きれいな女だなと思ったのだ。
いっとうはじめ、市場の店表に放り出されていたときの話だ。
山からくだり、すぐに性質のよろしくないものに騙されて、身ぐるみ含めてすべて剥ぎとられ、体を売らされそうして斡旋所にたらい回された。
町は怖いなというのが男の感想だった。
山で老樵夫と二人きりで暮らしていた男にとって、まずこれだけ多くの人間がいて、それぞれがそれぞれに思惑を持ち行き来しているというだけで、どうにも信じられずくらくら目暗みしてしまいそうな話だった。
金に執着するのもよく判らない。
たしかに自分は有り金全部巻き上げられてすっからかんになったのだが、どうして騙りまでして他人の金を奪っていくのかが、不思議でならなかった。
金が欲しいのなら、欲しいと率直に言えばよいのにと思う。
お前の金をよこせと言われれば、男はそのまま渡したろう。
それから、もし金が必要なのだとしたら、働けばよいのにと思った。
男はそうして山で働き外貨を得た。山での暮らしはほとんど金というものを必要としなかったけれど、木馬道を通り材木を下ろし、買い取るものに会えば相手は金を渡してきた。労働に対して賃金が支払われるのだなとそこで理解した。
紙幣だったり、貨幣だったり、時には生活に入り用の現物だったりで対価を渡されてきたけれど、働けばその分金を渡されるのはどれも同じで、だから金が必要ならばおのれで働いて稼げばよいのだ。
持ち金をうばわれ、自分はだいぶまごついたけれど、とくだん腹は立たなかった。ただただ不思議だっただけだ。
山に戻りたいなとも思った。
ここの空気はどうも自分には合わないようだ。老人がいなくなり、文字通り男は天涯孤独で、山に戻ればおそらく生涯のほとんどをひとりで過ごすことになるのだろうけれど、別にそれでもかまわないと思った。
暮らしのすべてはおのれで賄えたし、小屋もあり、仕事もできる。なにも不自由はない。
山に戻りたかった。だがこの状況は、それを許してくれなさそうだ。
まったくひどい場所だった。今はそう思う。
斡旋所とは名ばかりの、ひとをひとが売って行き、そうして買ってゆく、人間がモノ扱いされている場所だった。
ど外れた体格の良さに、当初は上玉が入ったとご機嫌だった店主は、男が言葉が拙いこと、流暢に話せないことに気づくとみるみる形相を変え、店先に放り出して以降ろくに世話らしい世話はされなかった。
日が落ち店じまいになると、それでもほかの商品は手枷をつけられ、店主が自宅の納屋へ連れ帰ったが、男はそのまま放置された。
こんなうすら莫迦、持っていく方がどうかしてるよ、が客のいないときの店主の口癖だった。
そうして人気のなくなった市場通りで、男は地べたにころがって寝た。
今があたたかい季節でよかったと思った。それから、冬になったらこのまま凍死するのだろうかと漠然と思った。
逃げる、という選択肢はなかった。なぜなら男は朝までそこにいろ、と言いつけられていて、それを守るものだと信じていたからだ。
直寝している男を見かねたのか、ときどき周囲の露店のものが、その日売れ残った串焼きだの小麦の皮で包んだ野菜だのを恵んでくれたので、それで飢えはしのいだ。夜間になり誰もいなくなると、市場の噴水に行って渇きをいやした。
そこでどこかに行ってしまえばよかったのだ。
手枷はされていたので、仕方なしに直に口をつけ、犬のように水を貪り飲む男の横を、本物の野良犬が駆けていく。あの時分は物言わぬ獣の方が、男よりも自由だった。
捨て値同然で売られていた男に、買い手はいつまでもつかなかった。あの場所でみ月ほどは過ごしていたと思う。
そうして、慣れた。
そのころには、山に戻りたいと思うことも無くなった。落ちるだけ落ちたのだから、これ以上の下もあるまい、だったらもうどうとでもなれと開き直る部分もあった。
空を眺めていた。雲や鳥は風の向くままどこにでも行ける。いいなと思う。
いらンかね、このみ月の間にもううんざりするほど聞いた、店主の客引きの声。最安値だよ、お買い得だよ。勧めながらだがおそらくこの客も買わないだろうなと、内心諦めている店主の声。
舌打ちの音まで聞こえてきそうだった。
うーん、値踏みする視線がじろじろと向けられているのを感じる。それからいくつか店主とやりとりの声。声の色調子で女だと判った。なんとか売りさばこうと縋る店主へ、いらない、ときっぱり断る声がする。
あたしがほしいのは、洗いものだとか食事の支度ができる従者なんだよ。女の子にしようと決めてたんだ。
言葉が耳に入る。さばさばとした物言いだった。
それはそうだろうなと思った。身の回りの世話を頼むものなら、見栄の良いものの方がいい。
またくるよ、そう言って女が店先を離れる。一瞬ちらりとこちらへ目をやり、それから男の視線を同じように追って、空の雲へとたどり着く。夕焼けの色をわずかに残したひつじ雲。女の目にはどう見えているのだろう。ふと気になって男は初めて目をやった。女は体を返し、去ってゆくところだった。
風になびく赤毛が炎のようだ。一瞬だけ横顔が見える。
きれいな女だなと思った。
女というものを、山をくだったのちほとんど初めて男は目にした。一度、材木の引き取りについてきた材木商の妻を見かけたことがあったが、ああこれが女というものかと思ったものだ。山に獣は多くいたので、生き物には牡と牝があり、それぞれに体のつくりが違う、というのは承知していたし、自分が牡で、女というものが牝だというのも知っていた。
知っていた、ただそれだけだった。
まず身ぐるみはがされ素寒貧になり、足りない分は体でかえせと売春宿に回されて、そこでいきなり女をあてがわれた。通常宿には女が入るが、中には男日照りの既婚の女も利用するのだと宿の者は言った。
……戦出ずっぱりの軍人だとか、買い付けの多い商人だとかのご婦人がな。……いいんだよ、旦那方は留守中だ。鬼の居ぬ間のなんとやらって、ね。てめぇは余計なことには首を突っ込まず、ただご婦人が満足するまで抱けばいい。
言いつかって必死に腰を振った。へたくそ。
罵声を浴びせられ、水をぶっかけられて、女が帰ればきつく折檻された。てめぇが満足させれないから後金が減ったじゃねえか。次はきちんとこなして来いよ。
