おおおィとまれえェ。
胴間声が山中にひびいて馬はおどろき足を止めた。はずみで峠の谷側へ瞬間かたむいた荷駄の車を、ななめ後ろについていたギィが渾身の力を込めぐいと押しもどす。車は右に左にぐらぐらと揺れながらそれでもどうにか安定を保って制止した。
ほうと心配気に荷車のてっぺんを見上げていた数人の口から息がもれる。よかった、今回も、なんとか。
ひどくおだやかでない思いが、脳裏をよぎったにちがいないのだ。
今回「も」。
あとすこしの角度大きくかたむいたら、荷駄はこのまま谷底へころがるか峠道を滑落する、そんな行程を朝から何度となくくりかえし、いい加減そこにいた人間すべてがうんざりしていた。肝が冷えるというよりはべっとりと心の臓にへばりつくタールに似た恐怖だ。厭な思いというものはかさねてもけっして慣れない。
馬の疲労も濃かった。荷がかちすぎるのは誰の目から見ても明らかだった。
つづけては無理だ。すこし休もう。言ったまとめ役にそれぞれが頷き、立ったままその場で水を飲んだり軽食を口にしたりしはじめる。隊列の人数は九人で、その中にロワジィとギィもいた。
「ギィ。……はいお水」
「――」
荒く息をつき汗をぬぐう男へ、ロワジィは水を差しだしたがいらえはない。
「ギィ、」
もう一度呼んでやると、そこでようやく気付いたようで、は、とちいさく息を吸い、男は彼女が差しだした皮袋を受けとった。受けとり、ひとくち、ふたくち、しめらせる程度口にして、
「もういい」
有難うとつぶやいてこちらへよこす。
「もうすこし飲んだほうがいいわよ」
「いや、」
男は静かにかぶりをふった。もういい。くりかえした男はしたたる汗をまた掌でぬぐう。山中でもこの季節はまだだいぶん暑い。重労働になればなおさらだ。男の体は上気し、長袖がからだに貼りついていた。
「……だいじょうぶ?」
けっして大丈夫ではないとこたえないだろうなと思いながら、ロワジィは皮袋を受けとり代わりに手ぬぐいを差しだす。肯く男に彼女はかさねてごめんねと低くつぶやいた。同行している他のものに聞かれるのはどうかと思ったので、ひどくちいさな声だった。
「こんなこと、いまあたしが言うべきじゃないのは判ってるけど……、ごめん。この仕事受けてはいけなかった」
「――」
なぜ。驚いたふうの男が目をやるのが判る。なぜそう思う。視線で問われてロワジィはうつむく。
「あんたの負担が大きすぎる」
言いながら唇を噛んだ。仕事をえらんだおのれが不甲斐なかった。
宿に泊まったあくる日、ロワジィはギィを伴って集合場所へ向かったのだった。わりと大き目の川港で、船からの荷降ろしに人足がにぎやかしい。邪魔しないように、その合間を縫うようにして指定された倉庫へゆくと、そこにはひとり男が立っていた。年齢不詳。ひょろりと背が高くつかみどころのない顔をしているなと思う。
男は荷主の代理のものだった。前日に仕事を受けた折りに顔を合わせている。
……昨日説明したとおり、この町から山向こうの町へ荷車をひとつ護衛していってほしい。
男は言った。
向かう峠道はこのところよくない輩が出没するとのうわさもあるし、依頼主はかならず荷を相手方へ届けてほしいとのことだから、警護を七人雇っている。その人数で山を越えることになる。まず全員が集まったら中からひとりまとめ役を決め、以降はそのまとめ役の指示に従う。荷主の素性や荷駄の中身については触れないこと。報酬の残りは届け先の相手方が払うこと。荷物をうばおうとするものは何人たりとも近づけさせないこと。仮に近づこうとした輩がいた場合、かならず排除しその生死は問わないこと。つづけてそう言う。
昨日はここまで詳細を知らされていない。ただ荷車を護衛し峠を越えること、それだけだった。
えらくきな臭い話だと思った。
荷物を無事に届けるための用心策というよりは、荷物が襲われることが前提で護衛を雇っているように聞こえたからだ。
ここに承諾のサインを、言われてすぐにロワジィは応じることができなかった。
どう考えても穏便にことがすすむとは思えなかったからだ。
もちろんいざというときに迎撃できるだけの心構えを彼女は持ち合せている。腕も度胸も人並みにはあると思う。だが顔も見せない依頼主のために捨て石になるつもりもない。いまならまだ断ることができた。相手に何の義理もない。受けとった前金をかえし迷惑料を上乗せして、悪いがこの依頼を降りると一言言えばいい。相手はむっとなるだろうし、もしかするとこの町で別の仕事を請け負うことができなくなるかもしれないが、身の安全と天秤にかけてわざわざあぶない橋をわたる莫迦がどこにいる。
……でも。
背後に控えるギィをちらと気配だけで見やって彼女はまだ悩む。
仮にここでこの依頼を断り次の仕事をさがすとして、すぐに条件の良い仕事が見つかるとも限らない。男を買い取り身の回りの物をととのえて懐はだいぶさびしい。もともと手持ちは少ないのだ。渡されている前金と迷惑料を相手に渡せば、手元にほとんど残らなかった。野宿のための用意があるのでもちろん数日は持つだろうが、それはあくまでも臨時のものだ。最悪ふたりで飢えることになる。
迷った末に結局ロワジィは契約書に名前をしるした。護衛完了時の報酬に色が付けられていたことがいちばん大きかった。
その後順次護衛の人間が集まり、そろったところで出発したのだ。
だが、最初からいけなかった。
荷駄の車は一台だったが、覆いをかけられた荷物が高く積み上げられており、縛りもゆるく不安定なことこの上なかった。重心が上に過ぎるのだ。
その車を牽引する馬はたった二頭で、荷物にたいして頭数が足りない。そうしてどちらの馬もだいぶ年を食っていて、力があるようには見えなかった。平坦な道ではなんとか引いていけるだろうが、これで峠をのぼれというのか。不満を述べようにも監督役の代理の男はあくまでも荷主ではなく「代理」でしかない。護衛の条件を変える権限はないのだ。
