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 理由なんてあるんだろうかって彼を眺めて自分は思った。理由、なんでもいい。
ひとが些細なことに興味をしめし、次に興味から行動を起こすときに、明確な、れっきとした誰かに説明のできるひとこと、これこれこう言ったわけでわたくしは、理路整然と、順序だてて述べてみせるほどの動機があるもんだろうかと思った。そんな、動機だとか言う屁理屈のかたまりで、からだの筋肉だとか神経は動くものなんだろうか。
すくなくとも自分は無理に思う。
思ってから、ああそうか、納得する。
言いわけだった。理由なんて結局のところ、まわりとおのれをだまくらかすための言いわけだ。
 たとえば、目の前に箱がある。箱を開けてはいけない、絶対にいけない、きつくさとされ、さとした相手は自分と箱を残してさってゆく。
目の前に残された箱がある。
決して開けてはいけない箱だったのなら、どうしたって開けてほしいと思えないものだったなら、渡したものが渡すことなくどこかへもってゆき、叩きつけ踏みつぶしなにもなかった態にしてくれたらいっそ構わないと思うのに、ご丁寧にも開けてはならないとだけ残して、箱をたくしてさってゆく、それ自体に無理があると思う。
目の前に箱がある。
それは開けてくれと言っているのと同じことだ。
 そうして、開けてはならない箱のふたへ手をかける瞬間、きっと開けてしまう自分自身はなにも考えていない。ほんのすこしの気の迷いすらない、開けることがいいもわるいも刹那に関係なくて、頭の中は真っ白なんだろうと思った。
箱の中身への期待はない。
開けてしまってなにがはいっていても、仮にからであっても別にかまわないんだろうと思う。ただふたへ手をかけてみたいだけ。禁止されることに快感がある。
なぜならそこに閉じられた箱があったからだ。
中に物をつめるもの、空洞であるから箱なのだった、ふたのない置物だとしたら、それはきっと自分の興味をかきたてない。
 空洞。
 このひとの中身はどれだけ空洞なのかなとそんなことを思いながら、自分は目の前の彼を眺める。
 見つめるほどに注視しない、ただなんとなく、風景の一部としてぼんやりととらえている。それがきっとこのひとの気のどこかに触れたんだろう、おかげで護衛と称してはあちらこちらに駆り出されるはめになった。
 駆り出されるといま自分は言ったけれど、それまで自分の任務と言えば、出張発令書をひょいと放り投げられて、こちらの都合はおかまいなしに明日から地球の裏側へ行ってこい、だとかいうようなものだったから、それに比べるとずいぶんまし、と言えないこともないかもしれない。自分も席を置く、秘匿機関をまとめるこのひとは、一日のほとんどを、イタリアローマはヴァチカンの地下に潜った機関室でほとんどを過ごしていたから、護衛と言ったって、たとえばハリウッドの映画にあるような、血沸き肉躍る銃撃戦だとか言うものとはほとんど無関係だったし、ただ壁伝いにぼうと立って、要人と会見する彼の背中を眺めることが自分の仕事のようなものだった。
 ホルダーにおさめた銃口がときにうずく。
両手でもって奇声をあげぶちかますことができたら、それだけ快感だろうなだとか考えることもある。護衛の仕事に就く前の暮らしはほとんどがそれだったから、余計になつかしく思うのかもしれない。実際行動にうつすとなると、毎回、もうこんな肉体労働はやめたいとそればっかりなのだけれど。
 目の前の背中はぼんやりと紫煙をくゆらしていた。
 このひとが煙草をくわえることは滅多にない。だからこのひとの、言ってみればあまり誰にも見せない一部を自分は知っていることになる。煙草をくわえることは滅多にないけれど、滅多にないからと言って、吸えないかどうかはまたべつの話だ。
 自分はかなりのチェーンスモーカーで、というか、食べているときと寝ているとき、それと護衛についているとき以外のほとんど、どうにも口元になにかくわえていないと落ち着かないたちで、だから自分の衣類どころか髪皮膚末端神経にいたるまで、きっともう、タールの黄ばんだ色もにおいも染みついているのだと思う。うっかりすると、いままで擦った箱の代金で高級車の一台買えるんじゃあないだろうか。
