朝起きたあたりから、おや、とすこし思いはしたのだ。

 基本的に、ギィはなにを考えているのか、おのれからあまり口には出さないので、もっぱらロワジィがああだこうだと言葉をかけ、その返しを見て男の感情を推し量ろうとする。

 自然、顔を見ることが多くなった。

 口数は少ないが、無表情な人間ではない。むしろ感情を隠すことが下手な部類であるので、結構考えが顔に出る。

なので、余計に彼女は男の顔色をうかがって、男自身を判断する。

 その朝もまず目を覚まし、おのれの身支度を整えたあと、ロワジィはおはようと言いながら男の顔を見た。

 なんとはなしに億劫そうというか、かったるいような動きをしている気がした。どこか調子が優れないのかと思う。けれど質すと、どこにも不調はないとかえされた。大丈夫とかえす相手に、それ以上、いやでも平気?本当に?重ねて聞くのもどうかと思ったので、そのときはそれで仕舞いにした。

 ひと晩の野宿の用意をして、小屋を出る。農場主からの好意で、ひと冬のあいだ起居の許しを得ている作業小屋である。

 年を迎えていた。この辺りはそこまで豪雪地帯ではないとはいえ、山が近い分降るときは降る。さすがに農場内を行き来するのに難儀することはなかったが、町へ向かおうとすれば山をひとつ越えてゆかねばならない。雪のみっしり積もった峠越えは、考えただけでぞっとする話だ。

 なので、作業小屋で寝起きのできることは正直ひどくありがたかった。

 しかし寒い。

屋根はあり壁もある。棚や小さな卓もしつらえてあったし、外には簡易のかまどもあった。

とはいえ、下は土間であったし、明り取りの窓には雨戸がない。防寒率としては無に等しい。もともと、農繁期のあいだ小作人たちが日差しを避け一息入れるための小屋であり、住居目的で建てられたものではないからだ。

おまけにこのところ寒さが本気を出してきて、うすい板壁を通して忍びこむ冷気が半端ない。冷気というよりは寒気だ。

室内の木桶に前日汲んでおいた水が凍った翌朝、さすがにめっぽう寒いので、火鉢を借りた。それでも寒い。氷が張らないあたりまでなんとなく室温が上昇したという程度の、呼気は相変わらず白いままの寒さだ。

拳二つ分ほどの焼いた石を、厚手の布に包んで寝床の足元に忍ばせる。手持ちの毛布や毛物の上着だけでは不十分で、掛けられるものはなんでも無節操に上に掛けて寝た。あの大猪の皮まで借りて掛けて寝た。使い道がないというので遠慮なく借りた。

元来猪は毛の一本一本が硬いので、寝具には向かない。なにしろうなじあたりの毛で針を作れるのだから、その硬さ推して知るべし。

だが掛けるとだいぶ温かい気がした。ので、下手に寝返りをうつとちくちくと肌を刺す痛みは、この際目を瞑ることにする。背に腹は代えられぬ。

それでも戸外の寒さよりは相当ましなのだ。

小屋を出ると吹きつけた北風に身が縮む。体が細かく震えて暖を取ろうとする。

 今日はまたひときわ寒い。

「帰ったら、」

 同じように小屋の戸口を抜け、寒風に肩をすくめる斜め後ろにいた男を振り仰いで、ロワジィはぼやいた。

「帰ったら、もう、真っ先に温泉に浸かってやるわ」

 聞いた男が、わりと真面目な顔で同意した。

 

 

 依頼された別の農場へ向かうのである。

 頼まれ仕事は、山犬退治だ。

 ――このところ野犬が群れで農場周辺を徘徊し、日中はともかく活動期の夜間ともなると、畑の見回りもおっかなくてできやしない。柵の外へ出るなんてとんでもない話だ。

――数は二十はいないんじゃないかな。はっきりと数えたわけじゃあないが、十から十五ってところだ。率いているのは群れの中でも目立って大きい赤犬だよ。

――害がなけりゃ、放っておいてもよかったんだがね、先日鶏小屋がやられちまってね。百羽はいたかな。……残ったのは十数羽だったよ。

 鶏肉の味を占めたのか、近隣の農場でも同じような被害が起こっているとのことで、数か所から同内容の依頼があった。頼んだよ、いのしし殺し。その名前を出されるたびに柱や壁に頭を打ちつけたくなるが、そこはそれ、ぐっとこらえるロワジィである。

 群れる生き物というのは、一匹で生きており自衛にひどく知恵のある猪や熊とくらべると、そこまで脅威の相手ではない。群れは跡を残す。群れは必ずボスがいる。頭と、それに次ぐ二番手を叩けば、群れはばらばらに崩壊する。

