でかいなと思った。
たぶん、ロワジィがそれを目にして最初に思ったことと言えば、その程度のことだ。
次いで女にしては抜けて上背のある自身とくらべても、まだ頭ひとつ大きいなともうすこし具体的に思った。
そうして、図体がでかいということと、威圧感があるということは、なるほど同じではないのだなとおかしなところで感心した。
それは男だった。空気のようだった。値札を首から下げている。
売り物だったので、ロワジィは無遠慮にじろじろとながめた。
訪れていたのは、夕暮れのかきいれどきをすこし過ぎた、店じまいをちらほら始める中央市場の一隅だ。
「いらンかね、」
声をかけられて目をやる。縁台をしまいかけた店主が、彼女を見ていた。
「ひとを雇いてェんだろ。ほかのは捌けていまはそいつだけさ。どうだい、ここンあたりじゃあ最安値だよ」
「そうだねェ……、……」
言われて唇に指をあて一度目上を見た。考えるときの彼女の癖だ。
「あんた、傭兵さんかい、」
「そう見える、」
続けて店主の男がそう言ったので、彼女は口の端をあげて愛想笑いをかえした。おどけて腕も広げる。広げたはずみにがちゃ、と獲物がゆれて、この背格好ではそう見えてもまあ仕様がないかと愛想笑いがそのまま苦笑になった。
佩いていたのは中ぶりの鉞(まさかり)だ。皮鎧もつけている。六尺を超える身の丈と合わせてかなりものものしく映ることは承知していた。
「ちがったかね、」
「そうね、……似たようなものかな」
肩をすくめていらえた。
それからもう一度、売り物へ目をやった。縦にも横にも幅がある。ごついわりに存在が薄いから、うっとうしいとは思わなかったが、あらためてながめると、やはり相当にでかい。それがちんまりとすわっているものだから、なんだか笑えた。
クマかな。
そんなことを思った。
「いらンかね、」
店主がまた言った。ロワジィが買うことをだいぶん期待している口ぶりだった。
「……うーん、」
「このなりだ。そばに置くだけで用心棒になる」
アンタが買うってンならもうすこし値引いてもいい。そうだないっそ七掛けでどうだ。ここを先途と店主が言った。ああこれはもてあましているのかもしれないなと思った。
「安物買いの銭うしないとも言うしねェ……、」
ロワジィが漏らすと、いやいやいやいやこれがまァ、見てくれ。おおぎょうに手を振り、店主は躍起になった。おら、お前ちょっと立て。爪先で男を小突くと、それはのそりと立ちあがる。でかいね。立ちはだかった壁を見て彼女は素で感心した。
「だからさ。さっきも言ったように、棒でも持たせて立たせときゃ、ガタイがいいから大概のやつはこわがって近付いてこねェ。多少殴ったところで頑丈だからヘタりもしねェ。不寝番にももってこいだ。それに……、ほら、手足に妙なところはないし、背骨もまっすぐだろ」
言って店主は男へ顎をしゃくり、口を開けさせる。
「上物だよ。噛みあわせもばっちり、虫歯もなし。力仕事にゃまず歯が大事だって言うじゃあねェか。……それに、」
言って店主は下卑た顔つきになって声をひそめる。
「ほらなンだ、夜のあっちのほうも体に見合った大きさで、ご婦人方を満足させてくれること間違いなしっていう、」
「……うーん、」
だったら、と彼女は言った。あたしが雇わなくたって、すぐに買い手は見つかるはずじゃないの。
素朴な疑問だ。
「このご時世だ。用心棒雇いたい人間はいくらでもいるだろうに、」
「こんな」世の中だからこそ需要もある。現に彼女のなりわいも、言ってみれば需要から生まれた隙間産業だ。
それに、と店主が口ごもるすきに彼女は言いかぶせる。
「あたしがほしいのは、洗いものだの食事のしたくだの、身の回りの世話をたのめる従者なんだよ。用心棒じゃあなくてね」
大きいのは自分ひとりで間にあってるよ。言うと店主が気落ちした顔になる。これじゃ駄目かね、だめ押しで聞かれて悪いねとこたえた。
「悪いけど……、雇うなら、女の子にしようって決めてたんだ」
実際日常の雑務に体格は問題ないだろうと思う。身幅があっても男でも女でも、仕事をこなす上のさしつかえはない。ただ、目に入るならむさ苦しい男よりも女のほうがいい。年のいったものよりも若いものがいい。醜いものよりは見場のよいものがいい。単純に気分の問題だ。
「七掛けのさらに半値と言ったら、」
「うーん、」
最安値の七掛けの半値。これはよっぽどいらないのだ。店主がなおも食い下がるので、じゃあさ。言ってロワジィは真正面から店主を見た。ずいと身を寄せる。自身の体格と恰好が相手に威圧を与えることを知った上での動きだ。
「ほかのは全部捌けたんでしょう。上物で、お買い得で、さらに値引いて、だのになんで売れ残ってるの」
「……いや、まァ、そりゃ、ちょっと……、」
寄られて引いた店主の勢いが急に悪くなる。
「ちょっと?」
「まァ、なんだ、その、オツムが、」
