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「これは、どうする」

「あ、それはあたしの荷物の方にまとめるから、こっち頂戴」

 言ってロワジィは男が指し示した毛皮を受け取り、くるくると丸めて油紙で包む。かなりきつく巻いてかたく縛ったはずなのに、それでもそれはだいぶん幅をとり、ずっしり重く大きかった。

 彼女たちが退治した猪のものだ。

 ここに置いておいても黴させるだけだから持って行けと言われて、とりあえず持っていくことにした。

成獣になった猪の毛はひどくこわくて、敷物や羽織り物には向かない。毛を始末してなめし皮にし、靴に使う用途もあったが、その皮以外原料がない地域ならともかく、農場の周りの森には熊や鹿や兎がおり、皮には事欠かない。

仕留めたと聞いた猪があまりに大きいので、とりあえず話のタネに剥いでみた、というのが正しいところで、その後の使い道は考えてなかったのだろう。

貰えるものなら貰っておこうと思った。町へ行き、万事屋にでも持っていけば、もしかするとその大きさを珍しがって買ってくれるかもしれない。

その他着替えの衣類やら、防寒もの、上掛け毛布、手巾だのの衛生用品、

「えーと……、あと移動中は小麦と干し肉あるし、水は明日朝入れるでしょ……、あとなにかあったかな」

指さし点検しながら、ぶつぶつとロワジィは呟く。

季節は春だった。

朝晩の冷え込みはまだかなり厳しいもので、北風が吹けば雪がちらついたりするときもあったが、寒さの底は抜けたように思う。まず骨に凍み入るような寒さがなくなった。

庇の下に長く太く鍾乳石のように垂れ下がっていたつららは、ぽたぽたと雫を垂らして溶けはじめると一気に姿が見えなくなり、ぶどう棚の雪囲いも外された。来週頭には、冬のあいだ暇を出していた小作人どもが戻ってくるというし、農場の人間は彼らの寝泊まりする離れの掃除だとか、寝具の用意、仕事の下準備にと忙しい。

春の訪れとともに浮き立つ農場を見ながら、そろそろ出立の頃合いだと思った。

もともとは数日の契約だったのだ。それがロワジィが猪退治で傷を負い、そうして癒えるまでになり、それから雪が解けるまでひと冬の話になり、厚意に甘えてずいぶん長い間厄介になってしまった。

おいとましないと。

言ってからがまたひと騒動だった。

彼女たちの仕事ぶりを、やたら気に入ってくれたらしい農場主に引き留められ、いっそあんたらここで働かないかと言われたり、近隣一帯の専属の猟師としてどうだと条件を提示されたりで、断るのに苦労した。

善意で勧めてくれるのだから、余計断りづらい。

けれどロワジィは、町へ戻るつもりだったし、そもそも主はおのれの娘が、流れものの男のほうに好意を抱いていることを知らない。知ればまた態度は変わっただろう。

いくら主が男のむつむつ働くさまを褒めていたとしても、娘が関わってくるとなれば、話は別だと思われた。余所ものからおかしなちょっかいを出されることを、人の親ならば警戒する。

だから取りざたされる前に出発してしまおうと思っている。ややこしいのは勘弁だった。

明日発つ。

「ずいぶん長居しちゃったわねぇ」

 荷物の点検をしながらなんだかしみじみした声が漏れた。

 本当に、こんな風にひとつ所に居続けるのは久しぶりだったのだ。

 ロワジィが流しの護衛を請け負う生活をはじめてから、もう十年近くなる。依頼されて仕事を終えるまで、長くてもせいぜい十日というところで、その上仕事を探して町から町へ流れていたから同業の顔ぶれも毎回違うし、泊まる宿も変わる。

