「はい、お乳ですよ」

 言って、ロワジィはまだ目のよく開かない仔犬の口元を、ちょんとつついてやった。つついてやらないといつまでも寝ているからだ。

 生まれたばかりのものというのはよく寝る。実によく寝る。

 乳を吸い、排泄して、すこしの時間目をひらくばかりであとはひたすら寝るのだ。

 うらやましいとロワジィは思う。

 たとえば不眠不休で丸二日の仕事だとかで、くたくたに疲れていれば別なのだけれど、そうでなければ一度眠りに就いても、朝までに数度寝床の中で目が覚める。夜鷹が鳴いただとか、発情の猫の声がしただとか、今は同じ部屋で寝起きするギィが、寝返りをうっても起きるときがある。

 だから、ぐっすりと眠れるというのはすこしうらやましい。

 しかし考えてみれば、十代のころは一度布団に入ると次に目覚めるのは朝、だった気がするから、これははっきりと年のせいと言うやつかもしれない。むかし父親が、誰にうながされなくても、きっかり朝日が昇る前に目覚めて仕事の準備をする人間だった。そんなことを思い出す。

三十路に足を踏み入れた自分がいまこの眠りの浅さでは、十年過ぎたころにはいったいどうなっているのか考えるとちょっと怖い。

 考えないことにした。

 膝の上に乗せた仔犬は、つつかれてちいさいなりに精いっぱい口を開ける。眠いが、腹は減っているらしい。そこへ麦わらに吸い上げた山羊の乳を、ロワジィはゆっくりと注いでやった。

 なくなるとまた器の中を吸い上げ、指で押さえて仔犬の口へ運ぶ。

 仔犬はその、次が運ばれるすこしの間がわずらわしいようで、小さく抗議の鼻を鳴らした。

「……あんたの母さんなら、ずっと飲みたいだけ出してくれるのにねぇ」

 だがその母犬を退治したのは自分だ。

 罪悪感はない。あのまま群れを放置していれば、近隣の農場の家畜のみならず、いつかは人間も襲われていただろうし、だったら退治するよりほかないのだ。

 自然を切り開く限り、共生できないというのはわりとよくある話だ。

 何度も何度も、膝の上の生き物が満足するまで、ロワジィは器の中の乳を吸い上げ口中にそそぐ動作をくり返した。

「あたしがあんたのおっぱい出せればいいんだけど」

 犬と人間の種の違いは言うに及ばず、分娩しないと牝の乳は出ない。彼女自身そのことは判っている。けれど、もし出たら便利なのにな、そう思ったりする。

 何の気なしに呟くと、卓の向かいで彼女と仔犬の様子を眺めていた男が、いきなり飲んでいた湯を噴いた。

「え、ちょっと」

 鼻水まで垂らして盛大にむせ返る男に眉をひそめ、ロワジィは手ぬぐいを投げてよこす。悪い、言って男は投げられたそれを受け取り、ひとしきり口元を押さえながら咳き込んだ。

 気管に入ったらしい。

「……大丈夫?」

「すまない。不意を、突かれた」

「そう……?、……まだ喉の腫れが残ってるのかしら。薬湯作る?」

「いや、大丈夫」

 不意を突かれた、に若干首をひねりながら、ロワジィは咳き込みすぎて涙をぬぐう男からまた膝の上に目を戻し、

「あら」

 いつの間にか潰れるように寝入ってしまっている仔犬に気がついた。この騒ぎはまるで耳に入らないらしい。

「お腹いっぱいになったのかな。ぽんぽんですか?」

 指先でつんつんと丸く膨れた腹をつつくと、仔犬はむずかる声でやめろと抗議した。

「ぽんぽんだわねぇ。もうねんねするの?しちゃう?……そう」

 何度か撫でると、すぐに深い眠りに入り、それはまるで無抵抗になってしまう。排泄はまたあとでいいか、判断してロワジィは器を卓へ戻し、それからそのぐんにゃりとなった小さな体を持ち上げた。