「……頭?」
「いやいやいや、もう、本当に、ちょっと、ほら……、なんていうのかね、言葉足らずっていうかね?ちびっとだけ足りないっていうか、まァ、」
傷でもあるのかと男の頭に目をやったロワジィに店主が歯切れ悪くかえした。ああそう。合点して彼女はそのまま目を細める。
「それで残ってる、」
「まァ、そういう、……ああでも、暴れたりはねェんだ、それは保障する、見た目のわりにゃえらいおとなしくって、言うこともきちんと聞くしそれに、」
「いらない」
切って捨てた。もとより雇うつもりもない。
――なにが悲しくて、
「その大男とアタシみたいな大女が並んで歩いてごらん。野良犬も寄ってきやしなくなるよ。旅芸人の見世物じゃあないんだからさ」
「そりゃまァ、あんた、そうなんだが、」
「二、三日したらまたくるよ。かわいい子を見繕っておいておくれ」
頼んだよ、言い置いてロワジィは男にもう一度ちらと目をやった。これだけおのれのことを話題にされているのに、男はまるで介さない態でどこか向こうを眺めている。耳も遠いのだろうか。なにげなく男の視線を同じようにたどり、宵闇せまる空にながれる雲を眺めているのだということに気がついた。ふわふわと丸みを帯びたひつじ雲。
遠くへ行きたいのかな。
ふとそんなことを思った。
数日あけるつもりが十日ほどあいた。ふたたび市場を訪れる。今度は昼過ぎに訪れたので、往来がある。客引きを適当にあしらうだけで時間をくった。
やれやれ。
目あての店の近くまできて息をつく。軽く汗ばんでいた。
いまでこそ町から町へ仕事をさがして流れていたが、もともとロワジィは山育ちだ。獣の足跡をたどって藪をこぐことは難儀とも思わないのに、人混みは気疲れた。中天からすこし西にずれただけの日差しもきつい。思えば一番暑い時間帯だ。石畳の照り返しはぎらぎら目に痛くて、失敗したな。舌打ちをする。もうすこし遅くにでてくるべきだった。覆いでもなければ日枯れてしまいそうだと思った。
「あー……、……」
そうしてなにげに目をやりそれが視界に入った瞬間、知らず彼女の口からちいさく呻きが漏れていた。いやだな。続ける。
店先に男がほうりだされてすわっていた。店は簡易の布テントであったので、軒もない。日差しを直にうけてすわっていた。前と同じ値札を首から下げたまま、どこか遠くのほうをぼんやりを見ているさまもそのままだった。きっと朝からそうしていたのだろう。昨日も一昨日も、もしかするとずっと同じようにすわっているのかもしれない。
男の口の端が切れ、頬が青く腫れていた。売れない売り物に店主が腹を立てて打ったのだろうなと思った。
「ああ、あんた、」
顔をしかめ男から目を逸らしたロワジィを見止めて、こちらはテント下にいた店主が声をかける。
「待ってたよ。見ていっとくれ。目ぼしいのがいくつか、」
そうして後ろに控えた少女らを数人前に押しだした。
「どれもこれも器量よしだろ。ちょうど今朝がた、山里のほうから連れられてきてね。よりどりみどり、好きなの選んでいっとくれ」
「うん、」
言われて彼女は並んだ売り物に目をうつす。女と呼ぶにはまだ幼い娘たちだった。好奇心を含んだあっけらかんとした目で、どれもロワジィを見上げている。生まれた里を出てここに並ぶ身上を、理解できないほど幼くもないが、実感としてあるかどうかは別の話だ。その青くささにくらくらとした。若い。彼女たちは前途多様だ。いくらかは娼館に身をおとすものもいるだろうけれど、雇ってゆく主人しだいで人並みの幸せも手に入る。
すくなくとも、店先のあれよりは。
思ってしまってロワジィはまた男へ目をながした。もてあまされた捨て売り品。古物商の棚の端のようだと思った。埃が層になって積もり、息をするのも止めてしまったような古道具。
これだけ暑いのに男は萎びもせずただすわっている。
――空を見ていたな。
そうして視線を追う。いまは屋根の上で群れあそぶ雀を見ているようだった。にぎやかに鳴き交わす群れの中に巣立ったばかりの子雀もいるようで、ちち、ちちちと甘えた声がまじる。親を呼んでいるのだ。それを聞いた男が、ほんのわずか相好をくずしたことにロワジィは気がついた。
やさしい顔だった。
「じゃ、もらってく」
男から目を放し、娘たちに目をやる。器量よし揃いと店主が言ったとおり、どの娘も可愛らしい顔立ちをしていた。だいいち肌が透きとおるようだ。がさがさに日焼けしたおのれとくらべてどれもやわらかそうで、若いとはそれだけで価値があるのだなとうらやましく思った。このうちのひとりを連れて彼女は宿に戻る。次の仕事の目ぼしは付けてあった。前金も受け取っている。峠越えの荷駄の護衛だ。数日の野営になる。買い雇った娘は、炊爨の手伝いをしてくれるだろう。
服のかくしから金入れをだしてロワジィは言った。
毎度あり、揉み手をして店主は言った。で、どの子にするんで?
