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農作業小屋の換気窓から見える空の色が、秋から冬のものになっていた。

青く抜けるだけだった秋から、さらに深みを増し澄み透り、呼気に白く湯気が上がる。夜には星がよく見えた。

ロワジィが小屋で寝起きするようになってから、半月ばかり暦が進んでいる。

寝て、目が覚めて、薬を飲み、いくらかの食事を口にして、また寝るのくり返しをしているだけなのに、いつの間にか日が明けまた暮れている。こわい。

時間の流れというものをまるで気にしたこともなかったのに、こうして特にすることもなくただ横になっていると、えらく早いものだなと感じた。

ひたすら寝ている気分が、なんだか蛹みたい、そういうと老人が笑った。面白かったらしい。

いま厄介になっている農場を出て北の、だいぶん離れている村から往診にやってきた薬師だった。五日にいっぺん顔を出し、ロワジィの傷の具合を見つつのんびりと長話をして帰ってゆく。

ほかにも病人やけが人を抱えているだろうに、わざわざ自分のために片道半日かけて出向いてもらうのも申し訳ない、薬をまとめて置いて行ってもらえればあとは飲むから、恐縮した彼女がそういうと、わしはヤブでな、飄々とかわされた。

ヤブ医者に好き好んでかかる人間は、いまは、あんたくらいのもんだな。

そうして律義に通ってくる。

おそらく彼が抱えている患者の中で、いっとうにロワジィが重篤だったということなのだろう。じきに察した。死にかけた、ということがやはりいまひとつぼんやりとして実感できないのだが、そういうことなのだ。

「――しかし、こう言っちゃあなんだが、よくまあ、あんた、持ち直したもんだ」

 ひとつひとつ丁寧に傷口をあらため、薬を塗り包帯を巻きなおしながら、老人は言った。歯に衣着せぬ物言いをする男なのだと、彼女ももう知っている。

「はじめの診たてじゃあ、もうだめだと思ったが。……うらやましいねェ、若いから傷の治りも早い」

「若いって」

 言われてついロワジィは笑ってしまう。強く力を入れることはまだできないけれど、咳ばらいをするだとか、会話の端々に笑うだとか、腹回りの傷の引き攣れは相当ましになった。

最初の数日はくしゃみをしただけで死ぬかと思った。本気で死ぬかと思った。

痛みで一瞬目の前に、ちかちかと白く星が散るのだ。できれば二度と経験したくない。

「年をまたげば三十になる女に、若いも何もないわ」

「三十。わしにいわせりゃまだまだ若い」

 六十を超えてごらん、傷の治りがおそろしいことになるから。そんなふうに脅される。

「体が年を食うとね、かさぶたになるまでがまず三日かかるのさ。これはむかーし村の年よりから言われた言葉だがねェ。……わしも若い時分は、なにを言われているのかちっとも理解できなかったが。あんたの縫い合わせた個所の傷が引き攣れるっていうことは、皮と皮が合わさって、早く互いにくっつこうと引っ張り合っているからなんだよ。そうでなけりゃ、」

「なけりゃ……、?」

「そうでなけりゃ、まあ、縫い合わせたわしの腕が悪かったってことだな」

 言って老人が笑う。だから患者がつかない。そう言った。

 つられてロワジィも頬を緩める。言葉とは裏腹に、彼の医術の腕はたしかなものだと思う。だからこれは、謙遜というよりは軽口のたぐいだ。

「――そういえば、村で噂になっていたがね、たいそうな名前がついたそうじゃないか」

「ああ……、」

 最後の包帯を巻き終わり、もうそろそろ体を大きく動かす許可を出せるかな、言いかけた彼がひょいと思い出した態で、たずねてくる。

「いのしし殺し」

「……言わないで」

 げんなりしながらロワジィはこたえた。

 寝込んでいる間にいろいろあったのだ、と目を覚まして最初に聞かされていた。聞かされたときは、それもそうだろうな、数日寝込んでいたのだものな、そんなように流していた。

その「いろいろ」の詳細を、容体が落ち着いてのち申し訳なさそうに説明されて、聞かされた彼女はしばらく絶句し、そうして頭を抱える破目になった。

 猪退治を引き受け、そうして出向いた。それは事実だ。

だが猪の突進を止めたのも、とどめを刺したのも、ロワジィではなく同行していたギィだった。彼女はただ見ていただけだ。

けれど、翌朝になって、転がされた獲物の大きさがあまりのものだったので、見つけたものが騒いだ。騒ぎは伝播し野次馬の人数が膨れた。どういう具合で仕留めたのだと農場のものどもへ説明する必要に迫られたのだが、ロワジィはぶっ倒れており、話の出来る状態にない。

役目は男に求められた。

説明する段階で、男はまずだいぶ悩んだらしい。

たしかに猪を仕留めたのは自分だが、それをそのまま言ってもいいものかどうか。正直に言うことで、支払われる賃金になにか差し障りがおこるのではないか。

仮に仕留めたのは彼女なのだと告げて、あとから自分だと明らかになってしまった場合、それで雇い主と揉めることはないか。

悩んだ末、結局、猪を倒したのは彼女ということにした。

それはそれで騒ぎになった。

なにしろ猪は力任せに首の骨をへし折られて絶命しているのだ。男の話が本当なら、ロワジィは度はずれた怪力の持ち主だということになるわけで、いったい、どうやって。問いただす面々に、

――いや、詳しくは、……、でも、こう、力、入れたら、……その、……、折れて……。

おかしな汗をかきながらどもりどもり、男は首をひねりこたえた。

常ならそこで疑われたのだろうが、説明したのが言葉のうまくない男だったことで、聞いたものどもが適当に想像を補い、納得したらしい。

とにかくけた違いに剛力、というところに落ち着いた。誰が言い出したのか、ついたふた名がいのしし殺し。そのままといえばそのままの名前だったが、逆に「くずし牡丹」、だとかおかしな方向に突っ走らなかっただけ、よほどましともいえる。

ましと思おう。

用を足しに表に出たら、たまたま向こうの方を歩いていて視線が合ったものから、ものすごく畏れと好奇心を丸出した目を向けられてしまった。見ろ。いのしし殺しだ。ささやいている声まで聞こえた気がする。

頭を板壁に打ちつけたくなった。

それでも、説明したギィに悪気はなかったのだろうから、怒る筋合いはない。猪を倒したのがギィだと判っても同じことだ。異名がつくのがロワジィから男へと変わるというだけで、結局あの大きさの生き物を仕留めたのだから、大なり小なり奇異の目で見られることに変わりはないのだ。

ただ、よくよく考えていくと、男の方が、より「いのしし殺し」を冠するにふさわしい風貌な気もしたが、今さら言ってもしかたない。諦めよう。……あきらめろ。あきらめるんだ。

 そのかわり、その判りやすいふたつ名のおかげで、あちらこちらの農場から、敷地を荒らす鹿だの山犬だのの駆除の頼みが舞い込んだ。仕事が増えることは単純にありがたい。寝ている間稼ぐ当てはないのだし、次の場所に移動したとして、すぐに仕事が見つかるとも限らない。

怪我の功名と思うことにした。

「さすがにもうあんなに大きなのの相手はごめんだけど……、」

 動けるようになったらすぐに向かうと約束して、待たせている。そういう意味でもあまり悠長に寝てはいられない気持ちなのだ。

「金か」

 汚れた指先をぬぐいながら、老人が言った。

「稼いで、どうするね」

「……どうするって、」

 あいまいに笑ってロワジィは首をかしげる。

「食べたり、寝たり……、暮らしていくためにいろいろ必要でしょう」

「だが、あんたは別に浪費癖があるってわけでもなさそうだ。長年人の体にたずさわっているとねェ……、診るとね。だいたい判るんだよ。賭け事にのめりこんだり、金遣いの荒い体のたわみっていうやつが」

「――」

「あんたの仕事の相場ってやつをわしは知らないがね、それなりに貰うのだろ」

「どうかしら」

 言葉尻をぼかして話を終わらせようとして、それからふっと気が変わり、いろいろとあってね、彼女はつぶやく。

「いろいろと事情があって入り用なの」

「それで無理して稼いでいる」

「無理かな」

「散財癖のたわみは見られないが、だいぶあちこちくたびれている。今度熱を出したっていうのも、つまるところ、そのあたりだろうさ」

「――」

「仕事をするなと言っているわけではないよ。だが、いまの内から体をいたわっておかないとね、……わしのころにはひどいことになっとる。あとから悔やんだってとりかえしがつかないんだ。悔やんでいるわしが言うんだから、間違いない」

「自重します」

 老人の言葉に彼女は素直に頭を下げる。下げた頭の上へ、

「まあ、明日から、すこしずつ体を動かしてもよい」

そうした許可が出た。

許可を得て、ほっとした。なにしろほとんど寝たきりだったのだ。護衛稼業に必要な筋力が落ちていくのは、彼女にとっては痛い。

……素振り五十はさすがに無茶かな。

「いきなり無茶はしないように」

 考えを見透かされたように医者から釘を刺され、ぎくりと肩をすくめるロワジィである。

考えが出ていたのかしら、つるりと掌で顔を撫ぜたところへ、がた、と軋んだ音を立てて小屋の扉が開かれる。目をやると、作業で付いたのか藁くずを払いながら、ギィが小屋に入ってくるところだった。戸口で足をつと止め、老人がいることに気づくとちいさく頭を下げて、それから貰った、言って彼女に片手でかかえていた手土産を見せる。

手伝いから戻ると、いつもなにか持たせられて帰ってくる。小作人たちからの心づけのときもあったし、農場主の娘から、そういって焼き菓子の布包みだったこともあった。最初は遠慮ばかり先に立ったが、今はありがたくいただくことにしたロワジィだ。