どうする。寄せ集めの集団おのおので顔を見合わせたが、結局は前金を受け取ってしまったのだから行くしかないとまとめ役が判断し、出発することになった。
悪い予感は当たった。
山道に入ると車はたちまち動かなくなった。登り道を引きあげる力がないばかりか、車をその場に維持する力すら二頭の馬は持ち合せていなかった。つまるところ、ほうっておくとずるずると荷台が後退するのだ。車輪に巻き込まれるおそれがあり、危険極まりない。
仕方なしに雇われたもの同士で交替に馬を助け、車を曳いてゆくことになったが、そこで悶着が起きた。
「俺はやらねェ。あんたらが代わりに曳けばいい」
雇われたなかでもわりと小柄な男がロワジィとギィを指し、彼自身と見比べてそう言った。自分は荷車の警護に雇われたのだ、馬の真似をするために契約したわけじゃない。
「それに、いざというとき車を曳いていたら、迅速な対応ってやつができねェだろう」
彼の言葉に賛同するように、いくつかの目がふたりに注がれた。ギィはもちろん、集まった人間の中ではロワジィも大柄な部類に入る。お前らが曳け、暗に言われて、
「不公平だ」
彼女は反論した。
車を曳いていて奇襲された場合、遅れが生じるのは誰だって同じことだ。大きいも小さいもない。大きいから力がある、力があるから負荷を増やすというのはどうかと思う。同じ仕事を同条件で受けたのだから、自分は力がないから免除しろというのはおかしい。それに、
「このひとは護衛じゃない。今回の仕事を受けていない。あたしが個人的に雇っている従者よ。この荷物の持ち主から前金ももらっていないし、後払いの報酬の分け前もない。依頼からは無関係だわ」
「じゃあなんだね、そいつはこの先数日ただ俺たちのあとをのこのこついてくるだけなのかね。図体がでかくて視界をさえぎって邪魔してる分、俺らより余分に仕事をしてしかるべきじゃねェのかね。見たところちっと残念なおつむ構造のようだが、うすのろでも馬の代わりはできるだろう」
「……口を慎みな」
莫迦にするにもほどがある、低い声になりすごんだロワジィの肩に、それまで黙って眺めていた男の掌がとんと乗った。大きくてあたたかい掌。そうしてかがんで彼女の耳元に顔を寄せる。なによ、振り向いた彼女へだいじょうぶ。男はそう言った。すこしかすれた声だった。
「俺、ロワジィ手伝う」
「でも、」
「だいじょうぶ。できる。手伝う」
顔をしかめたロワジィへ、ゆっくり首を振って男は言った。だいじょうぶ。
なんだなんだ、イイ仲かァ?彼女に囁いたギィを見て、挑発するように小柄な男が下卑た声をあげ、聞いた幾人かがにやにやと笑った。
「……まぁ、お互いに協力し合って、様子を見つつ進むということで、」
ロワジィがその揶揄に口を開く前に、まとめ役がうまい具合に出先をくじく。もめ事を起こすな。同行の監督の男も視線で制す。これ以上ここで食い下がり、一行の足を止めるのもどうかと思われた。しようがなしに彼女は引き下がる。小柄男を一発ぶん殴ってやりたいが、そうするとまた角が立つ。我慢するよりほかない。
引き下がりはしたが業腹だった。
そののちギィは車の後ろに立ち、馬を助けて黙然と荷台を押した。馬が曳く手伝いをするというよりは、男が押してようやく動いている状態だ。
そうして一行の他の誰もその仕事を替わるというものはいなかった。みななるべく楽をしたい。見て見ぬふりを決め込んだ。まとめ役も監督の男もなにも言わない。ギィも替わってくれと言わないので、必然的にひとりで押し続けることになった。これは相当きつい。
何度目かの小休止のあとロワジィは男に替わろうとした。だが男が首を縦に振らないのだ。
「いけない、」
あんたは荷物の警護なのだから。そう言う。
「でも、あんたひとりじゃ無理よ」
「木馬道、もっと難儀、ある。だいじょうぶ」
結局男は日が陰るまでひとりで車を押し続けた。
もとより一日で越えられる峠道ではなく、加えて行程に遅れが出ている。山中泊になった。
いくらか平らで拓けた場所を見つけ、車輪を固定する。それぞれが個々に背負っていた荷物を下ろし、食事の支度をはじめた。火は焚かない。そこまで寒くはないからだ。
であったので、冷えて固くなった携帯食をもそもそと水で流し込み、明日にそなえて休むことになる。会話はほとんど聞こえてこなかった。明日の出発をたしかめる応答が、まとめ役と監督役のあいだでいくらかかわされただけだ。
ふたり分の荷物を下ろし、ロワジィは首をまわす。思い思いにあたりに散らばり、休息にはいった同業ものとは話をする気にはなれなかった。今日一日の彼らの動向をみるに、そこまで親しくしたい相手とは思えない。ざっくりと髪をひとつにまとめて、そうして彼女はギィを見た。誰に指示されたわけでもなく、男は自主的に車を止めたあとの馬の世話をかってでていた。
無理な荷引きにくたびれきった馬のたてがみのあたりを、ぽんぽんと労いをこめて叩いてやる。引き綱をはずし轡をゆるめる。甘えるように鼻を鳴らした二頭へ、食えと飼い葉袋をつけてやる仕草はとても手慣れたものだった。
店にいたときも鳥を見ていた。きっと男は獣のほうがいいのだ。近付きながらロワジィは思う。
もの言わぬ彼らは男を無碍に傷つけない。
「手伝う」
馬の傍らにしゃがみ込み、脚の具合をたしかめる男の横に、ロワジィは屈みこんだ。牛馬の世話には慣れている。男ほど下界と隔絶した暮らしをしていなくても、山里に住んでいる以上はどの家にも牛や馬や鶏がいた。野良仕事に忙しい大人に替わって力のない老人
子供が家畜の世話をするのが当たり前だった。
ほのかに湿った鼻づらのぬくもり。
大人にきつく叱られた夜などは、厩にしのんで彼らのその大きな腹に体をよせて眠りもした。耳をつけると力強い鼓動が聞こえるのも好きだった。