「それ」
「え?」
「それ」
店先を顎でしゃくってロワジィは言った。
「それ。七掛け半値でよかったんだったね?」
え。
ロワジィの言葉に店主は呆けた面になった。言われたことが一瞬理解できなかったようだ。十日ほど前にあれほど熱心に売り込みをかけて、断ったときはひどく気落ちした様子だったのに、いざ彼女がさししめすと、あんた、いいのかね、あの……ほんとうに?重ねてたずねてくる。
「売りものなんでしょう、」
「いや、まァ、そうなんだが」
「あたしの気が変わらないうちにさっさとしな」
言いながら店主の前にふたつに分けて紙幣をぽんと投げ出した。ひとつは七掛け半値分、残りは男の首から下げた値札から前記の値段を差し引いたものだ。
「……これは、」
「懐に入れるんじゃないよ。……その子らになにか買ってやって頂戴」
たとえば甘い菓子だとか。目で問うた店主にロワジィは言う。口に出してみるとひどく気障な真似をしているような気がして、彼女は顔をしかめ、つるりと掌で頬を撫ぜた。
自分がいまより若かった頃、同じように山を降りて町へ出た。大きな町だった。話には聞いて知っていたが、行き交う人間を実際に見るのははじめてだった。その多さだけで途方にくれた。村の数十倍の夫々が、みなちがった目的を持って歩いている。とんでもないと思った。
頼るものもなく田舎丸出しの自分が、それでも不安に押しつぶされずになんとかひとりで立てたのは、あたたかなスープがあったからだ。
スープの湯気に鼻をうずめると涙が出た。だいじょうぶ。がんばろう。あたしはひとりでも生きてゆける。
ぼんやりと娘たちを見下ろしていたロワジィの頬に影が差した。大柄な影だ。顔を上げると男を伴った店主が彼女の前に立っていた。
「じゃぁ、まァ、そういうわけで、」
言って店主が破顔する。芯からの笑みだった。でかぶつがようやく捌けて、相当にうれしかったのだろう。しかしあんた、こんなの買うって、物好きなひとだね。口にまかせてそんなことまで言っている。勝手なことを言っていると思った。
「でもあたしもわりとそう思う、」
男をうながして店先を去る。うながし、半歩先をゆく垢じみた布を腰に巻いただけの男を眺めながら、さてこれからやることは山のようにあるがどれから手を付けようかとロワジィは思案した。
もののはずみ、ということがときにはあるのだ。
ぼろぼろの腰巻を脱がせ適当な上着を見つくろうか、それともどうせ脱がせるならいっそ脂で黒ずんだ体を洗わせるのが先か、脱がせて洗うくらいなら伸びた無精ひげと頭をまずは刈ってしまおうか。
順繰りをなやみ、とりあえず寝泊りしている宿までロワジィは男を連れてもどった。帳場の人間にちょっとかりるよ、ひと声かけて裏へまわる。
市場からもどるあいだ、すれ違う人間が眉をひそめることにロワジィは気がついた。中には露骨に鼻にしわをよせ、顔をしかめてみせるものもいた。
原因はわかっている。要するに男がひどくくさいのだ。
上背がありよく男に間違えられることがあっても、ロワジィは女だ。みだしなみには気を払っているし、編みあげた髪へ花を挿すこともある。ほんとうに女か?だいぶでかいぜ、体の大きさに向けられる視線にはさすがに慣れたが、汚れものを見る目をむけられるのは正直たいそう不愉快だった。
「……でも、まあ、」
しようがないか。
中途であきらめた。男はたしかにくさい。におうものは誰だっていやだ。
おとなしく後ろについてくる男を肩越しにうかがう。
置かれていた斡旋所で男がまともに世話をされているようには思えなかった。簡易テントの店じまいをしたあと、店主が男を連れて帰り、寝床を用意したかもあやしいものだ。さすがに飯は食わせていたと思うが、そのまま同じ場所に朝まで転がしておいたのではないか。どうせいなくなったところでたいして懐は痛まない。男のあの扱われ方ではそのあたりが妥当だ。逆に厄介払いができたと店主は喜びそうだと思った。
ロワジィの口から嘆息がもれた。男の身上に同情したと言うよりは、そんな面倒ごとをわざわざ買ってでた現況にたいしてだ。
……ほんとうだったら、いまごろ。現実との落差にがっくりする。
店にいた少女らはどれも可愛らしかった。十を過ぎたかどうかの彼女らと自分は、親子ほどに年は離れていたが、それでも女同士、慣れ親しめば会話も弾んだろう。お互いに似合う服を見てまわったり、飾りものの屋台を冷やかしたりすることもできた。どの子を選んでもロワジィの生活は華のあるものになったにちがいない。場のいきおいとは言え、すすんで貧乏くじをひいたおのれがうらめしかった。
いきおいだった。あの、ひとまじろぎのあいだ、男がたいそうやさしい顔をしたから。
でもやっぱり間違いだったかも。
こころなし肩を落として裏手にまわる。裏手にまわると共同の水場がある。手漕ぎのポンプとその横にちいさな洗い場がついていた。ほかに人の姿は見えない。男を洗うには好都合だ。