「自家用で悪いが、食ってくれって、そう」

 握ったこぶしの半分ほどの姫りんごが数個と、粒の不揃いなぶどう、それと卵がいくつか。

「すごい、卵なんてごちそうじゃないの」

目にして思わず声が出る。

「茹でたら、おいしそう」

彼女の言葉にわずかにうなずき、それから飯の支度をしてくる、言ってまたすぐに男は小屋を出ていった。もともと仕事戻りに、彼女の様子をのぞきに来ただけのような素振りだった。だが、その中に余計な会話をきらう色が垣間見えて、静かに閉じられた扉にため息が出る。

いまにかぎらず、この半月ずっと、男は意図的にロワジィを避けている。

男の手を借りずとも自分で起き上がれるようになり、身の回りのひと通りができるようになると、比例して、朝から晩までほぼ出ずっぱりで、男は農場の仕事を手伝うようになった。

農園は越冬準備を終えると農閑期に入る。住み込みの作業人に暇を出し、家に戻らせてやったりする。戻った家で、それぞれ年を越えるのだ。

とはいえ、百姓仕事に暇はない。酒の仕込みがなくとも、畑に出なくとも、やらねばならない雑務は山のようにある。

網を繕う。縄を綯う。春撒く種を選り、夏の間に刈った羊毛を洗い、濯ぎ、紡いで糸にする。

積み重ね発酵させた牧草を、倉庫に詰めていく。

そのほかにも冬越えの食糧の貯蔵準備やら、雪囲いやら、防寒対策やら、とにかく人手はあるだけあってありがたいのだ。

そのうえ男は大きななりとは裏腹に、たいそう器用だった。これは老樵夫と二人だけの、何事も自身でこなさなければならない不自由な育ちもおそらく関係があるが、男のおおもとの部分がたぶん器用な部類なのだ。

器用な人間は雇う側にはありがたがられる。寡黙な男であったので、むつむつと黙って言われた仕事をこなす。あれもできるか、これもできるか、言いつかる仕事に男は不平不満を見せないので、ますます重宝されているようだ。

ので、姿を見ない。

文字通り朝から晩まで姿を見ない。ロワジィがまだ寝ている時間にそうっと足音を忍ばせて出て行って、寝入るあたりにもどってくる。

今日はめずらしく早く戻ったというだけだ。

話しかければ返事はするし、必要な会話は交わす。それはけっして人あたりの悪いものではなかったけれど、男は最初に会ったときのような、まじろぎなくまっすぐな目で彼女を見ようとしてこない。

視線は常に伏せられていた。

これで避けられていると思わない方がおかしい。

――面倒になっちゃったかな。

なにしろ迷惑と手間ばかりかけている。彼女がギィの雇い主ということを差し引いても、この半月のあいだ、男には世話になりっぱなしだ。

 若いね。

手元の処置器具を鞄にひとつひとつ戻しながら、老人がのんびりとつぶやく。

「……え、」

 つぶやきに思わず聞き返すと、あっちの男もさ、続けて言う。

「よっぽど、あんたを助けたかったんだろうよ。ものすごい勢いで家に飛び込んできて、……、あのデカさだろう?家が揺れたし、興奮した牛でも突っ込んできたのかと思ったよ」

「――」

 老人は半日かけて村から農場までやってくる。そこに医術を知るものがいると聞いてあの日たずねたギィは、どれほど急いて道を行ったのだろうと彼女はふと思った。

「なんとかしてくれと頼まれることは、わりとあるんだ。熱を出した子供に付き添う母親とかね。だが……、あそこまで、なりふり構わず助けてくれと頼みこまれるのは、なかなかないわな」

「――」

「若いねェ」

 老人は正気をなくしぶっ倒れていたロワジィの体をあらためている。抱かれたあと一日置かずに薬師を呼びに行ったのだろうから、全身に散らされた鬱血の痕や情交の名残りは当然目にしただろうと思われる。

恥じらおうか。恥じらったらいいだろうか。もうさんざん裸を診せていて、痕も消えているのに、いまさら?

どうしよう、彼女が虚空をにらんで思い悩んでいるうちに、だからさ、老人は続けた。

「若いから、いろいろ悩むこともあるって……、つまり言いたかったのはそれだ」

「――」

「山の動物みたいな男だろう?」

 そうね、クマよね。

ちいさく応じると、そうだな見た目はクマだわな。老人が声をあげておかしそうに笑った。

「中身ははりぼて被っているこま鼠みたいなもんだが。臆病なんだろうなあ。……そういう、飼いならされている犬猫とちがって、山の動物を馴らすにゃ時間が必要なときもあるだろ」

「そうね」

「大きな音を立てたり、大きな動きで驚かせてしまったときは、だいぶ待たないと警戒して寄ってこない」

「そうね」

「だが、辛抱づよく接してさえいれば、そのうちあちらさんから近づいてくる」

「……くるかしら」

 世間話をしていたはずなのに、温容な物言いについ弱音が漏れた。厭われているんじゃないか。そうにしか思えない。好きだとあらわすどころか、日常のあいさつすらおぼつかないこのところの男の態度に、正直まいっていたところもある。

 くる、鞄から煙管をとりだして、口にくわえながら老人はうなずいた。

「……腹を空かせているところへもって、とびきりのごちそうが手の届くところにぶら下がっているのに、素通りできる獣はいないよ」

 獣でも、男でも、同じようなもんだが……まあこれは女のあんたにゃわからない境地だろうなあ。

「あああもう」

頭をぐしゃぐしゃとかき回す彼女へ、若いねェ、と老人は三度目の感嘆なのだか揶揄なのだかわからない台詞を口にし、長々と煙を吐いて静かに笑った。

 

 

 老人が帰り、入れ違うようにして男が夕飯の支度を終えて運んできた。

ゆで卵が盆代わりの板の上に並んでいるのを見つけて、先ごろまで複雑な頭を抱えていたのに、なんとなくうれしくなってしまう。話しているときはおとなしくしていた腹の減りを急に覚えた。きっと自分はわりと単純にできているのだ。そう思った。

 寝床から降り、木箱の上に男が並べてゆく食事の前に座る。朝と昼はひとりで適当に済ませていたので、あたたかい湯気の立つ食事がとてもありがたかった。

 今日の夕飯はパンとゆで卵、それに干し肉を戻した水と野苣(のぢしゃ)を煮込んだスープだ。男の準備が終わるとざっと祈りの言葉を口にし、まずは卵に手を伸ばす。

 茹でたての卵は人肌よりも温かかった。温かな殻をむきながら、のぼる湯気ににんまりとなる。

 ロワジィは食べることが好きだ。

普段なにも考えずに食事していたけれど、こうして食べ物を咀嚼し飲み下す一連が自然にできる、というのはとても素晴らしいことなのだなと、怪我をしてつくづく実感した。

体が健康であり、なんでも食べられておいしいと感じる。それはとても大事なことだ。

向かいで食べるギィがパンをむしりながら、ちらとこちらをうかがう気配を感じたので、おいしいと応じる。男の器用さは作る食事にもあらわれているように彼女は思う。

手の込んだものを作るわけでも、複雑な味付けをするわけでもない。だが「うまい」のである。

料理というものは、実際一種の才能と言おうか、勘、のようなものが必要だとロワジィは思う。勘のあるものとないものが作った場合、同じ作り方をしているはずなのに、出来上がったものにだいぶん差ができる。どういうわけだかできる。

村にものすごく美しい女がいた。

人妻で、子供が三人あるにもかかわらず、同じ部落どころか離れたほかの村のものから夜這いの誘いがあるだとかないだとか、まだ少女だったロワジィの耳に入ってくるほどに美しい、においたつ藤の花のような、あでやかな雰囲気の女だった。

立っているだけでさまになる。気、だとか目に見えないものをあまり信用する癖は彼女にはないが、その彼女ですら側に寄るとなるほどこれがフェロモンってやつなのか、そんなふうに納得してしまえる、惹きつけるなにかがその女にはあった。

それこそ、絵描きの男が題材にしておかしくない美女だった。

ただし飯はまずい。

ロワジィの村は貧しかった。だから、調理法も凝ったものはなく、焼くか煮るか茹でるか、味付けと言えば塩ぐらいのもので、香辛料や甘味は貴重だった。

ので、彼女は料理というものは、誰がこなしてもだいたい同じような味付けになるものなのだと思っていた。塩加減、焼き加減に、多少の差はあっても、それは僅差というもので、老若男女、ほぼ同じ味になるものだと信じていた。

実際父が作っても母が作っても、教えられた自分が作っても、出来上がりに大差はなかった。同じような塩加減、同じような焼き加減、それが普通だと思っていた。

その常識をきれいにくつがえされた。

あでやかな人妻の料理をたまたま口にする機会があって、口にした瞬間彼女は目を剥いた。吹き出さなかったひと通りの礼儀というやつが自分にあったことを感謝する。

ごくり、とほとんど丸呑みした音がおのれの耳によく聞こえた。口の中で細かく噛みくだいて味わうことがどう考えてもできるしろものではなかった。

塩からいだとか、焦げているだとか、そうした例を挙げられる失敗を超越している。

とにかくとんでもなくまずいのだ。

え、と思わず戦慄しながら、声を潜めてたずねた覚えがある。なに、どうしたのこれ、大丈夫?お鍋が溶けたとか、お肉が腐りかけだとか、なんか、そういうの?