 それはどこもかしこも小さい。肉球だの黒い鼻面だのは冗談のようにちまちましていて、こんなに小さくて機能をきちんと果たしているのかしら、不思議になる。

 ちょんと、仔犬の鼻とおのれの鼻を突き合わせてみた。

 寝入ったばかりの仔のそこは、まだ僅かに湿っており、日陰の苔の湿り具合を思い出した。ひんやり、しめしめ。表現するとそんな感じだろう。

「お鼻ちっちゃいねぇ」

 この胸のうちに沸いて出てくるわきわきとした感覚は一体何なのだろう。壊してしまいそうで、決して触れずにそうっとしておきたくて、だのにぐしゃぐしゃ撫でて撫でて撫でまくりたい。

 母性本能だとかいうものとはきっと違うと思うが、仔犬を預けたときの娘たちも似たような反応だった。これは女特有の感覚なのか、それとも大きなものが幼いものを見るときの感覚なのだろうか。

溺愛、という言葉にすこし近い気がするのだけれど。

 うっとりと仔犬の鼻を堪能していると、つ、と低く抑えた声が上がった。抑えたもののつい発してしまったような声色だった。繕いをしていた針を指に刺したらしい。

「え、なに、大丈夫?」

 不信をいだいてロワジィは声をかけた。器用な男にしては珍しいことだ。

人間誰しもうっかりだとか、ぼんやりだとかで、些細な怪我をすることはあるが、三日前に熱を出して寝ていた相手なので少し気になる。

「もしかして、また熱とか」

「違う、熱、ない」

「ちょっと見せてみなさいよ」

 言って仔犬を脇へ置き、ロワジィは卓越しに男を捕まえて、相手の額へおのれの額を当てた。すこしの不調ならたぶん男は隠してしまうだろうし、それで通せる頑丈な体であることは知っていたけれど、無理をしてほしくないのが本音だ。

 弱みを見せる間柄ぐらいにはなれたらいいのにと思う。

それが一番難しいことは、承知していたけれど。

 額越しの相手の体温は、男の言う通りたしかに平熱であるようだ。けれど、うへ、だとか男にしては珍しいひっくり返った声がして、

「うへ、って」

「いや、その、なんでもない」

「指。軟膏塗ろうか?」

「な、舐める、治る」

 ひどく急いだ様子で、がたがたと立ち上がる。

「……ギィ?」

「顔」

「え?」

「顔。洗ってくる」

「はぁ?」

 ぽかんとしているロワジィを尻目に、おもむろに小屋を出て行った。出て行く際に積まれた木箱にぶつかり倒し、慌てて積んで、一目散に戸口を目指してゆく態に、いったい何が起きたのか彼女にはさっぱり判らない。

「……頭煮えたかしら」

 唐突に静かになった部屋から戸口を眺め、彼女は呟いた。そういえばわりと高熱だった。すぐに下がったのでそれほど心配はしてなかったのだが、実際は脳症であるとか、なにか弊害が出たのかもしれない。

 お医者呼んだ方がいいのかな。

 しばらく寝息をたてて眠る小さなものを見るとはなしに見て、男の戻りを待っていたロワジィだったが、いっこうに戻る気配がせず、四半時も経つとさすがに心配になってきた。

 顔を洗いに出てこんなに時間はかからない。

 出て行く際の様子もおかしかったし、やはり男は自分には言わないだけで、どこか具合のよくないところを抱えているのかもしれない。様子を見て来よう。

 立ち上がり、上着を羽織るとロワジィは部屋を後にした。

 

 

 小屋の裏手に回り、男の姿が見えないことにいよいよ心配になる。

 簡易な煮炊きのできるように設えられたかまどの横には、水を汲んで溜めておける甕(かめ)があり、普段の調理や洗顔や漱(くちすす)ぎにはそれを使う。

 けれど甕の水は空っぽで、周囲の地面は半分溶けた雪でぐしゃぐしゃになっていて、つまりは甕ひとつ分水をぶちまけたのだろうな、調べてロワジィは思った。

 ――でもいったい何のために。

 理由が思いつかない。

 水をぶちまけたのは男だろう。ぶちまける原因に心当たりはないが、男の奇行は気がかりなので、今度はそのまま点々と雪上に残る足跡をたどる。作業小屋からはすこし離れている井戸に向かっているようだった。