すぐに次の女があてがわれ、終わればまた次の女があてがわれ、すぐにいまが昼なのか夜なのかも判らなくなった。文字通り精根尽き果てて、饐えたにおするうすい寝具に倒れ込んで、泥のように寝た。たたき起こされればまた同じことの繰り返しだった。
乳房を丸く揉みしだけ。
首筋から順繰りに舌を這わせ、全身舐めまわせ。
耳朶に舌を入れ、歯をたてぬように軽く噛め。
突っ込むのは最後でいい。てめぇが気持ちいいんじゃねえ、お客さまを気持ちよくさせるんだよ。
下は特に念入りに愛撫しろ。愛液が滴ってぬめってどうしようもなくなるまで、やるんだ……、……。
あまりに男が無知であったので、舌打ちしながら宿のものや客の女が男に手順をたたき込み、教え込まれた通り男は死に物狂いで奉仕した。
ただただ怖かった。
あえかに喘いでるように見えてすこしでも気に障ると、不意に豹変し、怒り狂う女どもも、乱杭歯を剥き出し折檻棒を片手に、足音荒く近づいてくる宿の男どもも、ひたすらに怖かった。男は寝具の上で体を丸め、堪忍してくれとくり返しながら、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
殴られたくなければ上達するしかないのだ。自分は下手だった、だからこんな風に折檻されるのだ。痛いのが嫌なら、女どもを満足させるほかない。
「牡を買う」目的のあるせいかどうかは判らないが、宿へ忍ぶ女どもはみな着飾った格好をしていた。化粧をし、首飾りをつけ、指輪をはめてやってきた。女というのはみな着飾るものなのだなと男は思った。
顔にも良し悪しがあるようだ。それも男は初めて知った。違い、というのがひとりひとりにあるのは理解していたが、目鼻立ちの整いようで扱いがわりと変わるらしい。
今度の奥方はいっとうべっぴんだからな、下卑た声でささやかれて、そんなにいいものなのかと思ったが、実際その女が来てみても男の感想はふうん、程度のものだった。
満足すれば金を支払い、しなければ形相を変えて貶す。それはどの女も変わらなかった。女というのはそういう生き物なのだろうか。不思議に思う。
だったら、上っ面という言葉があるように、顔のつくりなんて仮面のようなものではないか。虚飾を剥ぎとってしまえば、どれも似たような顔をしているのではないだろうか。
どうせ死んで腐れ落ち、おもての肉がべろりと取れて骨になれば、みな同じなのだ。そこには美しいも醜いもない。だったらいちいちつくりが良いの悪いの騒ぎ立てるのも、無駄なことではないか。男は思った。思ったが口には出さなかった。出せば、生意気な口を利くんじゃねぇと殴られるからだ。
十日ほど経ち、唐突に男は勃たなくなった。不具になったらしい。指先でしごいても、女の裸を見ても、どうにもならなかった。ぴくとも反応しないのだ。
……どうする。またしこたま殴られた男の後ろで、宿の者が言いあう。
しばらく待つか?まあでも、不能になるとだいたいもう使い物にならねぇが。置いといても鬱陶しいだけだし、もう市場に回していいんじゃねぇかな、元はあらかた回収できたから。
そうして二束三文で今度は斡旋所へ流された。
斡旋所に回され、正直ほっとした部分もあった。もう無数の女の相手をしなくていい。店主の機嫌次第で殴られることはあったが、それは宿でも同じことだ。だったらこっちのほうがよっぽどましだと思った。
何日か後に店に大きな入荷があり、安く仕入れられた上に、店はじめから景気よく商品の娘たちが次々に売られてゆき、その日店主はほくほく顔だった。鼻歌を歌い、お前も腹が減っているだろう、これでも食えと男にやさしい言葉をかけ、干し肉まで放ったのだ。
そうして、早くお前も売れるといいのになあと言った。
放置されたきり売れない男へ、昨晩、癇癪を起こし、店じまいしたあと、店主は男を足で小突き、棒で殴った。がつがつと振り下ろされる暴力に、頭を腕で庇い、なるべく早く終わるよう願いながら、申し訳なく思った。自分でも、売れ残りたくて残っているわけじゃないんだが。
初秋の日差しはまだだいぶきつくて、目を開けているだけで白くまぶしい。昨晩は小突かれたところが痛くて、呻吟しているうちに水を飲みに行く暇もなく朝になっていた。喉がからからに乾いていたが、今動くのは得策でないことは男にもわかっている。
無理やり唾を飲みこむと、喉が引き攣れた。早く日が落ちないものか、そうしてまた空を眺めているうちに、向かいの屋根に親子の雀がさえずっていることに気がついた。
ちちち、ちちち。巣立ったばかりの仔が、親を甘えた声で呼ぶ。ここにいるよ、ここにいるからきてよと、小さい雀の体の中でもいっとうに小さい体で、懸命にさえずり、親が傍らへ降り立つと、ちょんちょんと寄って行ってはくちばしで親の体をたしかめる、その姿につい頬がほころんだ。
可愛らしいものだな。そう思う。
店主がまた客とやりとりしている声が遠くに聞こえた。どうせおのれには関係のない話だ。水を介したようにおぼろな声だった。
不意に戻されたのは、店主が前に立ち、雀どもの姿を眺めていた男の視界を遮ったからだ。
おら、立て。
引き立てられ、意味が判らないままに従った。昨日の痣が痛い。殴られるのは勘弁してほしかった。
この方がお前を買い上げてくださったんだよ。店主は言った。いいな、言うことをよくよく聞いて奉公しろ。
言われて男は店主の横に立つ姿に目をやる。あのときの赤毛の女だった。
山育ちの男は、言葉をうまく知らない。だからただ、赤い髪の女だなというのと、この女も奉仕を期待して自分を買ったのだろうかとふと思った。そちらの期待には申し訳ないが答えられそうにない。伝えた方が良いのだろうか。
迷っているうちに行こう、言って女はさっさと歩きだす。慌てて従った。背後で毎度あり。手もみする店主のにやけ声が聞こえる。ああ自分が捌けて、せいせいしたのだろうなと思った。
女はロワジィと名乗り、そうして男へ名前を聞いてきた。ギィ、とこたえながら、町へやってきて初めて名前を聞かれたなと気がつく。それまで男は名前のない物と同じことだった。
ロワジィは男へ、身の回りの世話を頼むと言った。食事の支度や洗いものや繕いものを手伝ってほしい。たいした額ではないけれど、給金は渡す。そうして生活すべての面倒は見るという。