肉と野菜を煮ただけなのだと聞いて、二度おののいた。

煮ただけ。これが煮ただけなのか。

 ――お口に合うとよいのだけれど。

作った当の本人に、悪びれたところはどこにも見受けられなかった。たくさんあるからお替りもどうぞしていらして。

嫣然とすすめられ、引き攣った笑顔を返し、それから思わずその家のほかのものの顔を、黙ったまま順繰りにながめてしまった。

いいんだ。判ってる。聞くな。判ってる。

諦めというよりは悟りに近い面を見て、ああ、と納得し、それ以上は触れないようにして、そそくさと出された飯をかき込んで退出した。

今思い出してもまずかった。後にも先にもあそこまで強烈なものにはお目にかかれていない。

家に戻ってとくべつ腹をくだすでも気分が悪くなるでもなかったから、食材に悪いところはなかったのだろう。作った人間の問題だったのだ。

その出来事があったすこし後で、薬缶を火にかけただけでなんとなく茶がまずくなるのだという話を追加で聞いてまた震えた。

あの美しい人妻は料理が下手だったのではない。とことんその方面に才がなかったのだ。努力だとかでどうにかなるレヴェルには思えない。これはもうそういう星のもとに生まれたのだ。

天が与えたものが何物なのかわからないが、彼女は異性を惹きつける方面に振り幅が特化して、おそらく料理の数値はゼロだったのだろう。

納得した。理屈ではないのだ。

爾来、料理というものは作るものの努力や技術だけでは補いきれない、生まれ持った勘も必要なのだと認識をあらためた。

そんなことを思い出す。

 あの頃はまだふた親が生きていた。貧しい村の粗末なものではあったけれど、父と母と囲んだ食卓は、ロワジィにとって思い浮かべるだけで胸があたたかくなる大切な記憶だ。

それはきっと味付け以上に大切なもの。

スープの椀を両手で包み、湯気に鼻をうずめる。

体にどこも悪いところがなく、なんでもおいしく食べられることはとても大事だと先ごろ自分は思ったけれど、こうして誰かと一緒に食事をするということも、代わるものがない大事なことだなと気づく。しばらく人の営みからはなれていた分、温かさが沁みるのだ。

なんとなくしんみりとしていると、こちらを気にするそぶりを見せた男が、彼女に視線を走らせ、ぎょっとなって身を乗り出した。

ロワジィ、と久しぶりに名前を呼ばれたような気がする。

「すまん、泣くほど、まずいか」

「え、」

「どこか、痛むか」

 言われた言葉が思いあたらなくて、ぱちぱちまじろぐと、はずみでぽろ、と目から水滴がこぼれた。別に悲しくもなかったし、どちらかと言えばしみじみと現状のあたたかさをかみしめていたのだけれど、知らず涙がにじんでいたようだ。

「違うのよ、そうじゃないの、ご飯はとてもおいしいのよ」

「なら、」

「痛くない。どこも苦しくないわ」

 まぶたをこすりながら返すと、おろおろとのぞき込む男の視線とかち合った。やさしい色だな。そう思う。

「……そういえばね、お医者から聞いたのだけど、明日から三日間、村にお祭りの市が立つんですって」

 腰を落ち着けて食事を再開するようにうながしながら、ロワジィは男に言った。

 今日来た老人が、長話の中でふと思い出したように言っていたのだ。

――あんた、いきなり激しい運動は医者としてすすめられんが、村まで歩くくらいなら、まあまずは許可してもいいだろうかな。

――そうそう、そういえば、明日から村に市が立つんだよ。

このあたり一帯の農場はどこも、晩生ぶどうの酒造りを終えると、小作人たちに暇をだし、いよいよ越冬に入る。冬はほとんど家の中に閉じこもりきりだ。その前に近くの村で、慰労会といおうか、遅めの収穫祭といおうか、とにかく近隣のものどもでぱあっと騒いで憂さ晴らしをしよう、というものらしかった。

ついでに、一帯の農場のそれぞれ今年初めに仕込んだ早生種ぶどう酒の品評会と称した飲み比べだとか、そんなこともするようだ。とにかく娯楽の少ない田舎であるから、それなりに盛り上がりを見せるよ、老人はそんなことも言っていた。

「明日も、明後日も、忙しい?」

「……明々後日なら」

 頭の中で仕事の段取りを組んでいる素振りがあって、しばらくして考えたのち男は言った。この農場の人間もほとんど市にでかけるのだ、そう続ける。酒の仕込みはもう終わっていて、酒蔵の片づけがあとまだすこし残っている。使った手桶やら酒樽のなかで、金枠が外れたものや欠けたものがあるので、まとめて除けておいたそれの修繕をみなが出払ったあとするのだと言った。

「じゃあ、最後の日、いっしょにお祭り行こう」

「わかった。空けておく」

「わあ嬉しい」

 男がうなずいて、それで自分の頬が緩むのがわかった。

出かけるというだけなのに、本当に嬉しかった。

立ち上がることができるようになってから、小屋周りをすこしぶらぶらと歩くことはあったけれど、遠くまで足を延ばすのは実に半月ぶりだ。それにつつましいとはいえ、祭りの市が立つ。町から町に流れるようになってからも、近くで祭りがあると聞くとロワジィはついつい出向いた。

祭りが好きだった。非日常の風景で浮かれている面々を見るのが好きだった。

祭りの露店をひやかし、飯を食い、酒を飲み、肩を組んで笑いあう。その笑顔は家族に向けてであったり、恋人に向けてであったり、決して彼女に向けられたものではなかったけれど、その顔を見ているだけで楽しかったのだ。

混じってしまえば錯覚できるから。

「じゃあ、きちんと食べて、寝て、明日からあたしもなにか仕事を手伝えるか聞いてみるわね」

「え、」

「動いてもいい許可がでたもの、大丈夫よ」

 男が心配げな目を向けてきたので、笑ってこたえた。そこまであたしヤワじゃないのよ。

「いきなり無茶は、」

「しません。自重します」

 同じように老人から釘を刺され、同じように頭を下げたな、そんなことを思いながらロワジィは笑いをおさめてまじめな顔になり誓う。

 ギィとこういうふうに話したのも久しぶりだった。このところ男は不在がちだったし、男から彼女に話しかけるときは、腫れものに触るようにおっかなびっくりだったからだ。

「ねえねえ、これ、なに入れたの」

 スープをすすりながら彼女がたずねるとギィがきょとんとした顔になる。

「入れた、……?」

「お肉と野菜だけじゃないんでしょう。あたしが作ってもこんなにおいしくならないもの」

「肉と葉と塩……、だけだが」

「じゃあなにか手順とか、コツがあるのかしら」

 おいしい。

そう言ってからふと、護衛稼業の合間合間に、他人の料理を食べたい、そんなようにボヤいていたことを思い出す。

「自分じゃないひとの作ったご飯っておいしいの。絶対」

 半月前の自分はそんなように言った。言葉をなぞって、ああやっぱりその通りなのだなと思う。自分ではなく、誰か別の誰かが手を加えたもの。

 煮ただけだぞ、首をかしげるさまを見ながら、スープは男が作ったのだものなとあらためて思い、その作ったものを食べているのは、ロワジィと男のふたりだけで、ということはこれは自分のために作られたといってもいいのじゃあないか、そんなようにも思った。

思うとどういうわけか胸のあたりが急にどきどきとして、息苦しく飲みこみにくい。

よく考えれば自分のためにもなにも、この半月のあいだ男は彼女に食事を用意し続けていたわけなのだから、今さらという思いがないでもなかったが、

「絶対入ってる。なにか」

「……なにかって、?……??」

 怪訝な顔をして、思いあたるふしがまるでなさそうな男には決して言ってやるものかと思いながら、さっさと二つ目の卵に手を伸ばし、素知らぬ顔でロワジィは夕飯を平らげることに専念した。

 それはきっと味付け以上に大切なもの。

 

 

 祭りの市の立つ村まではかなりの距離がある。話には聞いていたけれど、実際こうして自分が歩いてみて、薬師の老人は治療のためだけにわざわざ遠路通ってくれたのだなとロワジィは思う。あらためて頭の下がる思いだった。片道でもだいぶある。

 だが同行人は多かった。彼女たちの寝泊まりする農場の小作人どもが六、七名、農場主とその妻、娘が三人。それにロワジィと、ギィだ。

 それぞれ昼まで残った自分の持ち分の仕事を片付け、食事を済ませ、さて市の立つ村へ出発しようと鉢合わせた。どうせみな向かうところは同じなのだからと、連れ立って出かける流れになった。

老人はここを半日かけて歩いていた。距離は七里弱。健脚であればいっとき半ほどの道程である。

昼過ぎに出たのだから、夕暮れより前には着く計算である。

わりと遠い。

道行くものがたくさんいてよかったと思う。誰かが黙っていても、誰かが話している。それを聞いて気がまぎれるからだ。

 祭りは三日目を迎えていた。今日は最終日だ。

お祭りの最後はね、いつもどんちゃん騒ぎになるの。うちのお父さんも、去年、たくさんのお酒を飲んで酔っぱらってしまって、すごかったわ。ぐでんぐでんで、立てなくなっちゃって。帰り道とても歩けそうにないから、向こうの親戚のうちに一泊して帰ったのよ。

嬉しそうに三番目の娘が話す。こまどりのようにくるくるとよく表情の動く娘だなと思った。

出発してからロワジィの横についてずっと話し続けている。上背のある彼女に物おじしない人懐こい娘だ。年を聞くと十二と言った。

「わたしが十二で、お姉ちゃんたちが三つずつ離れているの」

「十二と十五と十八なんだね」

「そう」

 うながされて後ろの方を見やると、姉二人が母親とともに話し込みながら歩いている。なにがおかしいのか、時々くすくすと笑いが交じる。仲の良い親子なのだなと思った。

ロワジィの横の末妹は、歩き話しながら道端の赤や黄色に色づいた草花を摘み、手慰みに花輪を作っていた。よそ見してても躓かないんだな。感心してしまう。

最後に摘み取ったからすうりの蔓でくるくると端と端をつなげて、おやもう仕上がった、器用なものだと眺めていたロワジィに、はい、と娘は花輪を差し出した。

「え?」

「はい、どうぞ」

「……あたし?」

「そうよ、きっと似合うと思うの。つけて、ロワジィ」

 にこにこと娘にすすめられて、しばしのためらいののち身を屈める。ごめんねそう言うの柄じゃあないの、だってこんな大女におかしいと思うもの、子供の戯れに突っぱねるのは、さすがに大人げないだろうと思った。