 そうしてかならず巣を作る。今回ロワジィは営巣地まで向かって群れを叩く腹づもりでいた。

「できる?」

「できる」

 彼女の言葉にギィが頷く。手には横槌を持っていた。作業小屋から拝借したものだ。

 群れを成している野犬は、人間が日頃接している犬の性質とはすこし異なる。ひとくくりに犬と言っても、実際は猟犬や闘犬もいれば愛玩用もいるわけなのだが、人間社会に生きる上でどの犬にも求められるものは、飼い主との信頼関係と絶対服従である。どんなに興奮しても、闘犬が犬同士でなく主に牙を向けてはいけないし、狩りに出向いた犬が、追った獲物を食ってしまったら、猟犬とは呼ばれない。愛玩にしても同じことだ。

 山犬は群れを成す。そこに主格の人間はいない。群れの判断を行うのは同じ犬のボスである。

 そうして旅人がもし山野で山犬の群れに出くわした場合、真っ先に守らなければならないのは喉だ。

 攻撃の意思表示のある群れの場合、吠えて追い立てることはない。周囲をぐるぐると回る示威行動もない。躊躇は勿論ない。人間の喉笛を狙ってまっすぐに飛び掛かってくる。

 であるので、仮に遭遇したら、群れと同じように、即撃で相手の頭蓋を叩く必要がある。なにか棒を振り回せば逃げるだろうとか、大声で喚けば追い払えるだろうとか、山犬を甘く見て命を落としたという話を、年に何度か、流れた先で聞く。

 ロワジィが質したのは、男が迷いなく、犬を打ち殺すことができるかどうかの確認である。男がわりとすぐ頷いたので、すこし訝しく思った。

「あんた、怖くないの」

「犬は何度も……遭ったこと、ある。怖くない」

 男はもう一度頷く。山中でひとりで仕事をしていれば、群れとばったり出会う可能性は常にある。木馬道を作り、そこを往復し、人間のにおいがついている場所ならなおさらだ。撃退の仕方も大丈夫だと言った。

「猪も、熊も?」

「獣は、慣れている」

 獣は怖くない。獣はただ、おのれが生き延びるために行動する。こちらに危害を加えることはあるが、そこに相手を貶めてやろうだとか、相手がおびえるのを見て楽しむだとかというような思惟思惑はない。ただ回避すればいい。

「ひとは、」

 何かを思い出したのかわずかに身震いして男は言った。

「ひとは、とどめを刺すとき、笑う。あの顔が、怖い」

 思わずぎくりとした。知らずつるりと顔を撫でている。ことさら意識してはいないが、自分も同じような笑みを浮かべながら、山賊野盗のたぐいを仕留めているのではなかったか。

 それからやはり気の毒に思った。ロワジィは雇われ護衛をなりわいとしている。この冬は傷を完全に治すことに専念し、農場周りの獣退治を複数請け負って賄うつもりでいたけれど、春が来たら、また人の多い町の側に向かうつもりでいた。

「あんたは、また、町へ行くのだろう」

 男が言う。考えていたことをそのまま言い当てられて、え、と彼女は動揺した。

「猟師や、荷運びの、仕事探せばある、のに、あんたは町へ行くのだろう」

「そうね、悪者は町にいるからね」

「何故」

 こちら本意をたしかめる男の口ぶりだった。一瞬ロワジィは口ごもり、

「正義の味方だからじゃないかな」

 あいまいな返事を戻す。

「……そうか、」

 しばらく思案したのち男はうなずき、それ以上彼女は問われることはなかった。

 

 

 営巣地へ続く道は昼過ぎには見つかった。拍子抜けするほどだ。

巣に至る下生えに積もった雪には、体毛やら糞やらが点々と残されていたし、犬の身幅に獣道ができていた。仮に追っている獲物が熊なら、戻り足の可能性も考慮しなければならないが、相手は犬だ。深読みしなくても大丈夫だろうと思われた。

 立ち止まって風向きを見る。風は北から南に吹き抜けており、彼女たちが追う獣道は西から東へ延びていた。先に気づかれる可能性は五分五分と言ったところだ。

 巣に踏み込む前に、一度腰を落ち着け腹ごしらえをした。相手の行動時間は、宵の口から深更すこし前だ。慌てる必要はない。

革袋の水を飲み、包んできた蒸しパンやら干し肉を齧る。蒸しパンは昨日男が多めに作っていたもので、小麦生地の中にちいさく刻んだ甘藷が入っていた。ほのかな甘みが美味い。食欲旺盛なロワジィに比べて、水にすこし口をつけただけで、男は渡された食料には首を振り、林の奥のあたりへ目をやっている。襲撃前の緊張でもしているのかと尋ねると、ちがう、とかえされた。

