まぶたに差し込む日差しがたいそうまぶしくて、目を覚ましたのだ。
目を覚まし、まず文字通り真ん前に、クマのように大きい顔があって、ぱちぱちとロワジィはしばたたく。これは誰だったかしら、と思ったのがほんの一瞬、次いでああそうだギィだったと気づき、それからどうしてこんな近くに寝ているんだろうと思い、そこでぼんやりとしていた思考がふっと覚醒して、男と夜を共にした一連の流れを思い出した。
ああそうか、と思った。あたし、このひとと寝たんだわ。
妙に頭がしんとしていて、事後の朝のけだるさはなかった。あの青い月の朧な色の切れ端はどこにもなかった。いま部屋にあるのはあけすけにすべてを曝そうとする日光だけだ。
あまりにまぶしいのを避けるためか、換気用の小窓には臨時の日よけとして厚手の布がかけられている。男がかけたのだと思う。だがその布と窓枠の隙間をまっすぐに抜けた光があって、それが顔に当たりロワジィは目を覚ましたのだ。
毛布にもぐった記憶はある。あの後すぐに眠ってしまったらしい。
そうか、朝か。
小窓から男へ視線を戻す。間近にある男の目は閉じていた。寝息とともに浅く上下する肩の動きが見える。
男は眠っていた。
あ、ほくろがある。
男が寝ているので、起こさないように息をひそめた。ついでに目の前の顔を彼女はこの際じっくりと眺めてみる。こんなに至近距離で顔を突き合わせることは、それこそ男女が共寝したときか、親子がじゃれ合うときくらいのもので、普段なかなか機会がない。
睫毛は短いのだなと思った。それから産毛は濃いんだなと思った。若いだけあって肌がきれいだな。目じりに小さなほくろがふたつあるんだな。
よくよく見ようと体ごと横へ向けると、額から湿気た手ぬぐいが落ちた。濡らしたものを額に乗せられていたようだ。
そういえば、熱出てたんだっけ。今になって思い出す。
額はまだぼわぼわと重ぼったく、完全に熱は抜けてないようだったが、寝てしまう前の最悪な具合からは相当回復しているように思える。ものすごく深く眠ったとして、たった数時間でこんなに復調するものだろうか。病み上がりのすかすかした、白けた爽快感にちかいけれど。
身動いた際に視界に入った腕を持ち上げた。腕はやたらと重かった。そうして右にも左にも、細かな傷のところまで丁寧に包帯があてられていた。
見えないけれどおそらく背やわき腹のあちこちも、同じような処置がされているにちがいない。
ロワジィの持ち歩いている荷物の中に、応急手当て用の軟膏や手ぬぐいはあっても、ここまできちんとした医療用の包帯はなくて、おや、と思う。
農場の薬箱でも借りたのかしら。
手首に鼻を寄せくんくんとにおうと、ひどく薬臭かった。やはりちがう。手持ちの薬にこのにおいのものはない。
彼女が持ち上げた腕の動きに、む、とうめいて男が顔をしかめて身じろいだ。ああ起こしてしまったな、そう思って彼女がじっと男を見つめていると、だしぬけにかっと瞠目し、男は直近の彼女へ目をやった。
「……え、あれ、……、えっと」
もともとものすごく間近であったので、そのままものすごく間近で凝視され、思わず顎を引いてしまう。
まん丸に見開いた黒目が、朝日に透かされてとんぼ玉のようだと思った。真っ黒なびいどろ。
つい数時間前、体を重ねた相手へ向けるにはあまりにぎらぎらした眼差しに、おはようと今さら言いだすのもはばかられ、ロワジィは口ごもった。
ロワジィと男は彼女の名前を呼んだ。
「あんた、俺、見えるか」
「え、」
「自分が誰、わかるか」
「えーと……、」
「苦しくないか。痛いところ、ないか」
両頬をぶ厚い掌ではさまれ、男にしては捲し立てた口調で言い募られて、あれ、と彼女は気がつく。
男の掌がふるえていた。
「えぇと、あの」
