗しはじめたそのからだに近寄ることが心底厭だったし、言われるまで赤の他人だったその死体をおのれの母親と思うことはどうしたってできなかった。純粋に気色が悪いとしか思えなかった。
幼かった俺には、固く冷えたあの体が生々しく動いていた風を想像することができなかったけれど、あの死んでいた女がほんとうに俺の母親というものだとしたら、きっと俺は胎の中であの女の鼓動を聞いていたにちがいない。規則正しく血流を送りだす筋肉の音、それはいま俺が聞いている貴様の心臓の音と同じだろうか。同じなのかもしれない、だからこんなにも懐かしいと思うのだ。
音がするなと俺は言う。
貴様が生きている音がする。
耳を押し当てじっと聞いているうちに、貴様が寝息をたてはじめたのが判った。こんな不安定な、体を起こした体勢で寝られるのか。あきれたと同時にひどく貴様らしいと俺は思ってすこし笑った。そのがさつさは嫌いじゃあない。
そのまましばらく貴様の音を聞いていた。
寝ている貴様を残し先に部屋を出た。明け方だった。
 
 
後ろ手に押さえつけられて無理矢理正面を向かされる。老人斑の浮いた腕がぬうと伸びて俺の顎をつかんだ。どうだ、耳元でささやかれる。口を割る気になったか。
叫びをあげても決して外には聞こえない、ここはヴァチカンでも隠匿されている尋問室の一室で、俺はそこで数人の手により羽交い絞めされ仰のかされて、まさに「尋問」の真っ最中だった。尋問というよりは拷問にも思えるけれど、普段俺が手を下しているやつらにしてもだいたい同じように苦痛に顔を歪めているから、日頃のおこないから慮るに差し引きゼロというやつかもしれない。
そうして俺は、この部屋に連れてこられたのが別にはじめてというわけじゃあなかった。
こいつらにとって遊びのようなものなのだ。出る杭を叩くのと同じ感覚で、目についた小生意気な、いずれおのれの地位を脅かしかねない、しかも自分たちの派閥の呼集には応じないような輩、そいつらを折に触れてはこうして信仰の試練だとかたいそうな名前でもって称して、つまるところいびり弄っては楽しんでいるのだ。
主犯格がひとり。共犯が三人。どいつもこいつも普段のヴァチカンではやれ閣下だの猊下だの頭を下げられてはお大尽さまさま、悦に入るような連中ばかりだ。
顔を隠しもしない。一応は薄暗がりの室内で、灯りに照らしだされているのは俺だけというかたちをとってはいたけれど、それはほんとうに名ばかりの「かたち」で、演出でしかない。要するに、こいつらはいたぶり弱る獲物を見て楽しんでいるのだ。
余興だった。
俺の知っている情報を引き出したい、そんな誘い文句も結局は口実で、なぜならこいつらは俺とほぼ同等の情報をいつでも手に入れられる立場にある、十二とひとつの局が構成をなすヴァチカンに於いて、俺の受け持つイスカリオテだけが知って、ほかの諸聖人の名を冠する十二課が知り得ない情報はあまりない。なあそうだろう。後頭部を強くつかみナイフの鈍い刃ををきらめかせる一課と五課の長に俺は皮肉を込めて笑いかえしてやった。醜悪な面構え。反吐がでる。
ほしいのは情報じゃあない。やっかみなのだ。
笑った俺が気に入らなかったのか、管轄区大司教が眉をひそめ、それが合図になってしこたま殴られた腹に数発、また拳が叩きこまれた。加減を持ってゆるやかに、確実に相手にダメージを与える強さをこいつらは知っている。空気を吐きだしついでに胃液も咳き込み戻すと、正面の老人が慌てて身を下げた。
それがおかしくてまた俺は笑った。
「――君は昆虫採集をしたことがあるかね?」
 腹への制裁に飽きると次には三人の男に体をおさえられ、まるで動けない状態にされて、右の足裏に刃を刺しこまれる。するすると切れる感触に俺は身をよじり喘いだ。
できれば声ひとつ立てぬ、巌となってしまいたいのに、焼けつくような痛みとともに傷はじりじりと広げられ、勝手に喉から声が漏れる。痛がってみせるだけやつらを喜ばせることを俺は知っている。とくに、大司教とやらは顕著で、俺が呻くといちいち欲望に目をぎらつかせ、どうだ痛いか。苦しかったら私に助けをもとめてもよいのだよ。涎をしたたらせかねない興奮度合いで、実に気色が悪い。こいつは前々からその気があった。加虐体質なのだろうなと頭の片隅で考える。
知るかと俺は毒づく。