定住とは無縁の十年だった。

疑似とはいえ、帰る住処があり、そこで寝食を共にする相手がいる。なんだかこの生活がずっと続く錯覚すら覚えてしまう。

彼女には得られなかった、別の未来。

選ぼうとすれば、選べるはずだった。生まれた村の人間は、ロワジィが山を下りると聞いて、思い直せとみな止めたのだ。……俺たちだって女房子供を失った。あんたの気持ちは痛いほど判るが、生き残ったものがそんなことをして何になる。村を出て、あんたの言う悪者退治とやらをしたとして、死んだものが浮かばれるか。それをすることで、死んだものは生き返るか。あんたの娘は、あんたにそんなことをしてほしいと望むか。

――言われなくたって判ってる。

むきになってロワジィは言い返す。

――自分勝手だってことも百も承知だよ。でもあたしは、ここで、やられっぱなしのままじゃあ、腹の虫がどうしたって収まらない。自分の大事なものを根こそぎ奪われて、仕方ない、運が悪かったで、なかったことにして生きてはいけないんだ。

顔すら知らない野盗どもに、この無念がわかるものか、そう思う。

行商人さえ訪れないような山奥の貧しい村を、ただ踏みにじるためだけに狂飆、力任せになだれて行ったくそ野郎どもには。

どうしたって止めようがなかった。

冷たくなった体を、胎児のように膝を抱えさせ、掘った穴へ納めた。目分量で掘ったふたつの墓穴は、絵描きの夫はともかく、娘が一度では入らなくて、土を削って穴を広げた。

いつのまにか、思っていたよりずっと大きくなっていた。

土を盛り、目印にひとつずつこぶし大の石を置いた。季節は冬で、野山のどこにも花はなかった。だから彼女は土饅頭に紙で折った花を挿した。赤い紙の花だった。

新しく掘り返された土が、雪の白と相まってえらく生々しくて、そうしてこんなにもしばれる土の下に埋まっているひとつとひとつの体が、どうしようもなく悲しくて、莫迦みたいに彼女は泣いた。

もみじのような手を広げて駆け寄ってくることも、舌足らずな発音で彼女を母と呼ぶことも、彼女の髪をくるくる指にからめながら寝入ることも、二度とない。

ひとりが当たり前だったロワジィに、家族のあたたかさを教え、時に大仰におかしな身振りで妻を誉め倒した風変わりな相手も、もういない。

泣いて、泣いて、体中の水をすべて出しつくすまで泣いて、

――もう泣かない。

そう決めたのだ。

 そこまで考え、それからとん、と控えめに叩かれたノックの音で、ロワジィは沈んでいた思考から浮上する。

 こちらを見ていたらしい男と、ちらと視線を交わし、心当たりはあるかと確かめ合ったのち、どうぞと彼女は声をかけた。

 ばあん。

すると、あまり厚くない扉が勢いよく内側に開いて、

「うわあん行かないでロワジィィィ」

「……こんばんは」

 鼻を赤くして目を潤ませる農場主のところの末の娘と、中と上の併せて三人、それからひと冬で顔見知りになった農場の下働きのものどもが、どどどとなだれをうって小屋の中に入ってきた。

 総勢十名。それにロワジィと男を足して十二。狭い小屋は一瞬にして息苦しいほど一杯になる。

「明日、行っちゃうのでしょう。だから、すこしお話ししないかって」

 言って娘たちが差し出したのは手作りの菓子、後ろに控えた下働きのものは酒と肴を手にしている。

あんたらには世話になった、あんたらのおかげで、獣害の心配がだいぶん減った、あんたらが行ってしまうのが惜しい、言いながら思い思いに腰を下ろす。迎えたロワジィたちも吝かではなかったので、円に加わり、そのまま酒盛りという流れになった。

これをやってみてくれ。まだ若いが、あんたらが来たときに仕込んでいた晩生のやつだ。今ちょうど樽の中でいい感じに発酵していてな、なに大丈夫、味見ついでにあんたらに飲ませるっていうのは、雇い主からは了承を得ているから……、……。

注がれたのは火酒だ。ぶどう酒を仕込んだ際に出る搾りかすで作る、蒸留酒である。浅口の器になみなみと注がれ、勢いこぼれそうになり、おっとっと。ロワジィは急いで口をつけた。色は無色だが、香りはぶどうのそれがする。

