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「あーーー、」

生き返る。

しみじみとロワジィからため息が漏れた。全身の力が抜け、湯にあずけた体がゆらゆらと揺れる。そのまま鼻の下まで沈んで、うっとりと目を閉じる。これ以上の極楽はない、本当にそう思った。死んでもいい。今なら死んでもいい。

それから、赤ん坊や幼い子供を湯に浸けると体が緩んであくびを漏らすのに、いつから自分はため息と声が漏れるようになったのだろうとふと思った。おっさんくさい。きっとこれが年を食うということなのだ。

けれども、ちいさいころは長湯をする楽しみがまったく理解できなかった。肩が出ないように湯に浸かってあたたまるということが息苦しくて苦手で、数をかぞえて早く出ることばかり考えていた。今はのんびりと入っていられる。入っていること自体が快感だ。ひたすら湯に浸かり、だんだんに冷めて体と同温になって、どこまでが湯か体かわからなくなるとろける感じがたまらなく好きだ。それから湯に浸かり熱くなったらいったん上がりさめたらまた浸かる、それを延々と繰り返すのも好きだ。じんわりと体の芯があたたまり、汗が吹き出て肌の上をつるつるとすべる、そのころがり落ちる雫の感触も好きだ。

だったら年を食うのもそう悪くない。

ギィはどうなのだろう。向こうの側の大きな背中を見ながらロワジィは思った。

男の話を聞いて彼女が推したところ、おそらく年は二十前半あたりではないか。二十前半、そう思って湯につかったときとは別のため息が彼女の口から洩れた。そのあたり、自分はどうした具合で生きていたものやらよく覚えていない。町に下って数年、男たちの間で揉まれながら護衛の仕事をこなし、若さや、女であることを莫迦にされないように必死に肩ひじ張っていたあたり――長湯を楽しむ余裕もなかった。

じゃあ、そう思う。年を食うのもやっぱり悪くない。

あたしンところはさ、ロワジィは男に言った。

「村の近くの川っぺりに温泉が湧いててね、そこに小屋を建てて、共同浴場があったんだけど、あんたはこういうのはじめて?」

「夏場、川で水浴びは、ある、が、」

 ぼそぼそと男がこたえた。はなれている上に後ろを向きかつ顎のあたりまで湯につかっているので、男の声はくぐもってえらく聞き取りにくい。

「冬は、……、」

「え?」

「ふゆ……、」

ぶぶ、と音をたてて男が泡を吐き出す。聞きづらくてロワジィが前かがみになり身を寄せると、男はますますうつむき肩をいからせた。

「あのね。さっきから気になってるんだけど、……、なんであんた、こんな広い湯舟でそんな隅――っこの方にいるのよ?」

「……いや、目、」

「目?」

 ……目?言われてロワジィは怪訝な顔になった。たしかに今浸かっているのは真水ではなく鉱泉だ。とくだん肌が弱いようにも見えないが、湯がしみるだとか、そういう体質でもあるのだろうか。思わず顔をぬぐい、ついでにまばたきをしてみたが、目立った痛みを感じない。目?本気で意味がわからなくてまたたいた。

「あんた、どこか怪我したの、」

「いや、そうじゃな……うわ、」

 ずいともう一歩ロワジィが近づくと、男があからさまに動転した声を上げた。なに、眉をひそめてたずねると目、と男がまたくり返す。

「だから目がどうしたって、」

「お、俺は、あんたが裸で、目がまわ、回って、その、おかしな気を、だから、」

「え……、――あ」

 なぜ男が耳まで真っ赤になって湯に沈んでいるのか唐突に理解したロワジィは、理解しそこではじめて頬が熱くなった。

村では男女が同湯していた。それを恥ずかしがる人間もなかった。みな当たり前の顔をして裸をさらし、体を洗っていた。また山での狩りは数日の寝泊まりになることも多い。人前で着替えることも珍しくなかったし、それを気に留めるものもなかった。

欲心を起すから肌をかくしてくれと、ギィの言っていることはそういうことだ。慌てて頭上の枝にかけていた幅広の手ぬぐいを引き寄せる。ごめん、体を覆いながらつられて彼女もたいそういたたまれない心持ちになる。

「なんか、そういうの、あんまり考えたことなかった」

 男に交じって仕事をこなしていれば、あそこの娼館の新入りのしまり具合がいいだの、尻の形がたまらないだの、そうした淫猥話を耳にすることもあったし、実際彼女自身もなぶる好色な視線を向けられたり、今夜一発どうだ、だとか露骨に下卑た誘いを受けたこともある。ある、が、それはあくまでも軽くいなし、あしらうロワジィにとってはどうでもいい種類の話で、だからこうしてまっすぐに恥じらわれるとどうしてよいやら、こちらまでやたらに恥ずかしくなった。

「でも、……、なんだろう、あんたがそうしてあたしを女扱いしてくれるのはうれしいと思う」

 悪い気はしない。それはロワジィの率直な気持ちだ。ありがとうと向けられて男はさらに狼狽した。……このひとでもこんなに小さくなれるんだ。いかついのにちんまりした背中を見て彼女は妙におかしくなった。

 笑うと男が焦ってじゃばじゃばと湯をかき回す。

「あ、あんたは綺麗なひとだから、」

「あら」

 持ち上げられてもう一度笑った。

「莫迦ねえ、世間の男っていうのは、もっと、若くてぴちぴちしてて小さい女が好きなのよ。もっというと、大人しくて従順で男に喧嘩売ったりしなくって、鉞なんて振り回さない女」

「そうでもない、」

 怒ったように男がこたえる。

「あんたは、いい女だ、思う。町の女たちは、そう、よくも、ない」

「町の女って」

 聞いて今度はややあきれた。山で老人と暮らしていたのが本当なら、ギィはこの年までおそらく未経験、それも町に降りてはじめて他の人間を見たといってもよいほど、生身の女を知らないはずだ。

いいも悪いも、比較対象がなさすぎでしょうに。

そう思う。

刷り込み、という言葉がある。卵の殻をやぶった雛は、最初に目にする動くものを親だと思う現象のことだ。男にとって自分は、はじめて接する女といってもよいのではないか、そうしてすべてがはじめてのことだから、それがたいそう良いものに見えるのではないか、そう言ってやった。

「とっかえひっかえ、いたしたとかならともかくさ」

「した」

「ああ……そう、したの。ふーん……、……、え、……え?した?」

 聞き流そうとして聞き流せない言葉に、ロワジィは男を文字通り二度見してしまった。

「えなにそれどういうこと」

「……町に降りて、博打に連れていかれた後」

 ギィはこたえた。ロワジィが体を隠したのでようやくひとごころにもどったのか、落ち着きをとりもどしている。

「後って、あんたがすっからかんに巻き上げられた後ってことよね」

「金がないなら体売れって、そう、」

「うわ」

 思わず素の声が出た。ああした場所に出入りする人間の言うことらしいと思った。型どおりにもほどがある。

借金を体を売って返す。若い女の需要の方がもちろんほとんどだろうが、若い男を求める女客も一定数あると聞いたことがある。有閑な貴族の奥方どもが、金にものを言わせて好みの男を買うのだそうだ。あとくされのない、金銭でつながっているだけの一夜の関係。欲求を満たせばすぐに裏口から放り出しておしまいにできる関係。まして男は体も大きくて逞しいから、それに目をつけた相手もいただろうと思われた。

――ほらなンだ、夜のあっちのほうも……ご婦人方を満足させること間違いなしってンで。小鼻をふくらましながらすすめた斡旋所の店主を思い出す。実績があったからこそのあの下卑た笑いだったのだ。

「ねえ……、ちょっとした好奇心なんだけど、どれぐらい、したの」

「三十か、そのあたり、」

「え、何日くらいで」

「十日ほど……、」

「うわー」

 自分から話を振っておきながら、聞いてロワジィはまた素の声が出た。十日で三十人。腎虚になりそうだ。

朝と昼と晩にべつの女をあてがわれ、名前も知らない相手にひたすらに奉仕し腰を振り、用が済んだら斡旋所に売りとばされる。有り金全部だまし取られるという前置き付きだということも思い出す。

「人間不信になれる極地ね、……、」

 それは斡旋所で遠い目にもなるだろうと思う。空を飛ぶ鳥に気でもやっていないと、頭がおかしくなりそうだ。あれは男の一種の自己防衛もあったのかもしれないと思った。

 それから若いとも思った。ロワジィは女で、おおよそ想像の域を出ないが、もし彼女が男の体だとしても、同数こなせる気がまったくしない。

「まあ、なんというか、ほら、いやなことは飲んでパーッと忘れちゃおう」

 ギィは世間知らずであるし、まるで擦れてない。言葉もおぼつかなくロワジィは時々大きな子供の面倒を見ているような気持ちになるときもある。よくて年のはなれた弟だ。だがそれを差し引いても、男は強いと思った。背丈や筋の張りかたの目に見える部分でなく、心根の芯が太いのだ。

 ね?言って彼女は岩棚に用意していたはちみつ酒の瓶をとった。今回の仕事の雇い主がこれで体をあたためてくれと心づけに置いて行ったものだ。

 峠越えの仕事を終えてから、ロワジィとギィはそのままもといた町へは引き返さずに、西南へ向かった。とくに意味はない。ただ、もともと根無し草の彼女にとって、もとの東方の町へもう一度峠を越えて戻る利点は何もなかったし、これから本格的な冬を迎えてますます寒くなるというのに、わざわざ寒さの厳しい北に向かいたい気分でもない。

雪国育ちだったので、寒さになれているが、好きかどうかと聞かれるとロワジィはあたたかな季節の方が好きだ。あたたかくて花が一斉に咲きみだれる春がいい。

都のあたりの春は、早生咲きのものから順繰りに開花してゆくが、北方の春は圧巻である。日差しが冬のものから春のものに移り変わり、軒下のつららがぽたぽたとしずくを滴らせる頃合いになると、待ち構えていた木々は種類を問わず一気に開花する。百花、という言葉があるが、まさにそれだとロワジィは思う。そうして一斉に乱れ開いた花弁からたちかおる、くらくらと眩暈のするほど濃厚なめしべのにおい。かくべつな陽気のにおいだ。

でも、瓶に口をつけながら彼女は言った。

「雪見酒だけは、雪がないとねぇ」

 今は晩秋でまだ雪の気配は見られないが、あとひと月もすれば天上からぼとぼとと大きなつぶてが降りそそいであたりは真っ白になるだろう。それまでになるべく大きな町へ行けるといいのだけれど、頭の中に大陸の地図を思い浮かべる。

 あんたも飲めない口じゃあないんでしょう、差し出すと男はうなずいて瓶を受け取る。受け取り彼女と同じようにあおる様子を見て、ああよかったと思った。深い意味はない。まるで下戸で、口に含んだだけでさっと体が赤くなる、酒をてんで受け付けない、というものも世の中にはあったから、男がそうした体質であったらどうかと気がかりもあったのだが、人並みにいけるようだ。同行する相手と酒を飲んで語らえるというのは楽しい。同じものを口にして同じようにうまいと言えるだけでだいぶんちがうと彼女は思う。

 寒さは苦手だ。だが肩まで湯に浸かり、酒をのどに流し込む、中からも外からも温められる感覚がたまらないと思う。

「おいしい」

 胃の腑がかっと熱くなってロワジィはにんまりとなった。

 置いていった農場主は、うちで作ったものだがたいした出来ではないから、そんなように言っていたが、なかなかどうしてうまいと思う。

 常飲するほど酒飲みでもないが、あれば飲む。食い物屋に入ればとりあえずエールから入る口だ。仕事終わりにエールのジョッキを片手に、今日の雇い主はどうにも顔がこの煮魚に似ているとかどうとか、やくたいもなくだらだらとするのもいい。だべる、管をまく、結構なことじゃあないの、そう思う。それで発散できるんならさ。

