結局あの時は、その後三日間、雨が降り続いていたのだった。
  そんなことを思う。
  雨が相変わらず滴っていて、おかげでカークは物思いに耽る行為から、うまく抜け出すことが出来ないでいた。
  包みを無事に届け先へ渡し、確認のサインを貰って、帰途を急ぐ。
  近くの食料品店は、深夜まで開いているはずだ。寄って、どうにかマルゥの料理をフォローできる物を、買っていこうと思いついた。
  ポケットには、小遣いと称して毎回の稼ぎの中から、カークとマルゥ、二人にに渡される手取りのクレジットがある。
  渡されるものの、菓子やら洋服やらを、余分に買う思考の無い彼は、マルゥと違ってクレジットは溜まる一方である。
  再び空を見上げて僅か口を開く。
  あの日と違うのは、吐息が白くならないこと。
  こうして傘を差して歩いていること。
  乾いた衣服を着ていること。
  家族にも似た誰かがいて――帰る家があること。
  白い空は、いつの間にか淡い紺色に染められている。夕暮れなのだ。
  下層区画を歩いていても、そこかしこから灯りが漏れている。一時の団欒の温かさ。無意識のうちに、表情がほころんでいた。
  早く、帰ろう。
  そう思い、踏み出した片足がぴたりと止まる。ほころびかけた頬は、強張っていた。
  辺りが急に暗くなっている。
  夜になるから、そう言ったことではない。気配だった。取り囲まれていた。
  ――何、に。
  怯えて振り返る。背後には何もない。誰もいない。雨に濡れたコンクリートのメインストリートが、真っ直ぐに伸びているばかりである。
 「――?」
  暗いと感じたのは、きっと気のせいだ。腹が減っていて、判断力が鈍りかけたのだ。
  そう思おうとした。
  気のせいに、しようとした。
  ――ちが……う。
  気配と言うより痛いもの。まるで矢印が突き刺さるように、彼に向かって注がれる”なにか”がある。そうして彼は、その”なにか”に覚えがある。
  視線だった。
  けれどこうして視られたことは、記憶にない。馴染んでいるのは、視る方だ。
  アイ・カメラに連結して、街を覗いているときの気配。ヒューの仕事を手伝う際に、自分がよく知っている感覚。
  今は、視られている。
  誰に。
  首筋の産毛が一斉に毛羽立った。それが緊張のためだと、自覚するのに少し掛かった。
  視線を前方に戻す。
  硬直した。
  目の前に。本当に目と鼻の先に、いつの間にか、空気一つ動かさず、女が立っていたからである。
  影法師かと一瞬思ったのは、女が不吉なほどに黒かったせいだ。
  真っ黒い服を着た女だった。
  身体のラインをぴっちりと見せ付けるボディ・スーツは、着るというよりは張り付いている感じだ。余計に影に見える。
  そうして同じように癖のない、真っ直ぐな、ぞっとするほどの直毛が、くるぶしの辺りまで尾を引いて流れている。切り揃えられた額の横ラインは、定規で測ったのかと思うほどに直角。
  切れ長の伏した瞳は、殆ど白眼が見当たらなかった。おかげで顔を上げていても、焦点が今どこに合わせられているのか、対面したカークに判らない。
  蛇のようにも、思えた。
  或いは荒地に住むBAZUSUと呼ばれるけだものの瞳。
  ねっとりと、濡れた様な光を放つ睫が、静かに持ち上げられ、凍り付いていたカークは凝視して喘いだ。
  人ではない。
  人の身に、こんな異質な雰囲気が作り出せるとは思えない。
  では、D-LLなのか……?