あたたかだったな。
思い出し、では自分もやはり言葉達者な町の人間よりも、口をきかない彼らのほうが「いい」がわか、思ってすこしおかしくなった。店先にほうられた男が妙に気になったのは、そういうことだったのかしら。
似たもの同士。
ふふと鼻から息が漏れた。その音が聞こえたのか、しゃがみ込んで蹄をたしかめていた男がちらとこちらを見やった。見やり、目をもとへもどしてそれがいいとつぶやく。笑った気がした。
「……いいって、なに、」
いぶかしんだロワジィに、
「それがいい」
男はそう言う。
「それってなによ」
「笑ってる、いい」
あんたは。
言葉の意味をはかりかね、眉間に皺をよせたロワジィに、すこし考え間を置いて男は言った。
「あんたは、怒ってる」
「怒ってる、?」
「朝からずっと……、」
「あたしが?」
川港を出たあたりから実際不愉快なこと続きだったことは確かだ。肩をすくめると、
「……そうね、そうかもしれない。悪かったね」
こたえた。そんなにあからさまに出ていたろうか。まあ隠すつもりもなかったけれど。顔を撫ぜみとめたロワジィへ、
「あんたは、やさしい」
脚をしらべる手は止めずに男はそう言った。
「ぅん、……?」
「ずっと怒ってる」
「――」
怒ることとやさしいことの結びつきがよく判らなくて、ロワジィは困惑し口を噤んだ。いらいらしたまま側にいるな。おもしろくない。そんなように不機嫌さをいやがられるかと思ったが男が言っていることはそういうことでもないらしい。男もなにかを考える風に言葉をやめてしまったので、二人で黙々と馬の脚をしらべる作業にもどった。
脚の具合をしらべ終わるとようやく男は息を吐く。馬は山道にくたびれているだけで、とくに問題はなさそうだ。
「お疲れさま」
馬の側を離れ、ふたりで荷物の場所へ移って、腰を下ろす。ロワジィが水と携帯食を差しだすと、有難うと男は手を伸ばした。そのまま手渡そうとして、だが男の手をあげる動きを彼女は見とがめた。伸ばす手前でほんの一瞬ぎこちない間があったように思えたからだ。
「ちょっと」
あらためようと男の腕を彼女はつかむ。見逃すわけにはいかない。つかむと男はぎくりとなった。驚いたのではなく、痛みをこらえる動きだということに彼女は気づいて目をすがめる。
「あんたどっか傷めてるでしょう。どこ。見せなさい」
「……だいじょうぶ、」
「大丈夫じゃない。下履き一枚にひん剥かれたくなかったら自分で見せな」
ロワジィがすごむとすこし考えて、それからしぶしぶ男が片肌脱ぎになった。脱ぐ際の腕をあげる動きが、今度は明らかに痛む部位をかばう動きになっている。かなり痛そうだ。
肩かな。
言うと男がちいさく頷いた。
「右だけ?」
「右だけ、」
「いつから」
「……夕あたり、車、踏み外しそうになったとき」
道中、大きく車輪が道のへりを超えたことがある。それまで荷台を押す動きだった男が咄嗟に引いて、片輪が宙に浮きかけまた道に戻ったのをロワジィは思いだした。あのときから。苦い顔になる。
道に戻してそれから陽が陰るまでさらに半時は歩いたからだ。
男はおのれから不具合を言いださない。遠慮をしているのかもとよりにぶいのか、とにかく大げさにさわぐ性質ではないとこの一両日でロワジィは知っている。どちらかといえば痛みをかくして無理をかさねる方だ。
……なら、もっと早くにあたしが気付いておくべきだった。
男が服を脱ぐ動きに、休む以外にほかにやることもない数人の目が好奇心をこめてちらちら集まった。どうした。まとめ役の男が代表で彼女とギィに近付いてくる。
肩を痛めたようだというと、それは困ったことだと眉を曇らせる。
「どんな様子だ」
「うーん、」
むき出しにされた右の肩に腫れはなかった。掌をあててみたが、熱をもっているわけでもなさそうだ。そこで掌をあてたまま、親指の腹でぐ、ぐ、と彼女は筋をたどる。筋の中に、かるく押しただけで男が体をこわばらせる場所があった。
「このあたりか……、……待ってな、よく効く軟膏あるんだ」
荷物をさぐり、彼女が薬の容器と手巾をとりだすと、男は貸してくれと言う。
「自分でやる」
「自分でやるって、」
「自分で、できる」
「あのね。肩のうしろなんて、普通に塗ろうとしたって筋ちがえそうだってのに、いまあんたが自分で頑張っちゃったら、余計におかしくするでしょうが」
「ひとり、馴れてる。だいじょうぶ」
「……なに言ってんの、」
出そうと思った以上にあきれた声がでた。そうして、
「だいじょ、」
「いいいいいから黙ってな」
強く押して黙らせる。容器のふたを開けると、なお遠慮をみせる男の肩に彼女はさっさと塗りはじめた。すりつぶされた薬草のにおいが掌にあたためられてぷんと香る。それから布をひろげ、そちらにもべったり塗りながら、貼っておくからはがすんじゃないよと告げ、最後に側で様子をうかがうまとめ役に
「明日は他にも曳いてもらうからね」
今度ははっきりと強い口調で言った。
「このひとはあたしが金を払って雇ったんだ。言い方は悪いけど、あたしの所有物ってことでしょう。協力し合えと言われたから今朝方のところは引いたけど、この調子で明日も無理矢理曳かせて使いつぶす気はあたしはないし、させない」
させない、の語尾に力をこめて顎をあげ、小柄な男を睥睨する。ギィが片肌脱いだ時点で下卑た口笛をよこしていた男は、おいおいおいおい、芝居がかって大げさに両手をひろげ立ちあがった。
「それはなにか?俺が乱暴言ったせいだって、……そう言いたいのか?」
「自覚があるなら結構だね。明日は人一倍頑張ってみせな」
「おいおい、俺は頑張ってる。頑張ってくたびれてんだ。今日だって何度も何度も何度も車が崖下に落ちるところを俺が未然に防いだってのに、……アレか?デカすぎて足もと見えなかったか?」
「そう。あんまりちっちゃくて見えなかった」