 今回彼女が受けた仕事は、農場だった。晩生品種のワインを造る、その酒蔵の警護である。

「ぶどう畑から三日分ぶどうを摘んできたんだがね、明日から酒の仕込みに入るが、最近ここいらに大きな猪が住み着いちまって、そいつの大の好物がぶどうなのさ」

「大喰らいの上にいかもの喰いで、ぶどうの実やら種やらふさやら、においがついてさえあれば仕込み桶まで喰っちまうって話で、近隣でも被害が出てね。なに、自分らで退治しちまえばいいんだろうが、そいつは牡だから、うかつに手を出すわけにもいかない」

「猪はひとまず置いとくとしたって、酒を仕込むのに酒蔵を荒らされるわけにゃいかんからね。泊りで寝ずの番をしてくれるのをさがしてたのさ。小作人どもは猪をおっかながっちまって誰も名乗り出ないし、あんたらが来てくれて助かったよ。よろしく頼むよ」

 主はそんなように言った。

「猪、」

 酒瓶に口をつけながら男が思案している。

「罠でも張ってみる?」

「いや、」

 野山の獣は鼻がいい。中でも猪はひどく鼻が利く。罠を仕掛けたところで人間のにおいに警戒するだけで、効果は薄いと思う、そうこたえる。

「あたしたちが、ぶどうかごの周りうろついてても、来るかな……、来るわね」

「来る」

 牡の獣はどれもおしなべて大食漢だ。そうして人間の生活圏内に入り喰い荒らすことをくり返すということは、そいつにかなり力があり、多少の人数なら蹴散らせると知っているということだ。

「牡かあ、」

 ロワジィはつぶやいた。山で猪を追った経験はもちろんあったが、それのほとんどは牝か、牡にしてもまだ成獣になりきらないものだけを選んで狩っていたので、成獣の牡とまともに対峙したことはまだない。理由は簡単で、オスの肉は硬くてくさいので、狩っても食いでがないからである。

「あんたは相手したことある?」

「相手、か、わからないが、」

 男は言った。

「木馬道で、ばったり」

「会っちゃった」

「会った」

「で、どうしたの」

 人の肉に味を占めた熊や野犬でもない限り、たいがいは相手がこちらを察し、それとなく避けてゆく。山の中に入っても、意図せず獣と出会えることはほぼない。だからこそ狩る。「狩る」とは「駆る」ことだ。けもの道を一日あるいは二日がかりで追い立てて仕留める。だがたまさかに、こちらもあちらもぼんやりとほかに気を取られ、意図せず間近で出会うときがあるのだ。

「……にらみ合っていたな」

「どれくらい」

「半時ばかり」

ほかの獣なら脇にそれたり尻を向けて逃げ出す状況でも、猪はまっすぐにこちらにむかって突っ込んでくるときがある。猪突猛進、というがまさに言葉通りだ。うまく躱せればよいのだろうが、躱しそこね下手を打てば命に係わる、であるのでうかつに背を向けるわけにもいかない。

「すこしずつ、退がった」

「はー」

 よかったわね、言うとわりと真顔で男が頷いた。あれは恐ろしかったな。

「今晩も、にらめっこしたら、逃げてくれるといいのにね」

 二対一なんだからこっちの方が強いわけじゃない、ロワジィがつぶやくとふ、と男が笑う。酒も回ったのか、普段より気が緩んでいるようだ。

「そうなる、……いいな」

「まあ、そうならないからあたしたちが雇われたんだろうけどねー、」

 言ってまた酒瓶を煽る。

「でも、悪い仕事じゃあないと思うのよね」

 雇い主から提示された不寝番の額はそこまで高額ではなかったが、仮寝する場所として小作のものたちが休憩する作業小屋を貸してもらい、おまけに浴場まで借りることができた。

 行水をしたり、湯を沸かして汗をぬぐうことはあっても、かけ流しの湯に浸かれる機会はそうそうない。露天の湯があるがよかったらつかうかね、言われた瞬間一も二もなく頷いていた。

「井戸を掘ったら湯が当たった。運がいいのか悪いのかわからないがね」

 そんなふうに言っていた気もする。たしかに鉱水は浸かるにはもってこいだが、作物や家畜に与えるにはまるで不向きのものだ。

 あとひとときほどで完全に日が隠れる。たのまれたぶどうの番は雇われ人がみな引き上げたあと、夜半だというからまだ時間がある。

 気持ちだけならひと晩ふやけるまで湯に浸かっていたいが、見張りの時間までに食事をとり仮眠もしなければいけない。そろそろ上がらないと、名残りおしく立ち上がった彼女の視界がおかしな具合にかしいだ。あら、立て直そうと突っ張った右手がたよりなく湯に沈み、倒れかけたところを男が腕をとり支える。

「ロワジィ、」

「……あれ、そんなに飲んだつもりは、」

 瓶の中身は半分ほど残っている。湯の中で飲むのだからそれなりに自制したはずだ。だのに、

「うわー……、なにこれ、すっごいぐらぐらする、」

 痛飲したときと同じほど目が回る。しゃれにならない。

 まぶたのあたりを押さえうめく彼女に男はひとつため息をつき、脇へおもむろに手を入れると軽々と彼女を抱えあげた。

「え、え、なに、」

「湯あたりだろう、運ぶ」

「こら、おろしなさい、ちょっと立ちくらみしただけよ、ひとりで立てるわ、」

「暴れるな、落ちる」

 だからおとなしくしていろ。言外に告げられ、とんでもないと思った。

そもそもロワジィはほかの人間を抱えたことはあっても抱えられた覚えがない。自分はそういうガラじゃないと思っている。幼いころから大きい、男のようだと言われ、父も母も早くになくした。ちいさいのにしっかりしている、あの子なら大丈夫、そういうように言われたから、そうありたいと背伸びした。甘えられる相手が身近にいなかったから、甘えてもらえる人間になろうときめた。

 二十歳を過ぎると仕事相手からあねご、だとか呼ばれることも多くなった。気にならなかったし、それでいいと思った。女親分でかまわない、紗に透かされたかげろうの女より、その方がらしいと思った。

だからこうしてあっさりと横抱きにされると困る。女あつかいされて先はたしかにうれしいと男に言ったが、こんなふうにこわれものみたいにあつかわれると困る。お前は弱いのだとあらためて言い聞かされているようで困る。

だったら男が取り落とすほどはげしく暴れて放してもらえばいい。触れてくれるなときつく拒めば、男は彼女に従うだろう。

そうすればいい。判っている。

だのにできなかった。背中にまわされる腕ががっしりとして心地よかったからだ。

厭じゃあない、だからふと、抱える男の胸に目を閉じ暴れるのをやめて身を預けてみた。深意はない。気まぐれだ。裸の胸はなめした皮のようで、だが皮よりもずっと熱いと思った。

力強い鼓動が聞こえる。

「ロワジィ」

「……あったかぁい、」

伺う声にそうこたえた。男の声も耳をつけた胸から聞こえて、くぐもっている。語尾がかすれた低い声。安心する音だと思った。

「……俺が飯、支度するから、」

少し休んだ方がいい。寝ずの番だろう、言われてそうねえとかえす。

「そうさせてもらおうかな」

男は自身の上着を敷いて、その上に彼女を横たえた。まとめていた髪を梳かれ整えられる。頭皮をかすめてゆく指の感触が、ため息が出るほど心地よかった。いま毛布をとってくるから、言ってはなれるぬくもりに、あ、と思わず声が出てロワジィは目を開いた。もうちょっと、言いかけてはたと我に返る。

――もうちょっと?あたしはなにを言いかけてる?

「どうした」

気遣う視線で男は問うた。気分が悪いか?

「ごめん、なんでもない。いいの、気にしないで」

 湯あたりのせいだ、そうでなければ悪酔いしたのね、湯に浸かりながらの酒は回りやすいっていうけれど、ほんとうにその通りだわ。

 目を閉じなおしながら彼女は思う。寝てしまおう。寝てさっぱりしてしまえば、全部湯とともに流れてなにもなかったことにできる。

胸のあたりがもやもやとうずくのはきっとそういうことだ。

 

 

肌着の上から綿入れをかぶり、皮鎧に袖を通す。留め具をひとつひとつ締め、髪をひとつにまとめて手巾で巻いた。腰の後ろに鉈(なた)を差し、鉞(まさかり)の朱色のひもを腰に結ぶ。獲物は剣とちがって鞘がなくむき出しであるので、引いたときにすぐほどけるが固定はする独特の結びだ。これで全部かな、たしかめながらロワジィはおのれの体のあちらこちらを見まわして、それから支度のそばでもの言いたげにこちらを見るギィに視線を流した。

「なにか足りない?」

「いや、」

 そうじゃない、言って男は首を振り、しばらく言うかどうか悩むそぶりを見せる。普段こちらから話を振らないかぎり男が言葉を発することはほぼなかったから、そのしぐさにすこし心惹かれて、なに、とロワジィはもう一度言った。

「……顔色」

 ためらった後男は言った。まだよくないと言いたいようだった。

「あー……やっぱり?なんかまだ揺れる気がしてた」

 思いあたるふしがある。まぶたを押さえて苦笑した。失敗したなというのはわりと本音だ。たいして飲んでもないのに酔ったというのがまずくやしいが、飲むのも長風呂に浸かるのも次は仕事あがりにしよう。そう思う。

以後ひかえるという選択肢がないのがどうかと思うが、

「まあ、仕事だからね。寝てるわけにもいかないし、寝たし、大丈夫よ」

 湯あたりのせいかそれともだいぶくたびれていたのか、そろそろ時間だと起こされるまであのままぐっすり寝入ってしまった。おかげで晩飯を食いそこねた。

「食べるから。とっといてね、」

「俺は、」

 芋を茹でて玉ねぎと炒めただけで、期待されるような馳走はなにも作っていない、困った顔になる男に、そうじゃないのよ、ロワジィは首を振った。

「自分じゃないひとの作ったご飯っておいしいの。絶対」

 持論である。付け加えると商売用に味付けされた店のものではなく、素人料理にかぎる。

町に出て定住する場所をもたなくなり、外食の機会が一気に増えた。というより、野宿しているとき以外はほぼ店屋物で済ませる。別に彼女が料理が不得手であるとか、味覚に自信がないとか、そういうことではなくて、寝泊まりする場所に調理場がないからだ。山から下りてすぐのころは、多様の人間が出入りする食い物屋も、簡単に済ませられる露天ものも、部落にはなかったものであるから、買い食いも珍しくて楽しかった。

がすぐに飽きた。

なんでもいい。だれかが作ったご飯が食べたい、護衛途中にふとつぶやくと、無精ひげ面の仕事仲間が真面目な顔でわかる、と同意したのも一度や二度ではない。

 芋を茹でただけでいい。野菜を数種ちぎって和えただけでいい。

 それも自分ではなくて誰か別の人間が手を加えたもの。

 話し相手がほしいとか、留守のあいだ身の回りを整理してほしいだとか、いろいろな理由をつけたけれどロワジィが従者を雇おうと思い至ったのは結局そこだ。

 そういうものか、首をひねる男にそういうもんなのよ。かえした。店のは飽きるし、自分のは食べる面白みがないの。

そうして、

「じゃ、行くわね」

 もう一度身をあらためて立ち上がる。当然のようにつられて立った男に、来るの?たずねた。男はうなずいた。

「邪魔か、」

「邪魔じゃないわよ。邪魔じゃないけど……、農場のひとたちがおっかながるぐらいの相手、平気?」

 先日の峠越えの護衛で襲撃された際の男を思い出す。男は野盗におびえていた。見ているこちらにはっきりわかるほど膝がふるえ、身を固くこわばらせて頭を覆っていた。山の仕事をする上で、危険な場面はいくらでもあったのだろうけれど、たとえば切り倒した木が自分の側に倒れてくる恐ろしさと、明確な敵意で武器をかまえる連中が襲ってくる恐ろしさはきっと質の異なるものだ。