 ――まあ、水がないからおおもとに向かったってことよね。

 井戸へは、一旦母屋をぐるりと回る。

 回る中途で、ロワジィ、とおのれの名を呼ばれ、彼女は振り向いた。

 娘が立っていた。農場主の三人娘の内一番上の娘だ。

 あー、と内心ため息が漏れた。この娘はすこし苦手だ。

 娘自身に何ら悪いところはない。どころか、とてもいい娘だと彼女は思う。気立てがよく、器用で料理上手、よく気が回り、愛想もいい。彼女のことを中の娘と末娘同様、ロワジィと呼んで懐き、年のはなれた姉のように慕ってくれる。上出来だ。

 ひと回り年はちがっても、いい友達になれる気がした。

男に好意をいだいてなければの話だ。

 良い娘だった。だから逆に、娘とおのれを比べて、なんだかいつも気圧されてしまう。なにもかも到底かなわない、両手をあげて降参するこころもちになって、そのあとひとりで悲しくなるのだ。

 ロワジィが娘と同じ年だったら、たとえば互いに本心をさらけ出していっそすっきりさせてしまうだとか、対抗心を燃やして焼きもちを焼く、という手もあるのかもしれないけれど、ロワジィは三十で娘は十八だった。

 ……この差は大きいなぁ。

 気後れする。

 だのに変なところで年上ぶってみせて、娘の恋を応援してやらないと、だとかおかしな気概が湧いて出たりする。厄介だった。

 娘は大判の木綿布を持って立っていて、何故かおろおろとしている。

「……どうしたの」

 ただならぬ雰囲気をそこに感じて、自分のややこしい心中はとりあえず棚の上に置いた。好きだとかそうでないとかはともかく、自分よりも若い子が困っているのならば、おかしな気概は別としても、年長者として助けてやるべきだと思う。

「ギィさんが……、」

 果たして声をかけられたのは男のことだった。名を聞いた一拍の間に、五つほど悪い予想が頭をよぎって、軽く心準備をする。

 倒れていただとか、苦しんでいるだとか、

「ギィが、どうかしたの」

 無理に押しやって平静を装いたずねる。

「井戸のところで、」

「うん」

「なんかね、水を」

「うん」

「すごく水をかぶってて」

「――は?」

 年長者のふるまいは一瞬で雲散霧消した。

「え待ってちょっとよく意味が判らないんだけど、水をかぶってるって、なに?」

「わたしにも判らないの、なんだか、ものすごい怖い顔で水かぶってるから、近づけなくて」

 思わず娘と一緒におろおろしてしまう。ギィさんにいったい何があったの。涙目で娘に聞かれた。ロワジィの方が聞きたい。

「それ、貸して頂戴」

 とりあえず娘が持っていた木綿布を借りて、言われた井戸に向かう。歩きながら、本当になにやっているんだろうか、だとか心配を通り越して腹立たしくなってきた。

 先ごろの小屋での、やたら取り乱した様子の男も十分おかしいが、この寒中に水をかぶるとか本気で理解に苦しむ。男は風邪がまだ完全に抜けきっておらず、咳も出ているし鼻声だ。

その状態で水をかぶり続けたらどうなるか。子供でも判る。

莫迦じゃないの。なに考えてるか判らないけど、本当に莫迦じゃないの。

足音荒く近づく。

男は一心不乱に井戸から水を汲みあげ、手桶のまま頭上からぶちまけ、ぶつぶつと、まじないのように聞こえる言葉をくり返しくり返し呟き、また水を汲み頭からかぶる。たしかにだいぶ鬼気迫る見た目で、これは娘ならずともたいがいの人間は声がかけづらいだろうなと思う。

結構怖い。

察するに、同じことを最初は小屋の裏手でやったのだろう。

間近まで行くと、まじないらしき唱える言葉の中に、……おっぱい……だとか、……ねんね……、だとか、……ぽんぽん……、だとかの言葉が交じっているような気もしたけれど、気のせいだと思った。

意味が判らない。

 ……なんか儀式?水垢離とか、そういうの?

