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肩が寒いなと思って目を覚ましたのだ。

そこまではよかった。

腕の中で女が寝ていた。

 驚きと同時に文字通り頭が真っ白になる。え、だとか、ふわ、だとかおかしな声が漏れた。

相当飲んだので、寝て起きてもまだだいぶ酒気は残っていたはずだったが、一瞬で醒めた。自分はまさかこの女を押し伏せのしかかったのかと、恐ろしい予感に顔面から血の気が音を立てて引いていくのが判った。

もうしない、二度としない、俺が触れるとあんたを傷つけてしまうから、……、おそるおそる見下ろした女は、男の胸に顔を寄せ穏やかな寝息をたてている。

 頬に涙の痕も見えないし、はだけた上着から見えるうなじあたりにも、おのれの咬みついた痕は見当たらない。ひとつもないことをまじまじと眺めてたしかめてのち、男はようやく息を吐いた。

 酒に呑まれて乱暴をしたわけではないらしい。

 ……よかった。

 潰れるほど飲んだ自覚はあった。

 勧められるままに最初の何杯かに口をつけ、そのあとは勢いだった。

正直に言う。ヤケ酒だ。

 酒はいいものだった。去年に仕込んだまだ若いものも、数年寝かせ樽の香りのついたものも、差し出されたものはすべて文句なしにうまいと思ったし、肴に持ち込まれた干物や乾酪(チィズ)も同じようにうまかった。もともと飲み食いするものに好き嫌いはない。

 だのに飲んでいる心中は最悪で、よほど中座して盛り上がる小屋を出て行こうかと、何度も本気で思ったのだ。

 不愉快だった。その不愉快な気分を紛らわすために男は酒を煽った。

 悪酔いするなとちらと思い、まあいいかどうにでもなれと捨て鉢な思いもあった。

 気に食わなかったのはロワジィだ。

正しく言えば、彼女の体を嘗め回す下男どもの下種な視線だった。

 酒宴になり、酒の勢いを借りた下男どもは、彼女に博打をもちかけた。みなで賑やかに騒ぐのが好きな女は、一も二もなく了承する。

腕まくりをして場に陣取り、よしきたあたしはツキには自信があるんだ、だとかなんとか、胸を張って偉そうにしている。

 彼女が楽しそうなのは、男も見ていて楽しい。

 そういえば祭りの射的のときも、無駄に張り切っていたな。ふと思った。

……あの穴にこの球を入れるだけでしょう?そんな簡単なことでいいの?

 舐めてかかってひとつも入らず、姐さん下手だねぇと店主に笑われ本気でへこんでいた。女は時々、男を器用だと褒めるが、そう言う彼女自身そこまで不器用な人間でもないと男は思う。身の回りのことひと通りそつなくこなすし、男に混じっての力仕事もできる。

だのにどれも入らないのが不思議だったし、面白かった。

そうして、負けると本気で悔しがる。ルールを覚えたばかりの子供のようだと思った。

 もう一回。地団太踏んでむきになる姿が、とても年上には思えなくて、普段年長ぶって何かと世話を焼きたがる顔とはまるでちがって、なんだか妙にまぶしいのだ。

 可愛い女だな。そう思う。

 負けた人間は杯をひとつ干す、という罰ゲームを定めて勝負ははじまり、男は最初、藁床に腰かけ、遠巻きに眺めていた。

 掛札のルールが判らなかったのがひとつと、山から下りてすぐに尻の毛まで抜かれた記憶があるのがひとつ。

下りて早々に、言葉巧みに持ち金すべて巻き上げ、身ぐるみはがれた強烈な体験は、町はこわいところだなと言う思いと、もう賭博は勧められても二度とやるまいと言う決意を、男に深く刻みつけた。

 だからたとえお遊びのそれであったとしても、男はあまり気乗りがしなかったし、見ているだけでよいと思えた。

「ちょっとあんたも見てないで参加しな」

 絡んできたのがロワジィだ。

 いや俺はいい、しぶる男の腕を引きぐいと無理矢理立たせて、円座に連れ戻された。本当に厭なら振り払ってもよかったのだけれど、おのれを掴む女の掌を男が振り払えるはずもない。