「お腹空かないの」

「朝、食った」

「朝食べたって、今もう昼過ぎでしょう……、なにか入れとかないと寒さに負けるわよ。……これは?」

 ロワジィが示したのは、農場の娘が先日差し入れにやってきた焼き菓子だ。あの祭りが終わった後も何度か、娘は菓子や野菜の煮たものを、作りすぎてしまったのでお裾分け、そう言って小屋を訪れ、茶を飲み、世間話をして帰る。

 いい子だと思った。決して押しつけがましくやってくるわけでもなく、茶でも一緒にどうかと誘われなければ、遠慮して差し入れだけ置いて帰ってしまうような娘だ。祭りのあの後、ギィと娘の間でどうした話が交わされたのかまではロワジィは知らなかったけれど、聞くというのも自分の胸のうちがややこしくなるので放置してある。

 きっと本当は作りすぎたわけでも、余って困っているわけでもないのだと思う。

 とりあえず惣菜類は相伴に預かった。けれど、菓子は、

「いい。食ってくれ。あんた、甘いの好きだろう」

 逆に男が彼女に差し出す。

「……あのね。あんたには言いたいような、言わない方がいいような、思うところがいろいろあるけど、とりあえずこれは、あんたが食べるべきだと思うの」

 の、の部分に力をこめて彼女が男を見上げると、

「何故」

「……何故って」

 何故ときた。困って彼女は眉尻を下げる。

「……あんたに、食べてほしくて作っているんでしょうに」

 結局言いたくもない台詞を口にすることになった。察しろ、そうも思うが、男にこうした心の機微を判れというのは無理かもしれない。そもそもロワジィは女で、ギィは男なのだ。もしかして、頭の回路のつくりが根本から違うのかも。そう思った。

 彼女の言葉を聞いた男は、俺に、口の中で呟いて首をひねっている。

「何故、俺に」

「あーもう。……あーーもう。このニブちん」

「……ニブち、??」

 女なら、好きな男に自分の作った料理を食べさせたいに決まってるでしょうなんて、教えてやるもんか莫迦。

 反対側にも首をひねり口の中で……ニブ?と繰り返している男に、思わず脛のひとつでも蹴ってやりたくなりながら、……絶対教えてやらない。口中に焼き菓子をひとつ放り込んで、そっぽを向いてロワジィは知らないふりをした。

 腹ごしらえを済ませ、荷物をまとめて巣へ向かう。

近づくにつれて一層群れの痕跡が点在していた。一度でも山で獣を追った経験があるものなら、決して見逃さない跡だ。近い、低く呟くと、男も頷いた。

「赤犬が群れのボスって言ってたわね。……あたしが赤いのをやる」

「わかった」

 男が再度頷く。声量を抑えるために、前屈みになり彼女の耳元に吹き込む態だ。語尾のかすれるバスバリトンに、胃のあたりがぎゅ、となりかけて急いで前方に意識を集中しようとした。

 不意打ちは本当に心臓に悪いと思う。こんな時、こんな場所で、全く物騒な内容でしかないのに、吹き込む声にどきどきするだとか、どうかしてる。あたし本当に頭どうかしてる。

「二番、やる」

「お願いね」

 ここで待っていてほしいと彼女はもう言わなかった。ここまで従ってきたということは、男は彼女の手助けのつもりで来ているのだろうし、手出しはするなと言ったところで、猪のときにあそこまで庇われて今更の感もある。

 腰の鉞を掌でたしかめ、行こう、とロワジィは言った。

「……群れは家畜を襲うことを覚えた。初撃で赤犬と二番手、あとは叩けるだけ、叩く」

 男が動作だけで承知を示したのを見止めて、彼女は前を向き忍び足で目的地に近づいた。ここから先はおそらく瞬間の判断が求められる。まだ犬どもは人間の接近に気づいた素振りはないが、音も、においも、風向きひとつでどうとでもなる距離だ。

 大きな岩があった。両腕を広げた大人がぐるりと周囲を囲むとしたら、十人は下らない大岩だ。高さもそれなりにある。これは使えるな、見上げた彼女の肩あたりをとんとんと指で男がつついた。見ると、地面からひろいあげた小石を片手に持っている。考えていることは同じらしい。

 うん、と声には出さずに頷いたところで、岩の向こうの側で遠吠えがひとつ上がった。続けてきゃんきゃんといくつかの喚声。見つかったのかとぎくりとし鉞の柄を握り身構えたが、どうも群れの犬同士のじゃれ合いの声らしく、岩のこちら側へ来る様子はない。