「うん」
「今ってもしかして、……、……次の日……じゃない?」
もしかして自分はいまえらく間の抜けた質問をしているかもしれないと思いながら、彼女はたずねた。
予想通りちがう、とこたえが返ってくる。
「あー……、あたし、寝込んでた?」
「いた」
「ああ、……やっぱり、そう……、……、何日?」
「四日」
「四日……、……、」
そうか、四日も寝込んでいたのか。告げられた言葉を頭の中で繰り返す。
「あんた、あのあとすぐ熱、ひどいこと、なって、」
「……、」
「俺ではだめで、もうなにもできない、なって、」
「……、」
人事不省に陥ったのだと男は言った。
もともとロワジィの手持ちの処置道具は、あくまでも応急のもので、それも刀傷にたいするものが多い。護衛の仕事は対人間であることがほとんどだからだ。けれど今回の相手は野生の動物で、汚れた猪の牙でえぐられた傷へ菌が入りこみ、膿んだ。
もとより不調で落ちていた体力もいけなかった。熱の上がっていたところへ、傷口が化膿し、さらに熱が上がったのだ。
起き上がるどころか呼びかけに応じない彼女を、最初のひと晩は看取ったものの、一向に回復しないどころか状態はぐんぐん悪くなってゆくばかりで、素人目にもこのままではいけないのはわかった。
だが男にはどうすることもできない。
あやぶみ、近隣に医術を使えるものはいないか、と農場の人間にたずねた。するとここからずっと離れた農村に、薬師がひとりいるとこたえが返ってきた。
ギィは薬師を呼びに行った。
薬師は老いた男だった。馬はなく、歩みののろい老人に急いたギィが、老人を負ぶって戻った。
老人は小屋に入り、ぐたりとなったきり動いていないロワジィを見て顔をしかめ、手に触れぬうちからお前さん、とギィに向かっていった。
――処置はするが、正直効くかどうかはわからんね。
――三日だ。三日で持ち直さなけりゃ、お前さん、覚悟をしといたほうがいいよ。
覚悟。なんの覚悟だ。
告げられた言葉の意味が理解できなくて、戸口のあたりで立ち呆けたまま、ギィはくり返す。
理解したくなかった。
たのむ。だいじなひとなんだ。なんとかしてくれ。たのむ。
おろおろと老人を伏し拝み、同じ言葉を何べんも口にした。
老人は頭を下げ続けるギィへため息をつき、やめてくれ、とつぶやいた。
――わしだって頼られている以上、なんとかしてやりたいが。……半分無理だよ。悪くなりすぎている。
「――」
聞いてしばらく、なんとかえしたものか、ロワジィは思い悩んだ。
そうかだいぶ迷惑をかけたなとも思ったけれど、ぶっ倒れたきり鮮明な意識がすっぽり四日分ないわけで、実感が伴わないのも事実だ。
ただ、死にかけたのだなと理解した。
そういえば、誰かに身を起こされ、さあ死にたくないならこれを飲みなさいと、口元に吸い口をあてられた気がする。
――痛みの薄らぐ薬だ。すこしは楽になる。
あてられた吸い口はひんやりと冷たかった。
熱くなりすぎた体にそれはたいそう気持ちがよくて、彼女は一瞬気を戻したのだ。
水差しに手を当て、朦朧としながらも言われた通りおとなしく飲み下す彼女へ、ロワジィ、と苦しいような声で、呼びかけたものがいた気もする。
発声することにいまだに慣れない、語尾のかすれた低い声。
声の方へ顔を向けたような気もするけれど、なにも見えなかった。
そのあとも、傷口へ油紙をあてられる感触や、汗を拭かれ、時にふっと覚醒し、男が傍にいるなと思いながらまたこんこんと眠りへに落ちていく感じ、尿意をもよおし、いやだ寝床で粗相するのだけはごめんだと身もがいて抱えられ、用を足しに行った記憶、ひとつひとつ夢の中のようだった事柄を思い返しながら、彼女は目の前の男を見た。