 掴まれたところから体温が伝わってくらくらする。

 場に座らされ、次の勝負から参加となった。

 しばらく眺めていたので、ルール自体は理解していたが、いつの間にか罰ゲームが酒を飲む、から、酒を飲んで脱ぐ、に代わっている。

気軽に請け負い、脱がせてみろと挑発し返している女を見て、とんでもない話だと思った。

 彼女は、自身に向けられる視線というものに、あまりに頓着がなさすぎる。無用心、というよりは、おのれの器量というものにまったく自信がないのだ。

 女は綺麗だと男は思う。

 惚れた欲目と言うやつだろうか。

 自分がただ女の肌を、人目にさらしたくなくて過敏になっているだけで、ただの考えすぎ、気にしすぎなのかもしれない。

だがたしかに下男どもは彼女を標的に定めていたし、服を着ている上からでも判る彼女の体のラインに流す目が、時折り下卑てみだらなものになっている。

娼婦のような「こぼれる」恰好ではなく、生成りのシャツにパンツの動きやすい姿だったけれど、ちょうどよく掌に収まる乳房も、張った腰も、形の良い尻も、質素な装いに隠しきれていない。

逆に健全な色気を際立たせている気もする。

 飲ませるだとかは、ついでの口実なのは判っていた。

 やめろ。

 唸りそうになった。

 けれどその不快は、独り善がりなものだ。

 ――これは、俺の、……、

 頭を占めていたのはそれだけだ。反吐が出るほど最低だと自分でも思う。だが止められない。

 唸りを隠すために酒を煽った。

 女の賭け方が、また危なっかしくてまるで見ていられないのだ。大きな役で勝つのが好きらしい。ひっくり返して、ああクソしてやられたと言わせるのが楽しいのだろう。それは判る。判るが、ほかの人間が先に上がってしまえば、勝負は仕舞いなのだ。

 そうして、女が派手な手をそろえるのが好きなのだと気づいたときから、ほかの下男どもは彼女がそろえる前に上がろうとする。……ほらすぐに素っ裸になるぜ。舌なめずりが見えるようだった。

 むかむかした。

 だから男はこまめに役をそろえて場に出した。ちいさく点を稼ぐので、女の負けはそこまでひどくならない。そうして手堅く男が先に上がってしまうので、下男どもは女をつぶすことよりも、男を牽制することに労力を割くことになる。

 ……安上りだと言うなら言え。

 賭けに手慣れた人間ならば、うまい具合に場を操作して女を勝たせてやるのだろうが、男はそこまで精通していない。そもそもこの札は初めてなのだ。けれど目的は女を勝たせることではなくて、脱がせないことであったから、もうどうでもいいような気がした。

 勝っても勝っても不快ばかり増した。

 女が楽しそうだったのだけが救いだ。

 後半に下男の一人が凡ミスを連発しそこからどっと崩れて、勝負はお開きになった。ああようやくという思いで、そこから他のものが帰って行ったのだろうが、実は明瞭に覚えていない。

帰る中で、農場の上娘が男の手を握り、明かりをともして待っていると告げた。

 そうか、とだけ思った。その記憶はある。

 申し訳ないがそれ以上の感慨はない。ただ眠かった。

 そこからどうして寝床に上がったのかいまひとつ記憶がおぼろだ。

 おそらくおのれで上ったのだろうが、どういう経緯で女を腕の中に寄せることになったのか、さっぱり見当もつかない。しかも自身は半裸だった。女はなぜ暴れなかったのだろう。恐ろしかったのか。自分は女より力があるのだ。

……こんなものに戒められて、厭ではなかったろうか。

 考えているうちに悪酔いがぶり返す。頭痛がした。

 なんてことをと思うのは本当だ。だったらすぐにでも女を解放して背を向け、いつものように端に寄り寝てしまえばよいだけなのに、女のぬくもりに頭が痺れて体が動かない。

 ――これは、俺のだ。

 もう一度、女を見た。

 やや吊り気味の、巴旦杏(はたんきょう)型の大きな目は、いまは閉じられていた。その瞳が、猫のように気まぐれに、色が変わることを男は知っている。緑の虹彩は、喜怒哀楽に高ぶると、常より薄い色になるのだ。

