できるだけ急いで戻ったとはいえ、農場に着いた頃にはやはり日没を過ぎていた。日が落ちるとぐっと気温が下がり、余計に寒い。……早く戻らないと。

身震いしてロワジィは主一家の住む母屋を訪れた。

「ロワジィ、」

 母屋へ向かう中途で、末娘と中の娘が彼女を見止めて手を振り、駆け寄ってくる。ありがたい。なんて都合がいいんだろう。そう思った。彼女が探していたのも、農場の主の男ではなく、その娘たちだったからだ。

「お仕事帰り、……?」

 戻ってまっすぐ母屋に向かったので、返り血やら砂汚れやらでわりと全身ひどいことになっているはずだ。あたりが暗くなっているので、はっきりと見えないとは思われるが、臭うかもしれないと思った。

せめて顔くらい洗って来ればよかったかな。ちらと後悔したが、今さらどうにもできないので開き直る。

「ええ、野犬退治のね。もっと手間取るかと思ったんだけど、思ったより早く終わったの」

 汚れててごめんね、一言謝ると、慣れてるしわたしたちも畜舎帰りだから大丈夫よ、娘たちはそう返す。町の人間なら顔をしかめるところかもしれないが、さすがに農場育ちだと思った。

野犬を打ち殺すだとかそこまで物騒な荒事はしなくても、生き物の世話をしていれば、日々の糞尿の始末のほかに、出産だの角切だの去勢だの、汚れもにおいも、滲みつく仕事はいくらでもあった。慣れている、と娘たちが口にしたのはそう言うことだ。

「ギィさんは、一緒じゃないのね」

 彼女がひとりでいるのを見て、末娘がたずねる。そうなの、頷きながら、ここに長女が居なくてよかったと思った。

「まだ後始末があってね。あのひとには残ってもらったのよ」

 恋をする女の勘は鋭い。得意でないロワジィの嘘は、上の娘にきっとすぐに見通されてしまっただろうと思う。

「……それでね、ちょっとお願いがあるんだけど」

言いながらロワジィは胸元をさぐり、体を丸めておとなしく寝ていた仔犬を取り出した。なに、と興味津々で覗きこんでいたふたりは、取り出されたそれを見てうわあ、と小さな声をあげる。なに。なにこれロワジィ。すごく可愛いんだけど、どうしたの。

 彼女のぬくもりから離された仔犬は、すん、と鼻を鳴らしよく開かない目で周囲をさぐる。ちいさな前足指がたよりなげに宙を掻き、そのしぐさにまた娘たちがそわそわと色めきたった。

「えーどうしたのこれ。さわりたい。……さわってもいい?」

「この仔の世話を、すこし頼めるかな」

「いいわよ。いつまで?」

 彼女から仔を受け取り、前掛けの中に包んで、ふたりはきゃあ、だとか、やだ小さい、だとか悲鳴を上げている。彼女がたずねるとすぐに返事がもどってきた。

「あたしが戻ってくるまで、お願いしたいのだけど」

「わかったわ」

 家畜の世話で慣れている娘たちは、二つ返事でうなずいて、……じゃあお乳をあげないと。どうする?わたし山羊のところで絞ってくる。わかった。じゃあわたしはボロ布とか、入れる箱、探してくるね。

 すぐ手はずを整えて、互いに頷きあう。

「ごめんね」

 可愛いのは確かだが、世話には手間がかかる。彼女たちは今晩、仔が乳を欲しがる毎に、乳を温め、麦わらで吸い上げたものを口先へ運び、満足するまで飲ませる作業をしなくてはならない。なんだか申し訳なく思えて彼女がそういうと、ロワジィなんで謝るの、不思議な顔をされてしまった。こんな可愛いもの、放っておけるわけないじゃない。

 若くてもやはり母性というものなのかなと思う。それから若いとはいえ、自分はこの年にはすでに、絵描きの男と娶わされていたなとも思う。そうして、若いだとか既婚だとかそんなのは結局のところ関係ない、可愛いから放っておけないと、ただそのままに言える率直さがうらやましいと思った。

 そうして笑われた。

「ロワジィって、いつもごめんねって言うのね」

「……そうかな」

 言われて戸惑う。

「ありがとうでいいのよ」

 娘ほど年のはなれている少女から諭されてしまった。そうね、苦笑し素直に返す。

「ありがとう。お願いね」

 

 

 男と別れたあたりに戻ると、やはり深更近くになっていた。どんなに急いだところで、人間の足には限界があるのだなと、おかしなところで納得してしまう。車や馬のようにはなれないのだ。

朝小屋を出てからほぼ休みなく一往復半したため、太腿の付け根が痛み、靴の中にはまめができていた。歩くことには慣れていても、自分のペース以上に無理を押せばそうなる。すこし引きずる形になったが、それでも足は止められなかった。

 小屋に寄り、目についた暖をとれそうな掛け物を、とりあえずまとめて縛って負ってきている。寒い、と震えていた姿がロワジィの頭から離れなかった。……温めてあげないと。そう思う。

 本当だったら、戸板か荷車にでも乗せて運びたいところだ。けれど戸板はロワジィひとりでは運べなかったし、整地された場所ならともかく、藪の中を車輪は進めない。最悪男を背負って彼女が頑張る、という手もあったけれど、縦にも横にも図抜けている男をどれだけ運べるかはロワジィにもわからない。