気の毒だとも思った。すすんでこの仕事についているロワジィとちがって、男はただ彼女にやとわれただけで、言ってみればとばっちり、完全に巻き添えである。

 雇われた男が負うべき仕事は、彼女の身の回りの世話であって、猪退治の手伝いではない。そう伝えた。男はすこし考えてそれから行く、とこたえた。

 そうして二人は歩いている。

 夜の農園は静まりかえっていた。

 晩生のぶどうは、霜が降りるぎりぎりに収穫するそうで、仕込みが終わると本格的に冬に入る。これをしていると、今年もいよいよ大詰めだなと思うんだよなあ、雇い主がそんなように言っていたことをロワジィは思い出した。

 もう今年も終わりなのだな、遅れて感慨にふける。定住をしているしていないにかぎらず、どうも年末というものは気ぜわしい。町全体がせかせかと新年を迎えるために急ぎ足で歩いているようだ。急ぐ理由もあてもない自分まで、通りを歩いているだけでどこかうわついた、落ち着かない気分にさせられるのは本当に不思議だと思う。

 農園に見回りに出る前に、まず仕込み蔵へ顔を出した。かなり夜も更け、みな上がっているだろうと思えたのに、中には数人がまだ居残り話し込んでいた。仕込みの手順のやりとりでもしていたものらしい。ひとつだけ点いたランプに顔を寄せるようにして、ぼそぼそとしゃべっていた数人は、顔を出したロワジィとギィへ向かってなんだというように振り向き、それが彼女だと知ると、ひょいと手をあげてよこした。こちらも目顔でうなずき、内部をぐるりと見まわす。

においが濃い。

 畑で摘み取られ積み上げられたぶどうの汁が、じわじわと籠の底からしみだしている。生食するものとちがって、つぶしたその汁を発酵させるのだから、扱いがだいぶんぞんざいだ。きっと摘み取る傍からぽんぽんと放り込んだのだろう。つぶれ、半ばアルコール化しているように思える匂いも混じっている。

「いいにおい、」

 鼻をひくひくさせてロワジィはつぶやいた。

「これじゃあ、猪でなくたって、寄せられてくるわね」

 言うと聞こえたらしい小作人どもがちいさく笑った。

「火に入る夏の虫、だなあ」

「……虫ぐれぇちいせぇとよかったんだけどなあ」

 おのれで言って、参ったもんだと頭を振っている。

「猪。見た人いるかしら」

「どうだか」

 数人が互いに顔を見さぐりあい、ほら隣の、だとかささやいている。

「隣?」

「いやね、隣の農場で働いている奴が遠目から見たってぐらいじゃあねぇかな。最初、牛だと思ったって」

「牛」

 聞いてロワジィは眉をひそめる。その人間がどれほどの距離から視認したかはわからないが、牛と見間違える体躯の猪だとすると、相当にでかい。

「あんたらも、無理をしない方がいいよ。生活かかってんだろうから、やめとけとは言えないけどね、まあ、引き時は大事だよ」

「そうね、」

「いざってなりゃあ、尻に帆かけて逃げちまったっていいんだから。命あっての物種だあな」

「そうね」

 二度目は笑ってかえした。全力で回れ右する彼らの姿をふと思い浮かべてしまったからだ。

 あたしにはできないな。笑いはそのまま苦いものになった。

 無理だ。そうも思った。かなうかなわないの問題でなく、背を向けることができないのだ。袋小路に追い詰められた動物が、頭を低くし威嚇する姿と同じだということに彼女は気がつかない。

気をつけて、互いに言い合って、それから戸を閉める。

 背後に控える男へ、ちょっと待ってて。言い置いて、蝋燭に火を点けて、消えないように覆いに入れた。闇夜ではなかったが、念のためだ。

 そのまま、農場の外柵に沿って歩き出した。侵入防止のためというよりは、ここまでが所有地、のおおよその目印のための柵だったので、越えようとする意志があるなら獣でも人間でもひょいとゆける程度の簡易なものだ。とりあえずはぐるりと周ってくるつもりだった。

「あんたはさ、」

 そのまましばらく無言で歩く。つくりは簡易であっても、このあたり一帯の人間を雇いいれる規模の農場であったから、相当に広い。半歩後ろからついてくる男にふとたずねてみたくなって、ロワジィは口を開いた。

「このあと、どうするの」

「うん、……?」

 聞かれた意味が呑み込めなかったのだろう、男が首をかしげた気配があった。このあと。口中でつぶやいている。

「飯食って、……、寝る?」

「あー、ええと、そっちのあとじゃなくてさ。……あんた、山から下りてきて、有り金ぜーんぶ巻き上げられて、すかんぴんになっちゃったわけよね。とりあえず現状は雇われているけど、でも、ずっとってわけにはいかないでしょう?山から出てきたってことは、なにかやりたいことでもあって出てきたんじゃないの、」

 何気ない会話のつもりだった。小一時間手持無沙汰に黙りこくって歩くのもどうかと思ったのでふと頭に浮かんだ話題のつもりだった。

「……」

 空は晴れて月が出ている。半月だった。足元を照らすにはややたよりないが、見渡す柵の向こう側の森は際までよく見えた。

 穏やかな夜だ。

――ずっとというわけにはいかないだろうか。

 男が呟いた気がした。え。ロワジィは聞き返す。

「俺は、あんたの役に立てないか」

「え、」

「いては、困るか」

「え?」

「俺がいると、あんたは俺の分まで金を使う。俺はあんたの負担になっているか」

「……そうじゃない。そうじゃないのよ、」

 急いで彼女は否定した。誤解されては困ると思う。

あんたのこと、負担だなんて思ったこと一度もない。大きいなあとは思ったけど、邪魔に思ったことなんて一度もない。あたしは町に降りてから十年近くたつけど、いままでずうっとひとりで、でもそういうもんなんだって思って生きてきた。みんなひとりで生きているって。それが普通で、あたしはそれに慣れなきゃいけないって。

仕事のあいだ意気投合する相手もいたことはあったけど、でも、その仕事が終わればそれまでだった。自分以外の誰かと同じようにする……、寝て、起きて、一緒に同じご飯を食べて、ぶらぶら歩いてどうでもいい話をする。それが楽しいし、あたしはそうしたかったんだって、あんたを雇ってから気がついた。あんたを雇ってよかったって思うことはあっても、早く追っ払っちまいたいなんて思ったことはないわ。

 そう言いたかった。でも。

でも、それは、雇っている側のわがままでしょう。あんたにとってそれが得になるかは別の話でしょう。あたしはひとりで、こうした不定期の収入がいつまで続けられるかわからないし、あんたをずっと養っていけるかどうかの保証はない。こないだみたいに、なしくずしに護衛の仕事に巻き込んでしまうことだってまたあるかもしれない。あたしがあんたに払える給金はほんのちょっぴりで、あんたはたぶん損をしている。あんたを雇ったいっとうはじめのときは、いったいどうなることやらと思ったり、やっぱり若い子にしておけばよかったって思ったこともあったけど、今はあんたでよかったって思う。

この先、だなんてよく判らないけど、あともうしばらくは、あんたと一緒にいられたらいいってあたしは思って、

「……世間知らずにもほどがあるね、」

 けれどロワジィの口を突いて出た言葉は、多弁な本心とはまるで違った声だった。聞いた男がす、と眉をひそめるのが気配でわかる。なぜだか申し訳ないと思う。

「地獄で仏っていうじゃない。あんなひどい環境で、あんたはあたしを見たから、なんだかすごくいいように見えて勘違いしてるんだと思うわ。あたしはそんなにいい女じゃあないし、あんたに恩返しされるようなすぐれた人間でもない」

「――」

 男がなにか言いかけて口をつぐむ。不機嫌というよりは、こちらの本心をさぐっているように思えて、彼女はうすく笑った。

「もっと世間を知った方がいいんじゃないかな。世の中には、あんたが本当に心臓に誓えるような女がごまんといる。こんな三十女につかまっちゃったら、あんた、それこそもう逃げようがないわよ。お先真っ暗」

 一緒にいると楽しいから一緒にいよう、そうかざりなくぽんと言葉に出せたらどんなに楽かとロワジィは思う。こんなふうにして、おのれの本心をひた隠して相手の出方をうかがう性格だから、可愛くないのだ。自分でもうんざりするほどわかっていた。罠を仕掛けてさあどうだ、相手が同意するのをどぎまぎしながら息をひそめて見ている。そうしてそのくせ、男がそうだな、そんなふうに同意しようものならああやっぱりね。がっかりするのだ。

素直じゃない。その通りだと思う。

「前途多様っていうの?あんたはまだ若くて……、」

「ロワジィ」

 暴走しかける彼女の虚言を押しとどめるように、男が口を開いた。

「――なに、」

「俺は」

 背後から聞こえる声には熱があり、いまのロワジィにはすこし怖い。

「俺はあんたと一緒にいたい」

「……、……、え、」

 そんなように言えたら世話はないわね、数舜前にちらっと思ったままの言葉を男が簡単に口にして、彼女は言葉に詰まった。かえす言葉が見つからない。

「迷惑かもしれない。でも、俺はあんたといると楽しい」

 男の言葉は率直だった。

迷惑だ。瞬時に思った。あたしを足元からぐずぐずにしかかるあんたがいるなんて、ものすごく迷惑だ。

 だが口には出なかった。柵を指でたどりながら歩いて、そのままたっぷり黙り込む。

「……そう」

 そうして黙り込んだのちに喉から出たしわがれ声は、まるでおのれのものでないようにくたびれて聞こえた。咳払いして明るい声を押し出す。

「まあ、次の大きな町まで当分一緒なわけだし」

「大きな、町」

 男がいぶかしむ。文字通り、次の町よ。ロワジィはうそぶいた。

「大きな街に着くまでに、あんたはおおよその一般常識を身につけて、次はそう簡単には騙されないようにするの。それで今度はもっといい仕事をさがす。なるべく稼げて安定できる仕事を見つけるのよ。あんたは交渉とか、どう見ても上手じゃなさそうだから、あたしがついていって交渉してあげる」

「それは、」

 俺を解雇するのか、男が惑う声でたずねる。

「解雇じゃないわ。契約完了よ。あんたは自由になるの」

 言いながら詭弁もたいがいいいところだなと思う。男が継続を望んでいるのだとしたら、こちら側から一方的に切り捨てるのはやはり首切りではないのか。有利な条件だ、好待遇だと言い方を変えても、おのれから離れてもらうことに変わりはない。

 ――でも。

 柵から指を離し、代わりに腰の鉞に手を当てる。

 弱くなってはいけない。

 肩ひじ張って生きてきたロワジィにとって、おのれの足場を崩されていくようなこころもちは、やはりいただけないと思う。

 ――そうでもしないと生きてこられなかったんだから。

 しかたない。そうも思った。

 男は彼女の提案を聞いてあと、黙りこくって言葉を発さない。背後にいるので仕草も見えない。気まずい。仕込み蔵が見えてくる距離まで、結局そのまま互いに互いをさぐる態で黙って歩き続けた。

 

 

 建物が闇の中に影となって見えてきた。どういう具合か、建物のシルエットがにじんで見えて、ロワジィは目をこすった。まだだいぶ離れた距離だというのに腕を引かれる。し、と彼女が口を開く前に牽制のささやきがあった。

「いる」

 えらく抑えた低い声で、男が身をかがめ、彼女の耳元に短くつぶやいた。

「え、」

「猪」

 短いその一語に、おのれの体がこわばるのがわかる。目的の相手がいる興奮というよりは姿の見えない相手に対してのおそれの方が強かった。

「どこ」

「蔵の中」

「こっちには、」

「気づいていない。風下はこっちだ」

 ささやき返した彼女へ、男はかがめた姿勢のまま睨むようにして建物へ目をやっている。

「……あんた、峠のときも、一番に襲撃に気づいたわよね。……気配?」

「いや、」

 男がちいさくかぶりを振った。においかな。

「ふぅん、」

 におい。夜気に鼻をうごめかしてみても、建物はまだ遠い。ロワジィにはよくわからなかった。獣臭いということだろうか。それとも気配をにおいで感じる性質なのだろうか。彼女も同じように山育ちではあったけれど、男ほど俗世間と隔絶していない。それの違いだろうか。聞いてみたい気もしたがとりあえず棚上げする。