「あいにくたいした家庭の育ちではないゆえ、あまり遊び道具には恵まれておりませんでね。」
「……ああ、」
 共犯格のなかで課の長ではない残りのひとりが、思い当たったように浅くうなずく。
「そうだった。たしか君は――孤児院の出だったね。」
 端から知っていたくせに、くさい芝居にもほどがある。せせら笑ってやろうと口を開きかけたときまた新しく足裏がひらかれて、俺は歯を食いしばる。
「なるほど、孤児院。」
「臭い血のお里が知れると言ったところですな。」
 芝居に合わせてこちらも頷いた大司教へ、一課の課長が声を震わせて言った。莫迦にしてやがる。唾でも吐きかけてやりたい気持ちでいっぱいだったけれど、床に押しつけられ身動きできない。
「――孤児院と言えば、貴兄が食堂で相席していたアンデルセン、たしか彼も院へ派遣されている教誨師のひとりでしたな?」
 ふと思い出したとでもいうように、五課のやつが声をあげる。俺を押さえつけた指先にぎりと力がこもりこれ見よがしに爪が食い込むのが判ったから、こいつは判ってやっているのだと思う。
「それがなにか?」
 質問に質問で答えるな。さらにナイフが刺しこまれ、厭な汗がどっと沸いてこの寒い部屋で俺はひとりで汗みずくだった。この間の左足がだいたい一週間。右もまた一週間か。うんざりしながら考える。歩くことに支障が生じるのもわりと面倒だったけれど、それよりもまわりからどうかしたのかとたずねられることのほうが厄介だった。
 いちいちおどけてみせるこちらの身にもなってみろと言いたい。
「彼と君が懇意だったとはまったく知らなかった。」
 大仰に驚いて大司教が言う。
「――私とアンデルセンが懇意?」
 あいにく肩口を押さえつけられていたのでそびやかすことはできなかったけれど、俺は精いっぱいの哄笑をもって大司教の驚きへいらえる。
「御冗談にもほどがある。……ヴァチカンでは、食堂で業務責任者と打ち合わただけで懇意のほどが計れるものなのですかな?」
 頬をゆがめ笑いながら、ああしくじったなと俺は思う。そうでなくとも貴様は今月に入ってから三度、俺の部屋を訪れている。思い当たらなかった俺も俺だった。さいわいこいつらの耳にまだ入っている様子はなかったけれど、局員ですら訪れることのほぼ皆無な俺の部屋に、特定の人間が出入りする、それは異常事態と言ってもよかった。あの偏屈でひとぎらいな十三課の課長に友人ができたらしいぜ。おそらく出入りをチェックする警備員のあいだでは珍事として噂されているにちがいないのだ。
これが一介の修道士、司祭と司祭の関係だけであったなら、交友だとかいう言葉でひとまとめに括れたかもしれないけれど、俺はイスカリオテ機関をまとめる人間で、貴様は実働部隊のトップだった。双方ともに悪目立ちすぎた。
どうしてそこへすぐ気がつかなかったのかと思う。理由は単純だった。俺は、貴様が手に入るかもしれないと言う夢想に酔いどれ浮かれて、まるでほかのことに気がまわっていなかっただけなのだ。
「成程。」
 重々しくうなずき、五課のやつがでは、と言葉を続ける。
「最近我々のまわりも物騒だ。ひとりで出歩くにはなにかと注意がいる。……アンデルセン司祭はこのヴァチカンでも通名の司祭であるし、彼に護衛されるなら我々も大変心強いでしょう。貴兄の十三課から、たとえば我が所属へ転属させてもよろしいですかな?」
「結構ですよ。」
そう言えばこいつ人事担当だったな。ご苦労にもわざわざこちらをのぞきこんだ五課のそいつに俺は視線で頷いてみせた。ほう、と片眉を上げたそいつへただし、と俺は続けて言い放つ。
「あなたがたに、あれが使いこなせるとは思いませんが。」
 口に出しみるみるそいつの顔が険にいろどられてゆくのを俺は眺めていた。予測の範囲だ。一言どころじゃない挑戦的な発言だと自分でも思ったし、このあとおのれの身に降りかかる災難も発言した段階でどうなるか判っていたけれど、どうしても俺はとめることができなかった。はずみだ。
 貴様ら下衆にあいつが使いこなせてたまるかと思った。あれは我がイスカリオテ機関の最強最悪のジョーカーで、ジョーカーと言えばどんなカードの代わりにもなり使い勝手がよく聞こえるけれど、実際のところはゲームの最後まで持っていた人間が負けのルールのカードだった。かならず場に出さなければいけない。かならず手放さなければならない。
 ああそうか、と俺は思う。