 とりあえず休ませて、体力の回復をはかり、少し無理をしてでも農場へ戻るしかないと思う。できれば戻るまで待ってほしいと思った雪は、ちらつきはじめていた。

視界の悪くなったのも相まって、男を置いて行った近くまで戻ったはずなのに、居場所を見つけるのにだいぶん手間取った。

……たしかこの辺だったのに。

焦る気持ちばかり先走り、あちらこちらの藪を覗いて、そうしてようやく燻ぶる焚火のそばにうずくまる姿を見つけた。焚火の火勢はほとんど消えている。木を足すことができなかったのだなと思った。

なんだか胸がいっぱいになってしまった。

とりあえず獣に襲われずにいてくれたな、だとか。でもこのまま近づいて息をしていなかったらどうしよう、だとか。

 だから茂みを鳴らして、おそるおそる彼女は近づいた。音が聞こえたのか男の肩が僅かに揺れる。顔をあげる元気はないようだった。眠っているのかもしれない。

 それでも崩れることなく、膝を抱えたまま体勢を保っていられるのだから、大丈夫、ロワジィはおのれにそう言い聞かせる。

重病人は腰が据わらない。座った姿勢を保てない。おのれの体重をおのれで支え切れなくなるからだ。

 近づき、まずは木切れを焚火へいくつか放り込んで、熾火をかいた。燻ぶりをあげていたそれは、燃えるものを与えられ、ちろちろと表面をなめ、木肌をたしかめるとすぐに燃え移る。

 周囲がうっすら明るくなった。それだけで少しほっとする自分がいる。

 橙になった闇に、男が身じろぎ、今度は膝の間から頭をもたげる。緩慢な動きだ。木をくべたロワジィを見止め、うん、とわずかに息を漏らした。おかえりだとか、戻ったのかだとか、そんなことを言いたいのだろうなと思ったので、ただいまと言っておく。

「ただいま。遅くなってごめんね」

 ごめんね、と言いかけて、つい先ごろ、農場の娘たちから笑われてしまったことを思い出した。そんなにごめんねって言っていたろうか。そのときはそう思ったけれど、わりと口癖になっているらしい。

「……待っててくれてありがとう」

 言い換えた。言い換えると、日頃の自分ではないようで妙に気恥ずかしくて、ロワジィは目をそらし背負ってきた荷を解くことに専念する。顔が赤くなっているかもしれないが、この暗がりと焚火の照り返しでどうとでもごまかせる。よかった。

ありがとうなんて、やっぱりガラじゃないわ。

そんなふうに思う。

「――食べれそうなら、なにか、食べる」

「いや……、いい」

 男がのろのろと首を振った。

 まあ、この状態なら食べられないわね。

納得して、それから結わえていた紐をほどき、厚手の布だの毛布だの大判の木綿布だのすべて重ねて、男にかぶせてやる。

小屋から持ち出してきたありったけの上掛けだ。

「まだ寒い?……寒いよね」

「いや、」

「ちゃんと言って。ひどい顔」

 男の頬と額のあたりは浮腫んで赤くなっているのに、唇は青く、全体的に色も悪い。うなじに手を当て、それから手首と足首もたしかめる。頭や首回りはひどく熱いのに、手足は凍るように冷たいのだ。

 顔が曇っていたのか、男がこちらをうかがう気配がした。目をあげるとやはり彼女を見ている。なに、目で問うた。どこか苦しい?

 手を取りごしごしと摩ると、男がちいさく開けた口から息を漏らす。

「あんたは、あったかいな」

「まあ、ずっと歩いてきたしね」

 息せき切るように急いだロワジィの体は、湯気が立ちのぼるほどあたたまっている。言われて自分の体温に気がついた彼女は、この熱を利用しない手はないかとふと思いついた。

「えーと、……そうね」

 男を包んでいた掛け物を一度はがして自分の背に回し、

「ちょっと失礼しますよ」

 言って後ろから覆いかぶさるように抱きついてみる。

 これが普通の相手だったら、おそらく上背のある彼女は胸のうちに相手を抱えられたのだろうけれど、なにしろ男は規格外の大きさだったので、後ろからしがみつくような態になる。ちょっと笑ってしまう。

傍目から見たらだいぶん滑稽にちがいない。

 抱きつくと、男が身じろぐのが判った。いきなり接触されて不愉快なのだろうなと理解はしたが、

「なんていうか、厭だろうとは思うけど、緊急事態っていうか、背に腹は代えられないってやつだから、いまは我慢してね」

 言って回した掌で男の鎖骨あたりをとんとんと叩く。

「……いや、」

 胸板を叩くなだめるような動きをぼんやりと眺めていた男が、気持ちがいい、そう返す。

「あんたが、冷たくて、気持ちがいい」

「あたしが冷たいんじゃなくて、あんたが熱すぎんのよ」

……まったく、あったかいやら、冷たいやら。

 呆れた口調になってため息をつきながら、彼女は腰につけていた水袋を差しだした。

「寒いけど。水飲んで、もう寝ちゃいなさい。あとはあたしが見てるから。寒いけど。寝たら、ちょっとはマシになるわ……、……たぶん。ろくな寝具もないし、雪降ってきたし、寒いけど」