「……どの口利いてんだこのアマが」
「そのクソアマのあたしより力がないから荷曳きはご遠慮こうむるって、あんたは自分で言ってんじゃないの」
ロワジィは短気だし気も強い。小柄な男が歯をむきだして喧嘩上等の素振りで近付いてきても、片眉あげて応戦した。むしろ売られた喧嘩は買う方だ。
長じてからの彼女の周りは、基本的に男ばかりだった。
山で一日獣を追うときに女だからと獣が足を緩めてくれるわけでもないし、女だからと同行者が気づかってくれることもない。歯を食いしばり先頭をゆく猟達者のものについていくしかないのだ。遅れをみせれば足手まといと、そのまま山中に置いていかれた。
町に降りて護衛をなりわいにしてからはさらに男の社会に雑じった。荒仕事力仕事をえらぶことがほとんどだったから、まだ一度も同性と同じになったことがない。女とみればすぐにからかいやら下卑た話やらに持っていこうとする。揉まれて彼女は負けない強さを身に着けた。
近付く男に応じて彼女も立ちあがり、身を低く構えた。目分量だが男に負けるとは思わない。だてに鉞をふるってはいないからだ。
待て、まとめ役のかたちばかりの制止が入る。まァでも待たないだろうな。そんな呆れのまじった声だった。
その時ギィが弾かれるようにふり向いた。
それまでぼうと弛緩していたはずの男の顔が、豹変していた。仮面でも挿げ替えた態のまったくたいした変わりぶりだった。
あまりの変化にロワジィも小柄も一瞬たじろぎ、たじろいだ拍子に殺気が薄らぐ。
次の動作でギィは腕を伸ばし、乱暴にロワジィの胸ぐらを掴む。……なに。不意をとられとっさに反応できなかった彼女を勢いのまま地面へ押し倒し、なにか。男は口走った。
「え?」
「なにかくる、」
聞きかえす彼女の隣にギィが低く伏せたのが先か、ばすばすばすと乾いた音をたてて荷車に矢羽が突き立ったのが先か、目に止めた瞬間ロワジィは跳ね起き、
「かまえろッ」
腹の底から咆えていた。
きたか、ロワジィと小柄の競り合いをながめていた他のものどもが、彼女の怒号に即座に立ちあがり武器をかまえる。雇われ護衛を受けるだけあって動きに乱れはなかった。
車を警護するために荷主が雇った警護はロワジィを含めて七人、それにギィと荷主代行の計九人になる。
脇に気配があった。ふと彼女が見おろすと、小柄の彼が獲物らしい短弓を背からはずし、彼女から数歩離れた位置にならんでいた。目をやったロワジィに気付いて彼が頬をゆがめる。笑いには見えなかったが、どうやら彼なりの笑みらしかった。
「こうなっちゃあしかたねェ。一時休止だ。……、……だがな、俺は思いあがった女をそのまま見逃してやるほど心は広くねェぞ。あとで絶対ヒィヒィ泣かしてやる」
同感だね、ロワジィはこたえる。
「なんとかほどよく吼えるってね。昔のひとはよく言ったもんだ。泣くのはあんただろ。そっちこそおぼえときな」
「か、」
かわいくねぇええええ。泣かす。ぜったい泣かす。歯ぎしりした脇の声をロワジィは右から左にながして、ならず者の群れが藪から走り出てきたのを確認する。踏みこむにはまだ距離がある。であったからロワジィはじっと相手を見定めた。
ばらばらだった。統制がとれていない。その場しのぎで集まった集団であることは、先ごろの矢の時点で判っていた。
襲うがわにもセオリーというものがある。奇襲をかけるのに、わざわざ、遠目から威嚇の矢を放ち相手方に襲撃を報せる利点はどこにもない。陣をはり向かい合った戦場とはちがうのだ。ここに敵がいますよいまから攻撃を仕掛けますよどうぞ用心してくださいと教えているようなものだった。
つまりは撃つなと止める指揮役がいないのだ。
あたしなら、ロワジィは思う。あたしなら、射るなら射るで荷物に火をかけるか、馬を狙うけれど。
そこまで考えながら彼女は近付いてきた最初のならず者に数歩大またに踏みこみ距離を縮め、ななめ下にかまえた鉞を斬りあげる勢いを殺さないまま、ぶんと振りまわした。遠慮ないひと振りだった。がつがつと腱だか骨だかあたる鈍い音がして、削がれた肉片が散る。鉞の頭は言ってみれば鉄の塊である。刃は付いているが迎撃の際狙いを定める必要はない。遠心力で勢いづいた頭に当たればそれだけで十分殺傷力があった。
こんな使い方をするなんてね。
興奮に唇をゆがめ、ロワジィは舌なめずりをする。彼女がまだ少女と呼べたむかし、彼女の仕草をきれいだと言った人間がいた。
――きみが鉞をふるうすがたがぼくはとても好きだ。
そんなように言われた気もする。
薪にするだけってきみは言うけど、それはすごいことなんだよ。きみは木目を判っている。節を避けている。当たり前だっていうきみのそれは知識じゃあない。体得した知恵だ。ぼくはそんなふうに、ぼくにできない動作をするきみを尊いものだと思う。
尊いか。あらためて思うとなんて歯の浮くような台詞だったんだろう。笑ってしまう。
……その鉞で今のあたしは、
「――ギィ!」
胸にきざした感傷を振り払うようにロワジィは声を張り上げた。
背後に叫んで男の位置をさぐる。さぐる間にも獲物をふるう手は止めない。まとまりのない集団は、ロワジィの刃のとどく半径を恐れてたちまち尻込みしはじめている。もともと最初の一撃で気圧されている連中だ。
そこにさらに踏み込む。輪が広がる。たたらを踏む群れに横から短弓が撃ちこまれる。小柄のものだ。至近距離からの弓は、人体を簡単に貫通した。肉を削ぐ彼女ですらえぐいなと思うほど容赦がない。
「ギィ」
男からのいらえがない。いぶかしく思い彼女は肩越しに男を見た。ギィ?みたび呼びかけて男はようやくロワジィを見る。自失していたようだった。大柄な体のわりに細やかな動きをしていた男にしてはあからさまにたどたどしい不自然な反応だ。
「あんたは馬を見てて」
そう告げる。男は肩を痛めているし、そもそも丸腰だ。なにも持たせなかったのはよくなかったなと今になって彼女は思う。