 俺は最後まで貴様を持ちつづけていたかったのか。
 貴様を拘束し、閉じ込めて、どんな方法を使ってもおのれの場に持ち札に取り置きたがって、汲汲と四苦八苦していたのか。
 無駄だよ。
 俺の中のべつの俺の声がする。あれは飼いならされるタマじゃあない。
 知っている。貴様は走狗じゃない。貴様はたしかに銃剣の一振りだったかもしれないけれど、それはヴァチカンのために振られるべき刃で、安易に主を定める首輪のついた犬じゃあなかった。
 そんなこととっくに判っていた。判らないふりをしていたのは誰でもない俺自身だった。
 そうかあ。
 腹に蹴りを食らいまた反吐を吐き床に転がりながら、俺は妙におかしくてうっすら笑った。ここひと月のおのれの苦悶と葛藤が一気に解氷してゆく思いだった。
 そうか。俺は貴様を手ばなしたくなかったんだな。
 
 
 夜分、急に携帯電話のコォルが鳴り響く。俺は手に取り発信者を見とめてぎょっとなり、がらにもなく慌てた。貴様からコォルされることなんて相当にめずらしい、というよりもほとんどはじめてじゃあないかといった具合で、俺は心構えができていなかったし、いったいこんな時間になんの用だと思った。
俺は昨日から具合が悪くて、どうしても起き上がれなくて、まあその痛みのうちの三分の一は俺の発言で余分に食らったようなものだったけれど、痣もなくきれいに殴られたわりにおそらく内臓をきちんと狙っていたようで、便所に行けば血液まじりの尿が出て気味が悪かったし、まともに歩くにも苦労して、打たれたところが熱を持ちずくずくと痛むし、仕方なしに今日一日局を休んだのだ。
 要は散々な状態で貴様を相手する余裕なんてまるでなくて、だのに貴様はすぐ近くのサンピエトロ広場にいると言う。耳を疑った。
 そうして貴様は部屋にくると言う。有無を言わせぬ、なにがなんでもそこにゆくぞと言った口調だった。ちょっと待て。俺は言った。
 それは困る。とても困る。まずいまの俺の状態を見られるのが一番に困る。
 来るなと言おうとして、けれどどうしたって貴様はここに来るのだということに唐突に気がついた。そもそも端から押し入る気がなければ、夜間にタクシーを飛ばし、すぐ近くにまでやってくるはずもない。俺がもうなんと言おうと貴様が部屋まで来ることは貴様の中で決定事項になっており、抵抗するだけ無駄のような気もした。いやと言ってもどうせ力づくで押し入るのだろう?やるといったらこいつはやるのだ、ためしにたずねてみると思った通りのこたえが返ってきて、怒りよりも呆れと笑いが先だって、こわばっていた肩の力が抜けた。なにがあっても崩さぬマイペェスぶりが、貴様らしいと思った。
 俺が院にいたころから、何度貴様のペェスに巻き込まれたことか判らない。こちらが迷惑な顔をしようと、あからさまにどこかへゆけと言おうと、平和面さげてにたにたと笑みを浮かべながらなにをしているのですかと近づいてくる。そうして口実をつけては、いいように使われるのだ。花壇の花の植え替えを手伝ってくれ、本棚の整理を一緒にやってほしい、不平たらたら手伝う俺に頼みに来なくとも、ひと好きのする貴様のまわりにはいつもガキどもが群がっていたし、「だいすきな先生」のお願いであるなら喜んで手伝うやつが多数いたろうに、わざわざ俺のところへやってくるのだから気がしれない。けれど、心底厭だったのに、断りきれずに結局毎回手伝うはめになる俺が一番気がしれないのかも知れなかった。
 しかたなく警備室へ面会の許可をコォルしながら、これで四度目かと思う。電話応対したやつが淡々と事務口調以外に感情をあらわにしないやつだったからそのほどは知れないけれど、いい加減ほかの課の耳に入ってもおかしくない頃合いだった。
 潮時なのだろうな。俺は思う。
 まだなにも、手に入るも入らないもない、入るかもしれないと言うただの前段階のようなものだったし、手ばなすならいまだろうと言うような気もした。これ以上踏みこんだら駄目になる。これ以上踏みこんだらもう二度と手放せなくなる。貴様がこうして血相を変え、夜分にヴァチカンを訪れると言ったことがすでに前兆だった。任務でもない個人的な理由で、貴様がヴァチカンを訪れたことはこれまで一度もない。だから言ったろう。俺の中の俺が囁く。別のやつを選んでおけばよかったのに。
 そうだったのかもしれない。