  うろたえる彼の視線が、ゆっくりと女の首筋に注がれる。見えない。
  通常D-LLであれば、同種族同士、上に何を着込んでいても隠していても、仄かに光るように浮かんで見える造りになっているのだが、この女の首は、どこかぼやけたようにコーティングされて、機械であるのか人であるのか判らない。
  しかし、人ではない。
  直感だった。
  最初に浮かんだのは、ここが下層区だということだった。
  強盗か。
 「――なにか、御用ですか」
  そうして、ギルドのD-LL売買人。
  もしかすると、”ソドムとゴモラ”のような反人間社会機構のD-LLか。現実にマルゥがつい数ヶ月前に遭っている。
  その真反対の、俗に言う「D-LLハント」の面々かもしれない。表向きの社会記事には、機械の義務と生存権利法が確立されてより、D-LLハンターによるD-LLの破壊行動が載せられることはなかったが、それは飽くまでも「表向き」の話だ。同居しているマルゥのように、素直に情報を鵜呑みにできないカークは、実際は事故に見せかけて、狩りを楽しむ人間が、まだ数多くいるということを知っている。
  過激派のD-LLもハンターも、あまり中央管理局の監視の行き届かない、下層部分に、多い。
  住民の安全と平和は、住居が上の方に行けば行くほど、その住居権を獲得するために掛かる税金が、高ければ高いほど、確約される。それは、どこの世界でも似たような話だ。
  ここは、下層区22階。決して治安が良いとは言い切れない。
  静かに問いかけたはずの声は、みっともなく震えていた。
  身体が強張って動かない。
  女は、応える風でもなく、じっと彼を眺めている。
  見つめているではない。眺めているのである。
  まるで景色でも視界に入れるようなその顔に、感情の色は感じられない。
 「なにか、御用ですか」
  何を考えているのか判らないのが、カークは一番怖い。次に行うべき動作が予測できないからである。
  たまにマルゥが、彼自身のことを、無表情だの無感動だのと評するときがある。主には、機嫌の悪いときである。言われる度に、それなりに気にして鏡を覗き込むこともある彼だったが、はっきりと断言できる。今、目の前に立つ女の方が、自分の数倍無感情だ。
  石を飲み込んだように、重く痞える喉を鳴らした、その音が合図のように、
  そこで初めて女は、
  見た。
  深淵。
  無機質な瞳がこれほど怖いと思ったことは、今までにない。
 「なにか、御用ですか!」
  三度目の問いは、既に小さな悲鳴だった。
 「All Can――コード:プロトタイプ・Χ(キィ)を捕捉――」
  硬質の、色素の薄い唇が。
  真一文字に結ばれていた唇が、不意に開いて、
  黒々とした口腔に、カークは知らず、戦慄した。
 「回収します」
  す、と。
  前動作もなく、女の腕が伸ばされ、彼の首筋に迫る。目指す先は、彼の首筋の黒い掠れたバーコードだ。
  女が一体何者なのかとか、
  女が何を言っているのかとか、
  女の言葉の中のプロトタイプとは何なのかとか、
  カークには全く判らなかったが、これだけははっきりと言える。危険である。
  伸ばされた腕を振り払う。触れた手首に焼け付く痛みが走った。弾かれたように飛び退って、身体の自由を無理矢理取り戻す。
  腰を落として身構える。
  ――逃げるか?
  女は、スレンダーな体付きをしていた。身軽そうだ。大腿に這わせているのは、D-LL用のスタンガンだろうか。
  ――逃げられるか?
  背後を窺いながら、カークは、いっそ誰かがここを通りがかってくれると、良いのにと願う。女の気をどこかに逸らさなければ、これは逃げようが無い。
  雨に濡れた通りには、人が通る気配はない。
  それとも、通行までも管理されてしまっているか。
  黒い女は眉ひとつ動かすことなく、彼へと再び近づいた。
  じり、と彼もまた退がる。
  退きながら、無意識に口内に仕込んだ通信回路を、細かく震わせる。そっと、個人契約してある衛星端末を呼び出していた。直リンクするよりは若干のラグがあるものの、何かせずにはいられない心地だったのだ。アイ・カメラをそっと逆探知する。
  視ているものは、誰だ。
  不意に、衛星通信が遮られるのを感じる。顔を歪ませて女が空を見上げていた。
  その動きを眼にしたカークは、隙を狙って踵を返し、全力で駆け出す。勢い、つんのめりそうになりながら持ちこたえる。
  女が気付くのは予測済みだ。むしろ、一瞬でも気を逸らして欲しいために、やったようなものだった。もともと、回線の逆探知には時間が掛かる。時間が掛かる物は、相手にも気付かれやすい。