それだけでよいのかと思った。
ロワジィは山育ちだとは言ったが、町で暮らしている女だ。自分はまたなにか言葉の綾だとか、裏だとかが読めていなくて、失態をおかしているのではないだろうか。
おずおずと彼女を見ると、怪訝な顔をして彼女も男を見返した。なあに、目が言っている。濃い緑。青漆の入った瞳と赤い髪の、不思議な女。
きれいだなと思った。
むずかしい理屈は必要なく、ただそれだけでいい気もした。
彼女の手を取り、ギィはおのれの心臓の上へ手を当てる。あんたが俺をあの場所から救ってくれた。今度は俺があんたに恩を返す。心臓に誓うと、彼女は一瞬呆気にとられ、それからぱっと赤面した。ひどく動揺し、内心慌てふためいているのが見て取れた。……迷惑だっただろうか。
彼女の取った宿は相部屋で、それからすぐに大勢が来た。だから結局男の誓いに彼女がどう思ったのかはわからずじまいだった。
翌日、峠越えの荷車の護衛の仕事に就いた。正確には護衛に就いたのはロワジィで、男は付き従っただけだ。
出立して山に入るとすぐに老いた馬の引く車は動かなくなり、人間の助力が必要となった。男は役をかってでた。半分押し付けられた形ではあったが、ロワジィの役に立つのならそれでもいいと思う。
彼女は怒っていた。道中男が車を押す間、ずっと不機嫌で気に食わないのが判った。売春宿でさんざんに男は折檻されており、正直怒りをおもてにあらわす相手がひどく苦手だった。こわいと思う。だのに男は彼女がちっとも怖くない。
どうしてだろうと考える。
彼女が怒っていたのは、彼女自身にであり、こうした事態を招いた請け負いの相手にであり、男がひとりで車を押すのを、見て見ぬふりをする同行者に対してだった。つまり彼女は男のために憤慨していたのだ。
この女はきっとやさしい。
いつからかギィは彼女から目が離せなくなっていた。いい女だ。そう思う。
自分のためというより、ひとのためにいつも怒るようなところがある。
はずみだとかそんなつもりはないと言いながら、周囲の人間が困っていると手を差し伸べずにはいられない。
面倒見がよいのだろう。手を差し伸べ、すべてが終わったあとで、あたしはなにをやっているのと頭を抱えていたりする。
食事に入った店でのちょっとしたやりとりで、ああいう言い方しなければよかったかなだとか、いつまでもくよくよしたりしている。
茹でた卵が二黄卵で、黄身がふたつあると言って一日中嬉しそうにしていたりする。
ただ焼いただけ、ただ煮ただけの男の料理を、何がいいのか作った当の男にはさっぱり判らないが、うまそうに食べている。
夢にうなされ泣きべそをかきながら起きて、膝を抱えて子供のようにひとりでじっとこらえている。
久しぶりの湯浴みにさっさと裸になって、男が劣情をいだくことを判っていない。牡あつかいされていないのかもしれない。隠してほしいと頼むと、そこではじめて思いあたってあわてて隠して赤くなっている。
面白い女だなと思った。
面白くて可愛い。
女は女自身のことを、ことあるごとにでかぶつだの年増だの言って卑下する。たぶんおのれの容姿にまるで自信がないのだ。可愛げがないとよく言うけれど、男はちっともそう思えない。
皮一枚のつくりの良し悪しがいったいどれほどのものだと思っている一方で、彼女をきれいだなと思う男自身もいるのだから始末に負えないと思った。
時々、本当に年上なのか判らなくなる時もある。ひどく大人びた女に見えるときもあるし、はしゃいで笑い転げるさまは小さい子供のようだ。
そうして男を引き寄せて突き放す。裾を握りしめている手に自分で気づかないで、距離をとろうとする。抱き寄せると抗わないのに、好意を示すと途端に逃げてゆく。まったく何を考えているのか判らない。風のようだと思った。
風のようだ、だがそれは冷涼な風ではない。ときにうねり、叩きのめす勢いで吹きつける、炎をふくむ熱波だ。
つかみどころがなくて難解な生き物だ、でも側にいたかった。
猪の退治を請け負ったときもそうだった。
彼女はただ、男について来いと、自分の仕事を手伝えと命するだけでよかったのだ。男はそれに従ったろうと思う。どうしたって放っておけない。
だのに、彼女は付いてくるなと言った。
あんたと一緒にいたいと口にした男に、急に全身をこわばらせ、かたい口調になって、思い違いもはなはだしいと撥ねつけた。そんなに自分は嫌われているだろうか。
きっと女はただ純粋に男を労働力として雇いいれただけで、それ以上踏み込まれることを好まないのだ。だったら男は女の言うことを聞くべきだと思う。
彼女の拒絶に押し切られ、赴く背を眺めてしまった。今はそれが苦い。
あのとき、小作人が先に見つかる事故がなければ、彼女は猪をひとりで仕留めたかもしれない。それは誰にもわからない。すべては想定でしかないからだ。
結果彼女はひどい怪我を負った。男が横やりを入れなければ、あのとき彼女は死んでいただろう。間一髪、の言葉があの時ほど合うなと思ったことはない。
彼女を失いかけた恐怖に、男はしばらく口がきけなかった。
全身ずたぼろになり、あちらこちら裂傷を受け、汚泥にまみれてなお、女はきれいだった。男に抱きつき、うまく呂律の回らない口調で、ぐちゃぐちゃにしてくれと耳元でささやいた。
――なにも判らなくなるくらい、ぐちゃぐちゃにして。
吹き込まれた瞬間、かっとおのれの血流が体を駆けめぐるのを感じた。こんな時に、理性の部分は男をそう非難する。判っていた。彼女はひとりで猪と対峙し、今だいぶ混乱しているだけだ。もうあとすこしで自分は死ぬというところまで追いつめられて、首の皮一枚まで刃物がせまりいよいよ駄目だと観念して、その脅威が不意になくなって、はげしく上下に揺さぶられた感情を持て余し、血迷っているだけだ。
すこし経てば彼女は我に返るだろう。自分がすべきことは彼女の願いをかなえることではなくて、冷静に対処し、落ち着かせ、傷の手当てをして一刻も早く休ませてやることだ。
だが熱はじわじわと下半身によどみ、いっかな抜けてゆこうとしない。最初からそうだった。彼女と湯に浸かっていたときから、男はおのれのもたげてくる肉欲を押さえこむのに必死だったのだ。