「おいしい」

 度数が高いそれはかっと喉を焼き、腹まで熱くなる。にんまりとなった。

 もともと、酒は好きだ。味だとかコクだとか深みだとか、小難しい品評はさっぱりわからないが、たとえばじゅうじゅう肉汁をしたたらせる串焼きをアテに、ぐいと喉に流し込む、仕事上がりの一杯は何にも代えがたいと思うし、くつろいだ深夜に、のんびり傾ける度の高いものも何とも言えない味わいがある。

 ひとりで飲むのも嫌いではないけれど、多人数でわいわいやるのが、いっとうおいしいと彼女は思っている。

たぶん、酒が好きというよりは、酒を飲む雰囲気が好きなのだ。

ロワジィがいける口とみて、相手は俄然張り切り、こっちもやってくれ、これは四年寝かせたやつだよと次を注がれる。

娘はともかく、ほかは年を食った大人たちで、始まりのあたりは、それでもたがいに遠慮しいしい様子をうかがっていたが、杯を重ね、それが五つも越えて、おまけに誰かが賭け札まで持ち込んでいる。

蒸留酒のまわりは早い。

あんたらもどうだね。そう言われて、金がからむならともかく、内輪での罰ゲーム付きの遊びに、ロワジィは乗り気で参加した。

負けた人間は、一杯飲むこと。

俺はよしておくと最初遠巻きに眺めていたギィも、ロワジィが強引に引きずり込んだ。賭博にいい思い出がなくて厭だというのも承知だったが、そこはノリだ。

「あたしの酒が飲めないって言うの」

完全にからみ酒である。

そういえば、ひどい目に遭った猪退治のときの下男も、たしか賭けに負けての罰ゲームだったかなと、ちらと思ったりもした。

あのときは、肝試しだなんて莫迦なことをと思ったりもしたが、結局やっていることは似たり寄ったりだ。

ロワジィと男が参戦したので、勝負が妙な盛り上がりを見せた。

そもそも、勝ち負けで競うというよりは、誰かをしこたま酔わせて、醜態をさらしてやろうという魂胆だ。男は体も大きく、それなりに飲める様子で、祭りの時分もだいぶ飲み食いしていたのをみな知っていたので、どこまで飲めるか興味があるというのがあったし、ロワジィに関しては、

「姐さんとことん酔わせたら、なんか脱いでくれそうだし」

 の理由で標的にされた。

「脱がせられるもんならやってみな」

 売られた喧嘩も勝負も、総まとめに受けるきらいがあるロワジィは、このときも受けて立つ。

 そうして、酔っぱらいどもの悪ノリは、

「負けたら一杯煽る」

から、

「負けたら一杯煽って一枚脱ぐ」

 に、いつの間にか変更されていた。

「マッパになったら負けな」

酔いつぶす当初の目的は途中からどこかへ行った。

そうして、酔いつぶす目的のときよりも、みな手札に落とす目の色が真剣である。

自分は脱ぎたくない。しかし誰かが脱いでいる姿は見たい。

ロワジィは勝負事は好きだが、強いかどうかは疑わしい。いちいち場には出さずぐっと溜めこんで、一気に畳みかけるのが好きだからだ。

勝つときは大いにひとり勝ちするが、手札を読まれて負けるときはあっさり負ける。負けはわりとこむが、ひっくり返すと一躍首位に踊る。

彼女とまるで真逆がギィだ。手堅くこまめに点数を稼ぐ。一発逆転はないものの、大きく負けることもないので、罰ゲームにはなかなか至らない。

それでもあちらが勝てばこちらが負ける、ツキは行ったり来たりし、飲んだり飲まれたり、大いに騒いだ。

「ねぇ、ロワジィ」

「うん、」

 勝負の合間、横に座っていた末の娘が、彼女の袖を引き、約束する、と言った。ちなみに二人が農場を離れると告げた際、一番しぶったのがこの娘だった。どうして。ここにいたらいいじゃない。泣いて縋られた。よほど懐かれたらしい。