頬をはさむ男の掌にゆっくりと触れる。無駄に熱かったはずの男は、緊張と不安で血の気を失っている。
もうすこし伸ばして相手の顔に手を当てた。
――なんて顔をしているんだろう。
「……持ち直しちゃった、わね」
どういったものか考えあぐねた末に、口から出たのはそんな言葉だった。
「痛いところはないか」
「……あちこち痛いけど、……、平気そう」
はさんだ掌に頬をすり寄せるようにしてロワジィがこたえると、そうか、うなずいた男の目がだしぬけにゆらゆらと水を湛えた。あ、と思う暇もあらばこそ、ぼた、と大粒の水滴がころがり落ちて唖然とする。
「え、」
ぼたん。ぼた。ぼた。
表面張力を超えてあふれ、毛布にたちまち染みを作ってゆくそれを、はじめ涙だとロワジィは気づけなくて、
「すまない」
ぼんやりしているうちに、肩を震わせ、男は彼女に頭を下げた。
「ちょっと、どうしてあんたが謝るのよ」
頭を下げられた側の彼女が焦ってしまう。
謝るのはこちらの方だ。
「すまない」
「あんたは何も悪くないでしょう。もともと猪退治を引き受けたのはあたしなのよ」
「すまない」
「怪我をしたのだってあたしが下手打ったからで、あんたが気に病む必要は、」
「すまない――……、」
喉奥から押し出すような苦し気な悲鳴。いったい男はどれだけ自分を責めたのだろうと思う。もっと早く処置していれば。もっと早く薬師を呼びに行っていれば。もっと早く変調に気づいていれば。もっと早くあんたと猪のあいだに入っていれば。もっと早く、……、……。
「ああもう、……、泣かないで」
重たくてうまく力の入らない腕を、ようよう持ち上げて彼女は男を引き寄せ胸のうちに抱える。これでは成人男性にたいする扱いというよりは、まるでべそをかく子供に対する身振りだな、と思った。
「ごめんね。心配かけた。ごめんなさい」
食いしばった歯の合間から、嗚咽をもらす男の頭をかき撫でて、この男はつきぬけて混じりけがないのだと思った。
「もう大丈夫よ。泣かないで」
自分はきっとこんなふうには泣けない。強くあれ、泣いてはいけないとおのれを戒めるうちに、いつの間にか泣き方が判らなくなって、いまはもう泣いてもいいと言われたところで戸惑いが先に立ち、べそをかくばかりで涙も出ない。
うらやましいと思った。あんたと一緒にいたいと口に出せる男が、弱みに付け込みたくないとはっきり言える男が、自分の至らなさを責めて泣く男が、
――ああ、困るな。
ロワジィは唐突に自覚する。ひらめきのように一瞬だった。
どうしよう。あたしこのひとのこと好きだ。
こんな場で、相手がむせび泣いている状況で、いきなり自覚するのもどうかと思うのだが、このところ抱いていたもやもやとしたさまざまな思いが、すとんと腑に落ちてしまったのだから、しようがないと思う。
笑ってしまう。
腑に落ちる。よく言ったものだと思った。へその下のあたりに、複雑にこんがらがった焦燥のようなものは一気にほどけてきれいに収まってしまって、もうどうにも言い逃れるすべがない。
きっと端から男に惹かれていたのだ。
あの市場で、やさしい顔をして雀を眺めていた時からずっと。
それから四半時ほど、ロワジィがギィの背を撫ぜていると、次第に泣き声をおさめ、代わりにじっと何かを堪えるようになっていた男が、つと体を起こし彼女から離れ、すまない、とまだ湿り気の残る声で言った。
「うん……、?」
今度はなにを謝るのかと彼女が見上げると、男は薬があった、と鼻をすすりながら言う。
「医者、置いて言った薬がある。今、支度する」
手巾でざっと顔をぬぐい、片鼻をかみ、荷物をさぐって小屋を出ていく。煮炊きのかまどは外にあったので、そのあたりに向かったようだ。