「いや、」

 十分だ。

水袋を受け取るついでに、冷え切った指を包んでいた彼女の手に重ねて、男がゆるく笑う。

「あんたといると、あったかい」

「本当は、横に寝かせてあげたいけどね……、」

 男が飲み終わった水袋を今度は彼女が受け取りながら、ロワジィは上を向いて思案した。

 横にはなれないのだ。

 不寝番をかってでる自分がいたとしても、同じことだった。

冬季、屋外で夜を明かすときには、基本的に地面には横臥しない。どれだけ下敷きを敷いたところで、所詮野外である。霜も降りれば夜露も垂れた。接地する面が多ければ多いほど、体温をうばわれる。昨日今日の寒さなら、そこから凍死につながる恐れもあった。

「うーん」

 ロワジィは勿論、男も山の仕事をひとりでこなしていたのだから、それを知っている。熱があって、眩暈がひどくても、姿勢を崩さず膝を抱えて座っているのは、そう言うことだ。

「俺は、このままでも、十分、」

 大丈夫、言いかけた肩をぐいと彼女はおのれの側へ引き寄せる。普段よりこらえのできない男の体は、簡単に彼女の体に倒れ、もたれた。

 うわ、とちいさく声をあげて、胸元に沈んだ男が、慌てて起き上がろうともがくところを、ぐいと押しとどめ、半ば羽交い絞めにしながら、

「こら、おとなしくしなさい」

「待て、俺、重い」

「このくらいなんともないわよ。……じっとしてなさい。熱あがるでしょうが」

「いや、でも」

「寝かせてあげたいけど、横になれないんだから、だったらこうしてちょっとでも寄っかかって楽になりなさいよ」

「だが、」

「いいいいいいから。厭だってのはわかってるの。でも我慢しなさい。具合悪いんだから。あのね、あんたには、できる限り回復して、農場まで自力で歩いて帰ってもらわないとならないのよ。あんまり暴れると、すまきにしちゃうわよ」

 わりと本気で凄(すご)む。それでもあきらめ悪く暴れていた男は、けれど彼女の腕が緩まないのを知ると、やがて徐々に力を抜き、大人しくなった。

 ひとつため息をつき、そのあとは観念したのか、目を閉じている。

 とくにそれ以上話すこともなかったので、彼女も口を噤み、しばらく互いに黙り込んだ。

火の爆ぜる音だけが数度闇にのぼり、煙につられてあおのくと、空から粉雪が下りてくる。

これは積もるかもしれないな、魅入られて口を開け、次々と降り落ちる白いつぶてをそのまま眺めていたロワジィに、

「仔は」

 男が不意にぼつりと口を開いた。

「預けて来たわ」

「娘」

「そう。下の子と、真ん中の子に会ったから」

 男に答えながら、ふと今なら勢いで聞ける気がして、ねえ、と彼女は続けて呟いた。

「一番上の子」

「うん、……?」

「あんた、好きって言われたんでしょう」

「言われたが」

「それで?」

「……それで、というのは」

 いぶかしげな顔になり、男が彼女にもたれかかりながらうっすら目を開ける。言われている意味が判らない、目で問われ、……だって、と彼女は口ごもった。

「可愛い子じゃないの」

「そうか」

「……そうか、って、それだけ?」

「それ以外、なにかあるのか?」

「……そう言うわけじゃあ、ないんだけど……、」

 歯切れ悪く返す。好きだって言われたんでしょう、あんたは彼女のことどう思ってるの。率直に聞けたら端から苦労はない。聞けないからぐだぐだ悩むのである。

 うかがうように、彼女の表情が変わるのへ目をやっていた男は、逆に聞くが、と静かに言った。

「娘のこと、どうして、気になる」

「えぇ……、」

 どうしてと言われても、答えようがない。あんたのことが好きだから、他の子が好きだって言ってたら気になるのよ。そんなふうに言えたらやっぱり苦労はない。

 ごにょごにょと口中で呟くロワジィを、じっと見つめ、しばらく思案するそぶりを見せてから、俺もひとつ聞いてもいいかと言った。

「……なに?」

「あんた、なんで、村を出た」

「――、」

 それを聞かれるとは思わなかった。不意を突かれて思わず男の顔を見下ろす。顔色が変わっただろう自覚はある。たしかにこわばったからだ。

狼狽をおもてに出したロワジィを見て、言いたくないなら言わなくていいと、続けて男は言った。慌てる様子はない。彼女が動揺するのを大方予想していた口ぶりだった。

「無理に、聞く、いやだ」

 気を使っているのだろう。気づいて、すこしだけおのれの頬のこわばりがほぐれるのが判る。聞かれておいて、気を使われるのがうれしい、というのもおかしなものだと思ったけれど、実際そうだから仕方がないのだ。

「別に、とくべつ秘密ってわけじゃないのよ、……ただ、聞いたってちっとも楽しい話じゃないってだけ」

「聞いてもいいか」

「そうねぇ」

 あんた、楽しくもないあたしの重ーい話聞いて面白いの?真顔で尋ねると、あんたの話なら何でも聞きたいと真顔でかえされてしまった。困る。そんなように率直にかえされるのも、熱で茹だったひどい顔をしているのに、じっと彼女を見上げてくるのもたいへんに困る。