 たとえば貴様がただ一介の田舎司祭、仮に武装神父隊にしてもまるでうだつのあがらない新人のひとり、窓際へ追いやられる寸前の事務員、そうした人間であったなら、「特別」な人間の部分はどこにもなく、ただひとりの男であったなら、そうして同じように俺が女であったなら、秘跡を奉ずる身でなかったなら、イスカリオテ機関の名を耳にしたこともない、たとえばローマの町を暢気に歩く会社員のひとりであったなら。
 考えるだけ無駄なことだった。たくさんのありえない「if」の上に俺の妄想は成り立っていて、しかもそのどれかひとつが成就しまったら、俺と貴様は出会うことがなかったろうと思った。
 ほしかったのは貴様だったからだ。フェルディナントルークスでガキどもにまとわりつかれ、だらしなく目尻を下げてやさしい先生そのものになる貴様、俺がいくら鬱陶しがり離れろと喚いてもにじり寄りまんべんなく神の愛を説いてまわる偽善きわまりない貴様、十字の前に立ち芯から敬虔な目になって悔悛をくりかえす貴様、銃剣を握り夜の生きものを目前にし狂った哄笑を響かせる貴様、ただひたすらばけものを鏖殺し全身びたびたと赤と黒の体液に染めてけれどどこか泥遊びをした子供のように満足さを浮かべる貴様。
 そうして常にない慾をしたたらせて俺をおさえこむ貴様。
 うれしかった。
いままではまったく判らなかったおのれのこころもち、どうしたことだと狼狽え常軌を逸した焦りとやらが、ふとその一語に集約できるのだということに俺は唐突に気がついた。
俺は、貴様に必要とされることがうれしかったのだった。
情慾は必要とはまたべつのものかもしれない、けれど貴様が俺に滾るとき、貴様の目には俺だけがうつっていて、貴様の腕は俺ひとりしか抱え込まず、差し込む声も俺だけのもので、貴様の中で俺は特別になり得た。なんのことはない、俺はあの院にいるガキどもの独占欲とまったく変わらない思いを貴様に対していだいていて、けれどどうせ手に入るものではないのだから、入らないと判っているものをほしがりあがくのは愚かな人間のすることだったから、俺は耳をふさぎ目を閉じて貴様を俺からなるべく遠ざけた。
ほしかったものが手に入ったことは一度もないから。
部屋に来た貴様は俺の様子に驚き、こわい顔をして詰問してみせたけれど、俺は言う気もなかったし、言ったところでどうなる問題でもないことを知っていた。それよりも俺は、こんな夜中にタクシーを拾いヴァチカンまで走らせ、俺のことでむきになり真剣に怒っている貴様がどうにもうれしくて、それは俺を思うと言うよりは貴様のもとにある義憤だったのかもしれないけれど、いまこのときだけは貴様が自分のことでなく俺のことで怒る、それに自惚れてもいいのじゃあないかとさえ思った。
抱き寄せられ胸に押し付けられる。あてた耳から貴様の鼓動がして、それが怒りのせいなのかあの夜よりもすこし早い。だのに聞いているうちにわくわくとうれしかったはずの気持ちが徐々にしぼんで、変わってどうしようもなくうつろになった。
さびしいなと思った。
この鬱陶しいほどの貴様の熱さを手ばなすのかと考えただけでどうにも胸のあたりがきりきりと痛んで、食った飯が悪いわけでもないだろうに、なにがこんなに痛いのだろうと不思議に思う。
俺はたぶん貴様のことを嫌いではなくて、できればこうして貴様の気が向いたときに、そうして俺がそうされてもよいと思えたときに、貴様の鼓動を聞いたり、組みあったり、触れあったり、繋がったりして、互いにひとつのものになってしまってもよいと思った。俺の特別は貴様で、貴様の特別は俺ひとりで、それだけでいいのじゃあないかと思った。
けれど俺は、うれしいとかさびしいとか言う思いとともに、どうしたって動かせないひとつの感情に行きつく。
俺は俺以外の人間から莫迦にされたり軽視されることがなによりきらいだった。それが至上でそれよりも上のものはないと思っていた。けれどこうして貴様の鼓動を聞き、そうして実に俺は男なのだなと再確認してみると、たとえば俺と貴様の関係がほかに知れた場合、双方ともに評判は地に落ちるのだということに気がついたのだった。俺はまだいい。どうせヴァチカン内で噂されるなかに、悪行非道以外の俺の評判は交えられていなかったから、妬みだの、嫉みだの、そうした益体もない、耳を傾ける価値もないやっかみでしかなかった。
だが貴様はどうだ?