「どうする」

「……どうするって」

 聞かれてロワジィは唇に指をあてて考える。農場主との契約は、酒蔵を荒らされないように不寝番に立てというものだった。仕留めろとは言われていない。

「ここから大きな音を立てたとして、蔵の中にいるそいつは逃げると思う?」

「どうかな、……、……、」

 聞かれて男が思案する。思案する間も油断なく建物から目を離さない。

 仮に、大きな物音やかがり火に驚いて逃げてくれるような相手であったら、雇い主は対処したのではないか。それで逃げる相手ではないということだろう。

男はしばらく考えたのちにそう言った。

「とりあえずここじゃあ遠すぎるし、もうすこし近づいてみる。……あんたはここにいて」

「なぜ」

 ロワジィの指示に男が抑えながら驚いた声を出した。心外だったのだろうと思う。

「俺も、」

「ついてきてはだめ。言ったでしょう。あんたがあたしに雇われたのは、従者として身の回りの世話をしてほしかったから。先立って危ないことをする必要はないのよ。危ないことに首突っ込んで、巻き添えで怪我したって特別手当なんて出せないんだから」

「俺は、」

「ギィ」

 言い募りかけた男へロワジィはきっぱりとささやき黙らせる。首を振った。それ以上言わせてはいけないと思った。

「あんたはあたしに雇われてる。あんたはあたしの言うことを聞く義務があるわ。……あたしがひとりで行く。あんたはここにいて」

 そこまで断ってもなお男がもの言いたげなそぶりをしていることに気がつかないふりをして、彼女は建物へ向けて足を踏み出す。返事は聞きたくなかった。暗がりで表情が隠れていてよかったと思った。男がかえす言葉は決まっていると思うし、それを聞いた自分はたぶん動揺すると思うからだ。

 弱くなってはいけない。

 息をひそめ、一歩一歩建物へ近づく。足を踏み出してからは背後のことは忘れた。余計なことを考えている余裕はない。いま必要なのは、猪が己に気がつかないように慎重に接近することだ。

 山の獣の中でも、猪はとりわけ鼻も耳もよく利くことをロワジィは知っている。警戒心が相当に強いので、狩りの中でも仕留めるには技術を要する相手だ。

 そうしてしぶとい。

 鉞の柄を握って腰から外した。いつでも振り回せるようにだ。

 全身の毛皮はこわく、矢じりも刃先も食い込むすきがない。鼻先は頑丈である。ほかの動物に使える、鼻っ柱を強くたたいて仕留める方法が猪には簡単に使えない。牡ともなれば牙が異様に発達して、五寸は下らない。太くて鋭いナイフが口の横に二本生えているようなものである。

 最善は罠を仕掛けることなのだが、鼻の利く猪には正直七分三分といったところだった。よほどうっかりしているものか、追い立てられ泡を食っているものでないかぎり、猪は罠にもかからない。

 ――あれ。

 目端がまた揺らいでいる気がしてロワジィは目をこすった。緊張でまばたきの回数が減りそのせいで涙がにじんだのかと思ったが涙はない。湯あたりがまだ後を引いているのだろうか。まったく下手をうったものだと思う。

 建物の影がだいぶ近くなる。こちらが風下であるならもう少し近づけるはず、そう思って踏み出そうとした足が、踏み出しかけて凍りついた。

 かたい音がした。

 見回り前に蔵の中にいた、小作人どもの立てる物音とはまるで質の違う音だった。大きな生き物が、仕込み桶かなにがしかの器具を力任せにかじりつぶす音だった。

 音とともにむっと熱風のように立ちこめふきつける濃密な獣臭と気配があった。

 これは先ごろの男の言ったそれとは違う。実質的な獣の体が発するにおいだ。

 仕込み蔵は板壁だ。ぐるりと四方を囲んでおり、その中に猪はいる。だというのに、その圧倒的な気配は紙よりも透過し中の存在を主張した。

 いる。

 板一枚向こう側にぶどうをむさぼっている獣がいる。

 落ち着け。

 どきどきうるさい鼓動をしずめようとロワジィは無理やり唾を飲み込み、震える息を長く吐き出した。こわいと思った。

 襲撃してくるならず者の群れを迎え撃つときに、こうした気持ちをいだいたことはない。ロワジィにとって悪心をおこした相手を叩きのめすのは、言ってみれば過去の彼女からの仕返しだった。撃ち止めた分だけおのれの澱が薄くなる気がした。十年もこの仕事をしていれば、多人数に囲まれてあわやという場面は両手の指で収まりきらないが、それでも恐怖を感じたことはなかった。あったのはここで終わりたくない後悔だけだ。

 落ち着け。

 おのれにもう一度言い聞かせる。相手は人間じゃない。獣だ。獣はこちらの思惑は読まない。駆け引きはない。ただ生物の生存本能で動くだけの生き物だ。

 その本能がいまはこわい。

 目を閉じもう一度大きく息を吸い、吐いた。ぐっと鉞の柄を握り、感触を確かめる。

 先手で行く。

 姿を見ずとも、桁外れな大きさであることは察せられた。この大きさの相手に不意打ちで驚かせる手は愚策に思える。仮に驚いて逃げだしてくれればよいが、逆上させると余計に厄介だ。

 眉間を狙う。そう決めた。

 たしかに猪の鼻づらは相当にかたくはあるものの、刃先も付いた鉄の塊を叩き込むのなら話は別だ。ひるませるのではなくひと振りで致命打を撃つ。眉間の骨をたたき割り、二打目でしとめる。

 そろそろと呼気を鼻から逃がしながらロワジィは目を開けた。

 固まりかけた筋肉を動かすように首をまわし、それから身構える。狩りの歩き方だった。決して音を立てない、全身の体重を足裏全体から逃がす歩き方だ。

風向きを押さえながら、彼女は建物の入り口へ目を向けた、そのときだ。

 とどろきがあった。

質量をもった怒気がまともにロワジィの体をつらぬいた。音に圧力があることを彼女は身をもって知った。たたらを踏まずにはいられないほどの直撃だった。それが猪の怒号だと歯を食いしばってこらえた彼女は理解する。

蔵の中のそいつが、ロワジィを見止め、劈めいた声を上げたのだ。

「……どうして」

 指が白くなるほど鉞を握りしめ、うめくように呟いた。

こちらは風下で、あたしは音を立ててもいないはず、がちがちにこわばった彼女のすこし後ろでひ、ひ、と引きつる呼吸が聞こえ、はじかれるようにして振り向く。

引きつる声に覚えがある。見回る前に蔵の中にいた男たちの一人が、泡を食い尻もちをついていた。

「なんで」

こいつだ。

こいつが迂闊に近づいて猪は察知したんだ、しびれたように動かない頭でロワジィは思った。

「お、お、お、俺は、俺はいやだったんだ、いやだって言ったんだッ」

 小作人の男がわめく。

「でも、か、か、か、賭けに負け、負け、負けた、負けたから、」

 聞いて彼女は理解する。おそらく仲間内で益体もない勝負でもしたのだ。負けたら仕込み蔵をのぞいてくる、だとかそんな罰ゲームのついた肝試し。娯楽のすくない田舎で、おのれにほとんど関係のない騒ぎは、言ってみればある種のお祭り騒ぎでしかない。

 だからって。ぎりと奥歯をかみしめロワジィは天を呪った。

「だからって、ここでこなくたって、……ッ」

 瞬間彼女は男に肉薄し、ひいひいと腰が抜けたままの男の襟ぐりをつかんだ。そのまま力任せに放り投げる。あわれな悲鳴を上げてころがる男の今しがたいた場所に、あからしまが吹きすさび、彼女は顔をそむけて衝撃に耐えた。

 蔵の板壁を突き破り、相手が突進してきたのだ。

「立て!」

 腰を落とし猪を視界に入れながらロワジィは大声をあげた。

「こ、こ、こ、腰が、」

「いいいいいいいから走れッ!」

 行き過ぎた黒風がぐるりとこちらを向き、そこではじめてロワジィは猪と面と向かい合う。

数拍、周囲の音が消えた。

 ごくんとなにかが鳴った。それだけが彼女の耳に唯一届いた音だった。遅れておのれの喉が発したものだということに気がついた。

 

それは、まるで山だった。

 

 遠目から見たものが、牛だと誤認してもしようのない大きさで、同じようにもしロワジィが先入観なしにそれを目にしたとしたら、寝物語に出てくるような化け物の類と思ったに違いない。人肉を食らう巨大な怪異。

言うことを聞かない悪い子はトロルにさらわれっちまうよ。

彼女が幼いころに大人からそう言われ、そうして彼女も幼いものへ言ったおぼえのあるおどし文句だ。見たことのないトロルを頭の中想像しておそれた。その思い浮かべた姿と似たような相手がいま目の前にいた。

山は苔むした岩だった。

怒気に逆立てた毛が上背のある彼女の目と同じ高さにある。そこからまずもってあり得なかった。急傾斜した先に、猪とは思えない頭がつづいており、その巨大さはまるで木樽である。

獣の大きさは、部落にいた軽種馬が馬という種のすべてと思っていた彼女が、町へ下りはじめて輓曵馬を目にしたときの驚愕に似ている。同じ馬とは思えなかった。実際に目にしているものの質量があまりに桁外れで、遠近感があやふやになってしまうのだ。

頭の巨大さにくらべて眼窩は異常に小さくくぼんでいた。燐光を帯びた目がまっすぐにロワジィを射つらぬいている。野生のものは目が光る。彼女は知っていた。

そのすぐ下に牙。彼女が握る鉞の刃渡り二つ分ほどはあるように見えた。

牙が二つ。おのれはひとつ。

――ちょっと分が悪いな。

泣き言が脳裏をよぎった。勝てそうにない、と思わなかったのがせめてもの意地だ。まいったな。愚痴がこぼれる。これでは温泉分を差し引いてもまるで割に合わない。

そうして動作は唐突だった。

示威行動や威嚇の前動作を猪は一切発しなかった。筋肉が蠕動したと彼女が見止めた瞬間、猪は背を向けよたよたとよろめき逃げる小作人の男へ向けて牙突を開始する。野生の本能は単純だ。よわいもの、力のないもの、背中を向けたものから順にとどめをきっちりと刺してゆく。

本音を言えば的がほかのものへ絞られている間に逃げたかった。自分の速さなら、猪が小作人を仕留める間にかなりの距離をとることができると思った。

だが彼女は護衛として雇われたのだ。逃げる?まさか。おびえているおのれとは別の彼女が耳元で叱咤する。あんた、なにがなんでも守るって決めたんだろ。

あおのいてこときれていた記憶の中の姿を思い出す。もう動かない美しい色を生み出していた指先。

まっすぐ男へ狙いを定め突撃しかかる猪へ、小走り数歩で接近し、半ばやけくそも混じりながら、ロワジィはその横っ面を両手で振り上げた鉞で力任せにぶっ叩いた。

夜気にぱっと血のにおいが散る。

「……ああ、クソ」

 先手で行く。二打でしとめる。当初の予定がめちゃくちゃだった。眉間を狙ったはずが、的が逸れてあたったのは頬だった。これでは致命傷にはならない。破れかぶれもいいところだと自分でも思う。無策とまるで変わらない。

 飛沫いた返り血が己の肌に当たるのを感じる。それはぬめぬめとして生温かかった。

 横やりを入れたロワジィへ、まず驚き、それから怒りの唸りをあげて猪が標的を移すのがわかる。ぱっと飛びのいて距離をとった。直近では相手が振り回す牙にすくい上げられてしまう。かちあげられたあといったいどうなるか、考えたくもなかった。