 だから彼女は男のまぶたへ手を置き視界をふさいだ。そういえば前に昔語りをしたときは、男が自分の目に掌を当てていたな、だとかどうでもいいことを思い出す。

 あのときも夜で、野外だった。

「いいわ。話す。でも聞いたら何も言わずに、黙っていい子で寝ちゃいなさいね」

 そのまま、風がないためまっすぐに空から降りてくる雪が、炎の中に溶けて消えてゆくのを眺め、

「今日みたいな日だった」

 彼女は口を開いた。

 

 

 ロワジィと、すこし風変わりな絵描きの男が、暮らし始めてから三年が経ったころ、ふたりの間に子供が生まれた。

 女児だった。

 夫によく似た黒い髪と黒いまなこの赤ん坊だった。内心、赤毛にならずにほっとしている自分がいた。同じように赤くなって、同じように村の子供らにからかわれるのはかわいそうだと思ったからだ。

 生まれたばかりの我が子を抱いて、夫がまず言ったのは、なんて君に似て器量よしなんだ、年頃になったら悪い虫がきっと付いてしまう、付いたら僕はどうしよう、で、聞いた彼女は呆れたあとに笑ってしまった。まだ握った掌も開いていない赤ん坊に何をいまから。

けれどその心配の方向の明後日具合が、夫らしいとも思えた。

 小さな家で赤ん坊と三人の暮らしがはじまり、熱が出ただの腹を下しただの、そのたびに大騒ぎして、それでもとても楽しかった。赤ん坊の居る分、家事も増え、忙しかったろうに、日に日に成長してゆく姿をいつくしみ、絵描きの夫はたくさんの我が子の絵を描いた。彼の描いた絵の中の子は、かならず髪に一輪の赤い花を挿していた。

 ――これは君だよ。

 絵描きの彼は言う。

 ――黒にはいっとう赤が合うんだ。

 矢のように毎日は流れて行って、気がつけば家族が増えてから二年過ぎ、三年目を迎えようとしたあたりの話だ。

町へ雑貨を買い付けに行った村の人間が、穏やかでない話を聞き込んで戻ってきた。

――隣の国で大きな戦があって、負けた方の兵士がたくさん、この国へ流れ込んだって。徒党を組んで、山城にこもり、近隣の村を襲って回ってるって。いや、噂ってだけじゃねぇんだ、げんに、ほら、山ふたつ向こうの村もやられたって……、……。

 ――被害届をお役所にだしたって言ってたけど、ほら、どうかな、町の人間は自分たちが危なくなけりゃあ、棄ておくんじゃあないかね。

 近隣の村を交えて、夜更けまで何度も話し合いがもたれ、最終的に、自分の身は自分で守るしかない結論に至った。公的機関に頼っていられない。お役所は腰が重いのだ。このままではそのやられた村の二の舞である。

やられる前にやれ。

有志で討伐隊を組み、山城を叩くことになった。

野盗退治は恐ろしい。元兵士ともなればなおさらだ。けれど周囲にろくな防衛柵もない部落であったから、反対するものはいなかった。襲撃を受けた場合、防ぐすべがないことはだれもが判っていたからだ。

ロワジィは討伐隊に志願した。

若さと腕っぷしを考えて、村の男どもにひけを取らない自分が行くべきだと思ったし、夫は足が不自由だ。

平穏な暮らしを守りたかった。

志願したと伝えたその日の夜、絵描きの夫は結婚後はじめて声を荒げて、僕はいやだと言った。

君が言っていることも判る。たしかに野盗がやってきたら、ひどいことになるのも判る。でも僕はいやなんだ。君はどうしても行かないといけないのかい。やられるからやれ、君のそんな姿をあの子に見せたくないんだよ……、……。

綺麗ごとだわ。

ロワジィは言い返す。

あなたの言ってることはきっと正しいのだろうけれど、理想論でしかない。目の前に腹をすかした狼が羊の群れにせまっているのに、見ないふりをして花を摘んでいるのと同じ。追い払わないと喉元を食いちぎられるのが判ってるのに、それでも現実から目を背けるの?

話し合いは平行線だった。互いの言っていることは頭では判っている。判っているが、それを認めることができなかった。

手斧と短弓を腰に挿し、夫の制止の声を聞かずに家を出た。

近隣の部落からも志願したものどもを合わせると、軽く一個小隊ほどの人数になった。隣の村に、むかし軍籍に身を置いていたものがいて、その人間の指示で隊列を組み、彼女たちは山城に向かった。

数日かけてたどり着いた、山城とは名ばかりの崩れかけた見張り塔には、誰もいなかった。たしかに先ごろまで人が生活していたらしい跡はあったけれど、塔にもあたりの藪にもなにもいなかった。