好都合、そこまで思ったロワジィの後ろから、ごく、と音がした。なんの音かと振り向きかけて、
「……ああ、ごめん、そうだよね、……、そうだよねェ……、」
すっと心底が冷える思いだった。あたしはなにを見ていたんだろう。悔やむ。
男が手漕ぎのポンプを凝視していることに気がついたからだ。
「気付かなくて悪かったね。いいよ、飲んでいいよ、好きなだけ飲んでいいんだよ、」
言うと男がポンプに飛びついた。片手でハンドルを漕ぎ、もう片手に紐でくくられたブリキのコップを持って水を注ごうとする、だが焦れるあまり手がふるえてうまくコップが持てない。取り落とし、拾いあげてまた取り落とし、しまいにもどかしそうに呻くと水流に直接口をつけてがつがつと飲みはじめた。飲むと言うよりは喰らう動きだった。よほど渇えていたのだ。
秋口とはいえ、今日は暑かった。夏日といっていい暑気に、ロワジィも辟易した。その炎天下に男は放り出されていたことを思い出した。
こまめに水を与えてもらえるような場所ではなかった。テント下で酒を煽っていた店主を思い出し、そうしてまた市場から戻る道中男の風体ばかり気になったおのれをかえりみる。恥じた。これじゃあたしもあいつと変わりないじゃあないか。苦いこころもちになった。
たぶん男は相当にぎりぎりだったのだ。
「……悪かったね、」
ロワジィはまたつぶやき、そうしてすぐ戻るから、ちょっと待ってな、言いおいて男の返事は聞かずに小走りに通りへ出る。ここは木賃宿が並んで入る通りだったから、その泊り客を目当てに露店がいくつか出ていたはずだ。左右に首をめぐらして、すこしはなれた道端に彼女は食い物屋の看板を見つけた。
「ちょっと、」
店の人間を呼びとめ、ロワジィは銀貨を数枚差しだした。
「なんでもいい、できるだけ腹の足しになるものを、これで買えるだけ頂戴、」
「持てるかね、」
差しだされた銀貨に店の親父は目をむいた。金額に見合うにゃ、だいぶの量になるよ、言う相手に平気。かえす。
「持てる、釣りはいい、はやく、」
言って相手が丁寧に紙に包むのを待ち、受け取るとまた取って返す。両手に下げて走りながら、彼女は自身の慌てぶりにふとおかしくなった。なにをあたしはやっているんだろう。大きな荷物をを引き取って、飯を食わせて世話をして。
――らしくないね。そうも思う。
裏手にまわると、男はまだ水を飲んでいた。先より落ち着いたのだろう、だいぶんゆっくりと満たされるような飲み方になっていた。水場の砂利を踏んだロワジィに気付いて、男は飲み口から顔を上げる。迷わずに黒い目が彼女を見止めた。
そこではじめて目があった。
男の目に見覚えがあると思う。むかし彼女がよく見かけた目だ。
戸数が二十に満たない集落でロワジィは生まれた。主な収入は炭焼きの、行商もおとずれない雪深い小さな村だった。子どものころから大柄で、すこし年かさの少年たちと小競り合いになっても対等に渡りあって、土埃だらけになって帰ると親に叱られた。長じて彼女は男に雑じり、山へ分け入って鳥や獣を狩るようになった。
その獣たちに似ていると思った。
山の中で遭った彼らは、いちように彼女をそうした目で見た。混じり気のない黒。深いふちでたゆとう色。男もその目をしていた。知恵の遅れたもののする茫洋としたそれではない、真正直な目だった。
頭が足りないだとか言っていたな。ロワジィは思う。ほんとうにそうかしら。
紙包みを男へぐいと差し出して、彼女はただ、食べなと言った。
「お互いいろいろあるけど、まずは腹ごしらえ。話はそれからしよう」
男が水で濡れた口をぬぐう。それからロワジィが差しだした紙包みへ腕を伸ばす。大きな手だなと思った。彼女も決して小さいわけではないのにさらに大きい手だった。
男は受け取り、あぶった肉や野菜をパンではさんだものへ口をつける。そうして小さく有難う、と言った。
「それで、いくつかたしかめておきたいことがあるんだけど、」
渇きが癒え腹も満たして、やっとひとごこちついたふうの男のうしろにまわり、力をこめてその背をこすりあげながらロワジィは言った。洗ってやっているのだった。どれだけ行水していなかったのか、こするだけ垢がぼろぼろと浮いた。力まかせにこすっても、男はとくに痛いともやめろとも言わなかったので、ひと皮むくぐらいの気持ちで彼女は遠慮なくがしがしとやった。粉石鹼をふるってこする。手拭いではたいした力は入らない。なまぬるくてもどかしい。
ふと見やると、洗い場の隅にたわしがころがっているのが目に入る。あれでこすってしまおうか。一瞬真剣にロワジィは悩んだ。
だがあれはおそらく鍋の底の焦げをとるたわしだ。男の汚れを根こそぎこすり落としてくれそうだったが、それ以上の効果も発揮しそうだ。たしかにロワジィはひと皮むく意気込みで男を洗ってやっていたが、ひと皮どころかふた皮くらいはむける気がした。いくらなんでも痛いかもしれない。
わりとまじめに迷って、ロワジィは結局やめておくことにした。赤むけてはかわいそうだ。