 色が変わることを女自身は知らないだろうなと思う。それに男が見惚れるということも。

 通った鼻梁と、常に引き結ばれている印象の強い口元。唇は艶のある朱。

 こんな優しい顔で眠るのだな。目を閉じるとだいぶあどけないな。

 閉じる睫毛がかすかに震えていて、夢でも見ているのだろうかと思う。

 喰らったらうまいだろうな。

 どく、と頭の中に音が響く。綻んだ唇から目が離せなくなった。

そこに噛みつき、存分に貪ってしまいたい衝動が突如として湧きおこり慄いた。収まっている舌を引きずり出し歯列をなぞり、あふれる唾液を一滴残らずすすり嚥下して、声も呼吸も塞いでしまいたくて仕方がない。

きっと女は驚き目を覚まし悲鳴を上げて逃れようとするだろう。逃がさない。腕に閉じ込め力づくで押し倒し四肢の自由を、

 ――やめろ。

 こめかみが疼いて痛みが広がる。眉間を揉んだ。揉む端から視界がちかちかと明暗する。まるで治まらない。

――やめろ。絶対に触れるな。

 苦痛にあえぎ意識が戻らずうなされる彼女を、まんじりともせず眺め数晩過ごしながら、二度と触れぬと戒めたはずだった。

 だが胸のうちで眠る女は、あまりに無防備だ。

 震える手で、女をおのれより押しやろうと動いた男の動きに小さく風が起き、それが寒くて厭だったのか、女はもぞもぞと身動いて、不満気に鼻を鳴らす。

目が覚めたかと、ぎくとし、こわばる男の下で、女は寝ぼけたまま掌で男の肌をたしかめなぞり、温もりを求めるように余計に体を寄せ丸まった。

 深い息をひとつ吐いて、女はまた夢に戻る。

 脈拍と同じ強さで頭が痛んだ。

 目の前は赤黒い欲望の色でよく見えない。

 おのれの手が彼女に伸びるのを、男は見た。

 ケダモノの前で無防備になるのが悪い。俺は本意じゃあない。ただ誘われただけだ。このまま力づくでもって押さえこみ、有無を言わさずおのれのものをはざまに突き立て、上下に揺さぶり表も裏もどろどろになるまで嬲りつくして

「……くそ」

 こぶしを握る。

 彼女の体へちらちらと視線を盗み走らせる下男どもを下種とさげすみ、胸糞悪く思いながら、おのれがいっとう唾棄すべき存在だった。最初から知っていた。

 女の無造作に広がった髪におそるおそる鼻づらを埋め、呼吸する。夕方風呂に入っていた女からは、しっとりといいにおいがした。

 借金のカタに売春宿に回された時分、訪れる女客はみな着飾り、体から香水のにおいを芬芬とさせていた。香る水、と書くのだから、花や蜜のよいにおいが仕込まれているものだろうに、嗅ぐとなぜか吐き気がした。

こらえて客に奉仕する。脇だとか股だとかを念入りに舐めすすると、客は悦び愛液を垂れ流した。いいわもっとと言われる一方で、あふれるその酸いにおいにも胃がむかむかし、何度か酸吐きそうになり焦った。

だというのに、こうして女のにおいを深く吸い込むだけで、さもしく頭をもたげてくる昂ぶりがある。どうしてこの女はこんなにもいいにおいがするのだろう。

女の髪を伝うように、首筋の手前に顔を寄せる。

駄目だ駄目だとなにかが咎め、それでも屹立を女の太腿にあてて擦るように動かしてしまう。女は目を覚まさない。……やめろ。

いま女が目を覚ましたらどうなる。どうしたって言い逃れのできる状況じゃあない。このまま抱きしめ朝まで放さず寝ていただけなら、すまない酔っていて覚えがない、と笑って済ませられる話かもしれないが、腰を振りたてるこのあさましい姿を見られたら、もうどうにも逃げようがない。最悪だ。破滅だ。おそらく女は鼻に皺を寄せ、……気持ちが悪い。言って嫌悪の表情で男を見下すだろう。