 かなり酒が回っているとはいえ、相手の話が聞けないほどではなかったので、ロワジィは脇へ目をやった。

「あの仔、大事にする」

 約束、もう一度言って、小指を立てるところへ、

「ありがとう。お願いね」

 ロワジィも小指を絡ませた。

 山犬退治の際に拾った、仔犬の話だ。

 小さく頼りなかった生き物も、ひと冬の間にかなりしっかりとなった。もともと獣の成長は早い。

おのれで餌を食えるようになり、走りころげて回り、呼べば来る。毛の生えた毬のようだ。

はじめ、ロワジィはおのれの道行きに連れて行くつもりだった。一度引き受けたものを放りだす頭は彼女にない。けれど、世話を頼んだ際に情が移ったらしい娘たちに乞われ、一日迷った末に、置いて行くことにした。

連れて行けば野外はともかく、町中では紐につながれ、不自由を強いることになる。町へ入り宿をとるときも外で待つことになるだろうし、護衛の仕事の際に連れていけない場所ならば、数日誰かに預かってもらうことになる。

だったら、農場の方がたぶんずっといい。

ここにいれば、どこへも自由に行き来でき、主一家も可愛がってくれる。野犬に戻る心配もなさそうだ。もう少し大きくなれば、牧羊としての仕込みもするのだと言っていた。

置いて行くのはさびしいが、犬の仕合せを思えば、その方がずっといい。

「名前、がんばって決めるね」

 こぶしを握って誓われてしまった。農場内ではそれぞれがそれぞれに、好き勝手に仔犬を呼ぶ。おい、だの、こら、だの、ちび助、だの。

人懐こい仔犬はどの名前を呼ばれても喜んでかけてゆくが、おかげで張り切って名付けた娘の名前は定着しないらしい。

 末娘と話しながら、何気なく中の娘と上の娘に目がいった。ふたりは男の傍で、勝った負けたのたびに、はしゃいで手を叩いている。とくに表に出す様子もないが、上娘の髪にはガラス細工が挿してあった。着ている服も一張羅だ。

 ――そうだよねぇ。

 女としては判る気がする。好きな男に会える最後の夜だ。精いっぱいめかし込んで会いたい気持ちは、痛いほど共感できた。わかる。ただそこに、自分の胸中を混ぜ込むと、ややこしくなるのだ。

 おのれの右腕に揺れている飾り紐が急に気になった。橙が基調のそれは、そろいのもので、くれた男もいま腕に結んである。

 これを見る娘の気持ちはどんなものなのだろうと思った。ロワジィは、男が娘にどう返事をしたのか知らない。差し障りのない態度をとっているから、好意を受けたようにも見えなかったが、断ったのかどうかも知らない。

 たずねるのもなんだかおかしな気がしたので、どうなったの、と聞いてすらない。

 ――でもこれが目に入ったら、やっぱり厭だよね。

 ことさら男とそろいのものだと主張したこともなかったけれど、見るものが見ればすぐにわかるだろうし、ロワジィが結ばれて外していないということは、「そう」いうことになる。

 ――でもねぇ。

 なんとなく袖を伸ばして手首を隠した。恋する娘のけなげな心を踏みにじりたくないと思ったからだ。思い上がりなのかもしれない。おかしな気の回し方。でも泣かせるのはやはり厭だった。

 娘は可愛い。笑っているとなお可愛い。ずっと笑っているといいのにと思う。

「ほら、姐さんの負けだ」

 ぼうとしているうちにひとつ負け、複雑な思いと共に酒を煽る。飲み干す際に、男が心配そうな目を一瞬ちらと向けた気もしたが、……なによ。癇にさわった。

あんたのせいで悩んでいるんだからね。

 八つ当たりであることは承知している。

 そうして勢いよく上着を脱いだ。

 

 

