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久しぶりに建物から外にでると、陽ざしが妙にやわらかなことに気付いておやと思う。頭の中で日めくりし、ああもう春なのか、そんな季節かと今更ながらに意識した。
カレンダーは常に机の上にあり、局室の壁にも大きなものが張りだされており、一日に何度も眺めているけれど、それはただ期日をたしかめる意味で目をやるだけのことで、それ以上の意図はなかったから、あらためてもう晩春、むしろ初夏、と言ってしまってもよいほど冬はとうに過ぎていることに気がついた。
建物から出るまでまるでその気はなかったくせに、外があたたかいと知れるとおかしなもので、たまにはのんびりと中庭を散策してもよいかという気になった。
庭と言ったってたいして手入れされているわけでもなく、居住する人間も通路として使っているだけで気の利いた趣向はどこにもない。それでも雨ざらされて古びたベンチがいくつか砂利道に沿って並べられており、なかでもすこし奥まった、どん詰まりゆえにほぼほかの人間の来ることのない、朽ちかけたベンチがあることを俺は知っていて、そちらへ自然に足が行った。どうせぼんやりするならなるべく人目のないほうがいい。
居住と俺は言ったけれど、カトリックの総本山ヴァチカンに国籍というものはなくて、だから日々ここで仕事している人間の多くは、川向うのローマ区から通ってきているものばかりだ。ひとにぎり、住んでいる人間はいるけれど、それも実際のところは居住ではなくて滞在に過ぎない。国というかたちをとっているここに国籍はないのだった。滞在はひと月の人間もいたし、数年に及ぶ人間もいた。教皇がいい例だと思う。枢機卿議会によって選出されたキリスト信仰のトップは、選出されてからおおよそ死ぬまで、十数年に渡る年月をこのヴァチカンで過ごすけれど、その教皇においてすらほんとうの意味での市国の国民にはなれない。
生きているあいだは。
息をとめつめたくかたくなり、防腐処理その他もろもろほどこされて棺という箱に入れられてはじめて、市国の地下への永住権を手に入れるのだった。
俺は、どうかな。
ふと思った。
孤児院あがり、神学校を出てからこちら、ヴァチカン配置になってすぐに一部屋与えられ、以降そこで寝起きしている。長さで言えば十分に教皇の年月に匹敵しているように思うし、俺の手掛けている仕事の秘匿義務上、今後もどこかへ派遣移動ということはないだろうから、きっとあと数十年、この地に詰めることになるのだと思う。
十三課の局室はヴァチカンの地下にあったから、生きているあいだのほとんどを土の中で過ごし、死んでようやく土の上へ顔を出せる、と言えないこともないかもしれない。
死んだらまた埋められるのだから、どちらにしろ同じことか。
そう考えるとなんだかおかしい気になった。
そうしてそれからひとの気配に俺は何気なく顔を上げて、足を止める。
なんで貴様が、悪態がまず口を衝いてでた。
気にいらないと思う。
なにもかも気にいらない。
こいつが用もないのに俺の視界に入ることも気にくわなかったし、俺がわりと気に入っている場所へ先に腰を下ろしていることも気にくわなかった。そうして、俺と違って、土の上の太陽のあたる場所に居住することを許されているこいつが、わざわざこんなところにいるのも気にくわなかった。
吐き棄てた声はそう大きくはなかったけれど、あたりはぞっとするほどのどかだったので、ベンチへ腰を下ろしたそいつがゆっくりと頭を巡らせて俺のほうを見た。
見た。けれどそれだけだった。
皮肉のひとつでもかえってくると思っていたのに、そいつはなにも言わず、陽ざしに目を細め、またゆるゆると膝のあいだあたりに視線を戻しうなだれる。呼吸にあわせて大きく骨ばった肩がしずかに上下をくりかえすのだった。
その姿がどうもいつもよりすこしだけ弱っているように見えて俺はおやと思い、それから急に愉快になる。こいつが弱みを見せることはめずらしい。そうして俺はこいつがふとしたはずみで一瞬だけちらと見せるそうした弱みのようなものが、厭じゃあないのだ。わくわく、と言ったらいいか、ぞくぞく、と言ったらいいか、判らないけれどどうにも高揚する。こいつが弱っている姿を見ることはなんだか楽しい。
弱っているのならしようがないだろう、だから許してやる。そんな寛大なこころもちになった。