 そっと岩の影から営巣地をうかがう。

 岩の向こうはやや窪地になっていて、山犬どもはそこにいた。依頼主が言ったとおり、大柄な赤犬が窪地の中心あたりに座し、ボスを囲む形でそれぞれ休んでいたり、数匹で鼻づら突き合わせてじゃれ合っていたりする。思い思いの場所にいるのかとも思ったが、よく見るとじゃれ合っている数匹以外は、均等の距離でもって輪を形成しているのだった。じゃれている数匹は群れの中では若いようだ。

 素早く目を走らせ、十六、ロワジィは数えた。

 それから、若いものはあっても、仔や胎の大きなものがいないことをたしかめ、知らずほっとする。気がついて苦々しくなる。甘いなと思った。

 相手は犬だが、人間社会に馴染む犬ではない。犬と名前がついているだけの、まったく別の生き物だ。出くわせば命の危険があり、農場の鶏を襲い損害を出し、おまけに群れで行動する生き物だ。そこまで判っているはずなのに、それでもやはり母犬にまとわりつくちいさなものを打ち殺すのは抵抗があった。やれと言われれば勿論できるが、できればやりたくない。

 だからいなくてよかったと思う。

 肩越しに男を振り返り、ちいさく頷いた。行くわね、目で合図する。男が頷き返すのを目端で確認して、それから鉞の柄を利き手で握りしめ、左腕でいつでも体を庇えるように構えながら、窪地に向かって一気に突っ込んだ。

 ぱっと血煙が立つ。

 すり抜けざまに削いだ最初の二頭は、おそらくロワジィをロワジィと認める前に、絶命したに違いない。――あと数歩。距離を縮める彼女に、ぎゃ、と悲鳴を上げて群れが襲撃者に反応した。赤犬が跳ね起き、歯を剥き出して、鉞を振り下ろす彼女に向かって飛び掛かる。

 瞬発だった。

 ロワジィはまっすぐ相手の頭蓋へ向けて獲物を振り下ろしながら、喉を庇うように左腕を眼前に突き出す。すぐさまがち、と固いもの同士がぶつかる音とともに衝撃が腕に走り、顔をしかめ目をやると、左腕に噛みついた赤犬がだらだらと口から血をしたたらせ、ずる、と彼女の足元に落下した。

 軽く息が漏れる。皮の腕当ての下に仕込んだ鋼板が、牙の貫通を防ぎ得たことへの安堵の息だった。それからすぐにあたりに目をやり、ボスがやられたことで群れに走った動揺をはっきりと感じ取る。

 一頭だけ、たたらを踏まずに、即、ボスを下したロワジィへ向けて、隙を衝いて走り寄ったものがいる。二番手、彼女が振り向き腕を突き出す前に、彼女の突撃の後を追い数歩で肉薄した男が、脳天へ横槌を無慈悲に叩き込んだ。

 肉と骨のつぶれる厭な音がして、走り寄った勢いのままどさと、次のボスになるはずだったものも赤犬に重なるようにして絶命する。

 即死だった。

 視線だけでそれを確認すると、ロワジィはその他の山犬へ向けて動きを止めることなく接近し、がつがつと鉞を振り上げ振り下ろした。

 五頭をかぞえたところでようやく我に返り、逃げる、の選択肢を思い出した群れが、尻尾を巻き、背を見せて逃げる態勢になった。

 そこへ石礫が追撃する。

 大岩へ俊敏な動作で上っていた男が、先ごろ拾い上げていた小石を、祭りの的当ての時分にも見せた制球でもって、一匹ずつ、容赦ない速度のまま投げつけるのである。

 たかが石、だが強肩から放たれるそれは、毛を破り肉に食い込む強さだった。

 投擲の唯一の欠点は、接近され囲まれることだ。的になる相手を見定めて投げる動作に入り、投げきるまでがまるで無防備になるわけなのだが、それを高所を利用することで補う。

 ネコの血が混じる獣とちがって、イヌ科の最大の弱みは、高低差に対応できないところである。虎や豹であるならひょいと上ってしまえる高みを、犬は登れない。跳躍力のある山犬といえどもそれは同じだ。

