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 ひどく奇妙な感覚だった。
 男はひとり路上に佇んでいる。
おのれの手を見下ろすと、いつもと変わらない、皺のひとつ節のひとつまでが見なれたたしかに自身の手のひらだった。違和感はまるでない。常となにも変わらない。
 だのに往来の多数の人間が、どういうわけか立ち尽くす男のからだの正中線、ど真ん中を顔色ひとつ変えることもなく抜けてゆくのだった。
 文字通り「突き抜けて」ゆくのだ。
 抵抗は一切ない。空気のようなものだ。
 はじめのひとりでおおいに男は驚き、やがて数十人が抜ける頃にはその超常を受け入れているおのれに気がついた。驚くことに飽きたのかもしれなかった。そういうこともときにはあるのかもしれないな、そう思った。受け入れるとはまた別の感覚なのかもしれないけれど、どうにも慣れるよりほかないようだ。
ただし気味が悪いことに変わりはない。
おのれの胸が深くえぐられまるく大きな風穴でも開いているのではないかとそんな風に思い、何度も見おろし男はからだを確かめた。
その見下ろすからだを、いろどりの派手な服装の旅行客が二人、談笑しながら突き抜けてゆく。
胴からにょっきりと他人のからだか生え、また通り過ぎてゆくさまは、まるで映画の特殊フィルムでも見ているようで、実におかしな気分だった。
いつからここに立っていたのか、それすら定かではないのだ。
夢なのかなとも思う。
おのれの境遇のけったいさと、伴わない狼狽に、男はふとカフカの変身を思い出した。
“ある朝グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。”
冒頭が口を衝いてでる。おのれの趣味にはない本だった。誰だったか、読書に明け暮れた年下のものに借りた本だったか、面白いからまあ読んでみろよ、そんな風に押し付けられたような気もする。忙しいと一度は断ったのに、無理に押し付けて去っていった。読んだのちの感想を求められるのが判っていたので、ふりというわけにもいかない。子供の世話をする合間を縫って仕方なく目を通した。
淡々と進められてゆくシナリオに、ちょうど今と同じように、奇妙な思いをいだいた。
それから、本を推した彼がほんとうに薦めたかったのは、この静かな狂気だったか、それとも家族というつながりのもろさだったのかなとそんなことを思った。
どちらにせよ口に出すことではないように思えて、借りた本を渡すとき、ただ、面白かったよと男は伝えた。
物言いたげな彼の視線には気づかないふりをした。
あの本と同じだ。
悪夢とは言わないまでも、どうにも夢見の悪いものをおのれは見ていて、続きにうなされているのかもしれない、気付いてけれど夢からどうやって覚めたらよいのかも判らないのだ。つねる、叩く、声をだす、思いつく限りのことはためしてみたけれどそのどれも効き目はなくて、ではひょっとすると自分は死んだのではないかとも思った。
どうしたはずみでからだと精神が分離したのか判らないけれど、からだをどこかに置き去りにしてこころの部位だけ彷徨っている、夜を歩く男はそうした場景を何度も目にしたことはあったし、それが奇跡だとも呪いだとも思わないけれど、自身がつまり幽霊だとかいうものに成るということはまったく想像していなかったので、まずもって面食らった。
しばらく考えて、おのれが霊になるタマだろうかとも男は思う。
そもそも霊になるにはまずおのれの死が前提としてあるべきで、けれど男には自身の死ぬ手前の記憶というものがまったくなかったから、やはりこれは夢かもしれないなと思う。
いつまでも通りに立っているのもいただけない。しかたがないので男は通りの端のほうへ寄り、それから通いなれたヴァチカン本部へ向けて歩きだした。歩きながら、そう言えば俺はつい先だってまで子供らと裏庭で花壇の世話をしていたのじゃあなかったかと思いだす。土を耕し、球根を植えたところまではおぼえている、あの郊外からどうして一足飛びにヴァチカンまでたどり着いたものかやはり判らない。
胸のあたりが重いような気がして、手をやると固い感触があった。
取り出してみる。ちいさな携帯電話だ。住まいを置く院に固定電話はあるのだし、町に出た場合でも公衆電話があるのだから必要ないと男が何度か断り、その度にいいからもっておけと上司から押しつけられたしろものだ。
本と同じに押しつけられたのだな。思うとすこしおかしくなって男は笑った。
ボタンを押してみる。押しながら携帯電話をもった幽霊というものもそうそういないだろうから、やはりこれは夢のたぐいだろうと思う。
何気なく登録されたアドレス帳を開こうとし、おやと片眉を上げた。
登録されたアドレスはなかった。
なにかの拍子に落としたか、ぶつけたかして、壊してしまったのかもしれないなと思った。次に発信履歴をたしかめる。こちらもゼロ。着信履歴にもなにも残っていなかった。そこではじめてはたと困る。
こういうこともあるだろうと、局員や部署の番号を控えた手帳は院の部屋の机の引き出しの中に置いてきてしまっているし、そらで暗記できるほどかけた番号もない。ほとんどが緊急の受信用で、男のがわからかけた覚えは一度か二度しかなかったのだ。
まったくの受話器になってしまったちいさく薄い機械を手の中で転がす。結局、携帯電話が胸ポケットにあった、というだけで、それを活用するすべも男にはないのだ。
これはまったくの透明人間だな。
他から見えない、他から気づかれない、他から興味をもたれない。男に意思があり行動があったとしても、伝達できないのだからそれはいないのと同じことだ。