 腰を落とし猪の突撃に備える。百貫を優に超える重量の相手だった。正面から突撃を喰らえばまず即死する。左右どちらかにうまくかわしながら、隙をついて攻撃をうつよりほかない。

 小作人の男のあわれな声は、もうだいぶ遠かった。逃げ切ることができるだろう。

「……来な」

 滴る冷や汗を手の甲で払って、ロワジィは猪へ声をかけた。

「あんたがあたしを捉えるか、あたしがあんたをそぎ落とすか、辛抱くらべだよ」

 彼女の言葉を理解したか、ぐっと猪が頭を下げる。血腥い勝負のはじまりだった。

 

 

 頬にはねた血しぶきを肩口でぬぐう。はねた血はどちらが流したものか、暗がりでは判別がつかない。つかなくてよかったと思う。実際おのれの手負いのほうが多いのだろうし、それを目にした途端、高揚が萎えてしまいそうだ。

体のあちらこちらに擦り傷といってごまかせないほどの裂傷を食らっていた。じくじくとにじんだ血が己の表皮を垂れてゆくのがわかる。同じように相手のがわにもかなりの強打をたたきこんでいるはずなのだが、どうにも猪の足は弱まるところを知らない。

くらべてこちらの息は上がっていた。

 握りしめているはずの鉞がぬめる。汗なのか、血なのかもうわからなくなっていた。

 突撃をかわした回数すらもはやあいまいだ。最初の十数回は数えて避けたが、じきに余裕はなくなった。

 ――しぶとい。

 目がかすむ。ロワジィの体は、今やはっきりと不調を訴えていた。眩暈のもとは酔いか湯あたりだと思っていたがどうも違うようだ、彼女は気がついた。吐く息が不愉快に熱い。熱があるのかもしれない。

 全身が重かった。思うように動かせず、引き返してきた次の突進をぎりぎりのところでかわした。かわし切れなかった分はさっと牙が削いでいき、鎧をえぐり綿入れを裂いてまた皮膚に届く。痛みはあまりなかった。頭がぼうとなり、うまく痛覚も働かないのだ。

「ああもう、」

 それでも反撃に踏み込んだ。慣性というよりは執念だった。

その足がぐき、とおかしな方向に曲がる。そのままこらえることができず、崩れ落ち、とっさに両手が出なかったので顔面から地面に激突した。やはり痛みは鈍かった。

無理やり起こした視界の向こうで、猪が反転するのが見えた。立ち上がり、即座に身構えるべきだというのはわかっている。だのに体が言うことを聞かない。くじいた足が体重を支える軸になろうとせず、彼女はもがいた。

 ――いやだ、こんなところで。

 目は相手から離せなかった。獣はまっすぐにロワジィを捉えている。彼女が限界に来ていることを本能的に理解しているようだった。

人間相手だったらここで、なんだもう終いかさあ言い残すことがあるなら聞いてやろうだとかなんとか一席ぶたれる場だわね、同じように猪を見返しながら彼女は思った。……事ここに至ってこんなこと考えているあたしもたいがいだけど。

 言い残すこと。あるだろうか。

相手の前足が土を掻く動作を見止めて、ロワジィは両手を脇につきぐっと身を沈めた。死にたいわけじゃない。いさぎよく負けをみとめるなんてまっぴらだ。どうした姿であっても最後まであがいてあがいて、見苦しく生きてやろうと常々思っている。

 でも。

 突進を見計らってロワジィは半身横にころがり避ける。顔の真横を蹄が走っていった。ころがった勢いのまま片足と全身のバネを使って猪にとびかかり、しがみつき、ベルトから引き抜いたナイフを相手の脇腹へ深々と突き立てた。

 絶叫が上がる。暴風だった。あまりの音量にわんわんと鼓膜がふるえ、ほかの物音が聞こえなくなった。

 毛はごわついて固く、しがみつくロワジィの肌をざくざく刺し傷つけた。

 ロワジィは離れなかった。さらに渾身の力をこめ、柄元までぐ、ぐとナイフを肋骨の隙間に押し込む。

 ……でも、もしだめになっちゃったら、会えるのかな。

 あきらめ悪く生きようと思う裏側の、また別のおのれがふと囁いた。

 押し込み切った手ごたえが腕につたわる手前で、猪が大きく身もがきぶるんと首を振った。全力でナイフを押し込み握力の失せた彼女は、そのままふるい落とされ受け身をとる間もなく地面へしたたかに打ち付けられる。肺から空気が瞬時に抜けて悶絶した。

 ……目が覚めたらかなしいだけの夢じゃなくて。

 とどろきが聞こえる。猪が蹴立てる地響きだということは理解していた。動け、脳が体に命ずる。あきらめるのか。仕舞いにするのか。ここで。こんなところで。

 ……あの子に会えるのかな。

 せき込みながらロワジィは顔をあげた。その動きが、彼女がようやく動かせたすべての力だった。泥と汗と血でぐちゃぐちゃの目を凝らし、獣を見すえる。

 ……もし会えるなら、あたしは、

 動けない。――動かない。

 あまりに強大な直進、だらだらと昂ぶりの泡よだれをまき散らし一点に狙いを定める無慈悲な直進、だった。どうと獣臭と熱気が先んじて彼女へ襲い掛かり、がちがちにこわばりながら見開いていたその目がとうとう覚悟を決めたその真ん前で、不意に獣は真横にはじけ飛んだ。

 

 どん、と。

 

 はじけた獣はもんどりうって二転三転し、動きを追ったロワジィは意味がわからず、

「は、」

ぽかんとする。

 はじめに、猪がいきなり気を変え横に跳んだのかと思った。野生の生き物はこちらが読めない不意の動きをすることがまれにある。ちがう。思って即座に否定した。今の動きは明らかに不自然で、力の流れに反している。獣自らのものではなく、外部からのものだ。

次に、なにか爆発したのだろうかと思った。たとえば急に猪の足元で花火がはじけただとか、そういうたぐいの。それほど爆轟性のある一点集中の剛力だった。

そうしてそれから、ロワジィは猪から視線を動かし、荒い息を吐き、おのれの前に立ちふさがる大きな体を見た。

「……あ、」

 大男が猪の横身へ、強暴の勢いで体当たりを食らわせたのだ。のろのろと状況が止まった頭へ滲み入ってくる。

滲み入り、そうして唖然とした。あの突進する猪を轟雷瞬時に吹き飛ばす力が、いったいどれほどの強さのものか、彼女には判じることができなかったからだ。

 数度もがいたのちに、猪は立ち上がった。吹き飛ばされたというのにまるで動じていない。むしろ新たにあらわれた対敵に逆上しているのが、混乱しかけた彼女の頭でも知れた。

――だめよ。

何に対して「駄目」なのだろう。ふと思った。あたしが弱い女になるから?あんたが割を食うから?それとももっと簡単なことで、ここに来ちゃ危ないから?

おのれに説明も付かないままに彼女は制止を発しかけ、

「……あんたが、」

 低く押し出すようなギィの呻きに、そのまま言い詰まる。

「あんたが、どう思うか、もう、知らん」

 背を向けた男の声はくぐもっており、そうでなくても彼女は半ば茫然自失していて、おまけに猪の呼気も喧しい。耳を凝らさなければ聞き逃してしまいそうだ。

「金なんて、どうでもいい」

 ギィは彼女の数歩前にいる。それは守る位置だ。

 意図に気がついてロワジィは目を大きく開いた。

 腰をぐっと沈める。腕を広げ、両足を踏ん張り、猪を正面に迎撃する構えだ。男は、彼女がもう突進を躱せないことを知っている。動けない彼女を背負い走ったとして、無事に逃げ切ることがどれほど難しいことか知っている。

 だから、ここでぶちかましを真っ向から受けるつもりなのだ。

 無茶だ、即座に思った。

 男がいくら縦にも横にも抜きんでていたとしても、膂力に勝っていたとしても、相手が規格外に過ぎる。かなう相手ではない。

 やめろと言いたかった。自分と一緒に共死にすることはない。男だけなら逃げられる。

 逃げなさい。

 だがロワジィの頬はひきつり、舌はもつれて回らない。

 そうして彼女がうまく言葉を形にするより先に、猪が動いた。

 ――……ああ。

 地ふるいがする。

 獣の筋肉のしなりのひとつひとつ、興奮に血走る脈のひとつひとつ、逆立てた豪毛から発する蒸気のひとつひとつが、接地している肌を伝って迫る暴動を直接脳髄へ流れ込む。

 男は逃げなかった。身じろぎひとつもなかった。ただ腰を落とし眼前の猪突をまっすぐに視界に入れ、巌のように立っていた。

 ただ息をのむよりほかないロワジィの眼前で、とうとう両者がぶつかった。がつとひどくかたい音がした。骨と骨のぶつかる音だ。

 猪の重撃をもろに受けとめたのだと、信じがたい思いで彼女は男を見る。

 その背は、退がらなかった。百貫を超える四つ足の相手が、戦槌の構えでもってまっしぐらに男めがけて突っ込んできたというのに、たたらを踏むどころか踏みしめたその場から一歩も退がることはなかった。

 まるで地に深く根を伸ばした大木のようだった。受けとめそのままがっぷり四つに組み、獣の頭を抑えにかかる。

 ――ありえない、

 言葉にならない呻きが彼女の口から漏れた。

猪の主な攻撃方法は突進することと、頑丈な鼻づらでかちあげること、そうして口吻からのぞく犬歯である。

その牙は簡単に肉を裂き筋を断ち切る。

対したのが人間であるときはとくに警戒が必要である。ちょうど太い血管が通る大腿の高さに、牙が来るからだ。不用意に接近し、頭を振りたてた猪の牙でももの内をえぐられるのが、いっとうに恐い。

であるから、ふつうはまともに突進を受けることはしない。

ふつうは。

 男は、まず猪の突撃を受けとめた。それだけでも常識を外れているのに、猪を押さえこみ動きを封じる手に出ている。押さえこむ、と一口であらわすのは簡単だが、これができるかと問われれば、ロワジィはもとより、まず常人には困難な芸当だとしかいいようがない。

 困難というよりははっきり無理だ。

 その無理圧状を押し通して、尋常でない力のある猪をさらに大きな力でねじ伏せようとしているのだ。それがどれほどの剛力であるのか、考えるだけ無駄な気がした。ただ目の前で想定以上の物事が起きている、それだけでいいように思う。

だからありえない、としか彼女には言えない

 まじろぎすら忘れた彼女の前で、獣の頭を押さえかためた男が、ふ、と息を詰める。

 転じていきなり男の体が膨張した。

 爆発したのかと一瞬思った。噴きだす熱気に周囲が重くなる。重すぎて呼吸が苦しい。

ロワジィは顔をゆがめ、それでも目を離すことができない。

 男の肩が盛り上がる。四つに組んだ腕は、がっちり相手に回っている。腕を回したまま徐々に狭めてゆき、頭を絞めようとしているのだと彼女は気がついた。ありえない。重ねて思う。両腕に満身の力を籠める男へ、猪が先ごろまでの余裕をなくし、死に物狂いでのたうち逃れようとした。男は放さない。さらに力を籠め締め付ける腕が、力くらべにぶるぶると震えた。

 万力にはさまれた猪の脚がめちゃくちゃに暴れる。ばたばたと蹄が空を掻き、金切り声が上がった。いまや戦意を失った悲鳴だった。

それでも男は放さない。

どころか尚も腕を絞め、その輪を縮めようとさらに膨れ上がったところで、

 ごぎり。厭な音がした。

 

 だしぬけに静寂がおしよせる。

 