――逃げたのか。

誰かが言った。俺たちに恐れをなして逃げたんだ。

張りつめていた空気がふと和らいで、みなが笑った。それまでどれも家族と今生の別れを覚悟してきたような顔色だったから、そのゆるみは明らかだった。

その時、ひとりの張りつめた声が頭上で聞こえた。絶叫だった。

崩れかけてはいたけれど、当初建てられた見張り塔としての目的の高さは失っておらず、そのてっぺんに何の気なしに上った人間の喉からほとばしった絶望の声だった。

向かいの尾根向こう、彼らの村がたしかにある方向から、いくつもいくつも狼煙のように煙が立ち上っているのだ。

あまりに遠くだった。だから見えるはずがないのに、真っ赤に燃える炎が、家と家族となけなしの貯えを焼きつくす情景が、誰の目にも見えた。

夜を徹し、みな無言で部落のあった場所へと戻った。

「……ひどい光景だった」

 ロワジィは呟く。

 数日かけて山城へ向かったのだから、どれほど急いでもやはり同程度の時間はかかる。村は嵐が過ぎ去ったあとで、野盗の姿はとっくにどこかへ消えていた。村の広場に逃げ惑った姿のまま、後ろから切り付けられた老人や女子供の体があって、その体には霜が降りている。

 生きていた人間はほんの一握り、それもたまたま山や野畑へ出ていて村にいなかったものだけだった。

「あたしはすぐ家へ戻った。前も言ったけど、あたしの家は村からすこし離れたところに一軒だけ建ってたから、火付けされずにそのまま残ってた。家の周りもそんなに荒らされた様子はなくてね、だからきっと、あの子を連れて逃げてくれたんじゃないかなって思った」

 そんなことないのにねぇ。

 漏らした息で彼女は言葉をなぞる。

 生き延びていた人間は、燃え残った家に身を寄せ合って、討伐に行った男どもが帰ってくるのを待っていた。だから、その場に無事な姿がないというのは、そう言うことだ。

 それが判っていたのに、痺れたように思考の止まった頭は現実を受け入れない。

「暖炉の火は消えていた。かけてあったシチュー鍋がひっくり返っていてね。それから、床に転がったあのひとの体が見えたの。一間の小さい家だから、隠すものなんて何もないでしょう。あの子を背に、庇うようにして、あのひとは前からばっさりやられてた。……手には、」

 手には鉞(まさかり)があった。

「ああ、このひと、逃げなかったんだって思ってね。あんなに争いごとをきらって、あんなに大きな声を出して、きれいごとを譲らなかったひとが、逃げなかったんだって。鉞なんて持ったことないひょろっちい腕と、萎えて棒切れみたいな足で、だのに娘を守ろうと思ったんだなって」

 ロワジィは薄く笑う。涙は枯れた。もう十年も昔の話だ。

「だから、」

 なにかを言いかける男の口をもう片方の手で塞いで、こら、と彼女は咎める。

「聞いたら黙って寝なさいって言ったでしょう」

「あんたは、」

「こーーらーー」

 塞いだ掌の下からあきらめ悪く声を出す男へ、だが結局、そうよと彼女は返してやる。

「だからあたしは八つ当たりしてるの。憂さ晴らしかな。村をめちゃくちゃにした人間がどいつかなんて、もう誰にも判らない。名前も顔も知らない。今生きてるかどうかも定かじゃない。じゃあ片っ端から悪いやつ倒しちゃったら、そうしたら、そのうち、もしかしたらかたき討ちもできてるかもしれないって、……そういう、効率悪い正義の味方」

 自分でも判っている。こんなことをして何になる。それで死んだ人間は浮かばれるのか。何度も自問自答し、なお言い訳の存在理由にあきらめ悪くしがみついていた。

振り上げた拳を振り下ろす場所がほしかった。

「同情しないでね」

 男のまぶたに手を当てていてよかったと思った。こんな感情がぐちゃぐちゃになっている顔を見られたくなかった。

「かわいそうな女だって見られるのは厭なの」

 雪のちらつきがだいぶ増えてきたように感じる。これは朝までに何度かテントの雪下ろしをしないといけないなと思った。

あたりはとても静かだ。

これだけ大量の細かな氷の粒があとからあとから降り落ちてくるのに、音を吸収してしまう仕組みがいまひとつ判らない。おかげで何も聞こえない。それが不思議だとロワジィはいつも思う。

不思議ねぇ、いつの間にか声でも呟いていた。あのときからずっとひとりで生きてきた気がする。

 肩肘張って、男に混じって、莫迦にされないように生きてきた。売られた喧嘩はすべて買ったし、負ける気もしなかった。仕事仲間と意気投合し、次の仕事も同じように受けて群れているようでいて、それでも自分はずっと寂しかった。

「……なんだか、世界でふたりだけみたいね……、」

 ここに男がいて、寄り添っている。いまは寂しくないと彼女は思う。

 

 

 朝になっていた。

 あのあと、雪の中、明るくなるまで彼女は男を抱いていた。

 男はうつらうつらと浅い眠りをくり返し、時々うすく目を開けては彼女の顔を見上げる。なにかもの言いたげではあったけれど、明け方近くから咳き込みはじめ、喉の腫れもあるようだ。もともと語尾がかすれたような発声をしていたけれど、今はほとんどかすれている。

熱もまだある。

このままここで復調を待つのは厳しい。

抱えていこう。ロワジィは決めた。

このままここにいて、いっそう悪化させるよりは、おそらくいい。幸い雪は止んでいる。足場は悪いが、晴れているだけましだと思う。

そうして出立の準備をまとめる耳に、遠くから、おのれの名を呼ぶ声がした気がして、彼女は顔をあげた。空耳かと思ったのだ。

だが何度も彼女を呼び探す声がして、幻聴ではないことを確認する。応じると、驚いたことに農場の上娘が、驢馬(ろば)に橇(そり)を引かせて、林の向こう側からやってきた。