「あんた、耳は聞こえるんだね?」
声に出さない不穏な葛藤は伏せておくことにする。知らぬが仏。
男はうなずいた。
「そう。それはよかった。あたしはロワジィというの。あんたの雇い主だ。それもわかるね?」
また首肯。そう。
背中だけ洗ってやるつもりが興にのり、彼女はつづけて男の頭と手足もこすってやった。どうせ全身くまなく汚いのだ。それに今後寝起きを共にする以上、ノミやシラミが湧かれても困る。
男の体は大きくて、ひとの体というよりは牛馬を洗ってやっている感覚になった。金をだしてロワジィは男を買ったのだし、それは競りにかけられた家畜と大きな違いはないのかもしれない。
あらためてロワジィは男をまじまじとながめた。発達した肩や腿の筋肉は肉食獣のそれだった。はがねのようだ。きれいだと思う。さすがに股間は手拭いで隠させたが、それでも男は全裸にちかい半裸だ。ほぼ丸裸の男を前にして自分はまるで平気な顔をしている。顔のひとつでも赤らめたほうが、可愛げがあるかもしれないなと、おのれのことながらロワジィは思った。
まあ、未通娘なら。
そうも思う。
たとえば、あの斡旋所にそろえられていた少女どもなら、それも似合ったろう。きゃあ、だとかちいさな悲鳴を上げて掌でまぶたを覆ったかもしれない。
だが自分は今年数えで三十になる。その手の経験はひと通り済ませていた。いまさら初心なまねをしても滑稽なだけだろうと思った。
男をポンプ下にうながし、頭からいきおいよく水をかける。泡が四方に飛んだ。先刻は暑さにうんざりしたが、いまは逆にありがたいと思った。しばれる日に水ではさすがに風邪のひとつもひくだろうと思ったからだ。
「あんたはあたしに雇われた。だからあたしの仕事を手伝ってくれると有難いんだけど、」
仕事。何度もポンプを漕ぎ男の泡を洗いながし、これくらいでいいか、洗うのをやめにする。
それからばたばた垂れる水滴を大判の布でざっとぬぐって、彼女ははさみをとりだした。切るからね、動かないでね。ざんばらに伸びた男の髪を、適当な長さに切りそろえていく。男はおとなしく顔を向け、目を閉じていた。
髪は瞳と同じ黒だった。わりとこわくて、彼女がつまんだ指を放すとぴんとはねる。大ざっぱな自覚のあるロワジィが切ったので、すこし不揃いだが、それでも先よりずっとましだと思った。
こうして髪を切ってやったな。かすかに胸がちりつく。――あの子の髪はやわらかだった。
「あたしの仕事は護衛でね。まァ……、護衛って言っても、そんなたいそうなものじゃないのよ。港で積み荷の番だとか、羊毛をはこぶ手伝いだとか、そんなのばっかり。決まったねぐらはないの。仕事をさがしてあっちにこっちに流れてる……、……、正直、ロクなもんじゃあないわね」
そのロクじゃないあたしに雇われたあんたはご愁傷さまだとは思うけど、言いながら散髪の終わった今度は、ナイフで男の髭を剃りはじめた。男は相変わらずおとなしくされるがままになっている。
あの店先にいたときと同じように、どこか遠くへ気を飛ばしているのではないかとも思ったが、彼女の言葉にうすく目を開けて目をよこしていた。聞いているようだった。
「雇う条件だけど、最初は三月。それで続けられそうなら半年。あんたへの給金の定額はなし。報酬をもらうごとにあんたにもわたす。分け前は十分の一。衣食住の世話は雇い主のあたしがする、」
言いながらロワジィは男を見た。ここまで男がまとってきたボロはもう着れないな。そう思ったからだ。せっかく洗ったのにまた汚しては元も子もない。男を宿で待たせておいて、衣服やら身の回りの日用品を一式買いにいかなければいけないなと思う。この大きさなら、毛布も二枚はいりそうだ。ずいぶん腹が減っていただろうとは言え、先ごろの食べっぷりも豪快だった。ちょっと痛いな。ちらと思った。当初の予定よりもだいぶん出費がかさみそうだった。
「それと、こんな仕事だし、あたしもいちいちうるさいことは言わないつもりだけど、あんたが……、たとえば民間の人間を巻きこんで大暴れするとかね、常識以上に周りに迷惑をかけたりした場合、そのとき受けていた仕事が終わり次第あんたを解雇する、」
男の本性を彼女はまだ知らない。店の主は見た目のわりにはおとなしいと評したが、あの捨て置きぶりでは売り文句をまるごと信用するのもどうかとも思う。あれはよほどいらなかったのだ。
「えぇと……、あとなにかあったかしら、」
上を見上げてロワジィは思案した。思案しながらさあ、できた。言って男の顔を固くしぼった手拭いでぬぐう。
「おや、男前」
目を開けた男の顔を見て、思わず言葉が口をついた。体を洗ってやり髪を切りそろえて髭をあたると、見ちがえるようだった。いかついことに変わりはないが精悍、といってやってもいい面構えだと思った。
どうもうれしい気分になった。腕まくりをして頑張ったかいがあった。達成感がある。ひと仕事終えると気持ちがいい。