 鼓膜がとうとういかれたのかと、彼女がおののくその前で、猪の巨躯がギィの腕から力を失いずるずるとくずれ落ちた。

「え、……え?……?」

 ロワジィは動けなかった。

「え?」

 いったいどういうことなのか、とっくに理解の範疇を超えていたからだ。……これが恋愛小説かなにかだったらよかったのに。そんなことを考える。

……お話に出てくるお姫さまなら、都合よくこのあたりで気を失って、次、目が覚めるときはベッドの中なのよね。途中途中のどうでもいいような間はみぃんなすっ飛ばされていて、まぶしい朝の陽ざしの中、小鳥の声なんかがしたりして、やわらかなベッドの中で目が覚めるの。人間そうそう気絶なんてできないけど、お姫さまは簡単にやってのけちゃう。だってお話なんだもの。そうして痛い思いも退屈な思いもしない。目が覚めて、覚めたときからきっときれいな顔をしていて、そこに王子さまがやってくるんだわ。

血みどろになったロワジィは顔をあげ、ただ男がゆっくりと彼女の側へ向きを変えるのをたしかめる。

「あんた、……、」

 ぜいぜいと肩を揺らし、ふいごのように荒い息の合間から、ギィが唖然としたままの彼女に呼び掛けた。

「あんた、正気か」

「え、あ、……、え、……、」

 呼びかけられてはじめて彼女の拘束が解けた。目の前の状況、猪がどうして崩れたのか、そうしてどうして起き上がってこないのか、割ともうどうでもよくなっていた。

ただ、今の耳ざわりな音を聞き捨てるわけにはいかないと思った。

 泡を食って立ち上がる。

「腕、……腕ッ」

「……うで?」

 走りよって確認したかったが、ひねった足をすっかり失念していた。気持ち勇んで踏み出したまではいいものの再度ひねり直しぶっ倒れかけて、すんでのところで男が支え、顔面強打をまぬがれる。

 だがそれも今はどうでもいい。わずらわしく支えた男の腕を振り払い、そのまま胸のうちへ抱え込んだ。

「腕ッ!……今の音、今の変な音、腕、あんたの腕が、」

「……ああ、」

 怪訝な顔をしていた男が、ロワジィの狼狽ぶりに思いあたったのだろう。

「俺、ちがう」

かえされた。

「え?」

「俺、ちがう。猪」

「え?」

 猪?

 言われたところでその言葉の意味が頭に浸透せず、さしあたりおのれの掌で男の腕を確かめる。落ち着いて考えれば、よろけた彼女を支えた時点で、男の腕の無事は確認できているということなのだが、動転している彼女はそこまで頭が回らない。

左右とも調べる。ぐりぐりと押すと、男はくすぐったそうに肩をすくめたが、おとなしくされるままに立っていた。

念入りに押す。噴きだした汗でしとどに濡れてはいるものの、おかしな感触は見当たらず、どうやら無事らしいということだけはみとめ、

「折れて、ない……」

 長い息がでた。息を吐いたはずみで、緊張がとけへなへな腰が砕ける。それから彼女は、男の言ったことにふと思いあたってえ、となった。

 猪、とギィは言ったように思う。

「……じゃあ、」

 へたりこんだロワジィのかたわらに膝をつき、甲斐甲斐しく彼女の傷をあらためはじめた男へ、

「猪って、なに」

 たずねた。

「なに?」

「死んでいる」

「なんで?」

「首が折れた」

「え、」

 なに。どういうこと。わからない。どういうこと。わからない。

腕が無事だったという安堵が過ぎると、今度は一気に混乱と現実把握が襲ってきた。一度に許容できる衝撃を軽く飛んでいる。やっぱり気を失えた方がどんなに楽かと思った。見たはずの光景が信じられないのだからしようがない。

駄々をこねる幼児のように癇癪を起こし、同じ言葉をくり返すロワジィへ、ギィは小さく息をつく。

おもむろに倒れたまま動かない猪へ近づき、明かりを掲げてみせた。

「もう、動かない」

「だって、」

「毛がしおれている。動かない」

 照らされた獣の顔は、なるほどたしかに先まで逆立てていた毛がしおれ凪いでいる。だらりと舌がはみ出し、口から血泡が吹き出していた。明かりにもまるで反応がなく、腹部の上下もない。首がおかしな方へ折れ曲がり、どう見ても気絶や仮死ではないように見えた。

 無理やり現実を詰めこまれて、彼女は黙り込む。

 そうか、と鈍った頭のどこかでようやく現実を認識しはじめる。

 猪と男は取っ組み合い、そうして男が打ち負かしたのだ。さっきの音は猪の骨が折れる音だった。折ったというが、首まわりの筋肉というものは体の中でも相当に太くて頑丈なはずで、簡単に骨が折れたり曲がったりすることもないようなものだが、そのあたりの力の数値はもう考えてもしようがないと思った。

疲れるだけだわ。やめよう。

 そう自分に言い聞かせる。

 見ている前で男は猪からすこし離れた場所へ行き、背をかがめて何かを拾った。それから彼女の側へ戻り、見上げる彼女の手へ、拾った何かを握らせる。

 のろのろとロワジィは手元へ視線を落とす。なじんだ感触だった。鉞だ。

 猪にしがみついた際に、知らず手放していたようだった。

 ひとまず状況を分析し脱力した彼女が動かないのをいいことに、猪から受けた裂傷の中でもいくつかひどい部位へさっさと応急の手当てを施しながら、あんた、ちらと彼女を見上げ、男は言った。

「どうした」

「どうしたって、なにが」

「ひどい顔をしている」

「ひどいって、……、」

「泣きそうだ」

「……、」

 それとなく示されて、彼女は押し黙る。思いあたるふしがありすぎてどうしようもない。

 桁外れに大きな猪がこわかったから、一連の騒動が終わって安心したから、受けた傷が痛かったから、すべてにおいて緊張したから、いっそあの時だめになってしまいたかったから、男が無事だったから、見た現実が信じられなかったから、自分の力だけで何ともならなくて不甲斐なかったから、鉞を手放したことが悔しかったから、その鉞がまた戻ってきたのが嫌だったから、それから、……、

 理由としてはあいまいで、はっきりと位置づけできるものではなくて、けれどすべてが当てはまっている気もした。

 そうしてそのどれもが本当はどうでもよくて、難しいことは何もなく、ただ単に泣きたかっただけなのかもしれないと思った。

「あんた、」

 男は言った。

「あんた、もうせんから泣きそうな顔をしている」

 そうしておずおずとロワジィの顔に指を伸ばす。先ごろの猪と対峙したときとはまるで違う、どうあつかっていいのか判らない、おっかなびっくりな指。そんなに大事そうにあつかわなくたって。気づいてすこしおかしい。あたしそこまでヤワじゃないのに。

払いのけることもできたのに、彼女はそれをしなかった。

 とんでもない力技を行った掌は上気していた。温かいというよりは熱かった。暗くてよく見えないが、湯気も出ているかもしれないと思う。

 頬にあてられ、その不愉快なほどの熱に顔をしかめる。無駄に熱い。腹が立った。

 舌打ちをしてロワジィはそのまま男の胸ぐらをつかみ、ぐいとおのれの側に引き寄せる。

 抱きついた。

おわ、と男が体勢を崩しちいさく声をあげたが、無視する。

「連れてって」

 首筋に顔をうずめ、目の前の鎖骨に半ば噛みつきながらロワジィはつぶやいた。

「体が痛い。ぜんぶ痛い。歩けない」

 連れてって、くり返す。

「連れてって、何もわからなくなるくらい、ぐちゃぐちゃにして、」

「――」

 聞いた男が一瞬押し黙る。いったん彼女の意図をはかるように間をおいて、

「……わかった、」

低く応えた。

 

 

 獣のなきがらをそのままにして、ロワジィはギィに背負われて小屋へ戻った。雇い主に報告するのは朝でいいと判断する。とどめは刺してあるのだし、あの大きさでは森のほかの獣が多少つついたところでどうにかなるとも思えない。仮に野犬の群れがいきなりあらわれ肉を漁ったとしても、食べきれる量ではないだろう。

 必要なのは証拠だ。丸のままの死骸ではない。

 それより彼女にとって目下の問題は、場の流れだった。

 勢いで男にああ言ったものの、破れかぶれな気分が次第に収まってくると、妙に気恥ずかしいというか、とんでもないことを口にした気がして、とたんにそわそわと落ち着かなくなった。処女でもないのだし、なにを今さらと思わないでもないが、行きずりの男を軽いノリで誘う女だと思われるのは、あまり気持ちの良いものではない。

 まあ、でも、誘ったのはあたしなんだけど。……結局そうなんだけど。

 そうも思う。

……きっとあばずれと思われてるわね。

勢いで発した言葉を後悔したが、今さらだ。さっきの言葉は本意じゃなかった、と言っても別にこれからいたすことに対して異を唱えているわけではない、ただ、自分を簡単に男と寝る人間だとは思わないでほしい、だとかなんとか、言い訳めいた言葉を連ねるのも、余計恥を上塗りしそうで言えない。つまり取り繕いようがない。

であったので、男の背で百面相をしながら、ロワジィは口を噤んだままでいた。

 男の方はなにを思うのか、やはり無言だった。

 作業小屋に入ると、隅の方に出発前にざっとしつらえた寝床がある。先まで湯あたりした彼女が浴場から運ばれ、寝かされていた場所だ。だのにこうして男に連れてこられて寝具を見ると、ぐしゃぐしゃ丸めた毛布すら変に生々しく思えて、顔が赤くなるのがわかった。今が夜でよかったと思う。きっとおかしな顔をしているに違いないから。

男はロワジィを背から下ろし、褥に横たえる。目を合わせることができなくて、彼女は視線を壁の上部にやった。小屋の換気窓から月が差し込む。

 半月が空をおぼろに照らす、青い夜だった。

 彼女をおろしかたわらに膝をついたギィは、そのまますぐに手を伸ばしてこない。いろいろ考えているのだろうな、とは思った。逆の立場だったらやはり自分も考えてしまうだろうと思う。思ったが、

あのね。

心の中で悪態をつく。あたしだって相当気まずいんだから、勢いで一気に進めてくれないと、困るじゃない。

つい先に自分の口から出た勢いを後悔したが、やはり勢いは重要だと思いなおす。

だのにそのまま男は寝具をととのえたきり動かないでいるので、目を合わせることができないだとか、悠長なことを言ってもいられなくなった。

さっさとするならして頂戴。視線に非難をこめて睨んでやると、傷が、と迷う声でかえされた。

「傷が開く」

「あんたが手当してくれたもの。平気よ」

「熱も出ている」

「風邪かしらね。あとで反省するわ」

「だが、」

 あんたは弱っている、言ってなおも男は逡巡しているので、ロワジィは手を伸ばし、景気づけに男の頬を弱く叩いた。

「あのねぇ。言わないと判らないみたいだから、言うけど。……ここで、あんたがあたしの頭撫ぜて、毛布の上からよしよしってされて、なにもしないで寝かしつけられて、……、そうなったら、あたしがものすごーく立つ瀬がない、って判ってる?」

「……だが、」

「じゃあこう考えてよ。据え膳喰わぬは男の恥、っていうじゃない。……膳っていうほど、ご立派なものはないし、まあ、膳っていうより残りものみたいなもんだけどさ。皿の端に食い残しがある、まだ食えるから、食おう、くらいの」

 重ねてロワジィは言った。自分でもだいぶひどい言い訳だと思った。だがそうでもしていないと、いたたまれなくてどうしてよいのか判らない。

「それか……、そうね、だったらあたしが雇い主だから、……これでどう?あんたは雇い主のあたしの言うことを聞かなきゃならない。だからそういう流れになったんだって」

 それでも男は動かない。そんなに厭なのかな。とうとうおどけていられなくなって、ロワジィはうつむいた。

先ごろ彼女の誘いにわかったと男はこたえた。だがあれは、あの場で乱れた彼女をなだめるために、しかたなく発した言葉だったのだろうか。自分がそう魅力のある人間だとも思えなかったが、ここまで露骨に拒否されるのはさすがに悲しくなってくる。