 あまりに真剣なのでそうとも思うが、それにしたって雪の中でやる行為ではない。修験者ならともかく、男がいままでそうしているのを見たことがなかったし、

「ちょっと、」

「わあ、……!」

「え、」

 声をかけると予想以上に肩を揺らして驚かれて、逆にロワジィが引いてしまう。

え?いま飛んだ?飛び上がるほど驚いた?なんで?ものすごい忘我の域だった?なんか祈願途中で声掛けたら駄目とか、そういう系?

 ぼたぼたと水をしたたらせ、頭どころか全身濡れネズミの男を前にして、一瞬そのまま戻ろうかとも思ったが、離れて見守る娘の視線と、男の全身から発する蒸気にそれどころじゃないと踏みとどまった。

 風邪をぶり返してしまう。

「あんた自分がいったい何してるか判ってるの」

「た、たぶん」

 生返事。

「拭くからちょっとそこ座りなさい」

「はい」

 手にした大判の布を男にかぶせ、ねぇ本当にどうしたの、言いながらごしごし乱暴に雫を拭き取った。ここまで濡れていると、拭いても大して意味はないかもしれない。丸ごと着替えないと、どうせ全部濡れているのだ。

「できれば説明してほしいんだけど、いきなり小屋出て行って、ひと甕分水かぶって、あたりぐちゃぐちゃにした挙句、それでも足りなくて井戸にまで来て水かぶってるとか、なにかあったの」

「いや、その」

「その……、なに?」

「じゃ、じゃ、」

「――じゃ?」

「じゃ、邪念が」

「えぇ……、……」

 わからん。もうさっぱりわからん。ロワジィの心のつぶやきだ。

邪念というからには、なんだかものすごく悪い考えなのだろうけれど、先ごろからの男の行動を見て、なにかひどく悪い考えを持つようなきっかけは見受けられなかった。

 今日は農場もみな休みの日で、前よりずいぶんと温かな小屋の中で、ロワジィは仔犬の世話をし、男はほつれた外套を繕い、のんびりとした午後のはずだった。

 男がうなだれたままおのれで拭こうとしないので、ロワジィは仕方なしに男を布で拭った。この濡れ具合ではほんの気休めにしかならないとは思うが、それでも放っておくわけにはいかない。

 ロワジィよりも、男は頭ひとつ分さらに大きい。その上横幅もがっしりと肉の厚みがあり、彼女もかなり上背があるとはいえ、精いっぱい腕を伸ばさないと、後ろから男の前面までは拭けない。

「よいしょ」

 腕を広げて相手の後ろから抱きつくような形になった。こわい筋肉質の体は、まるで巨木の幹だと思う。

 大きいなぁ、だとか純粋に感心していると、いきなり男が前動作なく立ち上がる。がば、という音がぴったりの勢いだった。

 不意を打たれたものだから、とっさに反応はできなくて、ロワジィの足は宙を浮き、男に背負われた体勢になった。

「ちょっと……!拭いてるのに、あんた何してるのよ」

 いい加減腹が立ってきた。

 意味が判らない行動をくり返すのは、本当に勘弁してほしい。

 むっとなり語気の荒くなる彼女へ、

「走る」

「え?」

「走ってくる」

「はぁ?……??」

 ぶるりと体を振り、ロワジィが背から降りたことを目視した男は、唐突にまた呟いて、ものすごい勢いで雪を蹴立て、休耕地めがけて全力で吠えながら駆けて行った。

「えー……」

 連続で繰り出される男の奇行に、さすがにどん引いたロワジィは、去ってゆく男を見送り、

「……まあ害はないからいいか」

ひとり語散ていた。

 走っていればとりあえず体も冷える心配はないだろう。

 理解できないので、小屋に戻ることにした。

 

 

(20180404)

 

最終更新:2018年04月05日 19:39