「……そういえば、まだあんたの名前を聞いていなかったね、」
ロワジィはふと気がついた。
市場よりここまで連れてやってきて、男の声をほとんど聞いていない。しゃべっていたのは主に彼女で、男はただ頷いていただけだった。紙袋を渡したときに礼を発したのだから、声がでないわけではないと思うが、
「なまえ、」
言われて男は表情をうごかした。困った顔だった。もしかして、自分の名前がわからないのかな。目をしばたたく彼女の前で、男は眉間に皺をよせ、首をひねり、口を何度か開いては閉じて、それから、
「ギィ」
喉から押し出すように、おのれの名を発する。
「ギィ。……いい名前じゃあないか。よろしくね、ギィ」
言って差しだしたロワジィの掌を、不思議なものを見るようにギィはながめた。
「……どうしたの、」
「これは、」
「ああ、」
立つことをうながされているのかと男は問うたのだろう。それにロワジィがこたえるより先に男は立ちあがる。そこまではよかった。
ただ、立ちあがるはずみに腰の手拭いもおちた。
町中の水場で男が全裸で仁王立ちというのもどうかとロワジィは思う。裸を見て恥じらわないおのれもたいがいだが、隠そうともしない男もいい度胸をしていると思った。
そうしておのれは女で、並び立つ男はひどくでかい部類だ。
「えぇと、」
どうやら男は相当に世知にうといようだった。握手というものさえ知らないようだった。いまのは握手というもので、ひととひとが挨拶するときにするのだと教えるべきかとロワジィは悩んだ。それとも町中で裸はよくないと教えるのが先だろうか。
とにかく脇にほうった大判の布を渡すのが先決かもしれない。
彼女が悩んでいるあいまに、折り悪く水場へやってきたものがあった。水場に立つロワジィとギィを目にして、ひ、と怖気づいた声をあげ、きびすをかえす。襲われているのだと思ったようだ。このまま大通りに出て警備の人間でも呼ばれると、またいろいろとややこしいことになる。
厄介ごとはごめんだ。
慌ててちがうの、待ってちがうのと声をあげてその背を追いながら、ああやはりあのとき男をえらぶべきではなかったかなと、彼女はわりと後悔した。
山にそだてられたのだと男は言った。
宿の一室である。
あのあとひとしきり騒動になった。いちばん避けたかった警備まで結局駆けつけたのだ。間が悪かったことに巡回の時間だったらしい。
襲われている、痴漢に女が襲われているとおびえた相手と警備の人間、それになんだどうしたとあつまった野次馬どもにことの次第をてみじかに説明し、釈明し、さわぎを起こしたことを謝った。謝りながら、日頃男に間違えられることが多いと言うのに、こういうときだけ女と認識されるというのも腹立たしかった。どうしていま男と思われないのよ。四半時のちようやくロワジィは解放された。ここ最近でいちばん無意味な時間だったと思う。
疲れた。
男が言いつかったとおり水場で待っていたことだけが、救いだと思った。
裏手の水場にもどった彼女がいっとうはじめにやったことは、無言で男の腕をつかみ、そのまま宿の部屋に連れ込んだことだ。それから差し当たっての男の肌着と上着を買いに行った。この際意匠はどうでもいいと思った。かざり紐がついているだとか襟があるだとかどうでもいい。色が明るいとか暗いとかほんとうにどうでもいい。着られればいい。裸でないならもうなんだっていい。
適当に見繕って宿にもどる途中、芋を焼いて売っていたのでそれも買った。夕飯を食べにでる気力はあまり残っていない。簡単に済ませてしまおうと思った。
部屋に入ると男が窓から外をながめていた。ああまた空を見ているな、そう思った。……このひと、いったいどこに行きたいのかしら。
宿は相部屋で、雑魚寝が基本だ。ただこの時間まだほかの泊り客の姿はなく、部屋はロワジィとギィの二人だけだった。それも幸いだと思う。待たせているあいだ応急として敷布を男にかぶせておいたとはいえ、縦にも横にも幅のある半分はだかの大男が部屋の隅のほうにすわっていると言うのは、考えるとこわい。腕におぼえがあるロワジィでもこわい。扉を開けた瞬間速攻で閉める自信がある。
騒ぎはもう御免だ。
服を身に着けてだいぶんまともになったギィへ、食べる?買ってきた芋を手渡した。水場で二、三人前食べていたので空いていないかとも思ったが、男はわずかに頷いて受けとる。
やはりよく食う。
宿の部屋に家具はない。寝台もない。泊り客は基本的に床にごろ寝で、自前の寝具を用いる。それでも雨風をしのげ、たかる小蝿や蚊に悩まされずにひと晩寝られるというのは、それだけで相当貴重なものだった。
そのがらんと殺風景な部屋で、黙りこくった大きな男と大きな女が、差しむかいで芋をもそもそと食べている。どうかと思った。かといって部屋にふたりしかいない状況で、互いにそっぽを向いて食べると言うのもおかしなものだ。
「話したくなければ話さなくてもいいんだけど、」
どのみち寝るにはまだ早い時間で、手持ち無沙汰なのだ。