 わかっている。

 だのに動きが止められない。捨て鉢な気分でもあった。最悪の状況なんてどうせもう片足突っ込んでいるんだ。今さら泥沼に頭のてっぺんまで浸かったところで、たいした違いはないんじゃあないのか?むしろいま彼女が目を覚まし、この醜態を目にしてくれたら、いっそ自分はきっぱり嫌われて、女から離れてゆけるのじゃあないだろうか。

 そうだ俺はこんなにも汚い。

 張りのある太腿にゆるゆる擦りたてるうちに、下履きが湿りを帯びたのを感じた。腰を引き押し付けるのをやめる。ため息が出るほど気持ちよかったが、女を汚すのは厭だった。

 代わりに下履きから肉茎を取り出し、自身の手をあてがう。

 腰は引いたが、依然鼻づらは赤毛に埋まったままだったし、女は男の胸板へくっついて、穏やかな寝息をたてている。

 こんなにも無防備におのれに身を寄せる女に、俺は……、……。

罪悪感に苛まれながら欲望はまるで萎える様子を見せず、むしろますますいきり立つ。みじめだった。

がちがちに勃起したそれを上下にしごきながら、息の乱れを押し殺した。一度体を重ねたときの、押し入った女の肉の熱さ、包み込んでくるうねりを思い出す。快感にとまどい泳ぐ視線、回された腕、こぼれる吐息で何度も呼ばわるおのれの名前。

「……ィ、」

 声を出したら気づかれてしまう。だから音は出さず口の動きだけで、男は女の名を呼んだ。ロワジィ。ロワジィ。ロワジィ。ロワジィ……、……。

男の上着を羽織っただけなので、のぞき込むと素肌が見える。見えるうなじあたりにむしゃぶりつきたい。舌を這わせ生え際をたしかめ、そのあとで噛み跡をまんべんなく膚に散らしたくてしようがない。

代わりに髪の房を食んだ。女のにおいが口中に広がり、一気に高まって、

「……ふ、ッ」

 思わず息が漏れた。押し出すように腰が前後し、当てた手ぬぐいの中に白濁したぬめりが吐き出される。このところ溜め込んでいた分、それは長く出続けて、ようやく終わるころには、手ぬぐいはぐっしょりと重くなっていた。

 苦い思いが胸に広がる。

 だがまだ治まらない。一度達したのに、下半身はそそり立ったままだ。汚れた手ぬぐいを遠くへ抛り、ぬめりを吐き出した分、滑りがよくなった自身の肉茎を男は再びしごきだす。

 頭を占めるのは犯したい、めちゃくちゃに犯しつくしたい、それだけだった。

 さわりたい。しゃぶりたい。吸い上げたい。抓って摩って撫でて、いつまでも放したくない。男だろうが女だろうが、楽しそうに語らっているのを見ると、その間に割り込んで有無を言わさず女をさらっていきたい。どこか誰も知らない場所に閉じ込め、手足の自由を奪いおのれを見るだけの存在にしてしまいたい。

 ロワジィ。

 勿論男はそんな非人道的なものが許されるとは思っていないし、行動にうつすつもりもない。万一うつしたところで、激怒した女にうっかり鉞で脳天を割られそうだ。

 女が怒ったり、悲しんだりすることは絶対に厭だった。だがこのどろどろとした執念は、いつもおのれの心にあって、

――今ならだれも見ていないそらやってしまえ。

唆すのだ。

 これは、いつくしみいたわりあうものとはまるで真逆のもの。

 やめろ。

 赤毛に口づけを散らす。散らしているおのれが、あまりにあさましく情けない生き物で、男は泣いた。

 俺は醜い。山にいる間、おのれがこんなにも醜い性根の人間だということにまったく気がつかなかった。俺は育ててくれた老人以外のほかの誰とも会わず、だから運よく気づかないでいられたのだ。