ああ、どうしよう、なんか泣きそうかも。

「ごめんね。……やっぱり、」

「……そうじゃない」

 男が彼女の言葉をさえぎるように口を開いた。男の頬を叩いたあと力なく下ろした彼女の掌を緩くつかみ、唇を寄せる。

「そうじゃない」

「……なにが、」

 自分の声が湿っているのがわかった。虚勢すらたもてない。情けないことこの上ないと思った。

「俺は、」

 男は言う。

「あんたにひどいことを、する、いやだ」

 彼女の掌から手首、そうして上腕へゆるゆると唇をうつし噛みながら、そうして男はすくい上げる視線をよこす。部屋に明かりはない。蝋燭はとうに消した。だから光源と言えば窓からしのび入る月の朧だけだ。

 その光を反射させる目がある。

「あんたの弱みにつけこむ、いやだ」

 青の映る目を思わずまじまじと見返して、まるで野生動物の燐光だと思った。なんて目をするんだろう。そう思う。こちらがたじろいでしまうほど、まっすぐな眼差し。

「莫迦ね。つけ込みなさいよ」

 ロワジィの口が呟いていた。厭がられているわけではないらしい。気づいてほっとする。そうして自分の言葉がまるで熱に浮かされたようだと思い、それから、実際いま文字通り熱に浮いているなと気づいておかしくなった。……熱が出て、怪我だらけで、ほんと満身創痍もいいとこだわ。

頬が緩む。苦笑いだ。

 上腕から二の腕に唇を寄せていた男は、そのまま腕をたどり肩口から首へと口づけてゆく。まぎれて喉元に舌を伸ばしぺろと舐められたので、ちょっと、彼女はやわらかく男を押し返す。

「汗くさいでしょ」

「いいや、」

「嘘」

「嘘、ちがう」

 あんたにはわからないんだな。言って男は彼女の襟足に鼻をうずめ、すんすんとにおいを嗅いだ。いいにおいがする、そう言う。

膚を男の呼気がすべってゆく。

「……においって、……、」

「あんたのにおいだ」

 ぞくぞくとする。

 それが快感の震えなのか熱の悪寒の震えなのか、判別がつきかねている間に、男がうなじに噛みつき、あ、不意打ちに声が漏れかけ、慌ててこぶしをあてる。まるで待ちかねていたようで恥ずかしかった。

 だが声は切っ掛けだ。

彼女を裏返し、男は彼女を後ろから抱きかかえる態になった。ぐいと身を引き起こされて、視界がぐらぐら揺れた。

 ぐらぐら揺れて、船酔いのようになって、気分としてはわりとよくない方なのに、まいった、そんな笑みがおのれに浮かぶのをロワジィは自覚する。男が圧し掛かかり、彼女をつぶすのをきらったのだと、気づいたからだ。

 そんなに大事にしなくていいのに。今日何度となく思った同じことを考える。

 ちいさな水音とともに、うなじから背筋に沿って甘噛みが吸いつき、落ちていく。いつの間にか皮鎧の紐がほどかれ上着が下にずらされて、膚があらわになっていた。

 受けた傷を避けて男の掌が這う。大きな掌。節のひとつひとつがごつごつと固くて太いのに、すべらかだった。木肌のようだなと思う。

 窓を仰ぐ。月は傾き、小窓の位置からは見ることはできなかったけれど、明かりもない部屋の光源としてはちょうどいい。蝋燭や油ランプの斟酌のない明るさは厭だった。若い膚ならいい。日焼けもなく、ぬけるような白い膚ならいい。傷ひとつない膚ならいい。自分にはないものばかりだ。

 そうしてそれから、この体を明かりにさらしたくないというこころもちは、劣等感というものかと彼女は思った。大きな生まれを厭だと思ったこともないし、変えたいと願ったこともないと思っていたけれど、根底のところであたしはほかより引けを取っていると思っていたのかな。

 それとも、うらやましかったのかな。

 そうも思う。

 誰からも愛される、ちいさくてかわいい女、というものが。

 よくわからない。自分が嫌いなわけではないと思うけれど。

 男の掌が脇腹からおもてに回り、乳房にたどり着いた。やわらかさをたしかめるように丹念に揉みしだかれる。指の腹が乳首を捏ね、そっと押しつぶされて、背筋から尾骶にかけて痺れに似た衝撃が走り、それだけで腰が砕けてしまう。え、となった。

「……なに、」

 これ。

力が抜け、もたれた男の腿に体が密着して、前立てに手が触れる。触れて気づいた。男のまたぐらがきざしている。

 自然に指が動いて、男の下衣の前ひもをゆるめた。こういうとき初めてではないというのは悪くないと思う。……なにも知らなかったら、なにもできないもの。

 ひもを緩め、緩めたところから片手を差し込む。屹立しかけているギィ自身のかたちをなぞりたしかめはじめる。男は止めなかった。代わりにびく、と内股が締まるのがわかって、俄然攻め気になる。自分だけ反応するのは悔しいと思った。

たしかめる指が添える形になりそうして扱くうちに次第に硬さは増して、それは大柄な体に見合う長さと太さに変貌する。……こんなの、はいるだろうか。思わずたじろいだ。

たじろぎ、だのに裏筋をなぞった一瞬、くっと男が息を詰めたことにロワジィは気がつく。気がついてしまう。だめだ、と耳元に吹き込まれた。だめだ。余裕、ない。ささやきはかすれて、それだけで自身の陰裂がじわと湿り気を帯びるのがわかった。

欲しいと思った。だがこうも不意にあふれる情欲をいままで抱えたことがなくて、どうにも持て余してしまう。

経験はある。結婚相手にと村からあてがわれた絵描きの男とは、もちろん夫婦の営みを重ねたし、子も生した。大恋愛の末の結婚ではなかったから、情熱的に抱擁しあうだとか、毎日愛の言葉を交わしあうだとか、そんなことはなかったけれど、大切に思っていたと思うし、隣に眠る相手のあたたかさは心地よかった。

だが今思うとそれは、家という建物の中で、一日一日の暮らしを共にする家族というものへの安心感の方が、たぶん強かったのだ。

きらいじゃなかった。好きかどうかと聞かれたら好きだったと答えるし、愛していたとも思う。ただそれは、絵描きの男個人へというよりは、家族愛、夫婦という態を成す相手を尊重する人間愛だったのだろうと思う。

そのあと村から離れて護衛の仕事をえらび、あらまし卒なくこなせるようになるまで、ほかのことを考える余裕はなかったし、そうでなくてもおのれは「その手の」欲が薄いのだと思っていた。よほど疼くときは自身で処理することもあったけれど、処理止まりでおさまっていたので、その先に進むことはなかった。

ひと晩仲良くしないかね、酒場でひとり飲む女は目だったのだろうし、それなりに意気投合した同業者に声をかけられたこともある。ごめんね。そうこたえて躱した。あたし、そういうことに、興味がないの。

自分はずっと淡白なのだと思ってきた。だから。

 無自覚のまま、男の腿に下半身を押し付けてねだっていた。男の丁寧な愛撫がもどかしい。ねぇ、と声をあげると、思った以上に甘えた声が出て、どうしたものかと思う。こんな自分は知らない。

「まだ、」

 男がこたえる。焦らしているようでなく、ただ彼女の体がまだ迎え入れる準備を整えていない、といった意味でこたえたようだった。

「いい」

 ロワジィは首を振る。

「準備はいらないから、もうそのまま突っ込んで」

「莫迦言うな」

 怒ったように返される。そのまま男は彼女の顎をとり口づけた。噛みつくような口づけだった。頑丈な顎、だったっけ、斡旋屋の主人がギィをすすめた際の売り文句を思い出す。角度を変え、男の舌を迎え入れると、肉厚なそれが彼女の歯列をなぞっていった。上あごの裏を舌先でつつかれてぞわぞわと疼きがこもる。

覆いかぶさる体が熱い。自分もいま熱が出ていて、だいぶ体が熱くなっていると思うのに、いったいどれだけ高体温なのかと呆れてしまう。

 熱さに鼻から不満を漏らしながら、彼女は腕を背後に回し、男の上体を撫でまわす。布越しに感じる筋肉の隆起に下肢がまた甘く痺れた。どうしてかな。軽く爪を立てて思う。浴場で見たり、さわったりしたときは、なんともなかったのに。

 自分だけ膚を見せていて、男が着衣のままというのは厭だった。身をよじって後ろを向き、服を引いてうながす。彼女の黙ったままの要求にギィはすぐに気がついて、無造作に服を脱ぎすて裸身をさらした。月明りに肌の濃淡が墨絵のように映った。

脱ぐようにうながしたのは自分で、だというのに、男の裸に直視できなくなった。自分が裸になることはまったく恥ずかしくないのに、相手の裸を見るだけで、やたらどきどきとなるのはどういうことなのだろうと思う。直視できないほど恥ずかしいのだから、目をそらせばいいだけなのに、こっそりと見惚れてしまう。

脱ぐ一瞬離れた体が、再び密着する。背中に直接男の肌が触れて、びくんと腰が揺れた。服越しとはまるで違うなまなましさに、ええー、もうどうしよう。弱音が漏れる。

「うん、?」

「どうしよう」

「うん、」

「もう、頭の中、すっごいことになってる」

 聞いた男が熱い息の下で笑ったのがわかった。よかったなとかえされ、数度まじろぐ。

「ぐちゃぐちゃに、なりたい、言った」

「そうだけど、そう言っ、……あ、」

 反論しかけた彼女を制するようにして、男が尻の間から手を差し入れ、ぬめる愛液を指で掬った。ああこっちもぐちゃぐちゃだ、言ってそのままあわいへ擦りつけてゆく。莫迦。そんなこと言わなくていいし、そもそもあんたそんなのどこで覚えたのよ。非難したかったのに、肉のひだを男の指がゆるゆる往復して、粘着音があがり、ロワジィにできたのは小さく頭を振ることだけだ。

 翻弄される彼女の掌は、いつの間にか男自身から離れてしまっていて、幼子が探し物をするように、ただ相手の体をまさぐる動きしかできなくなっている。

 熱い。

 男の唇が耳を食む。荒くなった呼吸が吹き込まれて、さらに下肢が濡れてゆくのがわかった。脈が打つたびに染み出す愛液をぬり込めるようにして、男の指が彼女の内へ差し込まれる。指の中ほどまで入れられて、だが足りない。ロワジィはもがいた。そこは浅い。浅いところでなぶるだけの男の指がどうしたって物足りない。

 ほしいのはもっとずっと奥だ。

「――ねぇ、」

 口が動いていた。

「平気だから」

「……だが、」

「お願い、ギィ」

 すがるように男の首へ腕を回す。こいねがわれた男がわずかに逡巡して、それからため息をつく。彼女に呆れたものではなく、頼みに負けたおのれに向けたものであるらしかった。

 いつの間にか瞑っていた目を開き、肩越しにロワジィはギィを振り返る。振り返った彼女に気づいて男が頭を傾げた。

 困った顔をしているのだろうなと思う。

 すまない、と男は言った。

「うん、……?」

「もっと、」

 大事にしたいと思うのに。

困ったようにしていても目は正直だ。情欲にまみれてまるで余裕がない。口でためらう素振りを見せるのは、激情に流されかねないおのれを抑えるためだ。男もいっぱいいっぱいなのだなと彼女は気がついた。

ずく、と彼女の胎が疼く。

 男は背後から彼女を抱き寄せた。はざまにおのれの屹立をすべり込ませ、陰唇を前後する。剛直がしげみを擦りぬるぬると動くと、花核がなぶられ、びくびくと腰がはねた。はっはっと短調な呼吸が耳下にひびき、それがもう自分のものなのか、腰を寄せる背後の男のものなのか、彼女にはわからない。あさましいと思う。だがそれが気味よかった。