 素直に身を低くしたロワジィの首へ娘は花輪をかけようとして、

「……あれ、」

 頭から通そうと思ったものが、彼女のうねる癖っ毛に絡まりもつれて中途で止まり、

「…………冠になっちゃった」

 弱って首をかしげた。

「取れない?」

「取れない。ぎゅって引っ張ったら取れるけど、……、お花もばらばらになっちゃうし」

「ばらばらになるのは、かわいそうね」

「でもこれはこれで素敵よ」

 どうしたものかと眉尻を下げた彼女へ、見上げてくる娘のきらきらとした目がある。

「……変じゃない?」

「変じゃない、似合う。とても似合う」

 そうだ、今日ロワジィはみんなから褒められるんだから、そのままの方がいいわ。嬉しそうに胸の前で手をぽんと叩かれて、ロワジィは渋い顔になる。

「……褒められる、のかしら……、」

 一瞬立ちくらみがした。

「そうよ。みんなからすごいぞ、どうもありがとうって言われるんでしょう?」

 祭り会場に、猪の毛皮が広げて展示されているらしい。ギィがしとめた巨猪だ。こんな大きなものは誰も見たことがないのだから、言って農場のものどもが祭りの見世物にすることを提案したのだと聞いた。

 それはいい、どうせしまっておいても使い道のないものなのだから、見てないものはきっと驚くし、是非展示しよう。すぐに提案は通り、毛皮は運ばれた。いまは近隣の奥方の精魂込めて育てた色とりどりのばらの植木鉢の展示机の横に、広げて飾られているらしい。昨日おととい祭りに出向いたものの談である。

 周りはみな猪を倒したのはロワジィだと思っている。

 ……あたしが。猪と組み合って。首の骨をへし折って。

 いのしし殺し、だとかふた名までつけられている自分がその場に出向いたら、どうなるかだいたい予想がつく。行きたくない。絶対そこには近づかないようにしよう。

 内心固く誓う彼女の横で、

「わたしロワジィのような髪の色になりたかったなあ」

続けて娘が言った。

「……あたしの?」

 言われなれない言葉に、思わずたじろいでしまう。

「うん。わたしのはただの黒色でしょう。むかし読んだ絵本のお姫さまがね、きれいな赤い髪の色だったの。とてもきれいだった。それでわたし、赤い色になれたらいいのにって思って、人参を食べたらもしかしたら赤くなるかもって、たくさん食べたりしたの」

「赤、ねぇ……、」

「そう。寒い朝、雲の間をかき分けていちばんにのぼってくる、お日さまみたいなきれいな赤。わたし、好きよ」

 憧れをにじませて見つめられ、思わず苦笑する。ないものねだりとはよく言ったものだなと思った。彼女自身は、母譲りのこの赤毛が育った部落で目立ち、からかわれ、いやでいやでしようがなかったのだ。ほかのみんなと同じ黒になれたらいいのに、そんなふうに思っていたのに。

 そういえば、からすうり頭、とからかわれたこともあったな。口さがない村の悪がきどものはやし文句を思い出す。

 からすうりの自分が、からすうりの花冠をかぶっている。

 なんだかおかしくて声を立てて笑うと、すこし先を歩いていた男がちら、とこちらをうかがう気配があった。並んで歩く小作人の誰かの愚痴話に時折相づちを打っていた様子だったが、たいして距離は離れていないので、きっとこちらの会話は耳に入っていただろう。

 男がロワジィの赤毛に目をやり、それから花冠に目を移し、そうしてわずかに口の端をゆるめた。ひどくちいさな動きだったので、気づいたのは彼女だけだったはずだ。似合う、と言っているようだった。

 そうか、似合うのか。

 からすうり。透き通りそうなだいだい色のぼんぼり。

 男がいいなら、それでいいことにした。

 

 

 あたりはもう真っ暗だった。

 このところ、日の落ちるのが早い。山あいに太陽が隠れるとぐっと気温が下がってくる。それでも村に向かって歩いていた時分は、日もあったし動いていたので寒さを感じなかったのだが、立ち止まると急に寒さが這いのぼってきた。

 身震いをしてロワジィは上着の前をかき合わせる。

 大きな木の根元に休めるベンチが置かれていて、そのひとつに彼女は腰を下ろしている。木でこしらえたそれは、夜の空気によく冷えていて、あてた尻のあたりから体温をうばわれてゆくようだ。

 それでも腰かける場所があるのはありがたいと思う。

 男が帰ってくるのをロワジィは待っていた。

 

 

 農場から会場までの道のりは間延びしていたけれど楽しく、末妹としようもない掛け合いをしているうちに着いてしまった。年は親子ほど離れていたが、ロワジィも娘も女で、女同士というものはほんとうに、どういうわけか話の途切れることがない。ひとつの話から連想してあちらに飛び、しばらくして三回転ほど巡って、もとの話題に舞い戻る。くっちゃべっているうちに、いつの間にか後ろにいた女どもも参戦して、かたくなった乾物を早くおいしく戻すにはどうの、しもやけに効く軟膏に入れる薬分はどうの、いま町で流行りの髪の結い方がどうの、実にかしましい道々になった。

 毎度毎度、よくもまあ、これだけ話すことがあるよ。

 主が呆れ半分、感心半分でそんなことを言った。男には理解できないね。

 それはそうだろうと思う。これはもう、生理生物学上の相違だ。

 祭りの市に着くと、じゃあ、また、だとかあいさつを交わし、分かれて行動になった。主はこのあたりの農場主同士で飲むということだったし、妻も同じようによその奥方が出迎え、刺繍や織物の品評区画へ向かい、小作人同士もそれぞれに歩いてゆき、道中意気投合した三人の娘と、ロワジィと、ギィが残った。どうせ時間もあったので、端の方から順繰りに見て回ることにする。

 ちなみに絶対に回避しようと心づもりをしていた猪の展示は、会場入り口にどーんとしつらえられており、見た瞬間回れ右をしていま来た道を戻ろうか、本気で考えたロワジィだ。しかたなく、大回りして向こう端から市を覗こうと、こっそり一行から離れかけたが、同行の娘たちが展示を目ざとく見つけた。

 あら、あそこに猪の展示があるわ、末娘が言うと上二人もまあと声をあげ、若い声があたりの気を引いた。すると、おやどうやらいのしし殺しのお出ましだ、だとか皮の大きさに感心していたらしいものからも声をあげられた。さあさあこっちへと笑顔で手招かれ、こうなるともはや逃げ場はない。

いやいやいやもうほんとう勘弁してほしい、内心悲鳴をあげながら、彼女がしぶしぶ近づくと、次々に握手をもとめられ、おまけにもとめたおおかたのものにはすでに酒が入っていたので、えらくもみくちゃになった。

この大きさの獲物を倒したということ自体は偉業だろう。それはロワジィにもわかる。もし彼女が参加者の立場の人間で、展示を目にし、この猪を倒した人間が来たぞと言われたら、どれ一目顔を見てみようという気になるだろう。わかる。

 拍手で出迎えるかどうかはわからないが。

 引きつる笑顔でどうもどうもと手を握り返し、歓迎にこたえた。逃げたい。注目されることも、褒められることも、特別扱いされることも苦手だ。

 実際に猪をしとめたギィはどこにいるのかと目を走らせれば、囲みから安全圏まで下がってにぎやかな歓待を眺めていた。彼女以上に人になれていない男に、これを交代しろというのは酷かもしれない。そう思う。

罠にかかった狐狸を、そのまま人の中へ放置すると、緊張にびんとひげを張り、毛を膨れだたせて、ぐるぐると檻の中を動き回り見る間に弱っていく。それと同じように、実はしとめたのは自分ではなくあちらなのだと明かして、男がいきなり衆目にさらされたら、わりとストレスがすごいのじゃないか。泡ふいて死ぬかもしれない。

だったら自分が我慢するしかないのかも。無理やりそう思うことにした。

 ひとしきり功労者として称えられたあと、じゃあ、山犬の件はよろしく、だとか幾人かからたしかめられ、早いうちに向かうといらえる。

 農場主の好意で、ひと冬作業小屋へ寝泊まりをしてもよいということになっている。彼女の怪我の具合を慮ったことももちろんあるのだろうが、ギィの真面目な働きぶりが評価されたのだとロワジィは思っていた。

田舎の人間は、よそ者に対してひどく過敏だ。対価を払うと契約したとはいえ、普通は得体のしれない流れの人間を、長期で寝泊まりさせることはしない。居つくと厄介だからだ。よそ者というだけでも相当異端視されるのに、腰に物騒な獲物を下げた熊と見間違う大男と大女である。これはよほど男の仕事に取り組む姿勢が良かったのだと思う。

要は主に気に入られたのだ。

言葉に甘え、冬の間に、小屋を拠点としていくつかの農場の獣退治を回る予定でいた。

農場の娘三人と歩いているということもあって、このあたりで見かけない彼女と男の顔でも、そこまで警戒されない。大半は酒も入っている。ありがたかった。せっかくの高揚が、よそ者に向ける威嚇の視線で水を差されるのはもったいないと思うからだ。

おかげでロワジィは、祭りの市を人目を気にせず、冷やかすことができた。

まずひと通りぞろぞろと連れ立って見て回る。

近隣の人間が店番をしている、焼き菓子だの乾物だのを並べているところもあったし、バター樽やら、さらしの木綿布やら、日用雑貨が置いてあるものもあった。

ヤギやロバを囲っているところもあった。売れたものから耳に赤い印がつけられている。

そのほかにも、香具師が出した細工物の店や、咳止め痛み止め、やけどによく効く軟膏などの薬売り、的当てやくじ引きの店もある。

的当ての仕様がなかなか凝った作りになっていて、ロワジィたちは足を止めた。

十歩ほど離れた板壁の穴に五つの拳大の玉を投げ入れ、入れた穴の点数に合わせて景品が出る仕組みだった。彼女たちの前にも若い男女の客がいて、玉が入るごとに一喜一憂している。どうやら特等の硝子細工の髪飾りがお目当てらしかった。

――たかだか十歩の距離でしょう、誰だって簡単に入るんじゃないの、客引きの文句に誘われて、つい試したいっとうはじめは穴に入った数はゼロ。……姐さん、ヘタだねえ。笑われてむきになり、いまのは腕慣らしよ、今からが本気なんだから。言ってもう一度。