 瞬く間に数匹沈んだ。

 無傷で逃げ出せたのはせいぜい一、二匹だったろう。命からがら逃げだしていった。

「……逃がした」

 藪に逃げ込まれて、的をなくした男が、ぼそりと呟き地面に降り立つ。

「十分よ。群れを壊せたのならそれでいいわ」

 それに、ロワジィは眉をひそめる。

「ここで、百発百中、群れの犬全部仕留めきったら、まーたなんか頭痛くなるようなあだ名付けられそう。……怖い」

 ふた名は猪だけで腹がいっぱいだと思う。

 肩をすくめ、彼女がそう応じたときだった、

 ひゃん。

ひどくちいさな音がして、思わずはじかれるようにロワジィは振り向く。

 目をむき、離れた場所にあるその音のもとを視界に入れ、入れた途端に胸のうちに、なんともいやあな、どろりとした感情が広がるのが自分でも判った。

「あー……、」

 音の正体は一匹の犬の仔だ。

 先ごろいない、と群れの数を視認したときには確かに見当たらなかったのに、岩の影にでも潜んでいたものらしい。

 あるいはたった今まで騒ぎに気付かず眠っていた可能性もあった。それほどに小さい。まだ目もよく見えていない様子で、生後一週間と言ったところかしらと思う。

一度強く目を閉じると、ロワジィは鉞を振り付いた血脂を払って、仔のところへ向かう。――群れは鶏を襲うことを覚えた。すこし前男に言い放った自分の言葉を頭の中でくり返し、唇を結ぶ。ためらうな。やれ。

仔は成長が早い。かわいそうだからと言って見逃がし、そうして大きくなり、この群れと同じように数をそろえて人間の集落を襲ったらどうする。

それとも、庇護者を失ったいま、ほかの獣に襲われエサになるか、どちらかだ。

いまは冬だ。野山にエサは少ない。腰も据わらずよたよたと歩くそれは、すぐに捕食されるに違いない。餌になるのなら、体が生きていようと死んでいようとあまり関係のないことだ。どちらにせよ食われて消える。

……だからここで、あたしがとどめを刺したって、

「……う、」

 それは、あまりにも小さく頼りなかった。それは倒れた山犬の骸をつつき、そうしてなぜ動かなくなってしまったのかが判らない様子で、すんすんと鼻を鳴らすと骸の腹のあたりに潜り込み体を丸める。寒いのだろう。もしかすると、寄り添った骸が母だったのかもしれない。

通常犬は多産の生き物だが、生きて生まれたのがそれだけだったのか、それとも今日までに淘汰されたのか、ほかに兄弟は見当たらなかった。

 丸めた体はまだ産毛で覆われており、とてもやわらかそうだ。きっと撫でるともくもくとして気持ちがいいだろうな。そう思う。

 思いながら獲物を振り上げた。ごめん。狙いを過たずせめて一撃で仕留めてやろうと、目を細めたロワジィの殺気に、それはふと気が付いたのか、丸めた体から顔をあげ、彼女と視線がかち合った。

 丸い目だ。

 まだ悲しみも苦しみも知らない、透過性のある黒い目だった。

 ずぐ、と体の芯を刺し貫く衝撃があって、咄嗟に左手で胸を押さえる。これは痛みだなと遅れて理解した。やれと言われたら勿論できる?さっきそう思ったんじゃないの?自分で自分を笑ってしまう。笑いながら、けれどやはり鉞を振り下ろすことができなかった。

無理だ。これを殺すなんて、できない。

「うー、」

 鉞を腰に戻すと、気張っていた力が抜け、彼女はその小さな生き物の傍らにしゃがみ込んだ。……ごめんね。先とは違う意味をふくませて思う。あんたの母さん、殺してしまったのかな。

「……こんなに小さい。……こんなに小さいのにねぇ」

手を伸ばして、やわらかなにこ毛に触れる。掌で撫でるには壊してしまいそうで、そっと人差し指で触れただけだ。

自分の手では殺せなかった。けれどどうするか一瞬迷う。ここに置いて行く?自然淘汰に任せるか、それとも可能性としては限りなく低いが、母犬が無事なまま逃げており、仔の元へ戻ってくることも無くはない。

人差し指を顎に当てて案じ、そうして決めた。――連れて戻る。

おもむろに仔犬をすくい上げ、胸をくつろげて腹帯のあたりへしまった。この外気で庇護する母犬が居なければ、すぐに凍死してしまう幼さだ。これでいくらかましだとは思うが、早めに作業小屋へ戻ろうと思った。

 仔犬は上着に放り込まれ、もぞもぞと何度か身動きはしたものの、彼女の体温が心地よかったのか、暴れることもなくおとなしくなる。……乳も探さないと。

すこし前に叩き殺そうとしていたものに対して、この切り替えの速さは自分でもどうかと思うが、生かすと決めたらためらっている時間がもったいない。なにしろ生まれたばかりのものはどの生き物だろうと弱い。手をかけ、丁寧に丁寧に世話をしてやらないと、すぐに弱って死んでしまう。