自分が彼に近付くと、その染みついた煙が気になるのか、いやな顔をされることが多かったから、最初は自分もこのひとは煙草がきらいなんだろうと思っていた。戒律で禁止されているからだとか、健康上よくないだとか、そういう理由ではなくて、ただ煙のにおいがきらいなのかなと思っていた。そういう建前じゃあなくて本音の部分がわりと前面に出てしまうところは、このひとらしいともひそかに納得もしたけれど、護衛についているうちに、このひとがきらいなのは、とくだん、煙草の煙そのものではなくて、他人のにおいなのだなということに気がついた。
におい。
そういう好き嫌いはまったく病的なくらい顕著で、会談した人間のヘア・クリームのにおいが鼻につくだとか言って、そのにおいのもとが帰ったあと、半日以上窓を開け放したまましかめっ面で書類整理していたりする。たしかあのときは真冬で、どれだけ着込んだってしんしんと冷える火気のまったくない室内で、たいして普段と変わらないような薄着のまま仕事をしていた。真っ青な顔をして、指先なんか紫を通りこして白くかじかんでろくに書類もめくることができなくなっているのに、がんとして窓を閉めようともしない。気分が悪いから、という。
 結局あのあと彼はひどい風邪をひいて、長引いて、咳き込んだりして苦しそうにしてたりして、そら見たことかと自分なんかは思ったのだけれど、そこまでひどくなくたってとにかく他人がきらいなんだということに変わりはなかったし、だからきっとこのひとは、戒律上とは別の意味で、他と触れあうことは一生ないのだろうなと思う。
 誰かと触れあい、みだらに粘膜をこすりつけ、相手のにおいと自分のにおいがごっちゃになるなんてなったら、正直このひとは発狂するんじゃあないかと思った。
 そんな機会なんて訪れない。
 たぶん一生涯ひとりなのだ。
 煙草をくわえている背中は動かなかった。
 吸っている、とも、蒸かしている、とも違って、くゆらしている。だからほとんど紫煙はまっすぐ上にのぼっていったし、紙巻のかたちもそのままに、ただじりじりと時間の経過にあわせてしめり焦がれる葉と紙の燃えるにおい。明かりをともさない室内で、まるで線香のようにゆっくりと焼けてゆくその切っ先だけが、妙に目に赤かった。
 呼吸すらしているのかしていないのか、微動だにしないと言う言葉がぴったりなほどまったく身動きもなくて、なんだかよくできたマネキンが、口元に煙草をくわえたまま燃え尽きるのを待っているのとそう大差ない気がする。
 室内は静かだった。
 彼からのいっさいの物音や動きがしないから、余計に、機械のたてる単調なモーターの排気音やら微妙な振動、添加される液体が一滴一滴したたるガラス管の中の音、そうして呼吸器をほどこされた「献体」から漏れる泡立った空気。
 義務以上のものをもって、このひとがこの部屋を訪れたとは考えにくかった。
 このひとは「彼」の直属の上司だから、そうして機関の最大の獲物である生体武具が「彼」であったから、ここにこうして訪れてきているだけで、そうでなかったら足を運ぶ要素はなにひとつない。
 とりたてて仲がいいようにも見えなかった。
 他を極力まわりに寄せないのはこのひとの特質のようなものであったけれど、中でも「彼」のことは毛嫌いというか、もう遺伝子レヴェルで接近されるのがいやなんじゃないかって言うくらいに、とにかく寄らせることを良しとしなくて、それも最近とかじゃあなくてもう昔から、自分やこのひとがフェルディナントルークス院で暮らしているときから、もっというなら彼が院に来た初めから、なんだかぎくしゃくとした関係になっていて、それがそのまま今まで続いている感じだった。仕事上どうしたって避けられない間柄だから、仕方なく接しているように見えたし、不必要に近付こうものなら、毛を逆立てた獣みたいに威嚇して、敵意をむき出しにして、だからずっと自分はこのひとは「彼」――アンデルセン神父――のことが大嫌いなんだと思っていた。
 思っていたし、いまでもそう思う。
 でも、そんな風に自分が言うと、同僚の由美江は自分を莫迦だって言って笑う。目にみえているものが全部じゃない、そんな風に彼女は言うけれど、でもどうしたってかけらほどの好意も神父に抱いているようには見えなかったし、この部屋に来るあいだもずっとこのひとはいやそうだった。
どうしようもないから来てやった、そうとしか見えない所作で、部屋に入る前に煙草に火をつけるのもいつものことだ。
きっかり、燃え尽きるまで一本分。
この部屋にいる義務の時間はそれで終わりだとでもいうように、紙巻のフィルターのところまで灰になると、このひとはそれ以上部屋にいようとはしなかったし、仲がいいのだとしたらもうすこし未練みたいなものを見せてもいいんじゃあないかと思う。