 「あー……飲んだ」

 母屋へ帰ってゆく各々へ夜のあいさつを交わし、ロワジィは戸口に立って見送る。

 胸元をあおいで空気を入れた。人いきれと酒のおかげで、汗ばむほど熱い。

 罰ゲームのほかに、景気づけに飲みながら掛札をしていたし、途中からいったいどれほど飲んだのか判らない。視界がぐらぐら回るのでかなり飲んだ部類だとは思う。

 勝負は結局下男の一人が連続で大負けし、裸になって幕となった。若い娘たちもいたので、さすがに下帯は残してよいとなったが、それでもきゃあきゃあ嫌がられた。ロワジィを脱がせると息巻いていたひとりだ。

「俺は悔しい」

 ひとりで立てないほどふらふらになり、両脇から仲間に支えられて、帰り際にその男は彼女の手を握り、涙ながらに訴えた。

「姐さんの裸が見たかった」

「夢で見な」

 肌着でなんとか踏みとどまったロワジィは、不敵に笑ってこたえる。こたえる後ろから、男が脱いだおのれの上着を着せかけてくれた。ちなみに男も上半身は裸だ。

 しばらく遠目から酔っ払い特有の調子はずれの歌が聞こえたりもしていたが、やがて屋内へ入ったのか静かになる。

 戸口に立ったまま夜気で体を冷やしていたロワジィは、立ちのぼる呼気を追うついでに星を見た。今夜は晴れてよく見える。ちかちか瞬くそれは、どうして暑い季節よりも寒い頃合いの方が澄んで見えるのか、不思議だと思った。

 それからもうひとつ深く息を吸い、中へと戻る。

戻ると、こちらもさんざん飲まされたギィが、珍しく寝床へ寄りかかり、半ばうつらうつらと舟を漕いでいた。

男の具合のよくないときに、上の娘が調達してくれた藁で、寝床はだいぶ嵩増しされており、この寝心地になれてしまうと野宿はつらいな、と思ったりもする。

小屋は広くない。大柄なふたりが楽に寝返りをうてる幅まで広げると、ほとんどを寝床で占領される。

風邪が治るまではさすがに黙っておとなしく寝ていた男も、調子が戻ると、また夜遅くまで仕事に打ち込んで、明かりを消すまで帰らなくなった。

それでも一応は懲りたようで、ロワジィがきつくとがめなくても、寝床に横になるようになったのは進歩だとは思う。

布団の端ぎりぎり、今にも落ちそうなほどの隅に、身を固くして背を向けて寝るのはいただけないと思うものの。

だからこうして自分から寝床に近づくのは、本当に珍しいのだ。

「風邪ひくわよ」

 声をかけると、ゆっくり顔をあげ、とろんとした視線で彼女を見上げる。よほど眠いらしい。

「うん、……?」

「寝るなら、ちゃんと上で寝なさいよ」

「ああ……、そうか」

 言って勧めたままに藁床へ上がってくる。いつもこんな調子ならいいのにねぇ、思いながらロワジィもその横へ腰を下ろした。

「ねぇ、」

 戸口で星を見上げながら考えたものの、いい考えは浮かばず、結局なんといっていいのか判らなかったので、単刀直入に彼女は言った。

「行かないの」

 言われて男はしまりない顔で彼女を見る。

「なに、……が」

 相当眠いようで、口調は重くゆるゆるとしている。

「あの子。待ってるって、言われたんでしょう」

「ああ……、」

 おのれの腕に頭を乗せ、男は目を閉じる。ちょっと。聞いてるの。ロワジィがやや強い口調で尋ねると、面倒くさそうに片目を開けた。

「聞いている」

「聞いているなら返事しなさいよ」

「行かない」

 ……母屋の、一番端の部屋がわたしの部屋です。

 ……燭台を窓際へ置いておきます。窓の鍵は開いています。

 帰り際、上の娘がおずおずとけれど悲壮な決意をもって男へ近づき、そっと手を取り言ったのだ。聞くつもりもなかったのに、ほかのものの見送りついでにうっかり耳に入ってしまい、ロワジィは内心舌打ちした。