こんな手傷を負った相手に欲情するなんてどうかしている。自分は本当にどうかしている。
不能は一体どこに行ったのかと疑う勢いで、どうにもおさまりがつかない。
彼女が望んだかどうかは関係ない。正直に言う。男が彼女を無茶苦茶に犯したかった。
わかったとこたえた声が、うまく言えたかの自信もない。
女を褥に横たえる。
ひどいことをしたくないと嘯きながら、ひどいことがしたかった。弱みにつけこみたくないと善人ぶりながら、弱みにつけこみ、激しく突き回し、抱き潰してしまいたくてしようがなかった。
一度触れるときっと止まらなくなる。だから女がいま正気に戻って、さわるなやめろと制止をかけてくれるとよいのにと思う。
ロワジィは困惑していた。
その女の手を取り口づける。どくどくと頭の中で赤黒い欲望が明滅する。もう止まらない。止めたくない。
唇を掌から順に手首、腕へと移し、売春宿でたたき込まれた知識も捨てたものじゃないと思った。
女が困惑したまま息を漏らし、目を細める。細めるさまが猫のようだ。寄せた鼻に彼女のにおいが香って、たまらずむしゃぶりついた。
甘い。
汗くさいからと女は身を縮こまらせ、すこし嫌がる素振りをした。どこが臭いのかさっぱりわからず、男はそのまま舌を這わせ、うなじに噛みつく。
噛みつくと口内に女のにおいが広がる。余計に興奮した。
女の体を返し、後ろから抱きあげる。
彼女が指を伸ばし、男の屹立の形をさぐるようになぞる。目がくらむ。今すぐにでも床の上に押し倒し、おのれの欲のままに突き立て果ててしまいたい衝動に駆られて困った。
――ひどくしていい。
だのに彼女は煽るのだ。判ってやっているのだとしたら、相当意地が悪いが、きっと素なのだ。たのむ。焚きつけないでくれ。内心悲鳴を上げた。これ以上煽られては、おのれがおのれを保てる自身がない。
がちがちに勃起した陰茎を彼女の陰唇へあてがって、ずると突き込んだ。進めた瞬間、ロワジィがちいさく悲鳴を上げ、全身をこわばらせたのが判る。男の肉茎はかなり太い。きついのだ。だが苦しんでいるのが判っても腰が止まらなかった。
最奥まで到達し、はじめて息を吐く。吐いた男の腕の中で、彼女は体を細かく震わせ、汗を浮かばせていた。苦しんでいる。握る拳をひらき、なんとか力を逃がして楽になろうとしている彼女に、ずくと心が痛んだ。すまない。謝る男に、ゆるゆると彼女は首を振りいいのよとかえす。あたしがこうしてほしかったの。
そうして下胎を男の形をたしかめるようになぞり、誘うように腰を押し付ける。ひどくしていい。再度促された。我慢しないで。
言われて駄目だと思う。もう駄目だ。箍が外れたように男は腰を振りたてた。我慢がまるで利かなかった。
申し訳ないが女の内はものすごく具合がいい。
まず入口の唇の肉厚なのがたまらない。やわらかく男の屹立を迎え入れ、包み込み締め上げる。
そうして蠕動が半端ない。膣壁自体が意思を持っているように、奥へ奥へと引き込んで、やわやわと全方位から揉みしだいてくる。
これはきっと彼女の育ちや行う仕事のせいだと思われるが、ほどよく鍛えられた腹筋や背筋や大臀筋が、おそらく内部の締まりを助長するのだ。一気に持っていかれそうな快感に、男は唸る。
そうしてちょうど突き立てた奥の部分、腰を引く動作をするときにカリが一瞬かかる膣奥に粒状の壁が並び、ざらざらとしてもうどうしようもない。女もそのあたりがいっとうに感じるようだった。
嬌声があふれ、その声にいっそう煽られて男は抽挿をくり返す。
何度も狙って擦りたてるうちに、愛液と先走りがまじりあってぐずぐずと接合部分が泡立ち音を立てた。売春宿の女客なら粘液で締め付けがゆるくなり、男もいったんおのれの立て直しをはかれたのだが、彼女の内はまるで容赦がなかった。
ぬめつく内部が熱い。抑えがきかずに男はがつがつと腰を使い、快楽の頂点を目指して突っ走った。いい、もっとと喘ぐ女の声、汗と愛液のにおい、月光に照らされるつややかな白い膚、まだ感じていたい、だがもう堪えようがない、とうとう我慢が限界のふちを越えて、
「……っ……、っ、」
すんでのところで自身を引き抜き、数度しごいて女の背へ白濁をぶちまけた。
びくびくと愉悦に揺れる背に、ロワジィも達したのだと理解する。
もの欲し気に揺れた尻が、……そのまま出してよかったのに。不満げに呟かれて、それはさすがにどうかと思った。
まず始末が大変になるし、女が孕む危険性が格段に上がる。その場合、おのれはよいが女がどう感じるか判らない。本音を言えば、あのまま彼女の最奥にすべてを注ぎ込んで、子宮の中をどぷどぷに充たしてやりたい暗い欲望はあったが、それを叶えるのはさすがに人非人に思えた。
弛緩し脱力した女の体を黙って拭き清める。女はひどく熱い。熱があるのだ。
自分は何をしているのだという今頃湧いて出た後悔と、相反して、まだ抱き足りない、徹底的に犯しつくしてやりたい欲情がうねる。目の前の彼女の体を、あらためてねぶるように視姦しているおのれがいる。
ギィは慌てて頭を振った。
駄目だ。
ひどくしたいわけじゃないのに。
後悔はすぐに重圧じみた罪悪感となって容赦なく現実を突きつけた。
女は死にかけた。
ひと晩しても熱が下がらず、男の呼びかけにも反応しない。これはまずいと本能的に思った。
農場の人間に医者を聞くと、離れた村に一人老いた薬師がいると返され、取るものもとりあえず教えられた村に向かった。
戻る老人の歩みの遅さに歯噛みして、男は老人を背に負い、七里弱の道を半時で戻った。
いやあ、まるで早馬の背にいるようだったよと軽口を叩いていた老人は、小屋に入り高熱に意識のないロワジィを見て、たちまち眉を曇らせた。
――このまま熱が下がらなきゃ、覚悟するんだね。
そう言われて、判っているのに意味が判らず、うろたえた。
覚悟。なんの覚悟だ。
狼狽する男の前で、老人は手早く当て布をはぎ、橙色にただれた傷を切開し、腐りはじめた肉を切除する。猪のつけた傷から、雑菌が入りひどくなっていたのだ。
赤とは言い難い、どろりとした黒い色の膿と血液が傷口から垂れて、お前さん、老人は言った。お前さん、見ているだけなら、これを拭き取ってくりゃせんかね?