歩きながらはたしてこの状態でヴァチカン本部へ赴いたとして、いったい誰がおのれを認識するのだろうと思った。
では自分はどこへゆけばいい。
てのひらに握った電話が短い振動とともにコール音を漏らしたのは、そのときだ。コールはたった一度。
番号を間違えた、もしくは思わずかけたけれど気が変わった、そんな素っ気ない一度きりの振動に、けれど男はすくわれたようにてのひらのそれを凝視する。
この電話と世界はまだつながっている。
着信履歴をたしかめた。
アドレスがないものだから着信した相手が誰であるかの表示はない。けれど一行、先までなにもなかった履歴の画面に、十数桁の数字が並んでおり、男は震えるような思いでその履歴を押してみた。たのむ誰でもいい、かかってくれ、男の思いと裏腹に無感情なコールが二度響いて、それから唐突に相手が受話器を取り上げた。
なんだ、と相手が言った。
耳に馴染んだ、険を含むひどく明瞭な声だった。
「――誰だ?」
 彼が言った。
「――何の用だ?」
 彼が言った。
 俺だと男はこたえた。俺だ。どういうわけかおかしな状態になってしまった。からだが透明なんだ。いや、俺からは見えるのだから半透明というのかもしれない。夢だとは思うのだが覚める手立ても思い当たらず、通りに突っ立っているにも埒が明かないので、いま局室へ向かっている。アポイントメントはとっていないけれどそのまま局室へ入ってしまってもいいものだろうか。それとも、半透明の俺でもやはり、警備に見とがめられるものだろうか。
 男は言った。ゆいいつ世界のつながる電話の相手へ向けて、自身おかしいくらい必死になって一気に告げた。
「――もしもし?」
 その必死さへ冷や水をかけたのは、相手のいぶかしんだ一言だった。
「ここは専用回線のはずだが、どこかの阿呆のふざけたハッキングか?私は忙しい。報告すべき情報がないのならこの回線からとっとと出てゆけ。」
 俺だと男は再度名を告げた。俺だ。判らないのか?
 もしもし、今度ははっきりと苛立ちを含んだ声で彼がいらえる。背後からおぼろな声でどうかしましたか、他の人間の声がした。
「……いたずら電話らしい。おおかたヴァチカンの特殊回線に入り込んでいい気になっているアマチュア無線どもだろうさ。」
 それきり無情に通話は途切れた。一方的に彼がフックへ受話器を戻したのだ。くり返される不在通知の音を耳にあてたまま男はしばらく聞きながし、ああそうか俺の声は向こうに届かないのだとそこで初めて気がついた。
 完璧な半透明なのだから、こちらから発するすべてが相手に伝わってはならないらしい。どんなに電話口へむかって訴えたところで相手に届かない。だったら電話にいったいなんの意味があるのだろうと思う。一方的に男は受け入れるだけの存在だった。
 それからようやく通話を切った。どうにもくたびれた気分だった。
 足を止め路地の壁に背を預ける。
 このまま十三課局へ向かったところで、結果は見えていた。警備にとがめられない。通路を歩いても誰も見ない。きっと局室にも入れるだろう。けれどそれがなにになると言うのだ。
 院へ戻ろうとし、戻っても結局同じことだと思う。場所がここか、院であるかというだけで、男が半透明であることに変わりはないのだ。ひょっとすると最初は男のいないことにすこしだけ騒ぎが起こるかもしれない。どこへ行ったのだと捜されるのかもしれない。けれどそのうちそれも止んで、誰もが男のいない生活に慣れはじめる。記憶の中からも男はいなくなる。
 必要とされない人間は、たとえ存在してもそれは存在していないことと変わりはないのではないか。
 ではおのれはどこへゆけばいい。
 ひどく寄る辺ない気持ちになって、ぼんやりと携帯電話を眺める。捨ててしまおうか。そう思った。つながるものがあると信じて一瞬でも浮かれたおのれが莫迦莫迦しかった。
 その手の中の電話が鳴った。まるで愛想のない振動とともに、男を呼びだした。
 発信相手の名は相変わらず判らない。だのに、捨ててしまおうかと瞬間思ったことも忘れて、男は鳴りやまぬうちにいそいでオンフックのボタンを押し耳にあてる。たったそれだけの動作がたいそうもどかしかった。
 もしもし、と男は言った。おそらく相手にはおのれの声は聞こえていないだろうと確信しながらの言葉だった。
「――貴様だろう?」
 自身の名を告げもしない彼の声が男の耳管に響いた。
「今の。」
 どうしたと電話越しに彼が言った。面白がっているような、不機嫌ながら笑っているような、彼独特の声だった。
 そうだ俺だと男は言った。お前、俺の声を拾いあげてくれるか。
「……さあ、」
 彼がわずかに笑った。なんだか貴様の気がしたんだ。
「どうした、」
 彼が言った。
「貴様がかけてくるなんて明日槍でも降るんじゃあないか、」
 彼が言った。
「――マクスウェル、」
「――ぅん?」
 男が呼んだ彼の名が今度はたしかに向こうに届いて、相手がいらえる。なんだ、と彼が言った。どうした。
 ああ。
 足元から抜けるように安堵が押し寄せて、男はずるずると路地に座り込み顔を覆う。あやふやだったおのれが一挙にもとへもどるこころもちだった。次の句が継げない。おのれのいまの安心感をどう伝えていいものか判らない。
 つながった先にお前がいた。
 電話越しの相手は辛抱づよく男の言葉を待っている。

 

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最終更新:2020年08月08日 23:29