奥まったそこにはベンチはひとつきりしかなかったから、俺はなるべくあいだを開けてそいつの隣に腰を下ろした。雨だれに染みになりささくれた木面が軋んだ音をたてる。
それから同じように前にかがみ、おのれの膝にもたれるようにして、じっとなる。そいつは口を開かなかったし、俺もとくに話すことはなかったから、尻が痛くなりいい加減俺が帰るまで、ずいぶんと長い間黙ったきりでいた。
目の前を物憂い音をたててあぶが飛んで行った。
次の日、午後になり日がすこし傾いてから俺は仕事に一区切りをつけて中庭へ向かう。きっと貴様はいるのだろうな、そんな予感がした。
そうして思った通り、不恰好にでかいそいつは昨日と同じようにベンチに腰を下ろし俺より先に俺の場所を占領していて、たしかにそいつが弱っているから俺はまあいいかと昨日は思ったけれど、やっぱりそこにいるのは気にくわないと思う。
それでも今日はそいつがどうしてこの居住区をうろついているのか、俺もすこし手をまわして調べていたので、昨日よりは事情が分かるぶん、同じように寛大な気持ちになる。
再生儀礼の新施術を試しているだとか、そんなようなことらしい。
俺は医局の人間ではないから、どうしたって人間のからだと言うものに手をくわえ、再生機能を高めるだとか言う仕組みが、計画書を確認され、理論としては理解できても、実感としてそんなことができるものだろうかと、そいつを使役しているいまだに半信半疑でいるから、詳しいことは判りようがないのだけれど、大雑把に理解したところによると、施術し、数値を検査して、その反応が表に出るまで数日かかるということだったから、こいつは棲家である郊外の孤児院に戻ることもできず、かと言って十三課の事務仕事ができるわけでもないから、こうしてただ日がな一日だらだらとヴァチカンの邪魔にならない場所にいるしかないようだった。
要するに、どえらく暇なのだ。
俺だったら、これだけ自由に使える時間があるなら、読もうと思ったきり積んで何層の山にもなった本を片端から読んで片付けてやるんだが、そんなように思う。もったいないことをしていると思った。無趣味のこいつはそうしてつぶす暇の使いようもないようで、呆けた年寄りのごとくこうしてベンチに座り陽に目を細めている。
俺は前日と同じようにあいだを開けてそいつの横に腰を下ろし、そいつに向かって紙包みをふたつほど放った。
腑抜けていても、からだは咄嗟に反応するのだからそこはたいしたものだと思う。ひゅ、と手刀の勢いで差しだしたそいつのてのひらに紙包みが握られたことを確認すると、俺はさっさと自分の分の包みを開いて食べはじめた。抜いたモーニングか、それとも遅いランチか、早めのサパーと言うべきか判らない、屋台で買った出来合いのそれは、それでも注文を入れてからひとつずつトースターに突っ込まれ焼かれたものであったから、まだ十分にあたたかく、味もまあまあと言ったところ。ぼんやりと紙包みから俺に目を移したそいつは、こちらの真意を確かめるようにわずかに首をかたむけ、数秒じっと見た。
他意はなにもない。
ただ、まったく知らない仲ではない俺と貴様が、並んでベンチに腰掛け、俺だけ頬張ると言うのがなんだか滑稽に思えたからだ。
この際、そいつの腹が空いているかどうかは別にどうでもいいと思った。
礼を言うでもなく、断るでもなく、手元に目を戻すと貴様も包みを開き、もそもそと口をつけ食いはじめた。元来こいつはうまそうに飯を食う。だからそうして若干いやそうに困った顔をしながら食べている姿と言うのは、わりと新鮮だった。
そう言う顔も貴様は持っているんだな。
先に食い終り俺は立ちあがる。
長居をする理由はどこにもなかった。
それから数日、中庭もそいつのことも思い出す暇がないほど仕事がたてこんで、躍起になって俺は働いてやった。別に俺ひとりががんばったところで、たいしてなにが変わるわけでもなし、評価されるでもなし、逆にやっかみや不信の目が増えるだけのことは重々承知していたけれど、性のようなものだ。しかたがない。
ただ俺は、俺の机の上に、いつまでもし残したものが詰まれているのを見ると癪に障るのだ。
朝方まで根詰め、いい加減限界が訪れて、仮眠と称して小一時間ソファに転がったあとで、まだ誰も出勤してこない局室から通路に出たところで俺はひょいと中庭のことを思い出したのだった。