またもう一度。

三人娘もロワジィを応援するやら、自分たちも参戦してみるやらで、ひとしきりきゃあきゃあと盛り上がった。

何度か投げ入れるうちに、いくつかは穴に入り、彼女と娘たちは景品の毛糸玉やら砂糖菓子を受け取ったが、

「……あんたもやってみなさいよ、見てるだけじゃずるいわ」

 十歩の距離ではあるけれど、たぶん見た目よりとても難しいのだ。誰にだって簡単に入るに違いないだとか言った、自分の過去の台詞はなかったことにして、的当てに入れ込むロワジィを脇で見ていたギィにもやらせてみることにした。

 外すたびに本気で悔しがる彼女と娘たちを面白そうに見ていた男は、ほら、言われて素直に玉を受けとる。

 男だっていくつかは外すに違いない。外すだろう。外したら下手くそと囃したててやろうと、ちいさな意地悪心で男の失敗を待ち受けていたが、結果は見事に合計一等。露天商にはいい腕だね、だとか褒められている。

軽くへこんだ。

 景品を渡されて、その露天をあとにする。一等の景品は手持ちの花火だった。花火なんて、どれくらいぶりかしら。手にした数束を見下ろしながらつぶやいた。

村でほんの一度、買い出しに出かけた大人が土産に買って戻ったときがあって、ひとり三本ずつ、夜の広場でどきどきしながら火を点けた記憶がある。つつましやかに吹き出す火の粉が、文字通り一瞬咲いて散る花のように見えて、すごい、花火ってすごいね。大興奮した。

 暑気晴らしにどんと空へ打ちあがるものは、大きくなってからも何度か目にしたけれど、

「花火、あとでしようね」

 嬉しくて頬が緩んでしまう。同じように大喜びの娘たちにも幾束か分けてやった。一人でするより、みんなでする方がずっと楽しいもの。

並んで歩いていた男が、その彼女を見下ろしてほんの一瞬まぶしそうな顔になる。どうしたのかな。見返すと視線はすぐにそらされた。

「なに、」

「いや、……、」

「子供みたいにはしゃいで、変?」

「ちがう」

 笑っている、いい。男がつぶやいた気がした。

「――え?」

 前を歩いている娘たちには聞こえないほどの声量だったので、思わずロワジィも聞き返しかけ、

「ねぇねぇ、ロワジィ」

 末妹が振り返り呼ばれたので、質しそびれた。

「うん、?」

「ロワジィと、ギィさんって、似てないけれど、兄弟なの?」

「ううん、違うのよ」

 まあ、二人して、だいぶ大きいけれど。笑って付け加える。たしかに男と自分とでは、七、八歳はなれているのだろうから、そうした姉弟がいてもおかしくはないと思った。

「じゃあ、恋人とか……そういうの?」

「……どうかな、」

 そうだ、とは言いきれなくて一瞬彼女は口ごもった。

一度体を重ねたとはいえ、あれは彼女が無理にせがんだようなもので、男がどうした思いで自分を抱いたのかまではわからない。そうしてそのあと自分は寝込んでしまって、ぎくしゃくしたまま半月ほどたち、あの時どうして抱いてくれたのだとか、今になって蒸し返していいのかもわからず、そのままなかったことにもできず、実にあいまいな気持ちでロワジィはいる。

 かと言ってちがう、そうじゃない、そんなようにきっぱり否定するのは、なんだか自分の気持ちまで打ち消してしまうようで、それも彼女にはできなかった。

「……すこし前に、大きな町で、あたしが彼を雇ったのね」

 だのに自分の口はするすると、まるで台本に書かれている台詞読みのように、上っ面の言葉を選んで紡ぐ。

「雇う?」

「そう。こういう仕事をしているとね、ずっと側にいる家族がいないでしょう。一緒にご飯を食べたり、話をしたりする相手がほしかったの」

「それだけ?」

「そう、……それだけ」

 うすく笑んだ。彼女の言葉は並んで歩く男にも聞こえているだろう。これだけ近い距離なのだ。こわばった笑顔を娘に向けながら、ロワジィは隣へ目を向けることができなくなった。

 男が好きだった。

 彼女が自分の正直な本音に気づいたのはついこのあいだのことで、だからたしかに最初はいま話している通り、身の回りの世話を手伝うもの、食事や会話を共にするものとして雇ったことは事実だ。はじめから、そういう相手として雇いいれたつもりはなかったし、揶揄われるのは心外だった。

 そんなつもりじゃない、だってあたしは本当は女の子を雇いたかったのよ。そう言いたかった。

 それがいつの間にか惚れていた。

 いつどこで惚れたのかだなんてそんなことはわからない。戯作小説のたぐいじゃああるまいし、恋に落ちる瞬間なんて、そんなものあるだろうか。

 実際ははじめからだったのかもしれない、文字通り「いつの間にか」だったのかもしれない。そんなものは自分にはわからない。

 ただそれは、こちらの勝手な都合だ。

 男の気持ちは知らない。聞いていないし、問いただすものでもないと思ったし、それに何よりこわかった。

 あんたはただの雇い主だ、そうかえされたら自分はどんな顔をしたらいい?

 だというのに、自分はいま、同じことをしているのだと思った。こわかった。あからさまに男が拒むのがこわいから、おのずから壁を作ってそれ以上踏み込まれないように構えている。

 振られるよりは振る方が、痛みが少ないと思うから。

 自嘲の笑みが浮かんでしまう。

わが身ばかりが可愛い女。そうして可愛げのない女。

「でもなんでそんなこと気になるの、」

「あのね、お姉ちゃんが、」

 娘がなにかを言いかけたときに、おおおい、一行を呼び止めた声がある。

声へ目をやると十数人が屯う中から、あの猪退治の折に肝試しで酒蔵に近づき、猪突に腰を抜かしていた小作人が手を振っている。エールの入ったジョッキをいくつか抱えてやってきて、いいところで会った、これは俺からのおごりだ、礼だよ、どうぞやってくれ、そんなように言って二人にジョッキを押し付けていった。

ありがたくいただくことにする。

喉も乾いていたので一気に飲み干すと、それを見た誰かが、あんたら若いのにいい飲みっぷりじゃあねぇか、気に入った、これもやってくれ、追加のジョッキを持ってくる。

ちょうどそこへ、農場主の妻が戻ってきて、娘たちとはそこで別れる運びになった。であったので、末妹との会話はうやむやとなった。

うながされるままに立ち飲みの卓に近づき、ジョッキを受け取り口をつけ、すると別の誰かが、これもどうだね、俺の畑でとれた芋の煮たやつだ、とか、こないだ鹿を捕ったときに作った鹿節だよ、だとかで、次々に酒のあても運ばれて、たらふく飲み食いする流れになり、奢ったのだか奢られたのか、気がつくと、着いたころにはまだ明るかったあたりはとっぷりと日が落ち、夜になっていた。

いつの間にか誰かがギタールを持ち込んで、爪弾き謡いまではじまっている。

完全に宴会場と化したその場をごちそうさま、挨拶してあとにし、ひといきれに上気した頭をすこし覚まそうと、暗くなりおぼつかなくなった足元を見ながら進んだ。

お互いすっかり出来上がっていた。

ロワジィはくすくす笑いが止まらなくなり、男と腕を組みしなだれながら歩いていたし、男も彼女の腰のあたりに手を回し、上機嫌にちいさくなにか口ずさんでいる。

このひとでも、歌うんだ。

なんだか不思議な気がした。

一体どこで覚えたのだろうかと目をやると、なんだ、と見下ろしかえされる。

「歌、」

 つぶやくと、ああ、わずかに笑って、わからない、そう言う。

「わからない?」

「たぶん、生まれたとき、聞かされていた、思うが」

 気づいたときには男は山小屋で老樵夫と暮らしていたというから、それは物心つく前の記憶だということだろう。だから歌詞も言葉になっていない、音もとびとびの、せつないような、どこかで聞いたふしがあるようなないような、不思議な歌だった。

「きれいな歌ね」

「そうか」

 祭りのために用意されたベンチがふと目に入ったのは、二人同時のことだったのだ。あ、とどちらからともなく声が上がり、一息つけるそこへ向かう。人気もほとんどなく、だいぶ暗い。明かりと言えばすこし離れたところにぽつんと灯篭がひとつあるだけだ。

 腰を下ろすと、膝が細かく震えていることにロワジィは気がついた。

 あれ、声が出る。一度座るともう立てない。

「ロワジィ、」

「なんか、ちょっと無理しちゃったのかな」

 考えてみれば昼過ぎから歩き詰めの上、着いてからも立ち続けていたのだ。普段から歩きなれているのだから大丈夫だと思っていた。昨日もおとといも、農場の仕事を手伝ってどうともなかったのでいけるものだと思っていたのだが、この半月ほどでやはり体はずいぶんなまったらしい。

弱って中腰になりかける男の体にもたれかかる。

「大丈夫よ」

頬を寄せ彼女はそう言った。

「だが」

「すこし休めば平気」

 薬師の老人を呼んでくる、言って今にも立ち上がり、探しに行ってしまいそうな男の腕を掴み、ねえ、とロワジィは呼びかけた。

「うん」

「さっきの、歌って」

 言われた男が短く息を吐いて、彼女を見下ろした。どうしたものか判断がつきかねる顔で男は揺れている。平気?本当に?聞かれるところへうなずいてかえす。

「本当に無理してない。貧血みたいなものだわ」

 それでようやく男は腰を落ち着けることにしたようだ。わかった、だが待て。言って自身の上着の片袖を脱いで、

「え、ちょっと、」

 脱いだ上着を彼女に着せ掛ける。防寒用に買い足した毛織物のそれは、ごわごわとしていたが男の体温が染みておりとても温かだ。

「冷やす、よくない」

「よくないって……、これじゃ、あんたが風邪ひくわ」

「寒い、平気、慣れている」

 首を振り、着せ掛けた上着を彼女の前でしっかりと合わせた。男にしては珍しく有無を言わせぬ口調であったので、おとなしく従うことにする。着るの着ないので、折角の酒の火照りを醒ましてしまうのももったいないと思った。