 しまったな、が正直なところだ。

 それ以上娘は言わずに戻っていったけれど、意味することは誰でも判る。

 ――せめて一夜だけ。

 明日男は発つ。二度と戻らない。

 都市部ではともかく、部落集落の辺境において、夜這いは何もおかしなことではなく受け入れられてきたし、彼女の村にも若衆が夜這うならいがあった。

 夜這い、と一言で言っても、戯作本によくある男が女の寝込みを襲って無理矢理うんぬん、のそれでは無論ない。必ず夜這う側と、夜這われる側の同意があることが前提だった。

 そもそも、共同浴場に男女隔てなく入るのだ。恥じらいはなかった。恥ずかしいと隠すから恥ずかしいのである。おっぴろげて見せつけるのはさすがにどうかと思うが、見られて減るもんじゃなし、とも思う。そうした地域で育ったので、ロワジィは自分のことを、性にかなり開放的な部類だとは理解している。

 それでも聞きたくなかった。

聞かずに知らないままだったら、男がそっと明け方に小屋を留守にしていても、寝ていられたと思う。

 知ってしまうと気になってしようがない。

 それなりに生きてきている。今さら男という生き物に対して、清らかさや貞淑さを求める気持ちはそこにはない。上記のような環境で育っているので、純潔が大事だとか言う考えもない。

牡が、胤を広げる種である以上、ほかの牝の誘いにブレるのは仕方がないことともいえるし、生理上そうであるならそれはある程度受け入れるべきだ。

 思い、だが、ひと晩男が小屋を留守にしたら、自分はものすごくわびしくなるだろうなというのも本心だった。

 その一方で、健気に想う娘の気持ちも痛いほどわかる。

二度と会わない、忘れられてもかまわない、だがせめて一度だけでも思いを遂げて、自分の中の思いにけりを付けたい、そうしたら自分は明日から今までと同じようにふるまえるから、

「行きなさいよ」

 だから聞きたくなかった。

「何故」

「何故って……、」

「行かない」

 言って男は背を向ける。そうして寝たのかと思うほどしばらく黙ったあと、

「頼まれたら、俺は、誰とでも寝る人間、思うか」

 いつもよりずっと低い声でたずねた。

「……そうじゃないけど、……でも、」

 でもあたしのときは、……。うつむいてロワジィは口ごもった。

「俺が、頼まれたから、あんたと寝た、思うか」

 男の声がさらに低くなる。怒っているのかもしれない。思わず視線をあちこちにさまよわせながら、

「……そう思う」

 うなだれ、小さな声でロワジィは応えた。

「……だって。だって、あんた優しいもの。ぐちゃぐちゃの思考になった女が、頼むからなんとかしてくれって懇願したから、断り切れなくて、……って、ちょ、ちょっと」

 ぐいと腰に手を回され、そのまま力任せに男に押し倒された。起き上がるのも億劫なようで、肩越しに伸ばしてその片腕の力だけだ。

 ……どんだけバカ力なのよ。

 心の中で悪態をつく。

 倒した勢いでこちらを向いた男の顔が目の前にある。近さになんだか眩暈がした。

男はやはりとろんとして、半分眠っているような目をしている。怒っているのかどうかは判らない。

真っ黒な目に、あわあわしているおのれの間抜けな姿が映っているのが見えて、なんだそんなとこが見えるなんて、慌てているようで意外と冷静じゃあないの、そんなようにも思う。

「な、なに、……なに、」

「俺はあんたがいい」

「え、え、な、な」

「いいにおいがする」

 押し倒された体勢のまま、横抱きにされて本格的に固まる。一度体を重ねておいて今さらな感もあるが、焦るものは焦るのだ。

 え、どういうこと?あんたがいい、と、いいにおい、は、別?つながってるの?やっぱり別?俺はあんたがいいにおいって、普通言わないわよね?文脈おかしいよね?

でもこのひとなら言っちゃう?むしろその前に、いいにおいってなに?あたし酒くさいよね?お風呂は入ったけど、部屋熱くて汗もかいたし、汗くさくない?酒くさくて汗くさいとか最悪じゃない?大丈夫?お酒飲みすぎて鼻バカになってない?