階段を上り、窓から外を眺めると、空気はみっしりとよどんで重く、今にも雨が降り出しそうな気配だった。日なたで耄ける雰囲気じゃあない。まだこのヴァチカンのどこかに貴様は滞在を強要されているのだろうけれど、さすがに今日ばかりはあの奥庭にはいないだろうと思った。
いないだろうと思うとどういうわけか、たしかめてみないと気がすまなくなって、暇なわけでもないのに俺は裏口から顔を出し、しばらく逡巡したあと、結局小路を歩いてその場所へ向かう。
ざり、と靴の裏で砂利がこすれる。俺は正直あきれる思いだった。
貴様はそこにいた。
手持ち無沙汰の極みなことは判っちゃあいたけれど、なにも、こんなに、いつぽつりぽつりときてもおかしくない空模様の日まで、こんなところに座っていなくてもいいんじゃあないかと思う。雨に濡れて風邪をひくようなタマでないことが、救いくらいだろうか。
だとしたって別の場所にゆけばいいだけで、こいつがなにを考えているのか俺にはさっぱり判らなかった。
同じくらいの勢いで、この陽気なのに貴様が変わらずここにいることをなぜか俺は確信していて、わざわざそれだけをたしかめるためだけに足を運んだおのれ自身も理解できなかった。
貴様がここにいるってことを俺は知っていた。
あいだを開けて座る。
数日前と同じように、そうしてさらにそのひとつ前の日と同じように、とくに大きな反応もなく貴様は背を丸めぼんやりと足を投げ出し宙へ目をやっていて、この巨体がいざ戦闘になるとあれほど機敏に、信仰と殲滅のかたまりのようになって動静することが信じられないとさえ思った。
こうしてベンチに腰を下ろしているのは実は俺ひとりで、隣の貴様はまぼろしか、そうでなければ夢の一部なんじゃあないかとさえ思う。
けれど、隣にいるからだは静かに呼吸をくりかえしていて、それこそまるで夢のような気がした。俺はどうしてここにいるのだろうと思った。
手を伸ばしてみようかとも思ったけれど、大の男二人がこうして並んでベンチに腰かけているだけで滑稽だと言うのに、触れてみるだなんて、狂気の沙汰もいいところだと思った。俺はくたびれているのかもしれない。
嘆息し、背もたれに寄りかかる。話すことがあって足を運んだわけでもないし、そもそも口を開けばむかっ腹しか立たないことを俺は知っていたから、足を組み、空を見上げた。
そいつのコートにも似た、昏いねずみ色の湿気た雲が空万然にひろがっていて、面白くない。面白くない、面白くないとそのまま節をつけ、頭の中でくり返しているうちに、とうとうぽつんと鼻先に雨粒がはじけ、それを皮切りにさあっと辺り一面が不意に時雨れて、庭木の枝葉はたちまち露を含んだ。
なんとかは風邪をひかない、のそいつはともかく、俺はいっぱし風邪をひく性質でもあったから、さっさと見切りをつけて室内へ戻ってしまえばいいのに、俺は相変わらず腰を下ろしたままで、ほんとうに意味が判らないと思った。
こまかな雨粒はわりとあたたかい。あたたかい、でも四半時もそのまま黙って座って、じっとりと服に染みこみ濡れてくると、さすがに体温をうばわれ寒くなる。
ぞくぞくと背筋に悪寒が走り、勝手にからだが身震いした。
しまったな、本格的に風邪をひくんじゃあないか、膝をかかえて丸まろうかと思った俺のほうへ、いきなりそいつが腕を伸ばしてきた。なぜだか俺は殴られる、だとか思って一瞬顔をしかめ、目をすがめる。
そいつはそのまま、かまえた俺の肩をつかみ、無言で自分のがわへ引き寄せて、それから俺のあたまから上着をかぶせる。屋外活動の多いそいつのコートは、織りは荒いが目の詰まった仕様になっていて、俺は呆気にとられて貴様の顔を見上げた。
ちょうど左のがわに俺はいたから、貴様の茶褐色に日焼けした頬の傷を眺めるかたちになる。それが目に入り、そうしたらなにを、だとか、どういうつもりだ、だとか言葉は喉元まではこみ上げたものの、結局おもてへ飛び出す前に消えた。代わりに、たまにはおとなしくこうされてもやってもいいか、めずらしくそんな気分になる。
きっと誰もここへはこない。
俺を引き寄せたまま、相変わらず貴様はなにも言わない。だから俺も口を噤んだままだ。
ただ、わずかに相手の肩口へ顔を寄せた。
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最終更新:2020年08月08日 01:05