  夜の気配が濃くなりつつある町並みを、彼は走った。
  左目の視界には、蜘蛛の巣状に張り巡らされた、P-C-C下層区域のマップを呼び出してある。マップの中心点は自分。接近する赤い点滅は、あの女だ。
  音もなく女が追ってくるのが、気配より先に情報で感じる。
  ちくちくと、視線が痛いほどに集中するのが判る。視られている。視張られている。
  女の、長い腕がすうぅうと伸びる。どこまでもどこまでも細く細く、糸のように長くどこまでもどこまでも、

 「わぁッ」

  角を曲がったカークの前に、何かが立ち塞がった。制動する暇もなく、そのまま思い切りぶつかった彼は、その何かに抱きとめられる形になり、恐怖のあまり声を上げた。
 「……カーク?」
  聞き馴染んだ優しい声がした。
  鈴を転がすような、優しい声。
 「アンタ、何やってんの?」
  心底不思議そうな声を出した相手を、彼は見やる。
 「マル――ゥ」
  彼を抱きとめたのは、小柄な少女だった。
 「……なによ。そんな顔しないでくれない?オバケじゃあるまいし」
 「すいません、いえ、そうではなくて、その、どうして、ここに、その、ヒューは、というか、料理は――」
 「質問は文法に則って、ひとつずつにしてくれる」
  カークに対して無愛想な、マルゥのいつもの表情に、何故かカークはほっとして、
 「――ですから。どうして、ここに」
  呼吸を落ち着かせながら、そう尋ねた。
  尋ねながら左目のマップを確認する。赤い点滅点は消え失せていた。
  まるで、もとより何もなかったように。
 「そりゃ、アンタの帰りがあんまりに遅いから、マスタ……ヒューが心配して、アタシに迎えに行けって言ったからよ」
  女の子を夜の街に追い出すなんて、何考えてるのかしらね。
  不満の理由はどうもその辺にあるようだった。けれどそう文句を口にしていても、本心彼女が怒っている訳ではないことを、カークは理解していたから、
 「そんなに、遅くなりましたか」
 「……そんなに……って。アンタ出てってから、三時間以上経ってんのよ?」
 「さん、じかん――」
 「そうよ。アンタ、立ったままぼーーっと寝てた訳じゃないんでしょうね?……ヒューはアンタがバックれたってムクれるし」
 「今、一体何時なのですか」
 「……ホントに寝てたの?今は、PM22:07.57。アンタが家から出てったのがだいたい、PM18:00頃。足し算できるなら判るでしょ」
 「――まさか。荷物を相手先に渡して、サインを頂いて――真っ直ぐに、戻ってきた、のですよ。そんな時間になるはずが――」
 「じゃ、一体どこで道草食ってたのよ?」
 「それは、」
  不審げに尋ねられて、カークはそこで口を噤む。
  口にすると、再び女が現れてしまいそうな気がして。
 「見たことのない、フィメールタイプの黒いD-LLが目の前に来て――」
 「D-LL?」
 「――私にも判りません。何故か、追われたのです。女は私を捜していたようで、捕捉しただの、回収するだの――」
 「捕捉……」
  彼の言葉をマルゥはなぞって繰り返し、
 「判らない」
  細い首を傾げた。
 「アンタが何を言っているのかさっぱり判らない」
  眉を顰めてマルゥは、小さな手のひらを、彼の額に当てた。熱でも測るように。
  判らないだろうな。
  少女が手のひらを当てやすいように、無意識に屈みながら、カークは内心一人ごちた。
  追われた自分自身が、一体何がどうなっているのかさっぱり判らないのだ。
 「大丈夫?アタマ、壊れかけてるなんて言わないわよね?それとも夢でも見たの?」
 「――夢では――」
  ――夢、だったのだろうか。
  眉間を揉み解す。
  夢ではなかったと言い切れるか。
  口では色々言いながら、気遣う視線を送るマルゥに、結局笑って誤魔化すことにしたカークだ。
 「――すみません。きっと、夢でも見たのでしょう」
  そして無理矢理話題を変える。
 「ヒューは」
 「……ああ、」
  困ったように腕組み、水滴の尽きることなく降り注ぐ空を見上げて、マルゥが盛大に溜息をつく。
 「後片付けしてる」
 「片付け――……何の」
 「……。」
  少女は無言で背を向け、足早に家への道を急ぎ始める。
 「マルゥ?」
 「何よ」
 「ですから――後片付けとは、何の……」
 「……にきまってんでしょっ」
  言いかけた言葉を遮って、彼女は唐突に喚いた。
  勢いに乗り損ねて、面食らったカークである。
 「――え?」
