「おかえ――え、え、え?」
ひどく静かな夜だった。
大きな寒気が上空になだれ込んで荒れるそうだ、気象にかかわる仕事のものどもの立ち話が聞こえた。
いつ?
今日の昼過ぎあたりじゃないか。
気圧だとか風速だとか、そのあと彼らはさらに話し込んでいたけれど、無学のチャトラには天気の難しい仕組みは聞いてもよくわからない。ただ、とにかく今冬一番の寒さだということだけは、回廊を歩く息の白さで身をもって理解した。凍みる。半端なく凍みる。
身震いするというよりは歯を食いしばってこらえる寒さだ。あたたかな肌着や外套を着込んでいるとはいえ、回廊のあちらこちらに配置されてひたすらに割り当てられた時間立ち続けることができる歩哨を本気で尊敬する。できない。自分には絶対できない。きっとその場で足踏みしてしまう。
そんなことをチャトラは思った。
気象士たちの話通り、昼過ぎからぐんと空気が重くなって、皇都ではわりとめずらしい雪が降り始めた。音が吸いとられてゆく。都のある大陸中央部は冬になると特有の空っ風が吹いて、それでもかざはなが舞うことはよくあるけれど、こうして天上から際限なく降りもつもつと積もってゆくことはなかなかない。
寒さは苦手だ。
けれどこうして、薪をくべてあたためられた部屋から、雪の降る様子をひたすら眺めるのは悪くないな、と思う。昔とくらべてなんて贅沢なのだろうとも。それから、雪が降ると音がなくなるって本当だなあ、だとか、雪って氷の細かい粒の集まったものなのに、なんで綿みたいにふわふわしてるんだろうなあ、だとか、のんきなことを頬杖をついて考えて眺めているうちに、扉の外のあたりが騒がしくなった。この部屋の持ち主が戻ってきたのだ。
今日はずいぶん早いな。
朝はそう悪い顔色ではなかったから、いきなり体調を崩したということではないと思うけれど、この寒さだ。きっと執務室から居住区域にわたる回廊を歩いただけで、もともと低体温の男は氷のように冷えているにちがいない。
冷えてるくせにあんた自分じゃ気づかないからな、そうひとりごちて暖炉前の安楽椅子にかけていた男の部屋着を手に取り、おかえりと出迎えようとして――冒頭だ。
「え、え、え、え、」
次の言葉が出なかった。
「――おかえり?」
「いやいやいやいや、え、え、え、えーっ?ちょっと待ってあんた、え、なんでだよ?なんで?なに、どうしたのそれ?え、ほんとなんなのそれ?」
仰天するというのはきっとこういうことを言うのではないかとチャトラは思う。続きをうながすように首をかしげた皇帝に対して、かえすこともできずに頭の中は真っ白だ。
それほど目の前の光景に違和感があった。
かしげた男の動きに流れた金茶の房が、ばっつりと絶たれている。
ない。
男が身動くたびにヴェールのように追従してうねり流れ、あるいは風に舞い、本人はその動きに大儀そうにしていた長い髪がない。
そこまで驚く必要はないのかもしれない。髪が短くなっている、それだけだ。人間だれしも気分転換でよそおいを変えることはある。皇帝の気まぐれは今にはじまったことではなくて、そもそもチャトラが皇都に連れてこられたのも、言ってみれば男の気まぐれだ。
けれど内心その長さが気に入っており、いやもうこのすべらかさがたまらんよ、だとか中年オヤジよろしくこっそり愛でていたチャトラにとって、男の肩に触れるか触れないかの短さまで詰められたそれは、わななきを覚えるほどの衝撃だったのだ。
「え、アンタ、朝、髪切るだなんてひとっことも言ってなかったよね?」
「なかったね」
「今わりとひっくり返りそうな勢いで驚いているオレに言うことはありますか」
「首のあたりがすうすうするかな」
いまだに見ている事実が信じられなくて詰め寄っている彼女と対照的に、男は何も変わらない。いつものようにだるそうで、眠そうで、くたびれている様子だった。そこでひとまず自分の問題は置いておくことにして、すでに侍従長によって脱がされていた執務着のかわりに、手にしていた上掛けを男の肩に着せ掛ける。
皇帝の肩はやはり冷えていた。
棚上げしたつもりでもチャトラは確かめずにはいられなくて、男の後ろに回り、ああほんとうに、ない。ない、ない、と思わず口に出して呟きながらためつすがめつ、難しい顔をしていると、暖炉前まで足を運んだ皇帝が面白そうな顔で彼女を見ていた。