すべりの反応をたしかめていた男が、自身に手を添え入口へあてがう。入れるが、いいか、聞いていながら彼女のこたえをもう待たない。ぬめりを利用して、ずると先端が入り込んでくる。その感触が久しぶりに過ぎて、ロワジィの肩はこわばり、短く息を吸っていた。

きつい。

経験がある、と言ったものの、もうずっと長い間そうした行為とは無縁で、割りひらかれる感覚ははじめてに似ていた。さすがに破瓜の痛みはないけれど、男の陰茎は一般的な大きさとくらべてだいぶ割り増しされている上、それが反りかえりがちがちになっているのだ。ギィは彼女の様子をうかがいながら腰をすすめる。決して性急な動きではないのに、膣壁ごしにごつごつと内臓を押し上げられ、充溢感も半端なくて、ロワジィの体は震え、汗が浮かぶのがわかった。脂汗だった。知らず男の腕にこぶしを押し当て、動きをとどめるような動作になり、ちがう、厭なわけじゃない、気づいて慌てて力を抜こうとする。

うまくできない。

「……すまない」

 細かく震える彼女へ男は再度謝りの言葉を口にし、握る彼女のこぶしをおのれの掌で包みこんだ。

「すまない、苦しいな、」

 彼女の背中の汗に男は口づけ、もう片手を下腹へ伸ばし、なだめるように摩る。ほら、とかすれた声でささやかれた。ここに入っている。

 言われてロワジィは、男の鼠径部がおのれの尻に密着していることに気がつき、長く息を吐き出しこわばりを解いた。

「……全部入ってる、……?」

「入っている」

 男がうなずく。それで妙におかしくなった。

すまないだとか口では謝るくせに、ぬけめなく目的は果たしている。気遣いより欲が勝ったのだろうなと思い、我を忘れさせたのが自分の体なのだとしたら、それは悪くない気分だ。摩る手に添えて、同じように腹の上から軽く押さえると、男の形がわかる気がした。

「ふ、ぁ、」

 腹の上から押さえる動作に煽られたのか、内に収めた屹立がどくんと脈打って、はずみで膣奥が刺激される。せりあがった快感にのけぞる彼女の耳に、男がぎりと歯を食いしばった音が聞こえた。衝動と理性がせめぎ合っているのだった。

男側の都合だけで言うなら、じっとするでなくすぐにでもがつがつと抜き差しした方が気持ちがよいだろうに、押しこらえようとするしぐさに簡単にほだされてしまう。

 大事にしたいと思うと男は言った。きっとそれは本心なのだと思えるから、

「ギィ」

 握りしめていたこぶしを開いて、後ろに回し男の腿へあてた。……動いていい、腿を撫ぜうながすと、男が見下ろしてくるのがわかる。

「ロワジィ」

名を呼ばれる。

「俺」

「うん、」

「いま、だいぶ、余裕ない」

「うん、」

「ひどくしてしまう、しれない」

「うん、」

「あんたを傷つける、俺、いやだ」

「うん、」

 いいわ。言葉の出ないことに歯噛みし、たどたどしく本音をぶつける男に、ロワジィはもう一度うながした。ひどくしてもいい。我慢しないで。

 ふ、ふ、とためらう牡の呼吸が聞こえる。だが莫迦を言うなと今度は返されなかった。

彼女の腰に手を当て、数度挿入したまま男は自身を回し、それから抜け落ちるぎりぎりまで引き抜くと、再び押し割り彼女の肉をひらいてゆく。そうして最奥に到達すると、またゆるやかに腰を引く、その動作をくりかえしはじめた。

 男の張り出した雁首のかえしの部分が、引くたびに彼女の内壁をず、ず、と刺激してゆき、知らず肌が泡立った。肉のひだをぷつぷつと擦る動きがたまらないと思う。快感を逃がそうとしてしくじり、内股へ力が籠もる。連動して逆にきゅっとすぼまり内に収まる男の形が、肉越しに感じられた。男がうめく。

 やばい、と男がつぶやいた。やばい。……締まる。

その声は欲心にかすれていて、聞いているだけで彼女の方が達きそうだ。達くと思うとまた膣壁が剛直を締め上げ、腰を支えた男の指に力が入る。

腰が固定され、先ごろより早い動きで猛った肉棒が出入りしはじめた。ロワジィの、というよりは男自身の快感を追う動きだったけれど、ぐずぐずになりかけた彼女の体も、相似て快感を追いはじめ、高ぶってゆく。根元までずっぷりと押し込んだときの陰茎の先端が、善がる一点を突きつめた。出すつもりのない声が口を衝く。

「あ、……ぃあ、いいっ……、」

後ろから挑まれたときにだけ当たるその部分、快感のこぶのようなその部分を、男も突き込みつつ気づいたのだろう、差し入れるたびに、いきりたったエラを集中的に彼女の一点に当てねぶりはじめた。

「い、あ、……ぅ、ぁあ、」

 声が口の端からこぼれるのを止めることができない。口をふさぐ余裕はもうなかった。膝が小刻みに震え、うまく体を支えていることができなくなって、がくんと夜具に前のめる。腕もまるで役に立たなくなっていた。肩で伏し、だが下肢は男が抱えていたので、尻だけ高く持ち上げる態になる。

 犬の交尾みたい。そんなことを思った。

どうせならなにもかもぶっ飛んで白痴になってしまえば楽なのに、頭の片隅に残った理性がつぶやいて、おのれの痴態を知らされる。

 恥ずかしい。気持ちいい。

「あ、ぅあ、あ、……っもう、うっ、あぅ、ひっ……、ぃ、いい、いい、」

顔を毛布にうずめ、見ないふりをした。けれど視界をふさぐと、目が利かなくなった分、あられもなく喘ぐ自分の声、貝肉が擦りあう規則的に繰り返す男の律動、吐き出す荒い呼吸の中に混じって快感をこらえる呻吟、そんな音を聴覚が拾いあげる。

自分の体で男が感じているのだと思う。それがたまらない。

そうして、膣道を広げる肉棒と、そのすぐ後ろに付随し男が腰を突き出すたび花芯をたたいてゆく陰嚢、固定する熱い指、ぱたぱたと男の顎からしたたり彼女の背を打つ汗、それらすべてに身をよじり、おのれから腰を高く上げ男が突くタイミングで同じようにくねらせ突き出した。

「あ、ぅ、ん、……いく、いっ、ちゃ、だめ、だめ、っ……、っ……、!」

 何がだめなのかわからないまま、一気に登り詰めそうしてはじけて全身が硬直し、

「……っ、……っ、」

引き攣ってロワジィは声にならない悲鳴を上げた。

「……ふ、……ふ、あっ…、」

 びくびくびくと陰唇から膣道、そうして子宮口に愉悦の震えが走り、内壁が蠕動する。奥へ迎え入れ飲みこもうとする。

けれど動きは空回りするばかりで、飲みこむものがない。足りない。いつの間にか男の昂ぶりがいなくなっていることにふと気がつき、ロワジィは顔をあげた。

 あげた瞬間、く、と押し殺した苦鳴が聞こえる。男の声だ。次いで熱いほとばしりがしたたる汗とともに彼女の背に降り散らされて、まじろぎ数度、すこし遅れて彼女を開放した男がどさと腰を下ろす音があった。

 ……、……ああ。

 射精の瞬間ギィが自身を彼女の内から引き抜いたのだと理解する。

 ……ひどくしていいって言ったのに。

 快感の度合いからいうと、引き抜かずにそのまま彼女の内部へ叩きつけてしまうのが一番だろうに、そうしない男がすこしうらめしかった。

 内心つぶやいただけだと思ったら、どうやらほうけた口から漏れていたらしい。

 いやそれは、だとか、だが、だとか、彼女の機嫌をうかがいながら言葉をさがす男が、結局言いあぐね、弁解するのをあきらめて長く息を吐き、それからおもむろに体を離し荷物を探る気配がある。

 ――疲れた。

 そもそもわりと最悪な体調の上に、押して行為にいたったロワジィの体は、絶頂のほてりがうまく抜けてゆかず、力も入らない。ぼわぼわと水の中に潜って音を聞くように、燠が胎内でくすぶり続けている。だがさすがにこれ以上は無謀だと自分でも思った。

ので、毛布に顔をうずめたまま目を閉じ、彼女は寝てしまおうとした。

 ほぼ素裸の状態で、しかも汗をかいており、そのまま寝るというのもなんだか面倒なことになる気もしたが、体が動かない。まあ、寝る分、今より多少マシになるんじゃないかしら。投げやりにそう思った。……できれば、毛布を上にかけるのだけは、してもらえると嬉しいけれど。

その彼女の背に、乾布があたる。感触にうすく目を開くと、点した明かりで彼女を照らし、見下ろすギィの顔があった。苦しいような顔をして彼女を見ていた。

「本当は、湯で汚れを流すのが、いい、思うが」

 すまない。

 三度目の謝罪の言葉を口にした。さすがに今の状態で湯に浸けることはいろいろ無理があると判断したのだろう。

せめてもと乾布でまず汚れをぬぐいとり、それから濡らしたもので重ねて拭きとってゆく。あてられた濡れ布巾に、肌は勝手に寒さを覚え身震いしたが、それでも二人分の体液にまみれた体が拭き清められてゆくのは心地が良かった。

「すまないって、なにが……、」

「あんたに無理、させた」

「無理って」

 聞いて彼女はちいさく笑う。あたしがしてほしかったのよ。

「そうかもしれないが、」

 男はすこし眉を寄せ、だが、と言葉を続ける。

「弱っているあんたにつけこむ、やはり、よくない」

「つけ込みなさいって言ったの」

 男は口を噤む。ため息をついた。

黙り込んだまま彼女の体の汚れをぬぐい、あらかた拭き取ると、今度は先ごろ猪を倒した後に処置をした傷をあらため、当て布を巻きなおし、処置しきれていない細かな傷に軟膏を塗ってゆく。

ロワジィも同じように黙っていた。自分から口を開くのは億劫だったからだ。

男は薬を塗り終えると、彼女の体をもう一度ざっと見分し、そうして湿ってない方の毛布で彼女を包む。あたたかい。

「気分は、悪くないか」

「最悪」

 こたえる。言葉の綾ではなく事実だ。

自業自得だと判ってはいたけれど、節々は痛いし、猪にえぐられた箇所は引きつるし、くじいた足も熱をもちずきずきするし、そうでなくても高熱のせいで目暗みと頭痛がひどい。内壁は擦り上げられひりつくし、なぶられた花核も腫れぼったいし、おまけに股の間に何かはさまっているような感覚がする。

訴えにむうと困りはてる男へ、でも、とくるまれた毛布に頭をもぐらせながら、ロワジィはもそもそとつぶやいた。

「気持ちいいって初めてだった」

 顔を合わせて告げるには相当恥ずかしい。あれだけ狂態をさらしておいて今さら恥じらうというのもどうかとも思うが、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 毛布をかぶると、閉ざされた空間にいきなりまぶたが重くなる。くたびれた。湯あたりからはじまって一連の騒動にひどくくたびれた。

「寝そう」

 閉じたまぶたの裏は熱のせいかちかちかして、普通ならそれが気になって眠れないとぼやくところなのに、その元気もない。

 寝ていい、と男が言った。あとは俺がやるからあんたは休んでくれ。

 ぽんぽんと毛布の上から軽く手を当てられ、結局寝かしつけられるのだなと思った。急速に体から力が抜けていく。

「うん。ごめんね」

 かぶっていたので、声はくぐもったものになった。

 毛布からはみ出していたらしい彼女の赤毛へ、そっと男が触れる。そうして指にくるくるとからめ、ほぐしまたからめとる。どこかで知った仕草、繰り返し繰り返し覚めない夢のようなもの。

 飽きもせず同じ動作をくりかえす。

 

(20180215)

 

 

 

 

 

 

最終更新:2018年03月11日 01:06