言われて洗いざらしの木綿布を手に、女に近づく。
女の意識は変わらず戻らない。
手当のために裸に剥かれた彼女の体のあちこちには、男がつけた噛み痕やら愛吻痕やらが点々と残り、何がなされていたのかは一目瞭然で、
――若いねぇ。
手当をしながらの老人の言葉に、男は顔を赤らめ、身を縮め、消え入りたい衝動に駆られる。半分面白がり、半分腹を立て、老人がその言葉を口にしたのが判るからだ。
老人は説教めいた小言をそれ以上はひとつも言わなかった。男が、自身のしでかした失態に打ちのめされていることを知っているようだった。
手当が終わると薬湯を水差しに入れて、老人は吸い口を彼女の口にあてがった。ほら。励まし、促す。死にたくないなら飲みなさい。
唇をつつかれた感触に、一瞬女は気を戻したようだった。痛み止めだよ。楽になる。
老人の声が聞こえているのかいないのか、僅かに口を開け、吸い口を迎え入れ、彼女はゆっくりと薬湯を嚥下した。伏せられていたまぶたが震え、
「……ロワジィ、」
男は彼女を呼んでいた。たのむ。保ってくれ。発した声は情けなく震えて、語尾はかすれた。たのむ。
十二分に手当てをし、男にも世話の仕方を伝えてから、老人は一度村に戻ると言った。
三日だ。三日が山だよ。
言い置いて去ってゆく。家まで送ったほうが良いだろうかと言った男へ、今度はあらわにして老人は怒ってみせた。
――なに寝とぼけたこと言ってるんだ。わしの心配なんざどうでもいい。あんたが今すべきは、彼女に付いていてやることだろうが。
残された小屋で、誰にすがるともなく何度も男は手を揉み祈り、頭を抱えた。……俺が。俺があのとき、もっとしっかりしていて、あんたの言葉に耳を貸さず、傷口を手当てしすぐに医者を呼びに行ったら、こんなことにはならなかった。あんたがこんな風に苦しむことはなかった。
それより前、猪をひとりで倒すと言ったあんたを引き留め、同行すると強く押せばよかったのだ。どうして俺はあのときあんたをひとりで行かせたのだ。
覚悟をしろと医者は言う。覚悟。なんの覚悟をしたらいい?
あんたがこのまま熱が下がらず早晩逝く。あんたはまだ三十で、きっと心残りがたくさんあるはずで、それを断つのは俺なのだ。
あんたの言葉に流されたという態でもって、その実、我利我欲のままにあんたを抱いて、あんたが満足したのだからよいだとかまことに手前勝手な言い訳をつけて、あんたを殺すのは俺だ。
俺があんたを殺すのだ。
女の額へ濡らした手ぬぐいを乗せてやって、それからまた頭を掻きむしった。
俺は一体あんたになにを返した。恩を返す、借りを返すと口先で朗じながら、俺があんたにしたことと言えば、迷惑をかけ、世話をかけ、金もかけさせただけだった。足手まといの愚図でしかなかった。
こんなきれいな女を、俺が。
……俺が。
四日後、熱が奇跡的に下がり、ぽかんと男を射抜いた瞬間の緑の瞳を忘れない。劈(つんざ)めきは脳天への直撃だった。
頭が痺れる。口がうまく動かなくて苛々とした。
すまない。
男は何度も頭を下げる。
すまない。
もう膚に触れない。もうあんたに触れたりしないから、……、……。
祭りに行きたいのだと女は言った。
女が喜ぶなら行こうと男は思い、頷くとぱっと花の咲くように彼女は笑って、嬉しいと言う。
女の顔を見るだけでまたおのれに悪心が湧いて起こりそうで、男は慌てて目をそらす。
祭りが好きなのだそうだ。
会場の村へ向かう道すがら、女は楽しそうだった。同行人が合わせて十名すこしいて、それに混じって二人も歩いた。道中、三人の娘とその母親と、何がおかしいのか時に涙までにじませて笑いながら、終始なにかをしゃべり続けていた。
花冠を頭にかぶり、うすく化粧をし、紅を引いた女はとても美しかった。ゆらゆら揺れるからすうりまで、似合っていた。まっすぐ見つめるにはなんだかまぶしくて、男はうかがうように女を盗み見る。
会場であちらこちらを冷やかし、腹がはちきれるほどに飲み食いし一息入れると、女は立てなくなった。
くたびれたのだろう。
それもそうだろうなと思った。なにしろ半月前、死にかけたばかりなのだ。
彼女を診たてた薬師の老人はこの村に住んでいる。老人に相談し、そうしてひと晩、軒下を貸してもらえるように頼もうと思った。
すこし休んで回復したとして、このまま農場まで戻らせるのは酷だ。自分が背負って戻るという手もあったが、できれば横にして休ませてやりたい。
老人を探すうちに先ごろ別れた農場主の娘と出会った。お願いがあるのですと呼び止められ、一番上の娘と的当てに向かうことになった。
正直なところ、上娘の髪飾りはどうでもよかった。田舎ではなかなか手に入らないものだからどうしても欲しいという気持ちは判るし、的の穴に玉を入れる適役に、先によい点を出した自分が選ばれるのも理解できたが、球を投げている間中男が考えていたことは、早くこの的当てを終わらせて、戻りたいのだがということだけだった。
ただ、世話になっている農場の娘だから、無碍に断るというのもどうかと思われた。さすがに男が断っただけで、主が心証を害することはないだろうが、この半月に受けた恩もある。
何度か挑んで髪飾りを手に入れると、娘はたいそう喜んだ。早速頭に挿す姿を見て、そういえば女というものはおしなべて飾り立てるものだったなと、唐突に売春宿にやってきていた、女どもを思い出した。
持ちきれないほどの一等景品の花火を、どうしたものかと見下ろしていると、交換してやろうかと店主に持ち掛けられた。差し出された交換品の中に色とりどりの組み紐があって、橙のものを見た瞬間女が浮かんだ。
――似合うだろうな。
来る途中の花冠のからすうりを思い出す。
ロワジィはけっして派手にその身を飾りたててはいなかった。真珠や輝石のはいった飾りといったものを、ひとつも持っていなかった。常に手持ちの金は少ない。まだ詳しく聞いたことはなかったけれど、稼いだ金のほとんどを、どこかよそのところへ送ってしまっているようだった。
たずねたら、こたえてくれるだろうか。
彼女はたぶん、なにかとてもつらいことが昔にあって、そうして山を下りたのだろうと思われる。言葉の端々からそれはうかがえた。