 立ち上がり、男を顧みる。ロワジィの一連の挙動を見てあらかた察したのだろう、男は片眉をあげて応じた。

「依頼はこなした。報告には明日行く。夜になる前に、帰ろう」

「ロワジィ」

「うん……?」

 呼ばれて彼女は男をもう一度振り仰ぐ。

「……もし、あんたが、」

 男はなんと言おうか迷っているようだった。しばらく考えを巡らせたのち、言葉を選びながら、口を開く。

「もし、あんたが望むなら、俺が代わりに、」

「――いいの」

 きっぱりと男の言葉をさえぎってロワジィは首を振る。でもありがとう、そうも付け加えた。

「ありがとう。でもいいのよ。とても自分勝手だけど、でももういいの」

 奪うだけの自分は、

「帰ろう。寒いし、血腥い。温泉に入らなきゃ」

 そう言ってへそのあたりへ手をやる。腹で丸まった仔犬はほのかに温かい。

 

 

 復路である。

 朝小屋を出て昼過ぎに着いたのだから、帰りも同じ計算だ。日が落ちるのが早いので、さすがに明るいうちにとはいかないが、夜も更ける前に戻れるのだし、なにしろ一日で片が付いたのは上出来だとロワジィは思う。

 行きは出会いがしらに鉢合わせる可能性もゼロではなかったので、それでも周囲をたしかめながら進んだが、帰りは山犬を警戒しなくていい分、歩みが捗った。

 捗るはずだった。

 営巣地を後にし、半時ほど林の中を進むうちに、ロワジィは違和感を覚え、うしろを振り返る。ギィ?名前をちいさく呼んでいた。

 男が遅れている。

 なんでもない、かぶりを振り返した男は、しかし歩きはじめるとまたすぐに遅れがちになり、時々ロワジィが足を緩め、追い付いてくるのを待つようになった。何度かそれを繰り返すうちに、ますます男はのろくなり、そうしてとうとう立ち止まり、その場にしゃがみ込んでしまう。

「え、」

 男は頑丈が取り柄だ。たとえばあの峠越えの荷車押しのときも、ひたすら一人で馬がわりに車を押すという、過酷な重労働に全身くたくたに疲労していただろうけれど、こんな風に動けなくなることはなかった。

 猪をしとめたときも、ど外れた膂力で獣を下し、白く蒸気が上がるほどであったけれど、それでもやはり立っていた。

 へたりこんでいたのはロワジィのほうだ。 

 肩で息をする男に慌てて近づけば、びっしりと額に脂汗が浮かんでいることに気づく。よく見ると唇もひび割れ、顔色もひどく悪い。明らかに変調をきたしている。

「ギィ、?」

「……なんでもない」

「なんでもない訳、ないでしょう……!」

 つい大きな声が出た。

「どうしたの。山犬にどこかやられたの」

「……ちがう、」

 のろのろと首を振る男は、ひどく辛そうだ。ちょっとごめんね、言って彼女は男の額と後頭部へ手を当てた。

 茹だるように熱い。

「ギィ……!」

 しゃがんでいた男が、体勢を維持できなくなったのか膝をつく。ロワジィは慌てて支えた。重い。彼女とやりとりを交わしてはいるが、一度しゃがみ込むとすでに支える力を失い、朦朧となっているようだった。

 原因がなにかは判らない。怪我ではないようだったけれど、それ以上は判らない。

――でももうこれじゃあ歩けない。

 判断すると、彼女のその後の行動は早かった。

 もともと二、三日の工程になると踏んでいた。一日仕事で終わってしまったのがあっけなく感じるほどだ。だったから、野宿の準備は揃えてきている。自分が背負っていた荷物を下に置き、男の背の荷物も下ろさせて、その荷の中からまず下敷きを取りだし広げ、男をそこへ座らせた。

 それから周囲を見回し、手ごろな幹に紐をかけ、そこへ厚布を張らせて天蓋を作る。風がないこと、そうして林の中であることが良かったと思った。これが遮蔽物もなにもない吹き曝しのところだと、まずこうして簡易のテントも張れない。

