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 俺のものじゃあない腕がぬっと、俺のほうに伸びてきて、俺を抱き寄せる。そこにやさしさや思いやりのようなものはあまりない。ただ引き寄せたいから引き寄せる、それだけの動きだ。それはあまりにも一方的で、だと言うのにあたたかい。そうして、どうにも腹立たしいほどに太いのだった。

 たかだか二本の人間の腕だった、避けてしまえればどんなにいいだろうと思うけれど、頑強さも、執拗さも、振り払うには面倒にすぎて、俺は抱き寄せられるままにあらがうこともなくその腕の胸におさまるのだ。

 ああ、まただな。

 そう思った。

 夢だった。これが夢であることを俺は知っていた。

 そうして、どうせいつもの夢だった。

 仮にこれが現実のできごとだったなら、俺は死にものぐるいに抵抗し、もがいて暴れ、撃ち殺そうが引き掻き裂こうが、なにがなんでもそいつとそいつの裡から逃れようとしたろうけれども、これが夢だってことは判りきっていた。夢だと判りきる、というのもどうにもおかしな言い方であるし、ほんとうにそれが夢なのかどうか、たとえば万に百分の一、現実のことであるかもしれないだとか、そうした懸念もないわけでもなかったけれど、それが夢なのだと見ている俺が確信していたのだからしようがない。

 夢だった。

 どうして判るかと言えば、もうこのところずっと、毎日毎晩、目をつむり眠りに落ちてすぐから目覚める明け方まで、俺はくり返しくり返し、壊れたレコードよろしく寸分とたがわぬ同じ夢を見続けていたからだった。きっちりと、測ったように、同じシーンをくり返しくり返し。

 気が違っているのかと思う。

 そのとおり、気が違っているのかもしれない。

 夢に出てくる人間は俺ともうひとり、うす暗がりでたいして顔もよく見えないのだけれど、俺はそいつが誰なのか知っている。においだとか、たぶんそうしたもので判別しているのかもしれないけれど、そうでなくてもきっと俺には判る自信があった。

 それは、世間ではたぶん気配、だとか言われているもので、そうしてそんなもので相手が誰なのかだいたい予想がつくほどに俺はそいつに馴染んでいるのだった。

 いつの間にか。

 だいたい、近しくなる機会のあるときにも俺は極力そいつに近寄ることはなかったし、長じて機関に配属されてからは、名義上顔を合わせる程度で、そいつはほとんど出張っていることが多かったから、気配なんてものを体で覚えるほどずっと傍らに置いていたわけでもないのに、どういうわけか顔もよく見えないそいつが「そいつ」であることを俺は判っているのだった。

 夢なのだから、理屈だとか整合性を求める俺が間違っているのかもしれない。そもそも支離滅裂でも成り立ってしまうから、夢と呼ぶのだと思う。

 こうも毎晩夢をみるのはおかしいのだろうけれど。

 夢は見ている人間の希求をかたちにしやすいのだと言う。糞くらえだ。

 もしそれがほんとうなのだとしたら、俺は意識のうちでこんなふうにそいつの腕に引き寄せられ、封じ込められることをのぞんでいるとでもいうのか、冗談じゃあない。

 俺はそいつがきらいだった。生理的に苦手だった。親しい、お近づきになりたいと思える相手じゃあなかった。

 理屈じゃない。直感のようなものだ。

 うまが合うとか合わないとかいう言葉があるように、人間と人間のあいだには、どう逆立ちしたってそれ以上深入りすることの難しい、相性というやつがある。

 そいつに近付くとろくなことにはならないぞ、という警告がいつもどこかに付きまとっていた。

 だというのに、どうした切欠だったかそいつはまんまと俺に近付き、あまつさえ俺のことを、だいじな相手だとでもいうような目で見やがったのだった。会うたび、毎度毎度。鬱陶しいほどあつい体温でもって裡に引き寄せ、俺のことがだいじだと囁いてみせた。お前をだいじに思う。一緒にいてもいいか。だから錯覚した。俺ですら、なぜかそいつのことをだいじに思っているような気持になって、俺も、と言いかける。

 私も貴様のことは嫌いじゃあないよ。

 声に出そうとして声がでないことに気がついた。

 いつもそうだ。これは夢だったなとそこで気がつく。

 ああそうか、俺はいま夢をみているのか。

 毎晩見ている夢だった。

 気付いた途端、ぽんと虚空に投げ出されたような、からっ風の吹いた、どうしようもなくすかすかした気持ちにいきなり俺はなって、そうして目を開けた。

 ひとり。

 窓がなく、灯りをともしてもいない部屋は真っ暗だった。

 しんと冷え切ったベッドに横たわっているのは俺ひとりだ。俺ひとりでしかありえなかった。

 俺が、そうした。

 差しのべてきた腕を払いのけたのは俺自身だった。

 それから、莫迦なことをと思う。急激に冷めたこころもちになった。俺はぜんたい、なにを感傷的になっている?

 それでなにが変わる?

 くつくつと声が漏れ、漏れてはじめて、俺は俺が笑っていることに気がつく。ああ、俺はまだ笑い、取り繕うことができるのだな。

 それができれば十分だ。

 腕をついておきあがり、だらしなく広がり流れる髪に舌打ちする。いつの間にかずいぶんと伸びているなと思った。どうしてこんなになるまで放っておいたのだったか、仕事が忙しいから、読みたくて取り寄せた書籍があったから、中途半端な長さだとかえってまとまりがつかないから、いくつか理由が頭に浮かんで、ああそうだった。そうだったと納得し、手打ちにしようとした間隙を縫って、伸ばしたらいいのじゃあないかとかいう誰か俺じゃないべつの声が不意によみがえった。

 ぞわ、と寒気がした。嫌悪からだ。

 そんな記憶はいらない、俺にまるで必要がない、水底によどみたまったヘドロのようにいつまでも重く煮こごって浮かんでこなければいいのにと思う。

 おのれの思考すら自由にならない、ひとという身のなんという不自由さ。

 それから無造作に髪を束ね、ベッドを離れる。そいつのにおいがするような気のする部屋にいっときもいたくなくなったからだ。

 俺は、俺だけでじゅうぶんだ。

 さて、と俺は俺に言った。

 はじめようか、と俺は俺に言った。

 もう仕舞いにしよう、と俺は俺に言った。

 それとも、これが未練かな。

 苦笑をのみくだし、廊下へ続くドアを開ける。ノブに手をかけた瞬間から、俺はヴァチカン特務十三課局長だという俺自身を取りもどす。

 建物の中にいると言うのに、空気がひどく澄んで凍みている。一日雪になりそうだと思った。

 

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最終更新:2013年12月21日 15:37