「……ああ、よかった……!」

 橇に乗っていたのは、娘と、供の下男だ。下男の方は農場で働いている顔で、ロワジィも何度か話を交えたことがある。

「山犬退治は終わったみたいって妹たちが言ってたのに、戻ってこないし、なんだかロワジィいつもより急いでたってあの子たち言うし、雪が降ってきたし、……、きっと何かあって難儀してるんじゃないかって」

 そう言ってうずくまり顔を伏せるギィの傍へ駆け寄った。……ギィさん。呼ばれて男は顔をあげるが、ぼんやりとして状況がよく判っていないようだ。

「ギィさん、具合悪いの」

「風邪だと思うんだけど……、怪我はないの、ただ熱と咳があって」

「今、小屋にお連れしますね」

 そう言って供の男に、ギィを橇に乗せるように指示する。下男はうなずき、ギィに近寄ると脇に手を差し込んで肩を貸し立たせ、橇の荷台へ連れてゆく。

 ロワジィと同じほどの背丈であったが、やはり男だ。ギィの大柄な体を抱えても揺らがず、しっかりと支えている。

「どうして、ここが」

 その動きを負いながら、娘のやってきたことが信じられなくてロワジィは呟いた。

「仔犬を預けに来たときに、巣の場所を言ったでしょう。あの子たちから、だいたいの場所は聞いたの。あとは、近くに行ったら、判るかなって」

「判るかなって……、狩り損ねた犬の残りがいるかもしれないのに」

「大丈夫よ。ほら」

 言って娘は手にした草刈り鎌を彼女に示す。ひとりで来たわけじゃないし、いざとなったらこれで身を守るわ。

「……、」

 鎌を見せられてロワジィは苦笑う。襲われたら防ぐしかないのだし、たしかに対処法としてなにも間違ってはいないし、自分もそうして鉞をふるっているわけなのだが、さすがに農場育ちで逞しいというか、

 ――これが恋する強さってやつかしら。

 そんなようにも思った。なにかあったのではないかと察する勘も、実行に移す行動力も、段違いだ。

……かなわないなぁ。

気圧されてしまう。抱えて戻る手立てしかなかった自分がなんだか情けなかった。

だが娘の好意はひどくありがたいのは確かだ。橇に乗れば、無理を押さずともギィを農場まで連れて帰ることができるし、かかる時間もよほど早い。

荷台に固定され、毛布で包まれた男と、娘を順に見比べて、

「お願いね」

 ロワジィは言った。

 驢馬がいくら小柄なわりに力があり、輓曳(ばんえい)に向いているとはいえ、足元の悪いのも鑑みて三人が限度と思ったし、だったら元気な自分は歩くべきだ。

「ロワジィ?」

「荷物もあるし、あたしは後から追うから」

「でも、」

 娘はためらった。驢馬の引ける重さのことにまでは頭が回らなかったようだ。そんなひたむきなところも、可愛らしいとロワジィは思う。

「あたし、見た目通り重いの。こんな大きいのまで乗っちゃあ、驢馬がかわいそうよ。雪道なんだし、途中でへばっちゃったら本末転倒でしょう。大丈夫。あたしはどこも悪いところはないんだし、どうぞ先に行って。そのひとを早く横に寝かせてあげて頂戴」

 ほらほら、言って彼女は笑って手を振る。いくらか逡巡した娘は、だがロワジィの言葉に促される形になって、頷いて手綱をとった。

「お願いね」

 もう一度頼むと、ロワジィも気をつけてきてね、返される。声をかけると驢馬は手綱の鈴を鳴らしてゆっくり歩き出した。手を振り見送り、橇が見えなくなったところで、無理に作った笑みが消えた。

「厭だなぁ」

 ぽつんと声が漏れる。

おのれに対しての嫌悪の声だ。

 こんなところまで探しに来てくれた人間に対して、自分はどうしようもなくみっともない嫉妬をしている。自分にも橇があったらよかったのに、だとか、ギィを苦もなく支えられる下男の力がうらやましい、だとか。

 地獄で仏とはこのことで、本当なら感謝してしきれない状況のはずなのだ。仮に予定通りロワジィが男を支えて戻ったとして、男が完全に自立歩行できなくなった場合、共倒れになる危険がある。毛布を巻いて縄で縛り、男を曳いて行ったとして、どれだけ進めるかもわからない。完全に意識気を失った人間の体は想像以上に重い。

 たかが風邪だ。暖かくして寝ていれば治るもので、大騒ぎする必要はどこにもない。だが暖かさも、横になれる場所もない野外で、男がどれだけ持つかは誰にも判らない。現にロワジィも、こじらせてひどい目に遭ったのだ。