ロワジィがされたままに任せると、しばらく宵闇のあたりを眺め、それから男は先と同じ旋律を彼女の隣で途切れ途切れにささやきはじめる。

 これはきっと子守唄だ。

 ベンチで男にもたれ、ロワジィはうすく目を閉じた。

 

 そのまま目を閉じ耳を傾けているうちに、思ったよりくたびれていたのか、眠る気もなかったのに眠ってしまったらしい。

ふとロワジィが気を戻すと、もたれたときと同じ姿勢で男はベンチに座っており、膝の上で手を組みじっとそのあたりを眺めている。

 石像のようだった。

 歌はいつの間にか止まっている。すこし残念だなと思った。

 身動くと、男が動きに気づいて手元から視線をあげ、彼女を見て、起きたか、と言った。

「うん」

「気分は」

「悪くない」

 こたえると男はすっと目をすがめ、腕を伸ばし、彼女の頬のあたりへ触れて冷たいなと言った。

「そう、?」

「温かい、茶か、湯か、なにか、もらってくる」

 そう言って立ち上がる。一緒に行くと言って、彼女が立ち上がろうとすると、軽く押しとどめられた。休んでいてくれ。すぐ戻るから。

 

 

 ところがそのまま急ぎ足で出かけたまま、戻らない。

 

 

 だいぶ夜も更け、祭り会場の方から酒に呑まれたものどもの歓声が聞こえる。ドラ声の歌。先ごろの男の、語尾のかすれた、やさしい子守唄とは似ても似つかない、品のない喚きだ。

うちのお父さんもぐでんぐでんに酔っぱらっちゃったのよ。おかしそうに話をしていた娘の声を思い出す。さすがに農場主に絡まれているということはないだろうけれど、どこかで酔漢に絡まれて、俺の酒が飲めないのか、だとか、躱しきれない状況になっているということは、十分に考えられた。なにしろ男は大きい。大きい体はそれだけで目立つ。

 もう一度身震いをして、ロワジィは立ち上がる。今度はうまい具合に立ち上がることができた。よしよし、膝に褒めてやる。休んだのが良かったようだ。

 夜だった。明かりに照らされた顔はどれも浮かれていた。じきに、ひたすらにむつむつと耐える、長い冬ごもりに入るのだ。祭りが終われば、地味で退屈な現実に戻らなければならない。

おとぎ話の魔法のようだなと思った。

魔法はかならずどこかで消えてしまう。それをみな承知していて、どの顔も名残惜しんで祭りの終わりを楽しんでいる。

 どこへ行ったのかしら。

 人の群れている場所をのぞき込んで、そこにデカい図体がないかたしかめて回る。酒場前の円卓、土産の露店、身振り手振りの大道芸、どこにもいない。

一つ二つと回るうちに、どこへ行ってしまったのかとだんだん不安になってきた。そう広くない村の中で、しかも成人相手に、迷子もなにもあったものではないが、こっちへ来いと言われればひょいとついて行ってしまいそうな無知さが男にはあって、厄介ごとに巻き込まれていないか心配になる。

 どん。

 夜空を白だの赤だのに照らして花火が上がった。いよいよ終幕だ。見上げたもののわあという嬉しそうな声と拍手にかぶせて、音に驚いた犬が鳴きだした。

 はらはらと火の粉が降る。

「ロワジィ、」

 呼び止められて彼女は振り向いた。末娘が彼女を見つけて手を振っており、続けて上がる二発目にほら、すごい、きれい。手を叩く。見た?今の見た?きれいね、黄色と橙だったわ。

「あのひと見なかった?」

 嬉しそうな娘に軽く頷き同意してやりながら、口早にたずねる。

「――あのひと?」

「ギィ」

「見たわ。あっちの広場の方。薬師のお医者さまと話してた」

「ありがとう」

 では結局男は、老人を探しに行ったのだ。もう立てるんだけど、困ったなあ。思いつつ娘に手をあげ、ロワジィは指された広場へと向かう。行き違いになっている可能性もあった。なにしろこの暗さだ。

教えられた広場は、賑やかな輪からはやや離れており、点々と枝に結ばれた灯篭の数も少ない。ギィ、声に出して男を呼んだちょうど同時に、

どん。

またひとつ花火が上がった。

その花火に照らされた大きな体がある。

ああよかった、ここにいた、ほっとして花火の音にかき消された名前をもう一度ロワジィは口にしようとして、

――あ。

 口はそのまま息をのみ、男の名前を発することなくこわばった。思考がひとまじろぎ分止まり、止まった彼女の上空からぽとぽと火の粉が舞い落ちる。雨のようだった。花火、木立を通る風、犬の遠吠え、酔いに浮かれる喚声、雑音が次々に彼女の耳に飛び込んできているはずなのに、しんと頭は静まりかえって何も聞こえない。音が音にならない。

 たしかに男だと判る、縦にも横にも人並み外れた背中がある。そうしてそのななめ向こうに、小さなもうひとつの影があることに気づいたのだ。

 その小さな影の細い腕が、男の掌を両手で包み、懸命になにかを訴えているのが、まだ距離があったというのにロワジィにはわかった。男は彼女にほとんど背を向けている。だから男は彼女が見ていることに気づかない。

ぶ厚い肩の向こう側に、花火に照らされて映るのは、一番上の娘の顔だった。

どん。

 ひときわ大きな花火が上がり、目眩むひらめきが一気にはじける。浮き上がる姉娘の黒髪にきらきら光る髪飾りが見えた。的当ての特等。硝子でできた髪飾り。細かな雨となって降りそそぐ光の粒子を反射して、宵闇ににおい零れているようだった。

 あなたが好きです。

 娘の口が言葉をなぞる。ひめやかな思慕。離れているのに、睫毛にやどる涙や、震える舌先までわかる気がした。

 わかってしまった。

 ああそうか、不意にロワジィは納得する。

娘が何度か差し入れてくれた焼き菓子は、本当は誰のために焼いたものだったのか。……あのね、お姉ちゃんが。言いかけた末妹の言葉が何だったのか。

……これは見てはいけないものよね。そう思った。

想っている相手に思いを伝える場面なんてものは、想われている相手だけがいてよいもので、こんな通りすがりの冷やかしが目にするだとか、場違いもいいところだ。

そうして、肩越しにほんのわずかの横顔しか見えていないのに、男が困ったような顔をして娘を見下ろすのが、やはりわかってしまった。つかまれた手をどうしてよいのかわからずにいる、困った顔の中にけれどやさしい色が見える、気が弱くてあたたかなひと。

 こういうの、きっと、お邪魔っていうんだわ。

 踵を返し、そそくさと広場から退散する。気づかれなくてよかったと思った。

あの場面で、自分がいることに気づかれて、視線を二人から受けたら、相当気まずい。気まずいことこの上ない。どうもどうも、失礼しました、あとは若いお二人で、だとか言えばいいのかしら。

 広場を離れ、先刻たどった道をそのまま戻りながら、急に熱くなる頬を両手で押さえる。なんだか可愛いかった。あなたが好きです、だとか、あんなのはじめて見た。すごい可愛い告白だった。清純って、ああいうことを言うんだわ。どうしよう。見てただけなのに、こっちがどきどきしてきた。

 ここへ来る道すがら、和気あいあいと話し込んだ上娘の顔をロワジィは思い浮かべる。とりたてて人目を引く、派手な外見ではないけれど、母親によく似たくりくりとした目元の、素朴で、利発そうな、可愛らしい娘だった。

 もし自分が男で、あんなけなげな告白されてしまったら、もう、一発でぐらつく自信がある。あんなちっちゃい手に必死にすがられて、あんな一途に見つめられて、振りほどくなんて、できっこない。

 どん。

 一瞬ぱっと明るくなってはすぐおとずれる闇。囃したてる誰か。笑いさんざめく声。秋の名残りに酔いしれるものどものあいだを縫って歩きながら、ロワジィはどうしよう、どうしよう、と何度か口の中でつぶやく。

 あたし、どこにいけばいいんだろう。

 さっき待っていたベンチのところに戻ろうか。……でもギィがそのうち戻るとして、戻ったあのひとになんて声を掛けたらいい?おかえり、おつかれとでも言ったらいいの?それともごちそうさま、守備はどうだった、とか言う?冷やかしに聞こえるかな。ああでもあたしが見ちゃったってこと知らないのよね、だったらなにも見ていない、なにも知らない顔で迎えたらいいのかな。もう気分はよくなったからさあ帰りましょうって、そう言ってもおかしくないかしら。

 でももしかしたら顔に出てしまうかもしれない。にやにやしてたら絶対おかしいわよね。どうしたって聞かれるに決まってる。そうしたら肘でつついて、あんたも隅に置けないわねえ、とか言ったらいいのかな。からかったりとかするの、あのひとに通じないかもしれないけど。

 どうしよう。

 このままひとりで農場へ帰るのが一番良い気がした。だが待ち合わせた場所にロワジィの姿が見えなければ、おそらく男は彼女を探すだろう。莫迦みたいにやさしい男のことだから、勝手にさっさと帰ってしまった彼女の体を心配して、探し回るに違いないと思った。

 だったら帰るわけにもいかない。

 これが通常なら、誰か村の人間に託(ことづ)けを頼むこともできたけれど、これだけ浮かれ騒いでいる中、どう考えても無理だ。

「えーじゃあどうしよう」

 思わず声に出していた。

 みな楽しそうに笑いあっているのに、自分だけが途方に暮れている。

 誰もが居てよい場所がある。隣で誰かが笑っている。帰る家がある。

 ……あたし、いま、どれもない。

 

 気がつくと、足は先ごろまで休んでいたベンチの横を通り過ぎ、笑い声、話し声から遠ざかるように歩いていた。村の境の柵を越え、ぐるりと囲む防風林の中へ踏み込む。

 するとそこにも体を密着させ熱くささやきあうものの気配があって、一瞬ぎくりとなったあと、ああしまったなと思い至った。

 今夜ばかりは無礼講、「祭りの夜」だ。

 これこそ本当のお邪魔だわ、そんなことを思いながら音と気配を避けるように奥へ奥へと足を運んで、そうして誰もいない場所までようやくたどり着いて彼女はしゃがみ込み、木の幹にもたれた。