 テントを作り、それから下生えを小刀でよけて土を撒き地面を均す。そこへ周囲の小枝を拾い集め、交差するように組んでいく。

 いますぐやらなければならないことがあって、よかったと思う。そうでなければなんだかベソをかいてしまいそうだった。

 火おこしの準備を整え、火口箱を取り出し火を点ける。頽れている男へ手持ちの外套と毛布を着せ掛けてやり、暑くはないかと尋ねると、寒い、と返ってきた。

 唇が白く変色しており、体が小刻みに震えている。まだ熱が上がるのかもしれない。

「熱があるみたいだけど、……、ほかに痛いところとか、苦しいところはないの?」

「ない、」

 だったら風邪だろうか。

 男の顔を覗きこみながらロワジィは思う。思いながらなんだか暗い気持ちになった。風邪を引くのももっともだと思った。なにしろ男は作業小屋でも土間に直で寝ていたからだ。

 先に述べたように、小屋の床は踏み固められた土だ。そのまま座ればしんしんと冷える。

 だから、横に来たらどうかとロワジィは言った。何度も言った。時にはきつい口調で勧めたこともある。

彼女が最初に寝込んだ際に、藁を運び込み、寝床を作ってあった。男がいくら大柄であるとはいっても、藁をすこし広げればいい話だ。二人が横になれる広さは十分確保できる。

 秋口ならともかく、もう真冬なのよ。雪も降ってる。土間にゴロ寝なんて、体冷やして壊しますって言ってるようなもんじゃないの。隣で寝なさいよ。

 ――いい。

 だが男はがんとして首を縦に振らなかった。それはあんたが使ってくれ。俺はゴロ寝でかまわない。寒いのには慣れている。そう言って彼女の寝床からなるべく遠い床の上で、体を丸めて眠っていた。

 無茶だと思った。早晩体をおかしくする。

 けれど、それ以上強く出るすべをロワジィは知らなかった。無理強いすれば、外で寝ると言い出しかねなくて怖かった。

 そうして遠ざけられているのだなと思う。悲しかった。

 抱いてくれとあの時自分が言ったから、男は彼女を抱いた。横に来ればまた体を強請られると思っているのかもしれない。質せばはっきりするだろうけれど、それは怖くて聞けなかった。

 そうだと返されたら自分はどうしたらいい。あれは本意ではなかったと、場の流れと言おうか、どうしたって断れないような状況になっていたから、俺はそうしただけだと言われたらどんな顔をしたらいい。

 判らない。

 なので聞けなかった。

 ただ、取られた距離が、そのまま男の答えだと思った。

 だから触れないことにした。見て見ぬふりをして、臭いものには蓋をしてしまえば、表面上はどうとでも取り繕える。自分の気持ちはなかったことにしようとあの祭りの夜に思ったはずだ。触れないことにして、雇った側と、雇われた側の関係に戻れば、少なくともこれ以上自分は惨めな思いを抱えないで済む。

 でもやっぱり、もうあんたを抱く気はないって言われたとしたって、無理矢理でも寝かせるべきだったのかも。

 浅く息を吐く男を見てそう思う。

「……あんた、」

 立てた膝と膝のあいだに顔をうずめながら、男が口を開く。

「あんた、行ってくれ」

「……なに言ってるの。行けるわけないでしょう!」

「俺なら、大丈夫」

 言われてなんだか悲しくなった。ここで弱った男を見捨ててさっさと先に戻るような女だと思われていたのだろうかと思った。

「あのね。具合が悪くなってる人間の『大丈夫』は、一番当てにならないの。本当よ。調子よくないのにほったらかして、死にかけたあたしが言うんだから、間違いないわ」

「行ってくれ」

「……だから、」

 強情な拒絶に腹が立つ。そこまで信用されていないのだろうかと思う。見下されたものだ。たしかに自分はたいしてろくな人間ではないけれど、

「――仔が死ぬ」

 呂律のおぼつかない男の次の言葉に、一瞬ロワジィは声を失った。

 言われて唐突に腹のあたりのふくらみに意識が行く。そうだった。先刻拾ったひ弱な生き物が、おとなしく丸まったままそこに入っていたのだった。

 これが自力で餌を食えるほどに育った幼体ならいい。戸外ではあるが、くっついて暖をとってやって、干し肉でもやわらかく噛み戻してやれば、ひと晩十分過ごせる強さを持っている。

 だが彼女の上着の中にいたものは、まだ生後間もない、自力で餌を食うどころか、ろくすっぽ歩けもしない、排泄ですら介助してやらないと駄目な、すぐ死んでしまう生き物だ。

 ロワジィの村でも、猟をするものが犬を飼っていたから、小さいころからよく知っている。生まれたばかりの仔には、数時間おきの授乳が必要だということも判っていた。

 ここには母がいない。ここでは乳が飲めない。

 男に付き添い、ひと晩ここで夜明かしをしたとすれば、これはきっと弱り駄目になってしまう。

「でも、」

 熱があり、一歩も歩けないような人間を置いて行くのか。ロワジィは揺れた。

いくら元のつくりが頑丈だとはいえ、野外に具合の悪いこのひとを放置して、悪化しないと誰が言える?そもそもすこし休んだからって、よくなると思うの?それに、追い払ったけど、あの残りの山犬やそのほかの獣がここに来ないって保証、どこにある?もしそうなったら、動けないこのひとはどうするの?