「そんなに驚くことかな」
椅子に腰かけ、深々と息を吐きながらそう言う。
「驚くっていうか……、驚きを越えてもうね、慟哭ですよ、オレは」
「――ほう」
「毎朝アンタが出かける前に丁寧に丁寧に櫛入れて、ほつれとか一切ないようにして、いってらっしゃいって見送るだろ、髪を。……それから帰ってきて、風呂だろ?編み込まれたのをほどいて、洗って乾かして、また梳って……、アンタのやたら細いから、切らないように細心の注意払って取り扱って、……、そんなふうにオレが大事に大事にしてきた髪が!ない!どういうこと!」
がっくりと肩を落とし、チャトラは嘆いた。丹精込めて育てた花木が不意の暴風に根こそぎ倒され使い物にならなくなった、庭師のかなしみに似ていると思った。とりかえしのつかない。また伸びてくる髪に我ながら大げさだと思うが、それほど彼女はショックだったのだ。
「焦げた」
「は?」
「焦げた」
「え?焦げ……?は?焦げた?」
腹立ちまぎれにこぶしを握り力説した彼女へ、こちらはまるで気のない素振りで背もたれに身をあずけ、皇帝が言った。言われた言葉が理解できなくてチャトラは目を白黒させる。焦げた。どうして。どうやって。
「――新しく雇い入れた侍従見習いが不調法してね。燭台を倒したのだよ」
「蝋燭……」
「そう。焦げた。ゆえに切った」
「焦げちゃったの……」
焦げたのか。焦げたならしょうがない。だって焦げたんだものな。
誰にだって失敗はある。自分だってある。というか自分なんて毎日失敗だらけだ。侍従見習いともなれば覚えることが山のようにあるはずで、しかもこの上っ面だけはやたらきれいなひとの前で平常心を保てる人間はあまりいない。そう自分に言い聞かせる。
だから、がちがちに緊張した見習いが、うっかり袖をひっかけて燭台を倒してしまったのだとしても、それは責めるべきでない。しようがないことだ。判ってる。
腰かけた皇帝の裾を整えてやり、膝に銀鼠の毛皮もかぶせた。それからあきらめ悪くまた後ろに回る。空間がどうにもすかすかしてたよりない。いままであるのが当然だったものが、ある日唐突になくなるはかなさというのは、こんなにも喪失感があるのか。
「あああオレの髪―……」
よほど情けない声を出していたらしい。薄く目を開けた皇帝が視線をよこしていた。口を開くより先にもの言いたげな目が笑っている。
猫、と呼ばれて手を引かれた。男に付き従ってきた一連の人間はすでに退室している。であったので、とくに抗いもせずチャトラの体は皇帝の膝の間におさまった。動きに毛皮が床に落ちて、折角かけたのにな、横目で見て思う。
「なに」
唇を親指の腹で撫ぜられる。
「珍しいと思ってね」
「なにが」
「お前がことさらなにかに執着する姿を見たことがなかったのに」
「あー……まあ、……そうね」
言われてうなずく。たしかに自分はものに対して執着心が薄い方だと思う。服は暖がとれるだけ、飯は空腹が満たされるだけあればいいと思っている。装飾品は興味がない。赤や青や緑に透き通る宝石を見て、きれいな色だと思うし、皇帝が身に着ける手の込んだ細工ものを見てなんて見事なんだろうと感心することはあっても、それで自分を飾りたいとは思わなかった。育ちなのだろうか。よく判らない。
「でもそれ言うんだったら、アンタだって似たようなもんだろ」
言ってチャトラは男を見かえした。
「オレ、アンタがなにかほしいほしいって騒いでいるの、見たことないよ」
だけどそれもそうかもしれない。言ってから彼女は思った。なにしろ男は望む望まないに限らずたいがいのものは手に入ってしまうのだ。
「――そうかな」
けれど言われた皇帝は首をかしげている。
「自覚ないの?毎年の誕生祝い。よその国の偉いひとから送られてくる高そうな贈り物、アンタ中身たしかめもしてないじゃねぇか」
リボンすらほどかれずに放置されている大量のそれ。結局片付けるのはチャトラやほかの侍従どもだった。
「欲しくもないものだからだろう」
あっさりと男が切り捨てる。ほら喜べこれをくれてやろうと無遠慮に頬に押し付けられてうれしい人間がいるかね?
