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道端に腰をおろしいつとも果てない待ちぼうけに、ぼんやりと男は足もとを見下ろした。えらく大きな男である。縦にも横にも幅がある。肪というよりはみっしりと詰まった肉が身を縮めてうずくまっている。
――ここでなにをしていたのかな。
こころおぼえの前と後ろがいまひとつあいまいで、いつからここにいるのか、どこからきたのかすでにさだかではないのだった。ちょうど眠りから覚め、せんごろまで鮮明に見聞きしていたはずの夢の中の情景が話す手前であやふやなかたちになって消えてゆく様子と似ている。いや夢そのものかな、男はひとり語散、手にした獲物でもってがりがりと大柄な体に見合う靴のすぐ横あたりを意味もなく穿りかえした。
足元の砂地は難なく削れ、やや掘ると湿った土の色に変わる。
退屈なのだろうか。退屈なような気もしたけれど、暇を持て余しているわけでもないような気もした。おのれがなにをしているのかさっぱり判らない。
名すら忘れた。
忘れたところでその場にいるのはおのれひとりで、そのおのれを呼ぶ他と言うものが見当たらなかったのでそれでも良いような気もした。
あいまいさがぬるま湯のように心地良い。羊水の中に浸かるとこんな感じかもしれないなと思う。膚の温さと同じそれは、どこまでがおのれの膚でどこからが体液なのかはかりようがない。それと同じことで、待ちぼうけるうちに場の空気に男はすっかりなじみ溶け込んで、場も、男も、同じものになり得た。
――なにを待っているのだったかな。
それすらよく判らなかった。
ただ、おのれがその路を離れてはいけないこと、もうかたちもおぼろでよく知らないけれど、待っていなければならないなにかがあったこと、それだけは茫々と膚から溶けうすらいでゆく男のなかで動かせぬ支柱となっていて、ゆえに意味も判らず男はここにいたのだ。
がりがりと足元を穿りかえすうち、おかしな具合に興が乗った。足元のあたりがすべて湿った色に侵食されてしまったので、男はやや腰を上げ、まだ色の変わらぬ路の上に移動し、手にした刃の切っ先で無心に地面を穿りかえしはじめた。
はじめは無意味に、ただ色の変わることがどことなく面白くてつついていたそれが、やがて意味をなす言葉に変わる。
男の中にどういうわけかしがみついたままはなれないたったひとつの名があって、けれど男からはもう名という概念がうすれきってしまっていたから、それが名だということには気がつかない。どころか男は文字すらほとんど忘れかけていたから、路につらなり色を変えるそれは、男にとって意味のある色かたちではあったものの、おそらく他の誰が見ても幼児の落書きにしか思えなかっただろう。
それでも男だけには読める、同じ言葉を、くり返し、くり返し、延々書きつらねながら片膝を着き徐々に後退し、やがて視界を上げてみるとどこまでも続く一本の路の上に男の穿ち進んだあとがあった。
――これだけ呼んでも。
まだ足りないような気がした。
立ちあがり、書きはじめた上のがわから今度は口に出して呟いてみる。声をだすこともえらく久しぶりだったので、男から洩れたそれは、皺嗄れた吃音だった。
音にならぬ音で名にならぬ名を呼び、ひと通り読んで読み飽きるとまた腰をおろし路へ書きつける。続けなければならない作業、くり返し、くり返し、こうして道しるべをつくっておかなければならない妙な使命感に衝き動かされ、いつまでも廻りつづけるたったひとつのおのれのだいじなもの、それはなんだったろう。
書きつづけた。
男のいる場景にときの概念はない。ために、無量と清浄の合間を行きつ戻りつしながら、ひたすらに書きつづけた。
やがて永遠の合間におちて、後退する男の体がとんと遮蔽物に触れる。
前にも後ろにもはるかに一本の路だったはずで、起伏もない、湾曲もない、ただ一筋のそこへいったいなにが、振り向いた男の目に、あきれたようすで腰に手をあて見下ろす姿がうつる。
いったいなにをしている、聞き覚えのある険のある声が男の耳管にひびいた。
なにを書いている。
男が膝を着いている横へ、同じようにその姿が腰をかがめて、そうして目前遥か連綿と続く男が穿ちつづけたあとに気付いてひゅっと喉を鳴らし、息を飲んだ。
「――貴様、」
言いかけ、言葉を失い、ずいぶん長い間彼はじんわりと黙ったままになった。その彼を隣に見下ろして、おのれしかいなかったはずのこの空間に唐突にあらわれたこれはなんだろうと男はぼんやりと思う。
なつかしいにおいがする。
やがて足もとに目を落とした彼が、震える手を伸ばし、男の路にきざんだ文字にならぬ文字を一語一語指でなぞる。ずっと待っていたのか莫迦。低い声でようやくそれだけ押し出しつぶやいた。彼には男の穿った、路の文字にもならぬそれがどういうわけか文字に読めたようだった。
そうだな、と男はかえした。ああそうだ、俺はこいつを待っていたのだとやけに静かな納得があって男は腕を上げ、なつかしいにおいのする彼のからだを引き寄せた。引き寄せたからだはぴたりと胸のうちの足りないところにおさまって、もうせんひとつのものであったように錯覚してしまうのだった。
待っていたよ。
男は言う。お前がもうひとりにならなくていいようにあの赤の中に取り込まれてから、三十年。ずっと待っていた。
赤い鬼はひとつを残して全部葬ったからな。彼が受けてこたえた。
けれどあの中より離れて辺獄へいたるまでにそれほど経っていたか。
いいんだと男は言った。お前が来た、俺はもうそれだけで十分なんだ。
しんと腕の中におさまったうつくしい生き物が、またかなりの間黙り込んだのちに、男にだけ聞こえるかすかな声で、そっと男の名を呼んだ。
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最終更新:2020年09月02日 11:02