通常ひとりで野外に夜明かしするときは、高所が望ましい。木があればその木に登り、枝の上で仮眠をとる。地面で横になるというのは、不寝番のできる自分以外の人間がいる場合だけだ。

ひとりであり、高所がないときは、基本的には寝ない。寒い時期なら火を焚き座ったまま夜が明けるのを待つ。眠ると、襲われる可能性があるからだ。

ロワジィは上を見上げた。ここの林の木はすこし細い。のぼったとしても、仮眠できる枝の安定さは望めなかった。それに男の今の状態で、木に登れるとはとても思えない。

強引に彼女が樹上に引き上げるというのもおそらく無理だ。いくら腕力にある程度の自信があるとはいえ、男は彼女よりも重い。支えきれない。

だったらやはり、このまま地面でひと晩明かすことになる。だが熱で浮かされ、傾いでる状態の男に、周囲を警戒しろというのはどう見てもできそうにない。

「……置いていけないわ……、」

 情けない声が出た。自分はこんなに決断力がない人間だったのかと思う。

 ここに留まり、腹のあたりで丸くなり眠っている小さなものが、次第に硬く冷えてゆくのを見るのは悲しかった。殺さないと決めたのだ。だったら、なんとしても助けてやりたいと思う。だが、こんな状態の男をひとりで残して行くことも、彼女には選べなかった。

 ロワジィが発した弱り切った声に、男が顔をあげた。焦点がなかなか合わず、ようよう彼女の顔に合わせると、あんた、言って僅かに笑う。

「なんて顔をしている」

「……だって、」

 どっちも厭だ選びたくない、自分が言っているのはそう言うことだ。判っている。子供の駄々と同じだ。けれどロワジィは大人だったし、どうしたってどちらかを選ばなければならないときがあることを知っていた。否も応もないのだ。現実は常に冷酷である。

だのに選ぶことが苦しい。

 決めかねうろたえる彼女の手を取り、男はおのれの額に寄せる。熱い。掴まれたのは、組み紐を結ばれたがわの手だった。

「だったら」

 こうしよう。男は言った。

 あんたは俺を置いて行くんじゃあない。あんたはそれの世話を頼みに、すこしの間ここを留守にするだけだ。農場へ戻り、世話を任せられるものを見つけたら、それを預け、またここへ取って引き返す。俺はここで待っている、

「……そんなの、」

 そんなの詭弁だわ。

彼女はそう言いかけた。今から行って戻って、どれだけ急いだところでふた時はかかる道のりなのだ。戻るころには深更になる。それまで男の容態が急変しないと誰が言える?

「できる」

言いかけた彼女の声に押しかぶせるようにして、できる、と重ねて男が言った。かすれた声の叱咤だった。

あんたならできる。あんたは自分のことを弱いと思っているかもしれないが、あんたは強い人間だ。ふたつのものがあり、どちらかひとつを捨てることができないのならば、どちらも守り切れる強さを持っているひとだ。

言われてロワジィはうつむいた。うつむくと、男の結わえた揃いの組み紐がゆらゆらと揺れているのが見える。

しっかりしろ。言われているような気がした。

「――……判った」

 そこまで言われて、できないとは言えなくなった。掴まれた手を握り返し、

「走って行って、走って戻ってくるから、……、待っててね」

そう言う。頷いた男の頭を引き寄せて、

「ロワ、」

 かさかさに乾いた男の唇へ口づける。手を当てたうなじが燃えるように熱い。

重ねるというよりは奪うような口づけだった。

角度を変え貪るように相手の唇を食む。男は抗わなかった。心の中でたっぷり五つ数えて、そうして唇を離し、立ち上がる。

 されているときは大人しくしていたのに、今ごろ驚いたように丸い目になっているのがおかしい。仮にもあたしが年上なんだから。自分自身の頬を張るような気持ちで、ロワジィはギィを見下ろし、言った。いつまでもこのひとが優しいのに甘えてるだなんて、癪じゃないの。

「おまじないよ。戻ってくるまで、いい子で待ってなさい」

 子ども扱いするな、憤慨されるかと思った言葉に男はうっすらと笑んで、掴まれたままだった掌が、一度だけぎゅ、と固く握られ放される。……わかった。男は応えた。俺はここで待っている。

 返事を聞き、思い切るように背を向けた。躊躇したら進めなくなってしまいそうだった。振り返ってはいけないと思った。急ぎ足で藪を漕いだ。無造作に脇へ除けたハリギリの枝が跳ね、頬を引っ掻き赤い線を残す。

だが今はもう痛みを感じなかった。

 

 

(20180320)

 

 

 

最終更新:2018年03月23日 22:37