神父は目を覚まさない。
目を覚まさない原因の半分は、このひとにあるような気もした。
すこし前に、建物ごと吹っ飛ぶような大きな事故にこのひとと神父は巻きこまれて、受け身のひとつもとれないこのひとは無傷で、神父だけ、文字通り、からだが引きちぎれたのだった。再生者の力をもってしてもすぐには治癒しきれない重篤さで、たぶん普通の人間だったら即死だったろうと思う。自分はたまたま別の任務に就いていてその場に居合わせなかったから、いったいどういう状況だったのか判らないのだけれど、どうも爆発物を神父がからだごと抱えこんだんじゃあないかという話だった。
避けられる状況じゃあなかったのかもしれないけれど、でも、自分は神父ひとりだったなら、こうまで悲惨な傷を負わなかったんじゃあないだろうかとも思っていた。
このひとをきっと守ったんだろうと思う。
ずたずたになった体組織をつなぎ合わせようにも、施術すらほとんどほどこしようがなくて、結局本人の再生能力にたよるというしかなくなり、再生ポッドに入れられて完治するのを待つと言う、科学的なんだか原始的なんだか判らない方法に結論付けられて、以来大きなアクアリウムの部屋を一日おきに訪れるのが、彼の責務になった。
見た目には、もうほとんど傷があるのかすら判らない。表皮は綺麗につながっていて、でも医局の話によると、はらわたの部分の損傷がひどくてあと半月はかかるんじゃあないかという見通しだった。
分厚くゆがんだアクリル樹脂の向こう側に見える神父は目を閉じたまま一切動かない。培養液に浸かったさまを見て、初日にこのひとは、ホルマリン漬けの死体だなと言った。(口に出しては聞けないけれどおそらく)かばったろう神父にたいしてなんてことを言うんだと自分は憤慨したかったけれど、じつのところ、自分も同じような感想を抱いてしまったのでむっとするタイミングを逃してしまった。せめてもうちょっと言いようがあるだろうとか。羊水の胎児とでも言えればよかったのかもしれないけれど、室内の紫外線ランプに照らされた皮膚はどう見ても胎児というよりは標本用の死体だった。
ただ、接着されたマスクから漏れる細かな泡が、神父が生きていることを伝えていて、それを確認するためにこのひとはこの部屋へしぶしぶ来ているようなものだった。
そうして煙草を一本。
尽きるとでてゆく。
義務以上のものはないと言った風な彼に、ほんとうにこのひとは薄情というか、冷血というか、せめてかばわれた相手に対しての感謝とは言わないまでもすまないような気持ち、すこしは悪かったなと思うようなものをいだかないものかなと、ついいましがたまで自分は思っていた。
だのに急に、背中を向けたままくわえる煙草一本、まっすぐにたちのぼる煙、くゆらせている仕草、まるでおのれに課した苦役のようにじっとホルマリン漬けの死体を眺めるこのひとに、いそいでこの場を去りたいのなら、さっさと一本吸い終えてしまえばいいんだっていうことに気がついて、はっとなって思わず息を飲んだ。
じりじりと熾火がすすむにまかせ、空気を震わせることすら恐れているようなこのひと、時間を惜しむように静かに息を吸い吐くひと、自分のがわからは表情は決してうかがえないからいったいどんな顔をしているのか知らない、手を伸ばしもしない、声をかけもしない、律儀な几帳面でもって目を覚まさない神父のいる部屋を訪れる以上のことはないけれど、もしかするとそれがこのひとが示すことができる最大の感情なんじゃあないかと思った。
だってほんとうにいやだったのなら、このひとのことだから、きっとここへは来ない。
静かにくゆらせる切っ先からほろ、と重みに耐えかねた灰が床に落ちて、その落ちる音すら聞こえるほど物音のない室内に佇む彼、その彼という箱の中身はきっと空洞なんかじゃあなかった。
いつだったか、どのタイミングでだったか忘れたけれど、望んでやまない、どうしたって手に入らない、入らないと判っているのに手に入れたいものがあるのかと聞いてみたことがあった。
ある、とこのひとは静かに言った。
なにを指してこたえた言葉だったかはしらない。でもそんなことを思い出して、だったらもしかするとどうしたってほしくても叶わないもの、それってこうしたアクアリウムの向こうに見える大柄な体のことだったりするのじゃあないかとふと思った。
 

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最終更新:2020年08月08日 23:02