市場で男の身支度をそろえた。当面必要な生活品を用意するだけでかなりの出費になったので、男の護身用の武器は後回しになったことがひとつ、知り合ってすぐの自分より大きな相手に、刃物を持たせることをためらったことがひとつ。
男は彼女よりも頭ひとつ大きい。体格はそのまま力の優劣につながる。そうしてどれほどロワジィが備えているといっても、ギィは男でロワジィは女だ。牡が本気で押さえ込もうとすれば牝は抗うすべがない。生きものとしての筋肉や骨格の差にはかなわない。地力が違うのだ。
それを彼女は知っていた。
……だけど棒ぐらい持たせたらよかったかな。
そうも思う。
買った店で店主が似たようなことを言っていたな。棍棒を持たせて側に置いておけば、怖がって誰も近付いてこない、だったかしら。……まぁ、でも、駄目かな。駄目だわね。
ロワジィは息を吐いた。たちこめはじめる鉄錆びのにおいに噎せる自身を落ち着かせるためか、それとも落胆のためだったのか、彼女にもよく判らない。ただなんとはなしにああやっぱりね、そんな思いがよぎったのは確かだ。
世の中そうそううまい具合にはいかない。
男は怯えていた。
おのれの恐怖が馬に伝染して狂乱になるのを避けるためか、悲鳴をあげたり逃げ出すようなことはなかったが、それでもならず者とやり合いながら目をやるロワジィにもはっきり判るほど震えて馬のそばに立っていた。
「おいおい勘弁してくれ。そのナリでビビってんのかァ?」
小柄男の揶揄が入った。揚げ足をとらずにはいられぬ性分らしい。
「仕方ないでしょ、」
目の前の相手に鉞を叩き下ろしてしとめると、血のりを振り払う勢いでロワジィはギィの前にまわりこみ、獲物をかまえて正面を睨んだ。
「誰にだって得手不得手があるんだから」
大丈夫よ。今日一日何度となく男が彼女にむけた言葉を、同じように口ずさんでみる。大丈夫。こわくなんてないわ。
「目をつぶって耳をふさいでな。すぐに終わる。大丈夫。あんたはあたしが守るから」
その言葉どおり守ってやりたかった相手がいたような気がする。やわらかな髪を持ったうすい肩。すべらかな頬。もみじの手。誰だったろう。
やけくその雄たけびをあげて第二波が藪から飛び出してくる。ああまだいたんだ、すこしの驚きのあとそんなふうに思った。峠道に伏して通りがかる隊商の荷物を狙う野盗のたぐいにしては人数が多い。
いや多すぎる、向こうのほうで小柄男も嘆いているのが聞こえた。嘆いてみせるだけまだ余裕があるのだろう。救いは連中が指揮もなくてんでばらばらに動いていることと、護衛どもの手慣れた応対にこんなはずではと腰が引けていることだ。
だが何かの拍子に優劣は変わることもある。あたりを見回してロワジィは思った。
襲撃者どもが自分たちの数の優位に気付く前に、彼らの動揺を利用して短期で決着をつけてしまう必要がある。
ふ、と彼女は腰を低くし身構え、それから全身ばねのように弾けて第二波の一番群れているところに飛び込んだ。十二、もしくは十三。先の一波と合わせて総勢二十越え。大柄な彼女が鉞をふるい血風をたてると、それだけで敵の注目を浴びる。気を引き寄せその隙に他の人間がはぐれた獲物をしとめていけるように図ったのだ。
荷を襲うものの生死は問わない、そんなように荷主代理の男は言った。生きたままとらえ口を割らせる必要のないことは相当有難い。そうして死も問われないのだから、襲ってきた彼らをきっちり絶命させる必要もないのだった。要は戦意を喪失させてしまえばいいのだ。
「う、わわ、わ、」
すこしはなれた場所で声が上がった。見ると小柄が相手に接近を許して斬りつけられたようだ。決定打を避けたはいいが弓の弦が切れている。小柄はそのまま足をもつれさせて尻餅をついた。迫る相手は好機とばかり続けて刀を振り上げ、小柄は咄嗟に頭を覆う。
ちっ。ロワジィの口から舌打ち音が漏れ、漏れたなとおのれで自覚するまえに、手にした鉞を目の前の背中に向かって擲っていた。半ば無意識だった。なげうち、その柄が軽くうなりをあげて回転しながら相手の背に突き立つのを見て、ああ投げたのだなとおくれて思ったほどだ。
徒手になったことに気が付いた。
仕方なしに彼女は腰のうしろの鉈を抜いた。焚きつけにするための小切れをつくるだとか、藪を切りひらくだとか、野営の際に役立つことこの上ない道具だが、武器となるとやや小ぶりで心許無い。だが無いよりはましだ。
ロワジィが鉈をかまえたと同時に笛が響いた。闇に目立つ単調な音だ。その音を聞いて襲撃者たちが刀を下げ、来たときと同じようにばらばらと藪に走り込む。退け、の合図のようだった。
不意にしんと静寂。おのれやその周囲の息を荒げる音は聞こえているというのに、静けさが耳にしみるというのもおかしなものだと彼女は思う。
闇をうかがい、いまの退却が見せかけのものでないことをたしかめると、そこでロワジィは大きく息をついて肩から力を抜いた。緊張がとけて汗がふき出すのを感じる。
それから背に鉞を突き立て絶命したならず者へ近付くと、その肉から刃を抜く。抜きながらいまだ尻餅をついたまま彼女を見上げる小柄男の視線に気づいて、なに、と低く問うた。
「あたしの顔になんかついてる、」
「……いや、……、あんたが俺を助けた、……んだな……、……」
「勘違いしないで頂戴」
渋面をつくってロワジィはかえす。別にあんたが危なかったから助けたんじゃない。
「あたしはあたしの仕事をしただけよ。あの場であんたがやられると、敵がおかしなふうに盛りかえす。せっかくこっちがいい感じで押してるってのに、ひっくり返されたらこまるでしょう。だからやった。それだけだわ」
それに、彼女は続ける。見当違いの礼をのべられるのだけはごめんだと思う。ほんとうに無意識だった。男を助けようとしたわけでなく、ただ体が勝手に動いただけだ。