「いや、まあ、そうかもしれないけどさ」
「私は強欲であるよ」
す、と臙脂の唇が持ち上げられる。いや、貪欲かな。
「強欲って」
「――手に入れたいものは必ず手に入れぬと気が済まぬ」
長い睫の下からすくい上げるように皇帝はチャトラを見た。目の色が薄くなる。茶色の瞳が文字通り白茶けて見えて、うえ、と彼女は声をあげていた。
「え、これって、そういう流れなの」
「『そういう』流れなのだ」
猫、猫と皇帝はチャトラをそう呼ぶことが多いけれど、くすくすと笑う本人が一番気まぐれな猫に似ていると彼女はいつも思う。
男の右手が彼女の服のあわせをまさぐり、いつの間にか釦が外されている。器用なものだ。感心している間に耳朶を軽くついばまれた。短く切りそろえられた毛先が、うなじをくすぐり、その感触にぞくぞく肌が粟立つのが自分でもわかった。
「お前は髪が好きなのだったね」
「え。……え?」
欲心しチャトラを見つめる顔はそのままなのに、髪の長さがまるで違う。なんだかすこしだけ知らない相手のようで、どきどき胸が騒いだ。落ち着かない。
「その髪の持ち主は――?」
「知るか」
からかわれて思わずそっぽを向いた。顔はきっと赤くなっているのだろうなと思った。
嫌いであるはずがない。嫌いだったら手を引かれた早々に、飛びのいて噛みついていたにちがいないから。
「アンタね、そう言われてオレが素直にこたえると思う?」
「思わない」
「じゃあ言うわけないだろ」
「言わせたいのだ」
「趣味悪ぃよ」
どうにも居心地が悪くて腹立ちまぎれに目を閉じた。身をよじって逃れようとしても、男はがっちりと両膝でチャトラをはさんでおり、逃れるすべがない。
「――その」
目を閉じる彼女の動きも予測済みだったのだろう。彼女が視界を塞いだのをいいことに、男は耳朶からそのまま首筋を伝い鎖骨に噛みつく。引けたチャトラの尻をわしづかみにし、揉みしだいた。
「悪趣味な男が好きなのだろう?」
気がつくと上半身を剥かれて毛皮の上に転がされている。最高級品質の毛皮のすべすべした肌触りが素肌にじかに触れた。目を開いて見上げると、皇帝がおのれの着衣をゆるめるところだった。視線は先んじてチャトラを嘗め回していた。目の色が欲に濡れていて、つられてチャトラの下腹が疼いた。困る。そう思う。そんなふうに半端ない色気をふりまかれるとすごく困る。
「……ねえ」
「うん、――?」
チャトラの上に覆いかぶさり、男が掌で彼女の体のあちらこちらを確かめる。お前はどこもかしこもやわらかいね。いちいち身をよじり反応してしまう自分は、きっともうこの男に相当毒されてしまっているのだ。
防戦一方は悔しいと思う。だから、
「アンタがどうしても欲しいものって、オレ?」
「――」
聞かれて男が一瞬たじろぎ、チャトラを見下ろす。いつもならその角度で彼女の上に慈雨のように降りかかる金茶の髪が今日はない。こしのないそれに檻のように閉じ込められてゆく感覚が好きだった。早く伸びるとよいなと思う。
「お前は」
しばらく思案するそぶりを見せて、それから皇帝が口を開く。
「そう聞かれて私が素直にこたえると思うのかね?」
「思わない」
「では言うわけが――」
「言ってよ」
先の彼女の言葉をなぞりかける男へ、かぶせて言った。
物欲がない。たしかにそうだろう。けれどまるで形のない男の言葉なら、いくらでも欲しいと思う。だからきっと貪欲なのはお互いさまなのだ。
「オレのこと欲しいって言って」
相手の耳にささやく。蛇の毒のように染み入り、鼓膜を静かに伝って脳髄に浸透してしまえばいい。
「――」
「オレのぜんぶ欲しいって言って」
悪魔のささやきに、焦れた色を目ににじませて皇帝は身を伏せ、チャトラの耳元で小さく数語、呟いた。