 だから、男を橇に乗せ、連れて戻ってもらえるのは本当にありがたかった。ありがたいはずだった。

 だのに、なんだかひどくみじめだ。

 変におどけて明るく見せて、その実、男を楽に運ぶ方法を簡単に示して見せる娘に、内心ひがみを持つだとか、本当に自分が厭になる。

「厭だなぁ」

 荷物をざっとまとめて背に負う。

 重いから、驢馬がかわいそうだなんて、嘘だ。

たしかに自分が乗れば過重だと思われるし、降りたての固まっていないやわらかな雪を進むには、三人がぎりぎりだろうけれど、彼女が辞退したのはそういうことではなくて、ただ同じ荷台に乗り込む自分がみじめに思えるから、それだけだった。

「厭だなぁ……」

 内面の美しさが表に出る、だとかいう謳い文句。美しさはあなたの内側から。表のつくりを飾るより、まずは自分磨きをしましょう。おすすめの生薬そろってます。お求めは〇〇薬屋で!にっかり、という言葉がぴったりの白い歯を見せる笑顔が書かれ、町のあちらこちらに貼られた張り紙。

だったら今、自分はきっとひどく醜い顔をしているだろうなと思った。鏡がなくてよかったと思う。

 とぼとぼと歩きながら後ろを向く。雪の上の足跡はロワジィのものひとつで、気づいたら余計に落ち込んだ。お前はずっとひとりなのだと言われているようだった。ふたりきり、だなんて、闇に浮かれたおのれの幻想だった。

 ふと見下ろすと、手首に揺れている組み紐が見えた。……こんなものがあるから。そう思い、勢いで腰のナイフを引き抜くと、結び目に当て、ひと思いにぶつと切った。腹立たしかった。

 こんなおそろいの紐なんか巻いているから、もしかしたら一緒にいていいんじゃないかって、勘違いするんじゃないの。

 くしゃくしゃと掌で丸め、藪に放り投げる。

 放り投げて、けれどすぐにどうしようもなく悲しくなって、慌ててロワジィは下生えを掻き分け、たった今棄てた組み紐をべそをかきながら探す。

 ……結んでくれたのに。

 ギィと自分は雇った側と雇われたがわの人間で、男は契約上ここにいるだけだ。判ってる。たとえば金を充分に渡し、今から自由の身だと伝えたら、男はきっと自分から離れていくに違いないと思う。

 一緒にいたい、でも束縛したくはなかった。

 目をこすりながらあちこち探すと、からたちの枝にかかっている組み紐を見つけ、指を伸ばした。甲あたりをからたちの棘が引っかけていったけれど、かまっていられない気持ちで取り上げた。急いで手首に当て、結びなおそうとしてかじかんだ指先ではうまくいかないことに気がつき、ため息が出る。

 なにしてるんだろう。

 そっとふところにしまって、それからおもむろに手近の雪を掬い、顔を洗う。

「あたしこんなところで何やってるの」

 それは自身への叱咤だ。

「ひとりでも生きていくって決めたんでしょう」

 ぶるりと顔を振って、それで終わりにする。

 そうして十年生きてきたのだ。

 

 

 だというのに、

「えぇ……」

 頼む男を前にして、ロワジィの口からえらく情けない声が漏れる。

「パン粥が食べたい」

 遅れて戻ったロワジィが小屋の戸を開けると、内部はこのひと冬の内かつてない快適温に暖められていた。小屋の板壁をぐるりと一枚補強し、内側には厚布を垂らして、火鉢が四つに増えている。

 使っていた藁床に藁が足され、倍ほどの厚みになって、そこに男が寝かされていた。

 暖かな部屋の中で、横になった男の顔色は、林で別れた時よりもだいぶ調子がよさそうで、見たロワジィはほっとした。

 それはいい。

 小屋の大改造を下男と共にしたらしい上の娘は、しつらえのみならず、病人の口に合いそうな食事を何種類か用意して置いて行ってある。料理上手でもあるので、恋する男のため張り切って作ったのだろう。やわらかに煮た野菜スープだの、ほろほろに崩れるほど肉に火の通ったシチューだの、その他にもりんごが籠に盛られ、横には擦り鉢、喉によさそうな根菜のはちみつ漬けも置いてあり、おまけに輪切りの蜜柑と氷が浮かべられた水差しまであった。

 そうして本人は、病人が余計な気を使わないよう、用意だけ整えてさっと母屋に去ってしまっている。

 完璧だ。

 こういうの女子力とか言うんだろうか。こまやかな心遣いに感動して震えてしまう。

勝ち負けの問題ではないことは判っていたが、どうしたって勝てそうにない。上の娘の女子力が100力としたら、せいぜい自分は13力くらいだ。ロワジィは思った。蚊とんぼレヴェルである。

 だがそれも別にいい。

 重要なのは、男の容態がよくなることなのであって、ロワジィと上娘の女子力の差ではない。判っている。

 問題は、戻ったロワジィに男が放った一言だ。

 腹が減ったと男は言った。

 それはそうだろう。昨日から丸一日男は水以外口にしていない。だったらここにある、娘が用意したものを、と鍋のふたを開けたロワジィへ、

「あんたの作ったパン粥が食べたい」

 言われてふたを取り落とした。

 こちらが気を回す以上に、体調がすぐれないとき、たとえば食べたいもの、飲みたいものが変わることはある。わかる。

 幸い小屋には、男が焼いた甘藷入りのパンがまだ残っており、山羊の乳もあった。外には薪があり、かまどが備え付けられている。作れない話ではないのだ。けれど、

「……いや、そうだけど、これだけいろいろ用意されてて、なんかどれもこれもおいしそうで、……、で、なんでパン粥?」

「食べたい」

「いや、……、ご期待されてるところものすごく申し訳ないけど、別に、作れるけど、……でも、パンちぎって、温めた乳の中に入れるだけよ?特別な味付けとかできないわよ?」