 長く息が漏れた。

 頭の中は奇妙にずっと醒めていて、見上げた木立の合間から見える星空が白々としている。雲の流れが少し早い。明日あたりから天気が崩れるのかな、もしかしたらぐっと冷え込んで雪でも降るかもしれない。そんなことを思う。

 寒いのは苦手だ。けれど、

「雪が降ったら雪見酒、できるものねぇ」

 温泉あるし、お酒もあるし、もう準備ばっちりの状況じゃない。おかしくなってうつむくとふふ、と笑いが漏れた。漏れた声を自分で聞いて、ああ、まだ笑えるんだなと思ってしまう。

 泣ければ良かった。

 ここでわっと泣いてしまって、わだかまりをすべて吐き出してしまって、そうしたらわりと頭の中が整理されて、別の気持ちに切り替えられるのじゃあないかとも思う。

 けれどとくべつロワジィは悲しくもなかったし、だったので泣こう、泣こうと努力したところでまぶたはちっとも潤いはしないのだ。

 がんと頭を殴られたような衝撃だとか、心が千々に引き裂かれるような痛みだとか、そうしたものがもしあったなら、それに乗じてきっと泣けたのだろうけれど、彼女にあったのは奇妙に落ち着いた、しんとした水面のようなこころもちだけだった。

 水面は鏡だ。おもてにさざ波は立たない。

 ……可愛かったなぁ。

 ふと浮かんだのはそんな言葉だ。

 大柄な男の向こうにいた小さな姉娘。守られるように、かばわれるようにできている華奢なつくりの体。末妹の話だと、一番上は十八だということだったから、自分とはひと回り年が違う。ひと回り、と一口にいうけれど、十二年もあれば生まれた子供が立ち、歩き、おのれで身の回りのひと通りができるようになり、大人の手伝いができるまで成長する時間の長さである。

 それはけっして短い時間ではない。

「十八かぁ」

ギィがたぶん二十二くらいでしょう、……あのひと、いかついから、なんか老けて見えるけど、そんなもんよね。誰に聞かせるともなしにロワジィは呟いた。呟かなければやっていられないような気分だった。

二十二と十八の若い男女。

傍目から見てもなんだかとってもお似合いだった。

 あの娘と男が、仮に並んで歩いていたとして、いったいどういう関係かだなんて聞かれることはないに違いない。兄妹だなんて思わない。誰が見たって恋人同士だと思うだろう。

 恋、か。

 ふと左手に違和感があって、うつむいた視線を動かすと、景品で受け取った手持ち花火の束を握りしめているのだ。

 あとでやろうね、だとか自分はずいぶん浮かれていた。だって楽しかった。祭りをのぞくこと自体も久しぶりだったし、それもひとりではない、横に並ぶ大きな誰かと、そうして数人の連れと、騒ぎながら付かず、離れず、ともに行動するということが、本当に久しぶりだったのだ。

 すごく楽しかった。

 腰に下げた鞄から火口箱と蝋燭を取り出した。今日は風が弱い。覆いがなくても火は消えないだろうと思われた。

 狙って数度打ち付けると火口から煙が上がり、熾ったその小さな炎を蝋燭にうつす。倒れないように掌で土をならし、そこへ携帯の燭台に立てた蝋燭を置いた。

 じじ、と油の焦げる匂いがただよい、ゆらゆらと炎が揺れる。

 火の揺らぎというものは、いつ見ても吸い込まれるようで不思議な感じがする。飛んで火に入る、だとかいう言葉があるけれど、その通り、そこへ至れば身が焼けてしまうのを知っているのに、それでも飛び込まざるを得ない、どうしようもないものなのだと思う。

その炎をじっと見つめていると、不意にぷつんと頭のあたりで音がして、ばらばらと肩口へ落ちるなにかがあった。あ、と思わず声が出る。末娘が手慰みに編んだ花冠のつるが切れて、花がばらけて散ったのだ。

地面に落ちた花は、摘まれて半日経ち、くたびれしおれてしまっている。

 ひとつ摘まんでじっと眺めた。なんだか自分のようだと思った。浮かれて、はしゃいではずんで、そうして仕舞いにしょんぼり膝を抱えている。

 花火の束から一本抜きだし、蝋燭の炎の先へ近づける。すこし間をおいて、ちりちりと巻紙の燃えるかすかな音がして、それから最初は静かに、徐々にばちばちと火花を散らせて、ああいいな、綺麗だな、思う間もなく、不意に光はふっと消えてなくなる。

 宵闇の中に彼女がひとり取り残された。

 次の一本。

 またばちばちと火花。

 次の一本。

 また次の一本。

 湿った枯れ草に落ちるちいさな火の粉のかけら、先に見た打ち上げ花火の火の粉とは比べものにならないくらいささやかなもの、恋かぁ、もう一度今度は声に出して呟いて、さっき見たあの娘の思いはたしかに恋というものだろうなと思った。

 透き通っていて、きらきらしていて、摘みたてのりんごの白い花弁、ほのかに薫る純粋さや素直さと言ったようなもの。好きなものを好きだとはっきりと言える強かな清らかさ。

 自分のものはきっと恋ではなかった。恋だなんて名前を付けるほどでもない、たとえばこの花火のように、ちいさく散って消えてしまう一瞬のもの、あるかないか不確かな、臆病な逃げ水のようなもの。だってあたし、好きだって口に出してすらいない。

 出すより前に尽きてしまった。もうどこにもいない。そのささやかな火の粉がすこしかわいそうだなと思う。

「……言われちゃったなぁ」

 参った。言われちゃったなあ。言われちゃったなあ。同じ言葉を頭の中でくり返しくり返し、そうしていつの間にか苦笑いになっていた。

 失恋と言ったらこんなに笑ってしまう失恋はない。

恋、だなんて素敵なものじゃあなかったじゃない。もうひとりの自分が呟く。ただの勘違いよ、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て、同業者なんかよりすこし長く一緒にいただけでしょう。温かさなんて、誰もたいして変わりはないわ。だって生きているんだもの、みんな体温がある。冬が近いんだし、寄り添ったらだいたい温かいって感じるに決まってるのに。

それを、なにか自分に向けられたやわらかなものだと、勘違いした。

滑稽だと思った。本当に笑ってしまう。

三十路の年増女につかまったら最後よ、近寄ったら駄目。そんなように嘯いて、釘を刺す真似をしておいて、だのに実際男からすこしやさしくされただけで、いい気になって舞い上がってしまった。

やさしくするだろう。誰だって、目の前で大怪我した人間がいたら、放っておけず介抱する。そんなこと判りきっていた。

 男の着せ掛けられた上着の襟に顔をうずめて、ロワジィは花火を蝋燭に近づける。

 だったら、そう思うなら、こんなところで花火に火を点さなければいい。いくら林の奥だとはいえ、人気のないところを選んだとはいえ、暗い中で火を点して、これじゃあここに誰かいると、探す相手に知らせているようなものだ。目印にここを当たれと大声で呼ばわっているのと同じことだ。

 そんなこと、誰に言われずとも判っていた、だのにひとつの花火が終わると、次に火を点ける動作を止めることができない。

 ひとつ。火の玉がぽたんと落ちるたびに、数をかぞえはじめてしまう。こんなことして、なにになるの?なにを試してる?ギィが探しに来るとして、そうしてあたしはどうしたいの?

答えがわからない。……ふたつ……みっつ……、よっつ。

 

 

「――ロワジィ、」

「二十七」

 だしぬけに掛けられた呼びかけに、のろのろとロワジィは顔をあげる。

 ――ああやっぱり来た。

 驚きはなかった。本当に、だとか、どうして、だとかよりも、そんな風に思った。

 手元の蝋燭に目を落とす。三匁のそれはかなり減っていて、わりと長い間ここに座っていたのだなと思う。

「あんた、こんなところで、何をして、」

「花火してたのよ」

 肩をすくめてロワジィはこたえた。がさがさと下生えをかき分けて近づく男の息は切れている。だいぶん探したのだろうな、そう思った。

「どうして、いなくなった」

 問う声は珍しく怒っているように聞こえて、なんだか知らない生き物のようだ。すこしどきどきした。怒っているのかな。でも怒るわよね。普通怒ると思う。待っていろって言ったところに待っていないで、勝手にどこかふらついてしまって、探し当てたら花火をしているの、だとか返されたら、頭に来ないはずがない。

「どうしてかな」

「ロワジィ、」

「本当に、花火してただけなのよ」

「ロワジィ、」

 彼女の隣までたどり着くと、男は荒々しく音を立てて腰を下ろし、あんた、乱暴に彼女の肩を掴んだ。

「黙って、行くな」

 ――ずっと探してくれたのかな。

 男が底抜けにひとが良いことは判っていて、それでも嬉しくなってしまった。探し回ったあげく、怒っている男に対して、嬉しくなるだとか、なんて人でなしの頭の回路なのだろうと思う。

 ところがその彼女の肩を掴んだ腕に目を移して、ちいさく膨らんだ気持ちが、不意にしゅんと萎んだ。

 男の右腕に、細い飾り紐が結ばれていることに気がついたからだ。

 橙と白と赤の糸で編みこまれた幾何学模様のそれは、男の日に焼けた浅黒い肌によく似合った。

 男はおのずから飾り立てる性質ではないと思う。そうして先ごろまではなにも着けていなかった。だったら。

 ――あの娘に、貰ったのかな。

 丁寧に編み込まれた模様。結び目を作るごとに着ける相手への思いを込めるのだとか、ロワジィの村でも、若い娘は慕う相手への贈り物として、よく手隙の時間に他愛もないお喋りをしながら、端糸をせっせと編み結んでいた。ロワジィあんたも作りなさいよ。すすめられて若かった彼女も、家族のために作ったことがある。大きい輪が二つとちいさい輪が一つ。