フェルディナントルークス院へ派遣されている教誨師、数多くの教え子に慕われる恩師、武功一等名高い武装神父隊隊長、ヴァチカンの科学の粋を凝らした再生者、そのどれもほまれ高いもので、しかもそれは貴様が意図して獲得した名声ではなく、ただひたすらにこつこつと地道に築き上げた数十年に違いないのだった。無心に積んだ石が山を成すように、したたり続けた水滴が鍾乳となるように、それらの最初は決して目立つものではなく、称賛されることでもなく、実に地味で素朴で見ばえのしない日々、けれど確かに貴様がつけた轍の数十年。
貴様の名声が泥にまみれ、他から侮蔑の目をむけられ、嘲られること、それは俺が俺自身にむけて行われるなによりきらいなことよりもさらに許せないと思う。
俺は貴様が莫迦にされてゆくのを見るのは厭だった。それだけはどうしてもいただけないと思った。
唇が触れあう。まだ数度しか触れ合っていないはずなのに、俺はもう貴様の唇の形をおぼえ、角度をつけ舌を迎え入れることを知った。貴様の舌先がぬめぬめと這い、上顎や頬の内側や舌裏すらもさぐることを知った。唾液にまみれ不愉快に感じながらそれでも手放せないおかしな執着を知った。
至近距離の貴様の瞳を見た。視界いっぱいの緑灰色。おだやかな森の色。
ああいやだなと思う。これを手ばなすことがどうしても納得できていなくて、体裁だとか建前だとか体面だとかいっそ構わないのじゃあないか、どれほど蔑視されようと貴様が俺の手の内にある、それだけでいいのじゃあないか、床に転がり手足をばたつかせ駄々をこねる俺がいる。
いやだ。さびしいのはもう厭だ。ようやく俺がほしかったものがそっくり手に入ろうとしているのにあきらめるのは厭だ。そいつは顔一面をぐしゃぐしゃにして金切声をあげ、尽きることのない渇望を訴えるのだ。
貴様の唇がついと離れ、落ち着いたな目で俺をのぞきこむ。同じように見返して、やはりどうしてもたまらない、離れてゆくことはさびしかった、俺はもう一度貴様の唇に俺を重ねた。これもまたはずみだった。
あきらめてしまえ。
もうこの距離で貴様を眺めることもないのだろうなと思いながら、俺は貴様の面を見た。生真面目に、俺をまっすぐに見る、裏おもてのない貴様の面だった。
おのれに不釣り合いな光だったのだとあきらめてしまえ。
視界がぶれ、にじみ、こらえようと奥歯を噛みしめたのに、みっともなくそいつは鼻の奥の痛みとともに目尻からこぼれ落ちる。俺はいま泣いているのだなと思った。流す涙は疾うにどこかへいってしまったと思っていたのに、まだ最奥にひそんでいやがったなと思った。
アンデルセン。俺の口が貴様を呼ぶ。
さびしいということが判らなかった。何十冊、何百冊本を読んでも、なにかを失いうつろになるこころもちというものが理解できずにやってきた。けれどこうして貴様から離れる心づもりを決め、最後だとおのれに言い聞かせながら貴様に手を伸ばし、触れ、さびしいということがどういうことなのか、理屈抜きに腑に落ちた気がした。
あきらめろ。
そうして駄々をこねる強さと同じ分量で、貴様が虚仮にされることに腹を立てる、どうしてもいやな俺もいるのだ。
「もう帰れ。そうして、二度とここには来るな。」
 眩む思いだった。心臓が痛くて、うずくまってしまいたいほどひどく痛くて、それでも微笑んでいるらしい俺が不思議だった。嫌いじゃあなかったよ。俺が言う。どころか、実のところ、ほんとうはすこし気に入ってすらいたんだ。
 驚いた貴様が目を瞠る。
 俺は笑った。
 どうしようもなくさびしいと思った。

 

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最終更新:2013年02月27日 09:18