生まれ育った家の話をしているときに、とくにその部落の人間に対して、悪い感情を持っているようにも聞こえなかったから、なにか仲たがいをして出て来たわけではないと思われた。
足のよくない男と夫婦になり、おそらく子供もいたはずだ。
ただ、それ以上は判らない。事故で死んだ、と女は言った。夫であったものが事故に遭ったのか、それは子供まで巻き添えになったのか、そもそも事故とは何だったのか、時々女がただよわせる哀惜の原因はそこにあると思うのだけれど。
いつか聞けたらよいと思う。
結局的当ての花火はすべて引き取ってもらい、代わりに飾り紐を二本受け取った。
ひとつをおのれの手首に結ぶ。
男の太い腕に華奢なつくりの飾り紐はあまり似合わなかったけれど、女と同じ文様を結んでみたかったのだ。
すこしだけでも、繋がっているような気がするから。
じっと脇でそれを見ていた娘が、震える声で、そのもうひとつをわたしに結んで下さいませんかと言った。
言われてそれがどういう意味を持つのか、理解できないほど男は無粋でもない。
――あなたが好きです。
娘にとっては一世一代の覚悟の告白だったはずだ。
がたがたと体が震え、こぶしを握りしめ、目には涙をためて娘は言った。
男は娘を見た。なんと言ったものかずいぶん言いあぐねたが、最後に一言すまない、とこたえた。
あんたの気持ちはうれしい。だがこの紐はあんたには結べない。
男のこたえを、ある程度娘は予想していたようだった。そもそも娘はその胸に抱く思慕が成就するとも思っていないに違いない。娘は農場のもので、親の決めた嫁ぎ先があり、ギィはその農場に厄介になっている、ひと冬だけの流れものにすぎない。
娘もそれを知っていたはずだ。
それでも男の返事を聞くと、わっと娘は泣きだした。
ごめんなさい、判ってはいたの、ギィさんが、あのひとのこと好きだっていうのは知っていたの、だって何でもない雇われ関係だったり、ただの姉弟だったら、あのひとのことをあんな目で見たりなんかしないでしょう。
あんな熱っぽい、憧れているような焦れてるような苦しい目で見たりなんか、絶対しない。
それにギィさんは最初、差し入れを断った。ありがたいけど悪いからって言って、なのに、あのひとに食べさせてあげてっていうと、判ったって受け取って、……、そんなの、どんなにわたしがニブくたって、気づくに決まっているでしょう。
だから端から駄目だっていうのは判っていたの、でもやっぱり、どうしても伝えたかったの、駄目だって判っていたけれど、でも。
顔を覆い、涙ながらに半分おのれに言い聞かせる娘を、そのまま放って行くわけにもいかず、男はしばらく黙ったまま、娘が泣きつくし、ひとりで落ち着くのを待った。
待つあいだ考えていたのは、ロワジィのことだ。
あのままあそこで待たせて、冷えていないだろうかだとか、彼女がこんな風に泣いていたら、自分はどうするだろうだとか。
……ああ、でもあんたはきっとこんな風に泣かないだろうな。
ぐっと口をへの字に結んで、泣きべそをこらえているときがある。
あんたはどうしてそんな顔をするのだろう。知りたい。
俺はあんたのことがもっと知りたい。
娘が落ち着き、もう大丈夫ですと鼻声でこたえるのを聞いて、頷き男は広場を離れた。これ以上自分にどうしようもできないと思ったし、あの場に長くとどまるのは逆に娘にとって残酷なことのようにも思われた。娘の好意に自分は応えられない。
急いで、女を待たせてあったベンチのあたりに向かう。
そこには誰もいなかった。
ざっと血の気が引いたのがおのれで判った。何故いない。あたりを見回し、近くに女の姿のないことをたしかめる。いない。待つうちにいっそう具合でも悪くなったのか、それとも男の帰りが遅いのでしびれを切らして農場に戻ったか、
……だが今から戻るのは、無理だ。
かぶりを振る。荷馬車の後ろに乗せてもらったならともかく、七里弱の夜道を女がひとりで歩いて戻ったとは考えにくい。
それとも、なにか性質の悪いものに絡まれでもしたろうか。
慌てて踵を返し、賑やかな区画へ取って返す。戻る途中ですれ違った相手に、女を見なかったかと男はたしかめて回った。
いくら祭り騒ぎでおのおの浮かれているとはいえ、男は基本的に外部の人間で、吃音まじりに尋ねるさまに警戒と不審の目をさんざんに向けられたが、それにかまっている暇はなかった。
どこに行った。
女は弱っていた。大丈夫と口にしてはいたけれど、明らかに顔色が良くなかったし呼吸も浅かった。
家と家の隙間の暗がりだとか、裏手の井戸、茂みのあたりまで覗いて男は女を探した。
ひと通り探し回ると四半時ほど経っていた。いない。
範囲を広げて、集落の周囲を探索することにした。気まぐれな彼女なら、もしかすると息抜きとでも称して防風林のあたりに入り込んでいるかもしれない。
林に踏み込んで、ふと硝煙のにおいを感じる。ここにいる。確信した。
これは花火のにおいだ。
打ち上げ花火は村の中央で行われていたが、ここからはだいぶ距離がある。打ち上げ花火の煙は林まで届かない。だったらこれは、女が持っていた手持ち花火にちがいないと思う。
あとでやろうね。
そんなことを言ってにこにこしていた。男は花火に興味はない。けれど、喜んで花火を眺める女の姿は見てみたかった。
においを辿って奥の方まで進むと、木の根方に蝋燭を立て、膝を抱えてひとり花火を見つめる女がいた。
女の無事を見止めた途端ほっとすると同時に、黙ってどこかに行くなと怒りもこみ上げた。
女は自分の容姿を自覚していない。燃えるような赤毛と深い瞳が、衆目をどれほど集めるか判っていない。凛とした相貌が、道行く牡の目を奪っていることに気づいていない。
一般の女よりは上背があることはたしかにその通りだったが、均整の取れた手足と豊かな腰つきにちらと目をやる、例えば農場のものどもの視線にまるで無頓着だ。
ああ、そうか。
ふところの飾り紐を唐突に思い出す。だから男は女に結んでやりたかったのだ。
おのれと同じものをその手首に結んで、これは俺のものだと主張したいのだ。
不平のひとつでも述べてやろうかと乱暴に近づいて、だが存外に女が悄然としていることに気づいて、腹立ちが一瞬に霧散する。