「食べたい」

「う、」

 ロワジィはわりと単純な押しに弱い。

 しかも熱にうるんだ目でまっすぐに見つめられるだとか、

「うう、」

 あっさり負けた。

「わかったわ……」

 しぶしぶ頷き裏手に回る。

 手鍋を火にかけながら、えーでも、だとか、やっぱり、だとか、わき出る不安はぬぐえない。

熱に浮かされて、ちょっと正しい判断ができなくなっているんじゃないだろうか。こんな適当なもの、できたからどうぞと出して、思ってたのと違うとかで、がっかりされたらどうしよう。

むかし村にいた、あのメシマズ美人妻ほど、おのれを卑下するつもりは彼女にはないが、百人並みだと思っているし、実際そうだと思う。下手ではないけれど取りたてて上手なわけでもない。

なにも難しい工程はないので、玉杓子を片手に、百面相している間に出来上がる。出来上がったものを器に入れ、人肌に冷まして、小屋へ戻り差し出すと、男はさっそく木匙で粥を掬い、口に入れた。

「うまい」

 そう言う。 

 喉も腫れて飲みこみにくいのだろう、常よりいくらかゆっくりと咀嚼する動きではあったけれど、それでも男はたちまち一杯を平らげ、おかわり、と椀を差し出した。

「えー……、」

 のけぞり気味に器を受け取る。頭の中は不信感でいっぱいになっていた。大丈夫?無理してない?作ってくれって言って、あたしがなんか厭々作ったから、頑張っておかわりしないと、とかそういうのじゃない?平気?

 上目遣いに男をうかがうと、不思議そうな顔で見返された。どうした、視線で問われて、

「なんでもないなんでもない」

 慌てて手鍋の残りを椀にうつした。うつす動きを追っていた男がふと一点に目を止めて、紐、と呟く。

 かすれた声だ。結んでいないことに気づいたのだなと思った。

「あ、」

「邪魔だったか」

「……違う、そうじゃない、そういうのじゃないの」

 なんとはなしに悲しそうな目をされた気がして、焦ってロワジィはふところから手ぬぐいに包んであった飾り紐を取り出した。自分で切っておいて、なんて言い草だろう。

「あのね、藪に引っかかったときに、切れちゃって」

 結び目をまっすぐナイフで切ったのだ、見ればすぐにわかる嘘もたいがいだと思う。けれど男はしばらく切れた飾り紐を見つめたあと、結んでもいいかと尋ねた。

「え、」

「切れたから、もう一度、結ぶ、いいか」

「……別に、いいけど」

 右手を差し出したはいいものの、その手を取る男を見ていると妙に気恥ずかしくなった。こういうとき、神妙な顔をしていたらいいのか、それとももう少しふさわしい顔があるものなのか、彼女にはよく判らない。

 誰か教えてくれたらいいのに。

 ロワジィの腕に紐を結んだ男は、そのまま差し出した手をじっと見つめ、藪の棘に掻いて細く赤い線になったみみず腫れに気づいたようで、その線をなぞるように撫ぜた。

「ああ……、なんか、からたちのね、枝が」

「あんたは見ていないと、すぐ傷だらけになる」

 そんなことを言う。

「なにそれ」

「……ここも」

 言って男は手を伸ばし、指の腹でロワジィの頬を撫ぜた。

「パ、パン粥」

 恥ずかしさの沸点を越えて彼女は思わず目を瞑りながら、ぐい、と椀を男に押し付ける。これ以上は勘弁してほしい。

「食べないと冷めるし。食べて、寝ちゃって、」

「うん、」

 真っ赤になった彼女をそれ以上追う動きはせず、男は言われた通りおとなしくまた匙を手にした。

 娘のものも食べたら、彼女が勧めると、それはあんたが食べてくれとかえされる。

「俺は、あんたのがいい」

「……いやいやいやいや」

 恐ろしい殺し文句を素面で吐いて、そうして食べながらなるほど、だとか真面目な顔でうなずいている。その頷きをたしかめながら、ちら、とロワジィは横目で荷物と一緒にまとめられている酒瓶を見た。

煽ろうか。

一瞬ロワジィは本気で思った。酒が入ったノリなら、なんとか躱せるような気がする。

「なるほどって、なによ」

「あんたが、言ってたこと、わかった」

「……言ってたこと?」

「あんたが作る、飯はうまい」

 それはきっと味付け以上に大切なもの。

 言われて今度こそロワジィは停止した。

 男が二杯目を食べ終わるころ、ようやく我をとりもどし、手近の椅子を引いて座る。

籠に盛られたりんごをひとつ手に取ってくるくると回しながら、彼女は男を見る。

「ギィ」

「うん……、?」

「うさぎりんご、食べる?」

 じっと彼女を見ていた男が、食べる、と小さくうなずいた。

 

 

(20180402)

最終更新:2018年04月05日 19:42