「それに明日はあんたには率先して車を押してもらうってあたしは決めてるの。ここでくたばられたら困るのよ」
下生えの草をむしり鉞に就いた脂や血をぬぐい、それから砂でごしごしと擦る。切れ味が鈍くなるのをきらうというよりは、単純に付着したままだとそれらのにおいがくさいからだ。
次に水にしめらせた手拭いで顔や髪をぬぐった。衣服や皮鎧に染みた血飛沫は山を下りるまで辛抱するしかない。それでも膚に飛んだ汚れをふき取っただけでだいぶんましなこころもちになった。
ひと通りの身じまいをすませると、ロワジィは立ちあがり砂を払う。そうして馬とともに立ち尽くしたままのギィにゆっくりと近づいた。
男は近付く彼女に気付いているはずだ。だが彼女に背をむけうなだれたまま、こちらを向こうとしない。先からずっとそのままだ。
その大きな背の前に立ってさあどうしたものか、とロワジィは斜め上を見上げる。
馬たちが彼女の接近に鼻を鳴らす。すこし前に男と主に世話をしてやった彼女をおぼえていて甘えているのだ。かしこい子たちだ、そう思った。
「……俺は、」
よしよし、もう大丈夫よ。ちいさく舌を鳴らして返事してやると、それにかぶせるように男が口を開いた。
「俺は、……あんたに、すまない」
「――」
「俺は、」
つっかえつっかえ男は言った。しぼり出すような声だった。俺は恥ずかしい。あんたに迷惑ばかりかけている。あんたに無駄に金を使わせて、なおかつ親身になって世話してくれているのに、俺は世話になるばっかりだ。どうにもこたえるすべがない。そうして今も自分が注意をひきつければあんたは楽ができただろうに、俺は馬を見ているという名目で立っていただけだ。おそろしくてなにもできなかった。俺は、
「あのねぇ」
男の言葉をロワジィは無理にさえぎった。
「あんたも盛大に勘違いはなはだしいわね。勘違いって伝染するのかしら。やめてほしいわ」
突き放す。泣き言を聞いてやる?なぐさめはまっぴらだ。
「昨日、あんたを洗ってるとき、確かにあたしはあたしの仕事を手伝ってほしいって言ったけど、べつに護衛のまねごとをしろだなんて言ってない。あたしはあたしの身の回りの世話をしてくれる人間が欲しくてあんたを雇ったのよ。わかる?洗濯するだとか、繕い物をするだとか、食事の支度をするだとか、そういうことをしてほしいの。それにあんたは今日一日山道の車を押してきた。もう十分役に立っているでしょう。胸を張りなさい」
言いながらだんだん柄にもないことをしているように思えて、ロワジィは気恥ずかしくなり顔を撫ぜた。なぐさめはまっぴらと言いながら結局なぐさめている気もする。突き放すつもりでどうにも捨ておけないのは、男がどこか危なっかしく見えるせいなのかもしれない。
男は山で老人と二人きりだったといった。話を聞いたかぎり、ともにいた老人は、感情をむき出しにする人間のようには思えなかったし、おそらく物心ついてから最近まで、はげしい悪意や喜怒哀楽というものに、まったく触れることもなく男は過ごしてきたにちがいない。免疫がないのだ。
部落を離れて十年経つロワジィですら、ときどき、町の人間の多さと感情の複雑さに辟易する。彼女ですらそうなのだ。男にとっては気ちがいのお祭り騒ぎに見えるだろう。男がひととひととの争いに臆したとしても、これは性ではなく育ちである。しようのないものだ。
……いってみれば箱入りね。
思ってそれからロワジィはおかしくなった。深窓の令嬢というなら、なんてデカくてゴツい令嬢だろう。まるで似合わない。
大きな箱に入ったクマをさらに連想して、彼女は笑いをこらえきれなくなった。しのびもらす。
くつくつ笑いをこらえるロワジィを神妙な顔で見下ろすギィに、彼女はぱん、と手をたたいて言った。はい。手打ち。反省会はこれでおしまい。
「ロワジィ、」
「肩を見せな。さっきの薬の続きをやらせて頂戴」
「……」
先のやり取りを思い出したらしい男は、今度はおとなしく腰を下ろしロワジィに背を向け服を脱いだ。思うところはいろいろあるのだろうが、もう一度脱ぐ、脱がないのやりとりをするのはさすがに無益だと思ったのだろう。
中断された手当の続きを行いながら、まあでもね、と彼女は口を開く。
「そりゃ、あたしだって、もしかしたら雇ったあんたと二馬力になって稼ぎも二倍に、だとか思わないでもなかったのよ。あたしは金がほしいし、ないよりあるに越したことはないからね」
多少の動きでもずれないように、手布をぎちぎちに巻きつけ言った。
「……これでいいかな。今晩様子を見るけど、当分無理しないで。無理してこじらせるのが一番厄介だ」
男が体を縮こまらせ、すまない、と言いかけたところへ上から、
「何度も言わせるな。あんたは役に立ってる。申し訳なく思う必要なんてどこにもない。夕飯食べてさっさと休んじまおう」
たたみかけてそれで終わりにした。
夢を見た。
眠っているロワジィの背中側にほかの誰かの気配がいつのまにかすべり込む。指先がのびて彼女の髪に触れ、くるくるとからめてはほぐしまたからめとり、そうして飽きもせずそのしぐさをくりかえす。
ああ、まただ。
なつかしくて彼女はほほ笑んだ。ほほ笑み、だのに胸が痛い。
夢だった。判っている。
判っているのに、腕を伸ばして触れたかった。背後の気配に振り向き、胸の内に頭を引き寄せてかきいだいてしまいたかった。
だがきっとかすかな気配のそれは、ロワジィがすこしでも身動いた拍子に霧散してしまう。動いてはいけない。彼女が気配に気づいているのだと気がつかれてはいけない。でも。
――……なんてやさしくて残酷な、
ほほ笑んだつもりの頬がこわばった。眦が熱くなる。だが涙は出なかった。
夢だった。知っていた。
闇の中の一瞬、頭が一部だけ目覚め体が眠っているひととき、そうしたうたかたを見るのだ。いやになるほど何度も何度も同じ夢をくり返し、くり返して、そうして覚えた。