「あんた、どうしてあの店まで流れたの」
聞かれてむ、と男がちいさく唸る。食べる手が止まって名前を聞いたときと同じような、困った顔になった。しばらく考えるそぶりを見せたので、ロワジィは黙ってながめて待つ。
店主は男を言葉足らずと言った。たしかに流暢に話すことは不得意なようだ。
だが言葉なめらかにやりとりするということと、話の意図を汲むということはまるで別ものである。そうしてこちらの言っていることを理解できるのであれば、あとは些少なことだと彼女は思っている。口が軽いだけの男よりも、よほどましな気もした。
「賭けを」
した。考えていた男が言った。
「は?」
……博打?まったく予想していなかった答えだったので、思わず素の声がでる。
「博打?あんたが?」
悪いと思いながら、思わず男を上から下までじろじろと見てしまった。無理だ。どうみても無理だ。駆け引きの才があるようには思えない。
「いいところに、」
連れていってやる、そう言われたのだと男は言った。……なァあんた、ここいらじゃあ見ない顔だな。……そうか、山から下りてきたのか。じゃあ、はじめてのことばっかりでいろいろ参るだろう?俺か?……俺はここいら詳しいからな。案内してやるよ。いいよいいよ、気にするなって。困っているやつを見ると放っとけない性分なンだよ。お互いさまっていうだろ。……そうだ、いいところに連れていってやろう。すごいぜ、楽して金もうけができるところなンだ、いや大丈夫、俺がやりかたを教えてやる、金はあるンだろ?……そう、それだけあれば十分だ……、……。
「あー、」
嘆息がでた。がっつり引っかかったのだろう。光景が見える気がして、ロワジィは頭をかかえる。
言葉たくみに賭博場に連れていかれ、有り金を巻き上げられ、身ぐるみはがされて、どころか残った体まで売り飛ばされた。手のひらを反してからはあっという間だったにちがいない。右も左もわからない田舎の人間が、よろしくない筋の人間にカモにされる。よく聞くはなしだ。目の前の男は、カモというよりはクマ寄りだとは思うが。
「山から下りたっていま言ったね、」
たいへん気の毒な人間を見る目になってロワジィはたずねる。どうして村から町へきたの?
「村、ちがう、」
男はかぶりをふった。言葉どおり山なのだと言う。
「山っていうのは……、」
「山、」
ところどころ呻吟しつつ吶吶と男は語った。
父母の顔をしらないのだと男は言った。ものごころついたときにはすでに名前も知らない老人と暮らしていたのだった。
老人は樵夫だった。ふたりで山小屋に寝起きしていた。彼がどうしてそこにいて、どうして樵を営んでいたのかは判らない。彼はひどく寡黙で偏屈で多くを語ることを好まなかったからだ。
父母の顔どころかおのれの生まれも判らない。だが聞くこともなかった、そう男は言った。男にとってはそれが当たり前だったのだから、疑問に思うこともなかった。
棄てられていたのかもしれない。もらわれたのかもしれない。あるいはさらわれたのかもしれない。
老人が男を邪険にあつかうことはなかったが、なにかを教えることもない。だったから、男は見様見真似ですべてを習った。食事の支度、破れたものの繕いかた、罠を作ることまたそれの仕掛けかた、しとめた獲物をさばき皮をなめすやりかた、木の倒しかた、枝を払い材木を組んで木馬を引きふもとまで下ろすその方法。
見様見真似で覚える、というくだりは聞いているロワジィにもよく判る。技術と習練が求められる仕事というものは、これはもうどうしたって言葉で説明できるものではない。説明したところで、相手にうまく伝わらない。夫夫の感覚でしかないからだ。
体得するしかない。
「それであんたも樵になったの?」
「なった」
一日の動きを老人はほとんど同じ動作でくり返す、くり返すうちに陽が落ちまた陽が昇る、昨日が今日になり、今日が明日になる。いつのまにか季節が移りかわっていく。彼は男が彼の真似をしていることに気付いてもなにも言わなかった。
老人の傍で男は見て育ち、やがて彼と同じことをして過ごすようになった。
男は樵夫になった。
いままで一人で行っていたことを、一本にふたりでかかるようになったわけだから、仕事としてはだいぶんはかどるようになったと思うのだが、助かるだとか有難いだとかの言葉を男は彼から聞いたことはない。さかさまに邪魔だとも言われなかったので、それでよかったのだろう。
日ごとくり返される重労働に成長期だった男の肩は盛り上がり節々はくろがねのようにこわく引き締まった。日に焼け膚はいぶした樹皮の色になり始めは揺らすこともできなかった大木を伐りたおし木馬を組んで、ふもとまで下ろすのも男の役目になった。
男はそうして十数年を過ごした。
老人が死んだ。