っていうか上半身裸で抱きつくとかどういう、

「ちょっと、……ちょっと!」

 肩口に顎を乗せられ、引きはがそうとすると余計にふざけて頭ごと抱きしめられる。くすくすと耳のあたりで忍び笑う声がした。……酔ってる。これ、絶対酔ってる。

「あんたがいい――、」

 言ってそのままごにゃごにゃと不明瞭なつぶやきをひとつふたつ口にして、そうしてすぐに酒気混じりの寝息が耳元で聞こえてきた。

 寝たらしい。

「……、……えぇ……、」

 心底弱り果ててロワジィは声を漏らした。

普通に抱きしめられるだけでもどうかと思うのに、掛札の罰ゲームで脱いだまま、男は半身に何も着ていない。頭ごと抱きしめられた目の前には熱い素肌の胸板があって、それに押し付けられている体勢だ。

上着を着せかけられていたので、彼女自身はあらわな格好はしていないが、着せ掛けられたそれは男のものであったので、前からも後ろからも男に包まれているようなもので、精神的にいろいろ削られていく気がする。

――なんか、このままだと、どきどきしすぎて死ぬかもしれない、あたし。

心拍数というものがいったいどこまで上がるのか判らないが、動悸と息切れでどうにかなりそうだ。

おまけにひどい罪悪感だった。

――あの娘が泣く。

 上の娘は、男が半ば訪れることのないことを知りながら、それでも一縷の望みをもって朝まで蝋燭の炎を見つめて、じっと待っている。自分だったらきっとそうする。

 ――もし叶えば、どんなに。

それを知っていて、だのにこの体たらくだ。

行きなさいよとロワジィはたしかに発破をかけ、仮に承知されたら娘のもとへ男が向かうのも、おのれの気持ちはさておき仕方なしと思っていたはずなのに、現実は娘の部屋に男は向かわず、彼女を抱きかかえて眠っている。

自分は男が好きなのだと思う。だからあんたがいいと言われて嬉しくないはずがない。

けれどこうして抱きすくめられる別の場所で、泣いている誰かがいることを思うとやはり胸が痛んだ。

とは言え振りほどこうにも、男の腕は万力のようにがっちりと彼女の体に回されていて、離れようがない。

勿論死に物狂いで暴れてみれば、きっとその手から離れることはできるのだろうけれど、それはそれで、たかだか酔っ払いに抱きすくめられただけで何をそこまで必死に、と白白した気がしないでもない。

悩む。

悩む上に、このままロワジィまで寝入ってしまっては、男は半分裸のようなものだし、彼女は包まれているからまだましとはいえ、ふたりで風邪を引きそうだ。

出立の日にそろって風邪を引くだとか洒落にならない。

けれど上掛けをとろうにも、男の腕は緩みそうになかった。

――ああもう、どうしよう。

押し付けられた男の肌から、相手の鼓動がする。絵描きの夫とも肌を合わせはしたけれど、夫婦の交わりとしてごくごく淡白なものだったので、こんな風に密着し、相手の心臓の音を聞くだとかしたこともない。それ以前の記憶はきっと、胎児のころの母親のものだろうと思う。

つまりほとんど初めてだ。

男はどうだろうか。ふと思った。

男も同じように、記憶にある限りほかの人間の鼓動を感じる機会はなかったのではないか。

それを聞いたとして、いったいこのひとは何を考えるんだろう。

ゆっくりと力強く打つそれを聞いているうち、この状況だというのに、彼女のまぶたも次第に重くなる。動悸よりも眠気をとるあたり、自分の体もたいがいだと思うが、眠いのだから仕方がないし、そういえばずいぶん酒も飲んだのだ。

寝た方がましかもしれない。

――ごめんね。

心の中で娘に謝る。

自分はこの檻から逃れたくないのだ。

息を吐き、男の胸に頬を押し付けられながら、彼女は胎児の夢を見る。

 

 

20180411

 

最終更新:2018年04月17日 19:47