まぶたは動くしまたたきもできる、だが目を見開いた一瞬でこのやさしい記憶はどこかに行ってしまう。
いかないで。
こらえていたはずがどうにも我慢できなくなって、彼女の口端からふ、と息を漏れた。
呼気に闇がふるえて、しまったと思ういとまもない。たちまち彼女の周囲が現実に冷えて、ぱちんと気配が失せる。どこかにいってしまった。消えてなくなってしまった。
――ああ。
じんと耳の奥がしびれた。おくれて体は覚めていく。こめかみのあたりが痛い。
大きな声で泣きわめくことができたなら、すこしはましなこころもちになれたのかもしれない。だがとうに涙は出尽くしているのを知っていた。
のろのろと目を開け、まぶたをこすりながらロワジィは起き上がる。
暗かった。荷駄の警護に就いてもう五回の夜になる。暮れる前の空はいまにも降り出しそうな厚く重ぼったい雲におおわれていたことを思い出した。月も星もない山中だ。印になることを恐れて火も焚いていない。
やることもない。不寝番の順は終えている。だのに起き上がり膝を抱えた。眠れぬまでも身を横たえ、体を休めることが一義なことは頭では判っていたが、こんな最悪な気分で横になる気がしなかった。
膝に顔を伏せ、ながく息を吐く。吐きながらふと圧倒的質量のなにかが目の前に近づいていることに気がついた。縦にも横にも幅をとるなにか。あら、と漏らしかけた彼女の横にそれはどかと腰を下ろし、無遠慮に身を寄せる。
そのまま肩を抱かれた。ぐいと引かれたはずみで彼女は男にもたれる体勢になる。
どうかしてる、肩を抱かれながらロワジィは考えた。ほとんどなにも知らない相手にこうして接触を許して、そうしてあたしはそれがあんまりいやじゃない。
男は考える彼女のまぶたの上に掌をあててくる。そうでなくても闇なのに、ぶ厚い掌で覆われては本当に何も見えない。
なに、と問うと泣いているからとかえされた。まぶたをこすっていたのを見られたようだ。ずいぶん夜目が利くらしい。
「泣いてない、」
「そうか」
「泣いて、なぐさめてもらえるような女じゃないもの」
「そうか」
ちいさく抗議すると男はうなずきそれでも掌を外さない。思いのほかそのまぶたにあてた掌が気持ちがよかったので、ロワジィは男にもたれたまま口をつぐんだ。
山中に獣の声もない。ひどく静かだ。
「ギィ、」
「うん……、?」
「なにか話して」
「なにか、」
しばらく二人で黙ったのちに、ロワジィはふと口を開いた。あまりに男が静かだったので、うつらうつらしているかとも思ったが起きていたらしい。急に話を振られて男がとまどい、悩むしぐさがうかがえた。判りやすくておかしい。笑うと男はますます焦ったようだ。
「なにか、というのは、」
「なんでもいい。冒険話をしてって言ってるんじゃないの。山で木を倒した話だとか、スープを焦がした話だとか、なんでも」
「――」
言うと男がすこし考える間をおいて、それから唐突に、
「あんたの、」
言った。
「え?」
「俺はあんたの、話、聞きたい」
「あたしの話……村の?」
かえされて戸惑う。
「それこそ面白い話なんて、まったくないわよ」
「いい」
「まあ、そうね……、そうねぇ……、そうか」
言いながらその「なにも面白味のない」部落の話ですら、男にはないのだということにロワジィは気がついた。男は集団で暮らしたことがない。家族や親や兄弟を知らないのだ。
「そうね……、あたしの育った村は山の中腹にあってね。一年の半分は雪に覆われていた」
男は何も知らない。だから話す気になった。ぽつ、ぽつと言葉を拾うように彼女は話しだす。
「全部の家族あわせても十七……十八戸だったかな、ほんとうにちっちゃな村でね。姓がほとんど同じだったから、みんな下の名前で呼び合ってて……すごく仲が良かった。夫婦喧嘩しても筒抜けでね。翌朝にはみんなしっているような、本当にちいさな村だった」
言いながらなつかしいなあ、ロワジィはふと漏らした。もう十年も帰っていない。
「来てもほとんど商売にならないからって、行商がきてくれないくらい貧しいの。だから、村の大人たちは炭焼きをしたり獣を狩って、年に一度誰かがそれを町へ売りに行った。車に炭と毛皮を積んで、……、戻ってくるときには町のもの……針だとか糸だとか、生活品のほかに、あめ玉だとか砂糖菓子をすこし買ってきてくれてね。大人が子供たちに分けてくれるんだけど、……、ほかに何もない環境でしょう。町のそれは、特別で、食べてしまうのがもったいなくて、湿っ気てべたべたになってしまうまで、ずっと飾ってながめてた」
そうしていい加減だめになってしまうと、すこしずつ口に入れ溶かしてロワジィは食べた。大事に大事に惜しんで食べる彼女に、また買ってきてやるのだから、と笑っていった人間がいる。
「それぞれの戸はだいたいひとまとめにあってね。あたしの家だけ、すこし離れた場所にあった。二十家族ないような村だったから、村の中で婚姻すると血が濃くなってしまうでしょう。だから普通は周りの村から種の男をもらってきて、代わりにうちの村からも種を出す。しきたりっていうの?よくわからないけど、うちの村も、周りの村も、そういうふうになってた。女が家を継いで、男が外からやってきて血を入れる……、だったんだけど、あたしの両親はほかとちょっと違って……ある日父が、母をどこからか連れてきたんだって。あたしもきちんとは知らないの。森で母が迷ってたんだとか、母が町の人間で駆け落ちしたんだとか、あとからほかの大人はいいように言ってた。母が、村の人間とはちがう赤毛だったっていうのも、受け入れにくかった原因なのかもしれない。ほかはみんな黒かったから、」
「……あんたも、」
それまでおとなしく話を聞いていた男が口をはさむ。あんたも赤いな。
「そうね、」