風邪から寝込みこじらせて死ぬ際になっても、老人はやはりなにも語らなかった。「老人」と男は認識していたが、彼がいくつであったのかすら知らないのだ。深く皺がきざまれ日焼けしていたからたいそう老けて見えたが、男と過ごした年月を鑑みると意外に若かったのかもしれない。判らない。一言、病床から日用道具の置いてある棚の上段を指さして、俺が死んだらその箱を開けろと言った。彼が遺した言葉はそれだけだ。
あっさりしたものだった。
老人が逝った晩、男は言葉どおり棚にあった箱を開けた。中には紐でくくった紙幣が入っていた。年に一度、行商に訪れるものがいるだけのほぼ金を必要としない質素な生活の中で、数十年こつこつと樵をしながら老人が貯めた金であったのだろう。
ここを出ろ。
そう言われたように思った。
明くる朝、遺体を荼毘に付し男は山を下りた。
「……で、下りた途端その有り金全部巻き上げられたってワケ?」
「そうなる」
ロワジィがたずねると男はうなずいた。
「なんていうかもう……、」
ご愁傷さまとしか言いようがないわねェ。いたましいというよりは災難に思えてきた。かける言葉が見当たらなくて、彼女は口角を下げる。男が存外気にしていないので余計あつかいに困るのだ。
だが、どういう訳で男が言葉足らずなのかはあらかた判った。育った環境が極度に特殊なのである。言葉によるやりとりをほとんど行なわず成長すれば、それはどうしたって会話に不自由な人間ができあがるだろう。
「まぁこの際どうでも構わないけどねー……、」
彼女は男を買い取った。この半日のうちに、やっぱりやめておけばよかったと後悔したきらいが複数回ないわけでもないが、いまさらの話だ。
そうしてなにとはなしに頬杖ついてながめていたロワジィに、
「あんたを、」
なんて呼んだらいい。男はそう聞いた。
「ロワジィでいい」
彼女はいらえた。雇用関係にあるとはいえ、そこに力の上下はないと思っている。そのかるくひらひらと振った彼女の手を、不意に掴んで男はおのれに引き寄せた。引き寄せ、胸元にそっと押し当てる。予期しない動きだったのでロワジィは男のがわへ崩れるかたちになり、どうした意図か読めずにぎょっとなった。
「ロワジィ」
おまけに顔を上げた拍子にえらく真摯な目で見つめられた。山の獣。距離が近かったので思わずロワジィの腰がひける。ひけながらそのくせ、ああいまはじめて名前を呼ばれただとか、どうでもいいことを思った。全身から発するような低いうなりを含んだ男の声。切り通しを抜けるゆるゆるとした風の音。悪くない、と思う。
「俺はあんたに救われた。あんたにかならず恩返しする。心臓に誓う」
ちょっとこの目はやめてほしい。そう思った。それからおのれの人生でこんな場面があるとは思いもしなかったとロワジィは顔をしかめて考えた。押し当てられた男の胸板から鼓動と熱が伝わってそれが自分にも感染るような気がする。
男はひどくまじめに約束している。だから茶化すのは間違っている。それはロワジィにも判った。
でもこういうときぜんたいどう返したらいい?迷った。ああそう勝手にしなと言ったらやっぱり失礼だろうか。このひと失礼だとか思うようなひとにも思えないけど。だったらありがとうその気持ちはとてもうれしいとでも返せばいいのか、でもそんなのあたしのガラじゃない。そもそも恩を売ったおぼえはないけれど、まあこのひとにしてみたらあそこは厭な場所だったのだろうしそこは揚げ足を取るところじゃない気がする。
内心へどもどしている彼女に気付いているのかいないのか、男はまっすぐ彼女を見つめたままで、おまけにすこしかすれた声でロワジィともう一度名を呼ぶのだ。
「あ、」
うまい言葉がなにも思いつかないままとにかく黙ったままじゃどうしたっていけないと口を開きかけたロワジィの耳に、ぎいと部屋へ続く階段のきしむ音がした。
はじかれるように飛び退いた。
一拍後に無造作に開け放たれた部屋の扉、どやどやと行商人らしい団体がなだれ込んで、おや先客がいらっしゃった、まあえらく美人な姐さんじゃないか、お互いひと晩の間柄ですがちょいと失礼しますよ、そんなことを口にしながら思い思いに腰をおろし荷物をほどいてくつろぎはじめる。こちらこそどうも、あいまいに愛想笑いを返し、それからよかった、と今更どきどきする胸もとを押さえて、ロワジィはギィをちらと見る。
男は数人に押しだされるかたちで部屋のきわに移動して、仕方なしに壁にもたれ、外をながめることにしたようだ。またたきをくり返すばかりで他は動かない。置き物みたいだなと思った。
よかった。もう一度反芻して、それが行商人どもが扉を開ける前に距離をとれたことに対してのよかったなのか、それともつかのま流れた微妙な空気が瞬時にこわれたことに対してのよかったなのか、おのれでも判らなくなって、ロワジィはつかまれていた掌を開いてみる。心臓に誓う、あんな生真面目な誓い、やっぱり今までの三十近い人生の中でも言われたことがない。あたしはどうこたえるべきだったのかしら。
相部屋にひびく他の人間の声をぼんやりと聞き流しながら、ロワジィは考えた。
頬がやけに熱かった。