きしむ扉が、最大限気を使ってそっと閉められ、小屋の中に一人になると、ロワジィは深々と息を吐きながら仰向けに寝返りをうつ。
天井板に向かってもう一度、目をつぶり大きく息を吸って吐いて、それから目をひらいて、とりあえずは棚に上げておこう、と心に決めた。
好きだと自覚したまではさておき、だがどう考えても今の場面で甘い空気の流れるような余地はなくて、男が自責している真ん前で、惚れたの腫れたの考えていたとはとても言えない。口にしたら余計に泣かれそうだ。
男ならありえそうなので困る。
いまは体を治そう。
寝床に付したままで男の背を撫でただけなのに、ひどくくたびれた。少し下がっていたようだった熱が、また上がった気がする。早く持ち直さなければいけないなと思う。
あらためておのれの体をたしかめる。
右も左も痛みはするが、腕は普通に持ち上がるようだった。
問題は脇腹や腰骨のあたりだ。
ざっくりと牙が入ったあたりのいくつかがやたらと引き攣れて痛い。腹に力を入れてはいけないと体が警告している。きっとそうなったら涙が出るほど痛いのかな。いやだな。
化膿したと言っていたから、おそらく切開し、糜爛した部分を取り除いて、縫い合わせたのだろうなと思う。それ以上詳しい医術のことはわからないけれど、二、三日で治る傷でないことはたしかだ。
そういえば、この小屋はひと晩の約束で農場主から借りていたのだ。四日も寝込んでいたとなると、そのあたりは一体どうなっているのだろう。気になった。もともと農場で働く小作人どもが、作業の合間に休憩するための小屋だった。ひと晩ならともかく、長く占有してしまっては、彼らにも不都合が出るだろうに、申し訳ない。
そうして気がついた。
寝返りをうった背中の感触が、毛布越しのかたい床ではなくて、がさがさと音のする弾力のあるものだった。わらを敷き詰めた上に大判の布を敷き、そうして寝かされているらしい。男が気を利かせたのだろうか。それとも、薬師の老人が指示したのだろうか。
きちんとした詰め物のある寝床にこの前寝たのはいつだったかとロワジィは考え、先とは別のため息が出た。野宿の際は土に毛皮を敷き、毛布を掛けるだけのものだったし、町にいる間の宿も、野宿に毛の生えた程度のものだった。部屋の態は成していたけれど、相部屋の雑魚寝であったし、寝具は持参のものだ。安いのだから仕方がない。
もちろん相応の金を出せば、個々に仕切りがついているものや、寝台のあるものも選べたけれど、天井と壁があるだけで相当ましなのだから、文句は言えなかった。
――気持ちいい。
そのまま、弾力の手触りを覚えているうちに、うとうとと眠ってしまったようだ。
次にロワジィが目を覚ますと、かたわらに男がいて彼女をのぞき込んでいた。目が合うとあ、とちいさく声が漏れる。起こして薬を飲ませるべきか、そのまま目を覚ますまで寝かせておこうか、あれこれ考えていたのだろうなとわかる顔をしていて、その葛藤がわかりやすく顔に出ているのがおかしい。
「ああ、……、……だいぶ寝てた?」
「いや、」
ほんの少しだ、こたえる男にそれでも涙の痕はもう見受けられなかった。支度ついでに顔も洗ってきたのかもしれない。
「起き上がれるか」
「うーん」
試そうとして、まったく頭が持ち上がらないことに彼女は気がつく。頭、というよりは腹筋の問題だ。もちろん死ぬ気で力をこめればなんとかなるのだろうが、いま力をこめたらいろんな意味で死にそうな気がする。
「……無理そう」
弱って眉尻を下げると、男が背に手を入れ、なるべくゆっくりと起こされた。痛くないか、聞かれて彼女はうなずく。
「……寝たまま飲む、も、いいが、」
そう言う。
「噎せて咳き込む、死ねると思う。たぶん」