まぶたを塞がれたまま、ロワジィはおのれの髪に触れる。そのまま先ごろ夢で見たように、指先にからめてほどく仕草を真似てみた。
「あたしは母に似たのね。町に降りてからは、そこまでめずらしい色でもないってわかったけど、村では目立つでしょう。これでだいぶ子供のころはからかわれた。火つけほくちだとか、へびいちごだとか言われて、……いやだったなあ。でも言われっぱなしじゃ悔しかったから、片っ端から取っ組み合いの喧嘩して、のしてやったけど」
言うと男がは、と息を吐いた。笑ったようだった。つられてロワジィもちいさく笑う。
「子供とちがって、さすがに大人たちから、あからさまなものはなかったみたいだけど、……、でも、きっとあったんでしょうね。だから、ほかの家からはすこし離れて、家が建ってた。家といっても一間の部屋と家畜が寝る土間があるだけ。ちっちゃな家だったわ」
その小さな家で、けれども彼女が思い出すのは、仲の良い両親の姿なのだ。よそ者扱いされてつらい思いをしたこともあったろうに、記憶の母はいつもやさしく笑っていた。
「あたしが十になる前に、両親は病で倒れて逝ってしまってね、」
言うとロワジィの肩を抱く男の腕にぎゅ、と力がこもるのが伝わる。ありがとう。なぐさめてくれるのね。なんとなしにおかしくなった。
老人と二人の、ほとんど他と断絶した生活だっただろうに、どうした経緯で男はこうした慰めかたを覚えたのだろう。
でも、そんなにショックじゃなかったのよ。続ける。
「いきなりだったし、あっという間のことだったから、実感がなかったっていうか、えー明日からひとりでどうしようっていうほうが大きかった。不思議と悲しいってあまりなかったの。……そりゃ、まったくなかったわけじゃないけど、でも、両親とも仲が良かったし、どちらかが残された姿を見るくらいなら、いっそ同時に逝っちまって、同じ土に埋まって、幸せなんじゃないかと思ったりもした。それから……、あたしはまだ半人前だったから、そのあと数年は、村の人が交互に面倒を見てくれて、」
そこで彼女は口をいったんつぐむ。こんな話でいいの?退屈じゃない?つぶやくとそれでいい、とかえされた。
男がいいのなら、それでいいのだろう。
「あたしは村の子供の中で、頭ひとつ分大きくてね。裁縫や、料理や、赤ん坊のお守りだとか、別に嫌いじゃなかったけど、体を動かすほうが好きだった。だから、山に入る男たちと同じ仕事をした。体格では負けてなかったしね。そうして、大人に混じって、ひと通りの仕事ができるようになったころ、縁談をもちかけられた。お前も村の女なのだから、よそから男をもらって子を作れって言われてね。そうするのが当然だと思ってたから、嫌も応もなかった。どうぞお願いしますって言ったら、次の月に山向こうの村から、男が一人運ばれてきたの」
文字通りロワジィの相手は運ばれてきた。村の入り口の柵あたりに見えたときは、いったい何の荷物がやってきたのだろうと思ったほどだ。
「荷車に乗せられてやってきて、着いた第一声が、これじゃあ花嫁御寮だなあって」
荷台から一人で降りることができなくて、ロワジィは手を貸した。彼は杖を突いていた。足萎えだったのだ。
「そのひとの乗ってきた荷車には、たくさんの筆とか、絵の具の材料とか、絵描きの道具があった。生まれつき足が悪くって、前いた村でも厄介者だったから、絵を描いてたんだよねって言った。町ならともかく、こんな山奥で、見る人もない場所でひたすら絵を描くとか、なんだかずいぶん変わったひとだなと思った。それから、あたしが村の『普通』とはちょっとちがうから、種になりたがる男が、ほかにいなかったんだなとも思った。そのひとはあたしを見るなり、これはすばらしい赤色だ、まるで熟した柿だ、ぼくは数ある色の中でも赤い色がいっとうに好きなんだよって言って、」
そうしてロワジィはその絵描きと暮らすことになった。
もともと村で暮らす分には外貨はほとんど必要なかったし、日々の糧はロワジィが猟をし罠をかけ畑を耕したので、問題はなかった。代わりに絵描きは杖を突きながら食事を用意し、家を整え、彼女の帰りを待った。待つあいだ、彼はキャンバスを広げた。
朝もやに浮かぶ小屋、せまい斜面いっぱいに咲く野の花、若木の緑、雨やどる鹿の親子、おぼろ月夜、そうしたものを描いた。
ロワジィはほかに絵画というものを目にしたことがない。だから絵描きの腕の巧拙はわからない。だが美しい絵だと思った。
同じ風景を見ているのに、どうしてこんな色に絵描きには見えるのか、ロワジィには不思議で仕方がなかった。あたしの目がくすんでいるのかしら。
「理想主義っていうの?争いごとが徹底して嫌いなひとだった。ほんのすこしの言い競りあいでも、嫌がるひとだった。……あたしが負けたくなくて、村の人間と張り合ったりするとね、悲しい顔されて、ぼくはそういうのがとてもいやなんだって真顔で言うの。村の子供に足のことを莫迦にされても、笑ってるだけ。怒りとか、憎しみみたいな他人を攻撃する感情を、どこかに置いてきてしまったようなひとだった」
だからあんな絵が描けたのかもしれない。
えらく情熱的なものはなかったけれど、風変わりだが穏やかな日々の暮らしが心地よかった。両親を失って以来、ひととひととのあたたかみに自分は飢えていたのだということに、絵描きと暮らしてロワジィは初めて気がついた。
「十五で結婚して……しばらく一緒に暮らしたの。そのあとあたしは町に降りた、」
それだけよ、ロワジィは言った。町に降りて雇われ護衛になった。それであたしの話はおしまい。
「……絵描きは、」
しばらく黙して考えるふうだった男が、結局気になったのだろう、うかがう声色でたずねた。
「絵描きはいまも、村にいるのか?」
「ううん」
まぶたを押さえる男の掌をそっと両手をかけて外しながら、ロワジィは首を振る。
「もういないわ。――事故でね。死んでしまった」