山を下りてはいけなかった。

あの斡旋所の店先に放り出されたまま、あんたに拾われてはいけなかった。

あのまま、老人が死んでも小屋に留まるべきだった。そうしてそこでひとりただ一日一日を同じように暮らし、年老い、朽ち果てるべきだった。

ひとを愛したい、だとかそんなだいそれた望みを、俺は抱いてはならなかった。

俺のこの感情は、綺麗なあんたに手前勝手な欲望を塗りこめていくだけのものだ。俺はきっとあんたから離れた方がよいのだろう。

ロワジィ。

……でもそばにいたかった。

二度目の射精もすぐだった。ふ、ふ、と食いしばった歯の隙間から息を漏らしながら、小さく腰が跳ね、先と同じほどのぬめりを吐き出す。すべて吐き出したあとで、男は垂れてきた鼻をすすった。

「ん、……、」

 その音に反応して腕の中で寝ていたロワジィが、身動きうっすらと目を開ける。

思わず男は跳ね起きた。真っ青になる。今度こそ終わった。絶望した。

ああだからやめておけと言ったのに。

完全に固まる男の前で、彼女もつられて起き上がり、目を擦る。眠いようでほとんど開いていない。そうしておもむろに手を伸ばし、男の裸の肩をぺたぺたとさわって、こら、とまるで覚醒していない嗄れ声で呟いた。

蒼白になっている男とおのれに上掛けを広げてかぶせて、

「冷たくなってる」

 寝ぼけた声でそう言う。

「……布団かけなさいよ。風邪ひいたら、置いて行くからね」

「――、」

「置いて行くからね」

 二度くり返し、また目を閉じかけて、それから男の返事がないのを不審に思ったのか、薄目を開けて女は男の顔を見た。男の顔は隠しようもなくぐしゃぐしゃだ。

「……なによ」

「――」

「あんた、泣いてるの」

「――」

「怖い夢でも見たの……、男でしょう。泣かないの」

「――」

 言いながら服の袖を伸ばし、男の垂れた涙だの鼻水だのをぬぐう。

「――ロワジィ」

「なぁに」

 そのまま今度は、男のこわい髪をがしがしと掻きもみくちゃにした。なぐさめてくれているらしい。

だが女の頭はゆっくりと布団に落ちていく。深酔いし、眠りに落ちた合間の短い覚醒で、きっと夢に片足を突っ込んだままなのだ。

「寝なさいよ。明日は早いわよ……、」

 言いながら猫のようなあくびをひとつ、上掛けを顎下まで引き上げ、また夢に戻ろうとするところへ、

「ロワジィ」

 思わず男が呼ぶ。

「……なぁに」

 相当眠いのか、目を開けずに応えだけ返す彼女へ、

「ロワジィ」

「うん、」

「ロワジィ……、」

 女の名を呼んでいるだけで、また涙が出た。すまない。俺にはあんたを呼ぶ資格がないのだと思う。資格がないのに、あんたの声を聞きたくてしようがない。

ず、ず、とすすった鼻の音で、男が泣いていることに気づいたのだろう。女は眠りに落ちかけたまま腕を伸ばし、男の手を掴もうとした。とっさに汚れた側を隠したので、自然彼女は男の右手を探し当てる。

……あんたって手まで大きいのよねぇ、感心半ば呆れ半ばで呟き、そのまま女は男の指に指をからめた。女はおのれの容姿に無頓着なくせに、素面でこんなことを絶対しない。だからこれは寝ぼけているのだと思う。

右手は汚れていなくてよかったと思った。

「もう泣いては駄目」

男の手へ唇を寄せて女はささやいた。

「置いてかないわ。莫迦ねぇ」

 夢の中から女は語りかける。

 酔っているから本意ではないのと同じくらい、酔っているから本当のことを言えるのもきっとあるのだ。酒が抜けたら、朝になったら、はい、ご破算。白々とした朝日の中でお互い顔を突き合わせて、何もなかったようにふるまえる。なにも覚えていない。なにも知らない。

 だからこれも、わすれてくれ。

 そのまま穏やかな寝息に代わる彼女の額に身をかがませ、触れるか触れないかの口づけを落としながら、男は愛している、と一度だけ呟いた。

 

 

(20180417)

最終更新:2018年04月17日 19:43