男も腹を怪我したことがあったのだろうか。ものすごく実感がこもった声と、すぐ手前で自分が思ったことと被ったのがおかしくて、笑ってしまう。笑うと腹に力が入って、連動して縫合した部分が引き攣り、別に大笑いしたわけでもないのに、結局文字通りロワジィは悶絶した。
ひとしきり脂汗をかいたあとで、ロワジィは背に丸めた毛布や上着をあてがわれ、まず男が差し出した薬を飲みくだし、それが終わると湯気の立つ椀を渡された。うつわの中をのぞき込むと、ぷんと薬味のにおいが混じる。
「いいにおい」
言うと、はちみつとしょうがを溶かしたものだと告げられた。口に含むと、あたたかさとともにじわりと喉と腹に滋味がしみ込んでゆくような感覚がする。
ゆっくりと飲みこんで、ほうと思わずため息が漏れた。しみじみしたこころもちになる。
「おいしい」
つぶやくと男がすこしうれしそうな目をした。
「これ、お医者が作れって言ったの?」
「いや」
とにかく体が弱っている上に数日絶食しているのだ、もし持ち直したらまず固形物はけっして食わすな、胃の腑にいきなり食い物を入れるとそれだけで死ぬことがあるからな、汁物、できればあめ湯だとか、発酵乳の上澄みにしろ。
そう指示され、ギィはおのれが風邪をこじらせたときに、老樵夫が作ってくれたものを思い出したのだと言った。
「これ飲んでれば治るって、そう」
話を聞くかぎり、極端に会話の少ない老人と男の生活であったから、それは男にしてみると、とっておきの特効薬と言えるのかもしれないなと彼女は思った。
汁椀の中身をすべて飲み干すと、男はまたロワジィを寝床に横たえる。
「ねぇ、」
「うん」
「この敷き藁どうしたの?この小屋借りてて大丈夫?」
起きたときから気になっていた問いを口にすると、だいじょうぶ、と男がこたえる。敷き藁は雇い主がロワジィの体を知って、用意してくれたものだ、小屋は怪我が治るまでいてよいそうだ、そう言う。
彼女が寝込んでいる間にいろいろあったらしい。
まず夜が明けて、小作人たちが猪の骸を発見した。そこでまず猪の大きさにひと騒ぎになった。
順序だてて説明できる誰かがいればよかったのだろうけれど、雇われた当のロワジィは前後不覚にぶっ倒れており、男は話がうまくない。
あまりに猪が大きいので、近隣の農場のものまで見物しにやって来たそうだ。
そうして、いくらオスの肉が硬くてくさいとはいえ、この大きさをこのまま腐らせてしまうのはもったいないと誰かが言い出して、ぶどう酒つくりの合間を縫って解体になり、肉は干された。
「どっさり貰った」
言って男が干し肉の入った布袋を見せる。毎日齧ったとして、数か月は買わないで済む量だった。
行商できそう、言うと男が僅かに笑う。
それから雇い主が彼女の容態を知った。雇い主も猪の大きさをわかっていたから、彼女の怪我を知って憂慮し、どうせ酒づくりが終わると農閑期に入り小作人どもには暇を出すのだから、そう言って、彼女が起き上がれるようになるまで小屋の使用を許可した。
怪我人を土間に寝かせるのもよくない。
そうして敷き藁も運び込んでくれた。
男が頭を下げると、これはあれほど巨大な獣退治をしてもらった、まあ特別手当のようなものだよとかえされた。
「……親切に甘えさせてもらってばっかりで、申し訳ないわね」
おのれの体が動かないことが不甲斐ない。動くならまず温情に礼を述べ、酒の仕込みで忙しいのだろうから、せめて労働力なりの形でかえしたいものなのに、言うと男が心得顔でうなずいた。
「俺、行く」
そう言う。
「行くって、」
「仕込み手伝い、行く」
聞けば農場主とすでにそうした話をつけてきたのだと言った。
恩を受けたままでは悪いから何かさせてくれ、男が言うと、主は、別にそんなに義理を感じるほどのことじゃあないんだよ、彼女はそれだけのことをしてくれたのだから、そう言いながらも、