 「シツこいわね。何度も言わせないでよ。料理の後片付けに決まってんでしょ、って言ったのよ!」
  どうやら彼はしっかりと地雷を踏んでしまったようだった。そもそもマルゥが機嫌が悪いのは、夜の外出を一人で任されたから、ではないようだ。少女のこうした癇癪に半年も付き合って、いい加減そのあしらいを身に着けた感のあるカークは、こういう時、自分がどういう対応をしたら、一番その火種をこれ以上燃焼させずに済むか、身をもって覚えた。
  口を挟まずに黙って頷くに止めることだ。
  であるから、この時もやや首を傾げて、マルゥの言葉の先を無言で促す。この加減が難しい。促されていると彼女が感じたら感じたで、いよいよ臍を曲げるからである。気が付かれないようにそっと、けれど確実に誘導。ヒューの破天荒にも見える性格と、マルゥの思春期に見られる傷付きやすい自己主張な性格。付き合ううちに、おそらく主をなくしても、カウンセリングの仕事で食べていけそうな予感を、最近は頻繁に覚える。
  口には出さない。
  得策ではないからだ。
 「だって!なんでか知らないけど、いきなり大鍋が空中で爆発するのよ?せっかく、朝から煮込んでダシをよぉおく取ってたのに。爆発のせいで、他の料理も台所も、食器も滅茶苦茶になるし。せっかく、せっかく頑張ったのに」
  言いながら段々に勢いがなくなって、しょんぼりと肩を落とすマルゥは、
 「……あのヒトにもびっくりされちゃうし……」
  最後に小さくそう付け加えた。
  例え、朝から部屋一杯に、硫化硫黄の臭いが充満しようと、
  大事に隠し味用として取っておいた、スパイスが燃え尽きようと、
  今月の食費の殆どを、今日一日で消費されていようと、
  更には食塩代わりとして、劇薬を混入させていようとも、
  それでもマルゥが彼女なりに一生懸命に、その一生懸命さが間違った方向を向いていたとしても、それでも憧れている人間へ、自分の作った手料理を出したいという、そんな彼女の思いだけは痛いほどカークには理解できたから、
 「――マルゥ」
  俯いて涙目になった彼女の肩にそっと手を添えて、
 「では。迎えに来て貰ったお礼に、今から速攻で家に戻って、お客様に料理を作ってお出ししましょう」
  静かに囁いた。
 「……でも。判ってるのよ。天才レベルで料理オンチだってのは。悔しいけど。自分でも判ってるのよ」
  拗ねた彼女は口を尖らせる。素直にうん、とは頷けない性格も、カークはやっぱりよく判っていた。
 「マルゥ」
 「何でもソツなくこなすアンタには、判らないかもしれないけど。料理も掃除も洗濯も上手だし」
 「マルゥ」
 「どうしてか判んないけど、お玉もジュって溶けたし。今から帰って作り直したって、お客さん即死レベルのご飯がひとつ、できるだけよ」
  首を縦に振らない彼女を頷かせるコツは、辛抱強く付き合うことだ。顔を覗き込みながら、ゆっくりと、カークは言い聞かせる。
 「マルゥ。私も手伝いますから。遅れてしまった分、一緒に、二人で」
 「……アンタも一緒に?」
  落ち着いた彼の声に、少女はようやく顔を上げて、僅かに明るい顔になる。
  手伝って欲しいとは、自分では言い出せない。
  手伝おうかと最初から言い出されては、やはり素直に頷けない。
  けれどこうして、時間が無いのを理由に、自分を知らず煽ててくれるのならば。元来は真っ直ぐな気性であったから、
 「こんなところまで、迎えに来てくれたのですから」
 「でも」
  それでも尚、納得の行かない顔で、少女はゴネた。
  ワガママと言うよりは、幼い子供の駄々に近い。
 「それじゃあ、アタシの作った料理、じゃなくてアンタの作った料理になっちゃうじゃない。そんなの嫌」
 「ですから、私は少しだけ」
 「……ホントに少しだけ?」
 「はい。本当に少ーしだけ」
  上目遣いで確認を取るマルゥが、微笑ましくて、口元を緩ませてカークは頷く。
  少ーしか。少しなら、別に、手伝わせてあげても、いいかな。
  そんなことをぶつぶつ自分に言い聞かせながら、それでもようやく吹っ切れたようで、
 「じゃあ早く帰らないと」
  にっと笑って機嫌を直すと、カークの腕を引っ張った。
  微笑みながら、引かれ歩き出した彼は、赤く腫れた自身の手首に、初めて気がつく。
  眉を顰めた。
  傷自体は、大した物ではない。ミミズ腫れ。のたくる細い線。
  まるで、軽く火傷をしたような。
  ――夢では……ない。
  黒い女に触れた時に、走った痛みを思い出した。


Act:09にススム
人間と機械にモドル
最終更新:2011年07月28日 08:07