景品でもらったときはあんなに嬉しそうだったのに。
どうした。なにがあった。
女の背後に回り、その肩越しに花火を眺める。花火の煙とともに女のにおいが夜気に立ちのぼってくらくらとした。
触れないと誓った。触れてまたあんたを傷つけてしまうのはもう厭だから、
――だが触れたい。
戒める一方で触れたくてしようのないおのれもいる。業が深くて厭になる。
そっと手を回し、女の腹のあたりで組んで引き寄せた。
しばらくすると女は花火を取り落とし、うつむきそうして動かなくなった。泣きそうな顔をしている。
傍に寄るのは迷惑か。
女の手を取り、その手首に組み紐を巻いた。よく似合うと思ったのに、結ばれた女は涙をいっぱいにしてまぶたを押さえてしまう。泣くほど厭なのだろうか。
判らない。自分は女を泣かせたくなくて、できることならいつも屈託なく笑っているとよいなと思うのに、
「ロワジィ、」
「ロワジィ、」
ぱちんと焚火の音が爆ぜ、男はのろのろと目を開けた。
夢を見ていたようだった。すこし寝入ってしまったらしい。うわごとで呟いたおのれの声に覚醒したようだ。
重い頭をもたげると、目の前に勢いの小さくなった焚火があって、橙の照り返しが目に沁みた。じっと見ていると次第に眼球奥の頭痛がひどくなる気がして、男はまた顔を伏せる。
体は横になって休むことを主張していたが、野外で横になることの危険性を男は知っている。
男はいまひとりだった。
女の請け負った野犬退治に付き従ってやってきたのだ。だが体の変調にうまく気づくことができず、結果こんな林の中でへたりこんで女が戻ってくるのを待っている。
失態だった。
朝からすこし頭が重いだとか、節々が痛いだとかのきざしはあったのだ。
ただそれ以上のものはなかったし、思いあたるふしもなかったので、これはきっと寝違えたのだろうと思った。
食欲もわかなかった。飯を見ても胃がムカつくばかりで、さっぱり食べたい気にならない。朝食った飯がもたれたか、昨晩食べたものが傷みかけていたのかと思って、気にしなかったのもよくなかった。
そういえば、この前風邪を引いたのはいつだったろう。うつらうつらとしながら男は思い返す。
夏場だったにもかかわらず、急にがちがちと歯の根も合わないような寒気に襲われて、寝ろと言われて毛布をかぶって寝た。頭からかぶった毛布の中の空気は息苦しく、いやな汗がわき出てしみるのに、寒くてどうしようもなかった。
あれはまだ髭も生えてなかったあたりの話だった気もする。ということはこの前風邪を引いたというのはひと昔前の話になる。こんなことを言ったら、きっと女は呆れるとは思うが。
――あー……、なんとかは風邪ひかないって……、……。
そんなふうに言われるだろうなと思った。思うと自然と口元が緩む。
そんなふうに言われるとよいなと思う。ロワジィはまだ戻らない。
野犬の営巣地を叩いた際に、犬の仔を拾ったのだ。
仔を見た瞬間の彼女が肩の揺れるのを見て、これはきっともう止めを刺すことはできないだろうなと思った。
殺すなら即断しなければならない。逡巡したらもう打ち下ろせないのだ。
女はそれでもいくらか迷ったようだったけれど、生かすことを決めたようだ。それでいいと思う。そのほうが、あんたらしい。
無情無慈悲に血風を巻き上げ、鉞を叩き振り下ろす彼女もたしかにいて、それも女の一面ではあると思うが、冷酷無比を装う彼女よりも、情に揺さぶられてどうしようもなくなり困り果てる方が、よりらしいと思った。
そういえば困って眉尻を下げる表情もよくするな。眉尻を下げ、どうしたものかと頭をかしげて思案する。やるべきこと、やったほうがよいことが頭では判っていて、しかしそう行動したくない彼女の思いと相反するとき、そんな顔になる。
ここを離れるときもそうだった。
女は、動けなくなった男の傍で一晩過ごすと考えていたようだ。ひとつのことを頭が占めると、すぐに他のことがおろそかになりがちなのは、彼女の癖だと思う。腹のあたりに放り込んだ仔犬のことをすっかり忘れている。
本当のところ、男は仔を打ち殺そうと救おうとどちらでもよかった。勿論男は必要以外に小さなものを手に掛ける趣味はないし、生まれたばかりのものを見て、守ってやりたい、いとおしいと思う感情も持ってはいたが、それが育ち、同じように群れを作り家畜を襲うのだとすると、どちらの選択肢をとっても間違いではない気はする。命は尊い。だが、山野を開拓し、そこへ人間が入植する以上、食い違いが生じるのは仕方がないと思う。
その小さいものが死ぬから戻れというと、女は蒼白になった。
言われてそのことに思いあたったようだ。小さなものは弱い。保温と、こまめな授乳が必要になる。ここは寒い。ここには乳がない。
思いあたり、それでもなお女は迷いを見せた。行ってくれと思う。
面目ないことに自分はどうにもここを動けそうにないが、置いて行かれてすぐに駄目になりそうなタマでもない。朝が来るまでここで待機して、それから先を講じてもどうとでもなる。小さなものはこらえがきかない。それは朝を待たずに駄目になる。だったら優先すべきがどちらか、明白なことだ。
だのに女は迷った。置いていけないと情けない声を出し、心底弱った顔になる。
その顔が嬉しかった。
行ってくれと願い、自分は平気だとも思い、だが女がおのれを案じ、決めかねる弱さを見せたことがその実嬉しかった。ここで迷いなく決断し、じゃああとはよろしくとさっさと去ってゆけるような女だったら、きっと自分は彼女に惹かれていなかっただろうと思う。
弱い。だがそれは芯に強さを内包した弱さだ。
男は女の手を取りおのれへ寄せる。飾り紐を巻いたがわの腕だった。
あの祭りの夜、それを結ばれた女は苦しい顔になって顔を押さえてしまった。だから厭なのだと思っていた。迷惑し、男のほの暗い顕示欲に気づいて、嫌悪をいだいたに違いなかった。
しかたない、俺は卑怯だ。この女は俺が先に唾を付けているのだと、だから誰も手を出してくれるなと、周りに知らしめたくてしようがない。
だからとっくに結びを切られ、棄てられたものだと思っていた。
付けてくれているのだなと思った。それだけでつい口角が上がってしまう。