――でもまぁ猫の手も借りたいのも内実なんだ。
そうも言った。
――仕込みの時分はいつもこうしてバタバタしててねえ。とにかく人手はありがたいし、そのうえ、あんた、体も大きいし力もありそうだ。一緒に仕込みの周り仕事を手伝ってくれると助かるんだがね。
――もちろんタダとは言わない。いいや、きちんと対価は払わせてもらうよ。小屋で寝泊まりすることと、手伝いをすることは全く別の話なんだからね。……まァ、もし、それであんたの気が済まないっていうんなら、その手伝いの給料からいくらか泊り賃を差っ引いた額を支払うってことで、どうだね……、……。
「――ごめんね……、」
話を聞きながらますますロワジィは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「なぜ、謝る」
「だって」
本来なら、あたしがやるべきことでしょう、つぶやくと男が困ったように眉根を下げていいや、とこたえた。
苦い声だった。
「あんたが気に病む、ちがう」
「でも、」
「俺があんたに、すまない」
「……、うーん、」
陰鬱な男の表情に、しばらく彼女は考える。何を言っても男は自分を責めるのだろうし、どうせどんなに焦れたところで、いま自分の体は動かないのだ。だったらここはおとなしく男に農場の手伝いに行ってもらおうと思った。借りはあとでかえせばいい。
「じゃあ、……、ごめんじゃなくて、お願いね」
ふたり分。言うと男がうなずいた。
うなずくと出かける素振りを見せる。今行くの、少し驚いてロワジィがたずねるとあんたが起きたから、男はこたえた。
たしかに言われてみれば、目覚めたと言ってもロワジィは動けないのだし、薬も飲んだ。あとはひたすら寝て治すよりほかない。
男が傍にいなくてはならない理由もないのかもしれない。
「でも、あんた、寝てないでしょう」
身づくろいする男を見上げながら言った。
話を聞く分に、男はおそらく寝床の横で、彼女が持ち直すのをまんじりともしないで看取っていたはずで、たしかに先ごろ彼女が目を覚ました時には目の前に伏した形で寝てはいたけれど、あれはきっとこらえにこらえてとうとう意識が途切れた、うたたねとも言えないほどわずかな眠りだったのだろうと思う。
男の頬はすこし見ない間に削げていたし、目の下に隈があり、全身くたびれて見える。傍についていたのなら、食事もろくにとっていないはずだ。
「寝た」
だのに男は首を振ってもう寝た、と固い声でくり返した。それ以上の踏み込みを拒む空気があって、それが彼女の見たことのない態度であったので、何と言ったらいいのかわからなくて口を噤む。
身支度が終わると男がロワジィを見た。
「あんた、置いていく、ひとり、大丈夫か」
「……大丈夫よ」
気遣う声はいつもと同じやさしい調子があって、なんだかちいさく安心して彼女は頬で笑った。
「子供じゃあないんだもの。おとなしく寝てるわ」
「――昼過ぎには戻る」
ためらうように伸ばされた指が、彼女の巻き毛をくるくると絡める。病気の子をしかたなく置いていく母親のようだと思い、それからこんな大きな母親はいないなと続けて思って、頬だけで笑っていたはずが、つい低く声に出しかけて、走った激痛に彼女は顔をしかめた。
たちまち心配そうになる男へ大丈夫、痛みの下から無理に笑ってみせて、
「気をつけて」
彼女は言った。
いくらか悩むそぶりを見せた後、結局男は黙ってうなずき、戸口へ向かう。その背を見送りながら、いきなりまぶたが重くて開けきれなくなって、だから彼女は男が扉を閉めた音までは聞き送ることができなかったし、寝落ちていく彼女を見やる男の暗い瞳を知ることもやはり、できなかった。
(20180223)