 あれはどんな模様だったか。

「……心配かけたのは悪かったけど、もう子供じゃあないんだから、あたしだって、行きたいところがあれば、行きたいときに、行くわ」

 こういう時にへそ曲がりの女という奴は本当に手に負えないな、謝るつもりだったのに別の言葉が口を衝いて、彼女は思った。ほら、こういうところが可愛くない。

男がすっと目を眇める。

 ――ああほらやっぱり怒らせた。

 もういいのに。もうこんな面倒な女はうっちゃっておいて、さっさと行ってくれていいのに。

「ロワジィ、」

「ギィって花火やったことある?」

 何かを言いかけた男の言葉に押しかぶせて、彼女は言った。

 男は一瞬押し黙り、ないが、と低くつぶやく。

「ほら。もらった束のひとつに十本入ってて、いまあと残りが一束と三本なの。持って帰って取っておいても、湿気って駄目になっちゃったら、もったいないでしょう」

 手にした花火を見せると、男はうかがうようにじっと彼女を見つめ、口を開きまた閉じて、それからしばらく考えてのち、判ったとこたえた。

「あんたがやってくれ。俺は、見ている」

「しない、?」

「しない」

「そう」

 じゃあ遠慮なく、言って蝋燭に花火の穂先を近づけようとしたロワジィの脇で男が唐突に立ち上がり、それから彼女の背後に回るとまた腰を下ろす。足を軽く前に投げ出し、前かがみになったので、自然、彼女は男に後ろから包まれるような恰好になった。

 思わず花火を取り落としかける。

「ちょっと、」

「見ているだけだ」

「えー……、」

 これはあれだろうか。さんざん探し回らされて、おまけにごめんなさいの一言も口にせず、花火をしようだとか言っている、自分本位な彼女に対する腹いせか、仕返しなのだろうか。

 うろたえて肩越しに振り返ると、男と目が合った。怒りの色はなかった。厭か、と静かに問われ、

「……別に、厭じゃないけど」

 厭というよりはどちらかというと困る。こんな体勢で、いったいどういう顔をして花火をしたらいいものやら判らない。

 けれど彼女が逡巡しているうちに穂先には火が点き、ちち、ちちちと最初のちいさなすすき形の火花が出始める。しかたなく前方へ視線を戻して、ロワジィは花火を睨んだ。

 目の前で先と同じように火花が散りはじめて、それを凝視しているはずなのに、男のせいでまるで頭に入ってこない。

うつむいた彼女の左肩に、ふ、とちいさく息がかかって、そうしておもむろに男が顎を乗せた。

両手を腹のあたりで軽く組まれ、今度こそ思考が停止する。

ええええ、と情けない声を喉元あたりでなんとか飲みこんで、ロワジィはちょっと待って、ちょっと待ってと頭の中でくり返した。ちょっと待って、本当にこういうのやめてほしい。

祭りの最後の夜に、人気のない林の暗がりで、男と女が身を寄せ合って花火をする、状況としてはどこにもおかしいものはないけれど、いま、こんなふうに、まるで「恋人」のように扱われることは、なんだかひどく辛かった。

「消えている」

 背後の男が腕を伸ばして、消えたきり次に火を点けない彼女の手から燃え残りを取り上げ、新しいものを握らせた。

 はずみでまだ酒の匂いのする呼気が耳元に吹き込まれて、ロワジィは眉を寄せた。

 ――どうして。

 またばちばちと爆ぜる火の粉を睨みつけ、奥歯をかみしめる。

 どうして男は自分にこんなことをするのだろう。抱きしめたいのだったら、さっきの農場の上娘にやってやったらいい。娘が挿していた髪飾り、あれはたしかに的当てのものだった。きっと薬師の老人を探しに行った男を、どこかで娘が見つけたのだろう。待って、だとか呼び止めて、男に髪飾りをとってくれとねだったのだと思う。男の的当ての腕は上手だった、だから取ってやった。そのあとあの広場に移動して、娘が思いを告げながら飾り紐を男の腕にきっと結んだのだ。秘めた思慕を、ひとつひとつの結び目に込めたおまじない。あなたが好きです、一途な熱が込められているおまじない。

 男が腕をあげるたびに、結ばれたそれが視界に入る。

 視界にちらちら揺れるたび、心臓のあたりが締め付けられるように痛い。

 どうして、こんなふうに後ろから抱きしめられるような真似をして、あんたは。

「……ロワジィ、?」

 とうとう拳がこわばり、うまく開かなくなってしまった。顔を伏せ、じっと固まる彼女をうかがうように男が声をかける。そうして彼女の冷えた指先に気づいて、温めるようにおのれの掌で覆おうとする。やめて。ロワジィは強く目を瞑った。そんな、大事なひとにするみたいに、やさしいふりをしないで。

 彼女の思いを知らず、男は掌の表裏を撫ぜながら、かたい手だな、と呟いた。言われてかっと頬に血が上り、撫ぜられているそれを引っ込めようと身もがく。不意にこみ上げたそれは、怒りではなく恥ずかしさだ。がさがさと荒れたおのれの手が恥ずかしかった。そうよ。いきなり暴れる彼女に目を見張る男へ、矢継ぎ早にロワジィは言った。

「そうよ。節くれだって、日焼けもしてれば傷だらけの、男みたいな手でしょう。やわらかでもなければしなやかでもない、おまけにいつも物騒なものを振り回してるもんだから、握り胼胝(だこ)までできてる、いかつくて可愛げのない手だわ」

 あの娘の小さな手とは、似ても似つかない、

「何故」

 貶める。

 立ち上がり身を離そうともがく彼女を、後ろからがっちりと抱え込んで、男は驚いたようにそう言った。放す気はないようだった。だったらどんなに暴れたところで、男の力にロワジィはかなわない。猪と渡り合えるような剛力にどうやったって勝てるはずがない。

「あんたの手は、仕事をしている手だろう」

 それでも男の腕を振りほどこうと爪を立てる彼女に、男は強くささやく。

「山を下りて、色んなことを辛抱して、生きてきた手だろう」

 そうして気恥ずかしさに目をつぶりそっぽを向く彼女の片手を取り、手首に口を寄せて、俺は好きだ、とはっきり言った。

「いい手だ、思う」

 ――やめて。

 足が細かく震えてしまう。ああほら、またくたびれたのかもしれない、歯を食いしばってロワジィは思った。なにしろずっと座ったっきりでいたから、でもすこし休めばすぐよくなるわ、支えてもらわなくても立てるから、そうよ大丈夫、あたしはひとりで、

 情けない顔をした彼女を抱え込んだまま、ごそごそと男が服の隠しをまさぐる音がして、それからなにかを握り、口づけた彼女の手首にそっと当てた。

 燭台に立てた残り少ない蝋燭の光源に、照らされたそれ、男の太い指先で丁寧に手首に結ばれてゆくそれを、ロワジィはぼんやりと見つめた。喉が苦しい。

 橙と白と茶色の、男とそろいの組み紐。

「……これ、」

 押し出した声はしわがれていて、まるで自分のものに聞こえなかった。

「農場の、娘に、特等とってくれ言われて」

 男は言った。

 こんな田舎で、硝子細工を手に入れる機会はなかなかないのです、どうしてもあれがほしいの、ギィさん取れますか。真剣に頼みこまれて、主に世話になっている手前、いま取り込んでいるから他を当たれと、安易に断わることが男にはできなかった。

特等をとるには一番上の一番小さな穴に、五つの玉をすべて入れなければならない。男がわりと器用に玉を投げ入れられるとはいえ、すべてを入れるのはなかなか至難の業だった。幾度か挑戦し、その甲斐あって特等を手にすることはできたのだけれど、特等はずれの一等景品の花火が山になってしまった。おそらく持ち帰ればロワジィは喜ぶだろうが、それにだって上限というものがある、こんなに貰ってどうしたものか、思案する男に、だったらあんた、これと花火を変えてやろうか。言って露店商が眠そうに咥え煙草の煙を吐きながら、奥から木箱を取り出した。

布を敷いた中に並べられていたのは、さまざまな色と形の組み紐だ。やわらかで、光沢があって、きれいなものだな、感心する男に、おうさうちは景品にケチしてないからね、これは絹糸もんだよ、店主が胸を張ってこたえた。

 花火全部置いて行くンなら、二ツ持っていっていいよ。

勧められるままに男は箱の中の紐を選り、同じ色のものをふたつ受け取った。

似合うといい。

そう思う。

「ああ……、似合う」

 結びながら男はうすく微笑んだ。あんたの髪の色と似ていると思ったんだ。

 言われてのろのろとロワジィは目を落とす。先ごろほつれて、ばらばらと地面に散ってしまった花冠に、もったり揺れていた秋の花草。橙色のからすうり。その色によく似た、男と彼女のそろいの組み紐。

 じっと見つめるからすうりがじんわりぼやけて、形も色もよく判らなくなっていく。……いやだな。どうしてあたしは、こんなに諦めが悪いんだろう。

 消そうと思ったし、消したはずなのに。上から勢いよく水をぶっかけた燃えさしのように、はじまってもいなかったそれを奥底のほうへ埋めてしまって、もう何もなかったことにして、それで終わりにするつもりだったのに。

 お似合いだって思ったでしょう。農場の娘とそのままうまくいくかどうかなんて判らない、けれどこのひとの隣に並んでいても、なにも違和感を覚えないような、自然に添いあう、そんな相手がこのひとにはいた方がいいって思ったんでしょう。

 熾火は消えてくれなかった。濡れた灰の中で往生際を見誤って、じくじくと爛れたままくすぶり続けている。こんな、清らかでも透明でもない感情は、

「ロワジィ?」

 急にまぶたを押さえた彼女にうろたえて、男は彼女の名を呼び何度も覗き込む。

「厭か?……気に入らないか?」

「違う」

「どこか傷が、」

「違う」

 なにも痛くない。ただ花火の煙が目に沁みたのよ。

 言いながら、なんて苦しまぎれの言い訳なのだろうとロワジィは思って、すこし笑えた。

 

 

(20180311)

 

 

最終更新:2018年03月18日 10:21