あんたは俺を置いて行くんじゃない。すこしの間、留守にするだけだ、……。
言うと女がまた揺れた。そんなの詭弁だわ、言いかけて言葉を止めている。下手くそな理由付けなのは男が一番承知していた。判っている。だが行ってくれ。何度も願う。
ときどき、あんたは俺をやさしいだとか、だいぶん過剰に評価してくれているが、俺はそんなにいいものじゃあない。俺はたぶんあんたが思う以上に自分勝手で、傲慢な人間だ。その証拠に、俺は、その腹のあたりで丸くなっている犬の仔が死んだところで、正直どうとも思わない。だが死んだ小さな体を手に乗せて、あんたが悲しい顔になるのは、俺はいやだ。
絶対にいやだ。
とうとう仕舞いに女はうなずき、それから何を思ったのか男へ口づけた。性急な口づけだった。女の唇が歯を立てないようにして男の下唇を食み、やわらかな舌が口内へ差し込まれる。一瞬で恍惚となり頭の芯が痺れた。男は拒めない。
女の頭を引き寄せて、同じように噛みつき貪ってしまいたかったけれど、残念なことに腕はうまく上がらなかった。
上がらなくてよかったと思う。男の腕はいま震えていて力も入らず、女を抱き寄せることができない。
――それでいい。
そうも思った。
もしここで体が自由に動いたなら、男は女を襲ってしまいそうだ。ここは野外で、退治したとはいえ山犬たちの巣の近くでもあり、それでなくともほかの生き物と遭遇する可能性もあるというのに、無理矢理に藪に組み伏せ、圧し掛かり、抵抗したところで力でもってねじ伏せて、思いのままに蹂躙してしまいそうだ。
それは怖かった。
こうして体をおかしくするまでも、女は何度も藁床で横になれと言った。藁を広げて使えばだいぶ幅は稼げるんだから、あんたとあたしが寝たって十分狭苦しくないわ。そんなかたい床で、しかも土の上で、ひと晩ふた晩ならともかく、毎日って、そんなの風邪ひきますって言ってるようなもんじゃないの。いくらあんたが頑丈なんだって言ったって、今は冬よ。体によくないわ。
だが男は頑として首を縦に振らずにいたのだ。
理由は単純だった。彼女の隣で寝て、理性を失うのが怖い。
女は純粋におのれの体を気遣って、隣に寝ろと勧めている。それは判る。
……だが俺は、あんたが隣で寝ているだけで、とにかくよくない考えしか湧いて出てこないのだ。
眠るあんたの寝息を聞いているだけで、どうしようもなく興奮してしまう。かたく張り詰める俺自身をなんとかなだめて毎晩寝ているだなんて、あんたは知らないだろうし、知ってほしくもない。
だからなるべく手間仕事を入れて、遅くに戻った。くたくたになってしまえば、何も考えないですぐ眠りに就くことができる。小屋の外で明かりが消えるのを待ち、女が横になった頃合いを見計らって男は小屋の戸に手をかけた。
明かりを消して横になっていても、おそらく半分以上は彼女は目を覚ましたままであったろうけれど、男がそっと足音を忍ばせて戸を開ければ、それ以上起き上がることも話しかけてくることもなかった。
いくら隙間風が吹き込んでも、小屋の中の人間は男と女の二人だけで、男の鼻は女のにおいを嗅ぎ取る。すぐ後ろに寝ているように思えて落ち着かない。頭がぐらぐらする。
何度も掌をひらき、拳を作り、男はおのれを落ち着かせた。
小屋のうすい壁板に額をすりつけて、かび臭い、饐えたにおいをなるべく鼻腔に入れるよう努めながら、早く寝てしまえ、寝てしまえと男は頭の中でくり返す。
――こんなうす汚れた俺に、どうかあんたは気づかないでくれ。
唐突な口づけが済むと、いい子で待っていなさい、言い置いて女は背を向ける。
手巾でひとつにまとめた赤い髪がなびいた。
きれいな女だなと思う。
きれいだ、だからきっと、おのれの欲で汚してしまう前に、離れた方がよいのだ。
大きな町に着いたら、新しい勤め口を世話してやると女は言った。なるべく稼げて安定できる仕事を探すのよ。
解雇するのかと問うた男へ、解雇ではなく契約完了だと女は言った。そうだろう。男はただ、女の気まぐれと、もののはずみと、それからすこしの同情心で雇われたにすぎないのだ。あの斡旋所の店先で、がらくたのように放り出されていた男を、彼女は見て見ぬ振りができなかっただけなのだ。
やさしいひとだ、あんたは。
膝の間にうなだれて、男は目を閉じる。ひどく寒くて、先から震えが止まらない。焚火の炎を強くしたいが、薪を集めてくるのはどうも無理そうだ。
女がありったけかぶせていった手持ちの防寒具の中に、幅広の首巻がある。何等だったか忘れたけれど、祭りの的当ての景品で彼女が手に入れた毛糸を編んだものだ。祭りから戻った数日のち、男が夜遅くまでの仕事に出かけている間に、さっさと編み上げてしまって、ほらちょっと付けてみなさいよ、戻った男に近寄り背伸びをして、首元にぐるぐると巻き付けた。
色もまだらで、編み目も不揃いだし、正直褒められたもんじゃあないけど、まあ、ないよりマシでしょう。
……そんなことも言っていたな。
玉ねぎの皮で染めたらしいあめ色の糸は、男の目にはきれいに染まっているようにしか見えなかったし、不揃いだという模様も、均一に見える。言うとまたまた、だとか手を振って、女は、あたしにお世辞言ったってなにも出ないわよと笑った。
そうだろうか。俺にはとても丁寧に作られたもののように見えるし、なによりあんたがせっせと皮を集め、手間をかけて糸を染め、一日かけて編んだというだけで、編み目だとか染まり具合だとかどうでもよくて、ガラスの髪飾りよりもずっと上等な、尊いものにしか思えないのだが。
その首巻に頬を寄せる。
遠くで犬の遠吠えがする。群れを失った犬どもの一頭だろうか。
早く夜が明けるとよいがと思う。
あんたはたぶん、息せき切って、いまごろ、半ば小走りで、夜道を急いでいるに違いない。行って戻って、それだけでも相当距離があり、疲れたから明日に伸ばすと小屋で休んでしまってもいいはずなのだけれど、彼女はそれをしない。
きっとできない。
やさしいひとだ、あんたは。
うすく目を開けると、手首に結んだ組み紐が見えた。橙と白と赤の糸。夜道を駆ける女の腕でもそれは揺れているだろう。
想像するとすこしだけおかしくて、男はわずかに笑い、そうしてまた目を閉じた。